2015年05月20日

最近読んだ本から  解釈と隠喩をめぐって





図書館の本の返却期限が迫ってて、もう読んだのでそのまま返しても良いのだけど記憶に印象付けるためにエントリするのもいいかなということでエントリしよかなと思いつつそれほどの内容でもないのでnoteにでもしとこうかなとおもったんだけどまあいいかあってことでまとめてエントリすることに。




ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」 -
ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」 -


いちお読んでみたけどそんなにとどめておくこともないもののように思った。

もともとが大野さんのブログエントリ「ラッセンとは何の恥部だったか」で提示された内容、「ラッセンが日本人に異常に受けたのは日本人のヤンキー心に訴えたからではないか?」に端を発したもので、それにいくらかのブラッシュアップ+肉付けをしたぐらいな内容に感じた。つまり問題提起としてはおもしろいかもだけど論文とか本としては読み応えがない感じの。

「ラッセンが受けたのはヤンキー心にヒットしたからではないか?」というところから発せられる問題提起をすこしすすめれば「そもそもラッセンを認めない『アート的なものの基準』とはなにか?」ということに落ち着き、内容ではなく文脈などから語られたり評価されたりするアートの評価基準の曖昧さがうんたらされるわけだけど、それ自体は(自分的には)既出な話でありそんなに鮮烈でもなかった。まあ一般受けはするかなあぐらいの。あとはそういう問題提起に当時流行だったヤンキー論という曖昧なものを接続して全体が構成されていた。

ヤンキー論について自分が不快に思うのは、あれが日本の現代的な大衆文化論にすぎないのにそこに接続せずにスノッブな立場から慇懃無礼にヤンキーを論じてるところにあるのだけれど、このラッセン本で散見された評論の体をしているものもそんな感じで不快だった。最初からヤンキーとかラッセンを小馬鹿にしてるのに、「敢えて( ー`дー´)学術的、評論的な客観性をもって論じるならば(それでもヤンキーはヤンキーでラッセンはラッセンで便所の壁紙みたいなものだけどねー」みたいなの。なぜこんな落書きみたいな意識の高さを覆い隠した欺瞞と慇懃な無駄話に付き合わないといけないのかと途中から読み飛ばしてたけど。

前述したけど、それがヤンキーに通じているという蓋然性を持つのなら、ヤンキー的なものを社会学あるいは人類学や民俗学的に措定すべきだしそれを提出しないと話にならない。また、アート的なものに惹かれつつそれらがぼんやりとした評価によってもてはやされていくさまを同様の方法や視角で見たほうが建設的なように思ったけれど、そういうことをしないのはこの人たちが論じている場自体がそういった曖昧な評価基準によって評価される場だからだろうか?同様な「スノビズムって言いつつおまへがスノビズムじゃん」はサードウェーブうんたらくさしにも感じたけど。

この本で唯一おもしろかったのは最後の生物学的な視角からこういった現象を見ている話で、それは自分の視角に近いように思った。




隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -
隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -



ヤンキー的なるものを語る視角が隠喩に満ちてるとしたらソンタグなんかも似たような批判をしたのかもしれない。つまり、「あなたがたの視点、論説は中立・客観的な方法を用いた分析以前に印象に基づいた答えがでていて、それに基づいた印象批評にすぎない」というもの。ソンタグはそのような「批評」を先験的な「解釈」として批判し嫌った(「反<解釈>」)。


この本-小論を書いた経緯はソンタグ自身が癌を患ったこともあったのだろうけどそういった先験的な解釈、印象がある力をもって人の流れを変えてしまうことにペンの力で抗したかったのかもしれない。


ただ、いつものソンタグな感じでそんなに方法論としてはきちんとしてなくて、印象批評ていってるソンタグの論じ方自体が確たる方法にもとづいてないというのはあるのだけれど、ソンタグのやってるのは論文ではなくて批評やエッセイだったのだろうし、そういった書き方で見えてくるものもあるようにおもう。

この本から自分的に得られたのは「癌や結核に対して、なんらかのロマンティシズムに基づいた隠喩が付され、物語化されることがある」「結核なんかはそれにもとづいて『高尚な病』とされた時代があった」「隠喩化された病は医学的に中立な理解、客観性を越えて人々に印象され、それによって病にかかった人々が不当な差別をされたりする」って感じだった。

