2016年11月30日

片渕須直、2016、「この世界の片隅に」



時間があったのでようやく見てきた。



この世界の片隅に コミック 全3巻完結セット (アクションコミックス) -
この世界の片隅に コミック 全3巻完結セット (アクションコミックス) -


[まとめ買い] この世界の片隅に (アクションコミックス) -
[まとめ買い] この世界の片隅に (アクションコミックス) -






原作は読み込んでいたし映画館でみることにそんなに意義を感じない(むしろ不快に思う)性質なので最初はどうしようかなあ時間が合ったら行こうかなあ自分的にはタスクとなるのだろうしというお参り的な行事感覚だったのだけどついったのTLほかで評判が良いのを傍目にしてると行ったほうがいいな/行きたいなが強くなっていき本日時間も合ったので行ってきた。

結論からいうと素晴らしい出来で大変満足だったし映画館で見る意義も感じた。

ストーリーとしては知っていたのでその部分では特にいまからどうこういうこともないのだけど映画版と原作では編集や解釈の仕方によって意味合いが変わっていた部分もあったので後でなんか言ったり言わなかったりするかもしれない。まあそこは枝葉なので特にいう気分でもなければ書き留めないだろうけど。

あらすじ的にWikipediaを引用しようかと思って覗いたらおもったよりネタバレしていたのでいちおやめとこう。自分的にはネタバレはそれほど気にしないのだけど、この作品の場合はかなりネタバレしないほうがよいように思う。だいたいの宣伝や紹介のところでも「あの場面」については伏せてるし。ただおおまかな流れとして、

1944年(昭和19年)、絵が得意な少女浦野すずは広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぐ。戦争で物資が不足する中、すずは不器用ながらも懸命にささやかな暮らしを守るが、軍港の呉はたびたび空襲を受けるようになり、1945年(昭和20年)6月、すずも爆風で負傷する。見舞いにきた妹のすみからお祭りの日に帰ってくるよう誘われるが、その当日8月6日、呉では閃光と轟音が響き、広島方面からあがる巨大な雲を見る。8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは、今まで信じていた日常を裏切られたくやしさで泣き崩れる。翌年1月、すずはようやく広島市内に入り、祖母の家に身を寄せていたすみと再会。両親は亡くなり、すみには原爆症の症状が出ていた。廃墟となった市内で、すずはこの世界の片隅で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。


(一部改変)



物語の全体の雰囲気は牧歌的で凡庸な日常的な風景で進んでいく。こうの史代作品に親しんでる人ならおなじみのぼんやりとほのぼのとした風景と空気感。アニメで表されたそれはホーホケキョとなりの山田くんの空気感に近いように思う。

長い道 (アクションコミックス) -
長い道 (アクションコミックス) -

ホーホケキョ となりの山田くん [DVD] -
ホーホケキョ となりの山田くん [DVD] -



作品の大部分を覆うぼんやりとした雰囲気的には佳作的な作品のように思う。まあこの日常性の表現が「あの日」「あの場面」との対比として効いてくるわけだけど。




すっ飛ばしてアニメ版ならではと感じたところについて語ろう。

冒頭からだとやはり海の風景が良かった。現在だと残されてないような「海が引けると江波から草津まで歩いていけた」という場面。広島に生まれた現代っ子はこういう光景は見ていないので知識として知ってはいてもあらためて映像として再現されているとおおっと思うものがあったし分かりやすかった。ちなみに江波から草津というのはこういう感じで


eba.jpg


東京周辺の感覚だと横浜からみなとみらいとか中華街ぐらいまでの片道2〜3km(往復4〜6km)の距離と思ってくれて良いと思う。あのへんの湾が引けてショートカットで歩いていってる感じ。

あるいは少しまえにやっていたブラタモリ広島の回なんか見てるとわかりやすい。広島はもともと川が海に当たる三角州、干潟的なところが大部分だった土地でそこを埋め立てて拡張していった。なのですずたちの住んでいた江波のあたりも海に突き出た場所になる。埋め立ててあるので周りは川で囲まれていて「海」って感じでもないけど。地図からの俯瞰的には軍艦のようにも見える。

ブラタモリ広島回の流れ的にはこのあとに再現されていた「川を舟で交通し雁木から上陸する」あたりもおおっとなる。舟から見上げる橋の大きさと影。ちなみに雁木はいまでも広島にあってふだんは川付近まで降りて眺める階段的なものとして利用してる。最近は雁木タクシー的なものがふたたび出てきて船着き場としての役割を取り戻しだしたようだけど。


原作と比較してのアニメーション作品としての特徴として、最初に気になるのは色味と音楽の雰囲気、全体の構成、構図となる。

全体の構図やキャラクターの表し方は大部分が原作通りで違和感がなかった。そこに水彩的?な色味が付されていた。となりの山田くん的な、ぼんやりとした色味。物語としてもぼんやりと平和に進んでいく。上・中・下の3巻構成の原作的には上巻、中巻まではそのように進んでいく。ほかの作品と比べた場合の見どころとしては「戦争中の広島のふつうの人々の暮らしぶりがわかる」ぐらいの。あるいはそこにこうの史代作品的な情緒・情感的なエピソードが加わっていく。直接的ではない恋慕の念とその表現とか。淡い恋心とすれ違いとか。この作品の具体的にはすずさんと幼馴染の水原さん、夫になった周作さん、夫が心を通わせていた?疑惑のりんさん辺りをめぐる関係性。このあたりはこうの史代作品だなあという感じなのだけど映画的にはだいたい割愛されていた。その分エンディングのクラウドファンディングに協力してくれた人紹介のおまけアニメーションとして再現されていたけど。あの部分は「わかっている人」「原作を愛していた人」たち向けのおまけアニメーションとして秀逸だなあとおもった。貝殻の紅から描かれるところもいかにもリンさん的なものを表すのに相応しくて。



音楽的には全体の雰囲気をコトリンゴの声が彩っていく。




劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック - コトリンゴ
劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック - コトリンゴ


コトリンゴって名前はしっていても意識して聴いたことがなかったので今回Wikipediaを見て「ああ、キリンジ系の」て変な納得をしてしまった。TVアニメ「幸腹グラフィティ」の曲も担当してたようなので今回のものにも合ったのかなあとか思う。

コトリンゴによる「悲しくてやりきれない」が主題歌として使われてるらしいと見たときに「ああ、そういう手もあるかもなあ」と思った。EDとしてあの歌を使うのはありだなあ、と。でも実際に見てみたらそれはEDとしてではなく序盤からだった。EDはこの作品用の書き下ろしぽい「たんぽぽ」となる。




EDというか、この作品の主題歌は「みぎてのうた」になるのだろう。主題歌であり原作も含めたこの作品のカーネル的な部分。原作的には最終回である「しあはせの手紙」まで含んだ内容が「みぎてのうた」の歌詞となる。


「みぎてのうた」(作詞:こうの史代・片渕須直、作曲:コトリンゴ)

元の詞「しあはせの手紙」は以下となる。

元の詞から「不幸の手紙ではありません」あたりを省いた「真冬というのになまあたたかい風が吹いている」からはじまっている。



突然失礼致します

此れは不幸の手紙ではありません

だつてほら眞冬と云ふのになまあたゝかい風が吹いてゐる
時をり海の匂ひも運んで来る

道では何かの破片がきらきら笑ふ
貴方の背を撫づる太陽のてのひら
貴方を抱く海苔の宵闇
留まつては飛び去る正義
どこにでも宿る愛
そして いつでも用意さるる貴方の居場所



ごめんなさい

いま此れを讀んだ貴方は死にます




すゞめのおしゃべりを聞きそびれ
たんぽぽの綿毛を浴びそびれ
雲間のつくる日だまりに入りそびれ
隣りに眠る人の夢の中すら知りそびれ
家の前の道すらすべては踏みそびれ乍ら

ものすごい速さで次々に記憶になってゆくきらめく日々を
貴方はどうする事も出来ないで
少しづつ 少しづつ小さくなり
だんだんに動かなくなり
歯は欠け 目はうすく 耳は遠く
なのに其れをしあはせだと微笑まれ乍ら

皆が云ふのだからさうなのかも知れない
或ひは單にヒト事だからかも知れないな
貴方などこの世界のほんの切れつ端にすぎないのだから
しかもその貴方すら
懐しい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから



どこにでも宿る愛

変はりゆくこの世界の あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛

ほらご覧 いま其れも貴方の一部になる



例へばこんな風に





今わたしに出来るのはこのくらゐだ

もう こんな時 爪を立てて 誰の背中も掻いてやれないが

時々はかうして思ひ出してお呉れ



早々




アニメにおける終戦の日の場面と同じくわかりづらい言葉は偏向されて解釈されそうなので省いたのだろう。たとえば「留まつては飛び去る正義」、「此れは不幸の手紙ではありません」→「いま此れを讀んだ貴方は死にます」。

終戦の日、原作版ではあった「この国から正義が飛び去っていく」「暴力で従えとったということか。じゃけえ、暴力には屈するということかね。それがこの国の正体かね」というセリフも現在だと右翼的に解釈されかねないので割愛したように思える。あの時代のふつうの人々、特に「お国のために」というわけでもない人々も日本の正義を信じ、あるいはそれを最後のよすがとしてすべてを奪われたことに耐えていたのだろうけど。あの場面でのすずさんの涙もそういったもの、「すべてを奪われたのなら全身全霊をかけてたたかいに臨む。この身や命などどうなってもかまわないから最後までたたかう」というつもりだったのにあんなにも簡単に戦争の終わりを告げられその思いを裏切られたということへの涙となる。

アニメではこの部分、「この国から正義が飛び去っていく」が「アメリカからのパンなんかでデキた身体で」というふうに換えられ「それでも生きていく」「人々は食べて寝て生活して生きていく(それがかつての敵国であるアメリカからの物資でも)」という風に意味合いを変えられていく。それはその後につづいく戦後のすずたちの生活や気概、日々の暮らしを笑いを交えてしぶとく送っていく様子にもつながるものだったので特に原作からの改悪とかそういうのでもないのだけど(だいいちこうのさんとよく話し合って納得の上でつくってるだろうからそういうこともないだろうが)。





原作である「しあはせの手紙」の意味合いは多義的で難しくてそこで「死にます」と不幸を暗示されている「貴方」がわかりづらい。でも、たぶんそれは読者であり日常に戻ったすずさんでもあるのだろう。戦災という不幸と対比されるすべての人々。あるいは戦災にあった人々も含めたすべての人々。

不幸せの極地と思える戦災にあった人々に比して、ふつーの生活を送る人々はしあわせといえるだろうけどそういった人々にも死は訪れる。あまねく、平等に。あるいは死に比する不幸。死に至るまでの不幸。自分だけではなく身内を含めた死や貧困、疾病その他の不幸。我々はこういった「戦争もの」と呼ばれるような作品を読んだり見たりするとそのときには悲しんだり涙を流したりするけれどそのかなしみをすぐに忘れていく。ポップコーンや甘いジュースと一緒に「泣ける映画」として飲み下す。あるいは最初から「戦争もの」として興味を持たず劇場にも足を運ばず作品も手に取らない。それはヒト事だからかもしれないけれどそういった人々にもあまねく死は訪れる。死あるいはそれに比する不幸が。

その悲しみから想像した時、われわれはようやくにして戦災で不幸にあった人々の悲しみを理解できるのではないか?「理解できる」というところまで行かないかもしれないけれど、すこしでも自分に寄せて想像できるようになるのではないか?そういった我々の暮らしは日常の些細なしあわせのうえに成り立っているのだけれどささやかなしあわせを重ねているうちに死が訪れてくる。「歯は欠け、耳はうすく、耳は遠くなって」。周りのヒトはそれを「寿命だね。大往生だね。しあわせだね」と一般化する。

たしかにそうかもしれない。大変な不幸にあった人々と比べれば。まあそういうものかなあとわたしたちも一般化しつつも一般化しきれない悲しみがある。


でも、そういったわれわれのふつーの不幸も、戦時中の人々の大変な不幸も平等に不幸は不幸なのだろう。身内の、愛するものの死や不幸に際してわれわれは平等にかなしみ、喪失を抱える。

それと同じように、しあわせも平等に訪れる。現在から見ると幸福と呼べるのか?と思えるほどのささやかなことも、彼らと我らの生活のなかでしあわせの糧となっていく。


(晴れた日の縁側ですずめの声を聞きながらのおしゃべりや、たんぽぽの綿毛の舞う春の陽の午後のうららかさや、初秋の雲間のひだまりのぬくもりや、初冬の朝に寝坊した隣の人の横顔や…)

それらはこの世界の片隅に咲いたかけがえのないしあわせのカケラで、そういったものの積み重ねでわれわれの愛とぬくもりがつながれていく。

元の詞や「みぎてのうた」の歌詞ではそれらのささやかなしあわせは味わいそびれるものとされているけれど、それはそういったものが体験しそびれても良いほどのささいなものなのか?という反語的な表現なのだろう。同時に「貴方などこの世界のほんの切れっ端」も「いいや、そうではない」「いや、それでもね」という反語を呼び込む。

漫画的にはこの詞「貴方などこの世界のほんの切れっ端」という部分は戦災孤児がさまよっている場面に当てられ直接にはこの子が「世界のほんの切れっ端」ように表される。この子が拾い集めていた残飯の切れっ端のように。空腹と疲労と睡眠不足のなかでこの子がこの子であった記憶や過去や思考も切れ切れとなりもはや自分を保てるギリギリとなっている。そのような限界の情況のなかで「懐かしい切れ切れの誰か」の面影をこの子は発見する。おかあさんと同じ右手に。

「しあはせの手紙」ではこのあとには右手の言葉は途絶え漫画的な描写のみで展開されていく。すずと周作が広島に所帯をもつかどうかを相談している場面。そこにいつの間にか孤児がくっついてきて二人はこの子を連れ帰ることを自然と決める。「あんた、よう生きとってくれんさったね」と。

「みぎてのうた」的にはここを「だから、いつでも用意さるる貴方の場所」というあたらしい詞で受けて以下を順接につなげていく。

「わたし(あなた)という存在はそれぞれの人の切れ端の記憶、過去で構成されているものなの『だから』同じようにあたらしくそれぞれの人の記憶や過去から再構成されていくはずだ」という風に。つまり血のつながりにこだわらず愛とぬくもりをもってあたらしく家族を作れることを暗示していく。

漫画の場面では失った子供の代わりにあたらしい子を引き取ることへの罪悪感のようなものもすこしあったかもしれない。「どこにでも宿る愛」「あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛」という右手の言葉がこの子を引き受ける場面に重ねられその慈善?を自己批判的に見つめる。あるいは、それはそんなに素晴らしい慈善活動とかいうわけでもなく人間の営みとしてふつーのことなんだよ?、というぐらいにフラットにしていく。


「貴方は死にます」といった右手の言葉は直接にすずさんにも向けられていて、それは「わたしなんかが生き残らなければよかったのに」(わたしが代わりに死ねばよかったのに)という思いを残したものだといえるだろう。右手はすずさんの想像力と同時にもうひとりのすずさん、明るく朗らかほのぼのしたすずさんとは別の現実的でシビアなすずさんの内面を表す。あるいは修羅としてのすずさん。無声慟哭を通じて開かれた修羅への扉。戦後、生きることを決めたすずさんの中にも未だ修羅の影やことばは残っていたのだろう。

その思いをあらたな愛が覆っていく。

道すがら偶然に知り合った戦災孤児を引き取ることを通じて、すずさんのその思いは覆われていく。すずさんだけではなくおそらくは家族の中にもあったその思いは。それらは消えることはないのだろうけどあたらしいぬくもり、色に覆われることでとりあえずはやりすごせる。

それらが最後の場面、呉の「わしらの家」にたどり着いて見上げた山と街の灯の場面に表されていた。そこに宿る街の灯は人のぬくもり ≒ 愛の象徴となる。



そういった生活を彩るのはすずめのおしゃべりやたんぽぽの歌となる。


「たんぽぽ」(作詞:コトリンゴ、作曲:コトリンゴ)


鷺(鳥)は水原さんを、たんぽぽの綿毛ははるみちゃんを想わせる。




いまあらためて原作を見返すと最後に見上げた呉の山と町並みの様子はゴッホの絵「星月夜」(starry night)にも似ている。元の詞の「例へばこんな風に」の後には右手によって描かれた星月夜風の呉の山並みが広がる。その後の言葉は孤児を家に連れて行った場面に重なっていく。

ゴッホの絵に似てるというのは映画の各場面を見ていても思ったことだったのだけど、おそらく原作のこの最後の場面から想像力を膨らませ演出されたのだろう。加えていうと「あの場面」は現代アート的にあの場面の心象を表していて共感できた。ゲルニカではなくアルヴィン・ペンクとキースヘリングの中間的な、傷ついた子供や身体障害者の心理をあらわしたような。というか、全体的に水彩とゴッホな感じで、そういった意味でこの作品はアート的にも見ていて気持ちのよいものに仕上がってるように思う。


現代アート的といえば「戦争中の暮らしの記録」の冒頭でもそんなことが書いてあった。


戦争中の暮しの記録―保存版 -
戦争中の暮しの記録―保存版 -


空から降ってくる大量の焼夷弾の白黒写真をして「(不謹慎だが)まるでアート作品のように見える」みたいなの。そういうのはこの映画のほかの場面でもあったように思う。「不謹慎だが○○だね」とか「空から爆撃されてるこんなときだけどわれわれの日頃の工場仕事の技術研究の成果がここに、、」みたいなの。ほんとの戦争中の暮らしというのはそういうもので現在から見てみょーにヘイワヘイワしたりセンソーセンソーしてた?と解釈するのの中間ぐらいにあったのだろう。




空から爆撃といえば戦闘シーンなんかは映画ならではの臨場感があった。ウーファーがビリビリ来てたりほかの構図にくらべてここはみょーに臨場感のある構図になってたり。そういった意味でも映画館で見る意義はあるのだろう。




あとは方言的なところのふつーさがよかった。広島のふつーの人の話す広島弁の感じ。すずさんなんかは一人称を「ウチ」というようなおとなしい、ぼんやりとした広島の女の子の様子がよく出ていた。ほかはふつーの広島の人な感じ。あとお義姉さんの方言の様子がよくでていたように思った。すずさんのほのぼのとした広島弁の女の子と対照的に、田舎の陰険なコミュニティの雰囲気を代表するような方言の感じ。稲葉菜月さんというかたが演じられたのだな。











こうの史代先生『この世界の片隅に』インタビュー  ネタバレ御免! 読者を震撼させた連載第33回「20年6月」の創作秘話に迫る!http://konomanga.jp/interview/32698-2














posted by m_um_u at 07:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク