2016年01月30日

「カイエ・ソバージュ4」 / 「イカの哲学」





神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ) -
神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ) -


イカの哲学 (集英社新書 0430) -
イカの哲学 (集英社新書 0430) -




読んだので頭の整理も兼ねて感想とかメモ的なもの。



イカの哲学のほうはカイエ・ソバージュからのスピンアウトぽく、カイエ・ソバージュのほうは中沢のそれまでの代表的な三部作(「チベットのモーツァルト」「森のバロック」「精霊の王」)を中心とした内容を大学講義用に平易に口語で語ったという感じなので中沢読者的には既出であるし、新規の中沢読者としてもうちょっと濃く・詳しくみたいのであれば三部作を読めばよいのかな、と。

全体としてはそういう印象だったのだけど、中沢の読んでないものを平易に見渡せる、というところでは便利でおもしろかった。


そのぐらいで終わっても良いのだけどせっかくなので今回読んだところのブックマーク的なメモ感想。ちょっとわかりにくかったところもあったのでエントリにかこつけて読みなおしてみた。対称性の自発的破れのところだけど。



カイエ・ソバージュ(野生のメモ ≒ 思考)の今回の主題は「神の発明」。てか一神教的な神の発明について。多神教―アニミズム的な神のほうが先だったのだろうけど、そこからなぜ、どういった経緯で排他的な一神教な神が「発明」されていったか、ということ。


結論から言えばカイエ・ソバージュのここまでの思考に則って「国家ができたので」というところと関連するように中沢は思っている。


多神教的、狩猟社会的、あるいは、国家や所有・定住を旨としない太平洋ベルトのモンゴロイド的な人々は「すべてのものに神が宿り、人もその一部」的な世界観にあった。アイヌとかでイメージすると分かりやすい。そこでは財産を所有しない、国を持たない、戦争において相手を徹底的に虐殺しない。戦争や戦いは相手はコミュニケーションの対等な相手であり、戦いはコミュニケーションのための手段となる。そのためアイヌの狩り、あるいはクマに関する儀礼ではただ「狩る」のではなく、戦いなどを通じて相手を敬い、尊重し、最終的に命をもらう。相手はこの世の仮の姿を渡し、あちらに還っていく。


こういう世界観は「海獣の子供」でもおなじみだったりする(「おまえの槍を受け取ろう」とクジラが自ら漁師の銛を食らう)。



海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -
海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -


あるいは、狩りにおいては「相手と自分は対等」というところでもうちょっと現実的なものとしてはこちらか


ゴールデンカムイ コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス) -
ゴールデンカムイ コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス) -

アイヌの主に食生活に関わる風習とか。





では、そういった神観 - 世界観からなぜ排他的な一神教が生まれたか?



中沢はそれを物理学における対称性の破れの比喩からそれと同じことが起こったのだと説明する。すなわち球形のような対称性の高い構造体が外部からなんらかの圧力を加えられて崩壊 → 座屈するとき、それまでの対称性の均衡は破れ、外部に全体から偏った点ができる。それが多神と唯一神(あるいは高神)との関係となっていく。


このときどのような圧力が加わったのか?ということについて中沢は多くを語らないのだけど、それまでの語りからだと「人の知性において比喩(直喩や換喩)が生まれていったから」というところと関係してるぽい。すなわち対象を具象的に直接にだけで理解するのではなく、言語を介して一度抽象化して理解した後に、その抽象化に用いた記号のみをもって抽象的思考をふくらませていく、というあれ。この部分で人類が自らの理知をhackしていったため所有や戦争なんかも抽象的な計算として対象化され処理されていったのだろう。それがなぜ可能になったか?具体的にどういった経緯やメルクマールをもって可能になっていったか?ということについてはわからないけど。



今巻の主題としての「神の発明」についてはだいたいこんな感じ。


「イカの哲学」もそれに準ずる話で、「人類はもともと多神教―アニミズム的な世界観で、他者の存在を肌で感じるようにして戦うにしても相手をある程度敬い殺し尽くさないはずだったのになぜ核戦争のような絶滅戦争をするようになったか?」「敵を一網打尽にする戦争はイカに投網を仕掛けて一網打尽とするのにも似ている」「そういった点ではイカのほうがむしろ世界の本源的な感覚に通じているのではないか?」「例えば集合的無意識といわれるような、世界のエロス的なあり方に」、という感じ。


そういうあり方、アイヌとかそういう人々と似たあり方があれば、近代戦争のような「殺し尽くす」戦争にはならないのではないか?というのが本書の主題となるのだけど。たぶんこのへんはちょっとロマン入り過ぎなように思う。核戦争とか第二次大戦的な機械化された戦争以前にも殺し尽くすような戦争はしてたし。モンゴル帝国とかスキタイとか。彼らは農耕定住民でもなかったはずだし。


まあそのへんで中沢的な「平和」に対する考えは疑問視され保留されるわけだけど。



それとは別に本書でもう一つ目を引いたのは「瞑想(メディエーション)をきちんとやれば脳内に光が見えて変な図形とか見え始めるよ」話だった。こういうのはドラッグとか使ってやるものかと思ってたけどメディエーションをきちんとやるとできるらしい。そして、たぶんインドだと結構な人がやってるぽい。。


このへん、自分的にまだまだだなあとかおもった。







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2016年01月22日

『放浪の画家ピロスマニ』を見てきたよ






小さな家とキャンバス 
他にはなにもない

貧しい絵描きが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい


ある日街中の バラを買いました


百万本のバラの花を 
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラで うめつくして・・・・・
















夕暮れが隅々に立ち寄りながら訪れる頃
想い出の幻が私の目の前を通り過ぎて行く


青い鷲、白い水牛、金色の魚よ



それなくて何の地上の命
それなくて何の地上の命



















ついったであまやどりが「これ日本にいたら見に行くのになあ。。いつか見れるのだろうか」といっていたので代わりに見に行ってきた。



『放浪の画家ピロスマニ』 - 上映 | UPLINK
http://www.uplink.co.jp/movie/2015/42112




代わりにっていうか、なんとなく興味を持ったので。あと久々に都心に行きたり映画見たりしたかったし。水曜日はuplink映画1100円の日だし。



結果的に、というか半ば予想してたけど映画はそんなにおもしろいものではなかった。

この映画の価値の主な部分はニコ・ピロスマニというマイナーな作家の作品と生涯をドキュメンタリーしたもので、作品のドラマトゥルギー的な部分はなかった。あるいは意図してそういうのは省かれたのだろうか。

構成としては「作家の生涯を語る」+「それぞれの時期の代表的な絵を見せる」といった感じ。

それが当時のグルジアののっぺりとした、あるいはまだ十分に都市化の進んでいない環境の空気感にあって素朴に現前される。

のっぺりと、遠近法的な透視図とは別の時間軸やリアリティを感じさせるそういった作風。



ストーリーとしては作家の伝記的なものでネタバレということもないのでuplinkの解説をそのまま借りよう。


映画『放浪の画家ピロスマニ』は、グルジア(ジョージア)の独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(1862-1918)の半生を描いた作品である。近年、ピロスマニは貧しい絵描きと女優の哀しい恋を歌った「百万本のバラ」のモデルとしても知られている。名匠ギオルギ・シェンゲラヤ監督は、名も知れず清冽に生きたピロスマニの魂を、憧れにも似た情熱で描くとともに、グルジアの風土や民族の心を見事に映像化した。


ピロスマニの本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、カフカス(コーカサス)山脈の南にある国グルジアで、パンや酒とひきかえに店に飾る絵や看板を描き続け、貧しく孤独のうちに亡くなった。放浪の画家、孤高の画家と呼ばれ、絵は人物、動物、暮らし、風景などをテーマに、グルジアの風土に育まれた世界を素朴な筆致で描いたもので、その数は1000点から2000点といわれている。   
死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴する存在として人々に愛され、収集された200点余りが国立美術館等で大切に保存、展示されている。世界中で展覧会が開かれているが、日本でも1986年に大々的な展覧会が催され、2008年の「青春のロシア・アヴァンギャルド」展でも展示されて話題になった。



あるいはウィキペディアの説明

ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani, 本名ニコ・ピロスマナシヴィリ Niko Pirosmanashvili, グルジア語 ნიკო ფიროსმანაშვილი、1862年 - 1918年4月9日)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のMirzaani(ミルザーニ)の村で生まれた。後にトビリシに出て、グルジア鉄道で働いたり自分の商店を持ったりしたが、体が弱いうえに人付き合いがうまく行かなかったため長続きしなかった。その後、独学で習得した絵を描くことに専念するようになった。

彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されており、彼の絵の多くは荒野にたたずむ動物たちや食卓を囲むグルジアの人々を描いたものである。彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに新聞などから幼稚な絵だという非難を浴びてしまった。

失意の彼は1918年、貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになったほか、ロシアをはじめとした各国でも有名である。ソ連では1971年と1986年にその生涯が映画化されている。





「放浪の画家」「生涯どこにも属さず孤高を貫き、ただ絵を描いた」というところが人を惹きつける魅力なのだろうし、自分もそのへんに興味を持って映画を見に行ったのだけど、この映画的にはそのへんちょっとびみょーに描かれているように思えた。

「放浪の画家」というと絵の技術だけをもって土地から土地を渡り歩く旅ガラス、吟遊詩人的なものを想わせるのだけど、ピロスマニはグルジアの町にずっととどまっていた。町のなかの居酒屋コミュニティに。そういう意味では放浪というイメージとはちょっと違っていた。どちらかというと下北とかそういうとこで定職につかずずっとサブカルしてる人みたいな感じ。まあ両者に明確な違いがあるのか?といえばそうなんだけど。


あと「孤高の」というか単に偏屈で非コミュ・コミュ障・マイノリティなとこがあったのかなあ。。て印象。最初に義理の姉かなんかに懸想して実家から出ざるを得なくなったみたいなとこにしてもそうだし、友人とはじめた食料品店を辞めた経緯にしても「義兄に結婚詐欺的なもので裏切られ世の中信用できなくなって自棄(やけ)になって、なんだかどうでもよくなったので店のもの全部もってけや(がはは」て感じだったし。んでもこの場面でロシア貴族の使いかなんかには法外な値段ふっかけるところなんかは当時の時代背景を想わせた。



この映画を通じて得られる物語としてはそんな感じで、要約すれば「世の中になじめない、アスペ気味非コミュな男が、画才はもっていたのでそれを二束三文で切り売りして居酒屋渡り歩きで食いつないでいたが、最後に世の中に認められようとしたところで『こいつの絵はちゃんと訓練されてないm9(^Д^)しろーとのものだ』とこき下ろされ一気に評価が下降。居酒屋界隈からも見捨てられ失意の内に生涯を終えた」というもの。


ゲージツフーテン物語としては全体的に鬱ぽい内容なのだけど、そういったナイーブさは切断されてただ淡々と、素朴にその辺が描かれていた。ちょうどピロスマニの画風のように。あるいは当時のグルジアの風土のように。



ナイーブに、あるいはドラマティック・ロマンティックに描くのならば「貧しい画家ががんばって100万本のバラの花を踊り子に送った」のところをフィーチャーするものだろうけど、この映画的にはまったくそういった場面がなかった。まあ史実と異なって、ピロスマニの生涯からインスピした詩人が作ったドラマだから、というのもあるからだろうけど。いちおモデルとなった踊り子が出てくる場面もあったけどちょっと(´・ω`・)あ、踊ってるな、てぐらいで、特にロマンスもなかった。いちお「ピロスマニが好きだったので彼女を絵に残したらしい」みたいなのはあったけど。

ドラマトゥルギー的には、あるいは清貧の部分をもうちょっと押し出してもよかったのかもしれない。んでもこの作品ではそういった部分が排されていた。意図的にかどうかよくわからないけど。


「フィクションを排したのは孤高の画家の生涯に経緯を評したから」というのはあったのかもしれない。彼を題材にした日本語本だとそういうのはフィーチャーされてるみたいだけど。



放浪の聖画家ピロスマニ(集英社新書ヴィジュアル版) -
放浪の聖画家ピロスマニ(集英社新書ヴィジュアル版) -


大きな木の家―わたしのニコ・ピロスマニ -
大きな木の家―わたしのニコ・ピロスマニ -

放浪の画家 ニコ・ピロスマニ -
放浪の画家 ニコ・ピロスマニ -



放浪の画家 ニコ・ピロスマニ - 本と奇妙な煙
http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20150828


彼の絵についても映画よりもむしろこっちのほうが分かりやすいのかもしれない。


なので絵についての判断とか印象みたいなのは保留。




そういえばこの映画のビデオやDVDは販売されてるみたい。

ピロスマニ【字幕版】 [VHS] -
ピロスマニ【字幕版】 [VHS] -

ピロスマニ [DVD] -
ピロスマニ [DVD] -



TSUTAYAでもレンタルしてるけど、渋谷店でVHSがかろうじてって感じだからナンダッタラ神保町のjanisとか覗いたら案外あるかもしれない。ちなみにアマゾンではプレミアついてて高い。




あとは映画を見つつなんとなく疑問に思って調べたこととか。



このエントリの冒頭でもちょこっと言ったけど、映画を見てるとちょっと違和感を感じるほどのっぺりと、なにもないところに小屋があるような環境があったりして「(´・ω`・)当時のグルジアってそんなかんじだったの?」て想わせたり。絵面・構図的にはちょっとタルコフスキーの「サクリファイス」とか想わせるのだけど、特にそういう意図もなく自然にそういうこととになってたのかも。当時の田舎のグルジアだとほんとになにもなかったから。



当時のグルジアってどういうことだったの?なんか、東ヨーロッパの朴訥質実剛健みたいなのを想わせるし、イスラーム文化圏のそれとロシアの影もあって。。てことでちょっと調べて見るに、「19世紀後半から20世紀初頭」ということで「乙嫁語り」とほぼおなじ時代だったということだろう。



乙嫁語り 1巻<乙嫁語り> (ビームコミックス(ハルタ)) -
乙嫁語り 1巻<乙嫁語り> (ビームコミックス(ハルタ)) -


乙嫁語り コミック 1-8巻セット (ビームコミックス) -
乙嫁語り コミック 1-8巻セット (ビームコミックス) -

[まとめ買い] 乙嫁語り -
[まとめ買い] 乙嫁語り -


なのでこの辺の説明とか分かりやすい


徒然なるままに|「乙嫁語り」の世界
http://www.geocities.jp/msakurakoji/900Note/114.htm


すなわち18世紀後半のフランス革命 → ナポレオンによる帝政+国民国家大躍進によって他の国も一気に国民国家へと傾いていった時代。

ヨーロッパ辺境の田舎貴族+皮剥ぎ商人の末裔だったロシアもそういった時代の流れから王政から帝政へ、そして国民国家へ転じていく。




中東から中央アジアはそういったヨーロッパ列強の植民地とされていく脅威を感じつつ、自分たちの主権というか縄張りを守ろうとしていた。あるいはあたらしい時代に順応していく者たちも。


「乙嫁語り」はカスピ海をはさんで東側、中央アジアの草原の民の物語として描かれ、イギリスが主に領有権を確保している感じだったけど北からのロシアの脅威もびみょーに描かれていた。


グルジアはもっとロシア寄りで、より東方問題的な政治的複雑が絡んでいく地域だった。そしてスターリンの生地でもある。


グルジア問題 - Wikipedia
http://bit.ly/1QpbZ5L


ロシア革命 - Wikipedia
http://bit.ly/1Qpc09L



これらの面倒事が吹き出すのはピロスマニの死後ということであったけど、ちょうど時代の転換点まで生きて、そして死んで行ったのだなという感じ。そういった意味ではピロスマニの画風、あるいはそのテーマなどに当時のグルジアの時代環境や空気感のようなものがびみょーに反映されていたのだろう。ロシアからの脅威と、それに対する故郷の誇りのようなものと。近代化によって変わりゆく風景と変わらないものと。


勝手な思い込みからするとグルジア人が後にピロスマニを故郷の誇りとしたのはそういった背景もあったのかもしれない。

素朴派と分類される朴訥で力強い実線に。透視図法を用いない平面的な空間に。野獣派 → 象徴主義的なヨーロッパ近代に対するオルタナを託して。


アフリカンアートを想わせる力強く独特な色彩とリアリティ



Google画像検索「ピロスマニ」





それが今作で感じた「ピロスマニ」だった







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2016年01月13日

はてブの終わりとBlogosphereの来し方行く末、みたいなの






地上には雨がふっている


都市 あらゆる都市の窓がしまり
愛も偏見もかたくなに口をとざしてしまう


沈黙が暗号にかわり
暗号がシンボルにかわり
シンボルがおびただしい車輪にかわる

戸口という戸口から
巨大な暗緑色の車輪がとめどもなくあらわれる

鉱物質の叫びは
雨のなかへ
雨は路上へ

路上には群衆が
群衆のなかの群衆が

いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう
いっせいに黒い蝙蝠傘をひらくだろう




はげしく回転する車輪の軸

その熱性の中心

おお その性的遠心力によって
ふるえるものはすべては秋のなかに

秋の光りのなかに

魂の色のなかに

われら盲いたるものすべては

落下する




















朝にCasa BRUTUSのライフスタイルショップ特集(理想の暮らしが買える店)を眺めていて「北欧暮らしの道具店」て載ってたので「そういや最近はてブでフォローしてる北欧系の公式アカウントが良いよな」とおもって見返してみたらやっぱりそうだった。

http://b.hatena.ne.jp/hokuoh_kurashi/



自分的に最近のはてブの「お気に入り」チェックは公式アカウントが使える感じ。感覚的にははてブ経由の半分の情報量は公式アカウントに頼ってる感がある。ちなみに自分的におすすめというか見てるアカウントはこの辺

http://b.hatena.ne.jp/CINRANET/

http://b.hatena.ne.jp/konomangagasugoi/

http://b.hatena.ne.jp/HONZ/

http://b.hatena.ne.jp/fashion-press/

http://b.hatena.ne.jp/vicejapan/


RSSリーダーを使わなくなって久しい → はてブの「お気に入り」とついったー、SmartNewsなどのニュースアグリゲーションサービスなんかでだいたいの情報は済ませてるのでこういうのは助かる。


「はてなはもう終わりだろうなあ」みたいなエントリを昨日したけど、はてブはこういう形だと使える感じ。自分的に。


ライフスタイルショップというのはイケスカナイおされうんたらみたいなので自分としてもちょっと小馬鹿にしてたところはあるし、はてブとか速水健朗さんとかにケチョンケチョンにけなされがちではあるのだろうなあとか思うんだけど。ブルーボトルとかミニマルとか。

【第61回】ネタ化される「上質な暮らし」と盲信する「サードウェーブ系男子」|すべてのニュースは賞味期限切れである|おぐらりゅうじ/速水健朗|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9079

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -



そういうのとは別に、実際につかってみて気持ち良いし快適なので「これはこれ」として使ってみようかなあって気になってる。ああいうものはいわゆるファッション的なものにも共通するのだろうし。


ライフスタイル的なもの、あるいは、サブカル的なものを好む傾向の是非についてはまた別でもっとうんたらしたいなあと思いつつはてなの話に戻ろう。


はてな、というか、ユーザーとして使用するはてなのサービスとして。はてなダイアリーやはてなブックマークというのは結構前から「もう終わりだ」みたいなのは自分の関心のある人周りだとちらほらいっていて、自分的にも似た感じだった。

端的には「twitterはじまったんだからもうtwitterでいいじゃん?」てこと。

だいたいのはてなダイアリーはそんなに深い論考を出してるわけでもなくついったーの140文字でまとまるようなエントリばっかだし、ついったーのほうがレスポンスも速い。特にギロンと名うったケンケンガクガクやクネクネがしたいだけのひとたちはレスポンスが速いほうがよいだろうし。そうすると「ブログである必要があるのか?」みたいなのがチラホラ見え出し、そのせいかどうかわかんないけどついったー時代になってブログを書かなくなった人たちがチラホラ。

それは「ついったー的な短文に最適化したアウトプットしてるとそっちのほうが楽になったり慣れたりしてブログの書き方を忘れた」みたいなのもあっただろうけど。そもそもそういう人たちはブログを書くこと、ブログでなにを表現するか?ブログとはなにか?ということに対する考え方が足りなかったようにも思えた。


自分はblog黎明期からblogというものを見てきたし、その参与観察的な形でblogをはじめたので、古いblogの定義に属するものなんだけど。

すなわち、「blogとはweblogの略。アメリカのウェブデザイナー界隈でWebをクロールする際に気になった情報、logを書き留めているうちにそれ自体がjournalとしての性格を持ち回覧されるようになった」、みたいなの。そういう時代のblogというのはジャーナリズムのオルタナであることが志向されていた。ダン・ギルモアとか伊藤穰一界隈。トリビア的にはblogのjournalを「エントリ」というのはこういった背景からのように思う。すなわち、「ジャーナリスティックなドキュメントとしての記事というのとは違うので、とりあえずMovable Typeなどのblogツールを使って書いたものをアウトプットするときのエントリボタンをそのまま動詞 → 一般名詞型な略称にしとこう」、みたいなの。

それに対して、「日本のそれはウェブ日記文化の継承でありジャーナリスティックなものには成り難いのではないか?そもそも日本は日記文化というものがあり…」みたいなのもあった。あとテキストサイト的な様式美がうんたらかんたら。くわえてニュースサイトがどうとかこうとか。



まあそういうのの是非は「あれから僕たちは」な現在、自分で確認できるものだと思うのだけど。


少なくとも自分が「内容がない」というときの見方はそういうのに属する。




そういう見方をもったbloggerやBlogosphereの気概、前提のようなものも遠くなって久しい感じ。


それは徳力さんあたりが進めていった日本のブロゴスフィアの盛り上げ、アルファブログ・ブロガーの選定や方向付けが外れたというのもあるのだろうけど、全体のメディア環境の変化も関係してるのかもしれない。まあ関心チャネルやアウトプットツールが増えた。



そして、「今年の終わりからはじまっていよいよ日本のネット環境にも動画元年が」、とか。
このへんでまたなんか変わるのかなあとかチラッと思うも、そんなに変わらないかもしれない。

でも、まあ地味に雰囲気が変わってきてる、みたいなのはある。

2016年のネットメデイア展望うんたら / 初詣で・初遠足|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nbe15070a7542





このエントリの主題としては「はてブのお気に入り登録できる企業公式アカウントけっこう使えるよ」ぐらいだったのだけどそういったことを思ったのはこの辺をちら見したから。



はてなブックマークというサービスについて思うこと - しっきーのブログ
http://blog.skky.jp/entry/2016/01/12/223756

わりと最近はてなとかはじめた人みたいなので上記のような経緯はもとよりはてなコミュニティ黎明期とかの様子も知らないみたい。はてなというのがその名の通りもともと公開質問してそれを不特定多数が答えていくサービスを軸としていたことも。

自分とかはsivadさんとかが四天王の一人とかリリカさんとか北田暁大さんとかが居た頃を思い出すのだけど。あるいは波状言論がどうとか。


なんどかエントリされたことだろうけどそういう時代のはてなのあのへんはまだアカデミックなものとjournalなものの中間的な性格があったように思う。

いまもそういったものをはてなでされてるダイアリーに偶に見えることもあるのだけど。それはコミュニティというわけでもなくひとりずつの日記て感じなので。



自分的にはてなのコミュニティが面白かった時代はあのあたりで、それ以降はどんどん細くなっていったなあ、て感じ。


特にホッテントリという装置がそのへんに影響したのだろう。まあ簡単には言論空間のワイドショー化だったわけだけど。それであのへんでクネクネ的なものが流行り、それが前景化されるようになった。

いまはそのクネクネや祭り的なものもあまりないようで、それでさえもごちそう感はあるのだろうけど。


たぶんサードブロガーとか言われてた人たちはそういう背景を知らない、あるいは知識としては知っていても、自分たちがしていることが単なる馴れ合いのクネクネであること、そしてそれが「内容がない」ということにはきづけなかったのだろう。


その時点ではてなは終わり、というか、終わった後の形骸になにかが咲いていた。深海の鯨の骨の周りに独特の生態系ができるように。


現在ははてぶ互助会とかぶくまを金で買ってうんたらとかスパムみたいなのがさらに悪どく、前景化しているようだけど。まあそれも死体とか腐肉あさりというか、終わってしまったものの上に魍魎が、てかんじ。特にそこで驚きもない。一般的には共有地の悲劇的な現象なのだろうけど。そもそも共有地としての機能はだいぶ前に終わってたように思えるし。


まあそうはいってもクネクネしたい人、ああいった同人的な慣れ合いを是しとする人達もいるのだろうし、ああいった同人的なものだからこそ表出される表現や景色、心情みたいなのがあったりもする。

そこにコミットした人たちが現在のあのあたり、「村」といっていいかどうかわからないあのあたりにとどまっているのだろう。



僕はブロガーになれない - orangestarの雑記
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2016/01/08/070954

「俺は2010年代のブロガーになれない」 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160108/1452245937


彼らはそういったアマチュアリズムに留まりたいといっているのだろう。「プロになると、金をもらったりして書くようになると書けないものがある」的に。


まあでもわれわれが志向したオルタナジャーナリズムとしてのblog、公共圏としてのBlogosphereはそういったふつーの生活的な心情や実感、リアリティを表すことを志向したはずだけど。既存の権威化したジャーナリズムではあらわせないものを表すオルタナとしてのblog。




弁当さんとかはその辺の意識を共有する感じで、最近の彼の一連はそのへんのびみょーさを感じさせた。


「ブロガーとして」と彼がいう時のそれは明確にオルタナな言論空間としてのそれを志向しているわけだし。そして、それがあるから政治・社会・経済的に公共的な話題に触れようとするのだろう。(ノ・∀・)ノ=●ウンコー!!とかされつつ。そして、それで地味にダメージとか食らいつつ。






この辺りについて、自分はどうか?、といえばもはやこのblogは自分のお勉強の成果の確認の場というか、書いて明確化して確認して一旦セーブして次に繋げる、場になってるのでジャーナリズムて感じでもないのだけど。


まあでもお勉強の成果が貯まって、それが政治経済的な事件にも反映されるようになれば自然と出していくのかもしれない。でももともとの性格とか方向性的にそういうものが合わないのかもで出さないのかもだけど。



そいやぶくまについて「くさすためだけにぶくまするならふつーに好きなもの見て褒めとけばいいじゃん」みたいなのみたのだけど、そういうのは自分的にだいぶ前からやってるので(ヽ´ω`)…て感じでもあった。

褒めるつーか対象となるサイトの情報を文字制限に合わせて精確に要約するに留める、ぐらい。あるいは簡単なメモ。

ソーシャルブックマークというのはもともとそういうものであるはずだけどぶっくまーくなんだから。でもまあ「結果的にミニブログとしての性格も持つようになった」というのもわからんでもない。

ただ、それはtwitterとか以前のことで、ついったーなんかでそういうことできるようになったらあまりあのへんでクネクネする意味なくなったと思うのだけど。それをまだやってる人たちは、機能的にはてブなどのソーシャルブックマークがそれに適してるから、というよりは、あのコミュニティの特定の人たちに向けて、て感じなのだろう。










posted by m_um_u at 17:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年01月12日

イケダ屋事変と村の終わり





夜の形のまま
僕の村は暮れる


村長は昔の想ひ出を繰り返へすやうに
彼の窓をひらく

光がその窓から流れる外側に
僕が昔のやうにゐる

村長の手のヒラは人生を思った



「道になら赤い花が咲いてゐる
咲いてゐる道が長いほど
お寺がこの村にもある」

鍋や花が僕の唇を濡らすなら
「僕は黙らねばなるまい」とも思ふ

あの日 僕の語った言葉は
遠い村民の唄にもなってゐた

唄は夜の形ではない

「樹を枯らしてはならん」

こんな形かもしれない


だから村長の手のヒラは人生を思った















基本的に自分のblogはお勉強blog的なもので他人様のあり方をあーだこーだいったりしてクネクネというのは禁じ手にしてるのだけど、まあたまにはいいかいま読んでた本の内容にもリンクするし、ということで。


ついったのTLでシロクマさんがれぽんを確認的に型にはめにいっていて(´・ω`・)すわ、一悶着か?とれぽんのTLをみにいってみるに「このまま不用意になんかゆってもシロクマに型にはめられるだけでめんどくさそう」ということでガンスルーぽかった。


http://b.hatena.ne.jp/repon/20160111#bookmark-276120130

長いです。 ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでた..
http://anond.hatelabo.jp/20160110131135

某プロブロガーを擁護する。 - Everything you've ever Dreamed
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2016/01/11/190319

コンビニ店長、私はあなたとブログ交流を続けたかった。しかし、それは難しいのようですね。 - シロクマの屑籠
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160111/1452503553



イケダハヤトというひとがはてな民(特に村民周辺?)とか、あるいは切込隊長とかのネット民の周りで不評なのはなんとなく垣間見ていて、でも、イケダハヤトというひとについてそんなに詳しく知らない / そんなに掘り下げる気もないので「よくいる情報商材的な人かな?東京の駅前のカフェとかで若者引っ掛けようとする類の」みたいな印象で、自分としては特に積極的に見る気もなく、たまに話題に登ったときにチラ見しにいって、結果的にやっぱりがっかりしたので「まあやっぱそんなもんだよね」ぐらいだったのだけど、界隈の人たちにとっては相変わらずホット?な話題ぽく、わざわざ見に行ったり、あるいは、彼のぶちあげたタイトルだけ見ていらっと来てるらしい。

「いや、嫌なら見なきゃいいじゃんどうせがっかりして腐すだけだろうし特におべんきょーになるとこもないのだろうから」とおもうのだけど、たぶん界隈の人たちは元から腐すための相手を探しているのか、もしくは、なんか彼に気になるところ、彼らのなかで気になるポイントがあるので見に行ってしまうのかもしれない。たとえば彼の「ネットだけで食べていけるよー☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ」みたいなのとか。

アフィリエイトとかネットで、あるいはブログで稼ぐとかいうの。自分的には「まあ、それも収入の一つにできれば楽だよねえ(ヽ´ω`)…」ぐらいのスタンスだし、ぶくまで様子見てるとphaなんかもそんな感じかなあ、とか。まあイケダさんに直接興味もってるってわけではなく「生計の一つとしてこういうのが有効ならいいなあ」てぐらいでそれはアフィリエイトへの関心と同じだろうけど。そういやはてな界隈だとphaは好意的に受け取られてるように思うけど、phaがアフィリエイトについて語ったり関心をもっても特にアフィ厨とか、イケダハヤトさんへの嫌悪みたいなのと同様のものはもたれないのだろうか。だとするとその違いはどこなのかなあとかちょっと想ったりしつつ話題がそれたので戻ると。

「ネットだけで」てとこだとたしかに情報商材ぽいし、よしんばイケダハヤトというひとがほんとにそれだけで成功?だかなんだかしてとりあえず食べれてるとしても、それは万人に通じるものでもなく彼固有の基盤や背景があったからなせたことなのだろうから一般論でもないのだろうなあ、ぐらいにおもってる。よくある似非ビジネス本というか、経営者の成功本みたいなあれで。成功した経営者が自身の成功事例を語るのだけど、それが学術的にきちんとした分析になってなくて、基本的な背景部分を語ってないので万人に通じない、たんなるえっしゃえっしゃな自慢話になりがちなのと同じように。ちなみに「えっしゃえっしゃ」というのは田中角栄的な笑い声の表現であってessaさんとかは関係ないです。

よく知らないけどイケダハヤトという人の場合は、彼の路線がうまく回るまえに大企業だかなんだかでうまくコネクションや下地ができていて、それがあったのでうまくいったのかなあ、て印象がある。恋愛工学のひとも似た感じ。あるいはは○ちゅうとかも。

見に行っても自分的には内容がないのだけど、彼らが注目をあつめるのはそういう演出や技術に長けてるからなのかなあ、みたいなのは思う。

彼や彼女たち、あるいは、ITバブルみたいなのでウェイウェイいってる / ネットがあればなんでもできるよ☆みたいな東京キラキラ系のひとたちは世界が違うのだろうなあ、みたいな。


ちょっと言語化しにくいけど。彼や彼女たちがうまいこといったのは文化資本とか社会関係資本とか、そういう言葉でなんとなく仮置きされてる、個人の能力だけでは説明できないような環境的な豊かさが背景にあって、それを彼や彼女たちは偶然掴んだけどほぼ無自覚なのでその背景を度外視して語り勝ちになるのだろうな、ぐらい。まあそういうと彼らは「そういうのをつかめたのもぼくらの努力やもってうまれた才能があったからだ」みたいなこといって「いやいやいや、、」ってなるから堂々巡りなんだけど。




まあ、そこを批判したりやっかみしたりするのでもなく、自分としては「そういうものだ」「世界が違う」ぐらいに落ち着いてるのだけど。そして、特に見ない。得るものがなくイラッと来るだけなので。

まあなので自分もイラッと来るのは来るんだなそういう人たちに。




そういう「彼らは内容や実力はないけど売れる」「うまいことお金をもらえる」「世界が違う」ということについて、コンビニ店長(とはてな界隈で呼ばれる人?)がうまいこと表現してた。

俺が売ってるものは食い物がメインです。食い物は、払った金のぶんだけはなんらかの満足を客に与えなきゃいけない。そうでないと売れない。食い物の第一の機能は「食ったら腹埋まる」ということですが、ほかにも甘くておいしいだとか、レアだとかまあいろいろあります。ごく大雑把にいうと、普及価格の食い物に関しては「おいしい」と「腹埋まる」がメインの機能で、ほかのものは付加価値だと思ってます。
しかし実際に売れる商品ってのは付加価値で売れるんですよな。パッケージがいい、CMが大量投下されてる、見た目より重い、いままでに見たことがない、など。まあリピート以外の要因では、食ったことがない状態から買うんだからあたりまえの話ではありますが。
で、イケダハヤトっていう人は、この付加価値の部分を極大化させた人だと思うのです。あらかじめ言っておきますが、いいとか悪いとかの話はしてないです。そもそも俺はブログってものを「文章をのっけるためのメディア」としか考えてません。俺にとってそうだからそうだ、というだけの話で、この段階で、そうは把握していない人を批判する資格と能力がありません。
ただ、人目に触れるなんらかのメディアである以上、その本分は「おもしろい」か「役に立つ」だと思ってます。おもしろいってのはなんでもいいです。単純に笑えてもいいし、罵倒芸でもいいし、人の生の一断面があらわれてるようなものでもいいし。そして、それ以外の部分はすべて付加価値です。



まあこういった小売で内容-材料-サービスやモノの本質的なとこ以外の「売れる」周辺要素を「付加価値」という言葉で表し通じる現状があるので。

自分的にはそれは付加価値≒演出、というだけではなく、その前段階の「売れるに至るまでの背景」みたいなのがあったからだとおもうけど。




イケダハヤトさん、あるいはそれ系のひとについてはそのぐらいで終わり。


あとはれぽんがルサンチマン吹き出してたのが気になった。
https://twitter.com/repon/status/682558082505768960
https://twitter.com/repon/status/682557619857305604
https://twitter.com/repon/status/682555943037480962
https://twitter.com/repon/status/682529483346214916
https://twitter.com/repon/status/682426232026206208
https://twitter.com/repon/status/682425624502243328
https://twitter.com/repon/status/682169813058240512
https://twitter.com/repon/status/682167469750894592


また「奴隷」とか「他人を食い物」とかドロドロした言葉使ってんなあ、、とか思いつつ。まあ彼の場合は実際にそういう人たちに関わって利用されてた経緯があるし、その傷がなかなか癒えない / 家族との暮らしの現状でもそれが続いてるというのもあるのだろうからその日常のストレスがどす黒くヘドロのように貯まってるのだろうなあとか思うのだけど。あと、そういうので吐いた恨み節が彼がネットで注目された経緯 → 持ち味的になってるというのもあるし。



コンビニ店長とかフミコフミオさんには好意を持ちつつシロクマさんはくさしたのもそういう経緯・背景からだったのかなあとか邪推する。


最近のシロクマさんは特に落ち着いてプチブル()感漂わせてるし、そういうのが「安全圏からなんかいってやがる」的に癇に障ったのかなあ + オレのてんちょーを語るな、的な。


つか、れぽんの言ってたのはちょうど読んでたカイエ・ソバージュ3に繋がるなあとか思った。


愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) -
愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) -


「富の奪い合いが人類の類的本質。人間性とは同類への攻撃性」とかれぽんはゆってて、実際彼はそういう闇金ウシジマくん的な世界で生きてきたのだろうし、現在もそういうところにいるのかもだからそういう風におもって当然 / そう思うことでやっていけるというのもあるのかなと思うのだけど。


中沢新一ほか贈与経済に希望を見出した系のひとたちというのは「それは人間の本質というか資本主義型経済が中心になってる現在の不備であり、人類が未完の結果だ」ということになるのかなあ、とか。


れぽん的には「資本主義が現状な現在、けっきょく資本をもってそれを投資サイクルしていったものの勝ちであり、貧乏人がその波にのるためにはどっかの段階でギャンブルせざるを得ない。貴族なやつらは貧乏人のそういう場面での不安と勇気を理解しようとしない」ってカイジ的なマインドにあるのかなてとこなのだけど。「サバイブな現状的にはそういうのもあるよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」とか思いつつ、抽象度をあげると「経済とか交換、あるいは贈与というのはなんか神秘的な運動で、そういうところに人類は愛を求める」みたいな中沢のいうこともなんとなくわかるようなわからないような。

ベタには貨幣経済で価値が平均的に裁断 → マトリクスされた交換関係の中で、人の生が物象化されて疎外されていく → なんだか味気なくなる、てあれで、そういうときに「お金だけじゃないもっとあったかいつながりのようなもの」を求める気持ちがあるのもわかる。

まあそういうこというと、あるいはそれだけで語ろうとすると( `д´) ケッ!ブルジョア安楽椅子の貴族主義が平和ボケしやがって、てことにはなるだろうけど。



「愛」という言葉がなんか漠然と範囲が広いのだったら承認欲求という言葉ではてな界隈で広まってるああいうのでもいい。まああれが「愛」ってことでもなく「愛」的なものの一部だろうけど。


ちなみに承認欲求という言葉で通じてるあのへんの定義がいかに曖昧で漠然としたものかは以前についったで愚痴ったのだけどめんどくさいのでここではまとめなおさない。まあ興味あるならこのへんみればいいとおもう。
http://twilog.org/m_um_u/date-151123

あるいは

http://twilog.org/m_um_u

を「承認欲求」で検索

http://bit.ly/1RIGe7s



そういう虚栄と欲望、あるいはそこからの嫉妬の混ざった複雑な気持ちがあのへんなのかなあとか。


けっきょくはてな村というのはかのせさんとかシロクマさんとかが「承認欲求」という言葉を中心につくっていった、あるいはなんとなく界隈していったあのへんで、であるなら、承認欲求という言葉が上記twのような理由で解体されたとき、ほんとに「村」は相対化され解体されたのだろうなとか自分的に思った。


そしてふたたびはてな村奇譚とかを眺めるのだ



はてな村奇譚上 -
はてな村奇譚上 -



そいやはてな村奇譚もアマゾンプライム無料なキンドル本の対象になってたのだけど、それは1月に一冊、クラウド的に読めるというだけのようでこれをダウンロードした後にゲンロンも無料対象になってたので落とそうとしたら「一度に一冊で同時に二冊は出来ません」とか表示されてしまった(´・ω・`)


ゲンロン1 現代日本の批評 -
ゲンロン1 現代日本の批評 -


まあけっきょくこっちに張り替えたのだけど。


このぐらいの感じでこのぐらいの本とか雑誌が読めてくと楽だなあとかおもって現代思想やらそのへんのも対象にならないかなあとか思うのだけど特になかった。こういうの自主的にできるならレトリカとかもさっさとやっとけ(←八つ当たり








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2016年01月03日

「タブーの謎を解く」「食の歴史人類学」





ついったかはてぶ経由でみたブログで紹介されていた本がおもしろそうだったので読んでみたら実際おもしろくて、いちお感想なりなんなりまとめようなあとおもいつつも年末で忙しくてなかなか時間がなく。まあいま同著者の別の本読んでるのでまとめてなんか書いとこう。


もし同性愛を「キモい」と感じるとしたら、最大の理由はおそらく自分自身の中にある同性愛的傾向を嫌悪しているからだと思う - しいたげられたしいたけ
http://watto.hatenablog.com/entry/2015/11/30/003000



タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書) -
タブーの謎を解く―食と性の文化学 (ちくま新書) -



上記の紹介エントリで書かれていた内容は違和感あったのでちょっとついったーでうんたらゆっといたけど
https://twitter.com/m_um_u/status/671453940194476033

紹介されてた本自体はたしかにおもしろかった


本書の内容を簡単に要約すると、<人類には大きく「性」と「食」をめぐるタブーがあり、タブーが設定されてる領域というのは得てして境界(リーメン)領域であり、2つの価値・規範の混ざり合うところ、混雑(カオス)してわけわかんなくなるところにある。その混乱を識別するためにタブーが設定され夫々の文化ごとに守られるように規範化される>、というもの。

人がなにかをキモいとか思うようになるのはこの文化・規範が刷り込まれてるからであり、刷り込みによって天与の属性、本質的なものと勘違いしがちだけどそれらは文化的な規範であり識別子程度のものだ、という話。


言ってみればホモフォビア的なものも畳の縁を踏むタブー≒キモさと変わらないということ。


ちなみにホモ的なものへの禁忌、あるいはその反対の奨励も、ヘテロにおけるインセストをめぐるタブーやその前提として女性を贈与交換の交換剤として扱うことにしても共同体における経済合理性がその要因となっている、ということらしい。


たとえば非近代的な共同体ではしばしば通過儀礼として未成年男子が成年男子の精液を飲まされるらしい。

性が近代的な消費対象としてステロタイプ化されてない文化圏では性がしばしば神秘的なものとして扱われ、社会の中心的な性別としての男性の性には霊気のようなものが宿るとされる。すでに戦士として成年した大人の男性に宿るそういったものを未成年に受け渡してからヘテロ的な交わりを行っていく段階に移る。

まあ似たような通過儀礼をとる共同体全てで精液を飲ませるわけではなく共同体によってやり方は違うみたいなんだけど。



ここでは性をめぐるコスモロジーが人間中心なセックス的なもの以外にも接続しているのでこういったことがふつーに行われている。



インセストが設定されるのは基本的には、外部の因子を必要とするため≒内部で自家消費してると外に回りにくいので禁じた、ということになる。あるいは近親相姦してると遺伝子的に弱くなっていくから、というもの。


それは俯瞰すれば「生物学的、あるいは社会性物的な合理性に基づく」ということになるのだろうけど、人間はすべての行動をそういった合理性に基づく完全合理性にもとづいて選択しているわけではない。


私は何も生物学的説明はすべて間違いだといっているのではない。そうではなくて、ヒトの近親相姦禁忌は、なんらかの自然的、生物学的あるいは生態学的な基盤の上にのっていて、それとまったく無関係ではないにしても、しかしそれだけでは完全に説明できない。論理的階梯の質的レベルが一段違っている、といいたいだけなのである。



このへんにハビトゥス的なものも絡むのかなと思う。なので著者(山内)も「食」や「性」に惹かれるのかなあ、とか。





おもしろかったので同著者の代表作的なものを見てみたらこんなのがあったので現在図書館で借りて読んでる。



「食」の歴史人類学―比較文化論の地平 -
「食」の歴史人類学―比較文化論の地平 -




現在「日本人と異国料理」「南欧人と異国料理」の2章を読んだところ。


伊達の支倉遣欧使節がヨーロッパにいったときに何を食べたか?、とか、ザビエルら宣教師が日本に来た時に日本が粗食すぎて苦労した話とか書いてあっておもしろいのだけど、そのなかでも両章に渡って目立ったのは支倉使節団ぐらいの時代の頃は食に関する文明的には日本のほうが進んでたのではないか?というところ。

「どっちが進んでるか?」みたいなのは文化相対主義的なところがあるのだけど、食の文明をめぐるこのあたりでは「皿がそれぞれに分けられていたか」「手づかみではなかったか?」みたいなのが一つの基準に成ったりする。


南直人、1998、「ヨーロッパの舌はどう変わったか」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384995687.html



まあ「手で直接食べるから野蛮」とも即断できなくて、手で食べることの豊かさみたいなのもあるわけだけど。


とりあえずこの時代にはまだ西欧における野蛮の名残があったぽい。皿とかはなくテーブルに直接料理をぶちまけ、それを甲冑のままナイフで削り、ともすると大皿やテーブルにおかれたそれを争うときにナイフで手を傷つけられるために篭手などが必要だった。貴族や文化人もテーブルクロスで手づかみのヨゴレを拭い、それが故にテーブルクロスはいつもベトベトで、それに関するマナーもできた。よく調べてないけどフィンガーボール的な文化というのはその名残かもしれない。

ナイフがその先端を丸く削られたのはリシュリュー枢機卿の布令の功績で、フォークなどという食器も未だなかった。スプーンは貝殻状の大きなもので、それは女性器の暗喩的なものともされた。


大航海時代を経て日本などと接触してきた時代でさえそうだったのだから、それらが現在のようなヨーロッパ的なテーブルマナーの洗練に行き着いたのはいつごろからなのかなあと想うに、たんなる推測だけど、中国や日本との直接的接触を経た影響もあったのかもしれない。まあ経済的にも豊かになって「文化」がいろいろ生まれていく余裕もできたのだろうし。


そんなことをぼけーっと想いつつ次の章に移ろう。



ちなみに「タブーの謎を解く」はこの本からのスピンアウトだったぽい。









--

石毛直道、2006、「麺の文化史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/384598908.html


posted by m_um_u at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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