2015年07月17日

三潴末雄、2014、「アートにとって価値とは何か」




アートにとって価値とは何か -
アートにとって価値とは何か -

アートにとって価値とは何か -
アートにとって価値とは何か -




このへんでうなうな見てきた現代アート関連の案内本として。三潴さんも小山さんたちと同年代(あるいは少し上)ということで同時代の話の別角度からの説明としてわかりやすかった。



「現代アート経済学」から簡単にメモ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/420137119.html

小山登美夫、2008、「現代アートビジネス」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/420849770.html

「芸術起業論」「芸術闘争論」「日本列島現代アートを旅する」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421381762.html



章立てとしては

「日本の現代アートの評価」
「ギャラリストへの道程」
「ミヅマギャラリー奮戦記」
「世界を変えている注目アーティスト」
「日本の現代アートはグローバル土人の楽園をひらく」

ということで最初の章で日本の現代アートの位置について概括的に説明、それを踏まえて続く二つの章で三潴さんの歩みに重ねる形で90−00年代の日本の現代アートの興隆が語られている。たぶんもともとは一章の概括と「簡単な90ー00年代の日本の現代アートギャラリー語り」「日本の現代アートの注目アーティスト紹介」「総括」という形だったのではないかと思うのだけど、それらによりボリュームというか立体的な実感を付け加えたのが三潴さんの歩んできた道の語りだったのかな。


三潴さんの経歴が「学生時代に学生運動に傾倒した」とか「マルクス読んでうんたらした」というところはその後のアートに対する価値観にも関わっていて、なので「米帝の文化帝国主義的価値観は打倒しないといかんのですよ!(ダンッ」てかんじになるのかなあとかおもったのだけど、同時にアメリカを中心とした抽象表現主義的な現代アート以外のアートの価値を探るときに日本のオリジンとそれを結びつけて考えるというやり方は日本のマルクス主義の季節が過ぎた後、天皇制や日本の起源について再検討みたいな流れがあったことともリンクしてたのかなあとか。サヨク的価値観と歴史観を基本としつつ、ステーション'70というPR系のカルチャーサロンのマネージメントをしていたというのはバブル全盛へと向かう当時の東京の文化人的なところの中心に触れていたことを伺わせる。三島由紀夫さんとは実際に会ったことがあるとのことだし。印象としては松岡正剛さん的なあれ(「遊」とか)だったのだろう。

こういう人とルカーチの物象化と美学からアートの価値についてうんたら話すとどうなるんだろ?とかちょっとおもいつつ、そういった背景があるのでこういうアート観になるのだなあとか想った。否定とかでもなく、面白く読んだし。会田誠さんや山口晃さんをプロデュースした姿勢はわかりやすく面白かったのだけど(んでもこういう価値観かあChim↑Pomを認めるのは、とは)。


タイトルにもある「アートにとって価値とはなにか?」というのは現代アートにとっての価値とはなにか?ということ。すなわちニューヨークを中心とした抽象表現主義全盛の現代アート業界にたいして、あらたな価値を提示する場合、その価値とはどういったものか?(どういったものならば見る者にとって「価値あるもの」として受け入れられるのか?)という問題意識。そこで打ち出される価値の代表的なものは日本の伝統的な視角としての遠近法以前のフラットな視点とリアリティだったり、あるいは、抽象表現主義に分類されないけれど「ナンカオモシロイ」作品だったりする。そういった価値に基づいた作品はアメリカの抽象表現主義に基づいた文化帝国主義からすれば土人のそれと思われるかもだけど、土人-野生の思考だからこそやれることもあるんだぜ?的な。

村上隆さんの場合は「けっきょく現代アート市場は一定のゲームのルールがあって、そのルールを知らなければ評価されない(勝てない)。なので作品自体の価値がどうとかより、そのルールを知り、そのゲームに勝つということがまずもって大事なんだ」てスタンスで、なかばシニカル・ニヒリスティックともいえる現実主義で作品を工房していくけど、三潴さんの場合はそれを踏まえつつ「それでもアートの価値を見出したい」ということで、前者がポストモダン的相対主義とシニシズムだとすると後者はモダニズムの復権的なアレなのかなあとかなんとか。なので位相としてもマルクス主義系のフランクフルト学派(ハーバーマス)とかを想わせわかりやすいといえばわかりやすかった。





ひとそれぞれ好みとか価値観-リアリティの違いがあるだろうからこういうのが好き-ガッチリハマるひともいるのだろうけど、自分的には秋元雅史さんあたりがフィットするかなあ。三潴さんの心意気とかやってきたこと自体は良いなあとおもうけど。

んでもこの本を読んで会田誠さんや山口晃さん、鴻池朋子さん、池田学さん、宮永愛子さんあたりは見てみたくおもった。てよりミヅマアートギャラリーに一回寄ってみたく。



一般的には、90年代から00年代、あるいはそれ以前の80年代あたりの日本の現代アート界隈の様子が綴られているのがおもしろいかなあとかおもう。あとは会田誠さんとか山口晃さんとかが売れない当時の様子とか。





タグ:art
posted by m_um_u at 18:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2015年07月04日

是枝裕和、2015、「海街diary」


1日に時間が合ったので「海街diary」を見てきた。



感想は特にエントリする気もなく簡単につぶやいて終わりにしようかと思っていたのだけれど、cakesほかでこの映画がどういう意図で作られていったかを読んでるうちにメモしたくなったのでエントリしておく。特に批評的な創意というわけでもなくメモ。




人は、もう居ない誰かとつながりあって生きている。|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9825


「ここにいていい」ということを歌えるよう|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9827



是枝裕和×菅野よう子『海街diary』インタビュー | NeoL
http://bit.ly/1FZIAow



cakesのほうは有料購読が必要なので読まない人がいるかもだけどNeoLに載ってる内容とも重なっていて、そこにあるようにこの映画は是枝監督が中心でグイグイ進めていった作品というわけではなく、むしろ菅野よう子さんとのセッションを通じて出来上がっていった作品ということがわかる。あるいは菅野さんだけではなく俳優やスタッフとのやりとりを通じてその場その場で変化させていった結果(アルバム)のようなもの。菅野さんが「こんなにゆるくて意見が通って行く現場ははじめてだったかも」というようなことを言っていたけれど、そういえば是枝監督はそういう創り方をしていたなあとかおもった。ちらっとTLで見た程度だけど、広瀬すずさんの演技なんかは特にセリフも決めずに状況だけ説明してアドリブでやってもらったところもあったようだけど、そういうやり方は「ディスタンス」なんかを想わせたし。




「過去が書き替えられていくことが、そのひとの成長になっていく」―『海街diary』是枝裕和監督インタビュー [T-SITE]
http://top.tsite.jp/news/i/24272142/

「これ、誰か撮るよな。撮られたくない、と思いました」
吉田秋生の漫画「海街diary」を読み、ある場面に遭遇したとき、是枝裕和監督はまずそう思った。そして、映像が浮かんだのだという。
「漫画なんだけど、ここ、カメラ、確実にクレーンアップだよなと。すごく映像的に出来上がってる。音も含めて。あれは絶対、映像にしてほしいという画になってる。映画になるために描かれてある、と思った。絶対、誰か『やる』と言うはずだと思い、その前に手をあげました」



「想いのたけをぶつけてみようと思いました。吉田さんは何を考えて、こういうシーンにしたんだろうか。ひとつひとつ読み解いていく。こんなに他人(ひと)の作品を繰り返し読んだことはなかった。吉田さんのなかに“潜っていく”ことからスタートしていますよ。それがわからないと映画にできない。わかりたい、と思いました」


「漫画、読んでいたときも感じていたんだけど、吉田さんとお会いして話して、この原作は、登場してこない人間がすごく重要な役割を果たす物語なんだなと、あらためて思って。読み直してみると、キーになるひとが姿を現していない。結局、そのひとたちを意識しながら、みんなは生きている。出てこない人間を回想で出さずに、どう生きている人間に重ね合わせながら描いていくか。すごくアクロバティックなことを要求されているんだなと。動作を、誰かから誰かに受け継いでいくとか、反復するとか、そういうことの積み重ねで、どう“いない”ひとを感じるか。それをやれるだけやろう。その覚悟は決めていましたね」



「原作のキャラクターを踏まえた上で、この4人を頭のなかで動かせるようになったので、そこからはオリジナルなのか、原作(通り)なのか、自分ではわからないまま動かせているんです。違和感なく描けていて、原作ファンに怒られるかもしれないけど、いま映画を観て、あれ?ここ、原作にあったかな? なかったかな?という感じだから、たぶん“移植”はうまくいっているんだと思います」
静の綾瀬はるか。動の長澤まさみ。「このふたりに影響されずに自分の時間を生きている」夏帆。大竹しのぶ相手に、当日いきなりふたり芝居をすることになっても「緊張しない」広瀬すず。絶妙なバランスのキャスティングも、「その先」を捉える映画の力になった。
「この原作は、少女漫画という枠を超えて、すごく大きなものを描こうとしている。それは、人間よりも、街だったり、時間だったり。だから『海街diary』なんだと思う、『鎌倉四姉妹物語』ではなくて。その大きさ。人に(向かって作品が)閉じていかない話にするにはどうしたらいいか。これは叙事詩的な作品だと思うから、そこはちゃんとやりたかったんですよね。読み込んだから、この作品が大きなものに辿り着こうとしている話なんだとわかったんです」





「吉田さんの『櫻の園』(1990年に映画化もされている)は、過ぎ去った時間は二度と戻ってこないという素晴らしくも残酷な漫画だった。でも『海街diary』は、過ぎ去った時間が、ときとともに自分のなかで、かたちを変えていく話だと思う。過去が書き替えられていくことが、そのひとの成長になっていく。その時間が彼女のなかでどう変化するかは見えない。そこが、この原作のいちばんの豊かさ。そこをなんとか描きたかった。僕自身父親が亡くなって15年ぐらい経ちますが、父親になったことで、自分の父親のことを思い返している自分がいる。いまの自分の年齢のとき、父親はああだったよな、とか。父親とは疎遠だったんだけど、その父親が自分のなかで、ちょっとかたちを変えてるわけ。自分も似ているところあるなとか。自分が父親として子供に接しているなかで、同じようなことが自分に起きている。この物語にはシンパシーを感じていました」





監督が「他の人に撮られたくない」とおもった印象的なシーンは原作一巻で四姉妹がはじめてあったとき、すずのお気に入りの場所に3姉妹が案内されて、「ここって鎌倉と似てるねー」といった後に四人の気持ちがはじめて少し触れ合って、そこに蝉しぐれが重なる場面。

自分的にはマンガでみたときにはそれほど印象的に想わなかったのだけど、監督に言われて見てみると「そういえばクレーンアップから4姉妹の輪を俯瞰するような場面だな」と気づいた。そういう画面構成になってるのはいまは亡き父親の視点を反映しているからだろうけど。

先に言ってしまったけど、原作の漫画は自分的にはそれほど印象的なものではなく地味なものに感じた。

それは先に映画を見て、それから「原作も当たってみないとなあ。。」ということでチラ見した程度だからかもだし、ストーリーに対する新鮮味がすでに失われていた+音楽や映像で演出が強化されたものを先に見ていたからかもだけど。そういった意味では「自分が吉田秋生のこの作品に映画よりも先に出会っていたらどういう印象をしただろう…?」とはおもう。



「先にあたっていたらどうだったかなあ」つながりでいうと是枝監督と菅野よう子さんの対談もそんな感じで、この対談を先に読んでいたらそういった見方に感性や感想が誘導されていたかもしれない。後出しジャンケン的に対談で語られていた内容を自分の感想のように述べる、みたいなの。映画を見た直後に、特にこの映画に対する感想や解説のようなものに当たる前に自分なりの印象をつぶやいたのはそういうことで、なにかに影響される前に自分の印象を封じ手的に遺しておいた。で、翌日cakesほかで監督のインタビューを読んでいったら思ったより自分の感性、読みが正しかったのだなあて思った。というよりは、自分固有の感想かな?とおもっていたのだけど映画や原作自体のメッセージだったのだなあてとこで答え合わせ → 正解、的な。

この映画の最初の印象は、「なんか、、物語らしい物語、というか映画や小説らしいドラマティックな物語性がない、全体的にPVみたいな内容なのでわかんないひとにはわからない『ぼんやりした』映画にも想われるだろうなあ。。」、というもの。

じっさい自分が見終わったときにもエンドロールで早々に席を立っている人たちが散見された。あるいは映画の途中にトイレかなんかで出てく人たちとか。

まあそういうのは映画のおもしろさに関係なく何割かはいるものだろうからあまり関係ないのかもだけど、カンヌでも特に賞をとらなかったのはそういうことかなあ。


この映画は全体的に海と波音、海に映える光、あるいは海の側の街に映える光や風によって構成されている。


人の言葉や論理、理性以前に光や音やにおい、あるいはそれらの積み重なった時間によって了解されていくものがあって、あるいはそれらを総称して時間というのかもしれない。


この映画で描かれているのはそういうもので、そういったものに対する慈しみをもった視線はこれまでの是枝作品の系譜に属する。たとえば「奇跡」とか。


人は不幸にあって、それを論理的-理性的に受け止めて正面から向かっていくことも大事だろうけど、食べたり歌ったり笑ったりすることも含めて人の生というもので、不幸の中でもそういうものから少しずつ影響されて、納得とはいかないまでも強烈に反発することがなくなってとどまったり方向を変えていったりする。許す、というわけではないのだけど、赦すというか…。忘れるわけでもないのだけど、怒ったりわだかまりをもつような意識をするのではなく、なんとなく方向をずらして行く。そういう考えもあるのか、というように。


人の生を生きるというのはそういうもので特に正解があるものでもなくて、いろいろな雑音に流され吸収し影響されていくことも含めて生きるということになる。人は理性だけでは生きていけないので。なので食事もすれば排泄もするし性行為もする。菅野よう子さんとの対談にも出ていたように是枝監督が「食べる」「料理する」ことをフィーチャーするのもたぶんそういうことなのだろう。

映画冒頭で天ぷらをあげる場面は「歩いても歩いても」のとうもろこしの天ぷらを想わせた。



自分がこの映画の初見で「物語としては出オチで終わっているので一般にはわかりにくそう」といったのは、「ふつーの作品なら父親の不倫相手の子どもを赦すということが大きなドラマになり、途中にいじめやらなんやらはさみつつ和解(あるいはそれに向かう一歩)をクライマックスとして物語が構成されていくはずなのに冒頭であっさりと『一緒に暮らさない?』と言ってしまっている」、ということ。なのでこの物語はそういった物語的な物語の構成をその時点で解体-迂回してしまっている。そういうやり方を選んだのは是枝監督らしいなあとおもったのだけどインタビューを見てみるとこれは原作の吉田秋生さんに依るものでそこに是枝監督も感心していた。

この作品はそういったクライマックス、ふつーの物語の最後の場面から始まっているエピローグのようなもので、それがずっと続いていく。「あの四姉妹のその後」的に。

インタビューの中で「この作品は誰かの不在がキーワードになっている。語られて入るけれどずっと画面に現れてこない人々」というようなことが語られていたけれど、そういった意味では描かれなかったこのクライマックス自体も『不在』なものということになる。あるいは並行世界の物語。

本当なら修羅場で終わっていたのが当然だったはずの世界-物語からするとこの物語の四姉妹の在り方はファンタジーであり奇跡のようなもので、そこに是枝監督的なひとつひとつの生の軌跡を切り取ったカメラ視点が重なっていく。そして、原作の物語の日常の中でいつの間にかふつーに実現してしまってる幸運を宝物のような幸運-奇跡として観るものに伝わりやすいように演出する。


映画の中盤から後半では父親の不在、家庭の崩壊という不幸がすでに生活の一部として慣れられて、父親の忘れ形見の妹との仲がある程度深まり、姉妹らしくなってきたところで近所のおばちゃんの死があらたな不幸として近づいてくる。

そこで映画全体に漂う「奇跡のような時間」を見つめる視点にあらたな意味、現実的な意味合いが付される。あるいは、その視点が「父親の死」「不在」をめぐるものだったのか、と気付かされる。死(不在や不幸)と生(の奇跡)というこの視点はこの作品の通奏低音となっていく。


自分的に意外だったのは「死や不在というこの視点は後景的なメッセージであって、一般的な観客にはそれほど伝わらない程度に設定されたものだったのではないか」とおもっていたのだけれど監督的にはそれを作品メッセージとして押し出していたということだった。もっと意外だったのは最初それをあまり出さずに、単に鎌倉四姉妹物語として描こうとしていたところを菅野よう子さんに映像の印象や意味を読み解かれて「むしろこっちではないか?」と誘導されていったというところ。

監督が最初に菅野さんに曲発注した時には四姉妹ということで弦楽四重奏的なものをということだったようなのだけど、それは理性先行の「頭で考えたもの」で、菅野さんとの何度かのやりとりを通じてそれが修正されていったらしい。修正というか、セッションを通じてアレンジされていったというか。四姉妹の長女のテーマとして考えられていたのはjazz的なものだったらしいけど、そういうのももうちょっとゆるやかに、全体的にクラシックな感じに変更されていった。


弦楽四重奏的なもの、という依頼は「そして父になる」同様にセリフ的な物語だけでは語られない部分を音楽によって印象していくためかなあとおもったのだけど、そこでイメージされていたのはたぶん原作のほうの四姉妹の様子で、映像として出来上がってきたものを菅野さんが見て違和感を感じたのだと想う。映像作品としては綾瀬はるかさんを始めとした俳優たちの演技や存在感そのものが意味を付加しているので。

蛇足で言えば原作の長女はもっとキリッとした行き遅れな感じだけど、綾瀬さんの場合は基本に癒し系というか、しっとりとしたたおやかさみたいなものが印象される。次女も長澤まさみさんの場合は「モテキ」「世界の中心で、愛をさけぶ」的なそれが、夏帆さんの場合もそれに準ずる。そういった意味だと夏帆さんは今回よく化けたなあとかおもった(逆にものすごく存在感を消してるという意味で存在感を感じたのが大竹しのぶさんとか樹木希林さんだったけど)。



もしかしたら菅野さんに依頼しなかったらこの作品は弦楽四重奏的なものを基本に鎌倉四姉妹的なものを描いた物語になっていたのかもしれない。グリコポッキー四姉妹物語的な。長女と次女の対決や仕事上での成長なんか、あるいは母親との葛藤や和解がドラマのメインとして付されていくような。特に母親、あるいはそれを通じた父親との和解は「そして父になる」にも通じる親子の葛藤と和解の女性版のようにおもう。


それはそれで良かったのかもしれないけど、原作も含めたこの作品の通奏低音的なテーマ、死や不在を片隅に意識させつつ、それに対するぢんわりとした了解を出せたのは地味な成功だったのだろう。


家族、あるいは機能不全家族の快復、自らが大人になることを通じてそれを何らかの形で了解し引き受けていくということについては「そして父になる」でひとつの完成に到達していたように思っていたけれど、菅野よう子という触媒が加わることでそこに新たなステージが拓けたのかなあとおもった。






死や不幸、それらの赦しと生きること、生活すること、時間





















SWITCH Vol.33 No.6  是枝裕和の20年 ”海街”へー ある家族の物語 -
SWITCH Vol.33 No.6 是枝裕和の20年 ”海街”へー ある家族の物語 -


海街diary オリジナルサウンドトラック - 音楽:菅野よう子
海街diary オリジナルサウンドトラック - 音楽:菅野よう子


海街diary -
海街diary -








--
是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html


見た映画についてちょっと(「奇跡」、「恋に落ちたシェイクスピア」)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n628a6a9ebd87







人は、もう居ない誰かとつながりあって生きている。|是枝裕和×菅野よう子「四姉妹物語だけではなく、寄せては返す波のように」|是枝裕和/菅野よう子|cakes(ケイクス)
https://cakes.mu/posts/9825


−− 菅野さんは、映画もドラマもその作品のテーマや魅力を深くくみ取りながらも、ドラマティックな音楽をつけられますが、本作の音楽はどのようにアプローチしていったんですか?

菅野 是枝さんの脚本と映像のみでイメージをふくらませていきました。映画は監督の作品だから、まずは敢えて原作を読まずに、まっさらな状態で挑みたいなと。打ち合せで監督とたくさんお話もしたんですけど、監督の「言葉」は聞いていなかったです(笑)。

−− 聞いていなかったといいますと?(笑)

菅野 脚本もそうですけど、言葉が意味する内容と、その奥にある感情って別物ですよね。「元気です」と言いながらも、実は悲しいとか。その感情の下には、さらに過去からの突き上げや無意識の世界があると思うから。そこまで深掘りして、深みから吸い上げたものを音楽にしたいと思うんです。

−− なるほど。

菅野 たとえば、今回、是枝監督の最初のオーダーは、「弦楽四重奏にしたい」だったんです。四姉妹をヴァイオリン、チェロ、ビオラにみたててね。意図はよく分かるんですけど、それは頭で考えた世界なんです。耳でとらえる言葉の下には、ざわざわしていて嫌だなぁとか、でも好きだなぁっていう不協和音のような心の動きがある。でも、それも氷山の一角で。さらにその下には、それらの感情さえ動かす無意識の大きな世界がある。死とか暗闇とか、人類、動物に共通するもの。

−− とても根っこの感覚ですね。

菅野 そう。「ひとりになると安心するけれど、なぜかさびしい」みたいなものとかね。そちらもくみ取った音楽を作りたかったというか……、これ言葉で説明するのはすごく難しいです!(笑)

是枝 わかります(笑)。僕も未完成の映画のことを「こういうことがやりたいから、こういう音楽を」って説明できないんですよ。だから、結局は、言葉ではない部分でキャッチボールしていましたよね。菅野さんが「こういう感じですか?」と上げてくれたものを映像に当てて、「良いです!」とか「少し違いますね」とか。

−− 具体的には、どんなキャッチボールがあったんですか?

是枝 最初、菅野さんは長女の幸に寄せて、もっと大人っぽいジャズみたいな音楽を書いてくださった。でも、編集中の映像を見せたら菅野さんのほうから「先日のdemoはちょっと違いました。クラシカルな雰囲気に振ったほうがこの世界に合うと思う」って。それで新たに書かれた曲をあててみたら、「こういうことだったんだ!」と。

菅野 映像を観た時に「これは答えがわかる類いの話じゃないんだな」と思ったんです。最初は人間の感情とか、四姉妹に寄り添った音楽を作っていたけれど、そうじゃない。この世界には、流れゆく大きな時間やめぐる季節があって、4人は“私”という日々を野良猫のように生きている存在、と映った。
 だから、音楽もその世界にあるひとつの要素。たとえば、寄せては返す海の波のように、お日様や星の光のようにいつもそこにあるけれど、問答無用に刻一刻と変化していくものとして、存在したいなと思ったんです。

−− すごく伝わりました。姉妹が生きている世界のどこかで流れているような美しい音だなと。それと、自然の四季のうねりや変化する風景のように、とても豊かな音楽であり、映画だなと感じました。

菅野 制作しながら私も「豊かでありたい」とは思っていたんです。豊かさって、わかりやすく言うと、メロディも楽器の編成もミュージシャンの演奏も、情報をすごく入れてあるんです。音響にも、深みとか広さとか複雑なレイヤーがある。でも、ぱっと聴いた時には、さらっと耳心地が良くて気付かないもの。隠し味のスパイスのようなものがたくさん入っているほうが合う映画だなと思ったから。

是枝 そうですよね。僕も菅野さんにこの音楽をいただいた時、「これは鎌倉四姉妹物語ではない」っていうことを改めて自覚して。時間とか街とか人や命の営みとか、大きなものにつながって行く話なんですよね。音楽と同様に、どう重層的にレイヤーを見せるかを考えました。姉妹のことを描きながらも、その背後には離れていた人やもう居ない人の気配も感じさせたいなと。
 たとえば、すず(四女、広瀬すず)はずっと離れていたのに幸(長女、綾瀬はるか)に似ていたり、千佳(三女、夏帆)は父親の記憶はなくとも会話から感じ取ったり。原作もそうですが、人は自分だけじゃない、他者とつながりあっているし、今だけじゃない、もうここに居ない人ともつながって生きている。そこを描けたら、表層的な物語じゃなくなるなと。話していると改めて、音楽とすごくリンクしているし、影響を受けているんだなと思いました。


posted by m_um_u at 15:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2015年07月01日

現代アート聖地巡礼  - 「日本列島現代アートを旅する」


前のエントリの続きで

「芸術起業論」「芸術闘争論」「日本列島現代アートを旅する」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/421381762.html


と言うかこの本は作品についての簡単な解説本なので、それについてさらになにかいうこともなく「読んでください」ぐらいなのだけど、自分用の読書メモ的な意味合いと、「読んでください」とはいってもちょっとした(自分的)見どころをメモっとくのもいいかなと思って。



日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -
日本列島「現代アート」を旅する (小学館新書) -



紹介されているのは順に

イサム・ノグチ『エナジー・ヴォイド
マーク・ロスコ『シーグラム壁画
アントニー・ゴームリー『ANOTHER TIME XX』
三島喜美代Newspaper08
ロン・ミュエクスタンディング・ウーマン
レアンドロ・エルリッヒ『スイミング・プール』
安田侃『アルテピアッツァ美唄』
ジェームズ・タレル『ブルー・プラネット・スカイ』
内藤礼『母型』
ウォルター・デ・マリア『タイム/タイムレス/ノー・タイム』

いちおわかりやすくハイパーリンクしといた(文字色が青色になってるとこ)


イサム・ノグチについてはちょっとぐぐれば出るだろうから特にいうこともなく、広島にいる頃からなんとなく橋のデザインなんかで意識してたけど、特にあらためて個展とか作品を見る気もなかった。でも、この本の解説を読んでいてそのうち見てみたくなった。「そのうち」というのは自分の石や彫刻についての理解や関心が深まってから。そういう思いのきっかけになったのが以下の文章


この作品が放つ圧倒的な存在感に、私は見るたびにいつも、打ちふるえるほどの感激を覚えます。高さ3.6メートルと、人間の背丈の2倍はあろうかという巨大な石の彫刻です。

しかし、作品に圧倒されるのは、それが大きいからではありません。管状に整えられた黒い石が、ゆるやかな台形を形づくっているのですが、そこで提示されている曲線が、おそろしいほどに見事なのです。石の表面は、外光を吸収しつつ、同時に内側から光を放っているようにも感じられます。

曲線と光の織りなす美の境地は、いつまでも見飽きるということがありません。「絶対的な美」という形容が、これほど似つかわしい作品はないと思います。
 
作品名の「エナジー」は「エネルギー」、「ヴォイド」は「空洞」や「虚空」を意味する言葉です。全体としては「エネルギーの洞」といった意味合いでしょうか。実際、この作品を前にすると私は、エネルギーがぐるぐるとものすごい勢いで流れているような感覚に襲われます。中心は空なのですが、周囲には猛烈なエネルギーの塊があり、それがとめどなく流れているのです。

素材は黒色花崗岩、石材としては、古くから「御影石」の名で利用されてきました。それにしても、ひとつの石として見ても見事なものを選んでいます。吸い込まれるような漆黒です。

花崗岩はかなり硬い石として知られており、それをノミで成形したりのち、ここまで磨き上げるには、並外れた労力と集中力が必要だったことでしょう。磨きの美しさは群を抜いています。その特徴が見事に表れているのは、勢い良く伸びた直線の形態です。美しいラインが下から上へ、そして横へと続き、無限のループをよどみなくつくっています。

また、磨きの加減が見事で、石は光を吸い込みつつも、微妙に反射しており、生命感をもったような独特の黒の光沢をたたえています。

 

本書に載ってる白黒写真を見ても、あるいはネットから写真を見てもちょっとピンとこない / 作品批評における煽り的な過剰褒めなのかな?というところもあるのだけど、ここに使わているキーワードが自分のゲージツ作品に対する基本的な価値観に合致するので見ときたくなった。すなわち「エネルギー」「虚空」。

もともと自分もアートだのゲージツだのは衒学的なものに過ぎないというスタンスで、特に現代アートなんかは半ば文脈で形成されてるソーカル問題的なところがあるので斜に構えつつ「それでもホンモノがあるとすると、あるいは自分が見たいものは圧倒的なエネルギーの奔流。人の価値観や意味から離れた圧倒的なエネルギーこそ美しい」というものだった。なのでとりあえず見てみたい。すくなくともかったい花崗岩をツルツルに磨き上げたというとこには職人技的なホンモノがあるのだろうから。

イサム・ノグチは海外・アメリカで評価を得ていたのだけど石の彫刻について突き詰めるうちに良い石を求めて牟礼に移り住んだ。そこでも最初は現地の職人たちに「ゲージツ家せんせーがなにができる」って想われてたみたいだけどその確かな技と石に対する造詣からだんだんと現地の職人に慕われるようになった、と。イサム・ノグチ庭園美術館はもともとイサム・ノグチの作業場も兼ねた住まいだったため生活と芸術が一体となったイサム・ノグチの美学を反映している。それもあって完全予約制で案内されるそうな。

エナジー・ヴォイドは差し込む陽の光や質感、季節の移り変わりに依る陽光の強弱なんかも意識されて作られ・設置されているらしく、まさに場と一体となったインスタレーションといえるのだろう。それを拝むことはたぶん仏像はなんらかの聖なるものを拝むのに近い体験になるとおもう。本当にその価値や美にシンクロできたとしたら。

そういう意味でこの作品やここで紹介されている他の作品を詣でることは日本の現代アートにおける聖地巡礼といえるだろう。



シーグラム壁画はもともとニューヨークのレストランの特別室に掲げられる予定でレストランから依頼された仕事だった。んでも完成したレストランのその部屋の様子を見てロスコが掲げるのを拒否して、もともと30点からなる連作だったものは3つに別れて保管されることとなった。そのうちの7点が奇跡的に日本で収蔵されることとなり、展示のためにロスコのこの作品のための部屋が設けられた。

ロスコの作品は自分はまだ現物を見たことがないのでその魅力がよくわからないのだけど、本書の解説を見ていてなんとなく腑に落ちるところがありさらに見たくなった。



抽象絵画の目的は何でしょうか。

それは「体験」です。

現代の抽象絵画の多くは、その作品が提示する空間を「体験」することを目的に制作されています。

それゆえ作品は、人間のもつ根源的な感覚に訴えかけてきます。というと難しくなりますが、要は、陽射しを浴びたり、そよ風を受けたりするのが気持ち良いと感じるように、その作品がもたらす空気感に身を委ねて欲しい、ということです。人が光や風を受けて快感を覚えるのに、理屈はありません。それと同様に、抽象絵画の鑑賞に「理解」は不要なのです。

とりわけマーク・ロスコは絵画によって心やすまる空間をつくることに努めました。

彼の活動は、今日のアートに大きな影響を与えています。本書で紹介するウォルター・デ・マリアや、ジェームズ・タレルといった、ロスコより一、二世代後のアーティストたちにとっても彼は大きな存在でした。戦後、世界の現代アートを牽引していったアーティストたちにとって、マーク・ロスコらアメリカの抽象絵画がもたらした芸術上の成果は、それまでの美術の歴史から大きな意味を分かつものだったのです。





それぞれの絵が連なってひとつの世界を構成する壁画なので、どの絵も似たような雰囲気をもっています。赤土のような色を基調に、黒やオレンジ色を組み合わせて、輪郭のあやふやな、大きな長方形が1つか2つ、浮かび上がるように描かれています。その長方形は、どこか別の場所に通じる窓か扉のように見えます。

それまでロスコの絵といえば窓を思わせる形が登場することで有名でしたが、この窓型は初めての試みになりました。



daily rothko
http://tumb.la/dailyrothko



ここで壁画の条件をかんがえると、一枚一枚の絵は横に連続して並べられていきます。できるだけ隙間を詰めていくとすると、ひたすら横に長い絵になります。そこで必要以上に横へと意識が向かないように、窓型の四角い形をあるリズムで入れ込んだのではないかと私は想像します。そうでないと壁画にしたときに絵にならないからです。結果、それが内部空間へと観客を誘う窓の役割を果たしていきます。

画面は大きいのですが、ぎらぎらしたところがまったくないので、絵の前に立つと、たいへん落ち着くのです。

それはおそらく、絵の表面が、つや消しのような、とてもやわらかな感じがするからでしょう。マチエール(絵肌)は、ベルベットの絨毯を思わせる独特のものです。

画材には、顔料に油やたまごや樹脂を混ぜた、かなり複雑なものを使用しています。ロスコはさまざまな画材を買い集め、それを自分でミックスしていました。キャンパスも市販のもの、手製のものと様々で、絵の具についても同様です。油絵の具がほとんどですが、ときおり化学樹脂も使っていますし、一方でテンペラ絵の具という油絵以前の古典的な材料も使用しています。





私は、この部屋にいると、凝り固まっていた精神が解きほぐされるような、深いリラクゼーションを覚えます。中央に鑑賞のための長椅子が置いてあるのですが、それに座って画面を眺めていると、時が経つのを忘れてしまうようです。ロスコの作品は、人を瞑想に力があるといわれますが、まさにその通りで、わたしもいつしか忘我の境地に誘われています。そこはまるで「アートが生んだパワースポット」のようです。



とにかく、ロスコの絵は、アメリカ人の心を引きつけてやみません。「最もアメリカな画家」の称号を誰かに与えるとすれば、ロスコこそがふさわしいでしょう。

ロスコの作品は、抽象絵画ではありますが、そこに現れる色彩は、どこかアメリカの風土を感じさせるのです。もぎたての柑橘類のようなオレンジ、澄み切った空のような青、大地に沈む太陽のような赤、ロスコの筆から生み出される色彩は、どこをとってもアメリカの自然を映しているように見えます。そうしてみると、「シーグラム壁画」の赤茶色も、南部の土のようではないでしょうか。





こういったロスコの、あるいはシーグラム壁画の魅力についての解説のほかにロスコに代表されるアメリカの抽象表現主義がどういった文脈から台頭していったかを伺わせる文章もある。あらためていうことでもないけどいわゆる現代アート的なものを一般にイメージすると抽象表現主義的な作品、つまり線が一本とか、なんかよくわからない幾何学模様がうんたらみたいな作品をイメージするだろうけどああいうのは第二次大戦後にアメリカ(MoMA)がアートの中心になってから「現代アート」となっていったもの。


特に第二次世界大戦後のアメリカは、世界一の大国となり、ビジネス面で成功した新興の大富豪が次々と誕生しました。彼らが自分たちの躍進を象徴するものを欲したときに、そこにアメリカ独自のアートである、抽象表現主義の絵画があったのです。

ルネサンスやバロック時代は、王侯貴族が美の庇護者であったので、広大な屋敷や教会の壁を埋める大画面の絵画が当たり前のようにつくられていました。しかし、19世紀以降の市民社会では、絵の大きさも家族が暮らす部屋に飾れる程度のこぶりなものに変わります。ところが再び、摩天楼や壮大な邸宅が続々と建てられた20世紀のアメリカ社会において、巨大な絵画が復活したのです。



ハロルド・ローゼンバーグとクレメント・グリーンバーグは、戦後のアメリカ美術を世界的な地位に押し上げた美術評論家です。いまだに現代アメリカ美術を学ぶ上ではこの二人の評論は必須です。

二人が推し進めたことは簡単にいえば2つ。美術の「純粋化」と「自立化」。

ちょっと難しくなってしまいましたが「純粋化」とは、つまりひとつの美しい様式、形式が貫かれていること、いろいろな価値観が混在していないこと。そして、もうひとつの「自立化」とは、美術は美術のためにあるということ。美術は「美」の主人であって、他の従属的な存在ではないということです。例えば皿の装飾は純粋な美ではなく皿の従属物であり、美を応用したもの。純粋な美は、それ自体を追求する絵画や彫刻の中だけにある。デザインや工芸は応用美術落ちう別のもの。なぜなら実用的な用途をもっていて、純粋な美のためにあるわけでないから、ということです。

この論理はより究極的に展開すると、具象的な描写の否定にまで進みます。

なぜなら、それは実際にあるものの単なる説明であって、絵の創造性に関わるものではない、ということになるからです。



荒野は壷にのみこまれた―大衆状況のなかの美術 (1972年) -
荒野は壷にのみこまれた―大衆状況のなかの美術 (1972年) -
行為と行為者 (1973年) (晶文選書) -
行為と行為者 (1973年) (晶文選書) -


グリーンバーグ批評選集 -
グリーンバーグ批評選集 -
近代芸術と文化 (1965年) (芸術論叢書) -
近代芸術と文化 (1965年) (芸術論叢書) -





この辺りはプラトニズムというかイデアというか、民芸運動とかアーツ・アンド・クラフツ運動とか思わせる。あるいは偶像崇拝。

んでもそういったものは、以前にも少し言ったように、「純粋に美や真理を追求するために極限にしぼりこみほかを捨象する」、というそのこと自体が形式化し、惰性となり、本来の純粋性の探求を失ってしまうこともあるので。たとえば「現代アートっぽい抽象さえしとけばそのように見えるだろ?(あとは口八丁手八丁の雰囲気で売り込む」みたいなのとか。

そういうこともあって現在は具象への揺り戻し、あるいはハイパー具象的な関心が出てきてるのかなあとか思うのだけど、それは自分の関心がそこにあるからなのかなあともおもったりする。そういったハイパー具象的なものもそれ以前の単なる具象-リアリズムとは異なりちょっと抽象や超現実的なところを取り込んでるようにも思えるけど。

あと、ヴォリンケルの抽象の必然性の議論とか。






ゴームリーの作品はリンク先のpinterestにもあるようにここでは人型の彫像が紹介されていた。等身大の人型の鉄の彫像。中は繰り抜かれてなくてそのまま鉄が流し込まれていて重さ600kgぐらいあるとのこと。それが山の山頂にインスタレーションしてる。

何も知らされず山を登り切った時にそれがあるとそこが特別な場のように感じるだろうし、なにかを想うのだろうなあとかおもう。あるいはこのようにそれがなんだか知っていたとしても「山を登る」という体験の後だとなにか感じるのだろう。山にずっと住む人、山と人との関係をその赤錆びた鉄の身体を通じて。鉄の芸術、とくにこれだけの重さ≠存在感をもつものにはそれだけの説得力がある。

んでもたぶんこれはわざわざ見に行かない、かなあ。。ほかの作品に比べて自分的には優先度が落ちる。場所柄もあるだろうけど(もうちょっと有名な山だったらいってたか(んでも修験道とかにまた興味関心が出たら行きたくなるか(これが設置されてるのはそういう「御山」なので)。




三島喜美代の作品は新聞で作られた迷路な作品。ゴミで捨てられるはずの新聞紙が積み上げられた迷路。「こんなに積み上げられていたら崩れてるのではないか?」と不安を誘う、けれどポリエステルで作られてるので安全なのだそうな。それは「ニセモノでゴミをわざわざつくった?」てことではあるのだけど、わざわざ作られた「ちり紙」たちにちゃんと文字が象られれ新聞としての質感も再現されているところ、あるいはそれらが積み重なって迷路を構成しているところからじっさいにこの空間にいって体験してみるとなんか想ったり想わなかったりするかなってかんじ。場所としても大田区ということでわりと行きやすいのでそのうち行ってみたい。


ロン・ミュエクの作品は4メートルに近いハイパーリアルな像とのこと。ミュエクはもともと児童向け映画やテレビ番組向けにパペットを作っていた人で「ラビリンス/魔王の迷宮」のそれもこの人の仕事て見ておおーっておもった。リンク先のNAVERのまとめでわかりやすいのだけど巨大赤ちゃんのそれなんかはちょこちょこtumblrなんかでも回覧されてくる。この人の作品も個展あったらみたいとおもうのだけど、スタンディング・ウーマン自体は青森の十和田常駐とのこと。



レアンドロ・エルリッヒのスイミングプールは金沢21世紀美術館の代名詞的なものになってるようでタレルの部屋同様、金沢21世紀美術館いったら体験できるようなのでそのうちいきたい。タレルのは直島にもある。



デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノータイム」はパッと見「GANTZ」の黒い球のようで、なので時空を超える感じなのかなあとか思うんだけど、逆にGANTZのあれはこれが元ネタだったのかなあとも。とりあえずこれも見てみないことにはわからない。直島にあるようだし。

デ・マリアの作品はNAVERのまとめにもあるようにランドアート的な特徴が強く、場と分かちがたいインスタレーションというか、自然の体験そのものをアートとして捉えようとしてる/自然をアートとして捉えるためのちょっとした手助けをする、みたいな感じ。それは内藤礼の作品にも通じるぽい。表し方は内藤さんのほうは閑かだけど。

この本での内藤さんの作品の解説のところで「現代アートはその場の環境にヒモをたらす(→風を感じられる/見える)などちょっとだけ細工をして、場の体験そのものを誘発しそんなに作りこまない / なんだったらまったく作らずアーティストが感じた認識/視角自体を共有してもらおうとするものがあったりするが、そうなると『作らない / 認識自体がアート』ということにもなったりするのだろうか」みたいなのがあったけど、自分的にもそんなかんじで、けっきょくあのへんは手の仕事として表したもの/表されたものが優れたメッセージをもっている、あるいは、それを作ったアーティストが優れた認識・感性をもっているかというとそんなこともなくて、「それは器用さの表れであってアートといえるの?」みたいなのはけっこうある。

現代なんかは特に複製技術というか、機械の力を借りれば特に器用さを持たない人でもデジタルに作品をブリコラージュすることはできるわけだし。3Dプリンタなんかもあるし、PCから印刷した写真をブリコラージュして自らの作品として発表する『photograper』もいる。

そういったところからするとその感性や「見えている景色」を磨き共有する方法を提示していった人が現代アート的にはおもしろいのかなあとかおもったりする。「ふだんなんのことない景色だけど、これを見た後はこんなふうに見られる・感じられるようになった」みたいなの。

内藤さんの目黒庭園美術館での展示(よく見ると窓や部屋の隅に小さな人型があるもの)もそういうところあったのかなあとか今さらおもう。デ・マリアのランドアート的なもの、あるいは環境と一体となったもの、であり、ゴームリーのちっちゃい人形的な。







タグ:art
posted by m_um_u at 00:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク