2015年06月17日

小山登美夫、2008、「現代アートビジネス」





現代アートビジネス (アスキー新書 61) -
現代アートビジネス (アスキー新書 61) -




noteで済ませても良かったしなんだったら文章にせずにメモなとこだけぶくましようかぐらいな感じだったけど「なんでこれをエントリする気になったんだっけ?」とよみかえしてるうちにヲクサンずに日本の現代アートの配置についてお伝えしとこうとおもったのを思い出した。あるいはこの本自体の主眼としては「(日本の現代アートでトップをはしるとおもわれる)村上隆や奈良美智ってどうなの?なぜ評価されるの?」的なの。そういった意味だとむしろこないだnoteにアウトプットした日記でもう要点書いてるかもしれない。


「現代アート」って斜に構えるのではなく|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne13c13c1df6a


いちお巻末の2010年当時の日本の現代アートギャラリーリストのメモ写真も載ってるし。


てか、「現代アートを買おう!」「現代アート経済学」のシリーズは小山さんのこの本の内容を受けてそれをビジネスマン的な客観性から伝わりやすく表したものだったのかな。そういう意味だと内容的には重複してくる。


繰り返しな内容になるので楽してこないだnoteにした内容から抜粋引用


この本を読むまでは正直「村上隆とかー現代アートとかなんぼのもんじゃいー」て感じもあったようにおもう。「知や感性を競う」というか。門外漢が足元をすくってやろうというか。

でも、宮津さんの語りから垣間見える「現代アートというのはそんなスカしたものではなく、単にぼくらがあの時代に『なにか新しくて格好いいもの、おもしろいもの、感性をくすぐるもの』を求め、それに捧げていった結果、現在のような形になっただけで」というような話を見てるとそういうのも阿呆らしいというか、少し恥ずかしく思った。

MOTも未だ建ってなかった時代、現代アートも日本に根付いてなかった90年代初頭に少しずつ挑戦と努力を重ねて自分たちの好きなものの場を作っていった。そして、単体の作品の価値というよりも、それを囲む人と人とのつながり、文脈、歴史のようなもののほうがむしろ大事で、現代アート的な作品はそれらのその時点での記念碑的なものだということ。

そんなことが感じられた。

小山さんの本を読んだら村上隆さんの本を読むつもりだけど、たぶん宮津さんの本を読んでなかったら「なんぼのもんじゃい」的な姿勢の読み方に傾いて貧しい読書体験に終始してたんじゃないかとおもう。




MOTも未だ建ってなかった時代、80年代後半から90年代初頭にかけて「日本にも現代アートの殿堂を」という動きがあった。白石正美さんなんかが中心となった東高現代美術館はそのさきがけ


東高現代美術館:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape
http://artscape.jp/dictionary/modern/1198701_1637.html



小山さんもこの時期に白石さんのもとではたらくなかで村上隆さんとも縁をもつようになったみたい。

当時の村上さんはまだ芸大の日本画博士課程で、でもそのころから自らの作品をどう売っていくか?ということに積極的で小山さんにも「こんどプレスを紹介してくださいよ」て接触していったみたい。


その後、小山さんが独立して自らのギャラリーをもって、村上さんや奈良さんを海外のアートフェア周りの市場から売っていくことに契機を見出していったながれが描かれている。「あの頃がいちばんおもしろかったね」とたまに会った奈良さんとはよくいうとのことで、なんとなく椎名誠の本の雑誌血風録的な青春時代を想わせた。



あとはギャラリーとオークション・アートフェアが中心となって現代アート的な価値はつくられていくという過程について。このへんは宮津さんの本にももうちょっと詳しく解説してあったようにおもうけどこちらがさきにザラッと説明された感じだったのだろう。長谷川祐子さんのはなしでもあったけど、現代アートにおける市場とのつながりは作品の国際的な紹介・流通という意味ではかなり重要になる。そこにうまく入り込めていけないとこの部分で国際的な関係性から外れてしまい「現代」アートでもなくなってしまう。あるいはあたらしい作家の発掘とか。

市場とつながることはアートに投機的な価値・意味合いが生まれ、単なる投機的な対象として扱われることでアートの価値がかえって損なわれる(バブル的な投機対象になってしまって現代アートが単なる「現在」アートになってしまう)という危険性はあるし、実際に好景気に賑わう中国のアート市場・作品評価にはそういうところがあるみたいなんだけど、だからといって現代アートのすべての作品が「本来意味のないガラクタに箔をつけただけのもの」みたいなものでもない。

宮津さんのことばだったか小山さんの言葉だったか忘れたけど、現代アートが現代アート足りえるのはそれが現代の問題・リアリティを作品としてきちんと表わし関係性を持っているから、ということ。


「なので村上さんの作品も奈良さんの作品もそういった文脈からきちんと現在のリアリティにコミットし、それまでのアート的な技法・表現の仕方も踏襲しつつ計算したものであるがゆえに海外コレクターの間で受けている」とのこと。


自分もそうだったけど村上さんの作品はヲタ的なアイデアを劣化コピーでシミュラークルしてるアイデア窃盗なだけじゃんて見方があるけど、あそこで村上さんがあらわしてるのは造形や表現方法ではなく、ヲタフィギュア的なものに先鋭される現代(日本)の(男性の?)欲望なのだそうな。なのでみょーに乳袋の強調でミニスカートな女の子(例のカフェ制服ぽい)がニコニコわらい、マイ・ロンサム・カウボーイはありえない量の精液を性器から放出し、それが龍を象る。



そうはいわれても自分的にもまだ「村上さんの作品てそんなに良いのかなあ?(実物みるとちがうの?アウラとかが?)」て半信半疑なんだけど、そういう説明ならコンセプトとしては理解できる。何十年かしてこういう文化が廃れていたとして、でもアート作品は残ってて、そこでこういうものを見た人が「こういうのでこんな欲望もってたんだねえ。。(それでこんな表現に」ておもうのかなあ、ってかんじ。


あとは小山さん世代の以前からの現代アートの主要画廊なとことか(西村画廊、佐谷画廊、かんらん舎、ギャルリーところ)、白石さんのスカイ・ザ・バスハウスとか。

村上さん主宰のGEISAIとかトーキョーワンダイーサイト、アートアワードトーキョーなんかもいってみないとなあ、とか。


アートフリーペーパーの「フェイヴァリット」とか。






そんなかんじかなあ






posted by m_um_u at 20:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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