2015年07月01日

現代アート聖地巡礼  - 「日本列島現代アートを旅する」


前のエントリの続きで

「芸術起業論」「芸術闘争論」「日本列島現代アートを旅する」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421381762.html


と言うかこの本は作品についての簡単な解説本なので、それについてさらになにかいうこともなく「読んでください」ぐらいなのだけど、自分用の読書メモ的な意味合いと、「読んでください」とはいってもちょっとした(自分的)見どころをメモっとくのもいいかなと思って。



日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -
日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -



紹介されているのは順に

イサム・ノグチ『エナジー・ヴォイド
マーク・ロスコ『シーグラム壁画
アントニー・ゴームリー『ANOTHER TIME XX』
三島喜美代Newspaper08
ロン・ミュエクスタンディング・ウーマン
レアンドロ・エルリッヒ『スイミング・プール』
安田侃『アルテピアッツァ美唄』
ジェームズ・タレル『ブルー・プラネット・スカイ』
内藤礼『母型』
ウォルター・デ・マリア『タイム/タイムレス/ノー・タイム』

いちおわかりやすくハイパーリンクしといた(文字色が青色になってるとこ)


イサム・ノグチについてはちょっとぐぐれば出るだろうから特にいうこともなく、広島にいる頃からなんとなく橋のデザインなんかで意識してたけど、特にあらためて個展とか作品を見る気もなかった。でも、この本の解説を読んでいてそのうち見てみたくなった。「そのうち」というのは自分の石や彫刻についての理解や関心が深まってから。そういう思いのきっかけになったのが以下の文章


この作品が放つ圧倒的な存在感に、私は見るたびにいつも、打ちふるえるほどの感激を覚えます。高さ3.6メートルと、人間の背丈の2倍はあろうかという巨大な石の彫刻です。

しかし、作品に圧倒されるのは、それが大きいからではありません。管状に整えられた黒い石が、ゆるやかな台形を形づくっているのですが、そこで提示されている曲線が、おそろしいほどに見事なのです。石の表面は、外光を吸収しつつ、同時に内側から光を放っているようにも感じられます。

曲線と光の織りなす美の境地は、いつまでも見飽きるということがありません。「絶対的な美」という形容が、これほど似つかわしい作品はないと思います。
 
作品名の「エナジー」は「エネルギー」、「ヴォイド」は「空洞」や「虚空」を意味する言葉です。全体としては「エネルギーの洞」といった意味合いでしょうか。実際、この作品を前にすると私は、エネルギーがぐるぐるとものすごい勢いで流れているような感覚に襲われます。中心は空なのですが、周囲には猛烈なエネルギーの塊があり、それがとめどなく流れているのです。

素材は黒色花崗岩、石材としては、古くから「御影石」の名で利用されてきました。それにしても、ひとつの石として見ても見事なものを選んでいます。吸い込まれるような漆黒です。

花崗岩はかなり硬い石として知られており、それをノミで成形したりのち、ここまで磨き上げるには、並外れた労力と集中力が必要だったことでしょう。磨きの美しさは群を抜いています。その特徴が見事に表れているのは、勢い良く伸びた直線の形態です。美しいラインが下から上へ、そして横へと続き、無限のループをよどみなくつくっています。

また、磨きの加減が見事で、石は光を吸い込みつつも、微妙に反射しており、生命感をもったような独特の黒の光沢をたたえています。

 

本書に載ってる白黒写真を見ても、あるいはネットから写真を見てもちょっとピンとこない / 作品批評における煽り的な過剰褒めなのかな?というところもあるのだけど、ここに使わているキーワードが自分のゲージツ作品に対する基本的な価値観に合致するので見ときたくなった。すなわち「エネルギー」「虚空」。

もともと自分もアートだのゲージツだのは衒学的なものに過ぎないというスタンスで、特に現代アートなんかは半ば文脈で形成されてるソーカル問題的なところがあるので斜に構えつつ「それでもホンモノがあるとすると、あるいは自分が見たいものは圧倒的なエネルギーの奔流。人の価値観や意味から離れた圧倒的なエネルギーこそ美しい」というものだった。なのでとりあえず見てみたい。すくなくともかったい花崗岩をツルツルに磨き上げたというとこには職人技的なホンモノがあるのだろうから。

イサム・ノグチは海外・アメリカで評価を得ていたのだけど石の彫刻について突き詰めるうちに良い石を求めて牟礼に移り住んだ。そこでも最初は現地の職人たちに「ゲージツ家せんせーがなにができる」って想われてたみたいだけどその確かな技と石に対する造詣からだんだんと現地の職人に慕われるようになった、と。イサム・ノグチ庭園美術館はもともとイサム・ノグチの作業場も兼ねた住まいだったため生活と芸術が一体となったイサム・ノグチの美学を反映している。それもあって完全予約制で案内されるそうな。

エナジー・ヴォイドは差し込む陽の光や質感、季節の移り変わりに依る陽光の強弱なんかも意識されて作られ・設置されているらしく、まさに場と一体となったインスタレーションといえるのだろう。それを拝むことはたぶん仏像はなんらかの聖なるものを拝むのに近い体験になるとおもう。本当にその価値や美にシンクロできたとしたら。

そういう意味でこの作品やここで紹介されている他の作品を詣でることは日本の現代アートにおける聖地巡礼といえるだろう。



シーグラム壁画はもともとニューヨークのレストランの特別室に掲げられる予定でレストランから依頼された仕事だった。んでも完成したレストランのその部屋の様子を見てロスコが掲げるのを拒否して、もともと30点からなる連作だったものは3つに別れて保管されることとなった。そのうちの7点が奇跡的に日本で収蔵されることとなり、展示のためにロスコのこの作品のための部屋が設けられた。

ロスコの作品は自分はまだ現物を見たことがないのでその魅力がよくわからないのだけど、本書の解説を見ていてなんとなく腑に落ちるところがありさらに見たくなった。



抽象絵画の目的は何でしょうか。

それは「体験」です。

現代の抽象絵画の多くは、その作品が提示する空間を「体験」することを目的に制作されています。

それゆえ作品は、人間のもつ根源的な感覚に訴えかけてきます。というと難しくなりますが、要は、陽射しを浴びたり、そよ風を受けたりするのが気持ち良いと感じるように、その作品がもたらす空気感に身を委ねて欲しい、ということです。人が光や風を受けて快感を覚えるのに、理屈はありません。それと同様に、抽象絵画の鑑賞に「理解」は不要なのです。

とりわけマーク・ロスコは絵画によって心やすまる空間をつくることに努めました。

彼の活動は、今日のアートに大きな影響を与えています。本書で紹介するウォルター・デ・マリアや、ジェームズ・タレルといった、ロスコより一、二世代後のアーティストたちにとっても彼は大きな存在でした。戦後、世界の現代アートを牽引していったアーティストたちにとって、マーク・ロスコらアメリカの抽象絵画がもたらした芸術上の成果は、それまでの美術の歴史から大きな意味を分かつものだったのです。





それぞれの絵が連なってひとつの世界を構成する壁画なので、どの絵も似たような雰囲気をもっています。赤土のような色を基調に、黒やオレンジ色を組み合わせて、輪郭のあやふやな、大きな長方形が1つか2つ、浮かび上がるように描かれています。その長方形は、どこか別の場所に通じる窓か扉のように見えます。

それまでロスコの絵といえば窓を思わせる形が登場することで有名でしたが、この窓型は初めての試みになりました。



daily rothko
http://tumb.la/dailyrothko



ここで壁画の条件をかんがえると、一枚一枚の絵は横に連続して並べられていきます。できるだけ隙間を詰めていくとすると、ひたすら横に長い絵になります。そこで必要以上に横へと意識が向かないように、窓型の四角い形をあるリズムで入れ込んだのではないかと私は想像します。そうでないと壁画にしたときに絵にならないからです。結果、それが内部空間へと観客を誘う窓の役割を果たしていきます。

画面は大きいのですが、ぎらぎらしたところがまったくないので、絵の前に立つと、たいへん落ち着くのです。

それはおそらく、絵の表面が、つや消しのような、とてもやわらかな感じがするからでしょう。マチエール(絵肌)は、ベルベットの絨毯を思わせる独特のものです。

画材には、顔料に油やたまごや樹脂を混ぜた、かなり複雑なものを使用しています。ロスコはさまざまな画材を買い集め、それを自分でミックスしていました。キャンパスも市販のもの、手製のものと様々で、絵の具についても同様です。油絵の具がほとんどですが、ときおり化学樹脂も使っていますし、一方でテンペラ絵の具という油絵以前の古典的な材料も使用しています。





私は、この部屋にいると、凝り固まっていた精神が解きほぐされるような、深いリラクゼーションを覚えます。中央に鑑賞のための長椅子が置いてあるのですが、それに座って画面を眺めていると、時が経つのを忘れてしまうようです。ロスコの作品は、人を瞑想に力があるといわれますが、まさにその通りで、わたしもいつしか忘我の境地に誘われています。そこはまるで「アートが生んだパワースポット」のようです。



とにかく、ロスコの絵は、アメリカ人の心を引きつけてやみません。「最もアメリカな画家」の称号を誰かに与えるとすれば、ロスコこそがふさわしいでしょう。

ロスコの作品は、抽象絵画ではありますが、そこに現れる色彩は、どこかアメリカの風土を感じさせるのです。もぎたての柑橘類のようなオレンジ、澄み切った空のような青、大地に沈む太陽のような赤、ロスコの筆から生み出される色彩は、どこをとってもアメリカの自然を映しているように見えます。そうしてみると、「シーグラム壁画」の赤茶色も、南部の土のようではないでしょうか。





こういったロスコの、あるいはシーグラム壁画の魅力についての解説のほかにロスコに代表されるアメリカの抽象表現主義がどういった文脈から台頭していったかを伺わせる文章もある。あらためていうことでもないけどいわゆる現代アート的なものを一般にイメージすると抽象表現主義的な作品、つまり線が一本とか、なんかよくわからない幾何学模様がうんたらみたいな作品をイメージするだろうけどああいうのは第二次大戦後にアメリカ(MoMA)がアートの中心になってから「現代アート」となっていったもの。


特に第二次世界大戦後のアメリカは、世界一の大国となり、ビジネス面で成功した新興の大富豪が次々と誕生しました。彼らが自分たちの躍進を象徴するものを欲したときに、そこにアメリカ独自のアートである、抽象表現主義の絵画があったのです。

ルネサンスやバロック時代は、王侯貴族が美の庇護者であったので、広大な屋敷や教会の壁を埋める大画面の絵画が当たり前のようにつくられていました。しかし、19世紀以降の市民社会では、絵の大きさも家族が暮らす部屋に飾れる程度のこぶりなものに変わります。ところが再び、摩天楼や壮大な邸宅が続々と建てられた20世紀のアメリカ社会において、巨大な絵画が復活したのです。



ハロルド・ローゼンバーグとクレメント・グリーンバーグは、戦後のアメリカ美術を世界的な地位に押し上げた美術評論家です。いまだに現代アメリカ美術を学ぶ上ではこの二人の評論は必須です。

二人が推し進めたことは簡単にいえば2つ。美術の「純粋化」と「自立化」。

ちょっと難しくなってしまいましたが「純粋化」とは、つまりひとつの美しい様式、形式が貫かれていること、いろいろな価値観が混在していないこと。そして、もうひとつの「自立化」とは、美術は美術のためにあるということ。美術は「美」の主人であって、他の従属的な存在ではないということです。例えば皿の装飾は純粋な美ではなく皿の従属物であり、美を応用したもの。純粋な美は、それ自体を追求する絵画や彫刻の中だけにある。デザインや工芸は応用美術落ちう別のもの。なぜなら実用的な用途をもっていて、純粋な美のためにあるわけでないから、ということです。

この論理はより究極的に展開すると、具象的な描写の否定にまで進みます。

なぜなら、それは実際にあるものの単なる説明であって、絵の創造性に関わるものではない、ということになるからです。



荒野は壷にのみこまれた―大衆状況のなかの美術 (1972年) -
荒野は壷にのみこまれた―大衆状況のなかの美術 (1972年) -
行為と行為者 (1973年) (晶文選書) -
行為と行為者 (1973年) (晶文選書) -


グリーンバーグ批評選集 -
グリーンバーグ批評選集 -
近代芸術と文化 (1965年) (芸術論叢書) -
近代芸術と文化 (1965年) (芸術論叢書) -





この辺りはプラトニズムというかイデアというか、民芸運動とかアーツ・アンド・クラフツ運動とか思わせる。あるいは偶像崇拝。

んでもそういったものは、以前にも少し言ったように、「純粋に美や真理を追求するために極限にしぼりこみほかを捨象する」、というそのこと自体が形式化し、惰性となり、本来の純粋性の探求を失ってしまうこともあるので。たとえば「現代アートっぽい抽象さえしとけばそのように見えるだろ?(あとは口八丁手八丁の雰囲気で売り込む」みたいなのとか。

そういうこともあって現在は具象への揺り戻し、あるいはハイパー具象的な関心が出てきてるのかなあとか思うのだけど、それは自分の関心がそこにあるからなのかなあともおもったりする。そういったハイパー具象的なものもそれ以前の単なる具象-リアリズムとは異なりちょっと抽象や超現実的なところを取り込んでるようにも思えるけど。

あと、ヴォリンケルの抽象の必然性の議論とか。






ゴームリーの作品はリンク先のpinterestにもあるようにここでは人型の彫像が紹介されていた。等身大の人型の鉄の彫像。中は繰り抜かれてなくてそのまま鉄が流し込まれていて重さ600kgぐらいあるとのこと。それが山の山頂にインスタレーションしてる。

何も知らされず山を登り切った時にそれがあるとそこが特別な場のように感じるだろうし、なにかを想うのだろうなあとかおもう。あるいはこのようにそれがなんだか知っていたとしても「山を登る」という体験の後だとなにか感じるのだろう。山にずっと住む人、山と人との関係をその赤錆びた鉄の身体を通じて。鉄の芸術、とくにこれだけの重さ≠存在感をもつものにはそれだけの説得力がある。

んでもたぶんこれはわざわざ見に行かない、かなあ。。ほかの作品に比べて自分的には優先度が落ちる。場所柄もあるだろうけど(もうちょっと有名な山だったらいってたか(んでも修験道とかにまた興味関心が出たら行きたくなるか(これが設置されてるのはそういう「御山」なので)。




三島喜美代の作品は新聞で作られた迷路な作品。ゴミで捨てられるはずの新聞紙が積み上げられた迷路。「こんなに積み上げられていたら崩れてるのではないか?」と不安を誘う、けれどポリエステルで作られてるので安全なのだそうな。それは「ニセモノでゴミをわざわざつくった?」てことではあるのだけど、わざわざ作られた「ちり紙」たちにちゃんと文字が象られれ新聞としての質感も再現されているところ、あるいはそれらが積み重なって迷路を構成しているところからじっさいにこの空間にいって体験してみるとなんか想ったり想わなかったりするかなってかんじ。場所としても大田区ということでわりと行きやすいのでそのうち行ってみたい。


ロン・ミュエクの作品は4メートルに近いハイパーリアルな像とのこと。ミュエクはもともと児童向け映画やテレビ番組向けにパペットを作っていた人で「ラビリンス/魔王の迷宮」のそれもこの人の仕事て見ておおーっておもった。リンク先のNAVERのまとめでわかりやすいのだけど巨大赤ちゃんのそれなんかはちょこちょこtumblrなんかでも回覧されてくる。この人の作品も個展あったらみたいとおもうのだけど、スタンディング・ウーマン自体は青森の十和田常駐とのこと。



レアンドロ・エルリッヒのスイミングプールは金沢21世紀美術館の代名詞的なものになってるようでタレルの部屋同様、金沢21世紀美術館いったら体験できるようなのでそのうちいきたい。タレルのは直島にもある。



デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノータイム」はパッと見「GANTZ」の黒い球のようで、なので時空を超える感じなのかなあとか思うんだけど、逆にGANTZのあれはこれが元ネタだったのかなあとも。とりあえずこれも見てみないことにはわからない。直島にあるようだし。

デ・マリアの作品はNAVERのまとめにもあるようにランドアート的な特徴が強く、場と分かちがたいインスタレーションというか、自然の体験そのものをアートとして捉えようとしてる/自然をアートとして捉えるためのちょっとした手助けをする、みたいな感じ。それは内藤礼の作品にも通じるぽい。表し方は内藤さんのほうは閑かだけど。

この本での内藤さんの作品の解説のところで「現代アートはその場の環境にヒモをたらす(→風を感じられる/見える)などちょっとだけ細工をして、場の体験そのものを誘発しそんなに作りこまない / なんだったらまったく作らずアーティストが感じた認識/視角自体を共有してもらおうとするものがあったりするが、そうなると『作らない / 認識自体がアート』ということにもなったりするのだろうか」みたいなのがあったけど、自分的にもそんなかんじで、けっきょくあのへんは手の仕事として表したもの/表されたものが優れたメッセージをもっている、あるいは、それを作ったアーティストが優れた認識・感性をもっているかというとそんなこともなくて、「それは器用さの表れであってアートといえるの?」みたいなのはけっこうある。

現代なんかは特に複製技術というか、機械の力を借りれば特に器用さを持たない人でもデジタルに作品をブリコラージュすることはできるわけだし。3Dプリンタなんかもあるし、PCから印刷した写真をブリコラージュして自らの作品として発表する『photograper』もいる。

そういったところからするとその感性や「見えている景色」を磨き共有する方法を提示していった人が現代アート的にはおもしろいのかなあとかおもったりする。「ふだんなんのことない景色だけど、これを見た後はこんなふうに見られる・感じられるようになった」みたいなの。

内藤さんの目黒庭園美術館での展示(よく見ると窓や部屋の隅に小さな人型があるもの)もそういうところあったのかなあとか今さらおもう。デ・マリアのランドアート的なもの、あるいは環境と一体となったもの、であり、ゴームリーのちっちゃい人形的な。









タグ:art
posted by m_um_u at 00:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

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