2015年12月30日

fireタブレットとfireTVstickを買った


少しまえにfireタブレットとfireTVstickを買った。自分への(クリスマス)プレゼントとして。クリスマスまでのプライム会員加入煽りセールでfireタブレットはお試し中プライム会員なら4000円キャッシュバック、fireTVstickはそういうの関係なく1000円割引だったので。




Fire タブレット 8GB、ブラック -
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Fire TV Stick -
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セール対象としてKindleもかかってたのでkindleにしようかどうしようかちょっと迷ったけどけっきょくfireタブレットにした


Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー -
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もともとこういうのを購入しようと思った動機はhontoなんかでちょこちょこkindle対象にしたセールをやっていて、それがみょーにお得 / 中古本より安い、ということからだった。それでちょっと見てみたらAmazonだとkindle対象の本は毎月一冊無料になるらしいのでそれもいいなと思って。図書館で本を借りるのを常態にしてるのだけど、新しく出た本、特に新書なんかはリクエストをしてもなかなか図書館が入れてくれないので。それだったら買おうかというとこでもあるんだけど、だいたいの新書は購入するほどの価値が有るものでもなく雑誌の特集に毛が生えた程度のものだし。なので「一ヶ月に一冊新書が無料でゲットできるならちょうどいいかなあ。。」というのもあった。結果的に無料対象本はAmazonが決めてる範囲のものに限られていて自分で自由に選択できるわけでもなかったのだけど。まあとりあえず新刊と極安中古の間に「いきなり新中古よりちょっと安い」な選択肢が出来たのは良い。書籍の形をしていても特に書棚に置く必要を感じないようなものもけっこうあるし、そういうのをkindleで購入できるのは棚がかさばらなくて良い。


もうひとつの動機は少しまえに始まったアマゾンプライムの無料対象動画が思ったより充実してきてるというのをついったーのTLでみて気になったから。それでチェックしにいってみたら確かにけっこうな映画が見られるようになっていた。特に邦画が。洋画は吹き替えではなくだいたい字幕なので自分的には見にくい。

自分はTSUTAYAのT-SITEを通じて「よくつかう店舗」登録をしてるので准新作はセールの時なら108円で借りられるのだけどプライムビデオがこんな調子だとだいたいの旧作はわざわざ借りなくてもいいかなあ、とか。まあその中でも無料対象として載ってない奴はTSUTAYAいったほうが早いだろうけど。Gyaoなんかでも無料映画でけっこう出てるのでそれも含めると「気になってた邦画」が無料状態でこういったところに積みコンになってるということになる。感覚的には自分の気になるコンテンツも含めてクラウド化されてる感じ。なので、そういった積みコンを消化するのを優先すればわざわざお金を払ってまで見る必要があるものの優先順位が下がっていく。あるいは「これは無料化もされずDVD化もあやしいので映画館でみとけ」って一回性がそこであらためて効いてきたり。

話は少しそれるけど自分は映画館があまり得意ではなく、特に大きなスクリーンで見る意義も感じないタイプなので、できれば映画なんかも家で見たい。なので、映画館で新作映画を1800円も払って見る意義をあまり感じない / むしろ苦行なので、映画館に行くときはさっきいったような動機、いま見とかないとDVD化 → レンタルもされないかもだしなあ。。が誘因となってる。特にみなさんが話題にしてるからといって興味がそそられるということもないし。。それが一時の流行ではなく、本当に内容を伴った名作なのであれば、時機が違っても見ることによってきちんとした満足感をもたらすはずだろうから特に「いま話題の映画」「いま話題のコンテンツ」を追っかける必要性を感じない。あるいは「いま話題の話題」も。


閑話休題


そういった形でアマゾンプライムほかに無料コンテンツが積まれててまた積みコンが増えて気持ち的に忙しくなってる。まあそんなに急がなくても消えるわけでもないのだけど、Gyaoなんかでは期間限定で無料配信してたりもするのでそういうのはちょっと焦る。


てか、


動画とかよりも実際の生活の中でおおきくQOL変わったと思えるのは音楽で、アマゾンプライムミュージックのプレイリストをfireTVstickを通じてテレビで聴けるようになったのが自分的には地味に大きい。

いままではPCを立ち上げ、Amazonミュージックのアプリを立ち上げ、しばらくして聴く、っていう起動するまでけっこうな時間がかかってたのだけど、TVを通じてなのでわりとすぐにプレイリストを再生できるようになった。うちのテレビはレグザなのでクイックボタンでタイマー機能もあるので寝る時につけっぱでタイマー設定しとけば切れるってのもあるし。あと、うちのボロPC環境だと音楽をかけないぶんメモリに負担がかからずに良い。


タブレットの方は現在おもにお風呂に浸かるときにちょっとアニメ見るのに使ってる。

サムライチャンプルーなんか見てなかったのだけど、プライムビデオに出てるのでおっかけでちょこちょこ見てる。アニメは一回につきだいたい20分ちょっとなのでお風呂に入る時間的にもちょうどよい。それ見ながら今までどおりiPhoneからたんぶらでリブログしたり、SmartNewsチェックしたり。


こういうのも慣れてもうちょっとしたらタブレットのKindleにいろいろコンテンツ入れてくのだと思う。まあたぶんマンガがメインかなと思うけど。


書籍系、あるいは漫画系のKindle無料のものもチェックしたけどだいたいがゴミみたいなので、書籍のほうでつかえるものとしたら著作権切れた古典がメインのようだったのでこれだったら青空文庫ビューアみたいなのつかったほうがいいだろう。

あとは無料になってる雑誌とかにちょっと可能性があるかもだけどこの辺は未だチェックしてない。



けっきょくいまのところfireタブレットよりもfireTVstick購入の方がなにげにQOLに効果してるようなんだけど、まあこれもKindleのライブラリが充実してきたら違ってくるかもしれない。あとはおでかけ時のお供・暇つぶしとしてのタブレットとか。




動画としては無料動画にだいたい慣れたり飽きたり消化した頃合いに月額定額で見放題なサービスに登録してみようかと思ってる。HuluとかNetfixとか。あの手の月額1000円未満で見放題みたいなの。

あれも映画のほかに海外番組的なものが見られるといいなと。ドキュメンタリーとか。アメリカのPBS系番組とか。ナショナルジオグラフィック系番組とか。その辺を調べたり実際に無料お試しで使ったりして見定めて登録していくかも。


そいや月額1000円といえばGooglePlayMusicも月額1000円で、当初はその便利さに1000円払って加入したものだったけど、そこで主に聞いていたプレイリストがアマゾンプライムミュージックのプライム無料対象音楽から構成されることに気づいてそっちがメインになった。こっちのほうが軽いし。


それでちょっとまえにGPMのほうは退会したのだけど、ふとBONNIE PINKさん聞きたくなってAmazonミュージックで検索してみたらプライム無料対象になってなくて反映されなく、、んでもGPMだと余裕であったので(´・ω・`)て。まあこのへんも複数登録したりして使い分けなのかなあ、とか。

音楽のストリーミングみたいなのだとアップルも同じようなサービス(Appleミュージック)やってるみたいだけどこっちはまだ試してないのでそのうち試したい。









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Chromecast 2.0を衝動買いしたけどすごい便利 - 最終防衛ライン3
http://lastline.hatenablog.com/entry/2015/12/15/054348




FIRE TVで4K Netflixと大画面Kindle読書を楽しむ | N-Styles
http://n-styles.com/main/archives/2015/10/30-031900.php



梅が咲いてきた /  J-POPの未来|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf2691041a9d5






posted by m_um_u at 16:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年12月11日

中井久夫、1979、「西欧精神医学背景史」




西欧精神医学背景史 (みすずライブラリー) -
西欧精神医学背景史 (みすずライブラリー) -





章立てとしては以下のようになる。





基本的には心理学、あるいは精神医学の発展過程についての概説という体を為してるのだけど、、



紅葉 / 赤富士 / ヨーロッパ・近代とはなにか?|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n2fe57aa00bf1


あとがきやアマゾンレビューにもあるように、もともと精神医学史概説として依頼されたものだったようだからよくあるその手の型に沿って教科書的に、心理学や精神医学、あるいは少し広げて医学との関連での時系列のみをまとめればよかったぐらいの仕事だったのだろうけど、中井の情熱や志向のようなものがそこに込められて却っておもしろいものになっていた。

著者自身も自嘲しつつ「未熟なものだから」と謙遜していたけど、この時点での中井のここまでの同分野における研鑽の集大成であり記念碑的なものだったのだろう。平たくいうとヨーロッパ愛、ヨーロッパの歴史愛が感じられる。その部分が従来の「教科書的」なのっぺりを越えた面白みを産んでるように思えた。

未熟ながら、自分はそれなりにヨーロッパの歴史や民俗学に通じてきたような自負があるのだけど、その自分でも知らなかったトリビアルなことが当然として語られている。極めて端的に。たとえばヴィトゲンシュタイン家の歴史とその力動精神医学(臨床心理学みたいなもの)への影響と貢献とか。ロシアとはなにか?を考える時にウクライナ←ヴァイキングを当然としつつルーシのことを考えていたり。たぶんこの時代に、あるいは、中井の目の届く範囲で「ルーシ」という概念がなかったので端的にそれを表すことができなかったのだろうけど。そして、それを大きく覆うのは「ヨーロッパとはなにか?」という問いだったりする。それはそのまま「近代とは何か?」という問いに通じる。



記述の質感とか綿密さは阿部謹也のそれを想わせる。阿部は70年代ぐらいまでには名を馳せていたかな?ともおもうのだけど、中世史や民俗学関連のものを中井が狩猟していた結果・集積というだけだったのかもしれない。

「及ばずながら、私は与えられた紙幅の中で、一行の裏に一つの論文、一冊の本をこめようとした」と書かれていたようにその記述濃くて、この分野にある程度通じてないと読むのがつらいかなあとかおもった。まあそれについての脚注もついてて長いのだけど(脚注はまだ読んでない)。


精神医学史として見た時、主題としては「分裂病とはどういうものだったか?」「いかにして精神疾患者への偏見が克服され、環境が改善されていったか?」というところになるだろう。らい病患者の例にもあるように、近代医療以前は精神病患者は隔離され見世物にされていた。見世物にされることは悪いことばかりでもなくてそれによって却って回復が促され退院していく患者も居たようだけど、基本的に8割ぐらいは隔離されたまま一生を終えたとかなんとか。それらが「治らないもの」「悪魔憑き的なもの」という偏見から腑分けされ名付けされることによって得体のしれないものから知れるものになり医療の対象となっていった。「分裂病」という名付けもその一環だったといえる。

精神医学史的な側面を端的に総括すれば、「近代化、合理主義化によって精神疾患者への魔術的迷妄は解け、近代的医療がなされるようになっていった」、といえるだろう。章立てにもあるピネルという現象、オランダという現象というのは近代合理性が立ち上がっていったことの例だったり背景の説明だったりする。


ただ、中井がそこで終わらないのはそういった精神医学的な、あるいは、教科書的な単純な割り切りに対する反省と批判精神を兼ね備えているからだろう。具体的には精神科医がその学識と権威をもって患者をモルモットのように扱ってしまう権威性への反省や批判。「セラピスト」にもあったけど、中井久夫のもっとも優れたところ、あるいは基本はこの点の不動にあるのだろう。


最相葉月、2014、「セラピスト」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/430223693.html



中井自身は精神科医として「必要があれば」その時代にもっともきつく強力とされた投薬もしていたようだけど、そういった反省や危険性への意識がありつつそれを行っていたのだろう。そして、「セラピスト」にもあるように中井はカウンセリングの基本を「クライエントの話を聴くこと」としている。医師による「正しい」診断の押し付けではなく。




そういった背景からこの本の奇妙なところ、精神医学の背景史としては「なんでこれ語ってるの?」みたいなところが語られていく。



それらは正統とされる精神医学、大学的学問の体系としての精神医学から削ぎ落とされていった臨床的な側面であり、「手の仕事」としての看護≠寄り添いを通じたもの。患者のこころの問題ということだったのだろう。患者、あるいはクライエントに接する臨床家自身のこころや倫理の問題。それらをひっくるめて精神と言ってもいいのかもしれない。


そういった観点からみるとこの書は西欧の精神の現象学ともいえる。


精神 ← こころ ← 倫理、が、どのように近代的に回収されていったか、についての精神医学史的な側面からの記述。近代的理知中心主義に回収されなかったそれらがどのようにマッピングされるか、ということ。



理知中心、あるいは、合理性というのは生活便利をもたらしたけどそこで回収されなかったマインドや倫理といった問題がストレスとなって残っていった。おそらくそれらが都市化 → 文明化 → 近代化が進むほどに精神病があらたに「発見」されていく(狩猟民やブッシュマンにはそういったものはあまり見られない)理由なのだろう。


けっきょくのところ近代人はそれらを克服できてないのだ。


紅葉 / 赤富士 / ヨーロッパ・近代とはなにか?|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n2fe57aa00bf1



それらの疑問や不満は文学、あるいは哲学によって補填されている。「近代精神医学が確立する以前は哲学的領域でもあった。哲学者に任せろとかいわれていた」とかもあるので昔ながらの手法といえるのだろうけど





そういった意味で、本書の白眉は魔女狩りについて論じた箇所のように思われる。


魔女狩りは中世の野蛮と思われがちだけど実際は近代化過程のもので、近代化過程で残されていた中世の野蛮が近代化の不安にともなって吹き出した、あるいは、為政者たちが民衆の不満を敢えて魔女狩りという形でガス抜きするように仕向けた側面がある。


それらは端的には仲間内の裏切りと私刑の光景であり文化大革命や学生運動などにも共通する。集団内の裏切りと私刑ということではsnsなどの現代でも共通するだろう。学校や職場のいじめとか。私刑であり供犠の光景。



中井は魔女狩りが生じた根本的背景をネオプラトニズム的な観念主義、想像世界への回帰の潮流と並行した現象として捉える。



魔女狩りと精神医学とブッシュマン〜名著再読・中井久夫 地球大に考える/ウェブリブログ
http://condominium.at.webry.info/201005/article_3.html

「しばしば、わが国ではなぜ魔女狩りがなかったのかという問題が提出されるが、その一部はおそらく、ネオプラトニズム的な幻想的問題解決の中心でありえたかもしれない比叡山を織田信長がことごとく焼き払い、僧侶たちを皆殺しにすることから始まって、一向一揆撃滅、キリシタン弾圧をへて十七世紀中葉の檀家制度確立(いっさいの宗教布教の禁止を含む)、あるいは医療からの神官・僧侶の追放という徹底的な世俗化のせいであろう。(中略)
 森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗で、その支配地域は民話・民謡・伝説・怪異譚を欠くことで今日なお他と画然と区別される。世俗化への道をなだらかにした、プロテスタンティズムに類比的な現象である。」

この論文の骨子が第三章として収められた『分裂病と人類』(1982 東京大学出版会)の第一章では、さらに巨視的な視点から、分裂病親和者(S親和者)の気質について述べている。

「われわれが知る現在の狩猟採集民たとえばブッシュマンは、長年にわたり農耕牧畜民の圧迫をこうむり次第に沃野から駆逐され、さらに近代国家の「自然保護地区」―当然、狩猟獣に富む地域―からの実力による排除によって絶滅に瀕しており、かつて人類の主流であったおもかげは今はない。それでもなお、彼らが三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知することに驚くべきである。(中略)過酷な条件下にもかかわらず、彼らの一日の労働時間はたかだか八時間で、多くの時間を木蔭の涼しいところで過ごしうる。持続的な権力者はなく、派閥的な闘争もない。獲物の配分は狩りに貢献した者本位にルールがあり、要するに複雑な権力組織を展開していない。
 これと対応して彼らの知識と技術はきわめて一身具現的であり、動植物、地理について具体的、詳細正確である。われわれはおそらく、もっとも古型の農耕社会(たとえばニューギニア高地民)においても片隅の見栄えのしない位置なら与えてもらえそうであり、また与えられれば生きられるだろう。しかしブッシュマンやピグミーの永続的な仲間となる能力は全くないであろう。(中略)
 狩猟採集民においては、強迫性格もヒステリー性格も循環気質も執着気質も粘着気質も、ほとんど出番がない。逆にS親和型の兆候性への優位(外界への微分〔回路〕的認識)が決定的な力をもつ。」


下の句的には、

「我が国においては科学的体系はついに自生せず、また体系的思想のすべてがあらためて輸入されなければならなかった。ただ現実原則に則った勤勉の倫理だけはヨーロッパよりもたやすく、ネオプラトニズムと魔女狩りという陣痛期を経ずに三都(京・大阪・江戸)においては17世紀中葉、関東平野においては19世紀の初頭に至る時代に、比較的抵抗なく確立されることができたのであるという考察も可能であろう」

となる。





中井久夫『西欧精神医学背景史』- はぐれ思想史学徒純情派
http://n-shikata.hatenablog.com/entries/2011/01/25


ルネサンスは一面においてはアラビアやユダヤを媒介としてきた古代文化に直接接続しようとする文芸復興の試みであるが、他面、魔術的、占星術的、錬金術的なものと結合した秘教的ネオプラトニズムの復興でもあった。ネオプラトニズムを一言にしていえば、世界を統合的な一全体として把握しようとする試みで、しかも実例の収集枚挙や論理的分析によるのではなく、直観と類比と照応とを手掛かりとして、小宇宙から大宇宙を、大宇宙から小宇宙を知ろうとする試みである。たとえば人体は大宇宙の照応物としての小宇宙であり、人体を知ることによって宇宙を知ることができるとする。逆に、星の運行によって小宇宙すなわち人間の運命が予知可能であるとするものである。今日ほとんど忘れられていることでもあるけれども、ルネサンスにおいてエジプトの伝説的占星術者ヘルメス・トリスメギストスは、プラトーンと並ぶ権威をもっていたのであり、かのロレンツォ・ディ・メディチが御用学者フィチーノに命じて古代古典を翻訳させたとき、彼はプラトーンよりもこの占星術者の名と結びついた書物を優先させた。(p26-p27)


魔女狩りを許容した第三のものは、ルネサンス宮廷層から一応離れたものであった。それは知識人の沈黙、あるいは加端であり、積極的支持すらあった。その根拠として、彼らが伝統的な文化から抜け切っていなかったというような説明はあまり有効なものではない。むしろここでヨーロッパの中世において次のような、魔女狩りに先駆し、それと連続的な現象があることを指摘する必要があるだろう。

すなわち、一二世紀からのおよそ四世紀間、ヨーロッパがヨーロッパを成立させたその文化的恩人たちを次々に消滅させていったという事実である。第一にユダヤ人である。ローマの末期から一〇世紀にかけて、回教文化をヨーロッパにもたらしたものはユダヤ人である。当時のヨーロッパの知的レベルからみて、アラビア語からラテン語への正確な翻訳はヨーロッパ人の能力を越えたものであった。ユダヤ人翻訳者の存在は不可欠なものであった。ユダヤ人翻訳者の存在は不可欠なものであった。そしてユダヤ人たちは翻訳だけでなく、おそらくその時代において文盲率が最も少なく(幼児期からタルムードによる)きわめて洗練された言語的・学問的訓練を行っていた民族は、ユダヤ人のみであったろう。このユダヤ人がまさにその使命を果し終えたときに、のちにいうポグロム、つまりユダヤ人虐殺が全ヨーロッパ的に開始されるのである。

次はアラビア人である。アラビア人の文化はしばしば単なる翻訳者あるいは伝達者の評価しか受けていない。しかしそれは事実に反する。アリストテレス哲学、あるいはガレノスの医学が、アヴィケンナやアヴェロエスによって継承、発展されたというだけではない。H・シッパーゲスの証明するごとく、ヨーロッパ中世の医学テキストは挿絵に至るまで、アラビア医学書の剽窃に近いものである。一方、啓示の真理と現世の真理との対立と緊張の関係は、アラビアの哲学者によってはじめて鋭く意識されたのであり、この問題設定は単にスコラ哲学に対するその影響だけでなく、まさにこれこそヨーロッパの近代化の一つの大きな思想的契機となっているのであるが、このアラビア人たちがその文化的役割を果たしたのちに十字軍と異端審問の対象となったのである。このような、いわば“育ての親殺し”の連続線上にあるものとして魔女狩りを理解することができる。(p33-p34)











かくて人々は今日も狭量な倫理と蒙昧な理知で祭りを催すのだ。









posted by m_um_u at 07:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク