2015年04月29日

ゲーテ「色彩論」メモ



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色彩論 (ちくま学芸文庫) -
色彩論 (ちくま学芸文庫) -





noteに軽くメモってたんだけどあとで検索して参照するのにせるくまするならこっちにエントリしといたほうが楽だろうと思ったので移植。


ふせんのとこ読み返してみて、やはり当初の読み通り「カントやニュートンによって規定・定義されたことから漏れる観測的なものを色彩と光学に関しての経験則から表そうとした」ということだったようにおもった。ディレクトリとしては形態学的関心のひとつだろうけど、それがどのように色彩とつながってるのか?ということについてのはっきりとした言及はなかったので推測に留めるに、「変化」「うつろい」のひとつのわかりやすい事例として「色彩」があったのかな?ということ。染めや陶芸などではとくに色は変化していくのがよくわかるし。そのほかにも錯覚現象とか触れてたけど。


この本は錯覚的なものをゲーテが記述したところが事実確定的なポイントになってるのだろうけど、そこがこの本の醍醐味ではなくて、やはり以前にもいったようにこの本自体は研究ノート的なものにすぎなくてそのことはゲーテも言ってる(「これは経験則だ」みたいなの)。そういった部分、ニュートンやカントみたいに命題→仮説→確定みたいな論文形式ではなく、それ以外の印象なところをメモって言ったところがポイントだったかな、と。なのでそういった定説がある分野で定説をひっくり返すべく新説をあらたにつくっていこうとしてるひととかには参考になったり共感したりするところがあるかなとか。あるいは染めや器の職人。


色相環的な色の流れ、変化というのは器の場合は特になんとなく意識しつつもどういう現象なのか?ということについて職人独力では言語化→思考が追いつかないとこがあるようにおもう。化学的には説明されてるかもだけど、その哲学的意味みたいなの。そこを思考したものとして、ぢみに味わいがあるものだったのではないか?自分が器とか焼いてたら、あるいは薬用になった時にもういちど紐解いてみたいような…。酸化焼成とか還元焼成とかと当てはめて(ゲーテは酸化によって赤などの明るい色に向かう現象をして「高進」となづけていた)。


「全体としては形態学的なサブディレクトリな関心ではないか?」をもうすこしすすめると、形態学的な関心、変化についての関心というのは同時に「変化しつつも変わらないもの」が前提にあったのではないか。
「変わらないものがありつつも変わっていく」「しかし変化の中で同一のものを残している」

ゲーテの形態学的な興味がそういったものに根ざすとすると、ギリシア哲学におけるタレースにおける水への関心、ヘラクレイトスにおける火への関心にちかいのかなとか。


まあとりあえず形態学の方はそのうち読み進めるとして、この流れで「ゲーテとの対話」、三木成夫あたりを読み進めよう。(ついでにゲーテの植物学、鉱物学的なものも) → 「森のバロック」、「石が書く」(カイヨワ)












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花の色はうつりにけりないたづらに|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n0707fbbdfa0e



花惑い|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n666ecd226fa2




flowers for|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc68f917a5f5b




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2015年04月24日

美術手帖3月号から「現代アートの文脈」「現代アートは流通である」あたり




美術手帖 2015年 03月号
美術手帖 2015年 03月号
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美術出版社 (2015-02-17)










美術手帖3月号「世界の新世代アーティスト100人」なインデックス企画。あまり期待しないで見たし、作品実物で見てみないとやっぱピンと来ないだろうなあって感じだったんだけど東京都現代美術館と森美術館のチーフキュレーターの対談がおもったよりおもろかったのでメモ的に。自分的にはこれに関連する書籍(ラッセン本とか村上隆本、あるいはアートとビジネス・流通・プロモート本を[読むもの]として積ん読ぶくまする用のエントリ)。


対談の主題があきらかにされてないまま日本語でおk的なカタカナ語連発されていくのでなんとなくつかみにくいところはあるのだけど、半ば過ぎた辺りに主旨としてわかりやすく言及されていた箇所があったのでそこから引用する。


日本でも現代アートの愛好家やオーディエンスがこの10年ほどすごく増えたと思いますが、いまオーディエンスに投げかけようとしているコンテンツは、実はものすごく複雑で、様々な文脈から紐づけをしていかないと理解しきれないものです。私は従来、美術館の教育普及活動が担ってきた、アーティストの非常に深度のあるプラクティスを見る側に伝えていく作業、義務教育でシェアされていないここ100年以上の世界の美術の潮流を、いかに増加しつつあるオーディエンスに知識と体験を通して接続していくのか、といった課題は急務だと思っています。アメリカでは日本よりも多様な人種、宗教、経済的環境のなか、それぞれ異なるコミュニティーがあります。イギリスでも移民、人種問題は大きな課題です。そうしたなかでオーディエンス・エンゲージメントも発展してきました。日本でも、こうした観点を今後ますます強化していかないと、世界から届けられる現代アートの批評性とエンターテインメントに近いものとして現代アートを愉しみたいファンの間の溝は埋まらない。現代アートが単にエンタテインメントとして定着してしまうことによって、誰もが理解しうる人間の根源的な部分を扱っていることが伝わらないまま日々過ぎ去っていく。そこに大きな意識改革が必要だと考えています。




要約すれば、「現代アートの扱っている題材は生活のリアリティ的な問題として重要な部分なのにあまり関心を持たれてない、関心を持たれたとしてもスノビズムのなかで特に理解もされずに消費されている。そういうのがくやしい」、てことでサードウェーブうんたらとかロハスとか「これが上質な暮らし?」「m9(^Д^)」とか想わせる。そういった態度はちょっと啓蒙主義的傲慢を感じさせ警戒するとこでもあるわけだけど、そのあたりについては「上からの教育(Education)ではなく下からのLearningな動きとなってる。

例えばイギリス全体でも」とかいってて、まあcivic journalismと同じ文脈のように想う。つまり「教条的に一定の考え方を叩き込むのではなく、それらを解釈するための文脈を受講者と一緒になって学び、インストしていく」というあれ。新聞社でそれをやるのは「あらたな持続的購読者を自らの手で作り上げていく」てことでもあったんだけど、実際こういうのをやってるNewYorkTimesとかは時間とお金がかかるばっかでそれほど収益には貢献されないてことで半ば社会慈善事業的な趣きもあった。そういった文脈も背景にあるためか話の流れとして美術館だけが中心となるのではなくギャラリー、美術マーケットと連動してやっていく必要がある、みたいなことになっていたけど。地域コミュニティのボランタリーなアート活動との接続あたりにまでは話は流れてなかった。

この手の話は教育方面だとけっこうあって、もうちょっと広い文脈で言うと大学の経営とその内容の問題に属する。そこで問題になるのは就職予備機関としての大学の性格 ― 「優秀な人材を輩出する必要がある」という大学の生産性問題で、そうすると「就職に役に立つ知識」てことで大学教育の醍醐味(自由7芸につながるへん)がスポイルされて行ったり…。

美術館とアートの普及の話に具体すれば、「世界で起こっている美術モメント、それを反映した現代アートの作品メッセージを『正しく』読み解くための教育がかえって自由なアートの可能性を狭めていってしまうんど絵はないか?」という懸念が生じる。なので「だったら学芸員が『ただしい』作品の読み方を解説すればいいじゃん?(ガイドツアー的に)」て拙速出来ないのだろう。まあ「テクストの自由な読みを阻害するから」という以外に「ガイドツアーとかイチイチしてたら学芸員の仕事増えて人員・予算足りなくなるよ。。実際そんな金ない」てのがあるだろうけど(あと学芸員の読みが正しいかどうかびみょーだろうし、すべての作家がフレンドリーに作品メッセージを解説してくれるわけではない(現在MOTで開かれてる展覧会の作家さんはアプリインストするとそこで自ら解説してくれるようだけど)。


そういう問題があるとして、では「現代アートが扱っている題材」とはなんなのか?


作家や作品によって異なるところはあるだろうけど、今回の対談だと主に「近代(モダニズム)による画一化と画一化の暴力から自由になるための方法の一つとしての現代アート」ということが当然にされているようだった。つまり少し前にエントリした李禹煥のいってた内容と同期なわけだけど。


李禹煥、2000、「余白の芸術」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417115007.html


あるいは観察者の系譜とそれの前提としてのフーコー的な文脈。

ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417357248.html


そういった文脈なので必然として現代思想や文化人類学におけるポストコロニアル、マルチカルチュラリズム的なテーマと同期してくる。なので、それらの文脈に親しんでいれば現代アートに親しんでなくてもイマキタしやすい。自分が仲良くお話してるアート界隈な人とのお話的には逆にアートな人たちが現代思想とか社会学とか文化人類学、表象文化、メディア論、生の哲学的な文脈に接続しにくい(接続したとしてもスノッブなものかどうか見分けがつきづらい)というのはあるみたいだけど、、まあ話がすごくそれるだろうから置く。白田さんなんかがムサビでそのへんの講義とかしてるみたいだけど。以下はそういうのはじめた当初のムサビ講義の様子が垣間見られる。いかに美大生が自分たちの作品の背景的一般常識・学問知識に疎いかということについてなどなど。

白田秀彰の「網言録」 - 2007年5月 | WIRED VISION
http://bit.ly/1DGC70F



この対談巻頭でオルターモダンがどうとかいっていたけど、そういう文脈な感じ。オルターモダンという言葉はあるキュレーターが最近作った造語だから浸透してないけど。


ニコラ・ブリオーが2009年に提示した「オルターモダン」という概念が面白かったのは、主体というのは常に移動していて、その移動する主体の地理主体(ジオカルチュラル)的な位置、地政学的な位置、生産のプロセスによって作品の生産(プロダクション)というのは示されるべきで、どこかの国に帰属するモダニズムではなくて、移動する主体におけるモダニズムという考え方そのものそのものに言及した、というところです。主体の移動やノマドの問題というのは1990年代からずっと言われてきたことで、旅する作家のなかで起こる様々な文化的混濁性(ハイブリディティー)、情報、記号や形式が、作家の解釈、翻訳によって横断的に変化し、生成される。それをオルターモダンという形で語ったのが新しい部分かなと思います。よく似た言葉にマルチ・モダニズムズという言葉があります。そこにはそれぞれの地域が独自の個性を持ってモダニズムを形成してきたので、それらを欧米的なモダニズムという同じ言葉でひとつにくくることができない、というモダニズム普遍主義への批評があったと思います。

そういったモダニズムズという複数のモダニズムに関心が向いたとき、それぞれの地域でこれまで十分に評価されてこなかった活動や個々のアーティストについて、今日的な視点から見直す「再読」の行為が大きく広がってきたと思います。ちょうどこの5年くらいでしょうか。具体的には、今回の特集で選んでいるような若い世代ではなくて、1930〜1940年代生まれの方たちの仕事をいまのグローバルな文脈にのせてみたときにどう見えてくるのか、という「再読」です。アートシーンがこれほどグローバルに拡大した今日、国際展や雑誌の特集などで、もっとも注目すべき100人の作家を選ぶという行為はあくまでも主観的にならざるを得ません。今回の企画を長谷川さんや私が選んだら、また全然違う100人になったと思います。そうした意味で、長谷川さんが東京都現代美術館(以下、MOT)で企画された「新たな系譜学をもとめて 跳躍/痕跡/身体」(2014)や、私が森美術館で企画した「リー・ミンウェイとその関係」展(2014〜2015)なども、それぞれにある文脈を見せようとしています。系譜や文脈を検証するために、まずは自分の立ち位置を決め、そこからおり広範な関係性を俯瞰してみる、評価の基軸を見出すという必要性が世界中のあらゆる場所で起きている気がします。



欧米によって帝国主義的に敷衍していった近代ー文明とはべつにそれぞれの地域にそれぞれのやり方で育ってきたモダニズムがあり、それらは近代的な文明の便利を享受しつつ、それとは別にローカルなリアリティも保っているため欧米とは異なったモダニティとして発露し、そこでのモダニズムなリアリティも異なってくる。それらと世界的に共通する「現代のアクチュアルな問題」の視点をどのように同期・接合させていくか?、ということ。


ニコラ・ブリオーというキュレーター(@テート・ブリテン・ロンドン)が提案したオルターモダンという視座や態度は端的に解釈すれば「ローカルって言ってもテレビやネットを通じて共通し、混ざり合ってる近代人(あるいは後期近代人)があって、でもそれは完全に混ざるというよりはそれぞれのポイントに配置されてるような感じ」ということなのだとおもう。そういう意味ではちょっと展示みてみたかったなあとおもうんだけど。

そういったリアリティに対して、ひとつの学問分野・視野からだと捉えきれないところがあるので分野・方法(ディシプリン)横断的な方法が必要となり、そこで「新たな系譜学をもとめて」や「リー・ミンウェイ」的な企画が提示されていく。一部で好評だった「うさぎスマッシュ」なんかもそういった流れのように想う(サブカル的なリアリティも混濁してくし)。これらも見そびれたのでこの対談みてて「見とけばよかったかなあ。。」とかちょっとおもった。



新たな系譜学を求めて |東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/seekingnewgenealogy.html



リー・ミンウェイとその関係展:参加するアート―見る、話す、贈る、書く、食べる、そして世界とつながる | 森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/lee_mingwei/about/

リー・ミンウェイさんの、アートのかたち - ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com/lee_mingwei/2014-11-13.html



うさぎスマッシュ展|東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/148.html

2013.10.13 うさぎスマッシュ展 - 東京都現代美術館 - always one step forward
http://masagrant55.hatenablog.com/entry/2013/10/20/235648



現代アートの系譜、あるいは世界共通のテーマの共有ということではドイツのドクメンタなんかが紹介されつつ


ドクメンタ - Wikipedia http://bit.ly/1bA884P

ドクメンタ | 現代美術用語辞典ver.2.0 http://bit.ly/1bA8ng0




現代アートの最前線がニューヨーク現代美術館(MoMA)とテート周辺だということを再認識させられる。あとドイツ(cf.グッゲンハイム)。このへんの「最前線」とか「中心」とかの意味合いは「二本の学術では東大がどうしても中心になるからねえ。。」程度。もちろんブランドで芸の良し悪しが決まるわけではないので地方や各私立にも鉄人はいる。けど、まあ平均的な意味での中心みたいなのはあるよね、ぐらいの。



「1930〜1940年代生まれの方たちの仕事をいまのグローバルな文脈にのせてみたときに」な話題だともの派とアルテ・ポーヴェラの関わり、「具体」の世界的認知なんかが語られている。「もの派を語るときにはアルテ・ポーヴェラと関連して、その違いについてから語るよね」みたいなの。具体とアンフォルメルの関わりとか。


世界が注目する日本発アート「具体」とは? 具体作家・松谷武判さんに聞く - Excite Bit
http://exci.to/1bA8iJf

アルテ・ポーヴェラ - Wikipedia http://bit.ly/1bA8oAE

アンフォルメル | 現代美術用語辞典ver.2.0 http://bit.ly/1bA8Sa3



グローバルとローカル(日本)をつなげるということでいうと現在よりも1970年代の日本のほうが「進んでた」みたい。そのへんは例えば1970年の東京ビエンナーレ、当時の美術手帖の様子から伺える。そういった文脈をMoMAやグッゲンハイムが現在紹介してるとか。
そういったマルチカルチュラル(トランスカルチャー)的な方法にたいして、それらを提示する方法、あるいはかんがえる方法としてアートをポリティクス-アクティビティ、ライフの一環として捉える向きがある。政治的な問題を生活・人生の一環としてアートで表したり、そのまま言葉にすると問題なことをアートを通じて表現したり。たとえば身体芸術を含んだそれなんかはトランスディシプリンな試みと言え、ドイツやイギリス(テートのタンクスとか)などはすでに美術館の中でダンスも介してアートのメッセージを伝える試みがされている(TL的にはパリなんかでもそうみたい)。MOTで少し前に行われた「新たな系譜学」の企画展はそういった文脈だったみたい。

ブラジルの例、あるいはNYやイギリスなどもそういったシーン、アクチュアルなものを表現するためにトランスディシプリンな方法を採用することに追随/同期してるようだけれど日本はどうしてもそこが遅れてしまっている。それはたとえばデュシャンの「泉」(例のレディメイド便器の展示)がどういった文脈でどういった意義をもっていたのが共通認識されていなかったり、会田誠の「あぜ道」が東山魁夷の「道」を引用しずら(差延)した作品であることが理解されずたんに「トリックアート」として教科書で紹介されてしまっているところにも表れている。ちなみにいうとこの「あぜ道」はHALCALIのアルバムジャケットに無断パクりされたらしく問題になっていたらしい(そんでTLのそれ系女史が「あの文脈がまったく理解されてないことが貧困。。」みたいに嘆いていた)。



「現代の世界のアートシーンに日本をつなげる」「もう少しレベルアップしたい」が問題意識であるとするとその具体的方法としての流通、キュレーションのあり方が本対談の中盤の見どころになる。

具体的には美術館だけでは骨が折れるので世界のアートマーケット/ギャラリーの動向ともっと連絡・リンクする形でこういった活動を拡げて行きたい、というもの。この辺もおもしろかったので引用しておく。



NYの美術史家、室井玲子さんが、もの派展の際にマーケットと美術館の活動とアカデミックな研究が三位一体であること重要性を指摘していました。もの派のアカデミックな研究や展覧会があっても、それにマーケットがともなわなければ、現在のような国際的な認知には至らなかったかもしれない。アルテ・ポーヴェラなどを収集しているコレクターが、もの派に接続点を見出しつつ、だんだん購入可能な作品も減り、価格も高騰してきたアルテ・ポーヴェラの作品に比べて、まったくアクセシブルなもの派に手をつけていくというような経緯でマーケットにも火がついた。昨年秋、ロンドンのフリーズ・マスターズではすでに韓国のギャラリーが、韓国モノクローム絵画世代の作家や、1960〜1970年代のパフォーマンス・アーティストも市場に強力に紹介していました。こうした方法論をいかに日本のアートシーンにも当てはめていくのか、もし日本のアート・コミュニティーに欠けていることがあるとすれば、戦略的な市場への介入と文脈的な裏付け、そして美術館の活動という3つの軸の連動を意識することなのかもしれません。


コンテンポラリー・アートがコンテンポラリーたりうる要素は、文脈や方法論だけではなく、それを支える流通のシステムですよね。コンテンポラリー・アートの存在やこれにかかわるアクティビティー ―アートフェア、ビエンナーレ、オークション、フォーラムなど― が、多様な文化や現れてくる表現をお互いに交流させたり、機能させたりすることの助けになっています。さらに、展覧会を開催することは、他者と作品体験を共有して、アートについて語り始めるということ。では、それをどうやって評価するのか?展示され、評された時点で議論の対象になっていくじゃないですか。私はそのシステムについてはいまアジアでかなりうまく機能していると思っています。


例えば、テートは2012年にアジア太平洋リサーチセンターを設立しましたし、MoMAは09年頃から内部のスタディーグループC-MAPをつくっています。世界の近現代美術館の代表格であるファーストクラスの美術館が、世界中の国や地域のインスティテューションとパートナーシップを組みながら、いかにグローバルに拡大した近現代美術の全貌を掌握しようとしてるか。若干、帝国主義的にみえなくもないですが、テートとMoMAという2大巨頭ではその方向性は明らかです。ただ、いくらテートやMoMAでも、座っていて情報や知識が集まるものではない。アーティストや作品が多様な文脈や系譜のなかにいるのと同じように、美術館というインスティテューションもパートナーシップによってしか成立し得ない時代だと思っています。単独で何かをするのではなく、自分たちが根ざしてる文脈が何で、相手が根ざしている文脈がどこにあって、それをつなぐことによって何が見えてくるのか。そういう意味で本当に「関係性」の時代で、そこに意識をシフトしていかないと全貌は見えないな、という気がしますね。


私もアジア太平洋リサーチセンターに、短期間ですけれどフェローとして在籍して、それがどのように機能しているのかというのを見てきました。スタッフの数は少ないですが、テートがやっているコレクションの取得委員会(委員会は、北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアパシフィックなど、いくつかの地域に分かれていて、それぞれ地元のコレクターを中心にした人たちがメンバーを構成し、美術館に対して助言と寄付金を与える)というのがあります。そこを介して、世界中から情報も作品も集まってきます。そしてアカデミックなリサーチは自分たちが現地に赴いて行うという、すごくよく出来たシステムです。つまり、モダニムズムという新しい考え方の中で、いかに共通点と差異を議論し、また同時にそれらを展覧会や書籍、コレクションといった形でまとめていくのかということですね。






「現代アートがコンテンポラリーたりうる要素は、文脈や方法論だけではなく、それを支える流通のシステムである」「もの派が世界的に認識されたのも美術館の展覧会に加えてマーケットの動向が伴っていたから」「現代アートにおける世界の2大巨頭美術館はそのような背景で帝国主義的に各地に網羅的にリサーチを張り巡らせている」


示唆に富む箇所でいろいろと連想させる。「世界で認知されれば持続する」みたいなのは映画のシーンやシステムにも同じくするし、映画というのがけっきょくは内容ではなく流通システムをメインとしているということも(もちろん内容も重要だしインディーズ的な展開もあるけど)。帝国主義的なリサーチの網目、そこからの各地のアートの網羅的な狩猟のあたりは帝国主義時代の博物学的な狩猟・蒐集、そこから文化人類学という学問が立ち上がっていったこと、それらが実際的な機能としてはアメリカの安全保障のリサーチ(エリアスタディー)として予算を受けて育っていったことなんかが連想されここでも上記してきた啓蒙の暴力と同じ懸念がもたげる。


その辺りは人文社会科学の興味関心の持続が「金・ビジネスとの関わりないと―」「でも金金いってたらけっきょく金に染まって内容二の次になってくじゃん?」な話と同じくなって循環論するので置くとして。最後にこれらの話での注意点というかびみょーなところとしてもう一点だけ書き遺してこのエントリを閉じよう。


この対談は「意識の高い」エリートキュレーター同士の対談ということでどうしてもイヤミっぽいというか、なんかいけ好かないところがあり、それはたとえば「実際の作品やアーティストを差し置いて女衒・アート転がしがいばるんじゃねえm9(^Д^)」的なことに集約される。

んでもこの対談自体はその辺りを踏まえつつ、日本のアートシーン、あるいは普段の生活、一般的な認知とアートとの関わりがあまりにも貧困で文脈が理解されていないということに対する問題意識・提起・解決法の提示であったように思う。

なので「作品やアーティストを差し置いて」というほどでもなく、それらを紹介するプロとして、彼女たちキュレーターがこれから先どのような問題意識を持って努力していくべきか?という対談のように思えた。それはたとえば旧来の似非文化人的なひとたちがゲージツや「文化」をてけとーにスノッブしてごまかして偉そがるのとは異なるだろう。


もちろんそういった文脈とは関わりなく自らのそのとき想ったもの、感じた色やモティーフをそのまま表しただけって作家もいるだろうし、そういった作品もあるように思う。あるいは作家でさえ自身の作品がどういう意味を持っているのかということを精確には言語化できなかったりするので。

今回の話はそういうのとはまた別の、キュレーションというアート、プロの技の話のように思えおもしろかった。今後のMOTや森美術館、それらを受けた横浜美術館、原美術館ほか日本の現代アート系美術館の流れ、現在企画展示されているものがどういった文脈に属しているかもなんとなく推測されるし。




以下はそのようなキュレーターの意識から横浜トリエンナーレをくやしがった箇所としておもしろかったので最後に引用しておしまいとする。「アーティストやキュレーターにとっても網羅的なものだけではない深度が必要」「表層的な情報はいくらでもあるけれど深度がなければ凡庸な追随に終わる」という話から。




そういえば、2014年にはアーティストによるキュレーションが何件かありましたね。例えば「メディア・シティ・ソウル2014」のアーティスティック・ディレクター、パク・チャンギョンも映画出身で映画製作の仕事も高く評価されている人です。彼も数年来知っていますが、それこそ韓国のシャーマニズム、不可視のエネルギー、アニミズムなど、あの展覧会で扱われていることはずっと彼が探求してきたことです。森村泰昌さんがディレクターを務めた「横浜トリエンナーレ2014」でも同様に、彼らがある意味何十年かかけて掘り下げてきたリサーチをもとにあのような展覧会を開催されたら、何年も繰り返し展覧会を作り続ける職業上のキュレーターは太刀打ちできない。アーティストのヘギュ・ヤンは「アーティストはこれまで自分の興味のあるとkろおを掘り下げてきたから、それに関するアーティストを集めて展覧会をつくることは一回はできるけれども、それ以上はできないわよ」と慰めてくれましたけどね。ただそれは展覧会としては、彼らのアーティスティックな文脈やストーリーの構築が読み取れて、実に興味深い。深度の必要性はこうした事例からも感じられます。


















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美術史、ヤンキー絵画を語る『ラッセンとは何だったのか?』 - (チェコ好き)の日記
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黄金町の「まちづくり」と「地域アート」を巡る議論のまとめ 2014.9 - Togetterまとめ
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アートの町として生まれかわった(?)「黄金町」の闇|けいたいおかし
http://ameblo.jp/keitaiokashi/entry-11374051910.html



韓国のアートを活性化させ、政府も支援する「多元芸術」とは? - 舞台・演劇インタビュー : CINRA.NET
http://www.cinra.net/interview/201410-seohyunsuk


「韓国や中国のほうがエッジに進んでる」みたいなことはなかよしのあーてすとのひとも言ってた(ので今度の横浜美術館の次の展覧会とか気になってる)

蔡國強展:帰去来 | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館
http://yokohama.art.museum/exhibition/index/20150711-449.html




東京に対する、緩やかでシリアスな危機感 羊屋白玉インタビュー - アート・デザインインタビュー : CINRA.NET
http://www.cinra.net/interview/201411-hitsujiyashirotama





踊りに行くぜ!!vol.1〜10 アーカイブ
http://odorini.jcdn.org/modules/odorini9/


index - 「踊りに行くぜ!!」IIセカンド
http://odori2.jcdn.org/






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2015年04月18日

「茶箱広重」と「無限の住人」のこと


茶箱広重 (小学館文庫) -
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らんぷの下 (小学館文庫) -
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鼻紙写楽 (ビッグコミックススペシャル) -
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朝に茶箱広重を読了しておおぅ…てなりつつなんか言いたい欲が高まってたのでこの際関連をまとめ的にエントリする形で。

















茶箱広重についてなんか書こうとchromeのタブに関連サイトハヤニエしてたらTLで「小林清親展すばらしかった」てあったので関連しらべてたら「応為の例の絵も展示する(映画記念で」てことでトレーラー見たら思ったより良かった。杉浦日向子漫画も心の落ち着きどころというか癒やしというかになってるので。ぢみに。


百日紅 (上) (ちくま文庫) -
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百日紅 (下) (ちくま文庫) -
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合葬 (ちくま文庫) -
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二つ枕 (ちくま文庫) -
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「小林清親展は百日紅映画版見てから行こう」とか思いつつ。自分はどうも小林清親よりは川瀬巴水派なんだけど、ちょっと調べたら時代も違って川瀬巴水のほうがより昭和絵というか、東京の昔的な風情なあれで、清親は三代広重と同じ開国期の叙情/陰影て感じだったのだな。それでも川瀬巴水のほうがなんか良いと感じるのは清親も開国な機運な影響を受けたところがあったからだろうけど、三代広重とかに比べたらかなり叙情的におもう。なのでこれも会期中に見に行こう。


さて、茶箱広重だけど

ネタバレ的なところもあるけどウィキペディアみたらわかるので先に言ってしまうと「印象派に影響を与えた日本の浮世絵」な画家ということらしい。茶箱というのは横浜から輸出する茶の木箱のことで、茶箱絵というのはそれに貼られた宣伝用の絵。つまりラベル程度のものだった。

「これだけの見事な多色刷木版画がそまつな箱に貼られている!!」

はるかな国から海を渡ってきた茶箱を見て、西欧人は驚嘆した。そして、はがして収集する熱心な人々がいた。
これが西欧の浮世絵収集熱の発端であり、印象派の若い画家たちに多くの示唆を与えたはじまりであることはあまりにも有名な話である。


初代歌川広重の門人。姓は鈴木または森田、名は鎮平。立斎、立祥、喜斎と号す。初代歌川広重と同じく定火消同心の息子であった。弘化のころ初代広重に入門し、初め重宣と称した。美人画や花鳥画、武者絵を描き、やがて風景画も描くようになり、徐々に初代の作域に近付いてゆく。安政5年(1858年)に初代が没すると、翌安政6年(1859年)広重の養女お辰の婿になり、二代目歌川広重を襲名した。この時、お辰は16か17歳であった。二代目広重は師の画風を忠実に継承した風景画などを描いた。慶応元年(1865年)、お辰22歳の時に20歳という年齢差が災いしてか夫婦喧嘩により、お辰と離別することになる。以後は森田姓を称し、横浜に移り住んで喜斎立祥と号し、外国輸出用の茶箱のラベル絵を描いたので、人々から「茶箱広重」と呼ばれ、特に外国人からは重宝がられた。


一ノ関圭が茶箱広重を連載していた当時、研究としても二代広重については詳しく知られてなくて、「これだけの情報をマンガで…」というのが驚かれたらしい(あとがきの高橋克彦語りから)。高橋さんは当時発表しようとしていた小説で二代広重について茶箱絵師に至った人生の謎から迫ろうとしていたようだけど、一ノ関圭としてはそういった事実関連に焦点するのではなく茶箱広重と呼ばれた二代広重(立祥)が晩年に茶箱絵師に至るまでの人間ドラマを描いている。「らんぷの下」「すがの幸福」「裸のお百」などで見られた女の情感がここでも表され、特に歳をとってからの女のそれの空気感とか間合いのようなものの描写がうまい。そして画家の絵に賭ける情熱と苦悩、そこから脱した/諦めた時に至る境地のようなもの。「裸のお百」は日本画壇が西欧画に染まり始めた頃の黒田清輝たち白馬会-東京美術学校(つまり現在の東京芸大の前身)の様子が伺えて勉強になるし、そこになんとも言いがたい、滋味のある人間ドラマが添えられている。一ノ関圭独特の筆致で。



一ノ関 圭(いちのせき けい、1950年 - )は、日本の漫画家。秋田県大館市出身。女性。東京藝術大学油絵科卒。在学中に投稿した「らんぷの下」が第14回ビッグコミック賞を受賞(夢屋日の市名義)。

江戸・明治を舞台に、歴史の波に埋もれた人物の懸命な生き様を描く骨太な作風が特徴である。

また非常に絵の上手い漫画家としても知られ、吾妻ひでおは『DEATH NOTE』での小畑健の絵について「幻の漫画家・一ノ関圭のような自在さはない」[1]との感想を述べ、竹熊健太郎は「美術をテーマにした漫画で納得行く漫画内絵画を描けていたのは、俺の知る範囲では一ノ関圭が筆頭」[2]と語るなど、その画力の高さは現在でも伝説となっている。


絵柄的には小池一夫の劇画的で小池一夫塾出身かと思ってたけど確認してみると違うみたい。どういう経緯であの画風を身につけていったのかはネットからだとわからないのだけど、独自ということでももともとが東京芸大だからということで基礎的な力が違うのだろうか(まあ東京芸大だからっていうのも安易な言い方だけど)。


白土三平も想わせるこういう絵柄-人物画は自分的にはあまり得意じゃない(なんか、あの時代の歌謡曲ぽい)のだけど、独特の色気や説得力を持っているし、なにより小物ほかの絵のうまさが精確で見ていて気持ち良い。物語の内容も並行してあとから染みてくる絵だなとかおもふ。煮物や干物のように。




茶箱広重-一ノ関圭についてはそのぐらいであとはあれこれ言うよりは読んでもらったほうがよいようにおもう。あまり内容言うのも野暮だしせっかくだから絵の情感を味わってほしいなあとか思うんだけど、あまり女流が認められてない時代の女流の華ということで言うと葛飾応為の天才と通じるものを思う。てか、まあ自分的には沙村広明関連な脱線していきたい。

無限の住人は去年に終わって

無限の住人(30) <完> (アフタヌーンKC) -
無限の住人(30) <完> (アフタヌーンKC) -
無限の住人 コミック 全30巻完結セット (アフタヌーンKC) -
無限の住人 コミック 全30巻完結セット (アフタヌーンKC) -

そのときにもちょっといろいろ言いたかったんだけどタイミングとか「言い出すと長くなるからどういう切り口で言おうか、、」みたいなのがあって機を逸していたのだけれど


少年ジャンプ+ 岸本斉史×沙村広明対談
http://bit.ly/1DSqJmS



NARUTOも好きなのでいろいろおもしろい対談だった。ちょっとおもしろ対談なので引用多くなって不格好だけどまあウェブで紙幅無限だし、「引用大杉→コピペアフィリのため」というわけでもない+文章として読む側に絶対見といてほしいもの+リンク先に飛ばずに一枚で見れたほうが楽というのもあるので。


まずは絵柄とその影響、描くときのポイントとして意識してるところについて。

岸本 『無限の住人』が初めてアフタヌーンに載ったときのことはハッキリ覚えてます。当時僕は大学の美術学科1年生で、寮にいたんですけど、寮生がみんな騒いでるんですよ。「今回すげえのが載ってるぞ!」って。で、「岸本、お前はとりあえず見ろ。確かマンガ家志望だよな」って言われて。しかも、当時僕、侍マンガを描いてたんです。それで、その載ってるのが侍マンガだっていうんで参考に見てみるかと思って読んだら……「あ、これはもう次元が違います……」って感じで(笑)。

沙村 いやいやいやいや(笑)。

岸本 本当ですって! もうメッチャクチャ絵がうまいんですもん。ビックリしましたよ。それで「もう侍マンガじゃダメだ。敵わない」ってなってジャンルを変えることにしたんです。


岸本 でも、僕もやっぱり大学時代衝撃を受けましたから。『AKIRA』以来の衝撃ですよ。まず絵ですよ。圧倒的な力の差を感じました。特に手と足がすごい。いまだに覚えてますが、当時、アフタヌーンに作家のページとして1ページもらえるコーナーがあって、そこに沙村先生が椅子に座ってるキャラクターを描いてたんですが、それがもうすごくて。

沙村 ああ、覚えてます覚えてます。あれ、めちゃくちゃ時間かかった(笑)。

岸本 僕、沙村先生と4歳差なんですけど、このレベルに追いつくには、どれだけペンを握らなきゃいけないんだろうって思いましたから。

沙村 でも、俺、『NARUTO』を最初、途中から読んだんですけど、すごく基礎デッサン力の高い人だなと思いましたよ。

岸本 えー! そんな……うわぁ……(悶絶)

沙村 本当に本当に。それで、この人、デビュー当時はどうだったんだろうと思って、1巻とかにさかのぼって読んでみて。もちろん今とは線は違うんですが、デビュー当時から生半可な新人と比べものにならないくらいうまかった。

岸本 でも、沙村先生の影響、すごいでしょう? 僕は中学時代に『AKIRA』にハマって、大学時代に沙村さんにハマったんです。だから、影響をすごく受けていて。前に『こち亀』の秋本治先生にお会いしたときに、「君は『無限の住人』の影響をかなり受けてるね」って言われて。「カカシが(『無限の住人』のキャラクター)凶(まがつ)で、イルカが(『無限の住人』の主人公)万次でしょう? 僕もあのマンガ大好きだからわかるよ」って、衣装とか髪型とかから推測されてたんです。

沙村 そうなんですか。

岸本 もう図星ですよ。手の描き方も、僕は沙村先生の影響受けてるんです。『無限の住人』の読み切りが載ったときに、銃を持っている手に感動して。人差し指から親指にかけてのライン、あの部分の肉をすごくうまく描いてて、そこにもう震えちゃって。

沙村 でも、僕も手はほかの人の影響ですよ。マンガを読んでいて最初に「この人の描く手はなんてうまいんだ!」って思ったのが、安彦良和先生。『アリオン』なんかを見て「なんてキレイなんだ!」って。

岸本 やっぱり手を見ますよね。

沙村 自分の絵を見ても、手が気になりますよね。でも、岸本さんの手って、すごいうまいじゃないですか。

岸本 いや、完全に沙村さんの影響ですよ。『カラクリ』って読み切りでデビューしたとき、それを見て「岸本さんの手の描き方を見てすごいと思いました」って言ったアシスタントがいるんですけど、その子に「いや、これ実は沙村さんって人の手なんだよ」って言ったら「あ……知ってます……本当は気づいてました」って言われたくらい(笑)。もうバレてました。
沙村 でもね、俺はたとえば手を描くとき、手の甲の部分にカーッと線を入れて腱を描いていくんですよ。良くも悪くもそういうクセなんですけど、岸本さんってアウトラインしか描かないのに、ちゃんと手の甲の面を表現できている。あれがすごい。

岸本 でも、沙村先生の手の線を省略していっただけなんですよ。

沙村 いや、「どこを省略するか」ってうまいか下手かの分かれる部分じゃないですか。シンプルな線でそれをやるっていうのはすごいんですよ。

岸本 だけど、沙村先生の絵ってすごくオリジナリティがあるじゃないですか。絵って、だいたい誰かの影響を受けているものなんですけど、沙村先生はすごくオリジナルの絵だった。

沙村 俺が学生のときに描いたマンガなんかは本っ当に大友克洋にバリバリ影響受けてますよ。ちゃんと人間と同じ形にトーンを貼って影をつくるっていう“大友影”だったり(笑)。そういうのがあって「ちょっとこれはまずい」って思って、いかにこれを脱却するかっていうのを考えてたんです。それでちょっとラフにざざっと描くようになった。

岸本 あれが衝撃だったんですよ。



岸本 僕、『無限の住人』で構図とか構成も勉強したんです。僕はアフタヌーンを2冊ずつ買ってたんです。
沙村 え、なんでですか。
岸本 アフタヌーンを買ったら、まず『無限の住人』を壁一面に貼るんです。ただ、壁に貼ると片面しか見えなくなるじゃないですか。だから、ページの裏表両方見えるように2冊買って貼ってたんです。それで「ここでこういうコマにしてこうするんだ」とか「これくらいのページ数でこれを出すんだ」とか、構成のバランスをたたき込んだ。だから、いまだにネーム描くときとかも、あの大きさでバーッと見られるようにしないとできない。

沙村 そんな、俺のマンガなんか見なくても、ジャンプを見てればいくらでも教科書があるじゃないですか……(笑)。

岸本 いや、どんだけ僕がハマったか、この思いを伝えなきゃと思って(笑)。緩急のつけ方もかっこいいんですよ。引きでキャラ位置をちゃんと見せて、カメラカットがパパパッと速いところはアップで見せていくじゃないですか。大きいコマの下にババババッとそういうアップの小さいコマがあるっていう緩急のつけ方は、いまだに影響を受けてます。



画面構成、構図について。

沙村 自分の中で、まずマンガの絵で一番最初にしなきゃいけないことは“説明”だっていうのがあるんです。場面なりシーンの説明ができているというのが第一で、次にそのなかでかっこいい絵を模索していくという感じですね。最近思ったんですけど、映画の速いカット割のアクションシーンとか見てると、映画のカット割とマンガのカット割ってやっぱり違うというか……マンガの方がもうちょっと引きの絵を多く見せないといけないんですよね。映画って結局常にアップで、あまり全景を映してなくても後ろにカラーの背景が入ってるから、だいたい状況がわかるんです。それがマンガだと……

岸本 白黒だから。

沙村 そう。全部説明しないといけない。

岸本 難しいですよね。アクションシーンはちょっと間違えるとすぐ何をしているのかわからなくなっちゃう。

沙村 岸本さんの場合は、もう週刊少年誌の宿命みたいなところもあると思うんです。すごいじゃないですか、スケジュールが。前にジャンプ作家の1週間みたいな記事を見たんですけど、「このスケジュールの中で絵のことに心を割いている時間とか余裕とかよくあるな」って思いますよ(笑)。それくらい時間がないし、生産量を上げないといけない。そうすると、たとえばトーンを満足いく形で貼れなかったりするでしょう?

岸本 はい。コミックスの直し作業ならともかく、連載中はまずできません。

沙村 岸本さんの戦闘って線が多くて濃いんですよね。ただ、それがゆえに目で追わないといけない情報量が多くなって、ともすればノイズに見えてしまう場合もある。これ、たとえばキャラだけ残して、背景に1枚トーンを貼るとかそういうことができる時間があれば、もっとわかりやすくなると思うんです。でも、それをやる時間がないでしょう?

岸本 そうなんです。沙村さんって手前のキャラってトーン貼るじゃないですか。カメラのこっち側にあるキャラはトーンを貼って奥行きを出す。『NARUTO』でも序盤あたりまではそれをやってたんです。それがね、時間がなくて、なかなかできなくなっていった。

沙村 岸本さんは僕のマンガを読みやすいって言ってくれますけど、僕のマンガと何が違うって、もう単純にトーンを貼ってあるか貼ってないかだけなんです(笑)。

岸本 あと、カメラの引き具合ですよね。アップ過ぎるとキャラクターの位置関係なんかがわからない。『NARUTO』の場合、戦ってるのがもはや普通の人間じゃなかったりするんで。怪獣みたいなサイズになってる。だから、どこら辺までカメラを引けばいいのかわからなくなるんですよね。引きすぎるとキャラクターが見えなくなるし。アップ過ぎると敵が何だかわかんなくなっちゃうし。沙村先生はカメラも感心しちゃうんです。『無限の住人』の大江戸地下編なんかは難しかっただろうなと思うんです。地下ってどうしても全部パースがついて回りますし。そこで戦闘するなんて、頭がグチャグチャになりますよ。カメラを置く位置も限定されますし。

沙村 あんまり引く絵は描けないですしね。

岸本 それなのにちゃんと読者に状況がわかるようにバトルしてて。僕も『NARUTO』で自来也ってキャラクターが出てきたときに、通路でバトルっていうのを描いたことがあるんです。でも、もう「これはヤバいな」って。当時の担当さんに「これはカメラが難しすぎる」って話をしたくらいだった。でもそしたら、沙村先生が大江戸地下編でもっとたくさんのキャラで通路でのバトルっていうのをやってたから……。

沙村 だから、あの場面は結構いろいろウソついてますよ(笑)。

岸本 いや、そんなことないですよ。

沙村 岸本さんは、パースを取るときにちゃんと消失点を3つを打ったりしてます?

岸本 三点透視とかはある程度……そこまではきちんと取らないですが。紙をつなげて(遠くの消失点を打てるようにする)っていうのはアシスタントがやってくれるのでやりますけど、遠くになってくるとどうしても無理なんで。大友さんみたいに紐で(消失点の設定を)やるとかあそこまでは……

沙村 岸本さんの絵を見てると、パースを取ってるというよりは「この人、フリーである程度まで描けるな」って感じがするんです。ある種すげえなって。

岸本 でも、パースは僕も適当ですもん。なかなかアシスタントさんのズレた部分を徹底的に修正することもできないですし……。

沙村 いや、パースというよりね、空間表現がうまい人の背景の処理って、実は消失点を取ってみると意外とズレてたりするんです。でも、それがいい方にズレてるんで、実際に消失点でパースをきちんと取る人よりも良く見える。だから、『NARUTO』を見てると「すっげえウソのうまい人、いいウソをつく人だ」って思う。

岸本 でも、沙村先生は割ときっちりパース取ってるじゃないですか。あれだとやっぱり時間かかります?

沙村 あ、ええ。あの、ジャンプって専用の原稿用紙ありますか?

担当編集 あります……けど、使っている人はほとんどいません。鳥山明先生くらいだと思います。

沙村 ああ、アフタヌーンもそうです。専用原稿用紙があるんですが、使ってるの藤島康介先生くらいです。

岸本 そうなんですか(笑)

沙村 いや、それでね、アフタヌーンの原稿用紙、これは市販のやつも全部そうですけど、枠外に目盛りが振ってあるじゃないですか。あの目盛りで下を1センチ、上を1.4センチで取っていくと、すごくゆるやかなパースになるんです。で、その目盛りを見ながらいちいちパースをとっていくんですね。もうこれやってるだけですごい時間かかるので、絶対に週刊少年誌ではやってられないですよ(笑)。

岸本 大変ですよね(笑)。



漫画家・松田未来氏「消失点とパースばかりこだわっていてはいい絵は描けません」 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/86266

アニメ監督・川崎逸朗氏の画面外に消失点ある場合のパース線の導きガイド - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/507244

【イマジナリーライン】を超えたマンガは最悪なのか - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/641095


自分的に岸本の集団戦闘シーンはなにやってんだかわかりにくいなと思っていたんだけど「こういう事情があったのかあ」「いろいろ考えてやってて大変なんだろなあ。。」とか。


描画的なところだと「ふむふむ( ^ω^)・・・」て聞いてるぐらいしかないので基本的に引用botみたいになってしまうんだけど、ストーリーやテーマの話が最後に来てるのでそこでちょっとうんたらしてみよう。



岸本 『無限の住人』と『NARUTO』ってテーマ的に裏表の部分があると思うんです。『NARUTO』は「代々想いをつなげていく」っていうのをひとつのテーマにしているんですが、『無限の住人』だと「思いを次に伝えたらダメ」なんですよね。憎しみや恨みを伝えたらダメで、その世代で終わらせないと子どもや孫が苦労するというのを描いている。でも、同時に「そこには呪いだけじゃなくて、想いというのもあるでしょ」っていうのを描いているでしょう? もう「なんてすごいマンガを描くんだ!」って思いましたよ。

沙村 最後の方はもう何とかまとめたという感じですよ(笑)。前にこういう話があるから、必然的に最後の方はこういうものを描かなきゃいけない、という感じで途中から決まってきたというか。

岸本 いや、すごいキレイでしたよ。難しいじゃないですか、恨み辛みって。「やられたらやり返す」みたいなことって確かにあるんだけど、じゃあ、どこからそれを正当性があるといえるのか、とか。僕も復讐や恨みっていうのをテーマに描いたシリーズがあって、ずっと悩んでやっていたので、沙村さんも難しいだろうなって思ってたんです。けど、すごくキレイにまとめていて。あのラストってだいぶ前から決めていたんですか?

沙村 大きな流れは最終章に入るときに決めました。ただ、「凜が天津を……」というのだけは最初から決めていましたね。

岸本 凜ってどうしてもふらふらしちゃうじゃないですか。自分の仇である天津と一緒に旅しちゃったりもしたから。でも、「あんたを殺すのは私よ」っていうのはずっとあって……。

沙村 凜のふらふらさ加減は、そのまま作者のふらふらさだったりするんですけどね(笑)。

岸本 でもそこは逆にリアリティがあったと思うんです。自分が凜でも実際迷うだろうなって。

沙村 そういう意味では『NARUTO』のキャラ、特にナルトはブレないんですよね。いい少年マンガだと思います。

岸本 ナルトは基本的にブレさせないようにしましたね。ブレたら読者の少年たちがよくわからなくなっちゃうだろうというのもあって。だけど、ナルトも一度壁にぶつかるんです。長門とペインというのが出てきて、「やってやられて」っていうのはダメなんじゃないかって、答えがわかんなくなる。主人公がずっと悩まないというのも何か違うんじゃないか、ウソっぽくなるんじゃないかと思ったんです。



「無限の住人」は、最初は時代劇を編集側から割り当てられたのもあってノリでやってた(それもあってパンクとかと合わせて侍パンク、ネオ時代劇的なものを描いていた)というのはあったのだろうけど、「親を殺され道場を潰された凛の復讐」が基本ストーリーとして定着してから、それに沿って長期間描いているうちに「復讐とはどういうことか?」「復讐の帰結をどう描くか?」ということが熟成いっていったのだろう。沙村自身も語っていたけど「無限の住人」という作品が深みを増していったのは峠越えでの奉行と凛の問答辺りからだったようにおもう。キャラや設定としては乙橘槇絵なんかも既に出てきていたのだけれど、それはまだ人生的な深みを背負ったリアリティというほどでもなくあくまで「設定」て感じだった。なので軽かったり。

自分が「あのあたりで無限が変わった」「好きな場面」として想うのは同じく8巻の密花と天津が初めて出会う場面(「ひそかなる」)。

無限の住人(8) (アフタヌーンKC) -
無限の住人(8) (アフタヌーンKC) -

あのあたりでの武家言葉でのやりとりや場面全体から漂う涼感は時代劇マンガとしての心地良い洗練を感じさせた。それは凛の関所越え問答が終わった後のカタルシスというか、ひとつの境地みたいなものも関係してたのかもしれない。その後、日本画的情感も湛えた表現が名物の散華絵に替わるようになり作品全体の質感も変わっていった。

おそらくこのあたり、心形唐流とのやりとりのところでも作品としてもひとつのクライマックスをかかえていて、なんだったらこのまま終わっても良いポイントのひとつだったのだろう。構図としては最終巻の最終決戦とほぼ同じようなものなので凛の復讐もこのドサクサに紛れて達せられた。

それが「もうちょっと続くんじゃよ」しつつドラゴンボールでいえば神龍の謎そのものを追いかけるように万次の無限の体(血仙蟲の謎)という伏線テーマも回収されていった。

心形唐流とのやりとりを通じて逸刀流も復讐を追うようになり、単なる敵側という設定から深みを増していく。「元はといえば流儀の継承を巡って天津―逸刀流側が抱えていた恨みとその復讐という流れだったではないか」というのもあるだろうけどそれはあくまで「設定」であって、ここに至るまではそのことについて逸刀流側の登場人物が深く省みられる機会はなかった。入れたとしても不自然になるから。


そして逸刀流による幕府への復讐を通じて逸刀流も凛―万次も、あるいは幕府側の吐鉤群も、誰も彼もが完全な「敵」「味方」として判別されるもの、勧善懲悪的な「正義/味方」的な構図から離れ、「他人の罪を一方的に責められる人間などただのひとりもいない善悪の彼岸」において救われないバカどもの最後の血戦が幕を切る。



「復讐なんて馬鹿のすることさ。復讐は復讐を呼ぶ」

「誰かが、自分の目の前の生以外の物語を背負うことはないのさ。たとえば親子のそれを」


復讐についての作品としての答えは既に出ていたのでどこで終わっても良かったのだけれど、血と剣で語り合わなければ納得が得られないのは商業マンガとして仕方がないというのもあるのだろうけど、その辺りの説得力を凛のけじめのセリフがつける形となる。


でも、それはやはり「マンガ的な物語としてのいちおうの結末として必要な仕儀として」という体裁で、最終話が凛の復讐が達せられた時からしばらくの時を経た開国後の日本、江戸から東京に変わった日本に移ったのは一ノ関圭的な情感へのオマージュであり、無限の住人という話がほんとはこういうものだったのかなあと想わせるものだった。わかりやすい剣戟や事件もない、あるいはそれらがないからこそ真実味を帯びる日常のドラマが散りばめられたそういったリアルな時代劇。それは永遠に変わらない情感をたたえ、広重―清親―巴水のように継がれていく。





沙村 でも、それもいいと思うんです。若い読者の方は刺激的だったりインモラルだったり倒錯的だったりするものに憧れるところがあるじゃないですか。で、俺に将来的に子どもができて性格が丸くなって、牙を抜かれたようなマンガを描くようになったら、たぶん若い読者からは「ああ、沙村は結婚してすっかりダメになっちまったな」みたいなことを言われるんだけど、今度はお子さんを持っている読者が共感するものがあると思うんです。

岸本 そう。たぶん変わったら変わったで新しいファンがつく。変わっていくのも楽しいんですよね。

沙村 結婚して子どもをつくるという人間の当たり前の営みの中で変わっていくのも、人としてのリアルだと思うんですね。だから、岸本さんが結婚されて子どもを持って、後半『NARUTO』のなかに父親の視点が入っていったっていうのは非常にリアルで面白いと思います。

岸本 ただ、自分自身は変わってないなと思う部分もあるんですよね。ちゃんと大人になってるのかなって不安になるところが。

沙村 どこから大人になるかって少年マンガの永遠のテーマでもありますよね。俺は「少年」っていうのがなかなか描けなくて。少年を主役にっていうのがたぶん一番自分がやりづらいんです。少年って最初は弱くて、自分より強い男に守られている存在じゃないですか。でも、いずれは守られている状態を脱さないといけないわけで。マンガの王道としてはそういうテーマがあるんですけど、それをどこでどう切り替えればいいのかっていうのが難しくて……。

岸本 「童」をどこで「男」にするかって難しいですよね。

沙村 でも、ナルトもね、最終話でナルト自身がまったく違う人間になってしまったかというとナルトはナルトのままじゃないですか。自分が40代になって今思うのは、大人っていつでもどこでも大人らしいわけじゃないってことなんです。けど、その年齢になるまでに自分が培ったこととか発見したことを、ひとつかふたつ、子どもに言えれば大人としてそれでいいんじゃないかって思うんですね。だから、ナルトにしても、普段から常に大人っぽくなる必要はたぶんなくて、何か「自分がかつてこうだった」とか、「旅をしてこう思った」っていうものを、ひとつでも伝えられれば、もうそれで大人としての役割を果たせているんじゃないかって。

岸本 確かに。俺も何も変わってないかもしれないけど、息子によく言いますもん、『NARUTO』で描いてきたようなことを。それで、子どもからは大人に見えたりしてるのかもなぁ。










竹易てあし漫画全集 おひっこし (アフタヌーンKC) -
竹易てあし漫画全集 おひっこし (アフタヌーンKC) -




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「春風のスネグラチカ」|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n766d1842c8b3


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河P直美、2014、「2つ目の窓」



いきゆんにゃかなー わきゃくとうわすれて いきゅんにゃかなー 
うったちや うったちゃが いきぐるしゃ 
スーラいきぐるしゃー

あなたは逝ってしまうのね。私を忘れて。逝ってしまうのね。
あなたが 逝ってしまったら私はどうすればいいの。
逝ってしまう方も辛いのよ



























2つ目の窓 -
2つ目の窓 -

2つ目の窓 [DVD] -
2つ目の窓 [DVD] -











ようやくにして本作品を見れた。それでいまこの文章をエントリしようとしつつもういちどDVDを見てるわけだけど。







とりあえず概要はいつもどおり人様のを借りよう。


 舞台は、奄美大島。主役は男女の高校生。界人(かいと)と杏子(きょうこ)。マングローブ、ガジュマル、アダンが生い茂り、周りはサンゴ礁の海。冒頭のシーンは、大波が逆巻く台風の海。旧暦の8月、中秋の名月にあわせて満月の晩に島を挙げて踊り(ハチグアチウドウイ。昔は女性司祭だけの神事だったという。今は、老若男女、住民参加の祭り)が繰り広げられる。

 その最中、海に浮かぶ男の溺死体が見つかる。翌朝、刺青を背負った男の遺体を見た界人は、それが母親の付き合っている男だと知り衝撃を受け、逃げ去る。界人の不審な行動を見ていた杏子は、界人を問い質すが答えがない。界人には何かわだかまりがあるようだ。

 ユタ(託宣、卜占、祈願、治療などをする民間信仰の巫女役)が祭祀を司り、島民たちは自然との一体感、神への畏敬の念を抱きながら、暮らしている。神々は草木や石にも、水にも宿るという奄美大島。穢れなき神の島。

 若い高校生の楽しみは、仲間の男女交際。界人と杏子は、放課後、ふたりで自転車に乗り、走り回ることが楽しみだ。杏子の母親イサはユタとして尊敬されているが、不治の病にかかり、終末期を過ごすために病院から自宅へ戻ってきた。
映画批評〜河瀬直美監督作品「2つ目の窓」Still the water - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ」 http://bit.ly/1InUFHj




見終わった最初の感想として「きわめて河P直美的な作品だなあ」と想った。そしてこれ単体でもある程度つたわるような気持ちよさも持ちつつ。そういうのは洗練なのかなあとか。


「少し不思議な感性を持つ女の子と海」というモティーフは五十嵐大介「魔女」を想わせ、それを映像化したようなものとして見ていた。そこにボーイ・ミーツ・ガールする男の子の物語が加わっていく。


魔女 第1集 (IKKI COMICS) -
魔女 第1集 (IKKI COMICS) -
魔女 第2集 (IKKI COMICS) -
魔女 第2集 (IKKI COMICS) -


「あの世とこの世の境(ニライカナイ)、あるいは入り口としての海」としても五十嵐大介作品でtuneするとわかりやすい。世界/宇宙という生き物の体液もしくは死体の溶けたものとしての海、人はそこに散りばめられた内蔵。


海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -
海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX) -





全体は生と死ということが基本的なテーマになっているわけだけど、そこでの問や答えは既存の形式や世間的なそれでは納得されない。河瀬監督個人の問いと実感的な答えとして、きちんと納得できるところまで辿り着くために何度も何度もリテイクされていく。誠実に、自身の問い/納得に向き合って。


生と死を海がつなぎ、海は性を、ひとは海を体に宿すというのは自分も含めてこういうところだと共通の認識なのかなと思う。この作品が特殊だったのはそのあたりのことを納得させる別の経路での説得力にあったことだろう。既存の語り、ロハスがどうとかなロマンチシズムではなく、河瀬監督自身の納得をかけたものとして。


河瀬作品に共通することだろうけどこの作品も監督が抱えている問題、あるいは追っている人生のテーマが如実に表れてるところがあり、それがそのまま監督自身の納得に対する賭け金になってるように思えた。「自分の人生を反映しているのだから生半可なものはつくれない」という。映画というプロジェクトなのだから毎回生半可ではないのだろうけど。そして、今回の話は特に息子さんの未来に対しての手紙のようなものに思えた。

そういう手法で撮られているので既存の映画の解釈で当たると外れるようにおもう。つまり最初からテーマや答え(オチ)が明確でそれを監督が完全に統制して作品として完パケしていく → 映画を解釈するとはそれを読み取ることだ」として解釈していくようなの。この作品には明確なテーマ、というか答えは最初からない。演じた俳優のインタビューからもわかるようにだいたいの設定や流れが決められていて、それに沿って撮影がすすんでいても途中で監督が納得しなければ、あるいは「これはなんか違う、、」「こっちのほうがいいかも」ということになるとそっちのほうに振られる。そのときも監督が明確に演技の内容やセリフを決めるのではなく俳優にそれが丸投げされたりする。設定自体はしっかりしてるのであとは俳優の演技力でということで。この手法は映画というかライブの演劇、アドリブの演劇といって良いようにおもう。あるいはドキュメンタリー。丸投げというと言い方が悪いけど、俳優も含めて現場のすべてのひとが対等に協働して作品を作っていくということなのだとおもう。

それを理解してもういちど河瀬作品を見ると俳優のどの演技がアドリブだったのか?という視点になりそのライブ感にドキドキするようになるとおもう(その表情、空気感、セリフの説得力、セリフ自体が発せられたことがその瞬間だけのキセキといえるので)。



生きることと死ぬこと、あるいは、肉親と離れて暮らすということ。

幼い時から心のなかに残っていたテーマはそのまま監督自身の離婚を通じてお子さんの物語としても継がれていく。生と死、あるいは別れ、そこからの回復というテーマは「もがりの森」でも表されひとつの終局を迎えていたように思えたけど、今回はそれをより深めつつビジュアルを介して、あるいは音楽を介してわかりやすく観客に訴える説得力をもった作品として仕上がっていたように感じられた。こういうテーマなのもあって暗いシーンが多いしそこでの語りには説得力や臨場感があるけどどうしても見てる側としてはなにが行われているかわかりにくい。そのあたりのわかりにくさが沖縄の光と海の青さのなかで解消されていた。三線の謡いや踊り。八月踊り。






海はいろんな色や表情を見せる。






「どうして別れて暮らさないといけないの?」「別れて暮らしてるからってお父さんがいるのになんで他の男とセックスするの?」「セックスなんか不潔なんじゃないの?」「生きるとか死ぬとかどういうことなの?」

将来、そういった問いを監督の息子さんが発した時に、この映画が言葉以上のメッセージとして伝わるように。そういう思いが込められているように感じられた。





生きることと死ぬこと、あるいはこの世に産まれるということ、それを性がつなぐこと。それを体現したのが海で,、杏子(きょうこ)はそこに潜ることを常態とし界人(かいと)は海を嫌がる。「だってベタベタしてるから」。

界人が海を嫌う理由はそのまま思春期のセックスに対する嫌悪、潔癖にも通じていく。この作品もそうだけど河瀬作品のなかで描かれる男性、男の子は女性よりもこういった繊細さをもつ。

杏子は動物としての女、あるいは霊的なものに通じる女の強さと生命力をそのままにそんな界人にセックスをうながしていく。

杏子がセックスを興味したり、それを通じて界人を、あるいは界人を通じたセックスに興味をもっていくのは、思春期の身体的変化→性欲のもたげというのもあるのかもだけど、田舎の閉塞した日常、目の前の死への不安から飛躍・突破しようというところもあるのかもしれない。あるいはそれも含めた子どもの自分から。



そこではセックスはステロタイプな男性視点的な快楽の表象ではなく動物が肌を重ねる営みとして描かれる。肌を重ね、抱く-抱かれるということがまずあって、それに生殖行為が付随しているだけのような。生殖というか生/死、海や波といったエネルギーや存在全体に身体を介してつながるというような。そういった儀式。


杏子という海を通じてそれを言外に納得したことによって界人の母親の性への潔癖も和らいでいく。あるいは性やおとなになること、死や生を受け容れるということへの潔癖。

界人の母親はおそらく父親の友人的な男に通じていて、だから男にも刺青があったのだろうけど、界人の父親はそれには触れず、ただ距離を置くにとどめた。


そのことを界人も納得したのかわからないけど最後のシーンで杏子と界人がガジュマルの下で微笑みながら肌を重ねること、裸で海を泳ぐことのうつくしさはそれらを含めた生きること全体の肯定であるように感じられた。


見上げると光り輝く2つ目の窓がのぞいていた。

























この世界は           
                                






                               うつくしい













--

人は海、性器はその残照: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/410389426.html


是枝裕和、2013、「そして父になる」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/376322940.html



河瀬直美インタビュー - フランス生活情報 フランスニュースダイジェスト
http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/6675-naomi-kawase.html



いのちのつながり心に深く 映画『2つ目の窓』河瀬監督 - インタビュー - 朝日新聞デジタル&w
http://bit.ly/1InUV9e



ありのままで、そのままで 映画監督・河瀬直美(3) - シネマな女たち - Asahi Shimbun Digital[and]
http://bit.ly/1InURX2








「親子の対話だよ」|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nf4647ca1f7de
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2015年04月15日

ジョナサン・クレーリー、1999、「観察者の系譜」




われわれの眼は所与の刺激に対して、その印象のなかでそれまでとは異なる、新しいものを登記するかわりに、それまでに何回となく生み出してきたイメージをもういちど再生産することによって反応するほうが、はるかに楽だと思っているのである。

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』







いかなる形態での魔術への逆戻りにもアレルギー反応を示すことで、芸術は、マックス・ウェーバーの術語を用いるならば「魔術からの解放」の重要部分を構成しているのである。芸術は合理化と分かちがたく絡まりあっている。芸術が揮うことのできる手段や製作方法は、すべてこの合理性との繋がりから由来している。

テオドール・アドルノ『美の理論』
















観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書) -
観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書) -


まとめるのがめんどくさい本なので以下は主に引用中心で。あとで見返すときにもそのほうが良いので。


フーコーとゲーテ、ショーペンハウアーとかを読んでると読みやすいだろうなあって感じの本だった。逆にそれらを読んでないとちょっとつらい。主張の構成がそれらを前提にした批評的な配列になってるので。これ単体だと読み終わった後にこの本単体での読了満足感はあまりない。それらのギロンにアクセスしてみようかという気は起こるけど。まあよくある難しげ人文的なあれといえばあれなんだけど。「玄人向け」とか「その方面詳しい人がさらに積むために必要な誤差の部分の修正」みたいなの。


「観察者の系譜」は予想通りすこし骨の折れる本だけど読み応え/読む価値は感じる。写真-見る/見られるの感覚の変容-それによる知覚や認識全体の変容などは最初から興味の対象だったのでそれについて語られることに驚きはないのだけれど、ざっとみたところ幻燈機やターナー(蒸気な絵画の)、ゲーテの色彩論、ショーペンハウアーなんかも関わってくるようで興味・関心の収斂、邂逅のようなものをおもう。

まださわりしか読んでないけれど、「観察者の系譜」ではそういった理性のドライブ - マトリクス化された認識-視角の地図とそこに絡め取られることを当然としていく現代人の在り方、すなわち近代の暴力的な認識が出来上がったのが19世紀前半であり、その表象的な足跡としてブリューゲル、フェルメール、ターナーなどが挙げられていく。


「観察者の系譜」をよみはじめた|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nf8fe97cead1f




クレーリーの問題意識はおーざっぱにいうと以下のようになると思う(要約大意)。

一般的には現代に至る視覚、あるいは視覚に紐付いた認識/リアリティは過去から地続きで「進歩的に発展」してきたように捉えられ、そこに「客観的」「科学的」「進歩的」とする罠があるのだが、現代に至る視覚は地続きの発展的なものではなく19c初頭に断絶がある。

19c初頭(1810-40)の変化とは

マネや印象主義、そして/あるいはポスト印象主義の到来とともに、視覚表象と視覚映像(イメージ)の知覚に対する新しいモデルが生まれ、それは数世紀におよぶ別の視覚モデル――すなわちルネサンス的/遠近法的/規範的モデルとして大まかに定義可能なもの――からの切断面を形成している、と。近代の視覚文化に関する理論のうち大部分のものが、この「切断」のあれやこれやの焼き直しにいまだに縛り付けられているのである。
にもかかわらず、遠近法的空間、ミメーシスのコード、外界の指示対象といったものの終焉をめぐるこの物語は、同様に廃棄される必要のある、ヨーロッパの視覚文化史のもう一つの全然違った時代区分と、通常は無批判に共存してきた。この二番目のモデルは、写真やそれに関連した十九世紀の「リアリズム」形式の発明と普及とに関するものである。こういった発展の歴史は、圧倒的に、ルネサンスを基礎とした視覚のモードの連続的な展開の一部をなすものとして提示されてきたのであって、そのモードの内部では、写真は――そして最終的には映画までもが――遠近法的空間や遠近法的知覚の止むことのない展開の、後代における事例にすぎないとされている。かくしてわれわれはしばしば、十九世紀の視覚に対する、混乱した二叉の理論を掴まされることになる。一方の水準には、根底的に新しいものの見方と意味づけとを生み出した。比較的少数の進んだ芸術家たちがおり、他方、より凡庸な水準では、十五世紀以来視覚を組織していたのと同一の普遍的な「リアリズム」の拘束の内部に、視覚は埋め込まれつづけている、ということになる。古典的な空間は一方では覆されたように見えるが、しかし他方ではそれは相も変わらず存続している、といった具合なのだ。この概念上の分裂は、「リアリズム」の名で呼ばれる何物かが大衆的な表象化の実践を支配しており、一方、たとえしばしば、かかる大衆的な実践領域へと浸透していくにしても、ともかくもそれからは截然と区切られたモダニスト的芸術制作の闘争の現場で、さまざまな実験や革新が生まれたのだ、という誤った観念に辿り着くことになる。



「見る主体を状況から除外した完全客観(中立的で不可視の相関項である身体)をリアリズムとする」モデルから「主体も状況の一部として影響を受けている」というモデルへ変化していく。


私の主張は、十九世紀において、写真の登場以前に、観察者の再編成が行われているというということである。1810年から1840年頃にかけて生じていることは、カメラ・オブスキュラという姿に具象化されている、安定し固定された関係性から、視覚を引き剥がすことである。かりにカメラ・オブスキュラが、概念=認識枠組み(コンセプト)としては、視覚的真理の客観的土台としてそれまで存続していたとするならば、19世紀の初頭に、さまざまな言説や実践 ― 哲学や科学における、そして社会的正常化=規範化(ノーマライゼーション)の数々の方策における ― が、その土台のおおもとを突き崩していったのだ。ある意味では、生じているのは視覚的経験に対する新しい評価の仕方である。そしてその評価は、いかなる土台となる場所や指示対象からも引き離され、抽象化された、それまでには見られなかった可動性と交換可能性というかたちで与えられている。
第三章で私は、ゲーテやショーペンハウアーの著作や、十九世紀初期の心理学、生理学におけるこういった再評価のいくつかの側面を記述している。そこでは感覚や知覚の本性それ自体が、後に写真を始めとした商品や記号のネットワークの特性を示すことになる等価性や中立性といったものを構成する特徴の多くを帯びているのである。主観的な視覚―つまりあらゆる外界の指示対象(リファレント)から切り離された自律的な知覚をも包含するような視覚―についての経験科学的研究の前線に存在するのは、かかる視覚的「ニヒリズム」なのである。だが強調しておかねばならないのは、このあらたなる視覚の自律性や抽象化は、ただ単に十九世紀後半のモダニズム絵画の前提条件であるにとどまらず、それよりはるかに早く登場する視覚の大衆文化の条件でもあるということだ。
第四章で私は、ステレオスコープやフェナキスティスコープのような大衆的な娯楽の形式となった視覚器具が、もともとは観察者及び視覚の生理学的な身分をめぐる経験科学的知から生じてきたさまを論ずる。かくして、通常は無批判に「リアリズム」のカテゴリーに分類されてきた視覚経験のある種の形式は、事実上現代世界を無化してしまうような事実符合性をもたない視覚に関する理論に、じつは結びついているわけである。
十九世紀の視覚経験は、それを真正なもの(オーセンティケイト)とし、自然化しようとするあらゆる試みにもかかわらず、自分は真理を確立しているのだというカメラ・オブスキュラの断固たる権利要求に少しでも似たものを、もはや所有してはいない。表層の水準では、リアリズムをめぐるさまざまの擬制(フィクション)は円滑に作動しているのだが、十九世紀の近代化の諸過程は、そうした「リアリズム」の幻想に依存してはいなかった。流通、コミュニケーション、生産、消費、そして合理化において生じた新しい様態は、いずれも新しい種類の観察者/消費者を必要とし、かつそれをかたち作っていったのである。



クレーリーが「観察者」という言葉に込める含意は以下の様なものになる。


 たいていの辞書は「観察者(observer)」と「観客(spectator)」とのあいだにはほとんど意味論上の違いを設けていないし、日常の用法ではこれら二つの語は実質的に同義語となっている。私が「観察者」という語を選択したのは、主にこの語の語源的なひびきのためである。spectator のラテン語の語根である spectare とは異なり、observe の語根は字義的には「見る(to look at)」ことを意味していない。「観客」はまた、ことに十九世紀の文脈では、私が避けることにしたある特定のコノテーションを含んでいる。それはすなわち、画廊や劇場のようなスペクタクル(spectacle)の現場での受動的な傍観者という含意である。ある意味では私の研究にとってふさわしいことに、[ラテン語の]observare は、―規則、コード、規制、慣例といったものを遵守する(observe)ときのように―「人の行動を何かに従わせること、応ずること」を意味している。観察者とは、たしかに明らかに見る者なのではあるが、さらに重要なことには、彼は予め定められた可能性の集合の枠内で見る者であり、さまざまな約束事や限界のシステムに埋め込まれた存在なのである。十九世紀に固有の―あるいはどんな時代に固有なものでもかまわないが―観察者が存在するということができるとすれば、それは言説、社会、技術、制度といったものの相関関係が織りなす、還元不能なほど異種混濁的なシステムの効果としてでしかありえないだろう。絶え間なく変化していくこの領域に先立って存在する観察主体などありはしないのである。
 私が視覚の歴史という考えを述べてきたとしても、それはあくまで一つの仮説的な可能性としてのことにすぎない。知覚や視覚が実際に変化するのかという問いにはあまり意味がない。なぜならそれらは自律した歴史をもってはいないからだ。変化するのは、知覚がそのなかで生起するような領域を構成している、複数的な力や規則の方なのである。そしていかなる時代においても、視覚を決定しているのは、何らかの深層構造や経済的基礎、あるいは世界観などではなくて、ある単一の社会の表層上に犇く様々な要素の集団的な配置=配列(アセンブレージ)の作用なのである。それどころか、観察者という存在自体を、多くの異なった場所に配置された多様な出来事の分布図のようなものとして考えてみる必要さえあるかもしれない。自存せる目撃者、その人にとって世界が透明な明証性をもったものとして立ち現れるような観察者など、今までいたためしもないし、これからも誕生しないだろう。そのかわりに存在しているのは、諸力の多かれ少なかれ強力な布置なのであり、そのような布置によって、観察者が有するさまざまな能力が可能となるのである。



SFがハードSFからソフトSF(内面)へという歴史をたどったのと同じく、観察-視覚の対象となる場も外界からインナーワールドへと変わっていった。


透明で客観的な視覚-認識という考え方が幻想であることを一部の先端なひとたちはなんとなく知った。そしてそういった感覚とは別のリアリティ、人の内部におけるほんとのリアリティをできるだけそのままに表現しようとしはじめた。ゲーテなんかはその代表例としてあげられる。あるいは象徴主義の詩人たち。


ボードレールにとって万華鏡は、近代そのものと暗合するものだった。「意識を備えた万華鏡」になることが、「普遍的(=万人の)生活を愛する者」の目標だった。彼のテクストのなかでは、万華鏡は、単一的な主観性を解体し、そしてまた―形象=像(イコニシティ)をあらゆる地点で断片化し、安定状態を撹乱することで―新しい、変移していく不安定な配列状態へと、欲望を散乱させるための機械であった。
けれでも、1840年代の時点でのマルクス・エンゲルスの著作においては、万華鏡は全く異なる機能を担っていた。ボードレールをかくも誘惑した万華鏡の複数性は、彼らにとってはニセモノであり、文字通り、鏡を使った詐術の謂であった。万華鏡は、新しいものを生み出すのではなく、ただ単にひとつのイメージを反復するにすぎないのだ。




だからといって全てが幻想・解釈によって覆われているというわけでもなく、そういった人々も現実の生活の中ではリアリズムのフィクションに従わざるを得なくて、生活としては客観―リアリズムのフィクションに並行しつつ、主観-幻想を保っていった。

cf.ボードレール、クールベ





視覚とそれをめぐる認識はメディアや社会的通念によって完全に規定されるというわけでもなくある程度の主観的リアリティー幻想を保ちつつも、基層としてはそのメディアや社会的通念、あるいは共同幻想も含めたものに個々の認識が配置されていった。配置されているだけなので完全に規定されてるわけではないのだけれど影響は受ける。そして、その制約が状況に影響を与えていく。

「規定ではなく配置である。そして配置されることに依って環境的な影響を受けていく」というようなことをクレーリーはいっている。


おそらく、カメラ・オブスキュラを―あるいは、他のどんな視覚装置(アパトゥス)であってもよいが―理解するうえでもっとも主要な障害となるのは、視覚器具と観察者とがそれぞれ別個の実体であり、観察者の自己同一性は、テクノロジーによって生み出された物理的な器械である当の視覚器具からは独立して存在しているのだ、という発想であろう。というのも、カメラ・オブスキュラを構成しているのは、この装置の複数的な身分(アイデンティティー)そのもの、つまり言説の秩序の内部においては認識論的な形象であり、同時に、文化的諸実践の布置の内部ではモノでもあるような、その「混合的」な地位だからである。カメラ・オブスキュラとは、ドゥルーズならば「配置=配列(アセンブレージ)」と呼ぶだろうもの、「器械の配置=配列(アセンブレージ)であると同時に、かつそれと不可分に、言表行為の配置=配列でもある」ようなものなのだ。要するにそれは、言表の対象であり、また使用されるモノでもある。それは言説の編成と物質的な諸実践とが交錯する場所なのである。そうだとするならば、カメラ・オブスキュラは技術が生み出したモノにも言説の対象にも還元することはできない。それは、テクスト的な形象としての存在が機械としての使用と全く不可分であるような、複合的で社会的な混合の様態(アマルガム)だったのである。
 このことが意味しているのは、カメラ・オブスキュラは、影響力を持って流通している歴史研究 ―そういった研究のなかでは、カメラ・オブスキュラは、写真の誕生へと至る系譜のなかで、写真の先行者またはその開始点に位置づけられているのだが― において中心を占めているような技術決定論の進化論的な論理から解放されるべきである、ということだ。再びドゥルーズを引用するならば、「機械は技術的存在である前に社会的存在である」。たしかに、写真には技術的、物質的な基盤があったわけだし、写真機とカメラ・オブスキュラという二つの装置の構造原理が関連性をもっていないわけではないのは明らかだ。だが、ここで私が論じたいのは、カメラ・オブスキュラと写真機(カメラ)とは、[諸勢力の]配置=配列(アセンブレージ)の形状として、実践として、あるいは社会的な事物として、二つの全く異なった編成に ―すなわち、表象や観察者の異なる編成様式、また同時に観察者と可視的なものとのあいだの関係の異なった組織化の様態に― 属している、ということなのである。19世紀の始めごろには、カメラ・オブスキュラはもはや、真理の産出や、忠実に世界を見るように位置づけられた観察者といった概念と同義ではなくなっている。そうしたことを語り続けてきた言表の規則性は突然に終焉しているのである。カメラ・オブスキュラが構成していた[言説と物質的実践の]配置=配列(アセンブレージ)の姿は溶解する。それから写真機が、カメラ・オブスキュラとは似ても似つかぬモノとして登場し、根本的に異なった言表や実践のネットワークのなかに埋め込まれるのである。




配置=配列(アセンブレージ)について。訳注的には以下のように解釈・解説していた。



原文 assemblage。これは『ミル・プラトー』の英訳版において agencement に当てられた訳語である。なお原文中においてクレーリーは arrangement という語をきわめてしばしば用いている。厳密に言えばそれは「配置=配列」であるところの assemblage とは少し含意が異なるのだろう ―おそらく「配置=配列」にフーコー的な「布置(configuration)」のイメージが加味されたようなものなのだろう― が、大体において「布置」というよりもドゥルーズ的な意味が強いと考え、訳では原則としてどちらも「配置=配列」として処理しておいた。








そこで生活していた人たちの、あるいは視覚とそれにもとづいたリアリティに敏感なひとたちの感覚として。表面的には「客観的視覚に基づいたリアリズム」という幻想に従いつつ、それらはあくまで「配置」というほどの制約/自由度をもってモードの変化に対応していった。


カメラ・オブスキュラは客観的視覚という幻想が成立していた時代の代表的視覚装置となった。カメラ・オブスキュラを通じて人々は外界から隔絶された純粋で客観な監視が可能となっていたので。


1500年代末期から、カメラ・オブスキュラの形象は、観察者と世界との関係を設定し、定義づけるうえで、群を抜いた重要性をもつようになっていく。数十年のうちに、カメラ・オブスキュラは数ある視覚器具や光学上の選択肢の一つであることをやめ、視覚を認識し、再現=表象するためになくてはならない場(サイト)となるのである。それは、何よりも、新しい主観性=主体性(サブジェクティヴィティ)のモデル、新たな主体効果のヘゲモニーの誕生を示している。まず第一に、カメラ・オブスキュラは固体化という働きを遂行する。つまり、カメラ・オブスキュラは観察者というものを、必然的に、その暗い閉域の内部にあって他者から切り離され、囲い込まれた、自律的な存在として定義=限定しているのである。この仕組みは、人間と[暗室のなかから見た場合]今や[外部にある]世界との関係を制御し純化するために、一種の禁欲を、すなわち世界からの退隠を、強制する。このようにして、カメラ・オブスキュラは、内部=内面性(インテリオリティ)に対するある種の形而上学と不可分となる。カメラ・オブスキュラは、名目上は「自由」で「自己決定権をもった」観察者を表すと同時に、公的な外部世界から切り離され、いわば擬似家庭的(ドメスティック)な空間に閉じ込められた、私秘化した主体をも表示しうるような形象となるのだ(バークリー僧正その他の人々が、視角表象のことを、あたかも私有財産であるかのように語っていることに、ジャック・ラカンは言及している)。それと同時に、この第一のことと関連して入るが同じくらい重要な暗室(カメラ)の機能は、見るという行為を観察者の肉体としての身体から切り離すこと、視覚を非肉体化することであった。あたかも単子(モナド)のごとき個人の視点は、カメラ・オブスキュラによって真正なものと認証され(オーセンティケイト)、正統性を付与されているのだが、観察者の肉体的、感覚的な経験は、機械的な装置と所与のものとして与えられている客観的真理の世界とのあいだに結ばれる諸関係によって代謝されているのである。ニーチェはこのような思考様式を以下のように要約している。「感覚は人間を欺き、理性が誤りを正す。したがって、とひとは結論を出す、理性こそが不変なるものへの直道なのだ、と。もっとも感覚的でない観念が『本当の世界』に一番近いのだ、と。―大部分の不幸は感覚から来ている―感覚は人間を欺くもの、惑わせるもの、破壊者なのである、と」。

 
カメラ・オブスキュラと、内面化され、非身体化したその主体とについてのイメージが表れている著名なテクストに、ニュートンの『光学』(1704)とロックの『人間悟性論』(1690)がある。彼らが一致して示しているのは、カメラ・オブスキュラが経験的現象の観察のためのモデルであったと同時に、反省的内観や自己省察のモデルであったさまである。ニュートンの全テキストを通じて、彼の帰納法的方法論が展開される中心的な場所はカメラ・オブスキュラである。それは彼の知が可能になるための土台なのである。『光学』の冒頭近くで彼はこのように述べている。
  非常に暗い部屋[=暗室(カメラ・オブスキュラ)]のなかで、窓板に作られた直径三分の一インチの丸い穴のところに、私はガラスのプリズムを置いた。そのプリズムによって、穴から入ってきた太陽光線が上方に反射され、部屋の反対側の壁に向かい、そこで太陽光線の色彩像を生じさせるために、私はそうしたのである。


 一人称代名詞「私」によってニュートンが記述している身体的活動は、彼自身の視覚の働きに言及しているのではなく、むしろ、透明な、屈折作用を利用した再現=表象化(リプレゼンテーション)の手段の使用に言及している。ニュートンは観察者であるというよりも場面全体を組織する者であり、彼自身の肉体はその具体的な働きからは切り離されているようなある装置を、舞台装置よろしくセッティングしているのである。ここで記述されている装置は厳密にはカメラ・オブスキュラとは言えないが(平レンズや針穴のかわりにプリズムが用いられている)、その構造は基本的に同一である。外界の現象の再現=表象化は、暗くされた一室 ―部屋(カメラ)、あるいはロックの言葉で言えば「空っぽな部屋(エンプティ・キャビネット)」― の直線で囲まれた閉域内で生じているのだ。外部の映像が姿を現す二次元平面は、その反対側の壁に開いた開口とある特定の距離をもって対峙しているという関係のもとでのみ存在している。だがこの二つの位置(一つの点と一つの平面)のあいだにあるのは、観察者が曖昧に位置づけられることになる、漠然と広がる空間なのである。遠近法的画面構成 ―こちらの方も、客観的な秩序を与えられた表象を描き出すことを大胆にも主張していた― とはちがって、イメージが己れの十全な凝集性と一貫性とを顕わにするような限定された場(あるいは領域)を、カメラ・オブスキュラは強制しはしなかった。観察者は、一方ではこの仕組みの働きそのものからは切り離され、機械的・超越的なかたちで世界の客観性を再-現した像に対する、非身体化された目撃者として存在している。しかし他方では、暗室のなかに彼または彼女が居るということは、人間の主観性=主体性(サブジェクティヴィティ)と客観的=客体的(オブジェクティヴ)な装置との時間的および学問的な同時存在性を意味してもいる。かくして[カメラ・オブスキュラのなかにいる]観客は、[遠近法絵画を眺めるときと比較すれば]再現=表象化の仕掛けからより独立した、周縁的で補足的な存在として、暗闇のなかにあって自由に浮遊する存在となるのである。フーコーがヴェラスケスの[侍女たち]の分析のなかで論証したように、それは、同時に主体でありかつ客体である者としては自己を表象することができないような主体の問題なのだ。カメラ・オブスキュラは観察者が自分の位置を表象の一部に繰り込まれたものとして見ることを、アプリオリに妨げる。そうだとすれば、身体は、理性の空間を打ち立てるために幻像めいた存在へと周縁化してしまわないことには、カメラ・オブスキュラにとっては解決不能な問題であったということになろう。ある意味では、カメラ・オブスキュラは、エドムント・フッサールが17世紀における哲学上の大問題として定義したものに対する危うげな解決策を形象化=比喩化したものなのである ―すなわち、「主観のなかに己れの究極的な基礎付けを模索した哲学的思考が……客観的に『真実』でありかつ形而上学的に超越論的な妥当性をいかにして主張しうるか」というジレンマ。




こういった客観的視覚-認識という幻想に対して、ゲーテは様々な経験-感覚、実践を通じて異を唱えていった。たとえば生理学的な変化、人間身体がもつ不安定な生理機能と時間性という新たな装置がそれに当たる。われわれの視覚は疲労とともに変化するということ。視覚は完全に客観で中立的で、いつでも同じというわけではないということ。


ゲーテが『色彩論』を刊行する七年前に、メーヌ・ド・ビランは、われわれの色彩の知覚が(時間の経過のなかで生じる生理的変調により)疲労へと向かう身体の傾性によってどれほど決定されているかということ、また、疲労してくる、というその過程自体が、じつは知覚に他ならないことを論じていた。

 眼をある単一の色のうえに一定時間固定するとき、眼が疲労してくるのに応じて、その色と他の何種類かの色とが混合した様態が生じてくる。そしてさらに時間がたつと、もとの色彩は、もはやこの新しい色彩には含まれなくなるだろう。

ゲーテ、メーヌ・ド・ビランの両者にとって、ニュートン理論が色彩に与えていた絶対的価値は、人間主体の内部で移りかわっていく色彩の展開過程に取って代わられるのである。




ヘルムホルツ「光学」では光の感覚を生み出すことのできる媒体列挙されている


1.眼に対する振る舞いから「光」と呼ばれている波動現象や放射現象(もっとも光の波動や放射の作用はこれ以外にも数多くある。例えばそれらは化学反応に影響をおよぼしたり、植物の生態過程を維持する手段であったりする)。

2.物理的影響。[脳]震盪や殴打を被った場合など。

3.電気。

4.麻酔薬、ジギタリスのような化学薬品。こういった薬品は血液に吸収されると、外的原因がまったくないのに閃光等々を眼前に生じさせる。

5.鬱血状態にある血液を刺激した場合。

(『人間生理学教本』、英訳1064頁)






ゲーテの「色彩論」では錯覚-生理学的視覚変化について網膜残像が扱われたが、それらをより詳細に記録していったのがプルキニェの残像研究だった。

http://twitter.com/m_um_u/status/583634668131524609



目にうつる外界の色は一定不変ではなく時間とともに目に残った残像の色は変わっていく。



ゲーテが『色彩論』のなかで記述している現象の大部分は、時間の経過とともに展開するという要素を内包している。「周縁部は青くなりはじめ……その青が次第に内側に侵食していく……そしてイメージは次第に薄くなっていく」。視覚[情報の]伝達(それが[身体の]内側への伝達であれ、外に向かうそれであれ)の事実上の即時性は、アリストテレスからロックに至る古典的光学や知覚理論の、疑われたことのない基礎だった。そしてカメラ・オブスキュラが生み出す映像とその外部対象との同時性もまた、疑問に付されたことはなかった。けれども19世紀の初頭に、観察行為がますます身体に結びつけられるようになると、時間性と視覚とは不可分になるのである。時間のなかで経験される観察者自身の主観性の変容過程は、「見る」という行為と同義になり、対象に完全に集中する観察者というデカルト的理想を解体していく。




残像現象、その中でも運動錯覚を利用した視覚器具は大衆的娯楽道具となっていった。ソーマトロープやフェナキスティスコープなどなど。


200年前のアニメーション(フェナキストスコープ)の世界へようこそ。 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2142002622726878901


あらたな視覚装置は大衆の娯楽として消費されていったがそのことが時代のモードを決定していったとするような技術決定論は拙速となる。このような視覚装置は大衆の娯楽であるのと平行して観察者が、視覚という現象を捉えるための装置としての側面も持っていた。たとえばフェナキスティスコープが観察者に要求した物理的ポジション自体が3つのモードの混濁を物語っている。


すなわち観客であり、経験科学的な探求と観察の主題(サブジェクト)であり、かつまた[身体-機械接合系をかたちづくる]機械生産の一要素であるような個人身体である。この地点において、フーコーによる見世物(スペクタクル)と監視の二項対立は維持できなくなる。彼が立てた、独立した二つの[視線の]モデルはここでお互いに重なり合ってしまうのである。19世紀における観察者の産出は、規律と制御の新たなる方策の成立と一致していた。右で述べた三つのモードのそれぞれにおいて、それは、回転し、規則正しく動く歯車や車輪からなる機械の配置=配列(アセンブレージ)と組み合わされる。またそうした機械を動かすような身体の問題であったのだ。生産の場での時間と運動の合理的組織化を生み出した社会的要請が、同時にまた、社会活動の多様な領域へと浸透していった。かかる領域の多くを支配していたのが、眼の能力に関する知への欲求、そうした体の組織編成の必要性だったのである。






少し前にあるドレスが青に見えるか茶色に見えるかといったことが話題になったけど、これもゲーテの色彩論、生理的色彩に関連するものといえるだろう。

とりとめもなく/とりとめなくもなく|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/neffc0f67ec12

人の思いは色々と|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n75e129e08834


ステレオスコープよりもメガネのほうが|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ncb434743ecd8



大衆にとっては錯覚などといった現象は珍奇なものとして娯楽の対象となっていったが、科学者にとってそれは探求・追求し、理論-実験-実証すべき対象となっていった。様々の視覚装置、そのうちのひとつとしてのステレオスコープもこのような背景から誕生した。

 ステレオスコープはまた、空間知覚をめぐる19世紀の論争 ―この論争は延々と、解決を見ることなく続くことになるのだが― からも切り離せない。空間は先天的形式なのか、それとも生まれてから、さまざまな手がかりを学ぶことで認識されていくものなのだろうか?18世紀におけるあのモリヌー問題は、19世紀になると、全く異なった解決策を求めて転位するのである。だが、19世紀を悩ませた問題は、それ以前には実質的には全く中心的な難問とはされていなかったものだ。両眼の不同位(ディスバリティー)、すなわち各々の眼が少しづつ異なる映像(イメージ)を見ているという自明の事実は、はるか古代からよく知られた現象だった。しかし、1830年代に入って初めて、ものを見る身体を両眼(ピノキュラー)的存在として定義すること、左右の眼の視軸の角度の微小な差異を測定し、不同性の生理学的基礎を特定することが、科学者にとて決定的重要性をもつものとなったのである。研究たちの頭を占めていたこのは以下の問題だった。観察者が各々の眼で異なった映像を知覚しているとするならば、二つの映像はいかにして一つの映像、あるいは統一像として経験されているのだろうか?1800年以前には、この問題が口にされたとしても、どちらかといえば興味半分にであり、中心的な大問題では全くなかった。何世紀ものあいだ、二つの説明の選択肢が与えられてきた。一つの説明は、我々はひと時に一つの眼でしかものを見ていないのだ、という答え方をした。もう一つの説明はケプラーが編み出した投影(プロジェクション)理論に基づくものであり、これは1750年代という遅い年代に提出されている。この理論は、各々の眼は自分が見ている対象[の映像]を、それが置かれている実際の場所に投影しているのだ、と主張した。だが19世紀になると、視覚野の統一の問題はそれほど簡単には確定できなくなっていった。
 1820年代の末期までには、生理学者たちは視神経交叉構造 ―網膜から脳へと伸びていく神経束が両眼の背後でお互いに交差し、左右それぞれの網膜から出ていく神経のそれぞれ半分を、左右の脳につなげていく点 ―にその解剖学的な証拠を求めるようになっていた。けれども、その当時は、かかる生理学的証拠は、未だ決定的な結論を導くものではなかった。1833年にホィートストーンが出した一連の結論は、両眼視差(パララックス) ―左右の眼が同一点に焦点を合わせたとき、視軸のずれが作る角度― の測定に成功したことから得られたものだ。人間の有機組織は、大部分の状況下で、網膜の不同性を単一の統一的映像へと綜合する能力を有している、と彼は主張した。現在のわれわれの観点からすれば、これは当り前の主張のように見えるが、ホィートストーンの著作は、両眼をそなえた身体に関するそれ以前の説明(あるいはしばしば、問題そのものの無視)からの、決定的な切断を徴づけるものなのだ。
 ステレオスコープの形態は、ホィートストーンが初めに発見したいくつかの事例と関連している。彼の研究は眼に比較的近い距離に置かれた物体を見る経験に関するものだった。


  ある物体を両眼で見るとき、両方の眼の視軸がほぼ平行になるほど遠い距離にそれが置かれている場合、各々の眼に映るその物体の遠近法的投影像も、二つの眼を用いて見たときに見える姿も、一方だけの眼で見える物体と同じである。
  
 その代わりにホィートストーンが熱中していたのは、左右の視軸が異なった角度を形成するほど、観察者の近くにある物体である。
  視軸が重ならなければ見ることができないほどその物体が眼の近くに置かれているときには……左右それぞれの眼には違った遠近法的投影像が見えている。そして左右の眼に映る遠近法的眺望は、視軸の重なりの角度が大きくなればなるほど、お互いに相違したものとなる
 
 かくして、物理的な距離の近接性によって両眼視は、不同性を調整し、二つの独立した眺めを一つのものに見えるようにする操作として働くことになる。このことこそ、ステレオスコープと、フェナキストスコープのごとき1830年代のその他の視覚器具とを結びつけるつけるものなのだ。




ホィートストーンがステレオスコープで表そうとしたのは物体が近くにある時の錯覚を確認し理論化しようとしたためだった。

 
ステレオスコープを制作するに際してホィートストーンが目指したのは、物理的な対象や場面の具体的な現前を模倣することであって、版画や絵画のための新手の展示方法を発見することではなかった。絵画は遠い距離にある物体のイメージを描くことのみに適した表象形式だった、と彼は論じる。風景画が鑑賞者に提示されるとき、「[現実と表象とのあいだの]錯視をさまたげるような状況がとり除かれているならば」、われわれは風景の表象を現実ととりちがえることもありうるだろう。それにひきかえ、近傍にある対象に関しては、どんな芸術家も、一つとして忠実に再現=表象(リプレゼント)することができないでいる、と彼は断言する。
 
  絵画と物体とを両目で見るとき、絵画の場合は二つの似たような対象像が網膜上に映し出されるが、具体的な形を有した物体の場合には左右の目に映る像は異なっている。それゆえこの二つの場合において、感覚器官が受ける印象には本質的な差異があり、したがって精神の中で形成される知覚像にも違いがある。そのために絵画は具体的な物体と混同されることはありえない。
 
 つまり彼が追求しているのはステレオスコープが生み出す映像と物体との完全な等価性である、ということになる。ステレオスコープの発明は絵画の血管を克服するだけではない。それは ―ホィートストーンはわざわざ特に名指しているのだが― ジオラマの欠陥をも乗り越えるだろう。



ステレオスコープの世界では従来の決まりは失われ立体が平面になる(ステレオスコープ映像の本質的組織構造は多層平面的なところにある。そういうのは逆遠近法的視角、古来の日本画の手法、あるいはそれらを意識した現代画家の手法を想わせる(cf.cf.束芋、山口晃)。




視覚はそれ自体中立で客観不動なものではなく外部や内部のさまざまの与件の影響を受ける。内部の影響としては物理的刺激によって目に映る像や色は異なってくるし、電気刺激に依っても異なってくる。それらを科学的に措定すれば、たとえば「異常」とされる色覚の人たちも「正常」な色覚をもつことができるようになる。


色覚異常を改善するメガネが誕生!生まれて初めて“色”を見た人々の反応が感動的 - IRORIO(イロリオ)
http://irorio.jp/daikohkai/20150327/216702/



電極で刺激して視覚が変化するならば、同様に電極によって脳内に外部の像を現象させることはできないのだろうか。これならばたとえば先天的・後天的に目が見えなくても「見る」ことができるのではないか…。そういったことも想わせる。






ゲージツ家はそういった従来の通念-視覚に違和感を感じてエッジにはみ出し、それを表現できることの出来る人々でもある。その意味で「観察者」であり実践者とも言える。


ターナーの晩年の作品ほどカメラ・オブスキュラの視角モデルの決定的失効をあらわしているものはない。いかなる継承の線分をももたず、突然変異的に生まれてきたようにみえる。1830年代後期から1840年代にかけての彼の絵画は、固定光源や光円錐がもはや後戻りのきかないかたちで失われ、消失してしまっていること、そしてまた観察者を視覚経験の現場(サイト)から分かつ距離が崩壊したことを告知しているのである。


ターナーは太陽を描こうとしていたようだった。あるいは見えることのすべてとしての光を。


 ターナーによって告知されている観察者の新しい位置は、おそらくターナーと太陽の有名な関係によって、もっともうまく論じることができよう。古典力学によって記述された太陽の像が、熱、時間、死やエントロピーといった新しい概念に取って代わられたのと同様に、カメラ・オブスキュラが前提としていた太陽(すなわち人間の眼に対して間接的にしか再現=表象(リプレゼント)されえないような太陽である)は、19世紀に誕生した芸術家=観察者の形象が占める位置によって変容をこうむるのである。かつて観察者を太陽の危険な光輝から遠ざけ、保護していたあらゆる媒介物を、ターナーはかなぐり捨ててしまう。ケプラーやニュートンといった[古典主義の]偉人たちは、太陽や太陽光線に関する知を獲得しようとするさいに太陽を直接見ることを避けるというまさにその目的のために、カメラ・オブスキュラを用いた。すでに論じたように、デカルトの『屈折光学』のなかでは、カメラ・オブスキュラという形態は[太陽を直視することで生じる]幻惑の狂気と非理性から身を守るためのものだったのだ。
 ところが、太陽に直面し、それを直視するというターナーの振る舞いは、カメラ・オブスキュラが保証しようとしていた表象の可能性そのものを溶解させてしまうのである。網膜上で生じる視覚課程を作品の中心に据えたことによって、太陽[光線]に対するターナーの熱中は[幻視者(ヴィジョナリー)]のそれとなっている。そして、カメラ・オブスキュラがまさに否認し抑圧していたのは、視覚を具体的身体へとこのようなかたちで受肉させることなのである。後期の偉大な作品の一つである、1843年の『光と色彩(ゲーテの理論) ―洪水のあとの朝』では、かつての表象モデルの崩壊が完全なかたちで成し遂げられている。それ以前のターナーの絵画イメージのあれほど多くを支配していた太陽の光景は、この絵において今や眼と太陽との融合像となる。一方でそれは、ただただ眼を潰さんばかりの、それまで人間が目にしたことのないような発光体の、ありえないイメージとして現出しいるが、他方でまた、全てを飲み込んでしまうその光輝の[網膜]残像に似てもいるのである。この絵や同時期の他の作品における円形構造が太陽の形を模しているのだとしても、それは同時に、残像の時間的体験がそのうえで展開する眼の瞳孔や網膜野にも符合している。残像を通じて太陽[光線]は身体に帰属させられる。そして事実上、身体こそが、そうした効果を算出する源泉として、太陽を引き継ぐのである。ターナーの太陽が自画像であるといいうるのは、おそらくこの意味においてである。

 

アートまとめんblog : 『光と色彩(ゲーテの理論)−洪水の後の朝』 ターナー
http://blog.livedoor.jp/art_matomen/archives/1023343238.html



なぜ観察者たちはそんなにも太陽を注視したのか?太陽に飛び込むイカロスのように



本書のなかですでに言及の対象となった三人の科学者たち、デヴィッド・ブルースター卿、ジョセフ・プラトー、グスタフ・フェヒナーは、いずれも網膜残像の研究の過程で太陽を直視しすぎることにより、視力をひどく損ねている。フェナキスティスコープの発明者であるプラトーなどは、永久に視力を失ったほどである。科学者としての彼らの直接的な目的はターナーのそれとは明らかに異なっていたが、より深い水準においては、彼らのなしたこともまた、身体の「幻視的(ヴィジョナリー)」諸能力の発見という共通の主題であり、これらの科学研究にともなっていた異様な強度と興奮に留意しなければ、こうした研究の意義を見逃すことになってしまう。[身体の[幻視的]諸能力をめぐる]こうした科学研究にしばしば随伴していたのは、太陽を直視する体験、あるいは太陽光線によって身体に焼き印を押され、身体[作用]の壊乱のただなかで白熱色の光の洪水を触知させられるという体験だったのである。明らかにこれらの科学者たちは、視覚の身体性を痛切に認識するに至っていた。




視覚-感覚の完全な定量化。そのために科学者たちは偏執的に光の変化を測定しようとした。



ターナー:太陽のなかに立つ天使
http://bit.ly/1Gl9Wts

http://bit.ly/1Gl9XgN


フェヒナーの宣言

かくしてわれわれは、われわれ自身の眼を、地上における太陽の被造物とみなすことができるかもしれない ―太陽光線のなかに住まい、それによって滋養を与えられている存在、それゆえ太陽に住むその同胞と構造的に似通った存在として……だが太陽に住むその存在とは―私が天使と呼ぶ、より高度な存在だが―自律した眼である、つまり、内的に最高度に発達しながら、にもかかわらず眼としての理想的構造を保っているような眼なのである。光が彼らの生息する領分なのだ―ちょうどわれわれにとって、空気がそうであるように。







けっきょく本書の主張、ポイントとはどのようなものだったか?



 
本書でわたしが試みてきたのは、1840年代までに生じた視覚の布置の変動が、どれほど根底的なものであったかを示唆することであった。視覚と近代との相関関係を問題にするのであれば、1870年代や80年代のモダニズム絵画などではなく、なによりもまず、こうしたより以前の時代を調べてみなければならない。あらたなる観察者はこの時期に誕生したのであり、しかもこの観察者は絵画や版画に描かれた人物形象とはちがった存在なのである。われわれは、観察者というものはつねに可視的な痕跡を残す、つまり画像(イメージ)との関係において認定可能である、という前提をとるような思考の訓練を受けている。しかし本書で問題としたのは、そうしたものとはちがう、実践と言説のより曖昧な境界領域(グレイ・ゾーン)のなかに立ち現れてくる同種の観察者なのであって、20世紀のイメージ産業とスペクタクルの総体こそが、この観察者が残した莫大な遺産なのである。視覚においてかつては中立的で不可視の相関項にすぎなかった身体は、今やそこから観察者に関する知が得られるような、ある厚みとなる。視覚のこの触知可能な不透明性、この身体的濃度はあまりにも突然に視界に浮かび上がってきたのであり、それがもたらす帰結や効果の総体をただちに見通すことはできない。ただしかし、ひとたび視覚が観察者の主体性=主観性(サブジェクティヴィティー)のなかに位置づけ直されるやいなや、相互に絡み合った二つの道筋が開かれたのである。一つの道は、モダニズムその他の領域において見出されるものであり、新たに力を与えられた(エンパワード)身体から引き出されてくる視覚の至高性(サブレンティー)と自律性とを、さまざまなやり方で肯定するという営みへと至ることになる。もう一つの道の方は、観察者を規格化(スタンダイゼーション)し制御していく過程(それはもともとは視覚的=幻視的身体をめぐる知をもとにして生まれてきたものだ)、すなわち視覚の抽象化と形式化とに依拠した権力の諸形態の、さらなる進行へと通ずるものだった。われわれにとって重要なのは、同じ一つの社会の領野の平面上にあって、多様な具体的視覚行為が生起する数限りない局所的実践のただなかを、この二つの道が、いまだに交錯し、ときには重なり合いながら現在をも貫いている、その様態なのである。

 
 

布置を解釈なしに描写すること。結果としてよりリアリズムを重んじる方向(フェヒナー)とそれがゆえの幻想を重んじる方向(ターナー)が生まれた。こういった二叉の理論のあり方はそのまま象徴主義の時代へと通じて行ったように想う。あるいは視覚、表象芸術においても。リアリズムの追求を守りつつ、それと並行してロマンティシズム、幻想を載せていく・表現していくという方向へ。













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ところで絵を描く時、本当に眼差が対象に迫るのだろうか。おそらく嘘だろう。もし心眼で対象に迫ろうとする画家がいるとしたら、彼は分裂病者に違いない。少なくとも画家や彫刻家においては、見ることはもっと違った出来事と言わなければならない。通常の見ることの中に起こる自己分裂は、制作を契機に、見事に二つに分離される。対象を見る眼と絵画を見る眼とに。画家は、ただ見ているのではなく、描きながら、つまり描かれる絵画を見る一方、また対象をも見るのだ。この時対象と出会う眼差は、ほとんどイマジネーションなしの、いわば生理的なそれに近い。そしてこの実眼が見たものが媒介的な喚起力となって、イマジネーションの心眼を刺激する。

(李禹煥、「余白の芸術」)






見る/見られる/見る/見られる/見る/見られる/見る/見られる/見る……|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n50de8b10e49b


body(視る/視られる/削る)- camera-camera|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/naf1fbc40d0ba


フロム・ザ・バレル|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n87bbf28f367c







ターナー展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/377110397.html

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2015年04月11日

李禹煥、2000、「余白の芸術」



余白の芸術 -
余白の芸術 -



どういう経緯だったかわすれたけどついった経由で李禹煥ともの派について教えられてウィキペディアを見たら自分の趣味・嗜好と似てる方向性だったので興味を持って、いちお読んでみたら思ったより良かった。


李禹煥 - Wikipedia http://bit.ly/1HcCl5F

もの派 - Wikipedia http://bit.ly/1HcCplV


といっても400頁あるなかで自分が「良い」と思えた文は150頁ぐらいだし、それぞれの頁はけっこうな余白で構成されてるあーてすとエッセイ本的な趣きは否めないのだけど。その辺のことについてはあとがきで著者も「展覧会のカタログ用などに書いていた文章などを集めたものだから」とエクスキューズ?していた。

それでもアートについて、特に抽象作品について思考するときの見方/スコープ/視角(パース)として参考になった。特に体系的でもないのだけど現代アートにおける抽象作品の文脈、有名ドコロのリスト、各作品の見どころみたいなものが参考になる。


全体は「余白の芸術」「さまざまな作家」「芸術の領分」「新しい表現の場のために」「ものと言葉について」という章立てて区切られていて、「余白の芸術」「芸術の領分」が読み応えがあった。「余白の芸術」は李禹煥自身の作品に対する考え方、どういったことを気にして作品を構成しているかについて。「芸術の領分」は抽象作品の文脈から絵画や彫刻、いけばななどについて。「ものと言葉について」ではもの派について触れているけどここはそんなにボリュームなかった(芸術の領分で触れていることの繰り返し的な感じもあった)。「新しい表現の場のために」では日米韓の現代アートについて触れ「なんか、いまの現代アートは停滞してるなあ。。」て感じ。「(近代という同一性の圧のなかで既成のものができあがってしまった環境にある)哲学・現代アートは基本的に繰り返し、ずらし(差延)、組み換えで構成されてるけど、そういうのもマンネリになるのでたまには青空でも眺めたらどうか?(そのほうがより既成の価値観から離れたものが見えてくるかもだし)」てとこ。こういうのはデリダとかドゥルーズとかも読み漁ってきた(あるいはそれらを受けたニューアカ的芸術批評の)影響ぽい。


「さまざまな作家」で紹介されていたリストはネットにも載ってたので参照



八木山人「木蓮の図」

セザンヌ「サントビィクトワール」

マチス「ダンス」※絵を時用に見る事の難しさ

モンドリアン「一本の木を見る試み」「ニューヨークシリーズ」 (1)外界との素朴なかかわり(2)外界の一部を対象として捉える(3)その対象物を構成概念とダブらせながら整理(4)そして構成概念だけの展開図となる絵画

ゲルハルト・リヒター 一度写真を媒介とさせ再び描く→外界との対話?

ダニエル・ビュレン ストライプの作家 覆う:全体主義 部分に限定:外部性の活性化を呼び起こす非同一性

ペノーネ

アニシ・カプア

F・ステラ ××

若林奮

高松次郎

ウルリヒ・リュックリエム

白南準ナム・ジュン・パイク

ヨーゼフ・ボイス

谷川雁

古井由吉

中上健次
http://yamamotoman.tumblr.com/post/14339774452


自分的にはリヒターが特にピンポイントでそのうち展覧会あったら行きたいし、iPhoneつかってリヒターごっことかできないものかと思う。


ゲルハルト・リヒター - Wikipedia http://bit.ly/1HcCbv8


ペノーネと高松次郎も。




リヒターのそれは「観察者の系譜」で表されていた近代的視覚の擬制とそれを超える感覚-認識-問題意識を写真-絵画としてアートしたものといえる。このへんは書くと長くなるし、そのうち観察者の系譜のエントリで説明するだろうからいまはしない。たんぶらーなんかでもこういう作風はちょこちょこクリップしていたように思う。知らないうちにリヒターを通っていたのか。

近代的な視覚、あるいは認識の超越はそのまま李禹煥ともの派の課題であり、それについて書かれていたエッセイ周辺がおもしろかった。まあこれもそのうちエントリする。


李禹煥が語る作家リスト/リヒター/Coccoのこと|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n201430d197cb


ニューロマンサー - 攻殻機動隊 / 松浦寿輝 - リバーズエッジ - 松本次郎て感じ。


Gerhard Richter / ゲルハルト・リヒター 作品まとめ - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134890993549241601

richter / niji-mu gen-jitsu|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nb087e4cd040b





李禹煥語るところの抽象アートの文脈とは


 二十世紀中盤まで猛威を振るった植民地主義帝国主義のように、そこでは特定概念の拡大と増殖が価値であり、従って世界と自我との同一性が真理だった。これがヴァルター・ベンヤミンが言う再現性の秘密であり、複製技術時代の芸術の原理である。ここではアウラ(唯一性)的本質が存在しない。同一性通念が再生産されるためだ。六十年代、リヒテンシュタインの漫画拡大やウォホールの増殖されたモナリザ絵が抽象的に見える理由もそこにある。近来の絵画の多くが具象的様相を帯びたものであっても、底に近代主義による抽象性の作用を見抜かなければならない。
 概念の拡大性と増殖を、もっとしっかり様式化する方向を主張した批評家がゲリンバーグである。彼はマルクス主義から遠ざかりながらカントを自己流に導入して、物語性やイデオロギーを排撃し、絵画を透明性、明証性の形式として、言い換えれば純粋な平面条件として成立させようとした。バーネット・ニューマンの分割された画面とか、フランク・ステラの同一パターンの反復のように、偶然性や不透明性を排除して、徹底的に概念の形式化を全面化すべきとのことである。
 これらの傾向の作品をミニマル・アートと呼ぶ。ドナルド・ジャッドの言い方を借りれば、それ以外のなにものでもない。極限的にして最低限のものが作品なのだ。こうしてフォマリストになった芸術家は、自我形式の極北にまで進んだ。
 ところで、ここで面白いパラドックス現象を見ることになった。従来の世界が同一性の幻想に覆われていたように、作品においても意味と支持体が一体となっていたが、フォマリズムの極地において、意味と支持体が分離する状態があらわれたのである。画家が表明する意味は宙に浮き、かつてそれによって覆われていたものは、ジャッドの指摘のように、物体でも概念でもない。名づけ難い何かとしてそこに在ることになったのだ。支持体が材料性から抜け出した。
 明確な存在であり極限的な形態にありながら、しかも何も意味することが出来ない、無名性と非概念性の貧しくニュートラルな裸の対象―。ミラン・クンデラの小説題目に似た「存在の耐え難い軽さ」で、そこに在るということ。そうしてみると、作品を作品たらしめる要因が、暗黙のうちに展覧会の制度性とか一定の場所性に拠りかかっていることが解る。ラウシェンバーグの何も描いていないカンバスの展示、エスワズ・ケリーの単純な彩色パネルと周辺空間など、それらに視線を向けられるのも、そのためと言っていい。
 アドルノの言うように、世界の同一性幻想は壊れた。ジョセフ・コスズは、「一つと三つのChair」という作品で、辞典にあるその意味の解釈を複写したパネルとChairの写真とChairの実物を一緒に陳列することによって、それらの差異性を見せている。また別な多くの作家たちは、彫刻や絵画として凝り固まっていたものを、世界からまたは壁から引き降ろしながら解きほぐし、画廊とか美術館に撒き散らす解体作業―意味のメッキを剥ぎ取るインスタレーションを繰り広げたのである。
 地球が狭くなり、複合性による、複雑で多様な社会になるほどに、人間の表現方法は単純で相互的な行為性と、メカニックで客観的な記号性によって抽象化様式化、コード化されてゆく。もはやこれは日常的なリアリズムと言っていい。抽象概念は、対象のデフォルメから離れて久しく、カンディンスキーが提示した自我原理的な「点・線・画」からも遠くなり、すでにそれは現実そのものであり、思考と行動の社会的規範なのだ。抽象の到達点であるミニマルアートに見られたように、物質でも観念でもないものが材料性を越えて、極限的な単位のままで、作品の構成員として一般性を帯びることになった。
 現代美術において、近代的な材料と現代的な要素は同居しがちである。今や材料ではなく構成員としてのように、同じ対象であってもそれに接する画家の態度と方法によってまるで違う次元のものになり得る。フォマリズムやコンセプチュアリズムで読み取れた物質と概念の分離、差異性からくる空白、最低限のパターン、匿名的なニュートラルな構造などは、自己限定と外部喚起のための活性的要素として甦った。
 ピエト・モンドリアンの都市と画面との照応、モリス・ルイスの色彩と空白、マルタン・バーレの色面とフィルド、アントニオ・タピエスの記号と物質、ルチオ・フォンタナの行為と空間、サイ・トゥオンブリの落書きと空白、ゲルハルト・リヒターの外界と内部の対話によるブレとズレ、ダニエル・ビュレンのニュートラルなパターンの設置と外界との接合、榎倉康二の支持体と浸透、伊享根の設定と放置、そして私の絵における描いたものと描かざる部分との相互作用による余白などは、表現の限界と外界の連携を試みる新しい抽象画と捉えることが出来る。ここでは表現と非表現の同居、あるいは外部性の受容と対応が重要イッシュである。それゆえ画面がミニマル・アートとは違い、簡潔でありながら非確定的であり、関係項としての未知性が息づいていると思われる。画面が、端的な自立性よりは横的な連帯性と、規定されざる無規定性を抱えるだけあって、これによる超越性の議論も可能である。


いきなり植民地的帝国主義とか言われてもわかりにくいだろうけど、こういった視点は近代における「まなざし」とそれをめぐる権力という文脈を背景とする。すなわちフーコー的な「近代国家が成立するにあたって『正しい』『当然の』ものが規定・確立されていき、それに合わないものが『その他』として除外・排除・異常されるようになった。そして、そういった規律・規格は排除されてない近代人にも内面化され当然のものとなっていった」という問題意識。「まなざし」は隠喩にとどまらずそのまま視覚にも影響していく。代表的には遠近法の擬制の問題。

 ルネッサンス以後の遠近法の発達で解るように、意志的な視覚主義は、客観性と科学性を標榜した脳中心思想から来たものである。それを合理的に図式化した人がデカルトであり、彼において、見るということは、エゴーによる視覚の規定力を指している。
 ところで実は、広い世界を前にしたごく限られた眼は、逆遠近法的に開いている。自分の目の前のものより遠いところをもっと広く思い、そのように見るということは誰でも知っており経験していることだ。もちろん具体的な対象世界において、近くのものが大きく見え、ずっと遠いものは小さく見えるということが科学的であることは明らかだが、眼の限定性から来る感じ(思い)が、その反対であることもまた否定できない。最近では、古代社会の絵画や中世のイコン、または東洋の山水画などの分析から、逆遠近法の考え方が再照明されていることも注目に値する。むしろ近代の遠近法というものが、人類文化史の中では特異な時代の産物であるという者さえいる。
 今日、視覚と言う時、こちらからあちらを一方的に捉え定めることを言う。対象物自体とか世界が重要なのではなく、見る主体の意識と知識による規定力が決定的であるということだ。ここでは見ることが、設定された素材やデータで組み立てたテクストと向き合う態度である。
 これに対し逆遠近法では、反対に、向こうからこちらを見ている形であるため、世界の側が圧倒的に大きく扱われる。それゆえ見る者の対象物に対する限定力は、曖昧で弱くなるしかない。このような視覚は、受動性が強く、偶然性や非規定的な要素の作用が著しくなりがちだろう。
 ここで私は、受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚を重要視したい。人間は意識的な存在であると同時に、身体的な存在でもある点を再確認すれば、どちらにしても見るということが一方的であってはなるまい。身体は私に属していると同時に、外界とも連なっている両義的な媒介項である。だから身体を通してみるということは、見ると同時に見られることであり、見られると同時に見ることなのだ。対象物や世界は私の理性の反映ではなしに、それは外界性を持った未知的なものであるという立場と言っていい、見ることは、データ化されたテクストを読むことではなく、他社との出会いによる相互作用であるということになろう。
 美術は視覚と不可分の領域である。
 ところで身体的な視覚の軽視や無視による近代自我中心の視覚主義は、必然的に作品の同一性と概念化を招く。そしてついに作品は、世界との関係的な存在性が否定されて、言語学や哲学の説明体に成り下がり、アイディアや概念の確認以外、なんら視覚の力を呼び起こさないものとなる。従ってそこでは、作品が感性的であったり曖昧で不透明である時、それは軽蔑の対象であるしかない。
 もはや作品が理性と世界の同一性を表す対象である時代は過ぎた。外部性を否定する、排除と差別下の、自己の内面の再現化で世界を覆い被す帝国主義的な視覚は、解体されなければならない。私と外界が相互関係によって世界する、という立場からすれば、作品もまた差異性と非同一性の一種の関係項である。



こういった視角は「李禹煥も観察者の系譜読んだのかな?」と思わせる。けど、たぶん美術史的にけっこうふつう・共通な視角なのだろう。

加えて言えばこういった客観性・客観的にも絶対的にうつくしいもの・絶景などといった視角は対象との対話を不在とした一種のナルシシズムを帯びる。

一種のナルシシズムだ。自分のなかに描いたものを際限なく眼前に引き写してみたいという。これが欲望の正体であり、再生産の意味であろう。そういう点で、近代資本主義の表現方法は、自閉的なナルシシズムの過剰なメカニズムなのかもしれない



彼らのリアリティは「事件性」のマトリックスに回収される|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n679b4b119068

なのでこの時期の桜写真の、あるいはおいしいもの写真やかわいいもの写真の氾濫などは見ていて一種ナルシスティックなものとなる。mixiやfbにおけるヨカッタ自慢のように。それは他者への欲望の表出であると同時に自身に向けられる欲望を別の形で対象化したものとも言える。


李禹煥の、あるいは同じ位相にいるアーティストにとって創作物はそういったナルシシズム、主意/恣意性を排し、世界や見る者に対して開かれたテクストとして成される。


内藤礼「恩寵」を見て|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n49de4d1fbcf1


それは(ナルシスティックなポエムとは異なる)詩となって社会的既成に凝り固まった視角/認識/感性を開放する。


鉄や石、あるいは花といった素材はそういった視点から選ばれ、最小限の導きによって閉じられたイデアを開放する。



枯れるということ /石-鉄-刀|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n7266fe44406e






全体的に、自分としてはエポック的なものでもなく、自分のなかにある数寄とか趣味・嗜好の先行きを具体(リスト)してくれた、あるいは別の方向で見せてくれた本となり有りがたかった。

ただ、ヽ(´ー`)ノマンセーてわけでもないのはどうも李禹煥の現代思想に対する理解がびみょーな感じがするから。たとえばベンヤミンのアウラ/複製技術に対する理解は既成のものに囚われていていまいちだったりする。

それを差し引いても読んで刺激されるものであったし、全体としてゲージツに対する詩として見ればすこぶるチアアップされるものではないかと思う(絵画についての考えとか)。



最後に李禹煥の作品に対する思考が端的に詰まった巻頭文「余白の芸術」を引用しエントリしよう。


 アートは、詩であり批評でありそして超越的なものである。
 そのためには二つの道がある。一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。
 私の選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。そこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが重要なのだ。この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が開かれることを望む。

 私はこれを余白と呼ぶ。

 ところで私は、いろいろな画家の絵面の中に見られるような、ただ空いている空間を余白とは感じない。そこには何かのリアリティが欠けているからだ。例えば、太鼓を打てば、周りの空間に響きわたる。太鼓を含めてこのバイブレーションの空間を余白と言う。
 この原理と同じく、高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、白いカンバスの空間がバイブレーションを起こす時、人はそこにリアリティのある絵画性を見るのだ。そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも関係を保ち、絵画性の余韻は周りの空間に広がる。
 この傾向は、彫刻において、一層鮮明である。例えば、自然石やニュートラルな鉄板を組み合わせて空間に強いアクセントを与えると、作品自体というより、辺りまで空気が密度を持ち、そこの場所が開かれた世界として鮮やかに見えてくる。
 だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し合い響きわたる時、その空間に詩か批評か超越性を感じることが出来る。
 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。

















--

抽象と感情移入、あるいは「美とはなにか?」について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414340379.html


「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/416776457.html


ベンヤミンめも (「近代化に対して」「政治/美学」「アウラ」「アレゴリー」あたり): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/387970616.html


「明るい部屋」とベンヤミン: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/389569036.html


861夜『枯山水』重森三玲|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0861.html




ナンバーファイブ 普及版 コミック 全4巻完結セット (IKKI COMICS) -
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2015年04月06日

川村壮志、2014,「謝るなら、いつでもおいで」




謝るなら、いつでもおいで -
謝るなら、いつでもおいで -




カワサキでの中1男子殺人事件に対するメディアやTwitterをはじめとしたネットでの扱い、あるいはISISに囚われた日本人捕虜の殺害に関するメディアの扱い方、自分たちの受け止め方について少し考えてみたくなり関連の本としたうちの一冊。

この本に期待/興味をもったのは事件報道の偏向、事件として型にはめる際にこぼれていくこととその取材→編集の実際をあらためて現場レベル(裏側)から見たい、というのもあったのだけれど、タイトルにもあるように被害者親族の赦し、そして赦しを通じた喪失という心的外傷からの回復がどのような心理過程を経て成されたのか読んでみたいと思ったから。


 ひとつの事件が終わると、僕たちはまた次の痛ましい事件へと心を奪われてしまう。活きの良い「ネタ」に目移りする割には、そのまなざしは判で押したようで、あらかじめ手垢にまみれている。
 成熟した大人も、未熟な子どもも、むごい事件という視点のみで切り出して、同じような出来合いの「被害者」像に押し込める。加害者像へのアプローチの仕方だって同じだ。ためらいもせずに「加害者」というグロテスクな鋳型にはめこみ、ジャンクな情報に紛れ込ませてしまう。
 そして、時が経てば、僕たちはそんなことすら、跡形もなく忘れてしまう。

 でも、残された側には、このまま事件をお仕舞いにできないわだかまりが残る。
 御手洗さんはその後、佐世保支局にたまに顔を出すことはあったが、復職することなく春になると福岡に転勤した。加害少女の父親は無言を貫いたまま。中学生だった怜美ちゃんのお兄ちゃんとも、結局まともな会話もできず、さよならさえ言わずに別れてしまった。






結論から言うとそれは赦しというわけでもなく、回復というのともすこし違った。被害者の父親である御手洗さんの言葉にもあったように「謝られたからといって簡単に許せるものでもない。むしろもっと別の感情が出てきてしまうかもしれない」というようなものだった。「謝って済む問題でもないし、ただそこにあるのは『怜美を返してくれ』という気持ちだけ。でもそれは取り返しがつかない。。やり直せないことなんてないとはいうけれどこの世には本当に取り返せないことがあるのだと知った」「だからといって加害者に、あるいは加害者親族にずっと謝り続けてくれというのとも違う。。その謝罪のナルシシズムのなかで罪を風化させるのではなく、それを抱えつつふつうに生きてほしい」。前者は御手洗さんのお父さんの言葉で、後者はお兄ちゃんの言葉。言葉にすれば簡単なものに感じられるけれど、この言葉が出てくるまでの、この心情に至るまでの経緯や時間は一過性のニュースとして消費されるそれからすると深く重く、こういった事件が関係者全員の人生を巻き込んでいくものなのだなと認識できた。


「謝るなら、いつでもおいで」はこういった経緯からのお兄ちゃんの言葉になる。



「少年事件は楽に数字を取れる」が招いたこと:日経ビジネスオンライン
http://nkbp.jp/19XILrT


池上:まずタイトルがいいなと思って、手にとりました。『謝るなら、いつでもおいで』。最初は被害者のお父さんの言葉だろうと思いました。事件当時、お父さんがテレビに出ていたけれど、取り乱している感じがあまりなくて、きちんと事件を受け止めていらっしゃる印象があったからです。「あのお父さんだったらこう言うかもしれない」と思って手に取ったんですが、読んでみたら「ああ、こっちか」という驚きがありました。

川名:最初にタネ明かししてしまうんですが、この言葉を発したのは、被害者の怜美(さとみ)ちゃんの3歳上のお兄ちゃんです。本の題字もお兄ちゃんに書いてもらいました。



池上:ある意味、川名さんも当事者ですよね。こういう本を出していいのか、という思いはありませんでしたか?

川名:事件後、僕は新聞記者として、被害者の遺族にも、加害者の家族にも、学校の先生にも何度も取材して、新聞記事はたくさん書いていました。だけど一方で、取材すればするほど、新聞記事の断片的な情報ではどうしても抜け落ちてしまうものがあることも痛感していました。

 ある程度まとまった形で伝えられたらとずっと思っていたけれど、池上さんが指摘するように、僕はあの事件を語るのに、マスコミという立場には徹しきれないんです。マスコミという立場を少し離れて語ろうと思ったときに、じゃあ僕が勝手に書いていいのだろうかという迷いはありました。迷いながら、取材は続けていたんです。

 お兄ちゃんに対しては、彼が20歳になったら取材をしようと決めていました。彼は怜美ちゃんと本当に仲が良かった。初めて取材した時にお兄ちゃんが語った言葉が「謝るなら、いつでもおいで」なんです。加害少女に向けたその言葉を聞いたとき、迷いが消えました。

川名:池上さんはよく「報道しないことは存在しないことだ」とおっしゃっていますが、報じなければ、この言葉は存在しなかったことになってしまう。残酷な事件ノンフィクションではなく、娘や妹を失った家族の物語として伝えなければいけないと強く思いました。

池上:この本には、14歳から20歳までの6年間のお兄ちゃんの苦悩や葛藤、心の軌跡も書かれています。本になって初めて、私にも読者にも伝わったわけですね。

川名:お兄ちゃんにインタビューをしながら録音をしていたんですが、後で文字に起こしたものを彼に渡しました。昨年、お兄ちゃんが事件後10年経って初めてマスコミの前に出たことがニュースになっていましたが、彼は「そのインタビューが救いになった」と話していたんです。自分の思いをマグマのようにずっと溜めていたけれど、僕の取材を受けたことで初めて吐き出せた。1歩前に踏み出すきっかけになった、と。



池上:「取材するとは一体どういうことだろうか」と、私もいまでも悩むことがあります。事件が起こると現場に殺到して、被害者の家族に「今のお気持ちは?」と聞いたり、人の心に土足で踏むこむバカな記者がいます。一方で、川名さんのように、相手の話をただじっくり聴くというのも取材なんですよね。取材することが、結果的に相手のつらさを減らすことにつながることもある。それはいい取材だと思うし、記者としてうれしいですよね。

 少年犯罪が起こると、メディアはすぐに「心の闇」とか書くでしょう?「心の闇」ってキャッチーなフレーズだから何か説明されたみたいな気になるけれど、よく考えたら何のことか分からない。何も言ってないんですよね。






事件当時は加害少女が11歳で少年法的にかなり守られた立場にいたため詳細な情報が記者たちにも回ってこなかった。そのため「加害少女はインターネットが得意で」といった断片情報から『専門家』にコメントが依頼され編集し都合よく飾られていった。

 すこし乱暴な言い方かもしれないが、一部のメディアにとって、犯罪報道は、たとえそれが憶測混じりの情報だとしても、「とった者勝ち」「書いた者勝ち」だ。真偽も中身も二の次なのである。
 それはたとえば、些細なエピソードを寄せ集めて、雑に固めただけの、まがまがしい異形の物語、あるいは、被害者の無念の断片をつぎはぎにして紡ぎだす、みじめな復讐譚。どっちにしても、谷底に突き落とされた両者に対する高みの見物。そんなものは雰囲気だけで空っぽの社会正義だ。

 加害者の肩を持つ気持ちはさらさらないのだけれど、僕としても、そうしたアプローチの仕方に釈然としない気持ちもあった。


「加害少女はクラブ活動のバスケットボールに熱中していたが、それを禁じられたフラストレーションが」→「親の過度の抑圧が」などもその一環としてあった。

じっさいは教育熱心な親による抑圧ではなく、学校までの通学に1時間に1本のバスに乗る必要があるような人里離れた山奥に住み、バスケットボールの帰りには暗い夜道を帰らなければならないことを親が心配したからだった。


「加害者の親は子供に目が行き届いていなかった」「子供に愛情をそそいでいなかった」ということについては上記の様な感じで、印象としては世間並みの、あるいはそれ以上の心配を子供にかけていた親だったように感じられた。「子供が理解できていなかった」という点では被害者親族のそれと同等なぐらいの。そして被害者親族も世間並み、あるいはそれ以上に子どもとコミュニケーションができていたように感じられた。もちろんこの年頃の女の子のプライバシーな部分にはなかなか踏み込み難かったけれど。


「なぜこのようなことが起きたか?」「なにに原因があったか?」ということについては本書を読んだ限りではけっきょくはっきりとしたことはわからなくて、印象としては「だれでも少なからず持っているもの、例えば友人との関係におけるフラストレーションと悪い感情、環境による孤独、そのはけ口や幻想の結びつきなどが偶然に重なり、ガス抜きの方法のないまま膨らんでいってしまった」ということ。

「たすけて、怜美ちゃんが死んじゃう」

という言葉は現実遊離的なもの、他人然とした異常さを想わせるのだけれど、背景としてはこのコも抗えない流れのようなものに流されて気づいたらそういうことになっていたのかもしれない。


「どこにでもある子どものけんか、常軌を逸したレベルではないんだよ。それにもかかわらず、あの子は自分の報復に屈しない相手への憎悪を膨らませて、精神的に自分を追い込んでいっちゃったんだ――」



実際のところはわからないしこの本を自分が読んだことからの印象にすぎないのだけれど。そして、過度に加害者弁護になるのは避けたいという気持ちもある。




大人たちはそういったボタンの掛け違え的なものも感じていて「だからこそ自分があのときもうちょっとなんとかできなかったか、、」「あのときの笑顔のうらにそういうことがあったのか(だったらあのときもっと言葉をかけ、そのときの心情を導き出せなかったのだろうか?)」と悔やむ。


でも、それもタラレバ論の取り返しの付かないことであることをわかりつつも




「さっちゃん。今どこにいるんだ。母さんには、もう会えたかい。どこで遊んでいるんだい。

 さっちゃん。さとみ。思い出さなきゃ、泣かなきゃ、とすると、喉仏が飛び出しそうになる。お腹のなかで熱いボールがゴロゴロ回る。気がついたら歯を噛みしめている。言葉がうまくしゃべれなくなる。何も考えられなくなる。


 もう嫌だ。母さんが死んだ後も、父さんはおかしくなったけれど。それ以上おかしくなるのか。

 あの日。さっちゃんを学校に送り出した時の言葉が最後だったね。洗濯物を洗濯機から取り出していた父さんの横を、風のように走っていった、さっちゃん。顔は見てないけど、確か、左手に給食当番が着る服を入れた白い袋を持っていたのは覚えている。

「体操服は要らないのか」「イラナーイ」
「忘れ物ないなー」「ナーイ」

 うちの、いつもの、朝のやりとりだったね。

 5人で、いろんな所に遊びに行ったね。東京ディズニーランドでのことは今でも忘れない。シンデレラ城に入ってすぐ、泣き出したから父さんと二人で先に外に出たよな。父さんは最後まで行きたかったのに。なんてね。
 でも、本当にさっちゃんは、すぐに友達ができたよな。これはもう、父さんにはできなこと。母さん譲りの才能だった。だから、だから、父さんは勝手に安心していた。いや、安心したかった。転校後のさっちゃんを見て。
 母さんがいなくなった寂しさで何かの拍子に落ち込む父さんは、弱音を吐いてばかりだった。

「ポジティブじゃなきゃ駄目よ、父さん」「くよくよしたって仕方ないじゃない」。何度言われたことか。
 それと家事をしないことに爆発した。ひどい父さんだな。許してくれ。
 家の中にはさっちゃん愛用のマグカップ。ご飯とおつゆの茶碗、箸、他にもたくさん、ある。でも、さっちゃんはいない。
 ふと我に返ると時間が過ぎている。俺は今、一体何をしているんだ、としばらく考え込む。いつもなら今日の晩飯何にしようか、と考えているはずなのに、何もしていない。ニコニコしながら「今日の晩御飯なあに」と聞いてくるさっちゃんは、いない。
 なぜ「いない」のか。それが「分からない」。新聞やテレビのニュースに父さんや、さっちゃんの名前が出ている。それが、なぜ出ているのか、飲み込めない。
 頭が回らないっていうことは、こういうことなのか。さっちゃんがいないことを受け止められないってことは、こういうことなのか。これを書いている時は冷静なつもりだけど、書き終えたら元に戻るんだろうな、と思う。
 
 さっちゃん、ごめんな。もう家の事はしなくていいから。遊んでいいよ、遊んで。

 お菓子もアイスも、いっぱい食べていいから」





 あの子がどういう風に生きていくのかということを、僕は被害者側から求めるべきではないとも思っているんです。本人が考えて、本人が生き方を選ぶしかない。僕にとって不満になることもあるかもしれない。でもそれは、そういうものなんだと思う。
 僕としては、相手がこちら側の苦しみをわかっているってことを、見せてほしいというか。そういう言い回ししかできないんだよね。何をしたら僕が納得するかというのは、僕自身もわからない。彼女がどんな生き方をしようと、納得しないんじゃないかとすら思う。そんなに人間できてないし。

 つまりね、今のこの社会の触法少年の処遇のあり方でいえば、あの子は自分の過去から逃げようと思えば逃げられるんです。それは、被害を受けた側からすれば、悔しいけれど、受け入れるしかない。そうあってほしくないな、と思うだけ。それが今の社会の合意であるし、安易な厳罰化に走っても、何も解決されないと思っている。
 あの子にも、生きていれば楽しいことや嬉しい事があると思う。それを否定する気はないんです。背負ってほしいけど、でも人生そのものは全うしてほしいというか。あの子への思いを聞かれると、それはいつも僕にとって、自己矛盾なんです。
 だから、僕が最後、死ぬ間際に、あの子も怜美の死を悼んでくれたんだな、と思えればいい。そういうことなんですよ。たぶんその直前までずっと、そういうふうに思い続けると思うんですよ。





被害者のお父さんは事件当初から心が虚ろになり、止まってしまうとコワレてしまうことを避けるように事件の話題を避け、事件からはなるべく身を引いて普段の生活をおくるようにしていた。それは被害者のお兄ちやんも同じで当初から事件を受け止めらなかったのは同じだったのだけれど、母親がいない家庭でお兄ちゃんが母親代わり的な位置をこなしていたのもあって感情を素直に発散する/悲しみや怒りとして発散することができないような状態にあった。事件後は事件から目を背けるように部活や受験勉強に没頭していたけれど、それが終わった高校生活からそのショックが襲ってきた。お兄ちゃんはPTSD的に鬱になっていき、とうとう学校に通えなくなり、進学校を退学し、しばらくしてドロップアウトした子たちが通う学校に通うようになり、そこでもまだトラウマを引きずっていたこともあってギリギリの単位でなんとか卒業した。加害者のおとうさんとおかあさんは狭い街のなかで職を終われ、けっきょく離婚し、それでもお父さんは加害者の女の子が帰ってくる場所、更生施設から出てきた時に施設に通っていたことがわかりにくいようにするために住所を変えずに留まった。ずっと被害者や被害者の家族に申し訳ないと手紙を送りつつ(あの子が謝りたくなった時に手紙が途絶えていたら謝るきっかけをうしなってしまうかもしれないから)。


 怜美が死んでからの親父さんは、今まで見たことのないような親父さんで、やっぱり堪えました。
 それを見たら「自分がこの先どうなるか」より、「親父さんがどうかなっちゃうんじゃないか」の方が心配でした。「怜美の後を追うんじゃないか」って思いましたから。
 最初のホテルで会ったときも、完全に目の焦点が合ってなくて、僕を見ているのか見ていないのかわかりませんでした。生気が抜けている。マスコミの前では遺族の会見なんてやってたけど、自分たちといるときは、そんな感じでした。正常な状態じゃない。
 だから、逆に僕は極端に冷静になっていた。「さて、どうしようか」と思う自分がいました。親父さんとホテルで会ったときから、僕は感情を殺しちゃった。


 親父さんは、二人でいるときはダメでしたね。ほとんど上の空。声をかけるまで、僕の存在にも気づいてもらえない。あのころ親父さんは、僕に全然気づいていなかったと思います。
 今思えば、僕は当時、14歳ですよね。やっぱりかなり子どもでした。まだまだガキ。それなのに、不必要に大人になってしまった。親父さんを見て、「余計な負担をかけてはいけない」と思いこんでしまったところがありました。変に落ち着いていて、取り乱すことができなかった。



 怒りは少なからずあっても、相手の両親に対して、何を思えばいいのかわからないという感じでした。だって、やったのは女の子。女の子に対しては怒りがあるのはわかるんです。怜美を殺しちゃってるから。でも、親に対しては、どういうふうに怒りをぶつけていいのかわからない。
 それでも、何かイライラするんです。何に対して怒っているのか、ぶつけるべき怒りが何なのか、自分でもわかっていなかったです。怒るのは間違いなく怒っている。でも、それをぶつけるところがわからなかった。
 
 親父さんについての思いは……。親父さんには、怒るに怒れない。相手の親と一緒で、何に対して怒ればいいのかわからない。


 もし彼女が謝罪に来るのなら、「会うのが怖い」という感情は僕にはない。きちんと会うべきだと思う。僕も相手も、対等な関係で。もう小学生と違って、責任が生じてくる年齢ですから。自分のしたことをまったく理解できいない当時に謝られても、どう思えばいいのかわからないけれど、自分がやったことがわかっているはずの今、きちんと謝ってほしい。その方が、スッキリする。
 逆に「会わせられる状態にない」というのなら、それは「国が再教育に失敗したんだ」ってぐらいには僕は思っています。
 あの子を憎んでも仕方がない。なんというか、こっちが疲れるだけですから。親父さんも軽々しく復讐とかは言わないですよね。
 相手にウジウジと悩まれるのも嫌なんですよ。お互いにひきずりたくないというか。こちらも、今までのことを断ち切って前に進みたいという思いがある。諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、一回謝ってほしい。謝るならいつでもおいで、って。それだけ。
 結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。

 彼女には、普通に生きてほしい。
 波瀾万丈なものは僕自身がいらないというのもあるし、一回の謝罪があれば、あとは、それなりの人生を歩んでほしいです。こっちはこっちで普通に生きていくつもりだから。相手もまだまだ何十年も生きなきゃいけないし、ずーっと謝られても、こっちが困る。特に危ないことをせずに、普段の生活を大切にして生きてほしいということです。


 彼女とは、ある程度、かかわりが切れた状態のまま、平行線で進んだ方がいいと思う。逆に近づけば近づくほど摩擦が起きて、自分のなかにも葛藤が起きる。離れれば、それもまたおかしな話です。お互いがお互いのことを考えてはいるけれど、それだけを見続けることはできない。それでも、相手にちゃんと眼は向けられている、という関係がいいと思います。
 相手が近づいて、一度きちんと謝る。謝ってもらった後は、お互い自分の生活に戻る。
 「あなたはあなたの人生を好きに歩みなさい。僕も好きに歩む」ってこと。忘れてはいけないけれど、頭のどこかに入れておく。(手を30センチぐらい広げて)こういう距離。平行線のまま。その結果が普通に生きる。僕にとって、いま一番の理想かな。
 それはやっぱり、忘れることとは違う。手を合わせる時間はつくってほしいなとは思います。一年に一回、命日のときだけでもいいから。










--
熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/415586919.html



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2015年04月04日

「石田尚志 渦巻く光」展へ行ってきたよ




新たなエレクトロニクスやコンピュータ・グラフィックスの驚くべき展開によって、映像としてもタブローとしても、画家の手を煩わすことなしに、かなりの抽象的な絵画を作ることが可能となって来た。まだまだ不十分ではあるが、エレクトロニクスやコンピュータやロボットの進歩は、それらによって、いまに思った通りの完璧な絵画が作れることを予知して余りある。 

(略)

さて、以上のような場合の画家および絵画は、果たして何を指しているのだろうか。いろいろなことを考えることもできるが、なかでも画家は、描くべき対象なり理念を明確に捉え、そのコンセプトをなんらかのカンパスなりマテリアルに、確実に転写実現する者だということ。そして絵画とは、画家によって確認されたコンセプトが、ストレートに明確な図柄で示された表面である、といった意味合いがなにより大きく浮かび上がってくる。ここでは、表現する前からすでに絵画が出来上がっていて、他の要素の作用する余地のないことが分かる。別な言葉で言えば、表現すべきコンセプトが先に完成されていなければ、絵画は成立しないというわけだろう。美術に限らず、近代の表現のあり方に見られるのは、まさしく自我の前提の許に行われる一方的な理念の遂行であることは、再言するまでもない。

李禹煥 「余白の芸術」





ボードレールにとって万華鏡は、近代そのものと暗合するものだった。「意識を備えた万華鏡」になることが、「普遍的(=万人の)生活を愛する者」の目標だった。彼のテクストのなかでは、万華鏡は、単一的な主観性を解体し、そしてまた―形象=像(イコニシティ)をあらゆる地点で断片化し、安定状態を撹乱することで―新しい、変移していく不安定な配列状態へと、欲望を散乱させるための機械であった。
けれでも、1840年代の時点でのマルクス・エンゲルスの著作においては、万華鏡は全く異なる機能を担っていた。ボードレールをかくも誘惑した万華鏡の複数性は、彼らにとってはニセモノであり、文字通り、鏡を使った詐術の謂であった。万華鏡は、新しいものを生み出すのではなく、ただ単にひとつのイメージを反復するにすぎないのだ。

ジョナサン・クレーリー 「観察者の系譜」













横浜美術館でやっている石田尚志展にいったら思ったよりよかったのでnoteにでも軽く感想して終わろうかなあと思ってたんだけど、「noteとblogと曖昧だねえ(´・ω・`)」+「noteのは日記を主にしてるのでテーマで分けるのではなく編年体で、こっちはテーマを絞った紀伝体だから主に本の内容とかになるよねえ。映画とか展示とか」+「私的/公的てのもあるか。noteのはより私的で、こっちはテーマ絞ると関連して公的というか、、まあ鍵もつけずに表出してる時点で私的とかないんだけど。。」、てことでこっちにエントリを。あと、blogも少ないとなんだなあというのもあるし。

てか、書こうと思っていちおぐぐってたら思ったより資料が多くなったのでやはりこっちでよかったみたい。noteのはいちおそんなに長くなくさらっとしたのって感じでやってるし。



結論から先に言うと良かった。






フーガの技法はバッハトリビュート/インスパイアということでバッハの「フーガの技法」を映像として表したもの。「渦」は自分的には輪廻/生命を仏画的に表したものに思えた。

てか、「渦」は1991年の作品、1972年生まれの石だが19歳の時の作品なのだけど、この時点でこれが描けてしまうところになんかもう完成してたのだなあって改めて思った。


一部動画で見られるので概要として

時を忘れて没入できる石田尚志展「渦巻く光」 - di nobi
http://nobi.dino.vc/wf/news/16805072

自分の印象なので後でこの作品についてのインタビュー読んだらちょっと違ったんだけど、印象としては食う/食われるしつつ続いてく生命の螺旋の道が須弥山的な山を登っていくような。。この食う/食われるの関係は特に残酷がどうとかいうことでもなくただそこにそういうものとして在るて感じで表現されてる。この作品が飾られていた部屋の抽象が植物の営みのそれを想わせたように。

そういうものを19歳の段階で描けた、そういう感性、リアリティをその時点でもっていてそれが芯になっていったのだろうからあとは表現技法とか洗練が後からくっつけばよいだけで、なんか約束されていたのだなあとかおもった。


展示の内容は石田の作品を大きく「渦」「音楽」「身体」というコンセプトで分けている。「渦」は石田の絵画→アニメーション作品に共通するモティーフである渦、植物の生命のからみ合いのようなそれを。「音楽」はバッハのフーガの技法を元にした映像作品である「フーガの技法」を中心に。「身体」はアクションペインティング的に、石田の制作風景も一緒に映像として表されている。



「フーガの技法」については自分が解説するより映像として上がってるのを見てもらったほうが早い / 自分としてもあとで見返すときに眼福ということですこしぐぐってみたけどネットには映像はあがってないみたい。DVDならあるかとおもったけどそれもなかった。「部屋/形態」を所収したDVDはあるみたい


監督:石田尚志/1999年/カラー/7分/2000年レティナフェスティバル準大賞、第31回タンペレ国際短編映画祭正式招待、2002年トロント国際映画祭正式招待、1999年イメージフォーラムフェスティバル特選

●窓からのこもれ日で浮かび上る白い部屋。作家はこの部屋の壁/床を巨大なキャンバスとして縦横無尽に絵を描き、それを一枚ずつ撮影することによってこのアニメーションを完成した。
イメージエフ | DVD | シンキング アンド ドローイング
http://www.imagef.jp/commodity/d_0013.html



なので自分の解釈も入った感想からいうと、生命と時間を表してるんだなと思った。細胞室、ミトコンドリア、原子、光子レベルまでの生命の形成過程に時間と存在、宇宙がなだれこんできて、、そこでは時間、存在が可逆的に何度も繰り返され、その繰り返しの中から形を成し現象していく。バッハのフーガの技法の繰り返しに使われる4つの主題が生命の鍵となる4つの箱-部屋(室)となり、それらが時間・空間・次元を越えて重なりあうことで生命を形成していく。箱 - 部屋と次元が重なり、相転移していくさまは万華鏡を想わせた。そして、そういったものを映像で表せるんだなあ/よくもコンピュータも使わず表したなとかおもった(1万枚描いたそうなこの19分の映像作品に)





まあこのへんも「自分の解釈・印象」ということであとでインタビューみたらちょっと違ったようなんだけど。まあそれは後述するとして、とりあえず来歴から。




東京都出身。慶應義塾高等学校中退後、沖縄県に渡り画家の真喜志勉に師事する。イメージフォーラム付属映像研究所でアニメーションを学び、在学中の1995年に初のアニメーション作品『絵巻』を発表する。1999年、東大駒場寮の一室を1年間借りきって描き上げた『部屋/形態』で注目を集める。

2003年、カナダのイメージーズ・フェスティバルでベスト・インターナショナル・フィルム・アワードを受賞。2007年に第18回五島記念文化賞美術新人賞を受賞し、トロントに留学する。

2006年多摩美術大学講師に着任し、2010年より准教授。
石田尚志 - Wikipedia http://bit.ly/1yKDnyD




線を一コマずつ描いては撮影する「ドローイングアニメーション」という手法を用いています。描き進めるうちに、空間のなかに増殖する線や移動する点といった運動性を介入させ、空間の質をさまざまに変容させるインスタレーションを発表しています。

膨大な画像の編集作業を経多後に、再び映像としての「時間」を獲得した作品は、線画の音楽のよう。ダイレクトに「絵が動く」という、映像メディアが生まれながらにもつ視覚的魅惑が凝縮されています
映像作家・石田尚志の大規模な初個展が行われるよ | roomie(ルーミー)
http://bit.ly/1bVFvPt





特にこのインタビューが情報量多くてわかりやすかった。

金子遊のこの人に聞きたい vol.8
躍動するイメージ。石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流
石田尚志(美術家・映像作家)インタビュー: 映画芸術
http://bit.ly/1bVFF9t

――石田さんは既に14歳のときに「バベルの塔」(’86)という油彩画を描いています。慶応高校を中退して、10代のうちに青山同潤会アパートで個展(1990年)をやっていますね。

 最初に描いたのは、バベルの塔を空から見下ろしている絵で、2枚目に描いたものは、塔の内部へ入ったイメージのものでした。塔の内部に入り、渦を巻きながら昇って行くイメージです。内部へ入るとか、昇っていくという行為は、カメラでいえば「引き」で見られるものではありません。そうすると、何かを潜り抜けていくしかなくて、どんどん遠近法が解体されていく。「そのような経験というのは、映像なのだろう」とその頃から予感していたのでしょう。
 作家として出発する中で、もっとも重要な時期は沖縄での日々でした。僕は東京の出身ですが、10代後半に2年間住んでいて、最初は那覇で、画家・真喜志勉さんの「ペントハウス画塾」へ通いました。真喜志さんという人は復帰後の沖縄美術を代表される方で、アメリカと日本との間で激しく闘争しているような作風の方です。その真喜志勉さんの個展を手伝った時、詩人の矢口哲男さんを紹介してもらい、そして今度は矢口さんがその画廊で企画した詩人吉増剛造さんの写真展も手伝うことになった。そうやって出会えた方々との交流は今も続いていて、特に東京に戻ってからも吉増さんには色々な形で引き立てて頂きました。
 その頃は、ファクシミリ用の50メートルの感熱ロール紙を絵巻物に見立ててドローイングをしたり、国際通りのフェスティバルビルの屋上で個展をしたりしていた。だから「絵を描いてる若いのがふらふらしている」と、面白がってくれたのでしょう。次へ繋がる出会いがあったことが大きいですね。
 その後、東京へ戻ってきてライヴ・ペインティングをしていたのが、20歳から21歳くらいのことですね。


――東京へ戻られてから、絵画作品を作成しながら、新宿のアルタ前でライヴ・ペインティングを試みていたのですね。その後は、イメージフォーラム映像研究所を卒業しています。この経験がコマ撮りによる抽象的なアニメーションの世界へ向かう契機となったのでしょうか。

 映像というよりは、最初は「音楽のスケッチ」をしていたんです。アルタ前ではCDラジカセで大音量のバッハの音楽をかけながら、ひたすらライヴ・ペインティングという形で音楽のスケッチをしていました。夢の島や空き地でもやりました。絵で音楽のスケッチをすると、縦や横への強制的なスクロールになるんです。音楽を聴きながら、音符を書いて行くような感じです。そうやって画布の上に描いていった線が、いつか音に戻れるときが来るかもしれない、そんな欲望を感じながらやっていました。
 ただ、ライヴ・ペインティングのパフォーマンスをすると、僕の場合、ダンスに近づいてしまう。描いているときの自己の身体運動の方に引き寄せられてしまう。そして、観ている人は描かれる線というよりも、僕の身体の方を見てしまう。観客と、伸びて行く線との間に僕の身体が入っている状態になる。そのことに不満を感じていました。何とか僕の身体が消えて、見ている人に線だけが伸びていく様を見せたい、そして自分自身もそれを見てみたいという欲望を覚えていたのです。  
 それが映像の方向へ入っていった理由でしょうね。友人がHi-8のヴィデオカメラを持っていて、それは技術的にはコマ撮りができないカメラでしたが、無理やりに再生ボタンを一瞬だけ押しながら、僕の絵のアニメーションを制作しました。そうしたら、本当に動いたので感動した。でも無理な使い方をしたので、ヘッドが傷んでカメラは壊れてしまった(笑)。それが東京へ戻ってから、最初に作った映像でした。


 余談ですが、アニメのルパン三世の劇場用映画に『ルパン三世 ルパンVS複製人間』というのがありますよね。自ら神と名乗るマモーが登場する話です。あの映画のオープニングの最初のカットが、ルパンが絞首刑にされるために13階段を上るショットなのですが、足音だけが聞こえて、階段の段差が黒と白のバーだけで表現されています。あれが幼少期の、最初のアブストラクト経験なんです。
 それから、子供のときに渋谷のパンテオンで『さよなら銀河鉄道999』を観たのですが、列車が惑星へ突っ込んでいくときの、相原信洋さんの曼陀羅のようなサイケな抽象・アニメーションも印象に残っています。映画でもなく、いわゆるアニメでもなく、まさに絵画が動いている、という印象でした。


――石田さんは、2008年3月の「アフンルパル通信」(書肆吉成)というリトルマガジンに「東京論」というエッセイを寄せています。20代前半の頃、6年ほど続けていた害虫駆除のアルバイトについて書いています。東京という都市の地下に巡らされた排水溝や、皇居の近くにあるバベルの塔を逆さにしたような国の施設で仕事をしていた。この逸話にも、天上界へと上昇していくようなロマン主義的な映像作品に向かうことへの契機がうかがえますね。

 当時は、美大へ行かずに、フリーターのままで作家活動をしていて、ゴキブリやネズミの害虫駆除のバイトをしていた。沖縄にいたときは、ひと夏でしたが、平安座島の石油精製所で働きました。青い海を目の前にして、原油を石油へ精製していく夥しい量のパイプを、「非破壊検査」といって、パイプのなかに入って配管の厚みを測っていくんです。そのとき、森や海も自然ですが、石油を製油するパイプも能動的なエネルギーを持った「自然」の一つだなと思いました。
 現場のプレハブへ行くと、石油管の設計図がバーンと部屋中に張り巡らされており、当時は巻物状の絵を描いていましたが、それが、僕が闘わなくてはならない相手だと思えました。設計図は途方もない毛細血管のようにびっしり描き込まれている。原油に熱を与えながら、石油へと分離していくシステムなのですが、人間が人工的に作りだした「川」のようにも見える。これだけの建物が他にあるだろうかと思いました。デザイン優先の建築物ではなく、配管されたパイプのすべてに意味がある。これと同じくらいの密度の絵画が今描かれているだろうか、と考えたんです。


一般論でいえば、絵画はフレームの向こう側にあるものです。絵画はそれで安定しているのですが、映画には時間というものが導入されるので、もしかしたら映画ではフレームの手前側の世界、あるいはその背後のようなところまで描けるのかもしれない、と思いました。
 それと同時に「絵画の問題」をもっと掘り下げたかった。単純にいうと、それが2次元なのか、3次元なのか、4次元なのかという問題です。平面の作品を額に入れて、壁にかければ「絵画」になるのか。そのような制度的な「絵画」から逃れてしまうもの、はみ出てしまうものは、どこまでが「絵画」であり得るのか、そういうことを考えていました。

 ちょうどその頃、学生が自治的に運営していた東大の駒場寮に人が住まなくなり、アーティストにアトリエとして開放するプロジェクトがあったんです。すごく広い部屋で、ひと月あたり1万円や2万円で貸し出してくれた。寮の廃墟のなかで、映画撮影をしていたり、画廊ができたり、写真のラボができたり、色々な作家が集まっていました。僕は引きこもって、ひたすら絵を描き、それを撮影していました。
 『部屋/形態』という映画は、床とか壁とか、そういういわゆる「絵画」ではない場所に絵が生成してしまう様を描出しています。あの部屋の窓は、ある種の「絵画」のメタファーですが、その窓の外は光っているだけで、絶対に何があるのか見えないようにしてある。また、窓には絶対に絵を描かない。つまり、窓=絵画の手前ですべてが生起するというコンセプトのもとに、線描を描いては16ミリフィルムでコマ撮りの撮影をくり返すという行為を続けました。それは壁に線が這っていくという、無意識的な欲望から発露されたものでもありました。


――『部屋/形態』においては、壁に絵を描いたり、それを塗りつぶしたり、模様が白と黒のイメージの交差によって示されます。それとともに、線描によって出現した抽象的な絵画が、窓から差し込む光や影を擬態したり、偽りのパースペクティブや偽りの矩形を描いたりして、遠近法に対するはぐらかしをします。

 遠近法へのアンチテーゼなのか、服従なのか、どちらかなのでしょう。カメラをどこかへ向ければ、そこに遠近法は生まれるわけです。僕たちがそこから逃れられる方法はほとんどない。『部屋/形態』の部屋でいえば、窓から入ってくる光だけが、壁や床を照らしてあの世界を成立させている源です。あの部屋をカメラの内部のイメージで考えました。そうすると、すべてが反転します。窓を開けて外を見れば、そこに「世界」はあるのですが、僕が試みたことは反対に部屋の内部へ深く入りこんでいき、まぶしい外の世界を不可視なものとしました。
 今回の「躍動するイメージ。」展でも示されているように、20世紀の初頭には絵画から映画へ移行した人たちの系譜があります。抽象絵画から抽象アニメーションへいったダダイストのハンス・リヒターやヴィキング・エッゲリングたちです。僕が多くを受け取ったのは、ドイツの抽象画家のオスカー・フィッシンガーで、彼は音楽と映像の融合を試みた人です。そもそもカンディンスキーであれ、パウル・クレーであれ、抽象絵画の画家たちは目に見えない音楽を描く、ということを自分に課した人たちだったんです。


『フーガの技法』

 このオリジナル映像作品のシリーズは十数回続いている“身体”をテーマとした映像作品の制作事業です。当時、世の中に出ていた僕の作品は『部屋/形態』だけでしたが、愛知芸術文化センターから「企画書を出しませんか」と声がかかり、映画の制作費をもらいました。実は『部屋/形態』の少し前から、絵を描きながらそれをコピー機にかけて、アニメーションの作画にしていくという試みをしていました。そして『部屋/形態』が終わった後に、『フーガの技法』へ取りかかったところだった。それで制作費が出たので、少しまとまった作品ができるかもしれない、と集中して作ることになったのです。
 映画にはお金がかかりますが、僕の場合、フィルム自体にはそれほどコストはかからない。その代わりに籠もって制作する莫大な時間と労力が必要です。エンド・クレジットで色々な方の名前が出ていますが、実質はひとりで作画し、撮影していきました。だから、他のことを一切せず膨大な作画作業に集中することが出来ました。

――最初からJ・S・バッハの「フーガの技法」のなかの「コントラプンクトゥスI」「コントラプンクトゥスXI」「未完のフーガ」の3つパートを映像化しようと決めていたのですか?

 最初は「コントラプンクトゥスXI」をやろうと思っていました。何度聴いても、まったくよく分からない曲ですよね。バッハというのは、一体何を考えていたのだろうと常に驚きを覚えます。それで、20代のうちに「フーガの技法」と格闘しておきたいと思ったんです。
――実際の映画制作の作業工程としては、紙の上にペンと修正液で少しずつ絵を描いていき、少し進んでは、それを一枚一枚コピー機で複写していくんですね。そうやってコピーとして作画したものを、3枚なら3枚、ガラスの上に乗せて重ねて、紙の背後からの透過光を使ってコマ撮りで一枚一枚撮影している、ということでいいでしょうか。

 そうですね。原画用の紙があって、ちょっと描いてはコピーをとる、そしてまた描き足してはコピーをとる、ということのくり返しです。そうすると、ひとつの絵が段々とでき上がっていくプロセスが、コピーされた紙の束となっていきます。この束が何パターンもできる。それらを「フーガの技法」のそれぞれの主題に照らし合わせ、主題の折り重なりに合わせるように原画も重ねていく。噛み砕いていうと、バッハの「フーガの技法」ではAという主題とBという主題が重なったりする。それを絵の方でもやっていきました。
 カメラ内でのオーバーラップは使っていません。カメラの方は単純にコマ撮りで、シャッターを切るだけです。主題が折り重なるのに合わせて、絵が折り重なるのは、3枚なら3枚を実際にガラスの上で折り重ねて撮影しているからです。

――アニメーション制作で見られる絵コンテを作らず、直接バッハの楽譜を読みこんで、作画作業を行っているんですね。これはバッハの音楽を、楽器を用いずに、映像によって演奏する行為だという評言もあります。3パート目の「未完のフーガ」では、十字架のイメージと共に4分割の画面になり、それぞれが別の動きをします。あれは、どのようにやっているのですか?

 あれは一旦作った素材を全部縮小コピーして、貼り直しているんです。全部、紙に落として、その上でやっている作業なんです。


――『フーガの技法』では、極微な線が集積することでイメージが形作られます。抽象的な「ムニュムニュ」と呼ばれる描線は何か生命的で、情念的なフォルムです。抽象アニメーションなのですが、人によってはそこに植物の蔓、ニューロン、欲望など、それぞれの思い描く具象イメージを当てはめるでしょう。これが一体何であるのかと問うことは、やはり馬鹿げていますか?
 
 これが何であるのかは、分からないんです。少し近いなと思うものの一つは、オーケストラの指揮者の手の動き、その手が描く軌跡ですね。


――石田さんが絵を描いたときの手の動きの軌跡が、つまりは身体運動の痕跡が映像に残されるという意味では、『フーガの技法』はドキュメンタリー映画でもあるわけですよね。

 そういうことですね。簡単にいうと、線を描いているときは、極めて簡単なプログラムで手が動いています。たとえば、線を上へと描いていけば、次には何となく下へさがりたくなる。そんな手の欲望が生まれる。線を描いていて或る角度をこえると、渦を巻きたくなってくる。そうやって渦を巻いたら、余白に対して、巻いた渦をもう一度元に戻して、外へ出て行きたいような欲望もわいてくる。線がどちらへ向かうのかは、ちょっとした線の角度の違いによります。時おり、少しだけ先が見えてくることがあります。それが見えたときは、喜んで線を増やしていく。
 『絵巻』に関しても、『フーガの技法』に関してもいえることは、僕の場合、前もって下書きをしないということです。もっというと、テスト撮影もしないということですね(笑)。





引用がながくなってはなはだ不格好なんだけど今読んでるもの/読み終わったものの影響もあっていろいろ考えさせる。

慶応高校を中退して沖縄に、ということで金持ちのボンボンなのでこういうの簡単に出来ていいよなぁ−y( ´Д`)。oO○的なことをおもってしまったけどその後も含めてずーっとフリーターで作品作りをしてきたこと。

遠近法への違和感/超えるという感覚はずーっとあったこと。

真喜志勉さん主催の画塾「ペントハウス」に通うなかで詩人吉増剛造さんほか知己を得て行ったこと。

「渦」は生命の輪廻というよりバベルの塔を描いていた、ということ。あるいは「渦」として展示されていた作品と「バベルの塔」はまた別か。

「フーガの技法」も生命とかのモティーフよりも「動きを映像化した」みたいなかんじ。


これらを読んでいて思ったのは「生命というモティーフというよりは、リアリティとして遠近法や静態的な視角に違和感があって、それを超えるための表現・モティーフとして時間・映像が選ばれていったのだな」ということ。自分的な解釈だけど、作品を作るときに展示されるのは成果物としての作品 - 結果ではあるのだけど制作者は作っている間、刻一刻と変わっていく眼の前の作品 - テクストとの対話そのものにアートを感じている。結果だけではなくそれまでの過程としてのそれ、ライブとしてのそれを表せないか?ということで映像作品を選んでいったのかな、とかはおもった。


また時間や次元を越えたとこへのなんとなくの兆しのようなもの。

燃える椅子/テーブルがある部屋を三つの装置で時間差で投影している作品のなかで、投影された椅子や石田の姿がさながら霊のように見えたけれど、ああいうのも多次元的な感覚なのかなあとか。抽象としての方法としてはジョセフ・コスズの「一つと三つのChair」の引用/オマージュなのかなともおもったけど。


とりあえず自分の印象として、生命-変化 -時間の描き方は束芋のそれを別の形で表したもの、「躍動する生命 - 動きとしての生命は定まった色・形をもたない」ところは高木正勝のそれを、絵巻の色の配置・構成は水墨画を想わせた。



アクションペイント的なものはおまけというか、ちょっとそれそのものだとわかりにくいなあという印象だった(なのでどうしても石田の動きのほうに眼が行ってしまうし)。


石田についてはそのぐらいだったんだけど、


石田が支持した真喜志勉って誰だろ?と平行して調べるに


父、真喜志勉は、アルバム「エメラルド」所収の「絹ずれ〜島言葉〜」で、「方言指導」とクレジットされている
Cocco- Wikipedia http://bit.ly/1yKDp9L




Cocco(本名:真喜志智子)
1977年1月19日生まれ O型
沖縄県那覇市出身
沖縄県立開邦高等学校芸術家芸術コース卒業(7期生)

略歴
1977年 出生
1996年 インディーズデビュー
1997年 メジャーデビュー
1998年
1999年 第一子出産
2000年
2001年 活動中止
2002年 絵本作家デビュー
2003年
2004年 SINGER SONGER結成
2005年 活動再開
2006年
2007年 息子の存在を公表
2008年 拒食症を公表
2009年
2010年
2011年
2012年


Coccoの家族
父(真喜志勉:「絹ずれ」を島言葉に訳す)
母(衣装などを制作)
姉(真喜志佐和子:「KOTOKO」にも出演)
息子(KOTO:PVや「KOTOKO」にも出演)
祖父(真喜志康忠:沖縄芝居役者/2011.12.16没)
祖母(真喜志八重子:那覇桜坂にておでん屋を経営していた)
曾祖母(ユタ)
伯母(Coccoママのお姉さん)

Biography - including you!
http://includingyou.jimdo.com/biography/



プロのバレリーナになることを目指してバレエオーディションを多数受けていた。姉が読んでいた雑誌にビクターの音楽新人オーディションの案内が載っており、「賞金によってバレエオーディション会場への旅費を稼げる」ことと、「東京での音楽オーディション二次審査になれば旅費が支給されるため、ついでにバレエオーディションを受けてこられる」ことから、応募をした。そのオーディションでは入賞はしなかったが、「印象が強かった」とのことでビクタースタッフにより後日スカウトされた。
<生い立ち>Wikiに載ってるCoccoの興味深いエピソードまとめ<絵の才能>|エンタメ情報まとめサイト『minp!』
http://bit.ly/1yKDt9r


インタビューはまず、07年にリリースした前作『きらきら』以降のCoccoの生活から話が始まる。Coccoは『きらきら』のあとイギリスで暮らし始め、大学に通い、写真の勉強をしていた。その間精神疾患の治療のために病院へも行ったが、結局治ることはなかったという。その後日本に帰国するが、その理由を「歌わないといけないことがいっぱいあった」と説明し、さらに以下のように語る。

「どうせ治らないんだったら、治らない病になってるよりは、まあ、歌ったほうがプラスかなあっていう、感じ、だったのかやあ」

日本で音楽活動を再開し、自らにとってライブが如何に大切か、そして新作『エメラルド』についても話がおよぶ。今作ではCocco自身がプロデュースも手がけるなど、制作上の大きな変化もあった。またRYUKYUDISKOにアレンジを頼んだ曲もあり、その時のエピソードも語っている。

「RYUKYUDISKOには、もう歌って踊って言った、『こういうの』みたいな。踊ってみせた、いっぱい」

さらに特集記事には撮りおろし写真も多数掲載。バレリーナのような衣装をまとい、リラックスした表情で踊る姿も見ることができる。
Cocco、創作とは何か、そして生きることとは何かを語る (2010/07/13)| 邦楽 ニュース | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイト
http://ro69.jp/news/detail/37228


 もう、波打ち際で歯車が違えてしまったかのように琴子が踊るオープニングからしてこれやばく、ものすごい絶叫と同時に黒背景に『KOTOKO』の文字。そのテンションを維持したままの内容はというと、手首はざくざく切るわ人間をざくざく刺すわまさかの人体破壊描写も多めだわで、マツコ・デラックス、町山智浩、土屋アンナ、KOTOKO(別の歌手の方)、小島秀夫、羽生生純、金原ひとみ、等々、様々な分野からパンフレットに寄稿した人間たちの、気まずさというか、歯切れの悪さというか、腫れ物に触る感じな文章からしても本作の力っていうかCoccoの良く言えば繊細さ、悪く言えばデンジャラスさを持て余しきっておる印象。専業女優、職業女優でもないCoccoのエモーショナル、激しみに負けている専業役者、職業役者の形而上学的な悔しさ、憔悴、負け惜しみを思うと、いやそんなものを思っていては自分までメンタルヘルスの人になってしまいそうなので、ソフィア・コッポラやジェニファー・リンチはCoccoのリスカ痕でも舐めて教えを請いなさい。という悪態をついてガス抜きとしたい。

 気疲れした母親と子供という画ヅラから、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と比較されそうであるというのは容易に推察できる。その主人公、ビョーク演じるセルマは主観的であり、主観にはミュージカル妄想が入り混じり、現実逃避として作用しておった。『KOTOKO』の琴子も主観的であり、というか主観でしか万事を補完することができず、現実逃避……むしろ、「現実拒否」とでも申し上げればよろしいのでしょうか、そしてミュージカルに逃げるようなことをせず、ファンシーな折り鶴や風車を思い(わーい)やカラフルなベッドルームを思い(わーい)や自分の首が落とされる妄想や子供の頭が撃たれて弾ける妄想(わーい!!)でトドメを刺されて虚構と現実の境が曖昧になり、琴子の主観はじわじわと現実を侵蝕し始めるのである。中盤、長回しで琴子が歌い、それを喜ばしく聴く塚本監督自ら演じる小説家・田中、というシーンなんかは、絶叫のようなこの映画が現実を切り裂いた瞬間を捉えたようにも思えるのだ。
『KOTOKO』 Coccoと琴子の狂気は現実を切り裂き侵蝕する - ライブドアニュース http://bit.ly/1y5WSak




まあユタの家系だからかなあやっぱ(´・ω・`)とかおもいつつ、おとーさんとかおじいさんの情報がネットだとよくわからんかったし、石田尚志とCoccoの関係もよくわからなかった。案外「おとーさんのとこにきてたなんか変なにーちゃんのひとり」ぐらいかなとも思うけど。


とりあえずCoccoちゃんのこのへんは見とこうとあらためておもった。




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真喜志民子と真喜志勉 - 幻想第一 http://bit.ly/1yKDqe2

真喜志勉|作家紹介|美術館|沖縄県立博物館・美術館 http://bit.ly/1D38xXx

沖縄アートに存在感 真喜志勉さん死去悼む声 | 沖縄タイムス+プラス
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=104055

真喜志康忠氏が死去 88歳、沖縄芝居一時代築く - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185307-storytopic-8.html


敬愛する真喜志康忠氏の孫【Coccoの快挙!】たまたまNHKの歌番組をみました! - 志情(しなさき)の海へ
http://bit.ly/1D38paq
posted by m_um_u at 20:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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