2015年09月18日

ガッチャマンクラウズInsight




安保改正法案可決うんたらをめぐって賛成/反対なあれでけっこうかしましい世の中の情況で、それ自体についてついったなんかだと愚痴的に言ってるんだけどブログするのは野暮な感じで、んでもそれと並行するように今季のガッチャマンクラウズがテーマとしてリンクしてるなあとか思って見てる。










「ガッチャマンクラウズInsight」は前作の「ガッチャマンクラウズ」の続編で、簡単に言うと「ガッチャマン」て冠はしてるけどガッチャマンそのものとはあまり関係なく、いちおガッチャマンてことでヒーロー的な能力をもったヒーローが主題な話になってる。

前作では、前半部は主に昨今のヒーローもののテーマ - 描き方を踏襲したヒーローであることの葛藤や内面を描くというものだった。つまり「ヒーローズ」(未見)とか「タイガー・アンド・バニー」的な2000年代ヒーローの描写。そこから出てきた「ヒーローであることはみんな(クラウド)で受け持つ」といったテーマが後半部で、その詳細が今作に継がれている。


ガッチャマンクラウズにはいくつかの歴代ヒーローのステレオタイプ的なものがキャラクターされていて、それぞれのヒーローがそれぞれの時代と世界を守ってきたのだけど、一人のヒーローの力では世界を、あるいは社会を支えきれなくなったところで新時代のヒーロー(ヒロイン)が要請される。それが主人公である一ノ瀬はじめなわけだけど。ほかのヒーローたち(特に清音くんとか)が熱血正義ヒーローしてたのに対してはじめちゃんはそういうものが最初からない。なので「ヒーローの資格がないのではないか?」と疑われていたけど…。


フロム的愛の体現者としの一ノ瀬はじめ ――ガッチャマンクラウズ感想 - メモ帳
http://espresson.hatenablog.com/entry/2015/07/10/204830



ベルクカッツェというのはモロに2ちゃんねる的な悪意の体現で、そういった悪意もはじめちゃんは自分の内部に受容していく。ちなみにベルク・カッツェというのは「ガッチャマンクラウズ」において最初は謎の勢力とされた爾乃美家累(にのみやるい)とX(エックス)の対立軸として設定されたものだった。あるいはその逆にカッツェ的な悪に対抗するための新たなヒーローとしてガッチャマンたちとは独立に組織されたのがにのみやるいとクラウズだった。メタファー的なことをいうと、従来型のヒーロー像というのがひとりの、あるいは少数のカリスマに頼った寡頭政治だとすると、にのみやるいが目指したものはより民主的なガバナンスだった。でも、そこにおける正義をにのみやるい(とエックスというスーパーマシン)が決めるというところで矛盾をはらんでいたわけだけど。ベルク・カッツェというのはそういったヒーローたちが立ち向かうべき課題のメタファーだった。そして「倒すべき敵」≠「根絶すべき敵」とされてきたそれを最終的に新時代のヒロインである一ノ瀬はじめは受容し、自らの内部にとどめていった。そこで倒す/根絶することによって新たな敵が生まれるだけなので。



前作はそういうところでちょっと常人離れしたはじめちゃんに頼りすぎてる感があった。いくら「クラウドで」といっても最終的にははじめちゃんという超人的包容力をもった個性の登場 / 誕生に依らなければならないのでは?、それが前作の課題として残ってたのだと想う。



前作についても今作についても詳しく語ろうとするとメンドクサイので端折るけど


ガッチャマンクラウズ カテゴリーの記事一覧 - メモ帳




前作は最後に「ヒーローであること」「社会を守ること」がICTを通じて「みんなで守る」に接続され、スマホを通じた直接民主制の実験が展開されていた。首相も直ぐにスマホ選挙で選べ、ヒーローへの賛成/反対も同様にスマホ民意で反映される。民意がすぐに社会に反映されていく。ただ、それも非常時だったからというのもあり継続してそのような体制で社会が回るのか?という課題が残った。



今作はそういった課題をもうちょっと詳しくほり込んでいったもののように想う。



クラウド民主主義を全体の課題としつつ、前半部ではにのみやるいとエックスの体制の影の部分のオルタナとしてリズムくんと赤いクラウズの集団が結成(ネットワーク)される。彼らがやってるのは暴力でもって意志を通すやり方で、ここでるいくんのやっていたことが社会主義あるいは共産主義的な夢だったのだなあと逆に気付かされる。リズムくんのほうはその中でもよりラディカル?な暴力を中心とした無政府主義。リズムくんは「人類は暴力を中心としたサルである」と説き、るいくんのような「みんなの善意で」的なやり方を否定する。暴力と一人のカリスマに依る社会の牽引と統制。りずむくんとの対話は、途中でツバサちゃんやサドラの救け(横槍)が入ったものの、それが入らなければけっきょくるいくんの敗北で終わる。そしてリズムくん的な思想はとりあえず保留され、ガバナンスの次のモデルにバトンが受け継がれていく。



サドラとツバサの体制はクラウド型民主主義を宇宙人的特殊能力でより直接的に反映したものとなっていく。そこでは「みんなの思いは良い方向に向かう」「ひとつになれば良い方向に向かう」が基本となるのだけど、結果的にそこでも矛盾が生じることが描かれていく。


ガッチャマンクラウズ インサイト 第10話 「意志を持たず流されるままに暴走する『畜群』に立ち向かう、『貴族』のガッチャマン」 - メモ帳
http://espresson.hatenablog.com/entry/2015/09/13/193945



人間はアリとは違う知能や個性をもった社会性動物なので、「一つになる」「みんな同じでみんないい」というのはマイノリティ的な違った考えを持ってる人たちへの抑圧を生み出していく。いわゆる「空気」的なものとして。あるいは権力。


同じ宇宙人でより凶悪に思えたベルク・カッツェがサドラのことを恐れていたのはそういった善意に装った空気の胡散臭さと力を恐れていたということになる。新興宗教的洗脳のような。


10話ではそういった空気の正体が明かされ、ようやくにして今作のヒロイン?として設定されたツバサちゃんがガッチャマンの力に目覚める。


それまでみんなの善意を信じサドラと行動をともにしていたツバサちゃんが自分とサドラが良かれと思って生み出していたのが「空気」というバケモノだったことに気づき凹んでいた時、いつものようにゆる爺はゆる体操をすすめる。「もっとゆるくなれ  もっと中の物を吐き出せ」というゆる体操の真髄は、特定の言葉や思想、イデオロギーを先行に考えるのではなく、もっとゆるく自由に風を感じてはばたけというメッセージだったのかなあと想わせる。ツバサという名前も、彼女のガッチャマンとしてのギミックもそれを暗示させる。リラックスしてゆるくなってなければ良い風は感じられない。



結果的に「善意」な「空気」に基づいた「みんな」の統治はリセットされ、凍結されていたリズムくん(暴力を中心とした無政府主義、あるいは原始共産主義)な課題がふたたび登場する。




こうやって言語化してキャラの性格と意味付けを再検討していくと、今作でツバサちゃんというキャラをあらたに設定したのはこういった課題に対してどのように作用するのか?いろいろ想像出来て良い。


いまのところは「はじめちゃんというあまりにも一般人離れした菩薩的なキャラよりももう少し等身大の女の子を設定した」「このコも従来のヒーロー / ヒロイン的なものに比べて「自由」な気風がある」というところだけど。





今作を見つつ日本の現状のリアル政治-社会関係を想い、「民主主義におけるマイノリティ的なものはどちらなのか?」「民主主義とは何か?」「その落とし所はどの辺りなのか?」「自分は特定の思想に凝り固まってないか?」とか反省してみるのも良いかも。





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2015年09月06日

「ニンフォマニアック」補遺


ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425284729.html




読み返しつつちょっと書きそびれたなあってとこをnoteにしたりもしたんだけどほかにもちょっと書きそびれたとこがあったので簡単に。


湘南行き、ほか|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb2baf4d33815

父親が主人公の幼い時に樹の名前について教える場面、そして、性依存症を断つためにすべての「性欲を喚起させるかもしれないもの」を部屋から捨て去っても樹木の押し葉ノートは捨てられなかったこと。

おそらく主人公は父親との関係 - 父親への(直接的な性欲ではない / むしろ肉体的性欲ではないところでの繋がりや依存、心の拠り所、みたいなのがあって、その象徴や集約が押し葉のノートになっていたところがあった、、のかもしれない。

「のかもしれない」という歯切れの悪い言い方をするのは、そういった見方がファザコンな解釈に偏るから。そういったところもあったのかもだけど、セクシャリティは複雑な要素の関係から成り立つものだろうし、その内容も複雑なものとなるから。
樹の話に象徴されるもの、あるいは樹の押し花をみているうちに性欲が喚起されたのは、父親へのファザコンだけではなく、植物の性の官能性そのものが彼女のセクシャリティの一部となっていたところがあったからかも。




主人公の性欲というのは「生まれつきセックスが好きで好きで仕方がなくて」みたいなことでもなくて植物への感性みたいなのが向かった方向にたまたまセックスがあっただけだったのかなあとかおもった。

もちろん、性的な素質というか、そういうのに対する感性とか好奇心とかはほかの子どもよりはあったのかもだけど。それを手挽きしたのは友人Hだったし。友人Hというのはませた子どもなだけで特にニンフォマニアになるわけでもなくセックスのループから卒業していったし。

実際、主人公の初体験はそんなに良いものでもなかったし、そこでの快感みたいなのもなかった。

その後のセックスも、セックスにおける快感に虜になっていった、というよりは、単に男との関係があることに充足していた(それでなにかを満たしていた)ぐらいな感じだった。「男をセックスで釣って、その間はひまつぶしできる」、みたいなの。

なので、セックス自体の快楽に依存していた、というよりは、そういった関係性を埋めれれば落ち着いたのかなあとか。



まあそういうのも「孤独を埋めるためにセックスとか異性に頼っていた」とかいうとかわいそうな女な印象になるけどそういうことでもなく、単にひまつぶしだったのだろうけど。あるいは手慰みというか。多くの男性がもってるマスターベーションなアディクションがセックスで発露してただけで、ただ、セックスは人間関係が生じるから面倒なことになっていた、ってだけだったような。


あとはやってるうちに快が増していって、そして習慣化もしていって、なのでそれが癖になっていったのかなあ、ぐらい。

たばこの依存症でもそうだろうけど、やってるときも、あるいはやめたときには「そんなにうまくないのになんでやるんだろ?」みたいなのがあるだろうけど、それがたまたまセックスだっただけみたいなの。あるいはポテトチップスとかジャンクフードの習慣とか。




人の欲求なんかおぼろげなものだから最初からはっきりとした欲求はなくて、やってるうちに習慣化してくところもあるのだろう。








posted by m_um_u at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2015年09月03日

ラース・フォン・トリアー、2013、「ニンフォマニアック」






















                        おまえは神には遠すぎる


















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Nymphomaniac Vol. I & II -
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Nymphomaniac Vol. 1&2 -
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TSUTAYAで准新作になってるの見かけて(´・ω`・)エッ?レンタルで出てたんだ?(しかも準新作になってる)てことで借りてみてみた。TSUTAYAに魂を売ってるのでセールの日(おもに週末)だと准新作まで一枚108円で見られるので。


二枚組ということもあるし同じような時期に似たような?反響もあった「ゴーンガール」が自分的には(´・ω・`)だったのでそんなに期待してなかったのだけど、すこし予想を裏切られる形だったしちょっと感想を書いてみたい気になった。「裏切られ」たのはもちろんよい方向に。


物語概略は他人様のところに任せるとして

『ニンフォマニアック』は、“女性のセクシュアリティの物語”ではない。 - (チェコ好き)の日記
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/10/13/110908

結論:『ニンフォマニアック』は「救済とその不可能」の物語。 - (チェコ好き)の日記
http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2014/11/17/105052





最初に言ってしまえばやはりこの作品も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」同様ある意味での聖人のそれを描いたもののように思えた。あるいはキリストの誕生的なもの。


そう思わせる箇所と説明的セリフは映画の端々に付られていた。


たとえば神父を思わせる読書家の男との対話の中で、主人公(色情狂(ニンフォマニア)が歩んできた人生を語っていくのだけど、その端々に聖書の主題をなぞるような箇所がでてくる。ただし、キリストの誕生を性欲の救世主の誕生として戯画するような。それが戯画となり「おまえはキリストを冒涜するのか?」と言われるのは性欲が現在の社会においてもなお悪しきものとされるからだけど。特に女のソレが。その意味では神父のような読書家との対話は悪魔(ニンフ)と神父≠読書家≠研究者の対話といえ「ファウスト」なんかも想わせる。悪魔はところどころに誘惑をちらつかせ男の欲望=堕落を誘う。



最後に、彼女の人生を振り返り結論を与えるような場面で彼女の人生=映画の主題もある意味そこに落ち着きそうになる。



「女の性欲は悪しきものなのか?」

「これが男であればことさらに問題にされることでもなく、凡庸なドンファンな話として終わっていただろう」

「なぜ、女であるというだけでここまでおまえは苦しみ、貶められてきたのか?」

「おまえがそのように過激で、攻撃ともいえる異常な性欲をもったのはおまえの生まれに歪さとなんとも座りの悪いところがあったからだ。おまえの性欲の異常はそれに対する反抗だったのだ」




「罪」に対して、そういった救いの手を差し出されながら、彼女は敢えてそれを拒否する。ちょうどカウンセリングで「セックス依存症」の烙印と救済を拒否し「わたしはいやらしいニンフォマニアだ!セックスが好きなんだ!」と宣言したように。安易な救済と、それと引き換えに与えられるしょぼっくれたラベリングを彼女は敢然と拒否する。他人による安易なパターン(物語)を受け取る代わりに彼女は自分の欲望を生きることを選択する。自身の欲望を肯定し高らかに笑う。それが世間的には「異常」な性欲だったとしても。「異常」な性欲はなんらかの欠落や歪みに対する結果だったと言われても。「わたしの性欲は単に欲望としてそこにあって、それをただ埋めていただけなのだ」、と。ちょうど食欲を満たすように。それは悪でもなければ罪でもない。なので罰(ラベリング)という救いも要らない。


「わたしはただ食欲を満たすように性欲を満たしていただけだ」「そこになんのエクスキューズも、なんらかの『哀しい理由』のようなものもない」



そうはいっても世間的にその行動が異常だったり、それによって自身の正常な生活が脅かされていたらそれはどこかでバランスを崩してるということであり、結果としての逸脱だったり依存だったりということだと思うのだけど。特にこの主人公の場合は幼少期の母親の不在と、対照的な父親の理想化、愛する父親の無残な死に様が平衡を崩すことに関連してるようだった。といってもそれ以前から性的なものへの目覚めが早かった / 感性が優れていたようだけど。

とまれ、それによってできあがる「異常な性欲を抱えるひとは幼少期に両親の関係や愛情になんらかの不和や不足があって」みたいなパターンがある程度の蓋然性を持つとしても、それで全てが説明できるわけでもなく、それのみによる安易な解釈を主人公は迂回していく。


こういった俗流フロイト心理分析的な解釈、あるいはそれに代わるフェミニズム的に凡庸な視点から生まれるヤサシイ解釈が「異常」な性欲や行動、選択になんらかの理由を付けてくれても、それによっていま、現在その欲望の中にあるもの、あるいはそれによってある選択や決断をしたものが救われるでもないので。そういった解釈を受け入れることで「正常」な生活に戻れるきっかけは得られるかもだけど、それによって彼女たちが立たされるスタート地点は「正常」なそれからすると極端に低いところになる。そのラベルと現実を受け入れて小さく生きていくことを彼女は拒否する。ちょうど行者や求道者が安易な救済を拒否するように。

こういった俗な解釈がけっきょくは風俗嬢やAV女優に「かわいそう」しつつもやることはやる説教おやじと変わらねーじゃねーか?(おまえらは肉体的にはレイプしなくても精神的にレイプしてるだけだ)ということを映画のラストは戯画的に表す。

それは世のヤサシイ男性一般に対する視点としてはすこし意地悪にすぎるようにも思えるけど、「ヤサシク親切なだけな救済ですべてうまくいくってわけでもないだろ?w」って監督なりのリアリズムだったり照れ隠しだったりしたのかもしれない。






映画全体をもう一度振り返ると、「性に奔放な女性の一代記」ということだと構造的には「エマニエル夫人」と変わらないように思う。なので人によっては単なる過激なポルノの一種として受け取られたかもしれない。


ただ、「エマニエル夫人」が性の探求のモチベーションや内容そのものに特に暗い背景を設定していなかったのに対して「ニンフォマニアック」ではもっと依存的で破滅的な切実さをはらんでいたように思えたけど。

ちなみにいうと「エマニエル夫人」自体も原作は単なるポルノというか性の探求=自身の実存の開放ということで、性は単にきっかけであり、むしろ主題は同時代の閉塞感と、それを破る新たな可能性の探求ということだった。




性の問題は簡単にポルノ的な興味で終わらすこともできるのだけど、きちんと向き合っていくと案外と奥深く、人として存在する限り付きまとってくるものなのだろう。


たとえばオーガズムひとつとっても、単にイク=射精するもしくは精液が出るというだけだと肉体のボタンとスイッチ的な機構だろうけど、その質や個々人の満足を突き詰めていくとそんなに単純なものでもなくなる。


「ニンフォマニアック」ではSM的なシーンが出てきて、それは巷の通俗的でポルノグラフィックなものと違って「通らざるをえない儀式」的なものとして描かれていて同筋の人たちてきには満足だったり憧憬-モデルの対象になったかなとかおもったのだけど、そこで「屈辱的に縛られて叩かれてるのになぜだか濡れてしまう」「足繁く通わざるを得なくなる」「閉じてしまっていたオーガズムが開くきっかけとなっていった(なっていくかもしれないとおもった)」というのはオーガズムにおける不思議と実際を表す一場面のように思った。

それが単に肉体の快楽と正の関係にあるボタンとスイッチ的な機構であれば、叩かれたり屈辱的な格好や命令をされることで性的に興奮したり刺激されたりすることはないはずなので。

そして、苦行 / 痛みを伴う儀式、ということだとそれは宗教的な儀式にも通じていく。たとえば「Passion」で描かれる歩みが見る側に痛みとともにある種の性的な視線をもたらすような。


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熱狂的殉教者が神の使徒としてあることの恍惚と悦楽は性的な快楽に近い、あるいはそれを超えるものだろう(cf.宮沢賢治「この変態を恋愛と呼ぶ」)。



ほかにもこの映画に断片的に描かれていた「主人公が丘の上で寝転んで空を見ていたらなんとなく空に浮かんでいく感じがして、、快楽もともなって、、おもえばそれがはじめてのオーガズムだった」みたいなの。


これらも一般的な視聴だと「あ、ヘンタイだからそういう体験したんだ?」って見送られるとこなのかもだけど、いわゆる神秘体験とオーガズム的なものが近似にあるのかなとか思ったりする。



「性に奔放な女性の一代記」というところに「性の殉教者」≠「人の業を行ずるもの」的な視点から味付けしていったのはトリアーの独特だったのだろうけど、伏線として回収されがたいこれらのディテールのリアルさはいわゆる変態性欲的な人たちにインタビューした結果なのかなあとかおもった。



















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関連:

【A面】犬にかぶらせろ!: 「エマニエル夫人」は乗りもの映画である〜もちろん二重の意味において【前編】
http://www.hayamiz.jp/2012/10/emannuel01.html

【A面】犬にかぶらせろ!: 「エマニエル夫人」は乗りもの映画である〜もちろん二重の意味において【後編】
http://www.hayamiz.jp/2012/10/emannuel02.html




性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/392098324.html



そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408674184.html



「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/411213903.html



やはりジンメルかあ。。: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414033954.html




意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html





「栄養が行き届いていれば花は必要ないのです」 → 性 / 生 / 死 とそれらを共同体的に包摂すること: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/418302309.html






posted by m_um_u at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

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