特にこの本で強調したいのは最後の部分だったのだろうし、それ自体は重要な問題提起であるように思ったのだけれど、自分的には「だったらなぜ人々がそのような物語化を行わざるをえないのか?」「それは共同体の要請ではないか?」「そういった隠喩や物語化はデメリットもあればメリットもあるのではないか?」などを明らかにしてほしく物足りなさがあった。構造人類学的方法というか。まあ生物学でも何でも良いのだけど。

あと、これらの隠喩の大元になってるのはガレノス的な考えだったのかなあとか。


ガレノス - Wikipedia http://bit.ly/1LkTCK8


四体液説とか脾臓がどうとかの。こういうのは近代医学以前の医術的な時代に共通した宇宙 / 自然 / 人体なイメージだったようにおもう(道教とか易経とかもそんなのだし)。そういや朝にもコレ関連でうんたらつぶやいたな。
















胆汁がどうとかメランコリーがどうとかだと「土星の徴」をもつベンヤミンにも話が通じるのだろうから、そこでソンタグがどんなこと言ってるのかとかちょっと気になるけど(ベンヤミン的には土星の徴てシーニュを受け入れてロマンティックに論を進めていたわけだろうし)。



土星の徴しの下に -
土星の徴しの下に -



「宇宙 / 自然 / 人体」ということだと今回読んでたこの辺もつながってくる。


胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)) -
胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)) -


全体的に講演用のよもやま話てかんじの曖昧な本だったけど、終章の「生物、いのちには大きく2つの波がある」という話はおもしろかった。

鮭とかヤツメウナギもそうだけど、生物はおおきくその生を2つの季節に分ける。個体維持のための季節と種の維持のための季節。鮭は受精-産卵を迎えると飲まず食わずで産卵場まで還って来てそこで精を発っして命を使い切る。かまきりの雄も性行為が終わるとメスに食べられるし、鮟鱇の雄は体ごと雌の身体に取り込まれ融合する。ヤツメウナギは性の時期をむかるまでの食の時期は植物のように岩に縦にくっついて波に揺られつつプランクトンなんかを食べてるだけなのだけど、性の時期を迎えると水底を這いずって受精の場に赴く。泳ぐ機能はないのでがんばって水底をはいずり、てきとーな岩ごとに口の吸盤でくっついて休憩しながら。


食の時期のヤツメウナギは「植物の体に動物の皮をかぶせただけのもの」といえる。

「植物は、太陽を心臓にして、天空と大地を結ぶ循環路の、ちょうど毛細管に相当する」とかいう。

植物の体は動物の体から腸管を引っこ抜いて皮をひっくり返したようなものだとか。


ただ個体を維持するというだけだったらこういうので良いのかもしれない。



それがなぜ「動く」「腸(消化系)以外の身体を持つ」「手足を持つ」に至ったのか。その辺りについて考えだすと隠喩/物語が必要になるのかなとおもう。



三木さんの着想に共通、あるいは元となったゲーテの形態学的発想もそういったところに接続し、それらは中世の想像空間といえるのではないか。そして、そういった物語を解くためには先験的なひとつの解釈 / 視角だけではなく多様な意味、多角的な視点を対象となる共同体の生活の場からできるだけ客観的・中立的にもってくる必要がある。その物語、意味を分析者自身が理解して。



森のバロック (講談社学術文庫) -
森のバロック (講談社学術文庫) -


燕の季節ということで燕石考の章を読み直したくなってなんとなく読み直しつつ、「三木さん - ゲーテ的な発想の曼荼羅を外挿すれば熊楠がやりたかったことに通じるのかなあ」とかおもった。あるいは中沢さんがやりたかったこと。


熊楠は特に生物学とか人類学とかがわかれていなかった当時、自身の興味・関心を表す方法として生物学や人類学、民俗学に興味を持ち接触していったのだけれど、当時の人類学は「未開」に対する先験的解釈が横行していて、そういった人類学の現状に対して、民俗学、あるいは構造人類学的な中立かつ多角的な意味 - 隠喩の詳説を目的として著されたのが「燕石考」ということだったらしい。それは熊楠のやりたかったことの端緒的なもので、それが全て-完成ではなかったようだけど。



  納屋の中、垂木の上の、雛鳥がひしめいている燕の巣まで
  何回もよじ登っては、熱心に探したものだった。燕たちが
  雛の盲を治すため、海辺から運んでくる不思議な石を。
  燕の巣でこの石を見つけた者は、果報者とされているのだ。




ロングフェローのこの詩では、燕が雛の盲を治療する目的で海辺から不思議な石を運んでくること、その石を見つけた人間は果報者になれること、という二つのことが述べられている。質問者はこの二つのことが、どのようないきさつから語り伝えられるようになったか、その起源を訪ねたわけであるが、それについて熊楠自身が自分なりの回答を試みた、というのがこの小論の成り立ちなのである。

熊楠はまず、燕石についての伝承を世界中から拾い出してくる。ロングフェローの詩の内容と最も似ているものはブルターニュ地方の伝承であり、そこでは、燕は失明を回復する力のある石を浜辺で見つける知識を持つと信じられている。

これほど典型的ではないが、燕を連想させるような物質に、医療的効用ないしは吉兆を認める伝承はあちこちにある、と熊楠は続ける。そのうち燕石とよばれるものについて、癲癇に大きな薬効をもったり、頑固な頭痛を鎮めたり、四日熱を治したり、肝臓病を治したりする効用があるとしている例を紹介している。

日本の竹取物語の中でも、燕を連想させる逸話として「燕の持たる子安の貝」をめぐる話がある。この話の中で、子安貝は幸運をもたらすものとして描かれている。この物語の起源が「陀羅尼経」などの仏典にあることは疑いえないことのようであるが、子安貝と言うものは、その特殊な形態(女陰を連想させる)からして、大昔から様々な民族によって、珍重されてきた。たとえば、ギリシャ人はアフロディテへの捧げものとし、トルコ人やアラブ人たちは邪視に対するお守りとし、日本人や中国人は安産のお守りとし、ヨーロッパ人は子宮潰瘍の治療薬に用いた、といった具合である。

燕石と呼ばれるものをよく見ると、二枚貝の蔕のような形をしている。これは石のように非常に硬く、かつ、燕の巣のなかから出てくるので、燕石と呼ばれるようになった。これを瞼の下に挟んでおくと、目に入った小さなゴミを取り除く効用があることから、燕石には広く眼病を治す効果があると信ぜられ、ただ単に目の中に入れるのみばかりか、それを粉末にして服用するような習慣も生まれた。だが、それによる効用が実際にあるのかどうかについては疑問が多い。

燕石を逆さまにした石燕というものがある。これはある種の腕足類の化石が燕の形に似ているところから、そう名付けられたものらしい。中国人などは、この化石は燕が変身したものだと信じているが、それは形の共通性からアナロジーが働いたのだろう。ただ単に似ているというだけではなく、一方が別の方に変身したに違いないと信じるようになったのである。そういう考え方を俗信といってさげすんではならない。たしかに誤謬に基づく推理には違いないが、そこには人間の認識にかかわる深い事情が働いているのだ。日本人もかつては、かいつぶりという水鳥が変身して鳥貝になると信じていたし、またスコットランド人は藤壺が雁に変身すると信じていたのだ。

この石燕を酸性溶液につけると伸びたり縮んだりして、あたかも運動しているようにみえる。石燕には雌雄ふたつのタイプがあるが、これらを同時に酸性溶液につけると、互いにまとわりついて、あたかも性的結合をしているように見える。実際には酸性溶液に触れることで炭酸ガスが発生し、その圧力で石燕が動くのであるが、それが古代の人々の目には、生き物の動きのように映った。その動きがセックスの動きを思わせると言うので、この石燕には豊かな繁殖のイメージが結びついたのである。

燕石は、石のように固い物質をめぐる連想の例だが、この連想が植物と結びつくこともある。そういう場合には、燕草のような伝承が生まれる。

西洋の伝説では、燕草は燕が子燕の視力を回復させるのに用いたという。中国では草の王とよばれる植物に、視力を回復し、様々な眼病を治す効力を認めているが、この草と燕との結びつきはないことから、燕草の伝承は西洋で独自に発展したのだろうと熊楠は推測している。

燕石と言い燕草と言い、燕に薬効や吉兆が結びつくのはどういうわけからだろうか。そこのところが気になるのは自然なことだ。熊楠はそれを、古代の人々がとらえた燕の習性と結びつけた。燕は渡り鳥の一種で、春に北の地方から飛来して、秋には戻っていくのであるが、古代の人は、燕は冬眠するのだと考え、春冬眠から覚めた燕は秋になると眠りにつくのだと誤解していた。そのように考えた人々にとっては、燕の登場は眠りからの覚醒であり、したがって生命の息吹の現れであり非常にめでたい出来事として映った。そのめでたさの感情が、燕を生命の豊かさのシンボルと考えさせ、燕をめぐる上述のような伝承を生み出したのではないか。そう熊楠は考えたのである。
燕石考:南方熊楠の世界 http://bit.ly/1AePA5a




燕がその家に果報をもたらすということ、同時に冬のあいだ水の底にもぐって魚や貝になってる燕が凶兆を持ってくることもあること。

このあたりは蟲師の鳥貝の話や鳥風の話を想わせた。



蟲師 (6) (アフタヌーンKC) -
蟲師 (6) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -
蟲師(9) (アフタヌーンKC) -


そして、そういった凶兆や(妊娠時に赤子をあんぜんに、目のなかに入った汚れを安全に)「とりはずす」という燕の意味を緩和させるために鷲石(≠太陽)が用意されていたのかもしれない。





















picture_pc_46be370f13dec56b65cf350d2b184529.jpg

(Bertha Lum、Land of the Bluebird)






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山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html

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2015年05月02日

「栄養が行き届いていれば花は必要ないのです」 → 性 / 生 / 死 とそれらを共同体的に包摂すること


















ドングリと文明 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/780214


この辺をうんたらしたのは読んでるものと響いたからで、その辺りについて軽くnoteしとこうかとおもったんだけどけっこう長くなりそうなのでこっちにすることにした。…んだけど環境のせいで書くまでにやたら時間かかってげんなりしてきた。。







うわ、、1時間ぐらいかかってるな。。ひどい。。

とりあえずFirefox起動したのでそちらでblogの編集はしつつ、いつもどおり本文のテキストデータはメモ帳に書いてる。Seesaaの編集画面からだとレスポンス悪いしあぶなっかしくてやってられないので。noteはわりとレスポンス良いのでそのままあっちに書いてるけど。そんなに長文にしないし。


さておき

響いたのはドングリと文明のtogetterにまとめたところからか










「人類はほかの生物の死をまとって暮らしている」ということについて。自分の幻想もあるかもだけどたぶん現代人より古代、中世の人たちのほうがそういう感覚には近かったのではないかとおもう。自分で殺すし、殺したものを纏ったり栄養として摂ったりするので。また死との距離も現代人ほど隔絶したものでもなく死がふだんに生活の近くにあってそれを通じた生活のサイクルがあったような。王の二つの身体なんかで表されてるのだろうけど、昔は神性をもった王の死骸はそれによって土地に豊穣をもたらすとされた。ちょうどもののけ姫とかギガントマキアで表されていたように。


現代の都市生活者は基本的に死やなにかを殺すというところから遠い。場所によっては霊柩車が目の前を通るのや墓が近くにあることも厭われる。料理する人は魚をさばくぐらいはするけど、それは生物の命を奪るということとはまた違うような気がする。昔の人が小動物はすべて「虫」とあらわしたのと同じように。虫は「命を奪う」ってかんじでもなかっただろうし、それは「四つ足」と鳥や魚なんかとの関係とも同じだった(日本ではうさぎは鳥あつかいだったので食べられた)。



体験の範囲、実感の及ぶところ : 蜜蜂を弄ぶ
http://liyehuku.exblog.jp/24002926/


河P直美、2014、「2つ目の窓」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417488578.html



ゲーテの形態学のつながりから三木成夫さんを読んでる。

生命とリズム (河出文庫) -
生命とリズム (河出文庫) -
生命とリズム 三木生命学 (河出文庫) -
生命とリズム 三木生命学 (河出文庫) -

まだはじめのほうだし、いまのところ講演集ぽいのでぼんやりした内容だけど、<解剖学とか医学とかやってると生と死がそんなに判然と分けられるものではないような気がしてきます>、というのがいまのところの全体的内容になってる。「生と死は近代になって分けられていった」みたいなの。このへんは別件で見たデーケンさんの放送大学でもいってたけど





いわゆる死生学というやつ。


こういうのは言語化すると「生と死は別れてない」「あの世があってつながってる」みたいなことになって「ハナハダ非科学的ダ」みたいな話になっていくんだろうけど、そういう言語化とか理性としてのうんたら以前に、なんとなくの感覚としてそんなに死と生って判然と分けられるのかな?みたいなのはある。ちょうど現代の日本の都市生活者がスーパーのパック肉や魚の切り身と実際に生きてる牛や魚を実感として繋げられないのと同じように。飯島愛のひとは「こんにゃくってああいう形で海に浮かんでるものだと想ってた」っていってたし「紙婚式」にもそういう話あった。生き物がさばけない嫁の話。


紙婚式 (角川文庫) -
紙婚式 (角川文庫) -
紙婚式 角川文庫 -
紙婚式 角川文庫 -
紙婚式 (Feelコミックス) -
紙婚式 (Feelコミックス) -



医学的にはアポトーシスがどうとかな話になってくのかなとおもう。そこで癌なんかも絡むのだろうし、地球にとっての癌としての人間とか、あるいはウイルスとしての人間とかも絡んで来るのかなとおもうけど。


隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -
隠喩としての病い エイズとその隠喩 (始まりの本) -
ストーリー -
ストーリー -


「生きるために死が、あるいは細胞の劣化と新陳代謝がプログラムされている」というところに形態学的な興味もからんでくるのだろうか。すなわち「変わりつつも変わらないもの」「変わらないけど変わるもの」。


三木さん的には

人間の原形は、動物のそれ、さらには植物のそれと比較することによってのみ明らかにされるものと思われる。言い換えれば、これらの三者に共通した生過程の原形を求め、その原形の人間における変容(Metamorphose)を求めれば良い。これがゲーテ形態学の根底をなす方法論である。

とかだけど

形態学的な興味?といえるのか似たようなものは自分にもあって以前に手の形とか人の身体の形のことを想ったりした。


position 1  「立つこと」「動くこと」「生きること」「性」「動くこと」「思考すること」 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/147666



人の身体というのは基幹の部分と枝葉の部分にわかれていて、身体技法的なことを専門でやっていくと「基幹を中心として身体をひとつのものとして認識して使うようにしろ」みたいなことが共通して言われるようにおもう。ボイストレーニングでは「喉や口だけで歌うのではない。体全体をひとつの土管のようなものと思って全身で声を出せ」とかいうし武術だとよく「腕だけじゃなく肚でいけ」みたいなことをいう。ジョギングでもそうだし、水泳だと特にそんな感じ。長距離を走ったり泳いだりしてると腕や足が邪魔になってきて、なるべく無駄なく/抵抗をうけないように最小限で基幹の動きに合わせるようになる。水泳の時はなるべく魚のように、走ってる時は…とくによい譬えが思い浮かばないけど、自分的には帆のようなイメージだった。帆とオール。基幹が帆で足がオール。基本姿勢を保ってれば推進しやすすく帆のほうがメインとなるのだからなるべく帆の邪魔をしないように、足≠オールは「付いてくる」/「勝手に動く」感じで。

で、そういうことをしてると、腕とか足とかはそもそも邪魔なものだなあ、とか思ったりする。まあでも現在の文明というのは手の仕事によって作られていったのだし、その恩恵は受けてるのだけど(こうしてタッチタイプなんかしてるし)。んでもより高度な文明?があれば手とか足とかいらないのではないか?とかおもったりする。そして、そこでは生きることも死ぬことも、性も生も超越されてる。




性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html




吉野弘さんの詩集を読んでると「栄養状態が十分だと茶は花を咲かさないのですよ」という話があった。茶というのは、あるいは植物は栄養状態が危機的になると花を咲かすらしい。

新選吉野弘詩集 (1982年) (新選現代詩文庫〈121〉) -
新選吉野弘詩集 (1982年) (新選現代詩文庫〈121〉) -

   茶の花おぼえがき

 井戸端園の若旦那が、或る日、私に話してくれました。「施肥が充分で栄養状態のいい茶の木には、花がほとんど咲きません。」

 花は言うまでもなく植物の繁殖器官、次の世代へ生命を受け継がせるための種子を作る器官です。その花を、植物が準備しなくなるのは、終わりのない生命を幻覚できるほどの、エネルギーの充足状態をが内部に生じるからでしょうか。

 死を超えることのできない生命が、超えようとするいとなみ―それが繁殖ですが、そのいとなみを忘れさせるほどの生の充溢を、肥料が植物の内部に注ぎこむことは驚きです。幸か不幸かは、別にして。

 施肥を打ち切って放置すると、茶の木は再び花を咲かせるそうです。多分、永遠を夢見させてはくれないほどの、天与の栄養状態に戻るのでしょう。

 茶はもともと種子でふえる植物ですが、現在、茶園で栽培されている茶の木のほとんどは挿し木もしくは取り木という方法でふやされています。

 井戸端園の若旦那から、こんな話を聞くことなったのは、私が茶所・狭山に引っ越した翌年の春、彼岸ごろ、たまたま、取り木という苗木づくりの作業を、家の近くで見たのがきっかけです。

 取り木は、挿し木と、ほぼ同じ原理の繁殖法ですが、挿し木が、枝を親木から切り離して土に挿しこむところを、取り木の場合は、皮一枚つなげた状態で枝を折り、折り口を土に挿しこむのです。親木とは皮一枚でつながっていて、栄養を補給される通路が残されているわけでです。

 茶の木は、根もとからたくさんの枝に分かれて成長しますから、かもぼこ型に仕上げられた茶の木の畝を縦に切ったと仮定すれば、その断面図は、枝がまるで扇でもひろげたようにひろがり、縁が、密生した葉で覆われています。取り木はその枝の主要なものを、横に引き出し、中ほどをポキリと折って、折り口を土に挿し込み、地面に這った部分は、根もとへ引き戻されないよう、逆U字型の割竹で上から押さえ、固定します。土の中の枝の基部に根が生えた頃、親木とつながっている部分は切断され、一本の独立した苗木になる訳ですが、取り木作業をぼんやり見ている限りでは、尺余の高さで枝先の揃っている広い茶畑が、みるみる、地面に這いつくばってゆくという光景です。

 もともと、種子でふえる茶の木を、このような方法でふやすようになった理由は、種子には変種が生じることが多く、また、交配によって作った新種は、種子による繁殖を繰り返している過程で、元の品種のいずれか一方の性質に戻る傾向があるからです。

 これでは茶の品質を一定に保つ上に不都合がある。そこで試みられたのが、取り木、挿し木という繁殖法でした。この方法でふやされた苗木は、遺伝的に、親木の特性をそのまま受け継ぐことが判り、昭和初期以後、急速に普及し現在に至っているそうです。

 話を本筋に戻しますと―充分な肥料を施された茶の木が花を咲かせなくなるということは、茶園を経営する上で、何等の不都合もないどころか、かえって好都合なのです。新品種を作り出す場合のほか、種子は不要なのです。

 また、花は、植物の栄養を大量に消費するものだそうで、花を咲かせるにまかせておくと、それだけ、葉にまわる栄養が減るわけです。ここでも、花は、咲かないに越したことはないのです。

「随分、人間本位な木に作り変えられているわけです」若旦那は笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養生長という状態に置かれている」と付け加えてくれました。

 外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっているような、けだるい生長―そんな状態を私は、栄養成長という言葉に感じました。

 で、私は聞きました。

「花を咲かせて種子をつくる、そういう、普通の生長は、何と言うのですか?」

「成熟生長と言っています」

 成熟が死ぬことであったとは!

栄養成長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちにあった私は、二つの成長を瞬時に体験してしまった一株の茶の木でもありました。それを私は、こんな風に思い出すことができます。

 ―過度な栄養が残りなく私の体の外に抜け落ち、重苦しい脂肪のマントを脱いだように私は身軽になり、快い空腹をおぼえる。脱ぎ捨てたものと入れ替わりに、長く忘れていた鋭い死の予感が、土の中の私の足先から、膕(ひかがみ)から、皮膚のくまぐまから、清水のようにしみこみ、刻々、満ちてくる。満ちるより早く、それは私の胸へ咽喉へ駆けのぼり、私の睫に、眉に、頭髪に、振り上げた手の指先に、、白い無数の花となってはじける。まるで、私自身の終わりを眺める快活な明るい末期の瞳のように―

 その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那から聞いたこういう話がありました。

 ―長い間、肥料を吸収し続けた茶の木が老化して、もはや吸収力を失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。

 花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか。

 追而、

 茶畑の茶の木は、肥料を与えられない茶の木、たとえば生け垣代わりのものや、境界代わりのものにくらべて花が少ないことは確かです。しかし、花はやはり咲きます。木の下枝の先に着くため、あまり目立たないというだけです。その花を見て私は思うのです。どんな潤沢な栄養に満たされても、茶の木が死から完全に解放されることなどあり得ない、彼らもまた、死と生の間で揺れ動いて花を咲かせている。生命から死を追い出すなんて、できる筈はないと。



註 井戸端園の若旦那から、あとで聞いたところによると、成熟生長は「生殖生長」とも謂う。

 栄養生長、生殖生長については、、田口亮平氏の著書「植物生理学大要」の中に詳しい説明がある。それによると、この二つの生長は、植物が一生の間に経過する二つの段階であって、種子発芽後、茎、葉、根が生長することを「栄養成長」と謂う。(茎、葉、根が、植物の栄養器官と呼ばれるところからこの名がある)

 栄養生長が進み、植物がある大きさに達すると、それまで葉を形成していた箇所(生長点)に、花芽、もしくは幼穂が形成されるようになり、それが次第に発達し、蕾、花、果実、種子等の生殖器官を形成する。この過程が「生殖生長」である。

 井戸端園の若旦那から当初聞かされた言葉が、かりに「成熟生長」でなくて、「生殖生長」であったら、この「茶の花おぼえがき」は、おそらくは書けなかったろう。成熟は生殖を抱合できるように思えるが、生殖は成熟という概念を包みきれないように思う。また、彼から「栄養生長」という言葉を聞いたときその内容を確かめもせず一人合点したことを「植物生理学大要」を読んで知ったが、理解の不十分だったことが、かえって鮮烈に「成熟」という言葉に出会う結果となったようだ。

 なお、栄養生長、生殖生長の二語は、植物のどの部分を収穫の対象にするかを考えるときに便利な概念である。茎、葉、根を収穫の対象にする場合は、栄養生長を助長すればいいし、花、果実、種子収穫対象とする場合は、生殖生長を助長すればいい。茶の場合は、言うまでもなく前者で、若主人が「茶畑の茶の木はみな栄養生長の状態にある」と言ってくれたのは、葉の収穫を最重点に管理している畑の状態を指していたわけである。

 種子繁殖に対し、葉、茎、根の一部を分離してふやす方法を栄養繁殖と言う。これは前述した通り葉、茎、根が植物の栄養体もしくは栄養器官と呼ばれるところから、その名がある。栄養繁殖は、球根植物やその他の植物の間では自然に行われていることで、サツマイモ、ユリ、タマネギ、クワイなどは、自然に栄養繁殖を行っている例である。茶の木の場合の取り木は、、いわば人為的栄養繁殖である。だがこの作品の中では「栄養生長」との混乱を避けるため、用いなかった。

 因みに、狭山「市の花」はツツジであって、茶の花ではない。「市の木」として「茶の木」が指定されている。茶の花は茶所を代表していないわけだ。

久しぶりの雨と吉野弘「茶の花おぼえがき」 - 現代田んぼ生活 辻井農園
http://d.hatena.ne.jp/tsujii_hiroaki/20090912


盆栽なんかだとそんなこといって「来年も花を咲かせようと思うなら葉っぱはきちんと剪定しとかなきゃダメだ」とかいうのだけど、うちの梅の鉢植えはそのままダラーッと育ててて新緑してる。めんどうくさいというのもあるけどなんだか忍びなくもあるので。葉っぱが成って行くのを見るのも好きだし。

花というのは生殖のために必要なものだから人間にとっての第二次性徴とかセックスとかにあたるのだろうけど、そうすると人間がセックスするのは、あるいはそのために第二次性徴とか、ファッションなんかで擬似的/儀礼的に性徴を装うのは生物として完全ではないからなのかな?とおもったりする。危機とまではいかないだろうけど。単純には死が設定されてるので性によって生をつなごうとしてるということになる。そういえば宮本輝の小説でそういうのあった。かつては栄華を極めた男が死の淵に追い詰められたギリギリでむしょうに自慰がしたくなって自慰にふける、みたいなの。「生物は死の淵に追い詰められると自らの種を遺そうとする」とかなんとか(シグルイでもあったな)。んでもセックスなんかも現代人からすると生物/生殖合理的なものではなく快楽の合理性を軸としたコンサマトリーなものになってるわけだけど。

