2015年02月21日

岡崎京子の時代


四月の霧たちこめた朝に
背嚢を背にして発った、すべての子供たちに
私は記念碑を作りたい

苦悩に満ちた眼差しを下げ
背嚢を背にして泣いた、すべての子供たちに
私は記念碑を作りたい






僕はくたばりたくない

まんまるに見せた月に
尖った面が隠されていないかを
知ることなしには

太陽が冷たいかも

四季が
本当に四つしかないのか







スルースウッドの山裾が
湖に浸るところ
そこに草の茂った小島があって
青鷺が羽ばたいては
眠たげなミズネズミたちを驚かす

そこには俺たち妖精が
イチゴや真っ赤なさくらんぼの
詰まった樽を隠してあるんだ

さあ人間の子どもよ
その水辺に行ってごらん
妖精と手を携えて
この世の中にはお前の知らない嘆きの種が
いっぱいあるんだ










僕らは現場担当者となった
格子を
解読しようとした

相転移して新たな
配置になるために

深い亀裂をパトロールするために

流れをマップするために

落ち葉を見るがいい
涸れた噴水を
めぐること

平坦な戦場で
僕らが生き延びること
















「多摩川下流の川のほとりで全裸の男性の死体が上がった」というニュースを見ながら直近のイベントスケジュールを確認する朝、「そういえば岡崎京子展の期限近づいてるのかな?」と確認するに3月31日まででまだ余裕あった。



岡崎京子というと最近こちらのエントリで気になっていて、すこし語りたくなってるのもある+自分的に読むべきものリストのまとめも兼ねてエントリにしといても良いかもしれない。




「pink」のワニ。「リバーズ・エッジ」の河原の死体。“異常なもの”を外部に設定することで平穏を保ち、それの喪失を契機に破綻する物語が90年代前半の岡崎の王道だとすれば、「ヘルタースケルター」は“異常なもの”を滅び行く自らの身体に持ってしまった悲劇だ。その悲劇の歯車は“正常なもの”の登場で回りだすという普段と逆の構造を持ち、しかも悲劇は最後に急展開し喜劇となる。欲望に翻弄されたヒロインのゆくえ。岡崎は自分の物語の定型を知りながら、いかにそれを乗り越えるかを慎重に考え、大胆に実行した。「ヘルタースケルター」は岡崎の90年代前半の集大成であり、かつ90年代後半のモードへと一歩踏み入れた作品で、だからこそ第3部が描かれなかったことが今でも悔やまれる。作品単体の完成度では「リバーズ・エッジ」に軍配を上げるが、その「リバーズ・エッジ」を読み終えた読者を、「ヘルタースケルター」は次のステージへ導かずにはいられない。

欲望ではなく、欲望するためのシステムにお金を払っている(払わされている)。そのことを最初に漫画にしたのが岡崎だった。誰よりも早く小西康陽がDJでかけていたレコードを探すために、誰よりも早く藤原ヒロシが雑誌で着ていたシャツを探すために、「ゲット」を合言葉に「ストリート」を疾走するカウボーイ達。レコードの枚数が、映画の本数が、シューズの足数が文化への感度に直結し、ポケベルやピッチ(PHS)を持っているか否かで交友関係が決まってしまう。消費の速度が人々の生き方を左右する。そんな風景に対して、一体誰が「みんな何でもどんどん忘れてゆき/ただ欲望だけが変わらずあり/そこを通りすぎる/名前だけが変わっていった」と言えただろう。仲間とカラオケで歌って、友達とプリクラを撮って、ぼくらはいったいどこへ行くのだろう(だろうだろうはもういいだろう!)。村上龍が「今日中に買わないと、明日には必ず、驚きや感動を忘れてしまう」と切迫する女子高生を「ラブ&ポップ」で描いたのは「ヘルタースケルター」の半年ほど後だった。「インターネット」と「ウィンドウズ」の違いさえうまく説明できなかった、あらゆるメディアをインターネットのフラットさが覆いつくす前の最後の時代。岡崎にとって90年代の東京は、たとえばそういう風に見えていたんだと思う。

90年代の岡崎京子を「平坦な戦場」という言葉とセットで語る場面に時折出くわす。もとは「リバーズ・エッジ」に引用された、ウィリアム・ギブソンの詩「THE BELOVED(Voices for three heads)」に出てくる「the flat field」のことだ。この詩において「平坦な戦場で僕らが生き延びること」は「落ち葉を見るがいい/涸れた噴水をめぐること」に呼応している(訳者は黒丸尚)。水のない噴水の中で、へりを超える力もなく、カサカサと行ったり来たりするだけの落ち葉。干上がった噴水の中で落ち葉がどう旋回するか。そんな平坦な戦場で落ち葉がどう生き延びるか(=サバイヴするか)。そういう文脈の言葉である。

この言葉はよく90年代の若者の無気力や諦念を表すものだとされる。でもそれは随分と曲解した読み方だ。鶴見済が『完全自殺マニュアル』や『無気力製造工場』でくり返し、宮台真司が“終わりなき日常”と呼んだムードと、語感だけで一緒にされているように感じる。「リバーズ・エッジ」を素直に読めば、日常とは平坦に見えても常に異常事態が身近に起こる状態(=戦場)であって、それは気付かないような小さなきっかけで惨事を引き起こす。しかしどんな惨事でもまた日常の平坦さで見えなくなっていく。だが惨事は実際に起きたのだ。この時、落ち葉はどう生きようとするのか。そういう物語である。

人生は無意味だからマジになるのをやめようとか、無理なくまったりと生きようとか、そんな諦念を岡崎は描こうとしなかった。それらはごまかすためのポーズでしかないことを知っていた。「リバーズ・エッジ」ではピースが欠けながらそれでも日常を続けていく選択をそのまま描写した。そして岡崎は「ヘルタースケルター」で、へりを飛び越えた落ち葉の旅立ちを描いたのだ。死や喪失の残酷な印象を応用してきた作者が、希望と絶望、悲劇と喜劇をペン先で貫いて発見したある逆転劇。これが感動でなくてなんだろう! 「君の激しさはいつか君を焼きつくすだろう」!「でも今はそのときでもその場所でもない」!「さよならタイガーリリィ」!「またどこかで逢おう」!

もし事故に遭わなければ、今頃どんな作品を描いていただろうかとよく夢想する。
一九九五年の岡崎京子、または岡崎京子の九〇年代 - www.jarchve.org
http://www.jarchive.org/text/ko1995.html




岡崎京子とはなんだったのか?と問うに、少女漫画的な幻想と社会が少女-女にかける幻想の間をポップに駆け抜けていこうとしたあの時代の女性たちの象徴だったのかなと思う。そういう意味では酒井順子 - ユーミン的な連想となるけど、はなしがズレそうなので「あのへん」と記すに留める(わかるひとにはこれで十分伝わるだろうし)。



岡崎京子の時代、80―90年代というのは後期近代-大量消費社会が完成し、特にソレが東京という都市で象徴的に現れたときだった。岡崎の表していた「消費のための消費」とはそういった文脈であるし、それらはハイパーリアルな現実-実存の稀薄を埋めるための駄菓子のような色彩だった。

岡崎京子はボードリヤールとかを特に理解していなかったのだろうけど、時代としてはニューアカの最盛期で、それまでアカデミックな世界に閉じ込められていた言葉が浅田彰や上野千鶴子を通じて雑誌-世間にも表れてきて、なおかつそれに「オシャレ」なスノッブさが性格されていったころで、そういった時代精神?というか東京精神に合わせて彼女なりの感性で解釈し、現実に即すように加工したものをアウトプットさせていった。


諸論はあるだろうけど、彼女の代表作は「pink」「リバーズエッジ」「ヘルタースケルター」のように思える。そしてそれらを集約したものが「うたかたの日々」。

pink -
pink -

リバーズ・エッジ (Wonderland comics) -
リバーズ・エッジ (Wonderland comics) -

ヘルタースケルター (Feelコミックス) -
ヘルタースケルター (Feelコミックス) -

うたかたの日々 -
うたかたの日々 -

でも「うたかたの日々」はボリス・ヴィアンの原作を漫画化したものなので、物語的には岡崎のオリジナルではないけれど。

「pink」では売春婦が主人公で、でも、そこではかつての売春、性に関するイメージはなく自ら主体的に売春を楽しむ女性の姿が表されていた。「楽しむ」というと語弊があるので言い直すと、売春ということに対してかつての「性」をめぐる通念のような忌避がない女性の様子。そしてそこでは消費のための消費、人生をポップに謳歌することが語られていた。

その時点で岡崎の作品の主人公達は旧来のヘテロ男性の性幻想と資本主義の市場原理が結びついた性の牢獄を脱する跳躍力を持っていたのだけれど、その跳躍に要した軽さはそれ自体が屈託の対象として残っていった。あるいは村上春樹の作品になぞらえれば、彼女たちは自らの影を忘れていった。

存在-人生-日々の意味の軽さに対して、彼女たちのどこかに芽生えた「コレデホントニイイノダロウカ?」的な翳りを岡崎は作品の締めにスパイスする。

「pink」がたんなるハッピーエンドで終わらないのはそれが単なるハッピーエンドでは美しくないし、凡庸で大味な綿菓子のようだから。そこでワニがペットにされるのは売春という方法で現実離れした簡単さ-軽さで手に入る現実感のなさに対する重石としてワニが必要だったから。といってもそこに罪悪感やマチガッテルといった感覚はなくて、「結婚が准売春なら売春そのものもおかしくないのでわ?(というかすべての仕事は売春と変わらないのでわ?売春はすこし我慢してカラダを売るだけだけど一日ニコニコとココロを売る感情労働のほうがよっぽどだわ)」というリアリティに基づいていて、そういったリアリティからすると世間のタテマエと欺瞞は鼻で笑ってしまうほどおかしい。実際に鼻で笑う-売春をして楽しく暮らすのは良いけど、やはりそれは地に足のついたそれ、生活のリアリティからするとみょーに軽くて、だからバランスをとるために生と死のむき出しであるワニが必要となった。。むずかしく理由付けするとそういうことカモだけど、実際は単にワニが好きだったからカモしれない。


平坦でのっぺりとした戦場、幸福な退屈の中で押しつぶされてしまわないように、ぼくらには少しの刺激が必要だけれどその刺激が大きくなりすぎて日常を飲み込んでしまってはいけない。カレーの食べ過ぎで味覚がおかしくなってしまったOLのように。ハードボイルドな日常に合わせるために情緒は隠して置かなければならないけれど、あまりにポップだと自分の影や本当の名前からも遠ざかってしまう。



消費的な「少しの刺激」は他人に仮託されテレビや雑誌を通じて食い散らかされていく程度のものだけど、それとは別に自らの個人的な翳のようなもの、生活の翳のようなものは澱のように溜まっていく。それは齢を重ねることで増えていくのか、それとも世間の消費的な刺激、悲惨や死のようなものがすこしずつ蓄積していくのかわからないけれど。

神の死によって資本主義時代の私生児となったわれわれが平坦な戦場を生きのびるために、手にしたお菓子の銃は心象世界のなかでホンモノの銃と弾丸となってハードボイルド・ワンダーランドを構築していった。あるいは、ソコにもともとあった心象の戦場に臨むべく、われわれは銃をとったのかもしれない。


岡崎京子のなかであるいはファッションとして描かれていたはずのモティーフは主題となって遺り、それらを解決する答え、道具が模索されていく。


「岡崎京子は優れたコラージュ作家だった」という見方があるようで、たしかに彼女が作品中で触れた作品群を見るとそういうところはあるみたい。

それは模倣と編集-プロデュースを得意とするタイプのひとに共通する特徴だろう。なのでそれをして「単なるマネッコでコラージュだけでホンモノのアートではない」というのもどうかな?ってことにはなるけど。


これらをみると岡崎が張っていたアンテナの方向性がわかる。そして、それが目指して行きつけなかった地点も。


ドイツロマン主義 + 象徴主義を軸とする世紀末芸術的な幻想耽美に最終的に行きつき、そこから自らに体現された時代精神の答えのようなものを求めていたのかもしれない。それは事故に遭う直前、依頼されたコミックキューの原稿として考えていたものを見てもわかる。



岡崎京子って漫画家がおりまして。
結構わたしすきなんですけれども。
このかた交通事故でいま闘病なさってて、お元気なころに書かれたマンガがもう10年ぐらい前のやつなんですね。
それでも、けっこういろんなところに影響与えた作品をおかきになったかたなんです。
そのかたが、事故の直前に描くかもしれなかった雑誌が「COMIC CUE」(1995、イースト・プレス)というのの3号なんですね。
この雑誌江口寿史さんが責任編集してて。
すごくまじめに編集長してて、それは巻末の編集日記でわかるんですけれど、
そこに岡崎京子さんが出てくるんです。「COMIC CUE vol.3」(1997、イースト・プレス)に。
原稿を江口編集長が依頼しに行くんですね。

  5月14日(火)
   (中略)3時、原宿で岡崎京子とうちあわせ。岡崎さんとは親しい訳じゃないが、この13年程の間に、いろんな機会に顔を合わせている。で、会うたびにこの人、なんつうか凄味を増してるんだ。
 最近の岡崎京子の作品は、もうあれは、漫画じゃないと思う。岡崎京子自身ももう、漫画家というよりも、文学や映画と同じ次元の表現者といった風情だ。会うたびにその印象を強くしている。CUEの読者アンケートでも次に描いて欲しい漫画家の筆頭に、その名が挙がる岡崎京子だ。で、今回のお誘いになった訳だが、「今、エロスには全然興味がない」ので自分の中からは今回の趣旨にあうような作品は出てこないだろうと言い、この本を原作とした形ならばやれるかもしれない、と数冊の詩集を出した。東大の先生でもある詩人の松浦寿輝という人の詩集だった。
 あくまでも松浦氏の承諾が得られれば、という条件つきだが、執筆をOKしてくれた。
   しかし、今日の岡崎京子、ちょっと疲れてたように見えたのは気のせいか?
http://po-m.com/inout/200606oikawa02.htm


松浦寿輝 - Wikipedia http://bit.ly/1zu19iv



松浦寿輝はようやく識ったのだけど、


小説家としては、日本の古井由吉、吉田健一、内田百間、フランスのマルセル・プルーストとロラン・バルトを敬愛する。また中井久夫、川村二郎を知識人として深く尊敬している。最後まで小説を書かなかったバルトへの思いは「名前」(『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』)に詳しい。



というところでもうだいたい方向性として分かったし、しばらく自分も付いて行って読んでみようかと思う。


岡崎京子と松浦寿輝が個人的にどのような関係にあったのか?というのはよくわからないけれど、岡崎が最後に表そうとしていた世界、頼ろうとしていた世界のようなものはこの辺りだったのだろう。



つまりヴァレリーやマラルメ、ランボーに代表される象徴主義文学とベンヤミンに代表されるドイツロマン主義的な頽廃と翳りと実存。


それらは完全な理解ではなかっただろうけど、漫画的感性を自在に操るようになっていた岡崎京子という装置からそれらがどのような形で表現されていたか想像される。


ヒントは「うたかたの日々」で、そういった頽廃と翳り、死とエロスに遺る美のようなものをハードボイルドかつポップに描きつつ、死に取り憑かれる甘美を卒業して最後にきちんと天使を入れられるようになっていたのではないか?




それはクレー → ベンヤミンの天使であり、小沢健二の天使でもある。












彼女の事故は傍から見ると彼女の作品の登場人物たちの足跡を彼女自身がたどったような予定調和が感じられる。

しかし、漫画と違って人生は続いていく。


あるいは、事故や傷さえも自らの個性として取り込んで、むしろそこから人生が始まっていく。



螺旋状の滑り台のように、下まで降りてもう一度上がっていく




「かつてエグいいじめをやっていた小山田圭吾の息子がエグくいじめられてるみたいでm9(^Д^)」

「かつてノンポリポップだった小沢健二や坂本龍一がサヨクに染まってm9(^Д^)」

「かつて残酷でポップなマンガを描いていた岡崎京子自身が事故にあってm9(^Д^)」





そういった世間の視線とネズミたちが最後に手に入れる果実の味はなんの関係もないのだろう。



多摩川の、あるいは渋谷川のネズミたちは草いきれ(wwww)を超えてイノチノヒミツに辿り着く。












川の光 -
川の光 -






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真鍋昌平、2004、「ショッピングモール」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408620472.html


モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225495332.html



「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225799105.html



意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html


愛はさだめ、さだめは死?: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414133706.html



性的唯幻論序説メモ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414217494.html



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2015年02月19日

抽象と感情移入、あるいは「美とはなにか?」について



小林秀雄「近代絵画」のピカソの項を読んでると「美とはなにか?」ということについて簡略かつ的確に表されてる文言があってしばらくしびれた。



それ自体はピカソの絵を理解するため、ピカソがなぜあのような抽象にはしったのか?そもそも絵画にとって抽象の美的価値とはどういったものなのか?ということを論じたり理解するための前振りというところではあるのだけれど。別件で形式と内容、シンボルとアレゴリーについてあまり理解できずにぼんやりしていたところでの美の位置などもあいまって軽くエウレカした感じだった。

ヴォリンゲルを引いて曰く、

美とは、一般に感性的所与の要求するところに応ずる私達の統覚活動の一様態なのだが、この活動が自然で自由で積極的な場合、対象は、この活動に貫かれる。対象は私達に所有される事によって対象となる。感情移入とは、私達の生命力の対象への移入なのである。美的享受とは、客観化された自己享受なのである。


抽象と感情移入―東洋芸術と西洋芸術 (岩波文庫 青 650-1) -
抽象と感情移入―東洋芸術と西洋芸術 (岩波文庫 青 650-1) -

つまり、美の享受、なにをもって美しいと思うか?というのは自分自身の美しい部分 - 美しいと感じる部分(理想とする美しさ)の投影ということになる。


そのため美しさというのは一般価値ではなく個人的、実存的なものであって「美とはなにか?」という命題にだれにでも当てはまる共通の美を想定するのはナンセンスになる。それでもなお、それを一般的な価値として定義しようとするなら、それは正義の問題に近いものになるだろうし、もっと具体的には味覚 - 「おいしさとはなにか?」「究極的に美味しいものとは?」と似たことになるだろう。価値としての真善美とはそういったもののように思える。善、あるいは正しさの問題というのはこの中でも社会的にある程度の最大公約数みたいなものが要請されるところはあるだろうけど。



以前に離人症のようになったことがあって、雪が積もる竹林の様子を美しいと思いつつもソレを実感として感じられないことに寂しくおもった。

「これは世間的には『うつくしい』とされるものであるはずだし以前の自分であればうつくしいと思えるはずなのにいまの自分にはそれを感じられない。。」

そこで自分のココロのようなものが死んでいく/死んでしまったことを悲しみ、世間のそういった感覚からの疎外のようなものを。


ヴォリンゲルのこの一文から、そのときの自分は感性は死んでなくて、それによる所与(センスデータ)もあり、それを言語的に処理する機構もあったのだけれど、感情移入が死んでいたのだなとおもった。感情が死んでいた、あるいは、生命力が薄くなっていたので竹や雪に対して自らの生命力を移入-投影できなかったのだろう。そして、それが復活し、以前よりも多くのことを美しく思えるようになった現在、自分の中の生命力-エロス-意味が広がったのだなと実感する。






ドイツの美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの代表的著作。「抽象と感情移入 様式心理学への一つの寄与」というタイトルで1907年に学位論文として申請され、08年に出版された(邦訳=『抽象と感情移入 東洋芸術と西洋芸術』)。この著作でヴォリンガーは、テオドール・リップスの心理学的美学において提唱されていた「感情移入」型の古典主義的歴史観に対し、「抽象」衝動を対置させた。同書は、歴史がこの二つの精神的態度を交換・変遷する過程を、古代エジプトから中世ゴシック、ギリシャ・ローマなどの広範な美術作品に見出し、従来のヨーロッパ中心主義的歴史観の相対化を目指したものである。「感情移入」衝動には主体と客体とのあいだに有機的な生命観が見出され、古典主義などが相当するとされる。逆に「抽象」衝動とは、世界との無限の混沌状態に直面した人間が平静を得るために求める「抽象」的な法則性や幾何学性のことを指す。ヴォリンガーは「抽象」衝動を「古代人」の様式に帰属させ、エジプトのピラミッドなどがそれに対応するとした。また、彼はミュンヘン分離派や青騎士などの表現主義の動向にも関心を持ち、同時代美術の「抽象」性の根源を解明しようとした。P・クレーやF・マルクは、彼らの作品の幾何学的な抽象性を歴史的・理論的に支えるものとしてヴォリンガーの言説に注目していたことで知られる。

『抽象と感情移入』ヴィルヘルム・ヴォリンガー | 現代美術用語辞典ver.2.0



私の理解した限りでこの本の内容をごく簡単に言うと、(ヴォリンゲルはこれを書いた後も思想が幾らか発展変化していったようですが)
彼は、芸術には、芸術意欲には、2つの方向性があると言います。すなわち、「抽象」と「感情移入」の方向です。

まず、彼は、その当時の人々の先入観だというものを語ります。それは、芸術とは、常に、(外的な)自然に向かい、自然を描くものだという観念です。例えば、古代ギリシャの、写実的で活き活きした彫刻のように。

しかし、これは一面的な見方だと言います。なぜなら、「未開民族」の芸術や、原始的な芸術というものは、常に、外的な自然からはかけはなれた、幾何学模様に代表されるような様式の芸術だからです。古代ギリシャの芸術も、その初期においては幾何学模様だったと言います。

そこに、芸術意欲の2つの方向性を見出だします。

1つは、自然的な、有機的な、動的な生命を描いて、それに感情移入するもので、古代ギリシャやローマ、ルネサンス時代の西欧の芸術に代表されるもの。これが「感情移入」の方向です。

もう1つは、抽象的な、無機的な、結晶化された、静止した世界を描くもので、「未開民族」や、イスラム世界の芸術に見られるような、幾何学模様に代表されるもの。
これが「抽象」の方向です。(そして、これが芸術の起源にして終点だと言います)

芸術はこの2つの極の間を揺れ動くものだと言います。
そして、何故このような芸術が生まれてきたのかを考察します。

まず「抽象」の極である幾何学模様について、人と自然との関係から考察します。

つまり、こうした芸術を生む人々は、人間に対して友好的でないような、転変きわまりない、信用ならない、厳しい自然環境の中で生きているので、抽象化され、結晶化され、静止した、合法則的な世界を描き出し、その中にせめてもの安定を見出だそうとする、と言います。

一方、「感情移入」の方では、こうした芸術を生む人々は、自然によってか、人為によってか、人間に対して友好的な自然、自然と人間との、幸福で(そして稀な)調和の中で生きているので、自然に対して感情移入することができる。それで、活き活きとした、自然主義的な、有機的な、動的な芸術を造り出して感情移入すると言います。

さらにこういった方向性を宗教や哲学に関連付けます。すなわち、「抽象」に生きている人々は、現世を超越した、幽玄で、絶対的な思想に傾き、一神教に傾く、
一方、「感情移入」に生きている人々は、現世肯定的で、人間的で、自然主義的な思想に傾き、汎神論、多神教に傾く、と言います。

前述の通り一面的に思える面もありますし、それ以外のことも語っているのですが、それは置くとして、
この理論から言えば私の身近な芸術、例えば日本の芸術はどうだろうかと思います。この理論の正確さはともかく、もし当てはめてみるなら…


多分ヴォリンゲルも含意しているかと思いますが、前述のような、人がその中で生きている自然環境というのは、いわゆる自然のみではなくて、人間的な環境も含むかと思います。

つまり、社会的に不安定で、戦争や紛争の絶えない世界に生きていると、あるいは、何らかの理由で個人的に不安定な状態で生きていると、人は抽象の方に傾くだろうと私は思います。

戦国時代には茶の湯や禅が流行ったとかいう話です。
いつ死ぬかわからない世界の中で、一服して一時の安らぎを得たいというのはよく分かります。茶道には始めから終わりまで動作に決まった形式があって、何か不自由そうな気がして、何のためにそういう形式があるのか、私は不思議に思っていましたが、その理由がわかったような気がしました。
ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」を読んだ感想
http://ncode.syosetu.com/n3909bs/



「あとがき」によれば、美学上の感情移入説というのはヴォリンゲル以前からあったらしい。ヴォリンゲルはそれに対するアンチテーゼとして東方芸術(具体的にはエジプトの装飾芸術)を取りあげる。そしてそこに「様式化」の衝動をみとめて、これを「抽象」と名づけた。この着眼点がまず非凡なわけだが、よくよく考えてみれば、「感情移入」に対して「抽象」をもちだすのはちょっと論点がずれているような気がしないでもない。しかし、この「ずれ」が論を展開する上での大きな原動力になっているのも事実だ。波と波とが干渉しあって、より大きなうねりを生み出しているといえばいいだろうか。そして、そのうねりの絶頂にあるのがゴシックの寺院だ。

まったく、ゴシック寺院というのは世界の八番目にして最高の不思議(驚異的建造物)だと思う。もしかしたら、ヴォリンゲルはゴシック建築を眺めていて、そこから抽象と感情移入という対概念を発想し、それを過去に逆照射したのではなかろうか。彼がゴシックに並々ならぬ愛着と関心とを抱いていたことは、この論文を書いたすぐあとに「ゴシックの形式問題」という本を出していることからもうかがえる。ちなみに、これには中野勇の邦訳がある(昭和19年、座右宝刊行会)。
ヴォリンゲル「抽象と感情移入」 - 両世界日誌
http://d.hatena.ne.jp/sbiaco/20060126/p1



ヴォリンガーは芸術の歴史をギリシャ、ローマからルネサンスへと進む西欧の伝統、外界の科学的な観察によって統合される芸術的技能の歴史としてではなく、美的享受を客観化された自己享受であるとする、アロイス・リーグル(Alois Riegl、1858 - 1905)が指摘した芸術意欲の歴史としてとらえ直そうと試みた。これまで未開のものとして退けられてきたアフリカやアジアからの作品が多大な影響を及ぼすようになったその時代において、感情移入(Empathy)と言う主観的方法だけではもはや芸術を説明しきれないのは当然である。20世紀初頭のヨーロッパは不安と不確実性が支配する時代だったが、そうした環境にも影響されながら、当時の芸術家は人間の予期不能な状態から抽象的な対象を探求し、それを絶対的な超越した形態へと変化させるという試みを重ねていた。フランスではフォーヴィスムが、ドイツではブリュッケが生まれ、ヨーロッパの芸術はその拠り所をより野性的で抽象的な未開の芸術に求めるようになるが、ヴォリンガーはこのような同時代の芸術を読み取る契機として、各時代における形態への意欲が、不安や恐怖をかきたてる人間を取り巻く世界にどのように反映するのかを、リーグルの芸術意欲と共に基礎的な心理学にも頼りながら考察した。結果的にヴォリンガーは、芸術を絶えざる不安を克服するための方法であると規定しつつ、恒久的な美学的形態を創造し、矯正することで達成される衝動を、抽象衝動として描き出すことに成功した。そこでヴォリンガーは、感情移入の要求が常に有機的なものへと向かうのとは逆に、芸術は自然からは独立したものであり、それゆえ抽象衝動では無機的な形態へと向かうのだと定義する。

このような抽象衝動を起こさせる心理的な前提は、諸民族が有する世界感情の内部にあり、それは彼らの宇宙に対する心理的な態度によく反映されている。こうした諸民族とは原始民族に始まり、それから多少の進化を遂げた東方民族のことであり、文化的段階にあるとされる民族、つまりギリシャに始まる西洋民族においてはすでに抽象的衝動は克服され、感情移入衝動によって支配されている。感情移入衝動で説明される高次の文化的段階における人間とは、外界の現象と親和関係にあり、汎神論的で親和的な宗教観を持つ状態にある人々だ。一方、抽象衝動で説明される原初的な文化的段階では、人間は未だに外界の現象に脅かされており、それがもとで内的不安が惹起されているような状況にあり、宗教的には超越的な強い観念に支配されている。

抽象衝動が起きるような状態とは、ある種異常な精神的な空間的恐怖にさいなまれた状態なのだが、そこで生まれる不安の感情がその芸術的創造の源泉となる。人間は外界の現象相互間の関係を見つめるとき、そこにある不明瞭性や恣意性、あるいは現象の変化極まりない状態だけを感知する。そして、そのような不明瞭で理解不能なものを取り除き、そこに必然性と合法則性の価値を見つけ出そうとするのだが、それは自然のうちにそのような価値を求めようとする心理が働くからではなく、むしろそれとは反対に、外界の只中に放逐されることで途方に暮れ、精神的な無力に陥るからである。自己の精神的な認識力によって外界の現象と親しくなり、それと親和関係を結ぶような機会が少なければ少ないほど、最高の抽象美を求めようとする力は一層強くなる。

原始的な思考との因果関係によって引き起こされる抽象衝動が生み出す芸術を、最も純粋で合法則的な芸術だとヴォリンガーは規定するが、それは無機的な芸術となる。感情移入の要求は常に有機的な形態へと向かうが、反対に抽象衝動によるそれは無機的な形態へと進行する。純粋な抽象は自然の原型には依存しない。自然を原型とする芸術的再現を強要するのは、模倣への願望である。抽象衝動とは古代の文化民族の芸術意欲の基礎であり、そこでは外界に存在する個々の表象を他の様々な物との結合関係や依存関係から解き放ち、生成の過程から離脱させてそれを絶対化しようとする努力に他ならない。

これら二つの衝動は、享受や自我と言う観点から見ても互いに相反するものである。感情移入衝動を基礎とする美的経験、美的享受とは客観化された自己享受である。感情移入衝動を美的経験の出発点とすると、そこでは自己破棄の衝動が示されることになるので、自我はその美点や芸術作品が放つ幸福感を減殺するものとして、否定的にとらえられる。一方、抽象衝動を基礎とする美的経験においても自己の放棄が求められるが、それは個人的存在を否定するためにではなく、衝動にとっての必然性を満たすために放棄される。その理由は、抽象衝動では対象が確固とした不動なモノになるので、人間存在一般における偶然的なもの、なかでも有機的存在一般に現れる恣意を放棄しようという衝動が強く働くからであり、したがって生命そのものが美的享受の障害であるとする思考が働くからである。ただし、そこでは芸術作品は自己の生命を自我のみから得ることになるので、自我との緊密な結合が図られる。
http://kenichinakatsu.blog.fc2.com/blog-entry-148.html







「象徴は蟻酸」「意味はにおい」|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne395200a2441


意味がにおいであるとすれば美とは「おいしい」であるから食べた瞬間、味わった瞬間に生じるものでそれは個々人によって異なる。



シンボルとアレゴリーの問題は「シンボルはアレゴリーに先立つ」という価値の前提に対するカウンター的な探求だったようで、だとするとそれはアリストテレス以来の本質論-唯名論的なそれにとどまるのだろう。ヴォリンゲルの感情移入に対する抽象の考察も同様の文脈に属する。

波とアフォリズムとの関係と同じようなもので、千変万化する波の形がアレゴリーに当たって、それはたぶん動態であり生命ということなのだろう。混沌 → 生命 → プラスの方法 / 秩序 → 無機物 → マイナスの方法。

シンボルはそれを抽象化してデフォルメし静態化することで別次元につれていくことで別の生命を宿していくけれど、それは元の動態のそれとは異なる。

形式-演出はアレゴリーであり動態(動物)、内容はシンボルであり静態(植物あるいは鉱物のような生命)。

形相と質料、イデアがどうとかいう話、そこに連なるエロースな話もこの辺だろうけど。あまり言葉で詰めても一般化に向かって却ってズレるようなことだろうから、感覚的に「この辺かな?」としといて言葉に頼らず自分の中の感覚としててけとーしとくのが無難なのかもしれない。

あるいはそのマップとしてはゲーテやシュタイナーなどが参考になるのかもしれない。


















自分にとって世間一般に「ただしいもの」として語られる愛が、あるいは、「愛こそすべて」の消費音楽と恋愛事情のソレが薄っぺらく偽善的なものに感じられるのに対して、最近またぢんわりと変わりだしたこの辺りの感覚、うつくしい - 愛おしいという感覚が滋味と真実に満ちているのは、愛を司る感性が味覚のそれと似たようなものだからなのだろう。あるいは味覚もそういったものの一つといったほうが正しいのだろうけど。


「弱者を保護すべき」というのはたぶんそれぞれの人がバラバラに思っていて、それがたまたま共通した時に奇跡的にうれしいものであって、大上段にそれを「ただしい」「スべキ」とすべきものではない。

「なぜ人を殺してはいけないの?」「人を殺すべきではないの?」も同様でそこに明確で合理的な理由はない。

むしろ、合理的に考えるほどそこに理由はなくなり「社会的にそうだから」としか言えなくなる。


でも、


「弱者を見捨てる」「人を殺す」よりもその逆のほうがおそらく豊かだし、そこから意味が広がっていくから。少なくとも自分はそうなのでそうしているというだけになる。


ちょうど竹林に降る雪を見てうつくしく感じられなくなった / 再び感じられることをうれしく思えた、と同じように。

あるいは、それまで食べたことのないもの、苦手だと思っていたものを食べておいしく思えるようになったときの喜びのように。


たんじゅんにそういう広がりがあるからコロサナイほうがいいし、ミステナイほうがいい。逆にいうとそういう感覚を知らない人たちは味覚音痴とかセンスが鈍感とかその程度なことで貧しい人生というだけなのだろう。そこで味覚に対するソレ、音感に対するそれと同様できない人たちを笑うべきではない。(タダシイを気取ってジャクシャホゴハタダシイ / アパルトヘイトゼッタイハンタイタダシイとかするひとたちはグルメ批評の文言を連呼するグルメマニア気取りと似たような扱いで良いと思う)



そして、そういった機微を感じられることがおそらく愛とエロース(生きる悦び)の徴なのだろう。




それが感情移入的な機構だとすればそれとは別に人はシンボル - 抽象を操り、そこにも美が宿っていく。あるいは美以外のナニかが。


そのことについてはとりあえず保留。また考えていこう。

タグ:美学
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2015年02月17日

性的唯幻論序説メモ



ちゃんと文章にするのもめんどくさいので箇条書き的なメモ。


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


「読みつつ思った」みたいなのはtogetterにもまとめたんだけど。


性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707


こっちのほうはよりレジュメぽく(んじゃ以下はそういうメモ)












胎内回帰願望が生じたとき、女の性欲も男と同じように形成されるがペニスがないこと→逆転して膣にペニスを受け入れる形に変わらなければならないことからある日おとこの性欲を諦めて不承不承、女になることを承認させられる。これがいわゆる「去勢コンプレックス」といわれるものである。


動物は発情してないメスに発情しない。強姦があるのは人間だけである。また、人間は発情を人工的にうながすための性幻想によって始終発情していることになる。

強姦問題において勘違い男(性幻想の病に憑かれた痴漢など)が「あの女が誘った」「スキがあった」などというのはセカンドレイプ的な言いがかりということが往々だが、実際わざとスキを見せて誘う女も居る。なぜそんな周りくどいことをするかというと男性中心の性幻想において女の性が取引される社会、恋愛市場→結婚市場が女の身体という商品を巡った取引市場である社会において「すぐにセックスさせる女」=「安い女」と見られて値が下がるから。

以下は女が「スキ」を見せることのメリット



(1)女から積極的にセックスを求めれば、淫乱女・安っぽい女と見られ、女としての商品価値が下がる

(2)自分から求めたのではなく、男に強いられ「やられてしまった」のであれ、控えめで清らかなつつましい女というイメージを自分に対しても人に対しても維持できる。

(3)とくに女の性欲をいやらしいとする文化のなかで、自分の性欲を自覚しないで済む。

(4)セックスの責任・関係が始まった責任を全面的に男に押し付けることができる。したがって、男との関係を続けるとすれば、そのなかで気楽で無責任でいられる。関係が破綻したとしても、男のせいにしておけばいい。

(5)自分はやりたくなかったのに「やられてしまった」、すなわち、セックスが男の一方的な満足のために行われ、その男のセックスも男だけが満足して自分は嫌なのにがまんさせられているという被害者意識を根拠にして、男に罪悪感を抱かせるとか、男より優位に立てるとか、男に何らかの要求をするとかができる。

(6)「スキ」を見せて男が襲ってくるかどうかを試してみる。襲ってくれば、男に対する自分の性的魅力を確認することができ、自信がもてる。自分に対する男の今後の長続きする関心が期待できる。

(7)女から積極的にセックスを求めて拒否されれば恥をかくことになるが、「スキ」を見せるだけなら、男が引っかかってこなくても、大して恥をかかずに済む。

(8)男と別れたくなったときには、関係が無理や強いられて始まったことを根拠にして容易に別れることができる。男を利用するだけ利用して棄てるつもりのときは、特に好都合である。




このような状況のもとでは男も女も性関係に関してさもしく意地汚くならざるを得なかった。このような男女関係においては少しでもずるいほうが必ず得をし、少しでも誠実な方が必ず損をするのであった。



ちなみに男を釣るための外装を整えるための文脈で使われる「女子力」なる言葉はこのような女の身体を交換財とした市場-戦場を想定しマイルドに表現している。それとはべつに「女になること/あること」「女≠セックスの商品」(cf.准売春としての結婚)であることへの保留、モラトリアム的態度、そういった市場からの自由な態度を示すために「女子」なる言葉を使うこともあるが世間的には両方の意味合いがハイブリッドされてることもある。





自己表現としての売春(特に経済的に困ってなくても、あるいは困窮していてもほかに経済的手段があるとしても自らの愉しみ・満足・自己表現として売春する女がいる。(cf.村上春樹「雨やどり」、東電OL事件(上野千鶴子「発情装置」 →あとくされのないセックスへの欲)、酒井あゆみ「売春論」、「自分の内面を見ないでパーツ(性器)としてあつかってくれるほうが楽」(宮台真司「<性の自己決定>原論」))。自らの魅力の確認(cf.承認欲求)と一瞬にしてあくせく働くより楽な金が入ることに麻薬のような魅力を感じる。


回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -
回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫) -

発情装置―エロスのシナリオ -
発情装置―エロスのシナリオ -

売春論 -
売春論 -







レズビアンフェミニストの主張「女にとって男との性交それ自体がすなわち強姦されることであり屈辱であるから断固として拒否すべきである」(ドウォーキン「インターコース」)


インターコース―性的行為の政治学 -
インターコース―性的行為の政治学 -




野坂昭如「エロ事師たち」はポルノの販売を生業にしている男たちの哀歓を描いて絶妙に面白い作品。


エロ事師たち (新潮文庫) -
エロ事師たち (新潮文庫) -

「よう薬屋でホルモンやら精力剤やら売ってるやろ。いうたらわいの商売はそれと同じや、かわった写真、おもろい本読んで、しなびてちんこうなってもたんを、もう一度ニョキッとさしたるんや、人だすけなんやで。いままで何人がわいに礼を言うたか、わいを待ちかねて涙流さんばかりに頼んだ人がおったか、後生のええ商売やで」


「男どもはな……せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてえへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのが、わいらの義務ちゅうもんや……エロを通じて世の中のためになる、この誇りを忘れたらあかん……目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ」




ヘルス日記
http://goldkintama.hatenablog.com/






一部の男が愛と性を切り離し女との情緒-愛の絡まない性交を求めるのは乳幼児段階の母親との関係、情緒的に絡めとられ性的に刺激され愛され保護されていたそれ、から解放されあらたな性を獲得するためである(ディナースタイン「性幻想と不安」)。もうひとつの理由は、一人の女との関係を長く続けると情に流されてとっつかまってしまうのではないかと恐れるからである。




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2015年02月16日

愛はさだめ、さだめは死?

これも不完全な内容なのでnoteにしとこうかと思ったけどこっちの続きものだしこっちに出しとこう

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html

















タナトスについてまだちゃんと理解してないし、フロイドの時代のそれとはまた違うのだろうけど。まず最初に快感原則があって、それに反する自己破壊衝動というのはどういうことだ?ってことなんだとおもう。

で、

エロスとタナトスが表裏一体というのは、エロスっていうか性交的な欲、リビドーが他者に向かったもの(性欲に向かったもの)というのは他者破壊衝動ぽい。あるいは女性の場合は自己破壊衝動かもだけど。
「フランス語でそれは小さな死という」オルガスムの様子は死を連想させるし、生理的に考えて他者の体に自分の体を入れる、あるいは、他者の体を受け入れるというのはおかしい。性器以外のところで考えればその異常性がわかると思うんだけど、手を他人の身体に入れてるようなものなので。性器の場合は内蔵が外に出たようなものだろうけど。なので、皮を被った内蔵を内蔵に入れてる状態が性交ということになる。

それは理性的に考えれば異常なんだけど人がソレを異常と思わないのは幻想によったり、それ以前に好奇心的なものだったのではないか?後者のソレはビザール的な関心にも近いようにイメージしてるので、性交というのは基本的にビザールであり異常(cf.ベルメール的な関心)。

エロスという言葉は性欲としてイメージされがちだけど性欲-性交に向かう欲としてのエロス、と、意味-好奇心の狩猟としてのエロスがあって、より汎用性がたかいのは後者なのだとおもう。プラトンが想定してたみたいなの。まだ確かめてないけど。

リビドーが外に向かったものが性欲で、内側にこもったものが自己破壊衝動ぽいんだけど。そこでリビドーとして設定されているものは自我とプラトニックなエロスと他者(環境-身体)との関数なのだと思う。

すなわち、人は最初の不能感から自らを守るため、環境という他者に対する鎧として自我を構築しそれを言葉-幻想によってコーティングしていくのだろうけど、性交という事件を介してそのバランスが崩れがちになる。ソレに対するために性幻想を作り上げたけど、今度はその性幻想によって性欲が喚起され、それが正しく発散されてないとみょーなストレスになる。フロイドーライヒなんかによるとそのストレスが戦争を引き起こすということだけど。あるいは戦争の代替としての資本主義的な競争と闘争。

でも、

もともと性交なるものは他者の破壊と自己の破壊-死を予感させるものだから異常なものであって、、、なんか冗長になってきたので飛ばすか。


自己破壊衝動は自我の誤作動なのではないか?

不能-不全-外界-他者に対する鎧として構築されたはずの自我がなんらかの事件にあったとき、その自我とそれに基づいた生活自体が強固になっているためそれを守るために事件-他者を認めようとしない、世界-他者から自らを守ろうとして居るように思える。そこでその事件に自らを合わせるべく再び自我を変革して貼り直せばよいのだろうけど、それがなかなかできないところが強固になってしまった自我の融通の効かないところなのかな?あるいはサンクコスト的なもの。

そして、「死にたい」「壊せ」あるいは自らがそうなっている情況のイメージ、希死念慮的なイメージの反復がそこに暗示をかける。

「壊せ」というのは正常な?自我との関係で言えば外側に向かうものだろうけど、なんらかの理由でそれが外側-他者に向かわずに自らを苛む方向に向かうことで自閉的に「壊せ」が自己の内部で反復、増幅していくのではないか?もちろんそれがいきすぎれば他者を責めすぎる → 戦争ことになって遺憾ではあるけれど。

なので、鬱の人は基本的に真面目で優しい、みたいなことなのかなと思ふ。

あるいは、自我の変革に対する優柔不断もそこにあるのかもだけど。これは当人の環境によってなかなか変革できないものなのかもだからなんとも言い難い。


動物のような状態を想定すれば性交に関するエロスは特に余分な意味付け・幻想(いやらしさ)をもたずにフラットに機能してるだろうし、そこに「死にたい」「生きたい」な思いもないだろう。そう思う以前に単にその瞬間瞬間に「生きてる」。

プラトン的なエロース?を想定した場合でも、エロースは世界との調和・理解を旨とし、破壊・死ではないように思う。

リビドーを中心に語ると性交が中心になりがちだけど、リビドーを「性交という身体を介した他者-世界とのコミュニケーション(意味以前の)をめぐる欲動」と解すると重心は他者-世界との関係ということになる。

平たくいうと「死にたい」のひとは動物のようになればよいし、それができなければ自我を張り替えるか、自我に圧力を与えている情況-環境-他者を変えれば良いのではないか。





死の欲動―臨床人間学ノート -
死の欲動―臨床人間学ノート -


「甘え」の構造 [増補普及版] -
「甘え」の構造 [増補普及版] -


愛はさだめ、さだめは死 (ハヤカワ文庫SF) -
愛はさだめ、さだめは死 (ハヤカワ文庫SF) -

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2015年02月15日

意味―性―愛





昨日エントリしたけどなんかいい忘れた/最初に考えようとしたとことずれたような気がするって残ってたので見直すに

やはりジンメルかあ。。: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414033954.html













<ステロタイプな幻想が相対化され解かれてしまったら男女の性欲はなくなってしまうのだろうか?>


岸田秀によると「ネオテニーとして本能の壊れた動物である人間は性欲も壊れており、それを補填するために性幻想を作り上げそこにドライブされている」ということになる。最初から幻想をインストしてないと性欲が表せられないという立場。母親と一体の全能感への復帰、つまり体内復帰願望を基本としたものが性欲の最初ということになる。動物と同じような性欲の発動を仮定した場合、その段階で人間は幼児段階のため性器もきちんと発達していない。そのため最初の不全感-挫折を味わい、それから実を守るために自我を発達させ、同時にたまった性欲的なものの発散経路として性器を借り、性幻想をもってそれを起動させる。


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


(1)人類の性本能が壊れ、人間の男女は不能になった。

(2)人類の存続のために必要不可欠な膣内射精を遂行するためには、何はともあれ、ペニスが勃起しなければならないので、女のことはさておいて、男の性欲を回復することに重点がおかれた。

(3)そのため、女の性欲はなおざりにされ、もっぱら女は男の性欲を刺激し、男を性的に興奮させる魅力的な性的対象の役割を担うことになった。

(4)女がもっぱら性的対象になった補助的な原因として、極端に無知無能な未熟児に生まれ、長い間、母親の世話にならなければならないという人類特有の条件がある。そのため、母親の身体、つまり女の身体(女体)が安心と満足と快楽の源泉となった。

(5)同じく無知無能な未熟児に生まれるという人類特有の条件のため、人間の幼児はまず初め自閉的世界に住むことになり、この時期に性欲は、対象のない自閉的欲望として成立する。したがって、人間にとって性的対象は、初めは存在せず、そののち、自分の欲望を満足させる手段・道具として出現する。


「ネオテニーで性欲が壊れた動物である人間はその補助として自ら人工の性欲-幻想を作り上げそれによって性欲を性器に喚起するようにしているが、もともと乳幼児段階の全能感の軟着陸がうまくいかず自閉的世界に住んでいる人類にとってセックスは相手の体をつかった自慰の域を出ない」、ということ。

「ペニスを勃起させなければならないので、というところで男だけの話におもわれがちだけど体内復帰願望は男女ともに共通する」とエクスキューズする。ただし女体は異性としての男の性欲-性幻想にとっては有利に働く、が、女はそのあたりでこじらせがある、とする。

乳幼児段階で性欲が目覚めても男は不能であるため心の奥底に女への恐怖が刻印される。後にヘテロ男性の性幻想において女の支配が中心的なテーマとなっていくのはこのためである。性欲を禁忌とすることで男を馬車馬的に働かそうとするヘテロ男性の性幻想を基にした資本主義社会ではこのようなセクシャリティが有利になる。

対して女の場合、乳幼児段階でも同姓である母親は女の赤ん坊を男に対するほどに支配しようとしない。このため、乳幼児段階のトラウマとしての男性恐怖や不能 → 反動としての支配欲はおこらない。

いわゆる性倒錯がもっぱら男に多いこともこの構造に起因する。







自分的にはやはりこの辺りについて女性の性欲についての説明が弱い、というか、なんか矛盾があるように思う。女性ていうか、従来のステロタイプ的なヘテロ男性の性幻想以外の性欲について。

前回エントリでもいったように、岸田によるとそれは基本的にサディズム、加虐性、攻撃性という形をとった防衛機制とか反動形成のようなんだけど、そういうゴワゴワしたもの以外の性欲ってあると思う。性欲っていうか、性欲以前の兆し。それが結果的に性欲にもつながってるかなあ、てもの。

たとえば人と抱き合いたいとか、握手したいとかそういうの。そこでインターコースしなくても特に良いわけだし、添い寝だけで落ち着くってひともいるようだし。

ただ、インターコースを伴わない性的な願望こそが本質、とするのもなんか違う感じがするけど。食欲-食の嗜好同様そこはひとそれぞれだろうし、ステロタイプ的な性的幻想を化学調味料に喩えれば、味の素しっかりかかったジャンクなものとか好きな人もいるだろうし、そういう気分なときもある。





人の性欲とはなんなのだろうか?「性欲」として観念化される以前の性欲的なものの兆しはどのような欲に沿っているのだろうか?


ひとつは岸田がいうように胎内回帰願望なのかもしれない。胎内に還ること、もとに戻ることが主軸というか、、母と一体だった時の全能感を取り戻すこと。

なので「全能感の不全により自閉気味になっているため、けっきょくは性交しても自慰的な満足を出ない」というのであれば全能感の部分をhackすれば良いのだろう。平たく言えば自我-自信を確立すること、あるいは性交に伴って愛の幻想に包まれること。


では愛とはなにか?


自分的には意味を探すこと、世界(対象)に対して純粋な関心をもつことのように思う。対象と自分を同期(感情移入)させて理解すること


性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707


より具体的には相手の立場に立ったやさしさを伴って、慈愛のまなざしで相手(対象)を理解していくこと。

その上でなんだったら相手からも同様のものを受け取ること。


togetterにまとめた感想では「意味≠愛≠知的好奇心?」としたけれど、意味-シンボル(象徴)づけは知的好奇心(愛)の足あとのようなものだとおもう。記号-象徴をうまく用いるヘンタイ生物としての人間は象徴によって自らが関心をもったものを物象化し現世に表す。

そして、一定の象徴←価値をみょーにもちあげてワッショイワッショイと祭る。たとえばなにか事件が起きた時に社会的に流通してるステロタイプな価値観(ポリティカル・コレクトネス)をもって正義のようなものを叫ぶ。これは動物がフェロモンをたどり、ここに餌があるよー、と叫んでる様子に似てる。たぶん構造的には一緒なのだろう。餌が足りてる社会ではその祭りの様式だけ残って辿られてるところもあるようだけど。

彼らの正義の祭りは蟻などの社会性動物が餌をみつけて騒ぐ様子に似ている。あるいは侵入者に対して騒ぐ様子。特に領海を侵されてないのに騒ぐ、自らの正義という趣味のために騒ぐのであれば性欲や食欲などの本能的な兆しがその素となっているのかもしれない。


岸田によると近代以前は愛と性は分離してなくて、たとえば日本社会なんかだとなんとなく関心をもつ、なんとなく好く → なんだったら性交ということもあったぽい。性交がほかのコミュニケーションと同じようなフラットなものだったから。

それが崩れていったのは中世のキリスト教的文化圏の影響とそれへの反動ということになる。

もともと神を愛する文化圏である西欧において人への愛を説くものは商売敵となった。なのでキリスト教内でも神以前の愛を説く宗派は異端とされ迫害されていった。


カタリ派 はプラトニックラブ的なものを説き、性交を伴わない愛を至上のものとした。




オクシタニア -
オクシタニア -


プラトニックラブを宗教的情操に替えるそれは愛のむきだしの場面にも似てる。


そして、むきだしの羊は閑かに暮らす夢を見る: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/408674184.html



13世紀の人口爆発→文化的な繁栄以降、神が段々と死んでいき、それにともなって人々は文化的な刺激、趣味の発露を求めるようになった。

ロマンティック・ラブはこういった背景から生まれ受容されていった。

十字軍に向かった騎士たちの妻を寝とる趣向がその原型かなと思うに、そこで男の所有物としての妻たちには貞操帯が付けられ、その禁忌のハードルをもってさらに禁断の「愛」、ロマンティック・ラブが燃え上がっていった。



こうして「恋愛」なるものが前景化することで「性」が相対的に異質なものとされ、「性」と「愛」が分離され、一部では愛だけが交換・流通されるようになった。もちろんそれは庶民とは遠いところで庶民は「性-愛」一体だったかとおもうけど。

この過程は中世→近代における自/他の分離、および自我の形成過程と同期するように思う。

近代化の個人の実存における特徴の一つは「自我が芽生えた」「内省過程ができた」ということにあるけれど、「愛」あるいは「恋愛」の個人化-対幻想化もこの過程と関わるのだろう。



そして、そのようにして性から分離した愛が吟遊詩人の唄に載せて様式化していき、それらが近代化に伴う合理主義へのバックラッシュとしてのロマン主義的傾向で回顧され、恋愛市場の商品として形式化し流通されるようになった。この辺りはゾンバルトも絡むだろう。


そして、ここでも形式と内容が関係してくる。


スーザン・ソンタグ、1968、「反解釈」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/413601598.html



形式のドライブとはマルクス主義的な観点からすれば物象化→疎外的な課題といえる。

ただ、マルクス主義的観点だとどうしても「形式≠資本主義的商品」→「形式<内容」となりがちなので、そこはもっとフラットにジンメルしていくべきなのだろう。あるいはソンタグでもいいけど。


上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html


社会化の形式あるいは心的相互作用とは、人間が目的や意図をもって他者と関わる行為のあり方のことであり、具体的には、愛情による親密な関係、憎悪に基づく敵対関係、社会的地位によって結ばれる上下関係などが挙げられる。これに対して、政治、法律、経済、宗教、芸術などは「内容」から分類された学問分野だとして、「形式」の観点からそれらに横断線を引く学問として社会学を位置づけた。

ジンメルの後期の著作を読み解くと、生の哲学と形式社会学とが緊密なつながりを有していることがわかる。生の哲学者でもあったジンメルにとって、人間存在の唯一究極的な原理である「生」の本質は、一方で生が現前する自分自身を絶えず超えていくという「自己超越性」とともに、他方でその生が自分に対立する「形式」を通してでなければ己を表現することができないという「自己疎外性」に求められる。

そして、創造的な生は、社会制度や芸術作品、科学的認識といった形式を作り出し、一方で生それ自体はその形式を乗り越えていくものの、形式はその母たる生とは自律的な動きをもつ。そして、ここにジンメルの言うところの「文化の悲劇」が生まれる。すなわち、形式が客観的独立性をもち、それが生を囲い込み枠づける生活形式となる。この傾向が頂点に達するのが、貨幣経済の完全な浸透がみられる近代社会である(『貨幣の哲学』)。近代人はもはや客観的な生活形式を内的に消化することができなくなり、生の手段が生の目的となる。そこに、生と形式をめぐる完全な「軸の転回」が出現するとジンメルは診断する(『現代文化の葛藤』)。

当初ジンメルは、特殊科学としての社会学の確立を目的として形式社会学を提唱したが、晩年に著した『社会学の根本問題』(1917)において、一般社会学、特殊社会学(形式社会学)、哲学的社会学という3つ分野から成る、より大きな社会学の体系を構想するようになったのである。しかし、その中心となる分野はあくまで形式社会学であり、彼が残した研究実績は形式社会学の方法論に基づいたものである。





形式のドライブ
愛-意味のドライブ

愛-幻想-意味 は他者を介さなくてもドライブできる。それは自慰と変わらない。


そのため愛の幻想に憑かれていてもそれは相互の思い込みが交換されているだけであって、本質的には両者の愛-性のマンゾクは合致しない。そして両者のオルガスムは基本的に同期しない。ズレて訪れる。「一緒にイク」ことに意味を見出しマンゾクする人たちもいるけれど、基本的に男女の構造が違う/個人によって性幻想や物理的刺激によってオルガスムに達する過程/はやさは違うわけだからあまり意味がない自己満足的なものに思える。

岸田的にはそこで「−y( ´Д`)。oO○男女のソレは生理的な構造としてズレてるわけだからもうズレてるものとして互いが互いを満足させるように気遣えばよいのでわ?時間差で互いの満足があればいいだけだし。あるいは、性器が勃起するかしないかとか濡れるか濡れないかとかもあまり気にしないで良いと思う」というところでとりあえずのまとめとなる。

(少しバイアグラについて触れていて「バイアグラみたいなのがあると男性が女性蔑視な幻想をつかわなくても物理的に勃起するわけだから女性的にも男性的にも楽になるよね」みたいなこといってたけどバイアグラのなかのひとから「いや、薬摂取しても刺激がないと勃ちません」「(´・ω・`)」てなってた)



自分的には前述してきたように「他人への関心」が「愛」-「意味」となってあらたな性的な欲や様式につながっていくのかなとか思う。あるいは自分のなかにあるそういったものがとりあえずそれらの言葉-概念で保留できたかと。そこで単に他人への好奇心的な興味で終わらないところに肉体を介した人の性行動の冗長性が絡むのかもしれない。体内の海が人を喚ぶ

抱きあうだけ、握手するだけ、なんとなくコミュニケーションするだけ、みたいなのもそんな感じだろう。

それと別に猟奇的あるいは攻撃的関心とされる意味-関心の積極的な意味付けを進めていきたい。(結果的にそれがネガティブな構造だと解明したらそれでいいけど。そこで修正していくし)










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「痴漢の心理」から  人の性幻想とヘテロセクシャルの形成について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/411213903.html


おんなになる-性の自立- | アパートメント
http://bit.ly/1BexqQl
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2015年02月14日

やはりジンメルかあ。。

他人様のエントリも含むし軽く済ませるつもりだったのでnote程度にしとこうかと思ったけど、あとで検索するときに楽だし、思ったより長くなったのでブログにエントリしとこう。


所用で渋谷経由して、おみやげ的にやまやにウイスキー見に行ったら棚にタラモア・デューがあって、そういえばと思い出したので

もし僕らのことばがウィスキーであったなら: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/413977664.html

そのパブで老人は黙ってウイスキーを注文して、チェイサーもなしに飲みつつなにごとかを考えていた。それは抽象的、哲学的ななにかというよりはもっとプラクティカルで現実的な問題を考えているように見えた。

老人が考えていたことはなんなのかはわからないしはっきりさせる気もないのだろうけど、その光景がパブとタラモア・デューの香り、味となって刻まれたのだろう。

村上春樹がここでとりあえずおすすめしていたのは

食前に向くのはきりっとしたジェイムソン、タラモア・デュー、ブッシュミルズ

食後に向くのはまったりとしたパディー、パワーズ、ブッシュミルズモルト


メモっておいてそのうちやまやで見てみよう。渋谷にはかつて山城屋?があってけっこうたのしかったのだけどあそこもなくなってしまって、でもやまやがおもったより使えるので。そこで慣れて物足りなくなったら八重洲の長谷川酒店にいけばいい。あるいははせがわ酒店を「ただしく」楽しむための練習というか。

タラモアデューの老人がウイスキーを舐めながらなにかを考えていたように、自分もフェイマスグラウスを舐めながらぼんやりと考える。

あるいは考えていたことの断片を合わせて言語化していく。



引き続き岸田秀の「性的唯幻論序説」を読みつつ


性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -
性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない (文春文庫) -


ここで出てきたマゾヒズムについての考察と「いやらしさは客体としての女性に宿る」な辺りで去年の課題としハヤニエしていたところを思い出す。

性欲以前の性欲的なもの、と、人の「知的」好奇心 - リビドーについて - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/780707

上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html

性的満足におけるココロとカラダについてのぼんやりとした話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/392098324.html

以前のエントリでは「セックスにおいて自分のなかにある不全感-マンゾクは女性のそれに劣るのだろうか(´・ω・`)女性一般でもなく客体としての<女性>であり女性のほうがそれをインストしやすいのだとしたらそういうのをインストした女性に」とすこしコンプレックスが残っていた。岸田を読んでそれが少しスッキリしたように思えたのはその元となってる構造と思われるものについてフロイドー岸田なりに説明してくれたからだろう。仮説であり一つの見方ということではあるが(岸田自身は自信満々だし強力な見方ではあるとおもうけど)。

すなわち、

「本能の壊れた動物である人間の性欲は幻想によってドライブされる」「近代、資本主義社会はそのような幻想を資源として成り立ってきた(フロイド、ヴェーバーの見ていたところはこの辺りとなる」

「ゲマインシャフトでは性的におおらかなところがだいたいだが、ゲゼルシャフトになって性欲が禁忌されるのは禁忌とすることによってたまった不満を労働、あるいは、戦争に対する資源とするためである。すなわち性衝動の抑圧からの反動」

「近代→現代消費産業によってそのような幻想は商品化されさらに拍車をかけられる」

「現代男性の偏った性欲、たとえば強姦への志向、あるいは、婚姻関係であってもパートナーが嫌がっていても性交を求めるようなそれ(嫌がってることや屈辱をあたえることをむしろよろこぶそれ)はこのような背景からの抑圧→サディズム(デストルドー)といえる」

「乳幼児段階の母親との一体の全能感から現世に堕ちることで味わった不全感、器官と性欲の発達の不一致からの不全感に対抗するために人は自我を構築していく。その際、不全を自己のものとして引き受けるか、自他のものとして引き受けるかで違いが出る。後者は破壊衝動-加虐性(デストルドー)と結びつく」

「デストルドーを志向した人々はサディスト的な性向、反対に不全を自らで抱えることを志向した人々はマゾヒスト的な性向を持つ」

「マゾヒズムとは屈辱的状態に囚われた時、屈辱を受動的に受け入れ耐え忍ぶ、のではなく、屈辱から離れた所に自我を置き、自我から屈辱を捉え返し操作する企てである。この屈辱により屈辱を克服することはできないけれど、屈辱から距離をおき、屈辱を免れたような気になることはできる」

「女性は嫌がっていても男性の性欲を受け入れるのが当然という資本主義的価値観において一般的な性幻想-様式を踏襲した場合、男性はサディスト的傾向、女性はマゾヒスト的傾向となる」

「性欲を促進させる刺激として恥ずかしさ・罪深さがある。すなわち禁忌を設定することでそれを乗り越えるインモラルをして自我を強化することに興奮する。キリスト教的価値観を元とする西欧は概して罪の文化圏、日本は恥の文化圏となる」

「罪の文化圏では神との関係において罪が設定されるため目の前の他者との関係よりも『神に対して罪かどうか?』ということが重視される。そのため人前でキスをしても平気ということになる。恥の文化圏では世間体が重視されるため『周りに対して恥ずかしく無いか?』ということが重視される。明治以前、縁側で行水をしたり男女混浴であってもわりと平気だったのはこの辺りの価値観に基づく」


だいたいこんなところが直近の課題に対応する「性的唯幻論」から抜き出した前提になる。

この前提からすると「女性のオーガズムに劣るのでは?(´・ω・`)」的なものは「そういったマンゾクを感じる場合、彼/彼女らがソフトとしている幻想に満足しているだけであって自分はそれらを相対化してしまっているからそれに熱狂できる彼らをして(´・ω・`)してしまうぐらいなのだろう」ということになるだろう。そしてマゾヒズム的なものへの考察も含めて(たぶん某女史の場合は罪と贖罪(罰であり赦し)という幻想にtuneしてたんだとおもう。

自分の場合はたぶんゲマインシャフト的な感覚、あるいは、動物的な感覚に近いのでそういうのはなんとも、、って感じになる。幻想にtuneしてるひとたちからすると恥とか感じてないようだからつまんなく思えるようだけど(cf.相手が興奮してる様子を見て興奮する)。いちおゆっとくとこのときの「動物」というのはキリスト教的性規範からの「ケモノのような」という偏見に属するものではなく、本能の壊れた動物としての人間以前の気高いケモノとしてのソレに当たる。なので一部のジェンダーフリー気取ってる人々が「セクシストめ」だの言ってるのみるとアホかと思える(あの人たちのほうがよほどキリスト教的価値観に染まった差別主義者でありオリエンタリストなので)。

加えていうと「気高いケモノ」にちょっと現代的な性幻想が加味されたぐらいか。料理にちょっと化学調味料を入れるとおいしいぐらいに。


このあたりの課題の出口はけっきょくは生の哲学でありジンメルあたりから見てみようと思っていたようで、別件でこのへんをみてぼんやりと思っていたことともなんとなくリンクした。


第三の新人が日本の実存主義だった: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/09/post-ab27.html

曽野綾子さんのはなしがかしましいけど、もともと第三の新人が実存主義的なものだったらそんなに問題でもないのだろう。彼女の感じてる日常的な価値観をそのままいってるだけで、それに比べたら虚飾にまみれた世間的価値をオラショするほうがよほど下品だし暴力的なので。まあたしかに、一部問題はあるのでそこは修正してけばいいと思うけど。ふつーに会って対話でもしてれば「あ、そこはいいすぎましたね。でもね、、」て済むような揚げ足取り的な箇所だと思う。

まあ、そういう「世間、馬鹿だなー」というのは良いとして、、

実存主義⇔生の哲学であるから当然このへんはマッチするとして、「神なき時代の幻想の一つ、人工の神として人々は恋愛をもとめ恋愛至上主義的に称揚していった。そこでの恋愛をめぐる価値観・様式は消費産業的にデフォルメされ収奪されている」というあたりに性愛も絡んでくるのだろう。性と愛が分離され文字通りフェティッシュに増殖され、前景化されたそれによって人々の性-愛の生活的実感は疎外されていく。まさにジンメルの対象領域かなとかおもう(あるいはルカーチ)。

小説・文学・詩・歌詞・歌なんかでもそういうのはわかりやすく展開されていて、いわゆるベストセラー的な価値観はそういったものなのだろう。

自分的な課題としては遠藤周作や小島信夫をいちお読んでいこうかなあ、ぐらい。あとは曽根綾子が以前のエントリで触れた女の一生的なエッセイとか価値観に関わるならその辺も。

あとはやはりジンメルだな。









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近代的理性の立ち上がりと国家幻想、そこから疎外されていったものたち、のはなし: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/381011164.html




ファシズムの大衆心理 (上) -
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ファシズムの大衆心理 下 -
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タグ:実存
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2015年02月13日

もし僕らのことばがウィスキーであったなら


このブログを読んでちょっとだけ良いウイスキー、1000円台でちょっとQOL上げるぐらいのそれを整えてもよいかなあ身近でと思ったのでメモって探しに行ってみた。


行きつけのバーにあるウイスキーを全種飲んだ僕が初心者にオススメのスコッチを20本選んでみた。 - 道しかひかない堀江くらはのブログ
http://kuraharu.hatenablog.com/entry/2015/01/29/221827


目当てはグランツとベル




グランツ

常飲その2。これも1000円以下で置いてあることがあるのにおいしいウイスキー。複雑で濃厚なのに飲みやすい。樽っぽい苦みもする。この価格帯のウイスキーで一番人気かも?



ベル

この価格帯にしてはスモーキーなウイスキー。多分だけど後述するアイラモルトをおおくつかっているんじゃないかな?味は結構甘みが強い。





フェイマスグラウスはすでにして常飲していたのでほかのもの。できればもうちょっとアイラ的というか、スモーキーなわかりやすさがあるものが欲しかったのでベルを探しに行ったが近くにはなかった。ちなみにグランツはドンキで1000円ぐらいで売ってる。同じ価格帯のものに比べ雑味がない。ベルはやまやとかにあるんじゃないだろうか。寄ってみてあったらゲットしてこようかと思ってる。

ちなみにフェイマスグラウスは1700円ぐらいで特に雑味なく、スコッチなおいしさが味わえるものなかんじで「ハイボールにちょうどいいですよ」と勧められてたしかにおいしい。ハイボールじゃなくてもショットグラスでそのまま飲むのに耐えられる。ネットでも送料込みで1700円ぐらいで買えると思う。

そのうちアードベッグぐらいは置いといてもいいかと思ってる。あとハイランドパークとなんだったらラフロイグの味見直し。ボウモアとマッカラン。シーバス。特に村上春樹読みとしてはシーバスをもっかい飲んどくのもいいかと思ってる。



もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) -
もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) -




このエッセイは読んでなかったし軽い物のような印象だったのでこの機会に読んでみた。

村上さんも最初のほうで言ってるように、内容は特になくアイラ島とアイルランドへの旅行写真にちょっと文章を加えただけ程度のもの。メインに2週間程度のワタクシ的な旅行があって、その記念な写真に企画がついてきたのかな?ぐらい。

なので特に語るものでもなく黙ってその素敵写真を眺め、土地の空気感を想うのが「ただしい」読みなのだろう。ちょうどこのエッセイの序文にあるように。



もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。

しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、すべてのものごとを、何か別の素面のものに置き換えて語り、その限定生の中で生きていくしかない。

でも

例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。


そして僕らは

――少なくとも僕はということだけれど――

いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。


もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。






僕らのことばがウイスキーではないことを残念に思いつつもうすこし言葉を重ねよう。


このエッセイの中で気になったところをちょこちょこと。



あらためて、なんだけどアイラ島の蒸溜所が7つしかなくて、その代表的なものがだいたいの酒店に置かれていることに驚く。というか、蒸溜所の地名がそのまま酒の名前になってることから各蒸溜所名が島に付されてるのを見てお宝島のような感慨を抱く。7つとはすなわち


アードベッグ
ラガブーリン
ラフロイグ
カリラ
ボウモア
ブルイックラディ―
ブナハーブン


ちょっとした蒸留酒を扱う酒店ならアードベッグ、ラフロイグ、ボウモアぐらいは置いてるしなんだったらラガブーリンにも会える。ほかはよほど専門店かウイスキーを主体としたショットバー的なところだったらあるか。


真ん中に行くほど癖がなく最初のほうがピート、土臭く、荒々しい。

基本的なことだけどアイラウイスキーはシングルモルトに属する。つまり麦だけ使って混ぜ物せずに蒸留した酒ということ。これを理解するにはむしろブレンデッドを理解したほうが早いだろう。

日本酒だともう「酒を混ぜずに完成させる」というのがふつーになってしまってるのでとくに意識しないけど、ブレンデッドというのはできあがったウイスキーを混ぜていい感じにしたものということ。「日本酒でもかつては日本酒同志を混ぜあわせていい感じのものをつくっていた」「それが酒屋の役割というところもあったし腕の見せどころだった」「現在でも弱小酒蔵の酒を大手が買い取って大手ブランドでみたいなことはある」みたいなのは「もやしもん」読んでればでてるのでそちらを参考されたい。


つまり、シングルモルトというのは純米酒みたいなもので、アイラというのはまあ言ってみれば吟醸みたいなもの。感覚とか印象としては。


そして、このエッセイでは島全体が酒蔵みたいな夢の島をぼーっとめぐる。

緑と羊と海と石壁。

のんびりとした時間と生活の一部としてのパブ。


某うどん県のように島民のほとんどがウイスキーを飲まない日はないという。すくなくとも村上さんが会った人々は。



蒸溜所も近代化によって個性が異なってきておりそれが味に反映されているところもあるぽい。

アードベッグは昔ながらの人力-職人仕事を旨とし、ラフロイグは近代的な工場管理-合理化をしている。ラフロイグでできた90%のウイスキーはブレンド用に出荷される。

それでも酒の芯にある「アイラぽさ」は変わらない。


ピートの奥にあるかすかな磯臭さ。


海に囲まれたアイラ島の風土をそのまま閉じ込めた生命の水がアイラウイスキーとなる。




「あれこれ言う前に、飲んでくれ。私たちがやろうとしていることは、飲めばわかるから。」

「どっちがいいとは言えない。どちらもうまい。それぞれにテイストの性格が palpable だ(はっきり触知できる)」

「そうなんだ。頭であれこれと考えちゃいけない。能書きもいらない。値段も関係ない。多くの人は年数の多いほどシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァポレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くものもある。それはただ個性の違いに過ぎない」





天使の分け前 [DVD] -
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「みんなはアイラ・ウイスキーのとくべつな味について、あれこれと細かい分析をする。大麦の質がどうこう、水の味がどうこう、ピートの匂いがどうこう……。たしかにこの島では上質の大麦がとれる。水も素晴らしい。ピートも潤沢で、よく匂う。それは確かだ。でもそれだけじゃ、ここのウイスキーの味は説明できないよね。その魅力は解明できない。

一番大事なのはね、ムラカミさん、

いちばん最後にくるのは、人間なんだ。

ここに住んで、ここに暮らしている俺たちが、このウイスキーの味を造っているんだよ。人々のパーソナリティーと暮らしぶりがこの味を造り上げている。それがいちばん大事なことなんだ。

だからどうか、日本に帰ってそう書いてくれ。俺たちはこの小さな島でとてもいいウイスキーを造っているって」










最後に村上さんのエッセイとお手頃ウイスキーを紹介してくれた前述エントリに感謝したい。
















そういうことを、秋葉原の孤独なおでん缶を見るたびに、思うといい - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/781399




うつくしい日々: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/409837761.html





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2015年02月06日

スーザン・ソンタグ、1968、「反解釈」


反解釈 (1971年) (AL選書) -
反解釈 (1971年) (AL選書) -


この本については読みつつnoteでちょこちょこ日記にしていて、そこでだいたい語ってる感もあるのでこっちには簡単にまとめとこうかと思う。


主題は「形式と内容」ということ


形式と内容  アレゴリーとシンボル|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd8d204d99859


簡単にいえば「作品を先行する偏見で踏み潰し消費するのではなく、その作品自体の構成要素をまずは中立に見つめ、語れ」ということ。

形式と内容という二項対立をしたとき、内容のほうで意識されるのはいわゆる本質論的なもの。「表立って語っていないけれどこの作品にはほんとうはこういう意味がある」といういわゆる深読みとかされるもの。そこで、そのテクストの構成要素を見つめ、味わい、評価した上でそういった付帯情報をつけるなら是いだろうけど、最初からテクストの構成要素度外視で自分の読みを先行し、テクストを蹂躙・消費するやり方をソンタグは嫌う。具体的には当時、だんだんと出来上がってきていたCultural Studiesの萌芽、フロイド的な作品解釈やマルクス主義的な作品解釈。つまり「この作品には男根的志向がー」とか「消費産業の意向に乗っ取られた作品でーテーマにもそれがかいま見えるー」みたいなの。日本にメディアリテラシーが移入された初期にもこういった下品な解釈はあったけどああいうの。あるいはネットだと超映画批評とかわかりやすい。

そういった「ほんとのテーマが―」以前に、作品というのは単にそのモティーフを作家が描いて表現したかったから成立するものもある。「作品全体のある場面、画がまず浮かびそこを描きたかったのでとりあえず描いて特に作品テーマ・ストーリー全体には影響しなかったけど満足」、みたいなのとか、「とりあえずで描いたモティーフが思ったよりも作品全体のテーマになっていった」みたいなのもある。

noteの日記的にはデタイユあたりでうんたらされてるそれがこれにあたる(cf.美は細部に宿る、細部から全体はなる、こともあれば、全体が細部にフラクタルされてる、こともある)。



「作品構成の様式・演出・形式的な部分をもっと味わえ」とソンタグは言う。「その部分は確固たる意味-テーマとして形を成してはいないかもで、テーマ-理知にくらべて感性的なもので、、感性ということだと放恣な印象批評に流れがちなところがあるかもだけど、そこで感受性に身を任せることを言い訳にするのではなく、感受性-様式の規律-ポリシーのようなものを守り救いだしていこう」


それが本書、あるいはその後、のソンタグの基本的な姿勢となる。


「わたしが書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない。あるひとつの美学、すなわちわたし自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究にほかならなかったのだ」



それはアリストテレス以来つづいてきた形式<内容を与件とした本質論から彼女たちが寄り添い、たましいの置所とする作品たちを守る防衛戦への準備でありそのための宣言となる。



本エッセイに収録されていた「キャンプについてのノート」は当時のアメリカにおける彼女たちのような趣味人・自由人を表したものであり、彼らのあり方を宣言したもののように思える。


「キャンプの人々」とは、大衆的なベタな作品・通念・観念・価値観から距離をもった趣味人を想わせる。ちょうどベンヤミンがそれに当たるだろうし、あるいはヴェイユ、ヴァレリーほか象徴主義を継いだ「あのへん」、ブレヒトも含めた「あのへん」といえる。


メランコリックな島の住人であるわれわれが彼岸から此岸を眺めるとき、社会生活的には大衆的価値観と視線・ルールをインスールし実践せざるを得ない、けれど、孤独で自由なあの島に還りたくなったとき、島の記憶を伴った作品たちが呼び水となってくれる。


ソンタグによるとそういった趣味人の傾向はヴィクトリアンあるいはポストヴィクトリアンあたりから見え始めたようだけど、これは精確なところは分からない。でも、なんとなく「アノヘンだな」というのはわかる。現代の日本だとゴスロリとかヴィクトリアンとしてファッションにはされてるけど。あるいはSM的なビザールファッションの一部と志向(当然、フーコーやサルトル、バタイユなどを含む)。

あるいは日本の場合それはワビサビとしてなんとなく捉えられているミニマルなところとか、琳派や若冲といった錦蘭なそれもこのへんに当たる。後者はドラァグの先駆けでありゲイやボヘミアンに通じるところなので。


ミニマルな芸術は説明が少ないので一般には理解されにくい。対してドラァグなもの、あるいはその元としての情報が過多なものというのはわからないなりになんとなく受け止められやすい。自分的には前者をマイナスの方法、後者をプラスの方法とよんでいる。


プラスの方法と超越系|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd77a52755006



ミニマル-マイナスのものはプラスを前提にしてそれを収斂させたものなので、当然のようにプラス的なものを含む。シンボリックに表されてないだけどその背後に膨大な情報・混沌を蓄積する。前提とされてるものを表す指標が少なすぎてわかりにくいという意味でそれらの作品たちはハイコンテクストといえる。





以上が概略として、本エッセイ集の意義はそのような姿勢があるとしてそれを批評として表す場合どのような形が適切か?ということだったろう。その具体例として「神の代理人」について、「マラー/サド/アルトー」、「演劇の死」、「女と男のいる舗道」については自分的に参考になった。

あとがきの訳者解説にもあったけれど、ソンタグは文学や哲学といった文字のテクストの批評よりも映画や演劇の批評のほうがより説得力や面白みがあるように思う。それは映画や演劇が文字テクストに比べて感性の解放と偶有性に重きを置き、彼女が感性をドライブさせた批評を旨とするからだろう。それはソンタグが「ヴェイユでは真面目すぎる」といった態度にも表れているように思う。

とりあえず自分がそのうち演劇を見て論じる時の批評実践として、いずれまたこの本を手元において参考にしたい。


映画については自分的な近場だとゴダール / ロイ・アンダーソン / タルコフスキー / トリアー辺りでこのへんが実践できるかと思う。

蛇足で言えば、ゴダール以降、通常の恋愛劇は成り立たなくなったのだろう。それが当時のふつーの恋愛劇の頂点のひとつといえる「シェルブールの雨傘」と「女と男のいる舗道」が同時期だったこと、それらを受けたロイ・アンダーソンが「純愛日記(スウェーデッシュラブストーリー)」で展開の読める冗長な部分をバッサリとカットしたところからも伺える。そして時代は「恋する惑星」を迎え、それすらも生ぬるくなって「散歩する惑星」に続く。「ヒロシマ・モナムール」なんかもこの文脈に属していたように思うけど、あれも元来こういったハイコンテクストなものなのでアレだけ見せられてもわけがわからないしつまらない(実際そんな感じだった)。タルコフスキーのそれも「女と男のいる舗道」を受けたものに思える。すなわち殉教者/巡礼の道、であり、その心象を描いたもの。なのでトリアーの「アンチクライスト」のクレジットに「タルコフスキーに捧ぐ」と出たのだろう。


われわれが基本的に物語・幻想を日常に生き、それを通してしか現実を見られない(ドラマトゥルギーを生きる)、のにもかかわらずそのドラマからどこか覚めた位置にあり、それにもかかわらず没入せざるを得ないというアイロニーについてはこのへんに記した。


存在の耐えられない軽さのなかで存在する|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n91a7acb49095


そして、そこで日常生活の関係性・政治性が発生し、人というテクストを本質先行で読み解く誤読を通じた失礼とプライドの掛け金をめぐった紛争が生じていく。



noteを見なおしてみると今回の人質をめぐるうんたらというのは3週間ほどにわたったのだな。


その間に自分ももろもろ考えとどめておいたけど


シリア虜囚と善きサマリア人|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n43148c9d9629


戦時の危機感と根をもつこと|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ne3ca6842462f


彼ノ花|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n26c03566f403


種をまく / 木を植える|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/ndaf814decfab


地に根付き、枝葉つけろ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nd6d2afcb299e



彼らは当事者やテクスト無視の印象批評のようなものなのだろうからいくら事実を元にした理を説いても届かないのだろう。つまりナルシスティックに自らの感情に酔い、それを外部になすりつけて消費してるだけなので。その意味では内容-本質論先行の下品な読みともいえる。




そういったものと距離を取りつつ、自分的にはこの方面でもっと読み進めたり実践したりしていこう。




アレゴリーの織物 (講談社文芸文庫) -
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根をもつこと(上) (岩波文庫) -
根をもつこと(上) (岩波文庫) -

根をもつこと(下) (岩波文庫) -
根をもつこと(下) (岩波文庫) -


ソンタグの日記/エッセイを読み進めるのも良い。








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ダンサー・イン・ザ・ダーク|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/nb9d8ffcd3ce7

タグ:形式と内容
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