2017年06月30日

障害者、あるいは、リベラリズムをめぐるオリエンタリズムとモラハラ帝国主義あたりの話


前回に引き続きバニラエア這いずり搭乗事件について。てか、自分的にはこの事案、および、これを出汁に行われてる左/右?のアレゲ点にいるひとたち同士のモラハラ合戦みたいなのは興味もなく、この件についてももともと一般的なニュース程度にしか興味ないので該当ケースの事実関係だけインストールしたら撤退したい感じ。いちお言及してコミットしたのでそのぶんおべんきょーはするけど、ぐらい。今回日記的に思考/試行をとどめたいのはその件を受けた喧々諤々合戦というのがなぜああもつづいてるのか?ということについて。彼らは「障害者のため」みたいなことをいいつつ自分たちの正義を通すために障害者を出汁にしてる印象がある。実際の障害者の便益、ぢみな迷惑は度外視して。そういうのは好かないのだけど自分もこの件を端緒に「なぜ喧々諤々が生じるのか?(もうちょっと冷静に、事実ベースのみの情報交換と対話で終わらんのか?事実ベースだけじゃなくてももうちょっと冷静に。。」について思考を進めようとしてて、まあそれもこの件を出汁にして語ってると言えばそうなのだけど。


いちお今回のメインは当事者の出演したsession22のインタビューだったのでそれを中心に。あとは倉橋弘さんという専門家のかたによるCiiNii論文とか。

前回の日記での疑問として残っていた「(車椅子仕様などの障害者が公共交通機関を使う場合、職員の介助やスペースの確保が必要なので)事前連絡が必要と会社側から要求されてるけれど、なぜ事前連絡をしなかったのか?」「ゲリラ的に乗り込みが許されたとしても、窓口で職員と半ば約束となっていたはずの『身体を抱きかかえられて搭乗するならおk』を反故にしたのはなぜか?」辺りが自分的な関心のメインで。

前者については「事前連絡すると予約を断られるケースが過去に他の会社であったから」「急な用件で事前連絡もできないような場合もあるし」「そもそも介助を要求するほどのものでもなくひとりで搭乗できるので(会社側にはなにも用意される必要はない)」あたりが回答として上がっていた。このなかでも「介助を要求するほどでもないと思っていたので」あたりが「事前連絡をしない」という行動選択をした一番の理由と思われる。

後者について。「なぜ身体を抱きかかえられる、のではなく、車椅子ごと抱きかかえられようとしたか?」。回答としては「そういうやり方でほかの航空会社ではだいじょうぶだったので」とのこと。そのあと身体を抱きかかえられるのではなく這いずって搭乗したのは当人の意志と選択によるもので、「海外の他の航空会社だとそれがふつーだし、いままでもそうしてきたし、それを屈辱とかと思うこともなくふつーだと思ってたので」との回答だった。それでもダメって止められたらしいのだけど。まあでもそこではそんなに喧嘩になったり、クレーマー的にふるまうこともなく、該当職員の方と手打ち的におわった、みたいな話を木島さんはされていた。

んでも大阪に戻ってから「そもそも最初の段階で搭乗拒否ってどうなの?自分で勝手に搭乗できるのに?」あたりでムカムカして国交省に連絡したらしい。メールやら電話やらで。まあたしかに、「介助とか必要ないなら最初から断るのどうなの?」とはなるだろし。つっても最初から断ってたかどうかはけっきょくはブラックボックスで、航空会社側のタテマエ的回答としても「そういう件で『一律に』乗車拒否はしておりません」ということだったけど。なので乗車拒否のケースも有り、その選択には航空会社側の恣意性があるということだけど。まあそこは営利企業だし、該当の法律的にも「努力義務」規定されてるので法律的には問題ない。いちお。ただやっぱこの件でガーッと言ってこられると嗚呼…ってなって国交省側が対応したらしい。5日後ぐらいに。そうするとしばらくして航空会社側からも連絡あって、謝罪とともに「今後は、簡易な車椅子昇降機付けますから」ということで手打ちになった、と。まあなので当人間では終わった話だったらしい。

いちおここでちょっと止まると、木島さん側もクレーム入れた理由として「(独力で乗り降りできるのに)最初から断るってどうなの?」を上げてたけどこれってあとづけで、本来なら(ゲリラ的にせよ)搭乗は(しぶしぶ)ゆるされていたので復路で問題がなければ木島さんとしても訴えることはなかったのだろう。ならば本当の理由は復路の応対にカチンと来たからということなのだけど、まあテクニカルにはこっちのほうが訴えにしやすいからなあ、というところ。いわゆる「当該交通機関の合理的配慮が必要ないのに乗車拒否されるのってどうなの?」ということ。「合理的配慮」というタームはこの分野を語る上でキータームになってるようで、それを巡ってのやりとりが係争上ではポイントになっていくみたい。合理的、すなわち、「航空会社側にもそれでペイされるか?やらコスパやらいろいろな事情はあるだろうからいちいちめんどくさい客にかまってられないだろうけど営利企業だし、んでも、そういった事情があるにせよ『このぐらいだったらペイできるよ』って教会はあるはずで、その範囲内で配慮すべきでは?」みたいなの。乙武さんも木島さんもそのへんを問題にしてたわけだけど。まあ本来ならバニラエア側も合理的配慮の範囲内で配慮してたのだろうし、復路まではいちお問題なかったのだろうけど復路で該当職員が強行にダメっていったってのが問題化した、のかなあ。。まあその強行にダメって言ったのにも現在のところ語られてないなんらかの理由があったりするのかなとおもうけど。あと、この件に関わった下っ端職員かわいそうだねえこの先も含めて、みたいなの。


まあこの件はここまでとして、これからの連想として。

けっきょくこれって当人間では手打ちで終わってたのにしばらくして朝日新聞の該当記者が掘り起こして記事にしたらしいのだけど、その際のやり方、焦点化の仕方が煽りっぽかったのだろうなあ。。「障害者に階段を這いずってあがらせて!」みたいなの。まあ自分も最初に見たときは(´・ω`・)エッ?逆蒲田行進曲か?とかおもったのだけど。そこでいろいろ切り落とされて、なんかみょーに「障害者にやさしくない社会」「障害者に優しくしろ」みたいなのが規範的にくっつけられて、「(障害者に優しくないのは安倍政権の弱者排除政策がー)」みたいなのが暗に含まれる感じでモラハラ合戦に燃料を注いでる、のではないか?まあとりあえず「障害者にもやさしくしろ」「バリアフリーを目指せ」というのは望ましいことだと思うのだけど現状不況で福祉政策的にもびみょーなかんじになってるわけだし、そのせいで福祉予算削られて補助金でないので営利企業としてもカツカツなのかなと思うのだけど特にこういう格安航空会社は。「そういう大々的な補助金でなくてもストレッチャー程度でよかったんですよ!」っていうのは後付な話で、こんな形で大騒ぎになったらけっきょくはご立派な昇降機を購入しなければならなくなり「それはペイできるのか?」といすみ鉄道の社長がいってたようなことが気にされるのだった。まあお上の査察が入って下手したら潰されることを思えば、ってことではあるのだろうけど。下っ端職員の命運が…(再)


で、

そういった流れがあったと仮定した場合、それが暗黙の下地になってモラハラ合戦続いてるのかな―、と。そんでその際の全体の差別と逆差別の構図、あるいはその構図を元にした権力の流れみたいなのをボケーッと思ったりした。読んでた本に絡めて。「読んでた本にからめて」な話なので以下はぼんやりとした話になるのだろうけどまあそれが思考であり試行であるのでm(_ _)m自分の試行的な思考なのでヒトサマに強いるものではないです。単に「思った」だけ。思うのは自由なので。

朝日新聞とか毎日新聞とかにそういった流れ、安倍政権打倒でー、みたいな流れがあるとした場合、それは菅さんのときに大コケしてマニフェストで勝負できなくなった民主党が「安倍政権はファシズムだ―」一本で戦うことにしたからかなーと思うのだけど、その選挙戦術?みたいな民主党戦術にマスコミも乗っかってステロタイプ的な言説が固定化してしまってるのかなーという印象がある。まあそれはひとつのやり方としてあっても良いのかなと思うのだけど、こういうのにもそういう影響があるとするとちょっとステルス的になっててイデオロギーぽいのでやめてほしい。。気づくまで遅くなってムダにモラハラ喧々諤々するので。逆に最初から「これはPRです」みたいになってれば「ああPRなんだねー」ぐらいで済ませれるし、わかっててそれを選択するのも自由だろうし。

サイード「オリエンタリズム」的にはこういうやり方もオリエンタリズムというか、一種の異化からの言説の膨らましなのだろうなあという印象。すなわち、かつて西洋(オクシデント)列強が東洋(オリエント)にエキゾチズムとともにみょーな偏見と期待をもったように、「リベラル」を聖化←異化するひとたちは最初からそれをみょーに聖化して一切の妥協をゆるさなくなる。そして、その反照としてそういった「リベラル」の規範に従わないものは野蛮で無知な下等民として扱うようになる。いわゆる「反知性主義だー」とか「もっと謙虚になりなさい」とか彼らがいう(わりには漠然としてよくわからん)あのへんの心性というのはそういう背景から出来てるのかなと思われる。で、特に生活的実態や実感とつながらない彼らの言説だけがみょーに暴走していき、それがゆえに内容がなく対話の取っ掛かりがなくなっていく。その流れに無自覚に関わった人たち、知識のない良心の人たちは彼らのモラハラをもって「自分はそういうのにやさしさをもてない『悪い』ひとなんだ…」と己を苛み反省する。彼らが言うように「謙虚に」なろうとする。結果として、四角四面の教条主義だけでは矛盾が生じても、あるいはちょっとした生活的違和感が生じてもそれは捨象されていく。そういった違和感をもつことは「悪い」ことなので。良心の人たちの「界隈」から弾かれたくないので。

なるほど、それが「権力」というものかなーとなんとなく思う。そしてその偏見にもとづいた文化領域への侵略こそ(ハードパワーに対する)ソフトパワー的な寝食なのだ。文化領域、というか、一定の規範とそれに基づいたモラルを人質としたモラル領域への侵食。文化領域へはその派生的な流れとしても侵食するのだろう。いわゆるりべらるな読み物として。そういう(対話不可能な価値)を中心とした文化領域(上部構造でありイデオロギー)を中心とした帝国主義的侵略というのはアメリカがある意味宗教国家といわれるのにも似てる。彼ら「りべらる」を自認するひとたちの規範とは宗教的な典範のようなものなのだろう。まあなので彼らのやってるのは宗教なのだ。岩波-朝日的なサヨク的なりべらる文化帝国主義。

まあもともと文化人類学とかも帝国的な軍による植民地支配のための研究領域のスピンアウトだしな―。予算としても軍のこういう研究が一番付くわけだし現在のアメリカでも。そのアナロジーからだとたとえば「リベラル」な文化帝国主義におけるわれわれ下等平民の位置というのはポストコロニアル的な抵抗ということになるのかなーとブレンジンスキーの古典を読みつつ改めて思ったりしたのだった。いやあ帝国主義帝国主義


































































































オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
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ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -
ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -



「鉄血のオルフェンズ」の終幕とガンダムサーガについて | m_um_u | note
https://note.mu/m_um_u/n/n2cf69d06e9d7




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2017年06月29日

バッド・リベラリスト


TL的にまだバニラエアを巡った話題がちらついててうぜえなと思いつつ、「なんでこの話題こんなに続くのかな?(みんないっちょ噛みしたがる琴線に触れるのかな?)」「それを『うぜえ』と自分が想ってしまうというのはどういうことなのかな?(そして思いつつも言及してしまうというのは?)」、というのをなるべく心根を中立にして問おうとしたときやっぱなんらかの権力がはたらいてるからなのかなーとおもった。まあそれはかなり抽象的に俯瞰したレベルからの話だろうけど、もうちょっと卑近に、最初にいっちょ噛みしたくなるのはそれをもって簡易にマウンティングなりなんなりしてうまいこといえるからだろうし、その「自己表現」をもって注目を集められるからだろう。あるいは、それ以前の先有傾向的にその話題に属することになんらかの文化・社会的アイデンティファイをしていて。その「縄張りを侵食された!」と判断して防衛機制が働く、とか。

そうやって俯瞰すると「強いられてるんだ!」系の話題なので特に言及しない / 言及するにしても事実レベル、あるいは、ニュースのファーストインプレッション程度にとどめ、そこに自身のなんらかの掛け金を乗せない、というのが賢いやり方なのだろうけどネット世界において。


たとえば自分がひとりでニュースを見ていた場合、あるいはネットとかかわらない一般世界でこういったニュースに触れた場合、たぶんそんなに引っ張らずにファーストインプレッション的な話題で済ます / 済まされるのだと思う。「ああ、そんな這いずるなんてことあったんだねぇ」「なんかすげぇな。。航空会社側が要求したものだとしたら」「そういうの起こらない方がいいよねぇ」ぐらいの。終局としても「航空会社がストレッチャー用意したんだね―」「まあそれなりに対応したんだからよかったよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー(中の人(特に下っ端)たいへんだっただろうけど」、ぐらいで終わる話。障害者に冷たいんじゃないの?みたいなこと言ってもそれが世の中のふつーだし、一般的にはニュースで伝えられる話題はそのように消化されてるし、不幸や差別はこういったこと以外にも日常的に転がっている。こういったことでことさらに話題にならない限り、あるいは自らのなんらかの掛け金をかけてプライド争い的な事にならない限りは特に気にすることもないし気にされることもない。自身が属するマイノリティ的な話題も。あるいはなんらかの不幸や実存的な課題が関わる話題も。「そういったもの」として流すし流されている。それがみょーに話題になり、マウンティングの仕合いで掛け金が上がっていくのは「ニュース」や「sns内のニュース」といった世論という権力に動かされているからだろう。まあそれが権力かどうかははっきりせず権力以外のなにかでも良いのだけどとりあえずそういった空間から離れた自分を想定した場合こういった事態はふつーではない。

まあそういった動態(があるとすれば)は別の機会に考えるからいいとして、今回の件で「掛け金が上がっていく」「カチンと来てなんか言及したくなる」ことの要因の一つとしてみょーな皮肉合戦があるように思う。それは一つ前のエントリでも触れたのだけど。本来なら、あるいは、特に関心もなく一般的な関心程度の話題であれば、事実を中心とした情報の交換程度で「へー」で終わる程度で良いはずのものにみょーに倫理と規範を乗せてくる。(一般人のふつーの態度として特に自己の実存をかけていない一般的な話題であっても)事実をベースとした対話によって対象事案についての正確な認識に近づき、ナンダッタラ問題が解決するといい(*´・ω・)(・ω・`*)ネーで済ますぐらいがふつーのはずだけど、最初からミョーに「○○しなければダメだ!」「○○が足りない!」とふっかけてくる。事実ベースではなく倫理ベースで。事実ベースではなく倫理ベースなので問題の構造的解決(の糸口)には繋がらず、いつまでたっても根性論的な精神論で終わる。結果的に玉砕して果てろというがごとくに。まさに一昔前の革命的な思考であり志向!やりがいの搾取というかモラルを搾取し人質にしているのだろう彼らは。そして彼らは下々には「もっと謙虚になれ」「謙虚にオレ(たち)のシソーを敬え」「ただしいシソーのもとに革命を行え」と説くのだ。結果として暴力革命以外のものが見えないような道筋で。対話ではなく暴力。それは今回もそういった傾向のひとたちが説く「正しい行動」のあり方を見てると伺える。「(空港側に対話を求めても最初からキャンセルされるのがわかっていたので)対話をすっ飛ばしてゲリラ的作戦で実効支配したのだ。それは正しい」。けっきょくそんなものなのだろう。


「対話には相手が応じないだろうなのは明らかなのでそれはすっ飛ばした」。そういった事情もあるだろうなあとは思いつつ、結果的に、そういった通常の手続き過程を踏んでいなかったということですよね?という疑問は残る。加えていうと、そういうゲリラ的な戦術でいきなり空港に現れて予約をねじ込んだとき、空港側から妥協策として提案されていた「(身体をお連れの方が)抱きかかえて降りるんですよね?」な約束も反故にされた。現地で降りる際に車椅子神輿でワッショイしたのを警戒したのか、帰路でそれはダメだと禁止したところでなぜ身体を抱きかかえて登らなかったのか?「身体を抱きかかえることも空港職員が禁止し帰りの便に乗ることを拒否されたからだ」ということかもしれないけれど空港職員側からそれを禁止したという話はでていただろうか?よしんば空港職員が身体を抱きかかえて登ることさえも禁止したとして、その禁止の頑なを招いたのは最初の約束を反故にされた警戒心からだったのではないか?まあ結果的に、このようなパフォーマティブなアクションをされ、それを大々的にニュースにされてけっこうなイメージダウンをされたわけだけど。客対応における「クレーマーが騒ぎ出すまえに菓子折りを出したほうがその後のイメージダウン損害を考えると安く済む」的なの。お客様は神様です上等な日本だとこういうのがふつーとされている。ドイツのふつー本とか読んでるとありえないだろうこういうのは。まあそのまえにPC的な配慮で障害者用の設備も整えておくのだろうけど。通常の、格安でない航空会社なら。



まあこの事案自体についてはそんなに詳細に触れるつもりもなくてここから思ったこと程度のことがメインに考えたいことなのだった。前回も少し触れたけど「なんでもうちょっと冷静に対話できないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」というのと「もうちょっと『正しいこと』以外の自分のホンネを出してもいきなりガーっとやり込められることもない空気にならないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」ということ。そういった正しいことの「理想」と自分たちの生活的現実的ホンネとの止揚にこそ生活にもとづいた思想性と民主主義があるように思うのだけど。

「なぜそれができないのか?」ということについては「日本人はそういった冷静なディベートの訓練が積まれてないから」というのはよく言われるのだけどあまりそういった「海外ではー」という出羽守的なことをしたくないなとおもいつつ、まあたしかに、自分の経験的にもらくだオランダ人なんかとそういう話してるときは本格的に対立することもなかった。彼はオランダ人のくせにファシズム好きで、軍国主義時代の日本好きで、首チョンパ的なアレゲがすきでファイナルファンタジーほか日本のヲタ文化好きなアレげであり自分からは違和感をちょこちょこ表出してたのだけど。基本的にオレ、リベラルだし。特に喧嘩にもならず「そうですかー そういう考えもあるですねー」と意見交換しつつ笑いあっていた。まあそれは自分が先輩、彼が後輩的な立ち位置というのもあっただろうけど。あまりそういうの関係ないよな欧米人は。



とりあえずもうちょっとモラハラ的な皮肉合戦以前に事実ベースでの対話であっさり終わらせられないのかな―とか思ったりする。あっさりでなくてもどっぷりでもよいのだけど。そして、事実の交換だけではなく「そのように世間は言っても自分は違和感ある」的なホンネ開陳でもよいのだろうけど。それが誤っているなら対話を通じて修正していけばよいのだろうし。事実ベースで。なぜ最初から喧嘩腰に、あるいは嫌味や皮肉気味に牽制して煽るのか…。まあそんなこといいつつ自分も結構そういう嫌味はしてる(むしろしてる)のだろうから人のこと言えないだろうし反省するのだけど。




そんなことを思っていたらこういうのって少しまえに読んだ「バッドフェミニスト」の紹介記事でいってたことなのかなーとおもった。まあ紹介記事だから同書で書かれてることそのままでもなく紹介者の我田引水的なところもあるのだろうなとは思うのだけど。あの記事やアマゾンレビューから伺える「バッドフェミニスト」のエッセンスなところとしては「『正しい』のはわかるけどホンネで語っちゃダメなの?」ってことだったように思う。ホンネで語るっていってもいきなり過去の『ただしさ』あるいはポリティカル・コレクトネスに形成されていった規範を前面撤回するということではなく、その範に則った上で「でも、実際の生活ではね…」って修正していくこと。「こういうことも思ったりするよね(世間的には『悪い』っていわれるのはわかってるけど」ぐらいの。

そういうことを通じて、過去の世代が築いてきた規範や慣習を現代的に修正していくことが大事なんじゃないかと思うんだけど。そしてそういう形で両極に落ちず?に踏みとどまるほうがけっこう辛いように思う。一方に触れればかなり楽だろうけど。


まあとりあえず同書は読もうと図書館に予約した(明日には用意されてるはず)。「ブリジットジョーンズの日記」の続編も見よう。なんとなく。(鈴木涼美さんは保留)

















































バッド・フェミニスト -
バッド・フェミニスト -












posted by m_um_u at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年06月28日

バニラエアのうんたらでノマノマv( ̄Д ̄)v イエイ


朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。

元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO]
http://www.dokujo.com/entertainment/62444.html

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。



(あまり時間かけてブログするのもなんだからこういうリンクとか引用もなるべくやめようとおもったのだけど日記風にまとめてるだけだとしばらくたって読み直すと当時に当然と思ってた話題の詳細がわからんくなるのでアーカイブ的に)

今井絵理子さんの言ってることは昨今のついったーなどでの「クソリプやめろ」とか「年上男性による説教はマンスプレイニングにすぎないのでやめろ」みたいなのと同じことだと思うのだけど。単なるマウンティング的なクソリプがうぜえってのはたしかにあるけどFF(ふぉろーふぉろわれ関係)外からのリプのだいたいをクソリプとしてるようなひとたちもいてそれってどうなの?みたいな狭量さを思ったりもする。こういうのが昨今のfbなどでの閉じた世界とフェイクニュース的な「うちら」真実のエコー・チェンバー的な涵養の土壌になってるのだろうしなあ、とか。まあそのへんについてはもそっと現代若者論とか社会学とかからの詳細をもって相対化していく必要があるかと留保を入れるのだけど。それとはべつに「正しい批判と単なるdisの違い」みたいな話がある。

ただしい批判というのは研究界隈ではよくある「テーマそのものに対する疑義をもって対立意見を出し、対立した意見をもったものと一定の論拠を通じてテーマとなる事象自体の真実に近づいていこうとする」もの。「批判的(critical)に検証する」なんていうときの「批判」はそうだし批判理論なんかはまさにそういうのが前提じゃないと成り立たない名称だったんじゃないかと思うけど詳細忘れた。まあウィキペディア見れば載ってるのだろう(本件でそんなに重要な事ではないのでぐぐらないしりんくはらないけど)。

で、

そういった立ち位置をあらためて反省的に思い出したのでよぉ〜し、オレもff外からのクソリプとか喧嘩腰外交とかでもテーマに沿って対話につとめるぞーとかおもってたのだけど…。まあ下にまとめた該当ついーとのアーカイブをみても分かるように結果的にみょーに喧嘩腰に来られて、テーマ(の修正を通じた理解とか)は深まらず、なんだこのひと?みたいな不毛さと不快さのみをのこしてりぷらいの応酬は終了したのだった。まあついったーらんどではいつもの光景なのだけど。「野間さんにたいして、おれも偏見あったかもだからちゃんと話してみるかー」とか思った結果がこれだよ。。とか思ってアレだ。。まあいいんだけどテーマになった事案である障害者の生活とかバリアフリーの実際、その不利益とかに比べると大した話でもないし。

んでも、こういうご大層な?テーマを扱うときにそのひとがその大層さに酔って、目の前の、自分自身の暴力は看過するというのはどうにかならないものかなあとかおもったりする。まあ暴力というほどでもなくて失礼でありハラスメントなんだけど。じっさいに嫌な思いしたし。この件に関して、対象となった事案や障害者のひとにはとくになにも影響はせずたんにオレの嫌な気持ちが残ったというだけは現実であり事実なんだけど。


それにしてもなんで野間さんいきなりリプしてきたかな―。エゴサーチしてるんか―やっぱ、とかは思うのだけどエゴサーチはまあいいとして(自分はしないけど)、朝に小山エミさん関連の野間さん話をしてたのが一番ポイントだったのかな―とあらためて思った。『野間さんが影響受けたという小山さんによる差別の構造的問題な説明。「付け焼き刃な親切は却って構造的矛盾を助長するとこがある」というのは首肯できる面があるところもあるけどドブ板な現場レベルではマンパワーに期待されているのでまあ理想論だなと』あたり。「障害者排除などの構造(アーキテクチャ)的な矛盾が目の前にある場合は、ヘタに周りの人が親切してその溝を埋めてるといつまでたっても問題は解決しないので構造的欠陥は放置しておいて矛盾を訴えるべし」ということかとおもうけど、そんなこといっても実際にはたらいてる現場とか生活の現場でも上のレベルがアホで馬鹿だから進まない構造的欠陥があった場合現場レベルで対処していく(とりあえず)というのがふつーだからなあ。。そして、それとはべつに構造的欠陥をなおすように上に訴えるわけだけど、内部での訴えだけけだと潰されるので労基とか頼ったりってのはありつつ(労基に匿名で訴えてもびみょーだから退職時に最後ッペ的にやるかどうかはその人の良心次第みたいなのもあるけど)。


まあなので、野間さん自身はこのへんがカチンと来て彼のやり方の本質的なアレさを批判されたのかということでふっかけてきたのかと思うに、彼が「油断あり」と踏んだ箇所がそんなに鉄板で弱い箇所でもなかったので、って感じだったのだろうか。できれば彼の「目的のためには手段を選ばない(暴力には暴力(あるいは場外乱闘的手段)で対処する」なやり方の是非を聞きたかったけど。人となりはあらためてわかったのでこれ以上、話すこともないのだろうな。スパム報告したし。


そういったやり方が有効、あるいは必要とされてきたのは差別がふつーな昔、あるいは現在でも差別がふつーな環境では理性的な対話や要求そのものが通用しないという現状があるからかもだけど、んでも、だからといって最初から対話を飛ばして暴力的なやり方に訴えていたら単なる暴力な人になるだけのように思える。彼の場合は特に、大義名分をもとに己の暴力性を発散したいだけにもみえるし(あるいはそれはたんに偏見で、彼の中の『ただしい』『ただしくありたい』な公正世界的な規範がつよすぎて人を寄せ付けないだけなのかもしれないけど。


蛇足的にいうとさっきえねーちけーのニュース見てたら当該のバニラエア航空の件をやっていて、「(そもそも規定で乗せられないことになってるけど例外的に乗せたのは)タラップの乗り降りの際に付き添いのひとたちが『(身体を)抱きかかえて』乗せるという話だったかと思っていたのだけど、現地についてみると車椅子ごと抱きかかえて危ないと判断したので止めたところ…」みたいな話だったバニラエア側からとしては。帰りの搭乗でも車椅子ごと抱えて上がろうとしたらしい。まあたしかに車椅子に乗せたまま抱きかかえてたら不安定だろし、ふつーに搭乗だけが目的なら周りのお仲間に身体を抱きかかえられて登ったほうが穏便に済むはずだからなあ。。バリアフリー運動のひとつってことだったのだろうけど。これをもって「プロ市民m9(^Д^)」とか「障害者めいわくかけんなm9(^Д^)」とかいうのも違うだろうしそういうのに与したくはないのでモニョーンとしたりはするのだった。

できればふつーに要望と対話をつうじてそういったものが改善されていく社会が良いのだけど。まあデフレで不況ってのもあるからなあ。。それで格安航空だから予算なかったってのもあるし。






































posted by m_um_u at 20:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年06月23日

「現代ニッポンの論壇事情」とやらを読みました


話題になってるので気になりつつ座談会的な本なので読み散らかしてスルーしよかな雑誌的に、ぐらいで読み進めたのだけどおもったよりモニョンとしたものが残ったのでなんとなく日記で吐き出し。

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -


モニョーンの理由は本書雑談の品の悪さというか、居酒屋なんかで話しつつ界隈を貶す様子のスノッブさとウチワな感じに既視感を覚えたので。ああいうときのスノッブな知性・知識をカサにきた陰口悪口連帯というのは打ち解ければおもしろく気持ちのよいものなのだろうけどそこから疎外されるとなんともゲヒンに映る。彼らはそのゲヒンさを認識できないのだろうけど、それは彼らが悪口をいう連中に自分が親和性を持ってるから、ということでもなく単にゲヒンなのだ。

んでも本対談というのはそういうのを前提にしてるからこそおもしろいというのもあるのだろうけど。実際、安全圏からのぞく彼らの界隈語りというのはおもしろく「ああ、あの人(たち)って業界でだいたいそういう位置にあったのかあ。。」などと学びがある。まあ彼らのスコープからというのもあるだろうけど「だいたい」なところで。

そういう学びはあるにせよ本としての知識的充足は感じられない。その意味で実がないのが本書で、「本」と書くのもためらわれるのでところどころ「対談」とか「雑談」とかしてるのだけど「最初からそういうつもりでまとめたものだ」といえばまあそうかあ…ということではあるという繰り返し。

実の部分として期待される、あるいは前提となっていたのは安倍政権に代表されるマクロ経済政策(その中でもリフレ政策と俗に呼ばれる財政・金融政策)の知識であり、それらを前提とした福祉・再配分政策であった。あるいはそれが実際に実行されそうになってる?イギリスの現状、そこに至る世間の空気感とか現状について、とか。要するにこの2つの本が前提となってる。

この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


実の部分としてはこの2つを読んでおけば特にこの対談本は読まなくて良いかなという感じ。松尾さんの本でリフレ政策の機構を簡単に学習し、それが福祉や所得再分配と矛盾しない(むしろ量的緩和などで国債買い上げでゼロから作ったマネーをそこに投資するという公共政策ができる)というのが学べる。ブレイディさんの本ではそれが実際にイギリスで実行されそうになってる?というのが伺える。労働党コービンの躍進によって。あるいはそういったサヨク・リベラル周りの空気とかサヨク的なものとナショナリズムが矛盾しないとか諸々。(サッチャー→ブレア、シュレーダー→とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。メルケル的な)緊縮財政によって生まれる貧困家庭の様子とか。

まあそれとは別にこの対談の実というのは現在の日本の論壇周りの俯瞰、一定の観点からのマッピングというところではあるのだろう。あるいは(論壇の中でも)どうしようもない経済音痴・アレルギーな老害たちによる空想的リベラリズム批判。要するに内田樹を筆頭とした「9条を守る会」とか「反知性主義打倒」な連中。あるいは上野千鶴子とか宮台とか。現在の日本の論壇の中心が岩波・朝日的な流れからなのかそういった連中を中心に視野狭窄したものになっていることの批判。特に彼らはなぜか経済政策に言及しないね?ということについて。つまり現政権を批判しても対案を出さない。その心性、根拠とはどういったものか?ということについて。そのあたりの結論としては「彼らは既に金持ちなお年寄りで、現在は金持ってるから貧困層の苦しみとか考えなくて良いし、自分たちの若いときの記憶といえば日本が豊かだった世代のそれに当たる。そして、それが雇用売り手市場の若者とマッチするのでSHIELDS連中をもてはやす」というもの。「−y( ´Д`)。oO○いまのロスジェネ世代は日本最弱で皮肉ばっかうまくて使い物にならん(大意)」とか発言してしまった内田樹周りについてはまあそうなのかもなーと思いつつも上野千鶴子その他についてはびみょーなんじゃないかなーとも思った。北田さんは上野もそういった連中の一人として「彼ら豊かな世代が経済政策についてはきちんと対案出さずに、とりあえずアンチだけ言ってれば良いと思うのは『経済なんか放っておけば回復する』とおもってるからなんですよ。ようするにレッセフェールです」ってことでそれこそが緊縮財政的発想の源泉としての新自由主義的なものにつながるのにって結論づけてたけど、単に思想的にそこまで突き詰めてないだけなんじゃまいかとかおもったりした。つまり「経済政策的に対案を出すことは自分たちの役目ではない」「対案を出さずともNOはいっても良い」ぐらいの。あるいは上野さんの場合はギデンズとかトッド、バウマンとか読んでそうな雰囲気もあるので、ギデンズの政策的な部分、あるいはトッドのそういったものとかに影響受けてるんじゃまいかと最近の発言でもおもえた(移民がどうとか、人口トレンド的に日本がどうとか)。そうだとするとギデンズのEU本的なもので展開されていたあれを念頭するに、そこでもリフレ政策とかははっきり言っておらず、全体的にいろいろリストラクションしてお金を生み出すみたいな発想だったように思えるのでそのへんなのかなーぐらいな印象。まあそういうのも買いかぶりなのかもだけど。
揺れる大欧州――未来への変革の時 -
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あと、この対談(というか主に北田さん)の前提として松尾匡-リフレヽ(´ー`)ノマンセーな前提にしすぎな雰囲気が感じられたのだけど、リフレ政策もそんなに万能でもなくひとつの考え・チャレンジの一つ程度なんじゃないかなーという印象。たとえば現在だとそれが有効なように思えるけど、バブルが終わってマイルドデフレになってきたころすぐにこれをやらなかったのはふつーにインフレこわいねってのがあったからだろうし、ほかにもなんか指標・経済政策的なオルタナがあるんじゃないかなーという印象。まあ学習進んでなくて印象程度なんだけど、自分的にはこのへんもそっと学習していきたい。

学習ついでにいうと労働(雇用)研究周りと経済政策をつなげて考えたりとか、筒井淳也さん周りを読み進めたりとか。後者はギデンズ関連からの家族社会学、アイデンティティの変容とか考えるうえでも課題図書になってたけど。


ふたたび本対談に戻ると、(自分の見方もあるのだろうけど)けっきょく北田さんを中心とした集まりで、そうすると北田総括ということになるかなとおもったのだけどそのあたりは甘い感じがした。要するにしばき隊的な反ヘイト運動へのコミットとかどういうつもりだったの?あとそこからのサヨク(てか日本的りべらる)的なぬるさはどうなの?というのを後藤くんあたりがもうちょっとうんたらかんたらするのかと思ったのだけどそこは案外スルーだった。まあそれはしばき隊的な流れが安倍政権打倒に流れ、SEALDsと合流する中で違和感して離れていった / 最初はヘイトと直接的暴力はダメだろ―ってとこだけで部分的に賛同してただけ、とかいうことなのかもだけど。たとえば「彼らの運動は具体的な政治的影響力に通じていかない、たとえば経済政策→福祉政策への理解の無脳ぶりに辟易した」みたいな。そういうのはかつての民主党への政策提言集まりのときにも出されてそのときの提言はリフレ的なものと再分配的なものが加わったアベノミクス的なものにも近かったともいえたらしいのだけど(けっきょくは実行されなかった)。

そういう意味では十把一からげに「サヨク」とか「りべらる」とかでm9(^Д^)されがちなひとたちもちゃんと考えてる層とそうじゃない層(経済政策とか対案とかまったく受け付けない層)がいるということの再確認やら俯瞰やらはできるね、という対談本でもある。本書では後者が「経済政策を受け付けないのは彼らが既に豊かであり、豊かであることを前提にしたレッセフェールだからだ」としてるけど自分的にはもそっと変な理由があるんかもなーとか思ってる


本書の伏線とか、あるいは伏線としての本書があるとして旧論壇打倒・現在のアカデミズム正統でフルボッコ検証してやる宮台・東的な具体としてはこの本があったように思うのだけど

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -


自分的には「計量もできるようになったよ―(∩´∀`)∩」的な感じにしか見えなかった。統計分析な具体な章の結論がどうしても地味だったので。テーマ的には宮台・東的なものがどうしても主にあり、それを批判的に検証というだけだとどうしてもそっちの視角がメインになってるように思えた。それは自分がブルデュー的なものにもそっとアイデンティティの変容について考える材料をもとめていたというのもあったからだろうけど。ついったなどにも見られるような後期近代的なアイデンティティのゆらぎと再帰性によるクラスタ(界隈)の自己言及的な固定化。最近だとエコーチェンバーとかフェイクニュースがどうとかいう現象がそういったものの一部に当たるのだろうけど。

そういったマイルドに階層?分化し、エアリプ嫌味とばすぐらいで、ディスコミュニケーションが広がっていく社会に対して。あるいはそういった社会を基層としたとき、ロスジェネを含んだ貧困や社会的な不安や困難の声 - 改革を求める意志がどの程度、社会全体にとどくのか?ということについて。とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。「貧困層ほかの声が届くようなアクチュアルな期待もリアリティもない」ということだと本対談も同じで、たとえば北田さんほかはサヨク的な言説を唱える旧世代論壇のグループ性を「彼らはネームバリュー/数字持ってるからね―−y( ´Д`)。oO○内容なくても」的に批判してるわけだけど、それいうんだったら自分たちも似たようなもので、その「数字」をもとに出版資本主義/編集者に選別され、その地位から「ネット論壇程度のものはねーw」みたいなこといってるわけで…まあ入れ子構造の似たようなものだな(人気者の席に誰がすわるかが変わるだけで)という白けた印象しか残らないのであった。

それとは別に貧困層や社会で問題を抱える層の声が届くかどうか?という問題。粛々と日々の労働・生活を送る人々(サイレントマジョリティ)の声が政治的に還元されるかという問題に対して。特にきちんとした理論建てじゃなくてもブルデューがアルジェ → フランスから見ていた問題意識のようなものをそのまま日本の貧困層 → 金持ちブルジョア層としてポスコロしてもいいのかなーとか。

「声」のアーキテクチャ的にはシェア的な流通プラットフォームの整えとハンドリングってとこなのだろうけど、それはだいぶまえからいわれていて相変わらずうまくいってない。まあ従来の出版資本主義の人気者的なひとが「降臨」し、数字ーネットワーク外部性を引っ張ってくる、とかなのかなともおもうけど。そういうところだと従来出版資本主義がきちんとそういうひとたちを囲い込み(ロックイン)して「(ヽ´ω`)…りべらるとかいってるけどやってることはエグいよね。。」みたいなのみせつけるのだろうけど。まあ「食える」レベルの報酬は別にして、まともな言論が流通する場の継続的な維持ということだとやはりビジネス的なものが関わるのだろう。


そういう意味では自分で掘って見てくしかないかな―(あまり期待しない程度に)とか思うのだけど、とりあえず知識人 - 反知性主義辺りのアレとしてこのへんからかなー。


オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
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知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -
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[書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2017/06/30-1ebb.html

池内恵の「反知性主義」依頼原稿への不快からの論壇disと解説
https://m.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203927148938140



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2017年06月18日

取らぬ狸の管さん用


昨日の朝にジョギングしつつなんとなく思ってたこと、「安倍政権憎しってやってる人たちに伝える言葉 / 対話のトバ口とかないのかなあ。。たとえば松尾さんの『この経済政策が民主主義を救う』なんかは『安倍政権に勝てる方法』て副題もついててわかりやすいだろうに」「んでもそもそも彼らはそういう対案的なものは考えてなくて、オイルショックや3.11原発事故→被爆の不安のときのようにフォビアになってるだけで、集団ヒステリーとか神経症みたいなものなのだろうしなあ。。そういうのも誹謗中傷的な見方といえば見方なのかもだけど。んでも一種の不安神経症みたいな感じで『戦争内閣絶対反対!』て耳に残りやすいアレがこだましてるんかもなあ。。だとすると心理学と社会心理学的な観測が必要なのかむしろ」、とかをもそっとちゃんと書き残しときたいなあと思って該当twアーカイブしよかと思ったけどSeesaa blog からでは既に届かず。。200件先までしか追えないのか。

まあとりあえず、昨今TL的にチラチラ出てくる「サヨクのみなさんも経済政策をまなんで」とかいうのもあまり意味がなくて、彼らにとっては最初から「戦争ぜったいダメ><」だけがあたまにあってそれ以外のものは詭弁てスタンスなのだろうから対案とか優先順位とかトレードオフみたいなのは通用しないのだろうなあとかなんとか。

たとえば安倍政権に対してはわれわれ周りの人たちのスタンスだと「タカ派で阿呆みたいなところあるけど量的緩和を持続的にやるというのは確かだからその辺だけは期待するしかない」という「タカ派アホ < リフレ政策の持続」というトレードオフをもとにした消極的賛成が発生してるわけだけどそういうのも彼らにはないみたい。繰り返しになるけど経済的な思考-政策というのはすでに「詭弁」とでもとらえられてるのかもしれない。たとえば「新自由主義で切断していく内閣だー」みたいな見方もちょっとまえにあったし。まあそれいうなら量的緩和に踏み切る前の内閣である旧民主党政権のほうがアレゲだったんじゃないかと想うのだけど、管さんがビビって量的緩和ストップするまではマニフェストとやらにのっとって福祉政策とかもいろいろやろうという構えだったのかもしれしれない。まあよく覚えてないのだけど。ちなみに福祉政策切断新自由主義としては小泉構造内閣のほうがひどかった。管政権以降は財源なくてそういう政策もできなかったようだし。

マニフェストと言えば管さんのとき以来、民主党から「マニフェスト」というアピールが消えたように想う。そういうことは長嶋さんも言ってたのだけど、「かつての民主党は政策でたたかおうとしてたけどいまは『戦争内閣絶対反対!』みたいな印象操作だけだし、森・加計問題みたいな政策ではなく政局(SCANDAL)みたいなとこでみょーにがんばろうとしてるし。。正直見るに堪えない」、みたいなの。まあでも直近の内閣支持率も落ちたようだからある程度効果はあったのだろうけど。そのヨコで「次期政権はいよいよ麻生内閣か?」みたいなのも出動してたり。まあ正直、いろいろ問題あり印象も悪くなった安倍内閣よりは麻生内閣のほうが良いよなあ。。経済政策的にも麻生さんのほうが主導だったんじゃないかと想うし。

「あれ以来、野党がみょーに『戦争内閣!』て煽るようになった」ついででいうと、それがマスコミにも影響し、そういうのがTwitterほかにも影響したのかなあとかおもったりもする。Twitterて最近までここまでウヨサヨ的な政治的な話題というか、分断、敵か味方かみたいな殺伐ってなかったように想うのだけどさいきんみょーにこういうのでギスギスしてるし。まあこういうのも実際に統計なりなんなりとってみたら意外と違ってたりするのかもだけど。

んでもやっぱ安倍政権ニクシ、というか、戦争内閣不安みたいなのでフォビアだかなんだかドリヴンしてる人たちってみょーに意識高いというかセンシティブになってるとこがあるように思えて、たとえば昨今の共謀罪なあれでも詩織さんなあれでも。共謀罪なアレは国際的なテロの不安とその協調のための関係として設定されたものだとしたら安倍政権ではなくても成立していただろうし、そもそも実行においては警察・公安機構がやるのだろうから政府とは直接関係はないのだよねえ。。まあそれは彼らからすると「タテマエであり、実際になると政府から権力が発動し、『なにか上からの命令だ』ってことで超法規的なアレがナニするのだ!戦時中の特高警察みたいに!」とかいうのだろうけどそんなこといってたら信号が青でも「車が来るかもしれないだろ!」とかいって渡れないのだしねえ。。まあでも政府と直接に権力的な癒着があるとしてもないにしても現在の日本の警察機構の問題というのはあってたとえば取り調べにおける密室性と市民の基本的人権いきなり剥奪的な横暴とか、一回警察が目をつけるとメンツにかけて叩き潰すために圧迫尋問みたいなことして無理やりイエスを引き出すような手法とか。そういうのは詩織さんのケースでも問題になってたようだけど(まあ彼女の場合は容疑者としてではなく被害者として告発してもひどい調査内容だったということだけど)。そういうの考えると問題は日本の警察のそういう部分ということで、それは政権変わっても共通するところなんだからそこから改善叫んだほうがよいのでは?と思うのだけど。

あと、「戦前・戦中と同じだ―」「ヒトラーみたいだー」とかいってもドイツにせよ日本にせよそもそも開戦を決断せざるを得なかったのは不況かつ国際的な経済協調からハブられたからであり、不況が問題だったのだから経済政策とか気にして不況にならないようにしたほうが良いように想うのだけどそういうのが通じないのだった。

まあでも、そういう警察の問題にしても、安倍総理や一部の自民党の政治家の阿呆な側面にしても、政党変わっても普遍的問題ならばそういうのを彼らがウォッチドッグしてくれてるのはそれなりに役に立つのかな―とか意識を変えるといいのかなあとも思ったりした。






現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
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この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 -
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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書) -
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世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫) -
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リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話 -
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2017年06月16日

「しかくいにかくが『まあるく』おさめます」


ジョギング行ってきたので汗が引くのを待つのがてら昨日のtwをメモ的に。

一つ前のエントリにもかぶる内容なのだけどけっきょくネット上の、あるいはついったになってからその速度がより上がった感じの丁々発止というのは知識を資本としたマウント(オレ(たち)のほうがえらい / おまえ(たち)はバカ)合戦みたいなとこがあって事実にもとづいた意見交換・理解促進というわけではない。「ネット(Twitter)はギロンに向かない」とかいうけどネットとかのツールが問題なのではなくて最初からそういう姿勢なのでギロンとか対話にならないんじゃないかと思う。ネットあるいはTwitterというアーキテクチャ、場にそういうのを促すなんらかの要素があるのかもしれないけど。でも、いつの間にかそういう「事実交換以前に馬鹿にする」みたいなスタイルがふつーになってしまった。たとえばたかが政治・経済の話でそれがその人の全人格的要素、魅力につながるものでもないものでもそれで少しでも知識的に劣ると一気にm9(^Д^)とする風潮。ちょっとそういったことでふつーの疑問を投げかけただけで○○警察みたいなのが来てモヒカン的に刈り取っていこうとする殺伐。そういうのは幼稚でもったいないことだなあと。

まあそう思ったのもこないだsession22でそういう話してたのの影響受けたのかなあとも思うのだけど。「昔のぼくのブログみると文末に草生やしてて恥ずかしくなる。聴衆を意識してそういう振る舞いをすることで『自分のほうが優位に立ってるんだぞ』と見せるような印象操作。いま、過去の自分に言えるとしたら『そういうのはやめたほうがいいぞ?』と言うと思う」みたいなの。あと「ネットでの発言の変化・同一性ってどこまで許されるんでしょうね?人は変化するものだと思うのだけど公人でもない私人の過去のブログ発言を見つけてきて現在の違いを矛盾としてあげつらうようなの。政治家などの公人でもない私人にはそういうのに付き合う義務も責任も本来はないわけだけど」みたいな。まぁ、チキさんは一気に成功しちゃったので昔とも環境が変わりそれに伴い変化するものもあったのだろうし、「金持ち争わない」的な余裕のもとにそういうこと言ってる側面もあるかなあ(ヽ´ω`)…成城トラカレも遠くに来たもんだ、と遠い目したものだけど。


話を元に戻すと知識資本と嘲り合い(マウント合戦)みたいな話。

自分的には<それによって彼らがなんらかのアイデンティティ-縄張りを確認しあってる ← なんらかのアイデンティティをそうやって確立する必要が無意識のうちに生じてる?>みたいな視角がある。その大きな背景としてはギデンズがいったような後期近代化による変化の影響というのがあるのかなと思うけど、なにがどうなってそういう風になるのかはまだよくわかってない。のでこれからおべんきょーしていく予定。ブルデュー、マルクスなんかも交えつつ。あるいはアイデンティティゲームというところで発達心理的なものと幼稚性みたいなのも見てくかも。


優越感ゲームというのはネット全体の現象というか、ついったとかでも政治経済(というかウヨ/サヨレッテル貼り合い)系以外の話題でも生じてるのだけどフェミ/ヲタ(ミソジニー男性)とか。直近だとウヨ/サヨがわかりやすかったのでそういう例として。

そして、誰かが図示して言ってたけど、「こういうのって双方の属性の一番上のところにえらいひと・知識がある人がいて最下層に知識がないひとがいるのだけど、知識がないひとが阿呆な発言をしたのを片方のえらいひと・知識がある人が拾い上げ相手方陣営全体を『バカm9(^Д^)』てラベリングすることで不毛なディスコミュニケーション・煽り合いしてる」、って感じ。まあバカサヨク / バカウヨクみたいなのが双方にいてどうしようもないなと。そんでそもそも知識がある程度あればそういう属性をかぶってバカに足を引っ張られてく不毛みたいなのもわかってるはずなんだけど。いわゆる「運動」なんかでもそういった連中のせいでぐだぐだになってくわけだし。まあ「オレはウヨクとか保守とかになったつもりはないよ?周りが勝手にそう見て攻撃してくるだけだよ?」ってのもあるかもだけど(二項対立でしかものが見れない連中)。




















ついったーも「丸くなった」ようなのでこういう人たちもそろそろもうちょっと丸くならないかな



ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
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スコットランド狂想曲:経済とスピリットはどちらが重いのか(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



スコットランド狂想曲2:市民的ナショナリズムと民族的ナショナリズム(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


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2017年06月14日

「モダニティと自己アイデンティティ」読んだのでわからんながらにメモ

朝に「モダニティと自己アイデンティティ」を読み直していたら最初に読み終えたときよりもなんとなくイメージが浮かんできたのでジョギングにいって忘れないうちにメモっとこう(ついったで関連話もあったしそれも絡めて)とおもってつぶやいた連弾をちょっとメモ。とはいってももともとそんなに理解できてたものでもなく、今回もそんなに理解できたとは思ってない / 2割ぐらいいってたらいいかなあぐらいの理解なのでまあ愚痴みたいなものなんだけど、んでもそもそもこの本で書かれてる内容というか書かれ方が具体的ではないのでわかりにくいのも仕方ないかなあとか。まあそれについては巻末の訳者あとがきにも「もともとわかりにくい本なので何回も読んでみるといいです」てあるんだけど。「使われてる用語も独特なので巻末用語解説とあわせて何回も読んでみるといいです」て。なので、本来は手元に置くか、図書館にずっと置いてあるのを何回も読むのが良いのだろうなあと思うのだけど、今回は取り寄せで読んだのでこのぐらいで返却しとこうかなあと。今日返却日だし。

前置きはこのぐらいにしてんじゃついったに連弾したのからとりあえず

















後期近代(ハイモダニティ)化の問題として、おーざっぱには「それまで規範としていたものがズレることによって不安が生じる」というのがある。生活スタイルが変わることに伴いそれまで規範としていたものもズレてそれによって戸惑いが生じる。後期近代化とはなにか?というとオイルショックによって生じた不況に対抗するように金本位制から変動相場制に変わったとき、それを標準としてグローバリゼーションが進み、それにあわせて企業内倫理・ふるまいの規律なんかも世界標準化がすすんだ、ということ。具体的には87年ごろを画期に90年代を通じて会社員に求められる規律(キツキツ)が進み、それにともなった規律訓練も進んで鬱になるひとも増えたね―、みたいなの。「モダニティと自己アイデンティティ」の主要な射程というのはこのへんではないかと思うのだけどはっきりとはかいてないのでよくわからない。もちろんこれだけが射程ではなくこういった画期を軸にした労働→生活 / 親密圏の変化を総体的に扱ってるというのもあるのだろうけど。

ギデンズの本書からの主要用語である「経験の隔離」では、そういったキツキツ生活のなかで規律訓練が進むことで自動化も進み、本来なら実存的な不安もそれによって隠される、というのが表されている。逆に、こういった規律訓練な生活の自動化から外れたとき本来の実存的な不安が顔を覗かせてくる。たとえばサラリーマンが退職後にどうしたらいいかわかんなくて途方に暮れるとかもそういうののように思える。

あるいは現在だと非正規雇用なんかが標準になってて退職以前にそういった実存的な不安(たとえば貧困≒将来が不安≒死)が顔を覗かせているともいえるのでそういった見立ても生ぬるいかなあとは思うのだけど、自分も含めてそういった人たちが日々の不安を隠すためにアイデンティティゲームをしているところもあるのかなあとか思ったりもする。雑誌やテレビ、アニメや小説、日々の娯楽に埋没することでそういった不安から遠ざかる / 別の想像空間に身を置くことで不安をそらす、というような。あるいはライフスタイル誌のようなものでちょっとでも「豊かな生活」を享受して生活に彩りを添える、とか。ライフスタイル誌のようなものがなぜ求められるようになったか?というのもこういった文脈に関係するのだろうけどはっきりとはわからない。おーざっぱには「核家族化がすすみ従来のライフスタイルから抜け出し(脱埋め込み) / 参照点がなくなったために雑誌などがそういったものを提供するようになった」と言えるかなと思う。

そして人々はそういったものを参照することで新たに生じた不安 / ズレ、あるいは実存的な不安から目を背けていくわけだけど、そこで自らを構成するために択っていったアイデンティティにみょーに固執するために苦しくなる情況も生まれるのだと思う。苦しくなるというか、たとえばついったなんかでもよくみかける自らが蓋然的に属すると同定している属性に基づいた対照属性へのエアリプ攻撃とか。リベラル / ネトウヨ、フェミ / ヲタ、女性 / 男性…。そういったものが大文字で糾弾され、糾弾していく中でその攻撃性に自らが飲まれるようにアイデンティティとそこへのコミットメントを先鋭化していく。本来、なんらかの縛りにたいして自由になるために楽になるような属性-生き方を参照し選択していったはずなんだけど、その属性への縛りが強くなるために却って不自由になる情況が生じているのではないか?そういうのが自分的な見立てでであり、こういった読み物を通じて理解を進めていきたいところとなっている。


そういった現状があるとして、「モダニティと自己アイデンティティ」では特に解法は提示してない。ざっくりとそういった情況が生じる構造的要因のようなものを考察している。近代において生じた規律の内面化がさらなる段階に進んでより生活的な場面で生活者自らが規律を作り内面化していこうとしている、みたいなのも(生権力からライフポリティクスへ)。

そのなかで「純粋な関係性」という用語は唯一鍵になるのかなあと印象された。「関係そのものが与える満足や見返りに根本的に依拠する関係」。要は「なんらかの限定や留保のない肯定」でありその関係内でのコンサマトリーな充足を前提とした愛ということになる。



それは曖昧であるがゆえに諸刃ではあるようだけど。




あと、「親密性の変容はこれ読んどけば読む必要ない」とか言われてたけど「親密性の変容」のほうが具体的で分かりやすかった。まああれは本書からの恋愛やセクシャリティの変容をスピンアウトしたものだったように思うけど。要は家族制度とかLGBTとかそういうの。





モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会 -
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親密性の変容 -
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現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) -
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社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
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奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
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カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -
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親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR) -
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