2016年12月17日

「身体はトラウマを記憶する」



少し前に読んでついったのTL的にもシェアしといたほうがいいかなと思ったので簡単に

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -




簡単にはトラウマからの復帰の方法について。んでもトラウマだけでもなくグリーフケアとか発達障害とかにも適応される感じ。あるいは鬱とか自律神経失調とか。そういうわけで紹介しといたほうがいいかなとおもった。


紹介的な文章になるので特に自力でうんたらする必要性もないだろから他人様の紹介を主に借りよう。巻末の解説が端的にまとまっていたのでそれをまるっと引用から。

ちなみに引用はiPhoneのスキャンアプリCamScannerからのOCRを試しがてらやってみた。便利だけどiPhoneカメラの性質上カメラで捉えられる範囲が限定される/あまりたくさん文字を写すとOCRの誤認識が多くなるのでなるべく短い単元ごとで撮影する → 何回も撮影しなければいけなくなって疲れる、というのはあった。んでもあらためて写経におけるスキャナ→OCR便利だなあとおもったので安価なハンドスキャナとかあとでぼけーっと見て見るかもしれない。

閑話休題

以下、巻末引用から






浜松医科大学児童青年期精神医学講座  杉山登志郎



本書の著者、ヴァン・デア・コークはエピローグの冒頭で、次のように書く。「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」


本書は・自伝的な要素を有し著者の精神科医としての、そしてトラウマに関する世界的な研究者としての歩みがそのまま記されている。オランダ系移民であるヴァン・デア・コークの父親は、ナチスに対し批判的であったがためにナチスによる投獄を経験し、母親は幼児期のトラウマの経験を持つことが暗示され、家族の中に深いトラウマがあったことが開示される。彼の歩みは、トラウマの再発見から始まる、今日のトラウマ研究の歴史そのものなのだ。一九七八年、駆け出しの精神科医であったヴァン・デア・コークがベトナム戦争の帰還兵が示す凄まじい後遺症に圧倒され、トラウマのもたらす多?にわたる脳ヘの影響に気付くところから本書は始まる。トラウマについて、精神医学が発見と忘却を繰り返してきたことを彼もまた再発見し、一九八○年に出版されたアメリカ精神医学会炸成の「診断・統計マニュアル第三版(通称D S M.皿)」に初めて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の概念が登場したことをきっかけに、効果的な治療法を見つけるための体系的な研究を開始する。さらに彼は、慢性のトラウマや強烈なトラウマにさらされた脳が通常とは異なる働きを作り上げて行くことを、最新の脳科学や脳画像法を駆使Lて解明して行く。そうして積み上げられた実証を伴うデータの集積によって、一見脈絡のない不可思議な症状群が、すべてトラウマによって引き起こされた脳の変化に基づくものであることが示され、なぜ従来の治療法が無力であるのかも、脳の働きに遡って明らかになる。また薬物療法の限界も示される。

重度のトラウマ、特に子ども虐待などの慢性のトラウマによって生じる様々な重症な臨床像である、複雑性PTSDと発違性トラウマ障害が、なぜかアメリカの精神医学の主流から無視され続けたこと、さらに抗精神病薬や抗うつ薬の処方のみが膨れ上がって行く状況も克明に語られる。その上で、不可能とも思われたトラウマの後遺症からの回復を可能にする様々な方法が、これも実証を伴った研究によって今日の到達点として描かれる。

本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑間を感じつつそのままになっていた問題や断片的な理解のままになっていた間題のほぽすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍に広がったような体験をした。本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。それはこんな人々である。ドメステイツク.バイオレンスや子ども虐待に向ぎ合わざるを得ない人、少年非行や少年犯罪、薬物中毒、性被害・性加害、社会的擁護、里親・里子、貧困、すべての精神疾患、怠学、不登校に関わる人々。つまり学校数師、ソーシャルワーカー、児童養護施設や児童自立支援施設で働く人、精神科医、臨床心理士、弁護士、裁判官、警察官、検察官そして政治家。まさに私たちの社会は今、トラウマを強く意識しなくては何もできない時代を迎えようとしているのである。


本書の圧巻は、なんといっても第5部「回復ヘのさまざまな道」である。本書の冒頭でヴァン・デア・コークは三つの方法があるとしている。一、自分に起きていることを知り、それを許容しつつトラウマ記憶を処理するトップダウンの方法、二、不適切な警戒反応を抑制し、脳の情報処理を変える方法、三、トラウマに起因する無力感などに立ち向かうボトムアップの方法。どれが有効なのかはやってみなくては分からないし、ーつだけではうまく行かないことが多い、従ってて組み合せが必要であるとしている。


第5部で取り上げられているのは、トラウマからの回復のために工夫、開発されてきた実に広範な様々な治療方法である。最初に、言葉での表現として、自分に手紙を書くという自由筆記法の可能性が取り上げられる。次の章ではEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が紹介されるが、自分が実施Lていたグループセッションの参加者の中に、併行してEMDRを受けた患者がいて、その回復ぶりに驚嘆したヴァン・デア・コーク自身が早速研修を受けに行き、その効果に驚くというエピソードが紹介されている。これは私自身の経験そのものでもある。次がヨーガである。ヨーガこそボトムアップの強力な方法でありマインドフルネスや呼吸法との組み合わせによって、細心の注意を払いながら治療に織り込んで行く具体的なやり方が示される。ヴァン・デア・コークのすばらしいところは、これらの効果を直ちに最新の脳画像研究を用いて立証して見せることができることだ。EMDRの効果検証のみならず、ヨーガに関しても自己調整の中枢である脳内の島(とう)と呼ばれる部位の活性化が示されている。次に取り上げられるのは多重人格ヘの内的家族ジステム療法の紹介である。我が国では自我状態療法として行われている方法とほぼ同じ治療手技である。次いでPBSP療法が紹介される。

これはグループ精神療法を用いて、失われた愛着を想像の中で取り戻すという大変に興味深い臨床的試みである。我が国の治療者のために補えば、嶺輝子(みねてるこ)が独自に開発したホログラフイートークが類似のアイデアで構成されていて、この手法に精通すれぱ、愛着の修復の効果が同等に得られると考えられる。次に登場するのがニューロフイードバックを用いた脳の反応の正常化である。この部分に関して私は未経験であり、ぜひ学んでみたいと強く思った。最後に紹介されるのが、演劇や声劇によるトラウマヘの治療効果である。こちらも私は未経験であるが、その効果に関してはなるほどと実感ができるものぱかりである。

ヴァン・デア・コークは特定の治療法を勧めてはいない。そのいくつかを組み合わせることが必要で、本人に合った治療法を選び、脳や生体の起こすトラウマ反応に最新の注意を払いつつ実践して行くことによって、薬に頼らず確実な回復を得ることができることを実証しているのである。






上記にもあるようにこの本のハイライトは後半の様々な治療法部分となる。


人はどうやって「トラウマ」を克服するのか | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/141463

本書のハイライトは、間違いなく、それらの治療法について述べた後半部である。そこでは、驚きともいえる治療法と回復事例の数々が、著者の熱い筆致によって語られる。正直な話、おそらくこの部分は、その筋の専門家でなければ、「そんな方法で本当に効くの?」と訝しく思われる箇所もいくつかあるだろう。

ただそれと同時に、治療法の新奇性とともに、「できることなら何でもする」という著者の意気込みがことさらに目を引く部分でもある。健全な疑いを持ちつつ、新しいアプローチと著者の情熱を楽しみながら読んでいきたいところだ。


著者のモットーは、「患者が良くなるのを手助けするために、できることなら何でもする」であり、実際に本書でも、EMDR、ヨガ、内的家族システム療法、ニューロフィードバックなど、じつに多くの治療法をとりあげている。

さて、以上のように整理すると、トラウマの治療として著者が何を目指しているのかも、よりはっきり見えてくるかもしれない。原題や邦題が示しているように、「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」というのが著者の基本的な考えである。ならば、「トラウマはどんな痕跡を残しているのか」「患者は現にどんな状態にあるのか」を見定めたうえで、それぞれの場合に適した治療法を選択し、ひいてはそれらを組み合わせよう、とそういうのである。



「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」という部分については実際に脳の状態をスキャンしてトラウマを負った脳の状態を診ている。トラウマを負った脳は扁桃体への電気信号が過剰になり、そのぶん前頭葉へのそれが持っていかれるみたい。つまり無駄に恐怖・不安反応が高まり自動的にそれが生じ理性的な判断がしにくくなる。

ひとつ具体的な議論を追ってみよう。先に述べたように、トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応するようになっているのである。扁桃体といえば、情動反応の処理においてとくに重要な役割を果たしていて、脳における「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されているように、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されてしまうのである。

ただし、トラウマと関係している脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応はじきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードのような状態に陥ってしまうことになる。


この状態をリセットするために様々方法が提示される。ヨガとか演劇を通じたロールプレイとか。あるいはEMDR(眼球運動を利用した方法)を命綱にトラウマダイブして自分で克服する手助けとか、ニューロフィードバックで脳に直接に電気信号を送り障害を調整とか。

もっとも身近にはヨーガとか長距離走なんかが良いように思えた。要するに呼吸。長くて落ち着いた呼吸で自律神経を落ち着かせる。1分間に6回の呼吸。


トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復することが肝要だと考えられる。そして著者によれば、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。

トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われる。そして、そうした具体的な調節方法として、先に示したような多種多様な治療法を著者は紹介していくのである。




自分的にヨーガはまだやってないのだけどそのうちやるときように本書でよく紹介されていたこの辺とか読んでみるのも良いかも。



スティーヴン・コープの名著「ヨーガと真の自己の探求」


あとは太極拳とかかなあ。。64式とか。あるいは地味な套路。




「習得への情熱―チェスから武術へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/442327056.html

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「ドッグヴィル」/「マンダレイ」



『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -
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ドッグヴィル - Wikipedia

舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。
そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの奉仕と引き換えに彼女をかくまうことを提案する。
グレースは受け入れてもらうために必死で努力し、いつの日か町の人と心が通うようになる。しかし、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌していく。


作品の内容自体は鶴の恩返しとかその他の教訓的昔話にも似てる。

「平凡で刺激のない村にある日うつくしい娘があらわれた。村人たちは最初、娘を受け入れがたくしていたが次第にココロを開いていく。娘を受け容れるなかで平凡な生活の中で気づかなかった楽しみにも気付かされていく。そこで終わっておけばよかったのに村人たちは次第に娘に甘えエゴや欲望を押し付けていく。そのエゴと欲望の罪から目を背けるため罪を娘になすりつけ己の罪を見ないようにする(『あの女が誘惑したんだ!』『あの女が悪いんだからひどい目にあって当然だ』『ひどい目ではなくこの女には当然のことなのだ』)。娘はそんな村人のひどい仕打ちにも耐え忍んでいたが、娘を陥れようと村人たちが仕組んだ罠が却って村人たちに最後の裁きを下すことになる。村人たちは自ら最悪の裁きを招き入れる。娘は赦すつもりでいたのに」

村人目線で見るとこういった昔話的な教訓話になる。でもこの物語は主人公グレースの、あるいはトリアーの描いてきた聖女たちの物語となる。汚れ、寡黙に耐え忍ぶだけの聖女たちの。

以前にダンサー・イン・ザ・ダークの感想で「彼女はある意味独善的だ」「自分に酔っているだけだ」というようなことをいったようにおもう。


それと同じようなことがこのドッグヴィルの最後の対話でも指摘される。

グレースは強力なギャングのボスの娘で、彼女は父の汚い仕事を継ぐのを拒否してそこから逃げてきたのだった。ギャングのボスはグレースと車の中で話し、他人が自分と同等の道徳的水準にないと考える (さらに、本来人は自分行為について説明責任がある (accountable) が、グレースが住人に説明の機会も与えず許そうとしていることについて) グレースを傲慢だとした。グレースは最初父親の言うことを聞こうとしなかったが、いったん車を離れ町や住人の様子を見ながら熟考した末、父の考えに同意して「もし住人達が自分自身と同じくらい道徳的だったならば住人達を非難して重い罰を与えなければならないだろう、そうしないのは独善的で偽善的である」と考えた。グレースが町を破壊するこの決断に至ったのは最後にトムと交わした会話による。トムはギャングが町に対して行うことそのものについては恐れているが、自分のやったことに自責の念や後悔はないと言い、トムがグレースを裏切ったことで互いに人間の性質について多くのことを学べたと発言した。グレースは父の娘としての役割を受け入れ、町を消し去るよう命令する。



彼女たちの行い、全ての罪を自らが被り贖うという行為はたしかに尊いし立派ではあるのだけどそれを誰にも説明せず行ってるうちは単なる自己陶酔にすぎない、し、誰も彼女たちと対等のものとして認めてないということになる。

グレースの選択は住民たちを彼女たちと対等のものと認めることを通じて、「であるならば」対等に同じ罪を贖わせなければならない、という苦渋の決断だった。ギャングたちによって殺され火を点けられた村は彼女の幼い正義の象徴だったといえる。それに火をつけ決別したことで彼女はヒキコモリ的正義から正しさを世に試し、それによって傷つくことを受け入れていく。傷つき成長していくことを。

ただ、最後の決断に対して、その正義の判定が甚だ一方的であるという点で疑問は残るのだけど。まあそのことについても続編を通じて自省と自己批判の材料となっていくのだろう。




マンダレイ - Wikipedia
舞台は1933年のアラバマ州、南北戦争と奴隷解放宣言からおよそ70年。縄張りを失って旅をしていたグレース(ハワード)たちギャング団は大農場マンダレイの前で黒人の女に呼び止められる。そこでは依然として奴隷制度同様の搾取が横行し、今まさに「使用人」の一人ティモシー(バンコレ)がむち打たれようとしていた。グレースが銃の力で割り込むと農場の女主人(バコール)は息絶えてしまう。命令するものを失って途方にくれる黒人の使用人たちをみてグレースは、マンダレイを民主的で自由な共同体につくりかえる決心をする。



前作で父の権力(暴力による己の正しさの行使)と同じものを自身も実行してしまったグレースはその後、ふたたび父への反発をつのらせていたところで南部のしみったれた街マンダレイにたどり着いた。
そこでグレースは未だに奴隷制度がつづいている街の様子を見て止めに入る。ギャングの暴力≒父の権力によって。

その後、かつての女主人を失った奴隷たちが奴隷としては開放されつつも極めて不利な条件で労働契約をさせられそうなのを見て間に入る。「このままだと実質的には奴隷と同じだ」。グレースは逆にギャングの法律顧問を使うことで契約書を作り直し街の白人たちと黒人たちの立場を同じようなものとする。
そこで黒人たちはいちおう自由とはなったものの自由を継続するための仕事≒収入が安定しない。その安定が確立するまでグレースはとどまりともに働きつつ彼らを支えていこうとする。彼らに共同体の民主的運営、民主主義を教えつつ。

これがうまくいっていたらヴェイユの工場日記みたいな感じだったのだろう。「理想をいうだけではなく下層労働者とともに働き、リアルを実感しつつともに戦い、なんだったら改善策を練っていく」。
とはいっても結果的にそうはならなかったのだけど。工場日記もそういう内容でもなかった。

ネタバレしてもよいだろうからネタバレしちゃうけど、収穫が終わり換金したところで悲劇が起こる。

グレースはだんだんと街の暮らしにも慣れていっていたが長い共同生活の中で自身の女の疼きを持て余すようになっていた。そんな中で共同体の中でも「誇り高い黒人」として種別され、一匹狼的な側面とともにある種の知性と誇りをにおわせていたティモシーを気にするように。
収穫の後、女主人の役割を解かれたグレースをティモシーは誘い、グレースもそれを受け容れる。「女は裸にされて横たわらされ目隠しをされ男が一方的につらぬくのに身を任せなければならない」という交わりは伝統に則った直接的なもので情を交えるというものでもなかったのだけど、むしろそれはグレースが望んだものだった。否定していた父の権力観、主と奴隷的な生活のなかで黒人の異性にかしずかれ性的な愛撫もサービスされることを妄想してしまっていたグレース。ティモシーによる一方的なセックスはそういったものとは真逆といえるけれど、「奴隷に襲われた女主人」的な妄想と欲望を満足させるものとなったのだろう。とりあえずその交わりはグレースの満足の行くものだった。
その後、悲劇が起こる。

目覚めてみると村人の一部が殺され収穫金が奪われていた。「ギャングが戻ってきて襲って盗んだんだ」と残っていた黒人はいう。しかし目撃したわけではないらしい。
呆然としていたグレースに白人の男が近寄ってくる。かつてグレースに唾棄すべき取引を持ちかけた男だ。「解放奴隷は解放した体でパンと娯楽を与え、娯楽≒ギャンブルを通じて有り金を巻き上げてしまえばいい。そうすれば実質は奴隷と変わらない。わたしだったらうまくやれる。わたしは二割でいい。八割の儲けをあなたに渡そう」。そのとき嫌悪をしめして突っぱねた男が戻ってきて言う。「これはあなたの分だ。約束していた8割だ」。訝るグレースに男は続ける。「ティモシーとかいう黒人から巻き上げたのだよ」
ここでグレースの世界が歪む。

ある程度信頼し身体を預けた相手が、共同体の中で一目置いていた相手が、、よりによって、、


ティモシーは「誇り高い黒人」ではなかったのか?


グレースは室へ戻って前の女主人が残していた秘密のノート、黒人の等級・区分けに示されていた内容を調べる。

誇り高い黒人、おどける黒人、暴力的な黒人、臆病な黒人、、

いくつかの性格付けごとに属性され7つのグループに分類されたそれ。



ティモシーは1の「誇り高い黒人」ではなかったか?



1だと思っていた数字はよくよくみてみると7で「ずる賢い黒人」だった。


「人をこのように属性分けしそれに従って管理するなんて(政治的に正しくない)」

そのように思っていた忌まわしい書の内容の通りになったのだ。

後の会合でこの書は前の主人がつくったものではなく主人に仕えていた老黒人が作ったものとわかる。

彼らは、無理やり奴隷制度に従わされていた、のではなく、彼らのうちの数人が自らこのような管理体制を望み象徴として女主人をたてていた、のだ。女主人がそのような制度の憎しみを一手に引き受けおさめることで共同体の平衡を保っていた。

グレースはそのような女主人の代わりと勤めるように要請される。真実を知ったグレースは北へと逃れる。




今作でははっきりと「政治的ただしさ(ポリティカル・コレクトネス)」という用語が出てきてこのシリーズがそれをめぐる作品であることがわかる。
正義やPCを尊ぶ純真な乙女が現実に直面しだんだんと薄汚れていく物語。あるいはそのなかで鍛えられナニモノかになっていく、のか。

ふつーの道徳おとぎ話だったら「解放奴隷とともに手を携えることで彼らの自立をたすけましたとさ(チャンチャン♪)」で終わって良いところを皮肉で露悪な内容に仕上げている。
作品の最後の「アメリカに対して黒人たちは不平を言うがこんなにも自由を与えてるんだぜ?」(そこからEDの「young america」という脳天気な曲に合わせKKKが最初に出てくる)というのはそういった皮肉だろう。

「マンダレイ」を含め「ドッグヴィル」もトランプ当選後のアメリカに合わせてみると感慨がある。「マンダレイ」は黒人も含めた非白人層一般、「ドッグヴィル」のほうはアメリカの田舎の中・下流を想わせる。
「政治的正しさは彼らも平等にというがじっさいの彼らは怠惰で卑怯で村ごと消し炭にしてやりたいような存在だ。きみたちはその現実を見ていないからそのようなキレイゴトを言えるのではないか?現実を見、実際に体験してそれを言えるのか?」
それがこの一連の作品のじっさいの問いだろう。

そして、聖女が汚れたたきのめされつつもそれらを引き受けていけるかどうか。




posted by m_um_u at 07:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

「メランコリア」 → 「土星の徴の下に」




少しまえにトリアーの「メランコリア」をみて感想なんかをnoteしてたのだけどそのリライト的にまとめてエントリしとこう。

メランコリア [Blu-ray] -
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メランコリア (映画) - Wikipedia

コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊すのみならず上司ジャックや、他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンをなじる姉クレアだったが、仕方なく夫のジョンや息子とともに彼女との生活を続ける。だが、ジャスティンの病状が穏やかになるとともに、地球に奇妙な周回軌道をとる惑星が接近する。彼女は周りの狼狽を意に介さず惑星の到来を朗らかに出迎えるのだった。


◆ 僕を哲学的に考えさせる映画:ラース・フォン・トリアーの〈メランコリア〉 - LIFE WITHOUT "THINKING" ・・・ IS BORING!
http://mythink.hatenablog.com/entry/2016/07/24/150418



巷で言われてるほどショッキングなものでもなくむしろ耽美的で落ち着いた感じだった。まあうつ病のひと的にはリアルに感じてなまじっかのショッキングな映像よりクるものがあるのかもだけど。

この映画の感想をざっと見たところやはり裸とかセックスシーンとかに目を引かれそのことについて言及せざるを得ない人たちがちらほら見当たるのだけどアレ自体はこの作品においてはそんなにショックな事でもないのだとおもう。あるいはトリアーのほかの作品においても。

「メランコリア」においては主演のキルスティン・ダンストが惑星の明かりの元で全裸になったり、披露宴当日に特に知らない冴えない男とセックスする(新郎やパーティを放ったらかして)。
これらはそれ単独だとショッキングなことだけどキルスティン・ダンストが演じるヒロインの心境を思うとそんなにたいしたことでもない。単に裸になったりセックス(粘膜接触・体液交換)したりってだけなので。
こういった行動に及ぶ背景にはヒロインの心がそれをせざるを得ない / してちょうどよいぐらいに壊れていて、その逃げ道として裸になったりセックスしたりするのがちょうどよかったのだろう。クソみたいな披露宴をなんとか( ^ω^ )ニコニコとこなしつつ、だんだんと「世間」が自分たちの都合を押し付けてくることに(#^ω^ )しつつもやりすごしていたのに身体とか自分の心の奥のほうが拒否反応を示しだして、最終的に「初夜の契」的なもので(表面的には紳士を装いつつも)性欲を押し付けてくる新郎に嫌気がさして身体がくそくらえな反応をする。その結果としての見ず知らずの冴えない男とのセックスで、そこに心は通ってない/単なるストレス解消の体液放出なので道具を使った自慰的になる。そこには理性的な判断とか理由とかは特になさそう。放尿と同じぐらいで。

そして、彼女の鬱的な心境は惑星の衝突 ≠ セカイノオワリによって救われていく。

それが鬱になった彼女の心の中の常態であったのでとくにアタフタもない。自分の心が死ぬ≠世界も終わっている=オワレバイイノニ、ぐらいだったので。かといって喜ぶでもない。ベストな選択でもないし。

問題はこういった心境、鬱的な心境が披露宴によってつくられたのか?ということだけど、どうも披露宴以前からこういう心境がつくられていたぽい。「彼女は仕事中毒だ」の言葉と広告業界という場。父親と母親の不仲とその影響としての愛の無い家庭環境の片鱗。そのへんでなんとなく慮れるけど、物語的な合理性からこの作品を説明・理解したい人にとってはそのあたりの細かい描写があったほうが分かりやすかったのだろう。物語的合理性から理解したい人たち ≠ たとえばセックスシーンとかにとらわれるような人たち。単に鬱の心象を描きたかったぽいトリアーとかにとっては蛇足で冗長的にはなるのだろうけど。

「冗長」ということでいえばこの映画全体が冗長ともいえる。本来ならオープニングの8分ぐらいの断片的な映像のコラージュによって終わっていて然るべきともいえる作品で、それを映画的な作品に仕上げるため≠ほかのひとにもある程度わかりやすく表現するために物語的なつなぎと因果関係が必要になった、程度だったのではないか。

鬱状態だったトリアーの見た、あるいは想像しアンシンした美しい画(夢)が冒頭8分の断片であとからそこに物語をつけて説明していっただけのような…。

あとは細々としたこと。

キルスティン・ダンストの鬱になったときの表情がそれっぽかったのだけど…?とおもっていたらユリイカの特集号で「自身も鬱を患った経験から」とあった。



ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー  『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -
ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -


たぶんタルコフスキーの「惑星ソラリス」の影響とかオマージュとかあるのだろうけどタルコフスキー作品は相変わらずわかりにくくよくわかってない。まあ「ソラリス」はこの機会に見てもいいかなと思うし、自分的にはトリアーから見たほうがわかりやすい(トリアーの関連作品が補助台になってる)ともいえるのかもだけど。そういえば惑星がいよいよ衝突寸前で瀟洒なお屋敷からお庭を眺めたときに馬が草を食んでいてという場面のシュールな静謐がなんとなくタルコフスキーの作品を想わせた。


メランコリア (映画) - Wikipedia

カンヌ国際映画祭における記者会見でラース・フォン・トリアーは本作におけるドイツのロマン主義芸術からの影響を話した後、「ヒトラーに共鳴する」などと発言したために反ユダヤとされた。カンヌ映画祭事務局側は事態を重く受け止め、「好ましからぬ人物」としてトリアーを追放した。出品された「メランコリア」は審査の対象から外されなかったものの、仮に授賞してもトリアー監督は出席できなくなった



この部分についてはユリイカの特集号にインタビューについての詳細が載っていた。

(ユリイカ、ラース・フォン・トリアー回より2011年のカンヌ映画祭での「メランコリア」上映後のトリアーへのインタビュー)
― 本作はドイツロマン主義に触発されたそうですが、あなたの中に流れるドイツ人の血とゴシック芸術との関連性について説明してもらえますか。デンマーク映画協会の資料によると、本作を作るにあたりナチスの美術論についても関心が生まれたそうですが、それについて説明してください


自分はずっとユダヤ人と思っていたし、それも下層階級のユダヤ人と思っていて、それに満足していた。ユダヤ人になりたかったんだ。ところが自分はナチスだと分かり(他界した母が、ジップはドイツ人だったと遺言した)、それもまた同様にうれしかった。ヒトラーを理解できると思ったんだ。たしかに彼は残虐なことをした。地下壕に座ってヒトラーが……(ここで、隣に座っていたキルスティンが、ラースに腕を回し発言を控えるように態度で合図する。戸惑うラース)……それで、彼を理解できる気持ちになった。彼は善人とはとても言えないが、少しだけシンパシーを感じるんだ。でも第二次大戦でやったことについてではないよ。それに僕はユダヤ人に反感はないし、スサンネ・ビアに対してだって……これも同様に冗談だけれど、ユダヤ人にはシンパシーを感じている。ただしイスラエルがやっていることについては同意しないけど。どうやったら僕はこの話題から抜け出ることができるんだろうか……。

話題を転換させようとしたが、あまりにも当惑し、最後「わかった、僕はナチスだ」と自爆した。会見の会場はリラックスした雰囲気で、笑いさえ漏れた。ところが――。

翌日の朝刊、特に本国デンマークの新聞やゴシップ誌から、辛辣な批判を受けることになった。19日の朝はその話で持ち切り。そんな状況のなかでこの囲み取材は行われた。内容的にも、一件について訊きたいデンマークの記者や、キリスト教の側面について訊きたい記者が他者に発言権を渡そうとせず、どうにも焦点が定まらない取材となった。さて、ラースの発言は更に波紋を呼び、結局カンヌ映画祭側は、周囲からの圧力もあったのだろうか、彼を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからぬ人物)」として映画祭永久追放という手段に出るに至った。ただ、主演キルスティン・ダンストが主演女優賞を獲得したのがせめてもの計らいか。この事件は以後のラースに暗雲のようについてまわり、2014年現在、彼はマスコミの取材を一切受けていない状況だ。







メランコリー+ロマン主義ということでベンヤミンとかソンタグとかをトリアーも参照して影響されたりしたのかな?とちょっとぐぐったけどそういうのはないみたいだった。まあこの機会だからついでにちょっとこれ読んどいてもいいかもしれない、とこの辺を読む。

土星の徴しの下に -
土星の徴しの下に -


自身もうつ病だったベンヤミンは生まれつきうつ病傾向のひとを「土星の徴をもつもの」といった。それはガレノスの四体液説に依る。

メランコリー - Wikipedia

現代の精神医学の用法では、「メランコリーの特徴を有する」うつ病という、うつ病の細分類であり、重症のものという意味合いが強い。それとも別に、近現代の精神医学では、主にドイツや日本にて、うつ病が起こりやすい性格としての、几帳面で良心的といった特徴を持つメランコリー親和型が関心を集め、テレンバッハがその著書『メランコリー』にて提起したが、1977年の日本の報告以来、うつ病像がそういった特徴を持たないものへと変化しており、日本の現代のうつ病論へとつながっている。

医学では古くはギリシャのヒポクラテスまでさかのぼるが、メランコリーは抑うつを示す状態でも特に重症のものを指してきた。四体液説における黒胆汁質のことを指し、「黒胆汁」という体液の多い人は憂鬱な気質になるとされた。



占星術にも絡んでいて黒胆汁のひと≠土星のひと、だったか。

昔の医療ではこの理論に基づき身体の不具合は「悪い血がたまってる」と考えられ瀉血(しゃけつ)を主としていた。いわゆる血抜き。血抜きでだいたい治るとされていた。外傷以外の病は。


四体液説 - Wikipedia

ギリシャ・ローマの医学では自然治癒を重視し、悪い体液を排出し自然治癒を促すために、刃物やヒルを使って悪い体液を排出する瀉血(刺絡とも)や、下剤、浄化剤、緩下剤、誘導剤を用いた。また、体液のバランスのために、食事療法や運動、入浴も重視された。「医術について」では、すべての人に当てはまる最高のバランスがあるわけではなく、人によってその体にふさわしいバランスがあり、また健康にいいものは状況・年齢などによって変わってくると説明される。例えば、体が運動を求めている時の休息、休むべき時の運動は健康的でははなく、同じことが飲食物や薬物に関しても言われた。


そういやメランコリアでも入浴シーンがなんどか出てきたけど、まああれは四体液説というよりは単に疲れたときに風呂入ってるぐらいがちょうどよいということだったのだろう。




タイトルにもなってるエッセイ「土星の徴のもとに」を読んでちょっと「メランコリア」の感想に付け加えたくなった。「土星の徴のもとに」はベンヤミンをはじめとした鬱傾向の人、土星の徴のもとに生まれた人たちについてのエッセイ。


映画の中で姉のクレアが鬱の妹に対して「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」みたいなこといっていたけどあれはこういった先天性・器質的鬱人間が鬱モードにはいったときの離人・非コミュ感に対する一般感覚なのだろうなあというかんじ。
土星の徴をもつ人間はなんとなく内向的になりがち+非人間的なものを蒐集するし編成・分類する傾向がある。そしてそれらがしばしば「仕事」に通じるとワーカホリック的な偏執性を帯びることがあるのだけど、それはその作業に逃避することで人間的コミュニケーションから逃避できるという裏返しにも思える。

「メランコリア」だと主人公がそんな感じで、壊れるまえまでワーカホリックになっていたのはそれによってわずらわしくわかりにくい人間的コミュニケーションから逃避できたからだろう。ふだんの仕事的な付き合いだと仮面(ペルソナ)をかぶってやり過ごせば良いわけだし。その意味だと「仕事が忙しすぎて壊れた」というのも一面的な見方だったといえる。ただしそういった表面的な付き合いもある程度すすむと深いものにならざるを得ず、その究極ともいえるものが結婚であり、結婚披露宴、そしてその日での破局というのは鬱的な土星人間が頑張って耐えて築いてきたものが一気に崩れ去る最高で最悪の舞台だったといえる。「土星的人間がもっとも衝撃を感じる場面」の表象という意味で「披露宴での破局」という場面が選ばれた、のかもしれない。

土星の徴をもって生まれた人間にとっては時間感覚が単なる束縛となっていくらしい。逆に空間に可能性を見出しそこに無限の寓意性と解釈の可能性を見いだす。近代的時間は現在から未来に向かっての単線という束縛を帯びるが空間は恣意的に無限の配置の可能性・自由度を残す。そのため他人からみて緩慢とも思える反応をし他人を苛立たせる(cf.「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」、披露宴で人をまたしておきながら風呂に入ってるというシンジラレナイ行為)。

それらは現代の一般的常識人からすればシンジラレナイ行為・行動なのだろうけど知的に先鋭化した土星人間たちが真実に対して誠実になってるだけとも言える。単線の時間概念は近代のフィクションにすぎないし、三次元を超えた時間と存在の感覚からすれば空間への配置の可能性は無限にある。そして彼らは「人に対しては不誠実」と思われてもモノやコト(あるいは超自然的法則)に対しては誠実に振る舞う。

ベンヤミンは現在の自分を見つめること、そこから語ることを不得意とし自身を語るときはむしろ少年期の自身の様々な徴候を現在に至る必然として語ることを好んだ(そこから「自身」を語った)らしい。近代的単線時間というフィクションに対して、記憶もフィクションの一部なわけだから「現在から未来」について考えるよりもすくなくとも「過去から現在」について語ったほうが誠実、ということだったのかもしれない。

ベンヤミンのテキストはちょっとした読んだことないけどこういった推理からするとたぶん彼のテキストというのは因果関係、論理がバラバラに配置された脈絡のないものになっていて、それぞれの単元ごとに論理が完結してはいるけれどそれを連続して読み解こうとすると読み解きにくいものになっているのだろう。たとえば「パサージュ論」のように。
なので、それらを通読してすぐに読める・理解できるものと思うのではなく、とりあえず全部読んでおいてしばらくしてなんとなく全体がつながるのを待つのが適当なのかもしれない。まあそれで理解できるのかもしれないし理解できないのかもしれないというところなのだけど。

(学位論文にしようとした「ドイツ悲劇の根源」だったか?は学位論文にしようとしたぐらいだからまともな単線論理で書かれてることを期待するのだけど。内容的にもロマン主義と悲劇のうんたらについて書かれているようで重要なので)










posted by m_um_u at 07:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク