2015年03月28日

最近の料理本2つ:「強火をやめると、誰でも料理がうまくなる!」「築地市場のさかなかな?」



けっきょく今回借りた本で身についた/実感マンゾク・ほほぅな知識だったのは料理本のほうだったなあ、、こっちエントリしたほうがいいんじゃないか?まあ両方するかとか思ってたところでちょうどつぶやいちゃったので














強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -
強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -

この本自体は軽い文体ですぐ読める/読んじゃったのでもうさらっとエントリしてポイントを自分のなかに定着させて返しちゃっても良いのだけどそのポイントを利用した実践とか応用編のとこ、つまり具体的な料理のとこでもっかい参考したいしポイントのとこも忘れた時に見直すと良さそうなのでやっぱ購入しとこう。たぶん文庫版じゃないほうは安くなってるし。

ポイントはタイトル通り。その理由はついったでちょこっとつぶやいた。

基本として「素材は細胞膜に包まれていてそれによって水分を保っている→水分があることで食感ーハリがある」ということぽい。なのでヘタに細胞膜を破壊して水分出し過ぎるとへなへなになって食べごたえなくなる(非シャキシャキ・ジューシーじゃなくなる)し、食べてるとき、保存してるときに余分な水分が出てきてベチャベチャなっておいしくない。作りおきの野菜炒めなんかがおいしくなかった理由はこれかあ!とおもった。しかし、中華料理なんかだと中華鍋で青菜を一気にな加熱したほうがおいしいのでは?(´・ω・`)てかんじがまだあって眉唾感いなめないのだけど、まあこれもこんどこの方法で試してみて違いを実感してみよう。そのときうまくできてなかったら見返す → 修正する用にこの本は手元においておきたい。


肉類なんかは細胞膜のなかにアミノ酸が含まれていて、それが一定の温度になって旨味に化学変化することでわれわれは「おいしい」と感じるようになる。つまり、「素材の細胞を破壊して無駄に水分を出さない」+「できるだけぢっくりと時間をかけてアミノ酸を旨味成分に変化させる必要がある」ということ。なので40から65度調理が必要ということになる。

スロークッカーした食材がみょーにうまいのは実感していて、その理由をここで説明された感がある。なので、この方法で旨味が出る/食材がよりおいしく調理できるようになるのは納得、なんだけど「この方法できれいな焼き色がつくのか?」て疑問は依然としてある。まあこれも試してみればわかるだろけど。

切り方なんかもきちんと書いてあるので参考になる。個人的には通ってる抜刀術のとこに持ってて「切り方」「包丁の握り方」としてうなうなしたいところ。



 この本の調理コンセプトは、火・塩・切という三点で、火については強火を使わない、塩については0.8%濃度にする、包丁は研がず斜めに切る、といったところ。話に説得力はあるし、火と塩については、この原理からするとかなりのレシピに見直しが必要になる。その意味では革命的と言えないことでもない。
 実際にやってみるとどうか? 意外と難しい。私の印象だと混迷を深める。この本に書いてあるのだが、火加減で強火を使わないということは、フライパンが調理に適切なサイズであるということを含んでいる。だから、調理内容によって、フライパンを使い分けないといけない。それにおそらく料理で一番扱いが難しいのがフライパンだろうと思う。塩については、0.8%というように定量的に書いているが、素材によって塩の浸透が異なるので、素材毎の対応になる。切り方についてはやはり実地の訓練が必要になる。
 それでもこの本読んでから自分がそれまでやってきた調理をだいぶ変えた。一番変えたのは、カポナータというか夏野菜の炒め煮。いままでは火の通り具合を見て野菜を分けて入れていたのだが、最近は最初に全部入れて油を回し、弱火でじっくり加熱するようにしている。インド料理のサブジみたいだなとも思うが、じっくり加熱していくと野菜の甘みがよく出てくる。2分おきくらいに揺すって、あらかた火が入ったらハーブ(オレガノやバジルなど)と塩で調味して火を止め味が馴染むのを待って終わり。野菜の味がシンプルに出ておいしい。ポトフと同じで多めに作ったら、あとでカレールーを少し入れてカレーにしてもいいし、パスタに入れてもトーストに乗せてもいいし、落とし卵と合わせてもおいしい。夏の朝、冷えたカポナータに落とし卵の朝食とか、いいもんですよ。
 料理が好きな人だったら、この本は必読だと思うし、この著者の手法でもう少しビジュアルな本がもう一冊欲しいところ。
[書評]美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (水島弘史): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/08/post-7bbb.html


本書を読めばわかるが、単に「弱火」料理の推奨者ではない。肉のタンパク質が何度で変化するのかを加味して、できるだけ加熱温度との差をなくすよう、科学的な根拠をもった料理法である。本書を読まれて最初に驚くのは、鍋やフライパンで野菜や肉に油を回してから火にかける方法かもしれないし、冷たい油から揚げ物をするとかだったりかもしれない。一般的な料理法は、彼の料理法に全て否定されてしまうから面白い。暫くの間は、本書を見ながら料理することになるかもしれない。が、とても勉強になる。そして、肉や野菜、魚がとても柔らかくて美味しく出来上がる。料理がマンネリ化している中年以上の人には新たな挑戦として楽しめ、これから料理を学ぼうとする人にはうってつけとなると思う。それでもまだ疑わしい方は、こちらの書評をチェックしてみては(参照)?本書を買った時、もう少し料理の実例があるといいと思っていたら、先月、「水島シェフのロジカルクッキング 1ヶ月でプロ級の腕になる31の成功法則(参照)」が出版された。 水島シェフのロジカルクッキング 水島弘史 料理例もさることながら、説明が詳しくなっている点で、ちょっとした疑問などが自分で解決できるようになった。こちらも合わせて読まれるといいと思う。何種類か試している内にコツが分かってくるので、どんどん応用が効くようになり、知らぬ間に、料理時間よりも美味しさ追求へと関心も移ってしまった。実は、長年書き続けてきたここのレシピも全部書き直したいくらいの衝動にかられたが、さすがに3000ページはご勘弁な話。
水島弘史流 里芋と鶏肉の煮物「強火をやめると、誰でも料理がうまくなる」: godmotherの料理レシピ日記 http://godmothers.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-d095.html

kindle版
強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -
強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社+α文庫) -


美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社の実用BOOK) -
美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社の実用BOOK) -


水島シェフのロジカルクッキング――1ヵ月でプロ級の腕になる31の成功法則 -
水島シェフのロジカルクッキング――1ヵ月でプロ級の腕になる31の成功法則 -

水島シェフのロジカルクッキング2 [動画付き]プロ級レシピ徹底マスター -
水島シェフのロジカルクッキング2 [動画付き]プロ級レシピ徹底マスター -


たぶん、料理の基本的な知識として和洋中関係なく参考になると思う。


低温調理というと最近だとこのへんのグッズも気になってる。Amazonで6000円だそうだけどほんとこういうのはもっと高いんだそうな。


ヨーグルトメーカーで肉を煮る - デイリーポータルZ:@nifty
http://portal.nifty.com/kiji/150203192686_1.htm

TANICA 【温度調節機能で市販・カスピ海・ケフィアヨーグルト / 納豆・甘酒に対応】 ヨーグルティア スタートセット ブルー YM-1200-NB -
TANICA 【温度調節機能で市販・カスピ海・ケフィアヨーグルト / 納豆・甘酒に対応】 ヨーグルティア スタートセット ブルー YM-1200-NB -

もも肉のコンフィなんかだとスロークッカーでうまくいって、最近ハマりだしたロティサリーチキン屋にいく必要もなくなったなあとか思ってたんだけど、全部スロークッカーで、てわけにもいかんのやろか?まあ違いがわからんのでスロークッカーでしばらくこういうの試してみようと思うケド。ちなみにスロークッカーは去年の秋に古道具屋で2000円でゲットしたv( ̄Д ̄)v イエイ



あとは魚料理。


近所にあたらしくできたスーパーの魚屋が安くて種類も豊富で魚の質も良いので、「ああ、魚料理の種類増やしたいなあ。旬を味わえるし」、とか思ってたので。体も肉肉てよりも野菜とか魚て感じになってるし。蕎麦にも合うしね。


築地市場のさかなかな? (朝日文庫) -
築地市場のさかなかな? (朝日文庫) -



歳時記的に季節の魚が魚の絵と簡単な文章で紹介してある。

魚河岸に務める旦那の妻ということで魚愛が盛りだくさんで読んでるうちに食欲が喚起される。あとやっぱ歳時記・旬を感じられて良い。季節の魚とその簡単な調理法。

雰囲気としてはapartmentの魚の譜にも似てる(ていうか、魚の譜がこの本を元にしたのだろうか?)


長嶋 祐成:虫の譜・魚の譜 | アパートメント
http://apartment-home.net/author/uonofu37/


この本自体は安かったし手元に置いておくと歳時記的に使えるということで即ゲットした。なので季節ごとに見ていこうかなと思ってる。いまは春告魚であるメバル、さわら、鯛、きす、かつおなんかが楽しみ。


あと、この本読んでて脱水シートはやっぱ買っといたほうが良いのだなと思ったので買っておこうと思う。




 そもそも魚をおいしくないと感じる最大の要因に、生臭みがある。魚は空気に触れる時間が多くなるに比例して、劣化が始まる。ご存じの通りだ。これがうまさの差に出る。
 では脱水シートに包むと、いったいどんな効果があるのか。それはまずなんといっても「魚(や肉)の水っぽさと生臭みを吸収してうま味を凝縮」してくれることにある。この効果は、養殖魚があっという間に天然の味に早変わり。そう言い換えても過言ではない。しかも「凍結時の組織破壊を抑え冷凍焼けを防ぐ」。また「魚は煙少なくきれいに早く焼け、天ぷらは油ハネ少なくカラッと揚がる」。ウソのようだが本当だ。
 このシートの出現は画期的なことだった。良い商品は口コミであっという間に広がる。いまや、一流の味と評される店であればあるほど、この脱水シートは厨房での必需品となった。小売もしているが、もともとはプロ用であった。いくつかの有名レストランの厨房に入らせていただく機会もあった。和洋中華とも置いていない店はなかった。築地の場内外に店を構える道具屋さんで、業務用のこの脱水シートを置いていない店も、またない。



この本の魅力はこういった知識はもとより全体の魚愛的なエッセイの雰囲気にあるのだけど、、まあそれは引用してたらきりがないのでこちらに譲る。

[書評]「築地市場のさかなかな?」平野文: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/06/post_21.html




旬の食材といえば寿司屋と居酒屋だの


妄想居酒屋〜さて、今宵も一杯〜 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/327234


そして日本酒(ぐふ♡
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2015年03月14日

熊倉伸宏、2000、「死の欲動  臨床人間学ノート」




あんたが

もういないってことが

ゆっくりと重なっていく


その重さが  ずっと願わせる


あんたのような人も

その周りの人達も

どうか


やさしい 自分で


いられるように













死の欲動―臨床人間学ノート -
死の欲動―臨床人間学ノート -



死の欲動についてちゃんと読んでみようと想ったのはどういうきっかけだったか。

ついったのTLほかで死にたいという人という人たちを気にして「だいじょうぶだよ」と慰めるためか、現代人一般に共通するテーマとして一度しっかりと理解してみたいと思ったからか、それとも、自分が抱えてきたそれをもう一度俯瞰し相対化するためか。


直近ではリビドーとの関連でタナトスを思い、そのあたりへの心理学的位置づけ、理解をもう少し眺めたく思ったからだった。


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html

性的唯幻論序説メモ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414217494.html


結論から言えばそれは心理学的にきちんと位置づけされてない。

死の欲動というテーマはフロイドの設定であり「人にはもともと死の欲動があるのではないか?」という視角から始めれば説明がしがたいだけで、もっと別の切り口からなら死の欲動も現状で理解されている心理構造全般のひとつとして措定できるということなのかもだけど。



基本的に、フロイドがなぜ死の欲動というテーマ設定を行い、それに関心をもつようになったか。

それはあまたの臨床を通じて快感原則を基本にすると理解しづらい事例が出てきて、それらの多くは近代化による価値観の変化、多くは性行動の様式変化に起因するところがあったようなのでリビドーの問題として片付けられていったのだけれど、そのリビドーの問題でも解けない謎として自殺願望が残っていったから。

あるいは、フロイド自身の問題としてそれが切実に残っていった。

後期フロイドが死の欲動に関心をもったのは、娘の死という遠因もあるかもだが、喉頭がんという病を得たというところが大きかったみたい。1923年に喉頭がんであることが発覚してからモルヒネによる積極的安楽死を選んだ1939年までの闘病生活はフロイドが死の考察をはじめ終えるまでの期間と一致する。病を通じて、自身のリアルな問題として、あるいは人間観や人生観の変化を通じてそのようなテーマが見つめられていったのだろう。


岸田秀によるフロイド理解などでは死の欲動は攻撃衝動(cf.アドラー)と区別がつきにくく、サディステックな破壊衝動の原因は乳幼児期の全能感の喪失 → 不全感からの逃走にあるとする。つまり母との一体における全能感を失う痛みから逃れるために、その痛み・自信喪失を外部を攻撃することによって逸らした。


そのようにしてできあがっていったのがヘテロ男性の群れ的セクシャリティに基づいた男根的権威社会とされるのだけれど。


フロイド - 熊倉の理解では死の欲動は破壊衝動とは直接に結びついていない。

「それは人に元からあるものではないか?」「人には元に戻ろうとする性質があり、無機物としてのそれに戻ろうとしているのではないか?」「普段は我々は生の幻想にドライブされているが、ふとした瞬間こちらが思い出される」

「死は人とともにいつもある」「死を忘れるな」というとなにやら耽美的な甘い誘惑の香りがするのだけれど、そういった人文・雰囲気なはなしでもなく、「死」というはっきりとした概念以前のカオスとしてそういったものがあるのではないか?というのが現時点での、あるいは熊倉を通じた自分の認識としてある。

これは本書の全体の説明としては話が長くなって逸れるので後述しよう。


本書の構成は前半は臨床、中盤は理論・死ぬ権利についての医学的位置づけと処置などのまとめ、後半は臨床に際してのエッセイとなる。


理論的な位置づけが気になって読み始めたのだけれど結果的にエッセイ部分がいちばん読み応えがありエントリとして残しておきたくなった。復習(暗黙知→明示化)的なお勉強にもなるだろし。



そのいちばんの誘因としては「治療者として客観的な立ち位置、他人ごととして振る舞うのではなく自ら患者と同じ位置に立って考えていく(痛みをその都度引き受けて一緒に考えていく)」という姿勢に誠実と真摯を感じたから。よくいる単に理知を振りかざして対象を分析したつもりになってズタズタに切り裂くような安っぽい精神分析医を想うとこういうのには救われる。


精神科医は傷つかない、死に対する耐性が人より優れていると想われがちだがきちんと患者と向き合う場合、その死と生、出会いは個別の一回性をもつものでありその一回一回で精神を消耗していく。


私たちは人間の無限性をみすえ、それを有限な言葉でかたる技術を求められる。衝撃的体験を生きた言葉に結晶化することなしに、治療は進行しない。精神科医は衝撃にたいする感性と耐性、さらに、それを言葉に表現する技術をもたなくてはならない。この不可能に思える要求に、なぜ私以外の精神科医は耐えられるのだろうか。なぜ限られた存在である私たちが、単に精神科医であるという事実だけで、ある時、ある人に対して、その死を語り合えるのだろうか。治療者の何が、自殺念慮をもつ人と話し合うことを可能にするのか、すでに底なしの沼のような人間研究が、はじまっている。




良い臨床家はおおきな理論で上から患者を引き裂き、ピンで止めて観察・収集するために存在するのではなく、患者とともに寄り添い、同じ痛み・問題を共有してすこしでも患者の重みを減らしていくことを旨とする。



治療者は「死の願望」と「生きる意思」の過酷で危険な戦いの、共感的な目撃者となる。そして「生きる意志」の強さを患者が自覚したとき、はじめて退院が積極的な治療的意義をもつに至る。その時、「もし死にたい気持ちを抑えられなくなったら、必ず助けを求めるように」と念を押して退院させることが可能になる。上記の精神療法的なサポートで不十分と思えば、私はさらにケア・マネージャーの役割を負い、保健婦や福祉のワーカーによる援助など、サポート体制の確立に精を出せばよい。「死の願望」への恐怖を治療者一人で支えるのが不安ならば、多数で共有すればよい。






死の欲動 - 自己破壊衝動と攻撃衝動の違いを明確化することの意義について、熊倉は以下のように記している。



「死の欲動」論の業績は、自殺を単に「攻撃性の内向」と理解することに満足せず、人間心理の深部に、底知れぬ破壊性が潜むことを白日の下に暴いたことにあった。しかも、そのような死の欲動は人間一般に根強く存在するとされた。それこそが快楽原則の彼岸に、彼が見いだしたものであった。その結果、自殺を、一時的な死の欲動の反復強迫によって、なす術もなく圧倒された自我から理解することが可能になった。つまりFreudは精神療法において死を主題化し得たのであり、これだけでも貴重な業績であった。



自殺衝動に憑かれたとき、それは自殺の意志というよりも心のなかに反復してくる「死ネバイイノニ」という言葉の強迫で、それをもってだんだんと精神をすり減らせていくところがある。それを自身の本当に望むことと錯覚して。

しかし、この「死ネバイイノニ」という言葉が自分とは別個のナニカが自身の内部から発しているもの、と考えればどうだろうか?


自分 - 自我は理性の産物で人が現代的な日常生活を送るときに必要なものではありコンピュータで言えばOSのようなものだと想う。しかし、OSはひと- コンピュータ全体ではなくあくまで基本ソフトとして駆動されてるだけで、OSとは別の部分がコンピュータの内部にはある。同様に人の深部には自分でも制御できないナニカがある。それをフロイドは「Es(それ)」と名付け保留した。


熊倉はそれを「自然」と呼ぶ。人間理性の内部に残された、人工のなかに残された自然。あるいは混沌とされるもの。


そういうのは普段だとあまり意識されないのだけれど、たとえば夢を見て、普段の自分が思ってもないような行動 - 欲をもって行動しているとき、他人を破壊したり殺害したりすることに積極的な自分をして自分を疑うというようなことがある。あるいは吹っ切れたはずの恋愛、かつての恋人や友人が夢の中に現れることで夢から覚めたあとに「ほんとは自分は彼(女)と復縁したいのではないか?」と煩悶したり。



それらはおそらく理性 - 言葉のシステムと自然 - 身体のシステムの齟齬で生じるもので、夢で映るそれは鏡に映るそれのようにソレソノモノではないのだろう。鏡や光の屈折のようなもの。なので、理性がソレソノモノをそのまま受け取ってしまうとズレてしまう。もちろん理性が誤謬を抱えていることもあるだろうけど。


人は自らのうちなる自然 - 混沌、あるいは自らの外部の混沌に無力さを感じたとき確固たるなにかを求めるようになる。


近代以前はそれは神であったが、神無き時代、あるいは神を求めることが非理性的であると現代的常識から批判される時代、宗教を信仰することはナンセンスとされ迷える人々の安易な救済を妨げる。

熊倉はそこで「なぜ現代人はこのような無力さに平気でいられるのだろうか?」「無力さ、絶望を感じられないほど鈍感なのだろうか?」と説く。それ自体が反語を含んでいるのだろうけど、ひとつには彼らは強烈な祝祭空間の光の中で、自らの闇を見いだせなくなっているのだろう。

銀色シート|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n8cb362101020


「心の闇」という言葉で片付けるとなんだかわかったような気持ちになる簡単さがあるけれど、それは闇というより混沌で、だれでも抱えている自然であり邪悪なのだろう。


銀座ギャラリー巡り|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n00593a950050


生は悪を抱えている。

そこに悪意と悪の様式が紐付けば社会に対する悪となるだけで、人は最初から悪を抱えている。あるいは「悪」と名付けられる以前のナニカ気味の悪いもの(es)を。「邪悪」「悪」とわれわれの狭い倫理で解釈される以前の歪なものが「性」 - 「生」-「生きる」ということなのだ。


「寄生獣」では人間がガイアに対する寄生虫であるというところから出発していたけれど、岩明均の眼は人の深部にあるこの部分を見つめていた(その意味で寄生獣 - ミギーはesの表象だった)。




それを自覚したとき、自暴自棄になって悪の様式に走らないように、人としてうつくしく生きるために内部に夫々の格律、流儀が必要となる。





熊倉 - 土居はそれを信仰といった。光であり信仰と。


私は精神療法を、主に、「甘えの構造」の著書で知られた土居健郎先生から学んだ。彼は何年も前のこと、ある論文に「治療の場を照らしだす光があると信じる」と書いた。それは彼の治療を基底で支える信仰告白のようであった。治療者が「隠れた信仰」を持たなければ、患者の示す真実に立ち向かうことができない、と彼は書いた。若い頃、私はこの言葉に強く反撥した。臨床実践に「光」などという宗教的表現をもちこむことを、ひどく嫌ったのである。医学は、そのようなものから独立した方法と論理を保たなくてはならない、と素朴に思ったのである。それにもかかわらず、彼の問いかけは私の心から離れることはなかった。そして本書は、人と人との出会いを支える未知なもの、私自身すら自覚していない自己、人間を照らし出す「光」への私なりの探求の試みとなった。




そして、熊倉は自らがやっていることを臨床心理学ではなく臨床人間学と呼ぶ。



本書は主に二人の自殺願望を抱えた患者、フユコとヒカリとの対話を通じて編まれていった。一人は旅立ち、一人は遺った。

「先生は残酷です」という言葉に込められた患者の思い、自身の無理解への鈍感と無力さを熊倉は抱え続け、ヒカリとの対話を通じて再生していった。


ハイデガーを専攻した哲学徒であるヒカリとの対話は自身も生の哲学ほか現代思想への知見を持った熊倉のそれも刺激的なものであったはずだけれど、熊倉は自身の言葉を本書に残していない。しかし、ヒカリの「先生は尊敬できる人」という態度から、その内容の濃さと誠実さが想像できる。





見えないもの / 描かれていないものを敢えて想像させるために配置すること。それは熊倉が不確実なものの例として引いた鍋島焼きの皿の図柄そのものだったのかと想える。円形の白磁一杯に満開の桜を配しつつ中心に真空の円を遺すそれは人の生と死のエニグマ、コップの底に溶けずに残った角砂糖の断片のようなものかもしれない。




















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ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC) -
ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC) -

ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC) -
ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC) -


説得ゲーム (Next comics) -
説得ゲーム (Next comics) -


不思議な少年(1) (モーニング KC) -
不思議な少年(1) (モーニング KC) -



「甘え」の構造 [増補普及版] -
「甘え」の構造 [増補普及版] -




夜を愛し、余すところなく死んで、三位を統べる: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/200174686.html

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2015年03月12日

吉田健一の流儀


吉田健一 ---生誕100年 最後の文士 (KAWADE道の手帖) -
吉田健一 ---生誕100年 最後の文士 (KAWADE道の手帖) -




予約してる長谷川郁夫さんの吉田健一本がなかなか手元に来ないので、「まあこれでも読むかあ」とたいして期待せずに読んだ河出書房の道の手帖シリーズの吉田健一特集が予想以上に面白かったし、ちょっとエントリしておきたくなったので留める。


なかでも特に金井美恵子×丹生谷貴志の対談がわかりやすくおもしろかった。あとは松浦寿輝。


そこでは吉田健一の良さ・評価する人はどういうところで評価するのか?その魅力は?というとこが端的に示されていて( ^ω^)うむうむしつつ、「でも、吉田健一ブームみたいなの来てるけどほとんどの人は読んでないでしょ?特に若い人は」(「だって、若い男の立ちにとって吉田健一の小説はエリック・ロメールの映画と同じくらい退屈なんですよ?(笑)」)。

自分もそんなに読んでないので『吉田健一』というブランド、幻想、吉田健一についての批評を元にした幻想や期待を膨らませてるだけなのかもしれないけど。



吉田健一は小説家というより批評家であり、主な作品としては吉田健一本人が言ってるように「英国の文学」と「英国の近代文学」で止めるのだろう。誰が言っていたかわすれたけど吉田健一というのは当人が何かを作る人/作ったものがおもしろいというタイプというよりはおもしろいものの紹介者として位置づけられる。それは英国や仏国の文学であったり、あるいは、それらに連なる美味いものだったり。そういったものが求められたのは終戦当時の文化・物資枯渇 - 飢餓状態の反動もあったのだろうけど、吉田健一が連なる上流階級の「ふつー」の教養 - 文化が嫌味なくにじみ出た結果のように思う。もっとも、それがゆえに当時の人の中でも吉田健一を嫌う人たちはたくさんいたようだけど(「なんだあの金持ちのぼんぼんめ」)。


屈託や葛藤を主軸とする小説・文学・作品を楽しむ人達にとってその辺りは「おぼっちゃん的な物足りなさ」なのかもしれないけれど、その屈託の無さ、あるいは、屈託や葛藤を敢えて語ろうとしないところが却って吉田健一の魅力となっていった。

葛藤や屈託というのはたとえば教養小説や実存主義的なそれ、プロレタリア文学なんかだと主軸になるし、あるいは純文学とされるあのあたりでも内面の葛藤を主軸に、それをより精緻・繊細に描き拾い上げていくことが目的とされる。

その葛藤は世間一般の型通りの見方や権力に対する個人の違和感の表明であり、小説・文学というのはまずもって世間に対しての個人の違和感を表出していくことだ、とされるわけだけど。


でも、この「葛藤を表していく」ということ自体が型どおりなことであったとしたらどうだろう?

その葛藤-感情自体が、あるいはそれにまつわる表現の様式・文体自体がおざなりな決まり文句(クリシェ)なものだとしたら?

たとえば性的な場面にこそ人の実存的なリアリティが宿る、とされていても、そのセクシャリティや発露の仕方それ自体がすでにして形式に侵されているとしたら?


吉田健一はそういったものに「退屈」として目を背け積極的に描こうとしない。


ドキドキするような性的な場面も、余人なら狂ってしまうようなギリギリの情況も、吉田は端的に、単純に書いて済ます。もっとも人間ドラマとして描く対象になるような自身の出生・家族に関わることも(cf.「江藤淳なら大喜びで書きに書いたでしょうけどね」)。性的場面についても小説的文体になっていないので小説的なエロスが醸されない。しかし、端的に描かれてるがゆえに却って妙に頭にのこっていく表現がある(ex.近代小説ならエロティックな妄想を葛藤をもとにドライブさせるような場面、自分のお母さんが海外でパーティに行くときに「その真紅のビロードの服に眼を奪われた。女といふのが美しいものであることをその時始めて知った」と端的に済ます)。


ではなにも描かない・そんなに語らないかというとみょーなところでダラダラと長い文章を続けたりする。


丹生谷はそれをして「ふつーの小説なら狂ってしまうような人間ドラマの場面、言葉の限界であり狂気の場面こそが吉田さんの場所であり、むしろそこにもっとも健康的な言葉がある」とする。近代文学における狂気の場所が吉田の虎口であり、平常の場所だと。それを虎口に、ふつーの人なら退屈に思えるようなことをダラダラとたのしそうに語りだす。


松浦寿輝的にはそれこそがエロティックであり男根的ではない多形倒錯的エロスだとしていた。丹生谷的には「猫同士がじゃれてるようなもの」。そして、そのような文体が踊り、その踊りそのものにエクリチュールの快楽が宿る。


金井美恵子的にはそこは「敢えて書かない」「エクリチュールの快楽を留めるようにしているのではないか?」と


吉田健一は書こうとしなかった / おおいに書いたは対立するものではなく、「出来合いのものは敢えて描かず、それ以外のところをおもしろがって大いに書いた」。あるいは、出来合いの型に任せて思考停止するのではなく、自分がおもしろいと感じた部分についておおいに思考した。

もっとも文士として食わねばならないので注文仕事的なものは注文仕事的なものとして売文的にこなし、その売文的な仕事のなかで遊んだ。吉田の小説はそういった環境から生まれた化学変化的なおもしろさをもったものだった。

金井によるとそれは「批評よりも小説のほうが原稿料が高かったので、従来の小説の型からすると『これは小説と呼べるのか?』と思われるようなものも小説として提出し、小説の原稿料を得て行った」ということのようだけど。

酒に喩えれば吉田健一という良いものの紹介者 - 酒屋が自らブレンドした酒ということだったのだろう。昔の酒屋が日本酒のブレンドを妙味としたように、そしてその違いがわかる通人たちはブレンドに隠された味わいに元ネタを探る。



吉田の小説はそういったものでありけっきょくは批評-随想的なものを「小説」という大枠で覆ったきみょーなものだったのではないかと思うのだけど、同時にそれはある程度年齢を重ねた表現者の日記的な本音を垣間見せる所もあったのではないかと想う。

ふつーなら売り物にならないような趣味的なもの、酒造りとしては素人の店主が「素人ながら」ということで出すことで、商売っけを起こさず純粋に遊べたところもあったのではないだろうか。


大岡昇平が吉田の小説を「これこそがようやくにしてうまれた本当の小説だ」と評価していたのはそういうところだったのではないかと思う。



そうはいってもそれらは売文で、吉田がほんとに抱えていたことは描かれてなかったのだろうけど。もしも吉田に抱えていたものがあったとしたら。それでも、その文の端々に通常の決まりきった小説 - 酒とは違う独特な風合いをもったそれを想わせるような味わいが滲んでいたのではないか、だからこそ通人が惹き寄せられる処があるのではないか。




吉田健一における「敢えて書かない」という流儀



それは「東京の昔」において示された「人が裸であるときに惨めなのは当り前なのだから、それをことさらに見るべきではない」という言葉に凝縮されている。



吉田健一、「東京の昔」 読書メモ - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/11193




ついでにいえば、この小説はなにかテーマを語るというものではなく東京の昔というモティーフを描こうとしたのだろう。なので、自分的にそこで印象に残ってるのはそれほど人通りのない深夜の東京の夜に豆腐屋のラッパの音がどこからともなく聞こえてくる場面だったりする。川瀬巴水や小林清親の影絵のような世界では青と白の陰影が静かに暮れて音無き音、声なき声を響かせていく。





すこし吉田の小説への期待 - 幻想をふくらませすぎたようにも思うけど、まあこれはこれとして作品の楽しみ方でもあるのでとりあえずこの特集についていた「春の野原」を読み終え、「金沢」、「瓦礫の中」などへ続けよう。小説としては。

その前に「英国の文学」「英国の近代文学」からだろけど。







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ドストエフスキイの生活|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n4798997db1d8


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