人が、あるいは人の生が完全なものになってしまえば性もセックスもいらなくなるのかなあ、とか思う。究極的には脳みそだけでうんたらということだし、その前段階だと身体を義体に入れ替えてうんたらだろうけど。でも、そうするとアポトーシスが設定されてるのと同じような問題として「ゴーストがささやくのよ」ってことになるのだろう(なので草薙素子はわざわざローテクな女性型身体をまとい、擬似的なセックスをし、中国茶器で茶を喫したりする)。まあけっきょく冗長性の問題なのかなあとか思ったりするけど。






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「墓が捨てられる」時代: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/10/post-b2c6.html



墓≠死といった不可解も共同体によってなんとなく意味づけられ回収される側面がある/あったのかもしれない。そしてそれらが変化してしまってきている。ネットも含めて。


川崎市中1男子生徒殺害事件について: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2015/04/post-cfe6.html


彼ノ花|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n461594ceb71d


川村壮志、2014,「謝るなら、いつでもおいで」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416879101.html



鈴木謙介、2013、「ウェブ社会のゆくえ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381455793.html


無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 -
無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考 -




「死」も含めて、あるいは誕生や乳幼児への態度も含めて、以前の公共性 - 市民社会的な「ふつー」の感覚であれば特に問題でもなかったもの、常識として儀礼的・大人的に片付けられていたものが通じなくなってきてる現状がある。そういうのにセックスも含まれる。セックスとそれをめぐる表象や実存は刺激的な商品として商品として回収されてるので。こういうのは吉田健一やそのあたりのふつーな大人だったら「馬鹿らしいのでそんなにわざわざ言わないことだ」みたいなこといいそう。

痴漢とか強姦とか、その他を含めてのステロタイプな男性性欲にうれぴっぷるなんかが違和感とか嫌悪をもつのはそのへんかなとおもうんだけど、あのへんもセックスとかにみょーに期待したり幻想や欲望が過剰に集中してるのがみょーな感じであって、たぶんそれは消費的、産業的に表象や実存、欲望が回収され影響された結果としての軽度なフェティシズム(ビール依存なアルコール依存ぐらいな意味でのそれ)だろうから、ほかに楽しみが見つかればそっちにそれるのかなあとか思ったりする。

逆にいうとそういうところに過剰にフェチしてしまう人たち、痴漢とか強姦/准強姦のような犯罪のように通常の人間的付き合いを越えて性欲がオーバードライブしてしまうひとたちは性欲があらわれると全身性器みたいになってほかの愉しみ/自我の規制がゼロになるほどに性欲≠ちんこまんこに支配された貧困というか、そういうのはもう軽く依存ということだろうから特にバカにするわけでもなくかわいそうなんだけど(そういうのも消費産業の影響の結果だろうし)。そして、たぶん世の中の大部分はそういう人たちの割合のほうが「ふつー」に多くて彼や彼女たちの自己認識的にもそれが「ふつー」ということになってる。ちょうどビール依存の日本人が軽度アルコール依存になってるにもかかわらず「アル中じゃないよ」とかいうように。


なので、ネットも含めた公共圏 / 市民社会的共同体をどのように設定し、生きること / 死ぬこと / あるいは性があること、それらに対してふだんの生活の中で、人としての当然のあり方 / 接し方をどのように設定していくかが地味に考えられるのだろうなあとか思う(そのへんに関心がある人たちとしては)。

まあでも性欲とかはとくにハビトゥスというかエートスというか、理性とかその場での教育ではすぐに方向修正できない染み込んだものだろうから、その辺を納得していくのには教条的な教育というか、彼らが志向する性欲 / 性行動 / 性快楽よりもまさるものを得られる環境を整える/整えられるようにサジェストする、もしくは彼や彼女たちがセックスに依存することで思ったよりの快や満足を得られない(却ってさびしくなる場面もある)ということを体験的に実感していくしかないのではないかとおもうけど。

花と同じで栄養が足りてれば無理に咲くこともないのだろうし、逆にいうと栄養が足りてなければ花を咲かさざるを得ないのだろうから。





花を届ける|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n03476ff2dc8e

fleur|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nf07dcfb9d660



Rebecca Horn    性と生の超越: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/133818125.html


posted by m_um_u at 17:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク