2016年02月10日

吉田秋生、「海街diary」







痛々しくも惨めな柳の木の下にいる


恋する人よ、もう仏頂面はよしなさい
思いの後には行いが直ちに続くはずなのだから。


思い悩むのは何の役に立つ?

君の唯一無二の、君を意気消沈させる場所が
結局君を冷たくしてしまうのなら
立ち上がって
君の寂寥の地図をたたみなさい。



陰鬱な塔から
野を越えて届く鐘の音は
愛が必要としない
この近辺に広がる愛のない夕闇のために鳴らされているのだ。

生きとし生けるものは愛することができるのに
なぜぐずぐずと手をこまねいて
敗北に屈しているのか?
立ち向かえ、そうすれば君が勝者になるのだ。


頭上を飛ぶ雁の群れは
行くべき方角を知っている、
足下の凍った小川も
目標の海へと流れていく。


暗く鈍重なのは君の苦悩なのだから、
さあ、一歩を踏み出し、
無気力を後に行きなさい


君の思いを叶えに。































先日「海街diary」の6巻セットを購入して、それから折を見てちんたら読んでいた。一気に読まなかったのは「拙速にこの作品を消化するのは作品やこの作品を愛した人たちに失礼」というのもあるのだけどたんに「ちんたらした話でたるいな」というのもあった。正直なところ。それが4巻以降はドライブがかかって一気に読めた。4巻を読んだタイミングでちょうど余暇時間が余ってたからというのもあったのだろうけど。「4巻がそれまでの巻と違うところがあるのかな?」と読みなおしてみたらなんとなく納得した。まあなので自分のこの作品に対する批評というか感想はそれが中心となる。


そのまえにいちお振り返ると、この作品については自分は知らなくて是枝監督の映画から知った。なのでこのマンガ作品に対する感想というか、これを原作とした是枝作品への印象や感想が主となっていた。そういう意味でこの作品に対しては偏向があった。


是枝裕和、2015、「海街diary」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421781424.html


この映画は是枝監督のそれまでの作品の文脈と吉田秋生の同作の文脈でうまく重なる部分、表したい部分をフィーチャーしたものといえる。その意味で、この映像作品のテーマの軸は「家族」「死」「生」となっていた。その結節点としてもっとも中心的な存在になるのが4女すずの物語であり、その意味で映画「海街diary」ではすずが作品の主人公となりすずを中心とした物語が語られていた。すずの喪失、不在、死と生への閉塞、家族、再生、光…。

マンガ「海街diary」も基本的にはすずを中心とした物語になっているように印象される。家族を失ったすずがあたらしい家族とともに鎌倉の生活に馴染み、多感な中学生の時期を仲間とともに成長していく物語。その成長のきっかけとなるような日々の出来事を日記的な視点で追っていく。日々の出来事自体はなんでもないようなことで、なのでこの作品にはちんたらした印象がついてくる。「これはなんだか、段々と鎌倉の身辺雑記みたいになりつつあるのではないか?」というのはまさにそうで、なので「diary」というタイトルになってる。ただ、ちんたらした日誌的な語りの中で登場人物に気づきを与えるような会話がなされる場面があり、そこに鎌倉の情景が付いてくる。姉と登った「陽のあたる坂道」であったり、ふだんは気づかない「真昼の月」であったり。その気付きを元に若いすずは成長していき、ある程度大人になった姉たちも変化を促されていく。それらの気付きがちんたらとやってくる。ちんたらとした描写をなぜ続けているか?といえばそれがわれわれの日常のリアルな時間や出来事、思考の流れだからだろう。われわれはふだん、そんなに考えるようなこともなく日々をルーティンに過ごしているのだけれど、ふとした場面で立ち止まり、自分なりに考えることでなにかに気づいたり情感を留めたりする。それらが逗まり合わさって「私」を構成していく。そういった場面やそれにまつわる内省的な声は往々にして世間の喧騒に流されていきがちだけれど、そのかそけき声を拾うのが文学的なものの役割であり、あるいは詩なのだろう。マンガ「海街diary」が表す情景はそういった意味で詩性をもつ。詩の言葉として直接に表されていないけれど、物語の核となるような場面の情景に言語化されていない詩の歌が聞こえる。

この作品を読みつつそんなことを想っていたのだけれど、6巻に部分的に引用されていたオーデンの詩の全容を見てそれが確信に変わった。冒頭の詩はオーデンのもの。


海街diary(うみまちダイアリー)6 四月になれば彼女は (フラワーコミックス) -
海街diary(うみまちダイアリー)6 四月になれば彼女は (フラワーコミックス) -


ページ上までスクロールするのもめんどくさいかもだから冗長ながらもう一度引用。エピグラフでもないので読みやすさ重視で斜体にするのはやめとく。




痛々しくも惨めな柳の木の下にいる
恋する人よ、もう仏頂面はよしなさい
思いの後には行いが直ちに続くはずなのだから。


思い悩むのは何の役に立つ?

君の唯一無二の、君を意気消沈させる場所が
結局君を冷たくしてしまうのなら
立ち上がって
君の寂寥の地図をたたみなさい。



陰鬱な塔から
野を越えて届く鐘の音は
愛が必要としない
この近辺に広がる愛のない夕闇のために鳴らされているのだ。

生きとし生けるものは愛することができるのに
なぜぐずぐずと手をこまねいて
敗北に屈しているのか?
立ち向かえ、そうすれば君が勝者になるのだ。


頭上を飛ぶ雁の群れは
行くべき方角を知っている、
足下の凍った小川も
目標の海へと流れていく。


暗く鈍重なのは君の苦悩なのだから、
さあ、一歩を踏み出し、
無気力を後に行きなさい
君の思いを叶えに。






あまり解説するのも野暮かなと思うのだけど、この詩は、この詩が出てきたお話「地図にない場所」だけに当てはまる詩、ではなく、「海街diary」という作品全体を表す詩なのだと想った。


上述したように「海街diary」という作品は主人公をすずとして見た時、その回復と成長譚として印象していたのだけど、主人公すずだけではなくすずの姉やすずの周りの人たちの物語やその変化も丁寧に描かれている。


動き出した物語 波乱の予感  海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) Amazon.co.jp

いろいろなお話が交錯しますが「海街diary」は大まかに分けると3つのテーマが並行している作品だと思います。

1、 四姉妹の絆
2、 すずを中心とするオクトパスのメンバーの成長
3、 姉たちの恋愛の進展

それぞれのテーマの骨格をなす話が、

1)「蝉時雨のやむ頃」第1巻第1話
2) 「二階堂の鬼」第1巻第3話
3) 「誰かと見上げる花火」第3巻第2話

以前からそうではないかと思っていましたが第6巻でそれぞれが回想シーンとして使われていたので確信しました。もう一話補足的に挙げるとしたら第4巻第2話の「ヒマラヤの鶴」でしょうか。1が物語全体を支える縦糸、2と3が横糸で両者を組み合わせることで着物の美しい絵柄が描かれるような構成です。

本作品が描かれている舞台の空気を実感したくて鎌倉を訪れ、鎌倉が鎌倉であると感じさせる隠し味三つに気付きました。江ノ電、トンビ、サーファーの存在です。何気にこの街に溶け込んでいますがほかの街では見当たりません。本作品を読み返してみると、どれも作中にきちんと描き込まれているのです。そして本巻の最後に描かれている場所、あそこも鎌倉に実在する場所ですね。まさに「海街diary」は鎌倉以外を舞台にしては成り立たない作品、流石に作者はこの街をよく理解していると思いました、幼い頃育った街ですものね。



サブキャラにいたるまで人物の背景設定が深くなされていて、誰を主人公にしてもちゃんとひとつの短編が出来上がるのではないかと思いました。本巻のサブタイトルになっている第3話では山猫亭のマスターや坂下課長にここまで深い過去や背景があったとは、これで完結した一話が描けるではないかと唸ってしまいました。しかもそれぞれが同じお題(タイトル)で括られていて不自然さが全くない。いやはや恐れ入るばかりです。作中人物それぞれに意味があるタイトルというマルチミーニングはこの作品を通して使われる手法ですが、ここまで洗練された描き手というのは作者以外にはちょっと見当たりません。





この作品はなにかを失い諦めたものがしばらくは失意に沈み凹んでいるもののやがて新しいなにかに気づき、それを受け入れることで変化あるいは成長をしていくそのために必要な時間とそのきっかけになるような場面を描いたものといえる。

自分が4巻以降特に読む速度が上がったのはそういうところも関係していたのかなとおもった。それまではすずの成長譚と情景日誌だったものが4巻を境にサブキャラも含めた物語としての意味合いをより強くしていく。すずの物語が主旋律であることには変わりないのだけれど、サブキャラたちの物語の色合いが濃くなっていく。あるいは、縦糸であるすずの物語への横糸の太さや色味が変わっていく。そういった意味で4巻のアフロ店長の話「ヒマラヤの鶴」が変奏のポイントとなったのだろうし、それにつづく「群青」は喫茶店のマスターの過去も予感させた。その過去と人生の重みに見合うだけの質量を持っているからマスターは坂下に共鳴し、互いに語らずとも語っていたところがあったのだろう。

縦糸横糸、いくつかの物語がからみ合って輻輳している、ということでいうとこの作品は「ラヴァーズ・キス」とのつながりもあるらしい。



ラヴァーズ・キス (小学館文庫) -
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『海街diary』 〜 吉田秋生のマンガと是枝裕和監督の映画: 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌
http://winterdream.seesaa.net/article/420964815.html

吉田秋生が二十年も前に書いたマンガで、確かに素晴らしく完成された傑作だった。
高校三年生の里伽子は、嫌いなタイプだった素行不良の朋章に次第に惹かれていく。真剣な恋をするようになる二人だが、朋章は高校を中退して小笠原の島へ旅立つ。
これが基本プロットで、同じ話をあと二回繰り返すマンガだ。繰り返すと言っても視点は別のところから。後輩男子生徒二人からと里伽子の妹と親友からのふたつの視点。すると、同じ話がまったく違った物語になり、同時に登場人物たちが多面的に彫り込まれて見えてくる。朋章と里伽子が別れる駅のシーンは、鷺沢と緒方が見送るシーンでもあり、完成されたと言ったのは、『藪の中』を思わせるようなマンガ作りのスタイルのこと。
舞台は、北鎌倉高校。朋章のアルバイト先は稲村ヶ崎にあるサーフショップ。──『ラヴァーズ・キス』は鎌倉を舞台にしたマンガなのであった。

それから十年ほどの時間をおいて『海街diary』の連載が始まった。不定期に書かれていて、まだ連載は続いている。その冒頭から出てくるのが、なんと朋章。サーフショップでバイトし、やがて小笠原に行ってしまう。朋章だけではない。里伽子の親友の弟。その実家である尾崎酒店。緒方の弟と母親。朋章のおば。そして、舞台は同じく、鎌倉の海と街。
『ラヴァーズ・キス』は、同じマンガの中のプロットの繰り返し。『海街diary』は、『ラヴァーズ・キス』の基本設計を別のマンガにした変奏曲。鎌倉を舞台に同じ時間軸で地元の人たちが錯綜して登場する、また別の作品。
吉田秋生おそるべし、である。



動き出した物語 波乱の予感  海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) Amazon.co.jp

作画上のテクニックにも感心させられるものがあります。ここぞという場面では敢えて大胆にコマの枠をはずして重ね合わせることでストーリーの盛り上がりに効果的なインパクトを与えています。また、コマとコマを作中人物のセリフでつなぐようにして読者を次のコマに誘導していく描き方など作者独特でなかなか他では見られない手法だと思います。場面の切替えのタイミングの絶妙さ、キャラの使い方もすごい、ここでこの人出してくるか〜だけどこれは既話のデジャヴなんだと今回は完全に脱帽です。複数の人物の視点で多面的にお話を進めるのもこの作品ならでは、そして時としてその視点や思いを交錯させたりシンクロさせたりする絶妙さ。第1話の風太のタンカにグッときました、すごいなと感じたのは第4話ですずが雨に打たれる場面、彼女の頬を伝っていたのは雨粒だけではなかったはず、そんな彼女を見つめる風太、すべてを絵だけで語らせる作画の繊細さに唸ってしまいました。伏線の張り方も絶妙、既話のあのエピソードがここに繋がってくるのかとその手際の鮮やかさは脱帽もの、手練れの作者ならではのなせる技です。








「ラヴァーズ・キス」との関連でいうと4巻までチンタラな感じがしたのも「朋章(ラヴァーズ・キス)の余韻が未だそこにあったから」ともいえるかもしれない。少なくとも1、2巻まではそれがあって、2巻、3巻ぐらいで空白・喪失し次の物語に続く。よっちゃんの視線とおなじになる。それでこのものがたりがよっちゃんの場面から始まるのも納得される。

自分は未だ7巻読んでないけど7巻では存在感を出してきた坂下課長と喫茶店マスターの過去の話が展開されてるようで楽しみ。


海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) -
海街diary 7 あの日の青空 (flowers コミックス) -




この機会にオーデンの詩も読もう。























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田村隆一「命令形」について:命令と祈り: 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌
http://winterdream.seesaa.net/article/411270277.html



吉田秋生『海街diary』、6巻までの感想 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は
http://nijuusannmiri.hatenablog.com/entry/2015/06/28/231217



posted by m_um_u at 08:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2016年02月03日

花男







王の死も

乞食の死も

まったく変りがない



どこかの詩人が歌ったが

そんなことがあるものか


問題は

死と死の間のつかのまの

生の在り方じゃないか

その生の大きさで

死の大きさも変ってくる











この地上で

人間だけが奴隷になるとは

どう考えたって不公平だ

支配者も被支配者もひとしなみ奴隷じゃないか

それで

王様がだんだんいなくなった



世界で生きのこってる王様の数をかぞえてごらん



























野球に興味がなくなって久しい。特に球場に通ったこともなく、もっぱらテレビで見る程度だったけど。最後に熱心に見た記憶は高校の頃の休み時間か何かにみた日本シリーズの興奮だっただろうか。いま振り返るとなぜ自分がそういうものに興奮していたのかわからないのだけど。現在は1年に一回野球中継を見るかどうかぐらい。それも最後まで見るということもない。


そのぐらいの関心なので今回の件もそれほど関心もなく、ワイドショー程度の関心なのだけど


清原和博さんと「男らしさ」という呪縛 - いつか電池がきれるまで
http://fujipon.hatenablog.com/entry/2016/02/03/124342



清原和博の引退 - 関内関外日記
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20081002


ついったでつぶやいたのをそのまま貼るとこの件に関する自分的な関心としては、清原が「使えな」くなっていった原因として故障があるとして、その原因となった対戦はどこだったか?とか、そこからのリハビリとかもっかいおっかけつつ、最近だとコーチとか監督とかの道もあったはずだけどなぜそっちの道がうまいこといかなかった?あるいは、当人がその選択をしなかったか?な背景とか経緯とかが知りたいぐらいかなあ。あとは野球とヤクザ関連?かなんかのドラッグとかつながりとか。まあそもそもあまり興味が無いわりにTLほかで公共的な話題になってるので、ふつーに事実関係をまともにつたえるものを見て、「はあ、そうですか」で済ませたいぐらい。それでも事情をあまり知らない人が一言居士的にてけとーなこと言ってるのを見るとカチンと来たようなのでそれなりに感情移入してるんのかな?自分、とはおもった。


事情を知らない人にあまり言ってもあれだろうけど、人気商売というプロ意識が欠如してる、ということではなくて、もともと清原はゲーノー人とかやる気もなくバット一本で食ってくつもりだったけどそれも故障で壊れたし、なによりメンタルがもともと強くなかった。素質に頼ってるだけで鍛錬、修練を怠り、なんらかの方法を確立してパフォーマンスを確立させるというところを怠った。彼が現役で、とくに西武時代の黄金期はその突出した能力で自信が支えられていたのだろうけど、その季節を過ぎた時、それまでの派手な生活と生き方をさせるものがなかった、のに対してそれまで築いてきた虚栄は続けていかざるをえない弱さがあった。そこにゲーノー界や麻布・六本木界隈のあのへんが入っていった。そういった印象。


そこでちょっと同情的になってる面もあったのだけど上記リンク先のエントリとかをみて「やっぱじっさい身近にいると鬱陶しいだろうなあ」と思いつつ。



そういう事情があるにせよ、TLほかでネタにしてたのしんでヤイヤイゆってる賑やかしとかはどうでもよいゴミみたいなもので、同時代に野球とか清原とかを楽しんで期待してた人たちの思い出とか思い入れのほうがみたいとおもった。家族に連れて行かれた球場の思い出とか。


ぼくらは清原のことを特別に好きではなかったけれど、そのときの楽しかった思い出にケチをツケられた気がしてカチンとくるのだろう。





清原が「使えな」くなった理由として。当該ウィキペディアを見ていたら故障自体は巨人軍に入団してからしばらくのことだったということでなんか意外だった。


西武で故障してつかえなくなって持て余されていたのを巨人が拾った、ぐらいの印象だったので。そこから故障を支えるために肉体改造してある程度の実績を残していった、と。しかし最後までこの故障がたたっていたのだろう。


清原に対して、才能・素質だけでたいした努力もしなかったので開花しなかった、というのは野村克也のこの言の影響もあるのかな?自分、とか。





「きちんとした指導者が居なかったから清原の才能がだめになった」「森が悪い」とのことだけど、ウィキペディアを見ていたらそのへんもびみょーだった。


森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に、「清原は年々、野球への考えがどんどん進歩してきている」と述べている。清原を一年目から一軍レギュラーで使うことにはコーチ陣や野球評論家でもかなり異論があり、当時評論家だった野村克也は「清原は一年目は一軍では使えない」というほどだった。しかし森はそれらの異論をはねつけてあえて清原を使いつづけ成功した。当時西武の一軍打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶の激しい人だった」と述べている




まあでも、犯人探しは別としてきちんとした方法の模索、確立ができなかったのだろう。最後まで。メンタルが弱い、自律できないのなら優れた指導者がいればよかったのだろうけど、才能が突出し過ぎるとその辺も難しいというのはあるのだろう。



アスリートとして見た場合、彼の特徴や才能というのはどのへんだったのだろうとyoutubeの動画をしばらく探るに



打たせるための練習球とはいえすごく軽く、当然のようにホームランに持っていってる様子にベンチのスター選手たちも唖然としている。この様子を見ると彼のバッティングは筋肉というよりはバネだったのかなあ、とか。まあ練習のゆるゆる球への対応なので特にそういうバッティングになっていたというのもあるのだろうけど。松井秀喜のそれがマイク・タイソンのピーカブーを想わせるのに対して、この頃の清原のソレはもっとバネっぽかった。

打撃の特徴の説明を見ていると「内角のボールを苦手としていた」とのことで「( ^ω^)相手ピッチャーが変化球を使うだけで怒っていたみたいな話がまとめにも載ってるけど・・・それじゃストレート勝負とか要請してもびみょーじゃん。。」な気分に。まあその後に練習でこの苦手は克服したとはあったけど。ストレート勝負の場合、内角高め(インハイ)が力の勝負のポイントのはずで、ピッチャーにとってはボールの下を振らせることが力でねじ伏せたことの証になるとかマンガ知識。対して、外角低め(アウトロー)はそこから最も遠いポイントなため内角高めを活かすための対角線となる。この2つを有効利用することをしてクロスファイアとかなんとか。ボール球でもいいのでインハイでのけぞらせておいてアウトローで穫る。



その辺の技術論とか見どころみたいなのを含めた江夏の21球的な清原の伝説の打席解説みたいなのも見たい。自分じゃ書けないけど。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫) -
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NHK特集 江夏の21球 [DVD] -
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敗れざる者たち (文春文庫) -
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この件に関して見たいものつながりでいうと松本大洋「花男」的な妄想もある。


花男 第1集 (ビッグコミックス) -
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花男(1) (ビッグコミックス) -
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[まとめ買い] 花男 -
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巨人軍を夢見て三十路を超えた男の時代遅れの野球ロマン話。「たかが球コロ遊びに大の男が人生かけるなんてよ」「だからこそ、だからこそなんだよ花男」みたいなセリフがあったんだかなかったんだか。フォームもスタイルもデタラメで、セオリーから外れまくりの主人公がここぞというときには決める「記録ではなく記憶に残る」物語。エースであること、あるいは勝つことや成績が宿命付けられたなかで、大衆の欲望と羨望、期待の重圧にただ「花がいい」といって散っていく男の話。


ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special) -
ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special) -

ZERO 下    BIG SPIRITS COMICS SPECIAL -
ZERO 下  BIG SPIRITS COMICS SPECIAL -


すでに神も王も死んだ時代。それでも大衆の未開社会的心性は英雄や王を望み、英雄や偽王、道化は死なねばならない。


王殺し、偽王(モック・キング)の戴冠と死 | Kousyoublog
http://kousyou.cc/archives/3862



彼らのために、ワイドショーやついったーで盛大に血祭りに上げられるのが現代の象徴的な王殺しの祭典なのだろう。あるいは魔女狩りであり人身供犠。




それでも



そこに最後に花が咲く



王の死んだ地に花が咲いて、新たな生命、豊穣が約束される。




そんなことを想ったとき、「ピンポン」におけるスマイルの着地点は才能なきもの、あるいは敗れた者たちの終着として当然だったのだなあと想った。



ピンポン 文庫版 コミック 全3巻完結セット (小学館文庫) -
ピンポン 文庫版 コミック 全3巻完結セット (小学館文庫) - ピンポン (1) (Big spirits comics special) -
ピンポン (1) (Big spirits comics special) -

ピンポン(5) (ビッグコミックス) -
ピンポン(5) (ビッグコミックス) -



あるいはそれこそが「敗れざる者たち」の物語として。そしてスマイルはどちらかというと桑田で清原は孔文革っぽい。ライバル関係としてはペコだろうけど。素質とかスタイルとか性格とかで。








男気そのものはよくわかない幻想でありつつも、その元としての仁侠や筋道がきちんと通っていれば誰にも迷惑をかけない、あるいは周りの人に叶うものだったのだろうけど。そこにつきまとう虚栄と幻想を最後まで振りきれなかった男の弱さのようなものに、あるいはありえたかもしれない大リーガーや子供野球のコーチとしての終着に。捧げられるのは涙か花か、あるいは酒なのか。
























posted by m_um_u at 20:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク