2015年10月24日

スコット・ペック、1978、「愛と心理療法」



んじゃ一個前のエントリで言ったとおり「愛と心理療法」から気になったところ引用で、


愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -




今まで、訓練こそ人生の問題を解決するのに必要な基本的手段であると述べてきた。その手段とは、、苦しみを引き受ける技術、つまり、問題を積極的に受けとめてうまく解決し、その過程で苦しみを受けながら学び成長してゆくことである。訓練することを教えるとは、いかに苦しみ成長するかを教えることにほかならない。

これらの手だて、私が訓練と呼ぶ、苦悩するテクニック、建設的に問題の苦しみを経験する手段とは何か。それは次の四つである。楽しみをあとまわしにすること、責任を引き受けること、真実に忠実であること、そしてバランスを取ること。明らかにこれらの手段は、かなりの練習を必要とするようなややこしいものではない。10歳になればほとんどすべての子どもが使いこなせるような、単純な手段である。だが、大統領や一国の王でさえ、この単純な手段を用いるのを忘れて没頭することが多い。問題は手段の複雑さではなく、用いる側の意志にかかわっている。これらは苦しみを避けるのではなく苦しみに向かうための手段なので、もししかるべき苦しみを避けようとすれば、使われないことになる。




一貫した親の愛と保護に恵まれた幸運な子どもは、その結果、自分の価値を信じる深い内的感覚のみならず、深い内的安定感をもっておとなになる。子どもはみんな、見捨てられるのではないかと恐れているが、それも無理からぬことである。この見捨てられる恐れは、ちょうど子どもが親と別個の存在であるとわかりはじめる、生後六ヶ月にめばえる。子どもは、個人として自分が無力な存在で、生存のいかんが親の掌中にあることをわかっているからである。子どもにとって、親に捨てられることは死に等しい。多くの親は、他の面では比較的無知で鈍感であっても、このような子どもの恐れは本能的に感じとって、来る日も来る日も何百回、何千回となく子どもを安心させている。「お母さんもお父さんもおまえをおきざりになんかしやしないよ」、「すぐに連れに戻ってくるからね」、「おまえのことを忘れるなんてありっこないよ」と。その言葉が来る月も来る年も言われた通りであるならば、思春期を迎えるころには、捨てられる恐れは子どもから消え、かわりに、この世は必要なときにはいつでも守ってもらえる安全なところだという、深い内的感覚が育つ。この一貫した内的安全感があるので、子どもはいろんな満足をあとにまわすことができる。家庭や両親と同じように、満足する機会は必要な場合いつでもつかまえられる、と安心しているからである。






私には、才気煥発だが気難しい知人がいる。放っておけばいつまでも雄弁に、社会の圧倒的な力、人種差別、性差別、軍隊、産業組織、彼と仲間の長髪に文句をつける田舎警察などについて、しゃべり続ける。何度も何度も私は、彼がもう子どもではないことを言って聞かせようとした。子どもは、いろんな面で依存しているので、事実上、親が色んな面で支配力をもっている。実際、親は子どもの幸福に大いに責任があり、子どもは親次第である。親が圧倒的 ―そうであることが多いのだが― であっても、子どもはほとんどどうすることもできない。子どもには選択の余地がかぎられているからである。しかしおとなは、身体的に健康な場合、選択の可能性が無限に近い。だからといって、選択に苦痛がないというわけではない。どちらもいやでもましなほうを選択しなければならないことも多いが、それでも、自分の力で選ぶことができる。この世界には圧倒的な力が働いているという知人の意見には、私も同感である。しかし、そのような圧力にどう反応しどう対処するかは、そのつど自由に選ぶことができる。警察が「長髪」を嫌う田舎に住み、髪をのばすのは彼の選択である。彼には都会に引っ越すか髪を切るか、あるいは警察署に対してキャンペーンを行う自由さえある。頭脳明晰であるにもかかわらず、彼はこれらの自由を認めようとしない。おのれの人間としての大きな力を受け入れ享受するかわりに、自らの政治力のなさを嘆くほうを選んでいる。自由に対する愛とそれを阻む圧力について語るが、自分がいかにその犠牲になっているかを語るたびに、実はその自由を手放しているのである。いくつかの選択が苦痛をともなうというだけで人生を恨むようなことを、彼がそのうちやめてくれるよう私は望んでいる。







愛について二番目によくある誤解は、依存症を愛とする考えである。これは、心理治療家が日々ぶつからねばならぬ問題である。配偶者や恋人に拒否されると、自殺を企てたりそうするようなポーズをとったり、またはそれで脅かしたり、何もできないほど落ち込んでしまう人に、劇的なかたちでその影響が見られる。「生きていたくない。主人(妻、恋人)がいなければ生きていけない。それほど彼(彼女)を愛しているんです」と彼らは言う。「あなたはまちがっていますね。あなたは夫(妻、恋人)を愛してなどいやしませんよ」と、私が言葉を返す ―そうすることが多い― と、彼らは怒っていう。「なんですって。彼(彼女)なしでは生きられないって今言ったでしょう」。そこで私は次のように説明する。「あなたが言うのは寄生であって、愛ではないんです。生きるのに他人が必要なら、あなたはその人の寄生虫なんだ。その関係には選択も自由もありませんね。それじゃ愛というよりは必要性の問題だ。愛とは自由に選択することなんですよ。ひとりでも十分やってゆける人が一緒に生きることを選んだ場合にかぎって、ふたりは愛しあっていると言えるんですよ」


依存症とは、誰かが積極的に面倒を見てくれる保証がなければ、不全感に悩んだり十分に働けないこと、と私は定義している。身体的に健康なおとなの依存症は病的である ―それは病気、精神的な病ないし欠陥の現れである。しかしそれと、ふつう、依存欲求とか依存感情と呼ばれるものとは区別しなければならない。われわれにはみんな ―人や自分に対してそうでないふりはしていても― 依存欲求と依存感情がある。赤ん坊扱いされたい、何もせずに世話されたい、本当に自分のためを思ってくれる強い人に保護されたい、と願わない人はいない。どんなに強い人でも、どんなに世話好きで責任感のあるおとなでも、自分の内面をしかとのぞいてみれば、たまには保護されたい、という欲求がみつかるはずである。どんなに年を取り成熟した人であれ、自分の人生に望ましい母親像や父親像を見つけたいと思っている。しかしそのような欲求や感情がその人の生活を支配しているわけではない。それらが生活を支配して生のあり方まで決定し、ただの依存欲求あるいは依存感情以上のものになることが問題なのである。そういう人は、「受動的依存的性格障害」と診断される精神障害にかかっている。これはたぶん、精神障害のなかではもっともふつうのものである。

この障害のある人は、愛されようとするのに忙しすぎて、愛するエネルギーが残っていない。飢えた人が、食べ物のあるところならどこにでもたかってゆき、他人に分け与える食べ物をもっていないのに似ている。彼らの内部には空洞があり、底なしの奈落の満たされるのを切望しているが、完全に満たされることはないらしい。彼らには「いっぱいに満たされた」感じがないし、完全という感じもない。たえず「自分の一部がどこかにいってしまった」と感じている。孤独に耐えるのがたいへん難しい。全体性を欠けるため本当のアイデンティティをもたず、人とのかかわりによってしか自分を規定できない。







受動的な依存症は、愛の欠如に由来している。受動的依存的な人々の抱えている内的な空虚感は、子どものとき、子ども時代を通じて、一貫してそこそこに愛され世話してもらった子どもは、自分を愛すべき価値のある人間で、自分に忠実でさえあれば愛され面倒をみてもらえるという、根強い感覚をもっておとなになる。愛と世話が欠けていたり、気紛れにしか与えられないで育った子どもは、そのような内的安定感をもたずにおとなになる。むしろ内的な不安感があり、「十分ではない」感じと、この世は何が起こるかわからないし何も与えてくれない、それだけ自分が愛すべき価値のある存在かどうか疑わしい、という感覚がある。だから、愛され配慮され関心を払ってもらえるとあらば、われ先に突進し、いったんつかまえると必死にしがみつういて、愛とは無縁の操作的なマキャベリ的行動をとって、せっかくの関係そのものを破壊してしまうのも無理からぬことである。これも第一部で述べたことだが、愛としつけとは関連しているので、愛もなく十分な世話もしない親はしつけにも欠けている。子どもたちに、愛されている感覚を与え損なっているのだが、同時に自制心を養うこともしていない。受動的依存的な人の過度の依存症は、彼らの性格障害を示す主な徴候にすぎない。彼らは自制心の欠如した人たちである。人々にかまってほしい気持ちを我慢しようとしないし、できもしない。人とのつながりを必死に作り上げ保とうとして、誠実さを投げ棄てる。諦めたほうがよい、すりきれてしまった関係にしがみつく。もっとも重大なことは、自分に対する責任感に欠けていることである。自分の幸せおよび充足感の源として、受け身のままに他人、しばしば自分の子どもまであてにしている。だから幸せでなく満たされていないと、基本的に他人のせいと思ってしまう。そしてそのためにとめどなく腹を立てている。他人が彼らの要求をすべて満たし、幸せに「してくれる」ことはありえないから、いつも他人に裏切られてきた感じでいる。



要約すると、依存症が愛と紛らわしいのは、それが人と人を強く結びつけるからである。しかし、それが実際の愛であることはない。正反対である。それは親の愛の欠如からきており、同じことが繰り返される。与えるよりは与えられることを求め、成長よりも幼児性に固執する。解放するよりも罠にはめ、拘束する。窮極的には、人間関係を形成するよりも破壊し、人間を作るよりも崩壊させる。





以上のことが示唆することは、幼児やペット、そして依存的で従順な配偶者に対する「愛」は、「母性本能」、より一般的に言えば「親の本能」とでも言うべき本能的な行動パターンだ、ということである。これを「惚れこみ」という本能的な行動にたとえることができる。惚れこみは比較的努力なしにできるし、意志あるいは選択による行動では決してないのだから、愛の純粋なかたちではない。それは種の存続を促すが、人間の進歩や精神的成長を目指してはいない。他者に手を伸ばし人々を結ぶきずなを作りだし、そこから本当の愛が始まるかもしれないので、愛に近いものである。しかし結婚を健全で創造的なものに高め、健康な精神的に成長する子供を育てて人類の進化に貢献するためには、さらに多くのことが必要である。

要するに、養育はただ単に食物を与える以上のものでありうるし、通常、そうあるべきなのである。また、精神的な成長を培うには、本能によるプロセスよりずっと複雑なものが必要となる。第二部の冒頭で取りあげた。息子をスクールバスに乗せようとしない母親がよい例である。ある意味では息子を慈しんでいるのだが、それは息子の必要としない慈しみで、精神的成長を促すよりも明らかに遅らせている。似たような例はこれにとどまらない。太り過ぎの子どもに食物をおしつける母親。息子には部屋いっぱいのおもちゃを、娘にはたんすいっぱいの服を買ってやる父親。何でも子どもの言う通りにして制限しない親。愛は与えるだけのことではない。分別を働かせて、あるときは与え、あるときは与えない。あるときは褒め、あるときは批判する。喜ばせるだけでなく分別をもって対決し、押したり引いたりする。愛とはリーダーシップなのである。ここで「分別」とは判断の必要なことを意味している。判断には本能以上のものがいる。そのためには思慮深い、しばしば苦しい決断をしなければならない。







恩寵の定義

第W章ではこれまで、次のようなさまざまな特性を共有する現象を論じた。


a.それらは人間の生活と精神的成長を培う ―支え守り高める― のに役立つ。

b.それが働くメカニズムは、現在の科学的思考にもとづく自然の法則によっては、完全に理解できないか(身体の抵抗力や夢のように)、まったくあいまいである(超常現象のように)。

c.それらはひんぱんに日常茶飯事的に生じ、本質的に人間に普遍的なものである。

d.潜在的には意識に影響されるが、その源は意識的な意志の外にあり、意思決定のちからはおよばない。



一般には別々に思われているが、これらの共通点は、それがひとつの現象のさまざまな現れであることを示している、と私は感ずるようになった。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ。意識の外に発する強い力が、人間の精神的成長を培う。何百年、いや何千年ものあいだ、免疫グロブリン、夢見の状態、無意識などと科学的に概念化される以前から、宗教家はつねにこの力に気づいており、それを恩寵と名づけていた。そしてこれを讃えて「何という恩寵、その甘美な響き……」と歌ったのである。

この、人間の意識の外から来る強い力について、われわれ ―適当に懐疑的で、科学的な心をもっている― は何をなすべきなのだろうか。この力に触れることはできない。測定するしかるべき方法もない。しかしそれは存在する。現実なのである。そこでわれわれは、それが伝統的な科学的概念に容易にあてはまらないからと、無視すべきなのだろうか。それは危険なことと私は思う。恩寵という現象を考えに入れることなしに、宇宙およびそのなかの人間の位置、したがって人類の性質を理解することなど望むべくもない、と考える。






それにしても個人としてかつ種としてのわれわれに、内なる無気力という自然な抵抗に逆らって成長することを促す、この力は何なのか。すでに名はつけてある。それが愛である。愛は「自分自身と他者の精神的成長を養うため、おのれを広げようとする意思」として定義されてきた。われわれが成長するのはそのために努力するからであり、努力するのは自分を愛するからである。われわれが自分を向上させるのは愛によってである。他者が向上するのを助けるのは、他者を愛することを通してである。愛すること、おのれを広げてゆくことこそ、進化の行為である。それはまさに進みつつある進化なのである。あらゆる生命体に存在する進化の力は、人間においては愛として顕れる。人間の本性のなかで、愛はエントロピーの自然な法則にあらがう奇跡の力なのである。









人々の愛する能力、したがって成長への意志は、幼少時の親の愛のみならず、一生を通じての恩寵、神の愛、によっても培われる、と私は信じるようになり、それを示そうと努めてきた。これは彼らの意識外の強い力で、無意識の働きや両親以外の愛のある人の働き、さらにわれわれの理解していない別の方法で作用する。人々が愛のない養育のトラウマを超え、人間進化の尺度でははるかに親のレベルをこえる、愛のある人間になるのは恩寵のゆえである。それではなぜ限られた人が精神的に成長し、養育環境を超えて進化するのか。私は、恩寵はあらゆる人に与えられており、われわれはみんな神の愛に包まれ、誰しもが同じように気高い、と信じている。だから私にできる唯一の答えは、ほとんどの人が恩寵の招きを気にとめようとせず、その助けを拒んでいる、ということである。私は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのだ」というキリストの言葉を、「われわれのすべては、恩寵によって恩寵へと招かれている、しかもほとんどの人がその招きに耳を傾けようとしない」という意味に解釈したい。

そこで問題は、「なぜ一握りの人しか恩寵の招きに気をとめようとしないのか」である。なぜわれわれのほとんどは実際恩寵に抵抗するのだろう。以前、恩寵が何かしら無意識にわれわれを病から守ることを述べた。では、ほとんどそれと同じようにどうして健康に抵抗するのだろう。この疑問の答えはすでに出ている。それが怠惰、われわれみんなが呪われているエントロピーという原罪である。恩寵に人間進化の階段をわれわれに登らせる窮極の力があるように、その力にあらがって、ぬくぬくと現状に甘んじさらに存在の厳しさを徐々に失わせさえしようとするのが、エントロピーである。





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「愛と心理療法」-「重力と恩寵」


「愛と心理療法」を読みつつ、そこでのエントロピーの説明のところで「重力と恩寵」と似てるんじゃないかと思ったので「重力と恩寵」を読みなおしてみた。



以前よりもちょっと理解できるようになった感じ。



愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -
愛すること、生きること 全訳『愛と心理療法』 -


重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵 (ちくま学芸文庫) -

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) -


「愛と心理療法」から「重力と恩寵」を連想したのは「恩寵」や「下降」のイメージがヴェイユの断片的なそれよりも分かりやすかったからで、今回そういうのを軸に読みなおしてみて以前より読みやすく思った。すくなくとも前半は。


カレー / 「愛と心理療法」-ヴェイユ / 銀杏|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb3c2ea2ce9b2

「人には恩寵に向かう契機が差し向けられてるのに対してほとんどの人はそれに背を向けている」「恩寵-セレンディピティを得られるのは苦しいことに向き合う回路と同じである」「そこには愛の回路がある」「愛とは、人が自分に閉じこもらず、自分の範囲を広げていくことである」「それはしばしば苦しみを伴う」「その苦しみを支えるために人の愛情がある」「親の愛が足りなくても、あとから人の愛に気づけるようになれば、恩寵は自然と訪れる」

「人はしばしばそういった回路から逃れる - 面倒臭がって/自分を守るために回路を開かないのは怠惰のエントロピーがあるからである」というのはヴェイユが言っていた重力と下降のイメージと同じようにおもった。ヴェイユの場合はこういった説明がなかったけど。


(「愛と心理療法」についてのメモ / 抜粋は次のエントリでするかもしれない)



「重力と恩寵」でだいたいは完全な理解とはいえないまでも連想とかイメージできるのだけど特にわからないなとおもったのは「遡創造」のところだった。


創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、わらわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。

われわれの生存は、われわれが存在しないことに同意するのを待つ神の意志によってのみ成り立っている。

神は絶えず繰り返して、われわれに与えたこの生存を物乞いしている。それを物乞いするために与えているのである。



この理路は「愛」の箇所にも通じる、


愛はわれわれの悲惨(ミザール)の一つのしるしである。神は自分自身しか愛することができない。われわれはなにかほかのものしか愛することができない。

神がわれわれを愛しているから神を愛すべきである、ということではない。神がわれわれを愛しているから、われわれは自分自身を愛さなければならないのである。この動機がなければ、どうして自分自身を愛することができよう。このようなまわりみちを経なければ、人間は自分自身を愛することができないのである。


もし私が目かくしをされ、両手を鎖で杖につながれたとしたら、その杖は私を事物からへだてはするが、それを媒介として私は事物をさぐり知ることができる。私は杖しか感じることができない。知覚の対象となるのはまわりの壁だけである。創られたものの愛の能力についても同じことがいえる。超本性的な愛は創られたものにしか触れず、神にしかおもむかない。神は創られたもののみを愛する(われわれにとっても、そのほかに愛すべきものがあるだろうか?)、ただし、それらを仲立ちとして愛するのである。すべての創られたものを、仲立ちとして、平等に愛しており、そのなかには神自身も含まれている。他人を自分自身のように愛するためには、一方では自分自身を他人のように愛することが必要である。




スコット・ペック的な理解では「人の愛は他者を理解するために自分(エゴ)を捨て、他者や世界といった自分にとってわからないものに向け自分を開示・理解・広げていくことである。それは苦しみを伴う。その苦しみを埋めるための初期段階では親などの愛情が必要になる。親の愛情が薄かった人はあとからこの訓練を行うために介助者の愛-理解が必要となる」ということで愛は苦しみに耐えるための資源(であり理解しようとする行為と結果)とされるわけだけど、ヴェイユのここでの記述はその定義・理解では混乱が生じてくる。


たぶん、ヴェイユのこの理路は「神は存在する・神はあまねくすべてのものを愛しているとするならばなぜわれわれの生活は苦しいままなのか?救われないのか?それは愛されてないということ、神は存在していないということなのではないか?」という問いに対する神の存在を前提とした理路なのだろうなあと思うのだけど。神学的な。なので神学の素養があるといいのかなあと思いつつ、「神はわれわれを通して見る」の部分からの連想から、高次元の存在としての神がわれわれの世界を「見る」ということについて、この辺りも関わってくるのかなあとか思った。


「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ned2dda6dbb29


目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) -
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暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
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暗闇から世界が変わる ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦 (講談社現代新書) -
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ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖 -
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全体として、ヴェイユの「他人への期待を捨てること」「真空になること」という在り方は仏教における煩悩を捨てるうんたらと似てるなあとか。愛も煩悩の一つなので。そんなことをおもってたら仏教関連のものも読んでた記述があったけど。



連想ついでに言うとヴェイユのこういう在り方というのは宮沢賢治の「春と修羅」なんかも想ったり、トリアーの描く女性像を想ったり。



ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html


「ニンフォマニアック」補遺: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425456769.html



タルコフスキーなんかも関連でおもうけど、こっちは自分的にはまだはっきりとはフィットしない(トリアーのほうがわかりやすい)。ただ、色や質感、空気感とか温度的にはこの辺なんだろうなあとか思う。


ノスタルジア|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49dd5dc2aae0


TSUTAYAでタルコフスキー / ホヤ・鯛|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n5ffc929ca6ea





まあでもそのうち経験とか思いがたまれば感じ方も変わるのかなあとか。「重力と恩寵」も同様に。


そういう意味だと棚に置いてても良い本なのかもしれない。



























--

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427158508.html




今村純子、「シモーヌ・ヴェイユの詩学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/412506991.html

posted by m_um_u at 06:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年10月17日

高浜寛、2015、「蝶のみちゆき」(ほかいくつかの作品)



はてなの一部界隈でおすすめマンガを紹介するのが少しはやってるようなのをTwitterで(´・ω`・)しつつ、そういえば自分も高浜寛についてもうすこし感の入ったものを書いてみたいと思ったことを思い出した。noteにはいちお書いたのだけどもう少し感の入ったもの。

とはいえ、高浜寛の作品の魅力はなかなかに言語化しにくいもののように思う。

簡単には「大人向けマンガ」ということになるだろうし「現実臭い」「アダルティ」などの感想が散見され、それ自体は合ってる。

「大人向け」というとセックス描写とか難解さとかが思い浮かぶかもだけど、セックス描写を過激さという観点から見た時にはそういうものを目的にしてる作品には劣る。むしろあっさりとしているのだけど、そのあっさりさというのは現実のセックス、特に女性の視点から見た時のそれに近いのかなあとか思わせる。ヤサ男のすね毛とかうなだれたペニスとか。

マンガの表現というのはどうしてもマンガの型に沿って描かれる。そういうもののなかで演出、デフォルメされることで想像力を刺激されるのだけど。それはマンガ的なもの、あるいはそれによって喚起された想像のものであって現実とは異なる。

高浜寛のマンガ、特にセックスシーンを中心とした性愛の情感はそういったものと一線を画する。


そういう意味で言うと単館映画のようだし、バンドデシネということなのだろう。なので谷口ジローが強烈に推す。


深町秋生のコミックストリート :日本的な情緒とたおやかな感性、徹底した再現力。さらなる高みへと到達した愛の物語「蝶のみちゆき」
http://www.sakuranbo.co.jp/livres/cs/2015/03/post-115.html



「今、最も読まれるべき漫画がここにある。知っているようで知らない時代、美しき遊女のお話。なんとも気負いのない絵と語りのうまさが際立つ/心が揺れる――。高浜寛の物語表現は描く度に高まってゆく。」(谷口ジロー)


「本作『蝶のみちゆき』の少なからぬ魅力はヒロイン・几帳が湛える穏やかな悲しみにあり、読む者を幕末・明治の遊女の世界へと導く官能と情緒にある。私たちは初期作品からずっと高浜寛の繊細な仕事に注目してきたが、彼女はこの作品により世界的コミック作家の最高峰へ至る新境地を切り拓いたようだ。」(ブノワ・ペータース フランソワ・スクイテン)



加えていうとこの話は吉原の話ではなく長崎の遊女の話で、あまり知られてない題材をしっかりとした取材に基づいて描かれている。特に書かれてないけど高浜寛のほかの作品にも共通することなのだろう。

とはいえ、やはり一般的な日本の漫画読みの視線からすると地味な画風だしストーリーとしても地味なものになってるように思う。なので煽りに期待して読むとそんなに…てこともあるかも。


自分は最初からそのつもりで読んだのでそんなにがっかりということもなく、むしろ日本のよくあるマンガの型から外れたとこにある魅力のようなものに魅了されていったけど。スルメのように(あるいは煮物)。


「蝶のみちゆき」が最新作にして最高傑作という評価なのでそこに至るまでの作品を読むことから始めた。




蝶のみちゆき (SPコミックス) -
蝶のみちゆき (SPコミックス) -

蝶のみちゆき -
蝶のみちゆき -

四谷区花園町 -
四谷区花園町 -

四谷区花園町 バンブーコミックス -
四谷区花園町 バンブーコミックス -

トゥー・エスプレッソ -
トゥー・エスプレッソ -

イエローバックス -
イエローバックス -

イエローバックス―高浜寛短編集 -
イエローバックス―高浜寛短編集 -

凪渡り ― 及びその他の短篇 (九竜コミックス) -
凪渡り ― 及びその他の短篇 (九竜コミックス) -

泡日 -
泡日 -

まり子パラード (Ohta comics) -
まり子パラード (Ohta comics) -



物語的には男女の恋愛を中心とするのだけれど単に惚れた腫れたで別れて嫉妬でくっついてとかな話でもなく、たとえば年齢を超越しても、あるいは別れても好きであり続けること、愛しているがゆえに別れることを当然としたような、そういった愛情のあり方が描かれている。


初心者的には素直に初期短編集の「イエローバックス」から読むのが良いだろう。

その中でも自分が好きなのは「最後の女たち」という作品。

かつては恋人だった男女が仕事のみの関係になって老齢を迎えつつ、そこで新たなはじまりを模索する。

「この歳になってこんなことでドキドキするなんてね」「ていうか、まだドキドキするなんてことがあったんだね」

そんなセリフが欄外から聞こえてくるようなラストシーン。

キャピキャピした若気の恋愛ではない、一時の昂まりを超えた落ち着いた愛情の行方というモティーフは「トゥー・エスプレッソ」にも通じてくる。

2つのエスプレッソであり「too Espressos」。苦すぎるぐらいがちょうどいい、若い恋の幕引き。



特に短編に顕著な大人のおしゃれな?恋愛の様子はエロを抜いたやまだないと的なものを想わせる。


西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD) -
西荻夫婦 (フィールコミックスGOLD) -








「四谷区花園町」以降、「蝶のみちゆき」あたりの高浜寛の絵柄はたんぱくで、ともするとそんなにうまくない印象を受ける。

でも、「イエローバックス」で収められてる初期短編からはバンドデシネ的なものを感じさせられ、本来こういう感じだったのを変えていったのだろう。そういうもの、バンドデシネ的なものがより表れていたのが「まりこバラード」だったけど。


「まり子バラード」はフレデリック・ボワレとの共作で、これも単一のストーリーマンガというよりは実験的な映画のような印象を受ける。なのでそのコードで読めない人にはおもしろくない作品だろう。物語としてもなんだか曖昧でたんぱくなものだし。




高浜寛の作品に共通した印象はストーリーではなく現実感、リアリティということではないかと思った。


ストーリーではないというと語弊があるかもだけど、型によって構築・構成された物語、ではなく、もっと身近な経験に沿ったストーリー、あるいはリアリティ。


全体としてはぼんやりとした物語なのだけどある場面が強烈に印象して、そこから自身のなかでの物語(ナラティブ)として記憶が定着していくような。その感覚を描写しているような印象がある。


自分にとって「蝶のみちゆき」という作品の印象もそういったもので、作品全体というよりもある場面に焦点した印象が作品の全体の記憶となって残った。

それは例えばふたりの最後の逢瀬の接吻だったり、その運命を暗示する蝶のみちゆきの様子だったり。一頁まるごと使った、陽炎のように立ち昇る蝶のみちゆき。



余計なことかもだけど、そういった表現から受ける印象として、この作品はこういった表現よりももっとふさわしいやり方のほうが伝わりやすいのではないか?とか思ったりもする。たとえば映画とか、あるいは浮世絵的なものとか。


もともとはカラーで描かれてたみたいな話もちら見した気もするので、それだとまた印象が違ったのかもしれない。






















蝶の道行|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n2104568ec2dc

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2015年10月15日

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」



読んでしばらくしてから「なんでこれ読もうと思ったんだっけなあ。。( ^ω^)・・・あ、ジャレド・ダイアモンドのセックス本が思ったより予約集中しててすぐ読めなそうだったからこっちにしたのか」て気づいたのだけど



文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) -
文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫) -

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか -
人間の性はなぜ奇妙に進化したのか -

セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) -
セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ) -



そう思ったのは今回紹介する本がおもったより面白くなかったからで、、まあそういうと紹介される人も読む気が失せるだろうからなんだろけど、単に自分が期待してたものに対して合わなかったからでこういうのを必要としてる時とか、必要とする人には良いのかなあとか。それとは別にダイアモンドの思い出したのでそのうち読むけど。






セックスと恋愛の経済学: 超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -
セックスと恋愛の経済学: 超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -


セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -
セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 -




この本は恋愛とセックスの、というか主にセックスを中心とした男女の付き合いを経済学的に考察したらどうなるか?という視点で描かれたエッセイぽいものになってる。経済学的にていうか、そんなに本格的に経済学してるってほどでもなく、経済学に使われるような統計データとそれに基づいたちょっと経済学的概念を使った考え、みたいなの。まあ「ヤヴァい経済学」系の流れなのかなあ。


なので、ふだん一定の価値観が先行しやすい性愛領域を経済学的な効率性・合理性からスパっと見るときにはわかりやすい。


てか、自分的にこういう考えが基本になってるとこもあるので、人に説明するときに便利だなあとかおもった。


例をあげてくとキリがないので、そのなかで印象に残った箇所を以下抜粋。


これなんかはこの本の考え方をあらわした代表的なものだし、自分も似たようなこといったことある(←ナノデモテナイ)




経済学に基づいた全く新しい結婚の誓い:

新郎:
「私は彼女との契約を結ぶことに同意します。それは私たちの結婚生活にわたって有効です。私は確かに新婦よりはるかに質の高い他の女性たちに出会いましたが、彼女たちは私に飽き足りなかったために、あなたとの結婚に至ったことを受け入れます。あなたは学歴と収入の点で私の希望を欠いていますが、そのぶんは若さと外見的魅力で埋め合わせてあまりあります。そして私は、このトレードオフはあなたを妻として選ぶには充分なものと誓います。わたしは誠実であるおkとを誓います。あなたの魅力は加齢とともに不可避的に低下するものであり、相手を探すことは低コストなのでいずれ新たな妻を求める動機になるにもかかわらずです。私は良い家庭を築くという共同の目標に向かってあなたと家事を分担することを誓います。また私たちの世帯の将来の収入に対するあなたの期待を満たすため、自らの人的資本を投入し続けることを誓います。あまり合理的ではないかもしれませんが、私は子供たちと資産ポートフォリオに投資することを誓います。あたかも、死が私たちを分かつ時まで私たち家族が一緒であることを期待するがごとく」



新婦:
「私は彼との契約を結ぶことに同意します。それは私たちの結婚生活にわたって有効です。私は確かに新郎よりはるかに質の高い他の男性たちに出会いましたが、彼らは私に飽き足りなかったために、あなたとの結婚に至ったことを受け入れます。あなたは身長と容姿の点で私の希望を欠いていますが、その分は学歴と職業選択で埋め合わせてあまりあります。そして私は、このトレードオフはあなたを夫として選ぶには充分なものと誓います。私は私たちの結婚生活で生まれるどの子供についても生物学的にあなたの子供であることを誓います。たとえ、よりすぐれた遺伝的資質を与えてくれる他の男性に短期間目移りすることは確実でもです。また子供たちの人的資源を育むために、自らの人的資本を犠牲にすることを誓います。あなたが家庭の幸福のために必要な資源を十分に持ちよってくれることがわかっているからです。あまり合理的ではないかもしれませんが、私は敢えてリスクを取り、結婚生活と資産ポートフォリオに投資することを誓います。あたかも、死が私たちを分かつ時まで私たち家族が一緒であることを期待するがごとく」





上記のような合理性が共有されてれば特に男女差がどうとかいうこともないようにおもう。ちなみに本書において結婚のメリットというのは「子育てのため」「一緒に暮らすとその分節約されるから」みたいな感じだった。結婚、というか生活というのも規模の経済性みたいなのが働くのかな?(cf.カレーは大量に作ったほうがおいしいし安く済む)。




ついでに気になったちょっと気の利いたものとして「なぜ人は不倫するのか?」みたいなことについての経済学的な説明。

「なぜ不倫するのか?」な疑問というのは世間的には「不倫はイケない」みたいな倫理コードが内包されてるように思うんだけど、そういうのは別に単に期待費用から考えたもの。






不倫の期待費用:

人が伴侶を裏切るのは、そのメリットが期待費用を上回ると思うからです。裏切りの期待費用は次のように考えられます。

露見する確率 × 露見時の費用 = 裏切りの期待費用



田舎の専業主婦の不倫発覚率が30%、夫が離婚に踏み切る確率は50%、離婚に至った場合に彼女が被る経済的損失は10万ドル相当だっとしましょう。


0.30 × 0.50 × 100000 = 15000ドル


不倫のメリットは1万5000ドル以上でなければなりません。


これに対してキャリアウーマンの場合は不倫発覚率は外で仕事をしていて出張などもあるため、不倫発覚率はわずか5%、夫が離婚に踏み切る確率は50%、離婚に至った場合に彼女が被る経済的損失は5万ドル相当だったとしましょう。


0.05 × 0.50 × 50000 = 1250ドル


したがって彼女にとっての不倫のメリットは専業主婦の場合よりもはるかに低く、1250ドル相当のメリットが見いだせるなら良いわけです。





あとは単婚やポリアモリーの合理性についての経済学的考察、あるいはLGBTとして生きることの経済学的考察なんかもあったな(cf.同性愛者は社会保障が効きにくく一般社会に馴染みにくいため専門職につきやすく、貯蓄も(ヘテロの意味での)一般人より多い)。




「特に男女差がどうとかいうこともない」つながりでいうと最近「家父長制と資本制」を読んで似たような結論に至った。


「家父長制と資本制」雑感|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n046419efe247

そういうのを考えると、フェミニズムの問題で女性固有の問題としてうんたら言うよりも労働問題としてやっていったほうが雑味がなくていいのかなあとか思ったりする。フェミニズム-女性固有の問題としてやっていくと自己言及的になってけっきょくは「女性以外の人にはわからないんですよ!」みたいな結論になりがちなので。事態の進展は労働・就労条件の改善によって進んでるわけだし。


そういうわけで自分としてはこの部分の地味なギロンのお勉強としては労働、あるいは、家族に関わる歴史・制度などについて学んでいくことかなあとか思ってる。





日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -
日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか -




仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -


仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -
仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書) -

筒井淳也『仕事と家族』(中公新書) 8点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52106679.html




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2015年10月03日

M・スコット・ペック、1983、「平気でうそをつく人たち PEOPLE OF THE LIE」




文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -
文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫) -


最近の一連のあれでちょっと辟易したから読もうと思ったのか、それとも「あ、そういやこれ読もうと思ってたけど忘れてたな読もう」てことでこっちを先に読んでたのかわすれたけど、最近の一連のあれと読んでいたこれがリンクして、というかネットにおけるみょーに祭りをする人たちの問題とこの辺がリンクして自分的にはけっこう有益な読書体験だった。


「邪悪」に背を向ける|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4a9c37426e0e



人に対して邪悪であるというのはビミョーな感じで、「そこまで強い言葉を発しなくても良い(切断しなくても良い)」「そういう自分が邪悪かも」というのはあるんだけど、世の中にはある程度見切りを付けないとズルズルと悪い方向にすがってくる人たちというのがいるので。あるいは自分がそういう人たちに関心をもっても時間の無駄なのでさっさと切ったほうが良いみたいなの。


彼らが邪悪なのではなくそう言ってる自分が邪悪なのかもしれないけど。すくなくとも自分はそのように反省ができる。
でも、こういった倫理というか誠実さ?の突き詰めみたいなのは人によってはモラルに対するハラスメントにも感じるのかもしれない。自分は単に他人にそれをむけてるだけではなく自分自身に向けてるものだからふつーのことなんだけど。まあそういうので(∩゚д゚)アーアーききたくなーいてやる人たちはけっこういるだろうなとおもうし、そのぐらいで邪悪というのもどうかなってのもあるけど。人におけるだいたいの悪か正義かみたいなのははっきりと定常的なものではなく、それぞれがそれぞれの情況や問題の中で正 / 悪の位置がちがったり、悪と善の中間 - 連続体にあったりするので。

とりあえず、自分たちの正義とか正しさみたいなのは喧伝しつつ他人を貶めてばかりの人たちの醜さ、あるいは彼らが信じる雑味のある倫理観にはすこしイラッと来る / 無駄に時間をとられるのでみないことにした。
どうせ自分が声を上げても(∩゚д゚)きこえなーいようだし、だったらもうちょっと直接に語りかければどうか?というとモラハラにとられるのかもだし。まあそこまでコミットすることでもないので。






では、そこで挙げられる「邪悪」あるいは「悪にある人たち」の定義や特徴、その定義の範囲の限界とはなんなのか?そういうのが定まってないと無制限に自分の恣意で気に入らなければ「邪悪」て決めつけることになりかねない。


そうおもったので本書で挙げられていた邪悪の定義・特徴に関わると思うところを自分なりに抜書きしてみた。

そういうわけでこのエントリはその定義・引用のメモ的な性格を主とする。あとで自分で見返したりもしたいので。


加えていうと本書の内容は「うそをつくひとたち」というよりは「悪」や「邪悪」というものを精神医学的に定義しようとする試みだった。そういうのは精神医学の対象になりえるのか?(倫理学なんかの対象ではないか?)てとこなんだけど、臨床だとそういうひとたちがちょこちょこ訪れて大変ということもあるようで定義の必要性を感じたらしい。いわゆるサイコパスとかそういうのだろけど、そこまでいかなくてもアレゲなひとたちとか。

そういう人達に対するアプローチは民俗学とか社会学的に「観察」→「とりあえず腑分け / 整理」というのもあるのだろうけど

ネットで他人を血祭りにあげる人々|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne4255b3d37d8



あと、本書で挙げられているひとたちの事例としていわゆる毒親的な問題や共依存(心理学的には「共生」)としてもあった。そこでは相手を人間・人格的に無脳にして支配しようとする関係があるので。





では、以下は邪悪についての引用をメインに。









悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである。生 ――特に人間の生―― には不可欠の特性がいろいろとある。意識、可動性、近く、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。したがって、われわれは、たてがみ一本傷つけることなく馬を「破壊」することもできれば、髪の毛一本傷つけることなく子供を「破壊」することすらある。エリッヒ・フロムはこの事実を鋭くついている。フロムは「屍姦症」の定義を拡大して、他人を支配したいというある種の人間の欲望―他人を支配可能なものにし、その人間の他社依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑え込んでおきたい、という欲望をもこれに含めている。フロムは、その著 The Heart of Man: Its Genius and Evil(「悪について」)のなかで、「生を愛する」人間、つまり、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重しこれを育成する人間と区別して、「屍姦症的性格」というタイプを論証している。この種の性格の人間が求めていることは、他人を従順な自動機械に変えることによって人生の不都合を回避し、他人から人間性を奪うことである。

したがって悪とは、とりあえず、人間の内部または外部に住みついている力であって、生命または生気を殺そうとするものである、ということができる。また、善とはこれと反対のものである。善は、生命と生気を促進するものである。






私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

スケープゴーティング、つまり罪の転嫁は、精神医学者が「投影」と呼んでいるメカニズムによって生じるものである。邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人達が間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである。

したがって悪とは、他人をスケープゴートにするために最も頻繁に行われるものである。




邪悪性とは、自分自身の病める自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力を振るうことである、定義することができる。簡単に言えば、これは他人をスケープゴートにすることである。われわれが他人をスケープゴートにするときは、その対象となる相手は強い人間ではなく弱い相手である。邪悪な人間が自分の力を乱用するには、まず、乱用すべき力を持っていなければならない。この支配関係として最も一般的に見られるのが、親の子供にたいする関係である。子供というものは弱く、無防備で、しかも親との関係に縛られている。彼らは親に隷属すべく生まれてきたのである。したがって、邪悪性の犠牲になるのは、その大半がボビーやロージャーのような子供だということも、べつに驚くべきことではない。彼ら子供には逃げだすだけの自由もなければ、その力もない。




邪悪性とは罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとする気持ちから生じるものである。

「愛と心理療法」のなかえ私は、精神の病の根底には怠惰、つまり「当然の苦しみ」を逃れたいという欲求があると書いたが、ここで問題にしていることもまた、怠惰の回避、苦痛からの逃避である。もっとも、邪悪な人たちというのは、一般的な意味での苦痛からの逃避者、つまり怠惰な人間ではない。それどころか彼らは、ご立派な体面や世間的を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向もある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ、熱意を持って困難に取り組むことすらある。彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

自省に伴う特有の苦痛を避けるためにはあらゆることをやってのける彼らが、心理療法を受けようとするなど、通常の状況のもとではまず考えられないことである。









自己愛(ナルシシズム)はさまざまなかたちをとるものである。なかには正常なものとされているものもあれば、幼児期には正常とされるが成人の場合には正常でないとされるものもある。また、ほかとくらべて著しく病的なものもある。ナルシシズムの問題は、重要な問題であると同時に、複雑な問題でもある。もっとも、本書は、このナルシシズムの問題のすべてを等しく検討の対象とすることを目的とするものではない。したがって、エリッヒ・フロムが「悪性のナルシシズム」と呼んでいる、ある種の病的ナルシシズムの問題に話を進めたい。

悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。

邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。




私自身の見方に従えば、自由意志の問題は、偉大な真理の多くがそうであるように、ひとつのパラドックスである。一方では自由意志というひとつの真実がある。われわれは、陳腐な「教義」や条件付けその他の多くの要因なしに、自由に選択することができる。その一方では、われわれには自由を選ぶことができない。そこにはふたつの状態があるのみである。この服従の拒否こそが、とりもなおさず、人間を悪魔の力に隷属させるものである。結局のところ、われわれは神か悪魔のいずれかに帰依しなければならない。私は、善にも、また完全な利己心にもとらわれることなく、神と悪魔のまさに中間にある状態が真の自由な状態ではないかと考えている。しかし、この自由はばらばらに分断される。これは耐えることのできないことである。われわれは、いずれに隷属するかを選ばなければならないのである。





「いいですか。私が最も驚いたのは、お二人が、ご自身が治療を必要としていることを認めるくらいなら、ご自分の息子さんが不治の病を持っていると信じるほうがましだと考えておられる、つまり、息子さんを抹殺してしまいたいと考えておられるようにみえることです」





邪悪な人たちのナルシシズムは、この共感の能力を全面的に、あるいは部分的に欠いていると思われるほど徹底したものである。アンジェラの母親は、自分の娘が髪をブロンドに染めるのをいやがっているのではないか、といったことを考えてみようともしなかったことは明らかである。ボビーの両親も、兄が自殺に使った凶器をクリスマス・プレゼントとして弟に贈った場合、その弟がどういう気持ちになるか考えてみようともしなかった。同様にヒトラーもガス室に送り込まれるユダヤ人の気持ちなど考えてみようともしなかった、ということが想像できる。

こう考えると、彼らのナルシシズムは、それが他人をスケープゴートにする動機になるというだけでなく、他人にたいする共感や他人を尊重する気持ちからくる抑制力を奪うという意味からも、危険なものである。邪悪な人たちのナルシシズムは、彼らが自分のナルシシズムに捧げるためのいけにえを必要としているという事実に加えて、自分のいけにえになる相手の人間性をも無視させるものとなる。ナルシシズムが彼らの殺人の動機となるだけでなく、殺しという行為にたいする彼らの感覚を鈍らせてしまうのである。ナルシシストの他人にたいする無神経さは、共感の欠如異常のものにすらなりうる。ナルシシストは他人を「見る」ことすらまったくできなくなることがある。




邪悪な人間は、つねに、自分たちの動機をうそで覆うものである。

R夫妻の私とのやりとりを注意深く読んだ読者には、彼らが数多くのうそをついていることがわかるはずである。ここにもまた、驚くべき定常性が見られる。これは、彼らが一つか二つのうそをついていたという問題ではない。ロージャーの両親は、くりかえし、また、常習的にうそをついている。彼らは「虚偽の人々」である。そのうそは、あからさまなものではない。訴えられて裁判にかけられるような種類のうそではない。しかし、そのうそは、いたるところに見られるのである。そもそも、彼ら私に会いにきたことが、ひとつのうそだったのである。

彼らがロージャーのことを本心から心配していなかったのならば、また、私の助言などほんとうは必要としていなかったのならば、なぜ私の診断を求めたのだろうか。その答えは、それが彼らの、うわべをとりつくろうやり方のひとつだったからである。彼らは、ロージャーを救おうとしているかのように見せかけていた。いずれの場合も学校からそうするように言われたものであり、それにたいしてなんらかの対応を見せなければ、いいかげんな親だと見られてしまう。「息子さんを精神科医に診せたんでしょうね」ときかれたときに困るからである。









精神医学は、私が邪悪性と呼ぶものを包含する、これまでとは違った新しいタイプの人格障害を認識すべきときが来ていると私は考えている。自己の責任の放棄はあらゆる人格障害の特徴となっているものであるが、これに加えて、邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。

(a) 定常的な破壊的、責任転嫁行動、ただしこれは、多くの場合、極めて隠微なかたちをとる。

(b) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。

(c) 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感性あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。

(d) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けた時の軽度の精神分裂症的思考の混乱が伴う。








あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。集団のなかの個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、われわれはこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子供たちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任だということを、子供たちが最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。






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posted by m_um_u at 12:08 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

そのうち chromecast も買おかなあ。。


GooglePlayMusic(以下めんどいのでGPM)をはじめたのもあってついったのTLでちらっとchromecastの話題をチラッとみたら意識されて「もしかしてchromecastつかうとGPMもテレビで流せるの?」て調べたらやっぱそうだった。






Wi-Fiの帯域に注意だけどたぶんいま使ってるのでおkそう。だとすると5000円ぐらいで少なくともテレビからGPMとラジオが聞けるぽい。うちのラジオは不安定なのでこういうのはちょっと便利。あとDOMMUNEとかも。PCだと遅くてなかなか見れなかったけど購入すると機会高まりそう。

ほかにコンテンツというと無料なデフォだとYouTubeとかニコ動とかになるのだろうけど、そういうのはなんかおもろいのが引っかかってくるチャンネル/アンテナを設定しとけばいいのか。自分的に。

もしくは月額定額1000円ぐらい払って見放題のサービスにひとつ入る感じぽい。huluかNetfix。

映像コンテンツについてはテレビに録画してるもの+たまに借りてくるDVDな現状でも可処分時間がそんなに振り分けられてないのでいまのところそんなに魅力を感じないのだけど、過去の連ドラとかアニメ、海外ドキュメンタリーを見るのには良いのだろう。まあそのうち検討ぐらいで。


てか、自分的にはマンガの低額定額見放題があると良いのだけどそれはいまのところこれといったのがないぽい。


男性女性でも楽しめるおすすめお試し無料漫画と定額プラン料金の比較 | ネットでレンタル生活
http://sikakunowa.com/comic/

【電子書籍】無料/定額制 雑誌・漫画読み放題サービス一覧まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135498323030672401


まあこれは近場のマンガが結構そろってるほうのTSUTAYAにちょこちょこ通う程度か。



こういうのって文化資本的なもののユニバーサルサービスということでもはや現代の図書館的な課題になってると思うんだけど図書館はこういうのタッチできないのだよなあ。。てか、CCC-TSUTAYAと図書館な戦争関連だとこのへんがむしろ hack されないかなあとか。案外TSUTAYAもそういう未来を見越してこの辺参入してきてるのかもしれない。たんなる不良在庫のゴミ捨て場として利用ってだけでもなく。



ところで chromecast 、Amazonからは買えなくなってやんのね


アマゾン、「Apple TV」「Google Chromecast」を販売禁止に--「Prime Video」に関連しての措置 - CNET Japan
http://japan.cnet.com/news/service/35071333/

値段的には一本歯下駄と同じなのでこれ買うならそっちを先に買わなきゃだけど(あとコーヒーミルとか)






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「特別」を買い与える(すこし)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc55f0e310747








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