2011年10月15日

意味と社会のあいだ  〜 理解社会学ら辺

ここしばらくの興味関心がなんか統合された感じなのでメモ的に



直近だとこの辺でうなうな言ってて


ゲゼルシャフトと母性  (あるいは日本的市民社会と母性の話) - Togetter
http://togetter.com/li/195808


「実存は本質に先立つ」 されど、秘蹟の価値は…? - Togetter
http://togetter.com/li/199311


独我論と言語と自意識と存在への予感(ネコ) - Togetter
http://togetter.com/li/199794



基本命題としては、「自他の境界がないとき、他も自もないのだから自己犠牲的利他行動をとってしまうのではないか?(そこからすると自己保全的利他意識というのは偽善であり欺瞞では?)」、ということだったんだけどすっ飛ばし過ぎなのでちょっと噛み砕いとこう。


まず最初に「ポストモダン的な野放図なエゴの氾濫というのは子供のワガママではないか?彼らは近代はすでに終わったというけど未だ近代は完成していない」ということからゲゼルシャフト的な価値と知識体系、およびそれのテクネーとしての反映を受けて生活が向上することを期待するということが基本線となる。科学+技術の発展と生活の関係、あるいは法制度やその収斂として?の国家の発展と生活の関係。

それに対して「システムと生活世界」的な視点から「政治経済システムの合理性によって生活世界の価値観および個人の実存-価値観が侵食されて行ってしまう」的な問題意識が生じるのだけれど、ではそういった「社会」と個々人の価値観との摺り合わせというか落とし所のようなものはなにか?

たとえば、家族や恋愛といった生活(親密圏)の問題も「社会」的規範がモデルとして援用されていくことがしばしばあるわけだけど、結果として個々人の自由が窮屈になって妨げられてるとあまり意味がないような。。だったら野放図にそれぞれのエゴを追求すればいいか?というとそれではどうも生活の満足が高まらない感じ。なので囚人のジレンマ的摺り合わせがいるのか?というところなんだけど…


そういう自動化された最大公約数的な流れに対して、人は個々人の価値に基づいた行動選択を主体的にしていくのではないか?その相互作用(コミュニケーション)を介してそれぞれの社会(「社会」の素)が作られていくのではないか?



<人の行動選択は既製の社会のコピーやゲーム的な自動化された機構ではない。主体としての意志が関わる>


という問題意識がこの辺



M.ウェーバー、1919、「職業としての政治」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/211827975.html


屈せざるものたち: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212059486.html



大国 対 小国のような国家間のリアリスティックな物量差や、「神は死んだ」という圧倒的なアパシーを前にしても人は自らの意志で立ち運命を変えていく。


「システム」やそのサブディレクトリとしての規範や明示化された法は制度として屹立して当然化し、まるでハードなモノのように人に規範を強いる(物象化)こともあるのだろうけど、物象化しルーチンとして固まる以前のおぼろげな意味の交換が主体としての人のあり方であり、その資源としての意志と根っことなるような価値(エートス)があるということ。個々人間の意味の交換の集積が(制度以前の)社会を作っていく。




独我論的に言えば私を中心としたセカイと世界の関係(妥協?)は「同じ世界にいる」という幻想のもとに成り立っているように思う。論理的に突き詰めていけばどこまでいっても人は「この世が夢ではない」ということから確信を得られないし「目の前にあるモノや他人とされているものが、痛みや喜怒哀楽といった感触や感情でさえなんらかの刺激によって誘発された夢のようなもの」という認識から出られない。「夢と何となく違う」というのは蓋然的な感覚の違いだろうけど、「現実」として認識されている物自体が高次の自分からすると夢のようなものなのかもしれない。

だから<他者>というのもどこまでいってもフィクションなのだろう。存在と時間の関係と同じく。人はその瞬間瞬間に生成されまた消えていく。それでもなお変わらないもの(アイデンティティ)があり、それを中心にたましい(実存)が構成されていく。金剛界の「現実存在」として自らがアイデンティファイした「己」としての肉体と精神の構成。その認識を基本とし、外部からの刺激によってたましい(実存)が構成-了解されていく。「存在」としての「己」はもっと奥のほう、自他の境界のないところで人の基底になってる(のかな。


そして、おそらくそれが存在論的には正しい  (>そこからすると自己保全的利他意識というのは偽善であり欺瞞では?)しかし、「人」としては正しくないのだろう。あるいはエートスとしてはそこに甘んじない。


なぜこんな複雑な「自/他」の形式をとってるのかよくわからないんだけどそれは置くとして、とりあえずの認識としては「基本的に突き詰めれば独我なのだろうけど、それらがまた同じような円として交わるためにコミュニケーションがある」って感じ。言葉は不自由なものだからいろいろノイズがくっついたり、精確に自分の思いを表せなくて話がそれたり、相手の理解度もあって伝言ゲーム的に意味がズレて行ってしまうものだけど。とりあえず、そういう不自由なツールを介してとはいえ、意味の領域で理解が近づいていけば、独我の円はやがて重なっていく。


んでも、システムが複雑化し、システムとして安定すると言葉や制度が物象化され人の理解に慣性を作る。制度が再帰的に参照され「目の前の個人を理解する」ということが軽んじられていく。繰り返しになるけど人の生活というのはそういった制度と個々人の実存の間に作られていくものだと思う。近代的「市民」というのはそういうものなのだろう。たとえ科学(エピステーメー)的に正しくなくても、個々人の生きられた経験から了解されている価値観と哲学がある。それが文学作品なんかで反映されているところなのだろうけど




 米国的には方向性としては、パーソンズみたいな変なのもあるけど(しいて言えばだけどね)、数値で実証的にみたいな方向が好まれるし、ネットなんかでも、数値で統計というのが社会学と思われている。

 まあ、ネットレベルの議論だと物事熟考しない人が多いので、白黒わかりやすいくらいでないとしかたないんだろうと思う。

 が、実は、社会学というのを作ったのは、マックス・ヴェーバーなんですよ、というあたり、まあ、それもドグマでしょみたく言われるけど、なのでもうちょっと限定的にいうと、理解社会学ということね。

 極論すると、理解社会学とはなにかがわかるということが社会学ということなのな。


 いやもちろん、理解社会学なんか無視しても数値だけで社会学はできますよ。しかし、これはちょっとめんどくさい議論になるけど、出てきた数値とやらは、ようするに常識に合致、あるいは驚きの数字であっても常識判断に合致するということが前提になって、ようするにその常識なる社会理解に循環的に包含されてしまう。

 つまり、それは、社会学的な常識が前提になるんだけど、それ自体が近代の特異な現象であることはガチ。じゃあ、そういう近代の特異な合理的常識、つまり社会的定見みたいなものが歴史のなかでどうして出現したのかと問わないと、実は、その合理的常識のなかに潜む社会的な問題に気がつくことができない。

 これに、ヴェーバーが気がついちゃったというのが、彼の天才でもあるし、病理でもあったということで。で、それは何かというと、呪術からの解放ということ。die Entzauberung der Weltというやつね。

 なぜかしらないけど、近代西洋が脱呪術化を行った(かのように見える)ということを内省的に了解していくということが、つまり、世界の文明の総体的な理解になるんだよということ。そしてそこに人類意識に課せられた課題があるんだよということが、ヴェーバー先生わかってしまったということ。


http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100623/1277252206



Togetter - 「M.ウェーバー、1919、「職業としての学問」」
http://togetter.com/li/131779


実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838




 もちろん、そんなの比較文化論でもわかるし、オリエンタリズムみたいな視点とかカルチャラルアホーズみたいな視点からでもわからないでもない、みたいなフラットなことも言えるけど、その手のポストモダンな阿呆どもは、その内在に潜む倫理性の魔みたいなものを前提に無視したから、むしろ世界の側の力に圧倒されるか、「知性」というかいうお商売に隔離されてしまい、学が学たらんとする世界に起立する意志を失ってしまったのな。

 で、ヴェーバーは、ほいじゃ、このEntzauberungに前段として、理解社会学とはどういうものかというのを示すためにプロ倫を書いたわけですよ。

 で、理解社会学が恐ろしいのは、これをよく主観とか阿呆な理解されがちなんだけど、数値客観とかすると実はそのインタプリテーションは主観的云々というループになる。で、ヴェーバーのいう理解というのは、英語でも、understandingとかinterpretationとかに誤解されるけど、そうじゃなくて、エートスというのが一種の社会意識という特殊な実在性の問題だということ。というか、およそ、存在の意味性の根拠性は、この社会性の意識のなかにある。このあたりは、言葉というものの命名の不思議を考えると、愕然としてくるものがある。

 ということで、基本的に現象学的な構図を持っているんだけど、べたにその方向で進めたシュッツとかは、まあ、ダメ。また、反対にパーソンズとかも一種の神学にしてしまった。

 どっちもそうなるのはわからないでもないというあたりに、ヴェーバー学の深淵みたいなものがある。ようするに、では理解というのは何かというのは、理念型の議論になる。エートスを構造化するということ。そのあたり、実は、構造主義というのとヴェーバー学は近いところにあるはずなんだけど、日本とかおフランスな構造主義はそのあたりわかってないのでうまくかみ合っていない。



http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100623/1277252206



(この辺の話ぶつけてくりゃよかったんじゃねーの?と思うにまぁあの時点で先験的理解に基づく感情 → メタなところでの知識系の選択のズレみたいなのがあったのだろうから仕方ないと思うに)





Socius_社会学感覚03行為の意味を理解する
http://www.socius.jp/lec/03.html


「社会的存在の客観性を人間の主観性との関係において把える」こと。制度と意味の弁証法としての人の実存を各々の「意味」から捉え直す、ということ。

「めんどくさい」というのは近代の都会人の最大の障壁だし、怠惰とか欲望への流れからの不合理な行動選択なんてのも人類のボトルネックのように思うんだけど、それを突破するためにそれぞれのエピステーメーに沿ったエートスがある、ということなのかな。

だから、エートスというのは一見、現行システムへのフィードバックを促す合目的行動の基本ルールとして捉えられがちだけど、それ以前の個々人の実存を介した内部規律のようなものではないか?それを通じて人は内省し、己の行動に恥や誇りを思い律する。そしてエートスはエピステーメーとの相関かなんかで夫々の時代環境で異なっていく。



 すでにふれてきたように、さまざまな社会的事実を人間の行為にまで還元してその主観的意味[動機]を探るべきだと提唱した代表的な社会学者がマックス・ウェーバーだった。「理解社会学」(verstehende Soziologie)と呼ばれるウェーバーの社会学構想については省略するとして、ここではかれの壮大な具体的事例研究を紹介してそれにかえよう。第二章で紹介した『宗教社会学論集』(全三巻)におさめられている「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」――通称「プロ倫」という――がそれである▼1。

 (1)問題提起――ウェーバーが「プロ倫」を書きはじめた一九〇四年あたりの初発的な問題関心は、近代資本主義の根源の探究にあった。これはのちの一九一九年に『宗教社会学論集』のために改訂されるが、そのときウェーバーの問題関心は、近代資本主義だけでなくそれをふくむ西欧の壮大な合理化過程に拡大され、その人間的な起動力の解明を構想するものとなっていた。いずれにしても「プロ倫」であつかうテーマは明確である。すなわち「インド・中国・イスラムなど高い文明をもっていた文化圏がいくつもあったのに、なぜ西欧世界にのみ近代資本主義が成立したか?」である。

 (2)資本主義と近代資本主義――ウェーバーによると資本主義は中国にもインドにもバビロンにも古典古代にも中世にも存在した。高利貸し・軍需品調達業者・徴税請負業者・大商人・大金融業者たちの「資本主義」である。しかし、これらと西ヨーロッパおよびアメリカの「近代資本主義」――より正確には「近代の合理的・経営的資本主義」――とは決定的に異なっていた。後者は簿記を土台として営まれる合理的な産業経営の上になりたつ利潤追求の営みであり、これは大量現象としては西欧近代にのみ発生したものだったのである。



世俗内禁欲にもとづく積極的かつ合理的な職業活動は、皮肉にも小商品生産者を結果的にもうけさせることになった。なぜなら、かれらは利益の少ない一定の低価格で良い商品を規則正しく販売し正直な取引をしたからだ。これがおなじみの顧客をつかむことになったのだ。こうしてえられた富は天職の結果なのだから神の恩恵として認められた。しかし、かれらは貴族的消費を嫌悪していたから、この富は必然的に投資に向けられることになる。こうして期せずして資本が形成され、合理的産業経営の機構組織がつくりあげられた。このあたりのメンタリティが「資本主義の精神」にほかならない。資本主義の離陸もここからはじまる。




宝くじのように儲けられた富は「ふつう」なら怠惰に過ごされて浪費されても良いものだけれど、それを投資へと誘因したのがその時代の「エートス」となる。当時のシステム的な合目的性では現れていなかったはずの誘因→行動。それが人々の意味の系から現れた、ということか?生物の利他行動における協働関係が1/20で現れたように。(囚人のジレンマ的状況で)各個体が自分と関わりを持つ相手を自由に選ぶことができ[=移動]、彼らの成功を模倣するだけの賢明さを持つ場合、協調行動が発現し、全体に広まっていく。


利己主義と裏切りが支配する世界に「協力」が生まれる条件は:シミュレーション実験 ≪ WIRED.jp Archives
http://bit.ly/ouvcVB


利他的行動 - Wikipedia
http://bit.ly/pfFnil


「利他的行動は戦闘で進化」:コンピューターモデルで分析 ≪ WIRED.jp Archives
http://bit.ly/qPKJ0t



そこからするとここでの「利他」という価値は制度的規範以前の集団的な価値と個人の意味との間のおぼろげな収斂といえるのか。完全に個人の価値的なものでもなく、かと言って社会的なものの単純なインプリンティングでもなく。(もちろんゲーム理論的「適応」というだけでは理解しがたい主体性もある)





Socius_社会学感覚03行為の意味を理解する
http://www.socius.jp/lec/03.html

社会形成のプロセスにとって「意図せざる結果」はつきものだ。なぜなら、そこにはかならず「軸の転回」(Achsendrehung)と呼ばれる現象が生じるからである。「軸の転回」とは、もともとの目的や意図などの内容をふくんだ生の全体から、しだいに形式が分離し、やがて自律性をもつようになることだ。これ自体は社会形成の必然的なプロセスである▼2。

 たとえば、「生きるため」という実践的目的の知識から自己目的的な学問=科学が生じるように、生活全体に融合していた美的要素や遊びから芸術やゲームといった活動が自立するように、また諸個人の活動を相互に規制しあう調整から法が自立するように、そして経済の純粋な手段としての貨幣が今度は絶対目的としての貨幣に転換するように、もともと目的を達成するために生じた媒介手段が、自己目的をもった自律的世界へと転回してしまうことである。

 問題なのは、この「軸の転回」が「文化の悲劇」と呼ばれる事態と表裏一体だということだ。



 ウェーバーがジンメルの「文化の悲劇」概念をうけつぐなかでつけくわえた強調点のひとつに「意味喪失問題」がある。ウェーバーはいう。「『文化』なるものはすべて、自然的生活の有機的循環から人間が抜け出ていくことであって、そしてまさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく▼7」と。

 その典型的事例がほかならぬ近代科学である。科学は「われわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか」というトルストイ的問いに対してなにも答えない。これらは問題外とされる。これについてウェーバーは近代医学を例にあげている。医学は著しい発達をとげた。しかし、その前提には生命の保持という単純な前提があるのみで、生きる意味も死ぬ意味も問題外である。



ここは「物象化」として問題になる部分


ジンメルによると、社会とは本質的には「諸個人間の心的相互作用」だという。これが反復的になされ、さらに緊密化して恒久的な枠組や組織――これを「社会形象」という――へと結晶化するのである。肉体にたとえると、社会形象は心臓・肺・肝臓.胃などにあたる。資本や国家や宗教のような制度とか社会的事実のことである。ところが、ひとたび結晶化した社会形象においても、この心的相互作用は脈拍のようにたえず運動しつづけており、それによってそれぞれの社会形象に統一性と弾力性をあたえている。それは臓器だけでは生命にならず血がかよっていなければ生きられないのと同じである。

 したがって、社会にはふたつの相があるといえる。第一に社会形象に結晶化する相。第二に社会形象をいきづかせている働きの相。ジンメルは後者の側面を「生起としての社会」と呼んで重要視した最初の社会学者である。



ここはメディア論(¥社会情報学)における「コミュニケーションメディア(ハード)の基礎(cf.社会的認識の変化のような受け皿)」に近い(cf.キットラー)


山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/229813934.html?1318389838



とりあえずそういう形で「システムと生活世界の知の循環、パラダイムの循環作用」という長年のモデルと、「イノベーションや社会運動、あるいは意思決定への誘因とはなにか?」あたりの話が一気にまとめられてるようなのでこの辺中心に見ていこうかと思う。





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http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/faqg6.html


あとはシステム論的に理解社会学を組み直して、コンピュータシステム論の理解とか意味論との相対化→統合みたいなのだなー


プログラム意味論 ≪ Cruel to be kind
http://www.funclang.net/cruel/?p=218

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あと、python本とか

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2011年10月10日

山本義隆、2007、「16世紀文化革命 1」



<ヨーロッパ近代の覇権の礎となったものとはなにか?>と問われたとき、「科学」は間違いなくその答えの一つとなるだろう。「科学」というか「科学技術」。

ただ、「科学技術」といっても単に知識体系が変わっただけでは構造的には宗教と変わらない。では、科学と宗教を分けるもの、とはなにか?


山本は応える、「それは単なる理論部分の挿げ替えではなく…


「科学」と「技術」ではなく、客観的法則として表される科学理論の生産実践への意識的適応としての技術



こそがこの時代のパラダイムシフトであった」、と。



こちらの言い方をなぞればエピステーメーとしての理論(体系)とテクネー(技術)としての実践知



一六世紀文化革命 - 池田信夫 blog(旧館)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/88ea8eb285d35a891527985519ab84fd

16世紀というと、ルネサンスなどの芸術や人文学についてはよく知られているが、近代科学はまだない時代だと思われている。著者は一次資料を使ってこうした通説をくつがえし、16世紀に起こった文化革命が科学革命の基礎になったとする。その最初のきっかけはグーテンベルクによる印刷革命であり、それによって起こった宗教改革、そしてラテン語から日常語による出版という言語革命である。


それまで職人の勘と経験で継承されてきた技術的知識(ギリシャ語でいうテクネー)が、日常語で出版されることによって学問的知識(エピステーメー)と融合したのが16世紀の特徴である。特に経験を実験という科学的方法に高めることで、それまでの演繹的推論だけで構築されてきたアリストテレス自然学を帰納的に反証する方法論が確立した





ちなみに「エピステーメー」という語彙を使用した時点でこの捉え方は間違ってるわけだけど



エピステーメーというのはこちらにもあるように


ミシェル・フーコーの「エピステーメー」について誰か分かりやすく説明していただ... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218534207

http://bit.ly/qyjjOT


メタ認知領域での一定の知の枠組みがあるとして「それが時代ごとに変わる」という問題認識を含む語彙。だから、この語彙をつかった時点で「科学」も「宗教」(キリスト教)も構造的には同じという相対主義的感覚がでてこないとおかしい



実際、西洋の知というのはそういうふうにできあがってきたようで、理論-論証知の領域としてはキリスト教-神学の文化圏が担ってきた知の表出された部分が科学的な語彙に変わったにすぎないところがあるように思う。おーざっぱな理解だとラング/パロールのパロールの部分の語彙が変わっただけ。知のディレクトリ構造としてはそんなに変わってない。

また、神学の内部でも近代哲学や科学に通じる形而上学と経験主義間の論争(闘争)が行われていた。


坂部恵『ヨーロッパ精神史入門――カロリング・ルネサンスの残光』、坂口ふみ『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』 - 旅する読書日記
http://d.hatena.ne.jp/katos/20111007/1317981119


「薔薇の名前」と普遍論争
http://bit.ly/qpyBvi

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坂部 恵
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本書の問題意識というのは「エピステーメー」の説明リンク先にあるような単純な進化論的視点、知の単線的進化論的視点への相対主義も含み、同時にエピステーメーとしての「科学」がいかに偶然的に時代を代表する知の体系となっていったか、ということを改めて素描しなおしているところにある。


大事なのでもう一度言うけど「進化ではなくて適応」であり「必然ではなくて偶然」なのだ、現在我々の居る科学文明とは。



科学とは科学的なエピステーメー(理論)と、その樹形図的知識を掘り下げていく技術的な知の実践といえる。前者は数学(抽象言語)や自然言語によって論証過程を経た後「科学理論」として体系づけられ、後者は実験やそれぞれの専門職でしかるべき過程を経た後に実証されていく。後者の「しかるべき」過程が複雑なため専門的な知識、すなわち技術的な知識が必要となる。


一部の理系は「科学=実験的実証」としての認識しかないため後者の過程ぐらいしか頭にない。実際は物理学でもおーざっぱに理論と実験に分かれるようだけど


大学の物理学科について急に語りたくなったので語る。
http://anond.hatelabo.jp/20110929232831






さきほど「科学と宗教は構造的にはそんなに変わらない」「時代を代表する知の代名詞がすげ変わっただけ」みたいな言い方をしたけど、「現場・実証的知識が理論にフィードバックされるようになった」というところでは違いがある。それまでは形而上に造られた神の法としての自然の摂理、完全なる「第一原理」を読み解くことのみが「学ぶ」ということで「それを修正する」という発想はなかったので。あとは物語的恣意性のもとに限界が定められていた抽象的思考の領域(ディレクトリ)が拡げられた、ということ。この辺りが前時代の知識体系との違い、といえるのかもしれない。



そういう意味で言えば16世紀周辺におこった宗教改革的ラディカリズムもそういった「実践知の理論への反映」という機運を受けたものであったと言え、「宗教の時代から科学の時代へ」とトレードオフしたのではなく、宗教も含めて知の体系全体に変化があったのだといえる。だから「科学/宗教」っておーざっぱな区分けもおかしくて、知識体系の変化、として考えたほうがスマートなように思う。おそらくウェーバーが射程に入れていたと思われる知の体系の根本的変化と社会構造の変化の相関。あるいはマンハイムの知識社会学 / 構築主義的な「社会のその時点での知のパラダイムは一見定式的で固定的、必然的なものに思えるが幻想である」という認識


社会構築主義 - Wikipedia
http://bit.ly/hwhkko


知識社会学 - Wikipedia
http://bit.ly/qg1Sp7

カール・マンハイムはシェーラーの非歴史的な人間論に批判を加え、歴史的に拘束される知識を分析しようと試みる。またマルクス主義のイデオロギー論を発展させて知識社会学の柱とした。マルクス主義のイデオロギー論では、自身の立場に敵対する思想が存在の拘束を受けたイデオロギーとして暴露される。マンハイムはそのような党派的な論難の道具としてイデオロギーを捉えるのではなく、自身の立場をも含んだあらゆる思想的立場をイデオロギーとして把握する。意識の存在拘束性という観点を党派的な立場から解放し、研究方法として用いようというのである。すなわち、自己の立場にも存在拘束性を認める勇気をもつことで、イデオロギー論は一党派を超越した一般的な社会史・思想史の研究法としての知識社会学に変化するというわけである。

こうして、マンハイムの場合、イデオロギーは思想的武器としての意味合いを払拭され、存在に拘束された一般的な「視座構造」を意味するようになる。マンハイムはこうした知識の存在拘束性の理論としての知識社会学の担い手を、階級的帰属による束縛から免れていると彼が考えた〈自由に浮動するインテリゲンツィア〉に求めた。組織化されたインテリゲンツィア(マンハイムが念頭に置いていたのは修道士)は権力を有する特権的な知識人の学説に追随することしかできないが、組織から解放された自由なインテリゲンツィアは、特権による知識の改竄の呪縛から逃れて自由に発言できるというのである。




形而上的な思弁的知識、論証知(理論)は本来「イデオロギー」のように「権力の一定の座から一方的なベクトルで発せられる恣意的なもの」ではなく、もっと中立的で構造的な運動性を持つ。それが一定の座に固定されてしまうのは知の希少性と権力-組織的理由に依る、ということ。現在だと被曝や原発に対する不安を契機とした専門知に対する希求と、知の権力の関係から知識共有がうまくいかない現状があるけど


民主主義と学者・専門家の役割 - Togetter
http://togetter.com/li/195281




おーざっぱにはゲマインシャフト(農村的社会における思考および価値の体系)からゲゼルシャフト(都市型社会における思考および価値の体系)への変化。そして、あるいはその先の知の枠組みの大々的な変化(弁証法的発展)があるのか?と予感させるもの




それが某人に「何がいいたいのかさっぱりわからず」「大して斬新な話ではなく」といわれた山本の問題射程のように思うけど、これも個人的な関心が挟まってるので勝手な読み込みと言えるか。




とりあえず以下は上記してきた大風呂敷の各論に移る。











▽形而上学から形而下学、ギリシア的「頭」の理論から手の技術の再評価へ



中世の知や行政組織などの体系はローマのそれに依る、ということで。行政組織はローマに倣っただろうけど学問的な体系の基本はギリシアに依る。人文知の基本はギリシア的な「神-自然の法則を読み解くこと」であり、そのための術理として自由七科が設定された。「文法・論理・修辞(レトリック)」という自然言語を使って思考するための基本「3学」と「音楽・数学・天文学・幾何学」という自然を知るための「4科」。前者は内面からアウトプットするための学、後者は環境からインプットするための学問(術理)といえる。


リベラル・アーツ - Wikipedia
http://bit.ly/o7RJ6X


いわゆる「教養」はこれらを処源とするわけだけど、以前に見たようにもともとギリシアのストア学派から収斂していった弁論術ほかの思考の技術は実践的な知を目指していた


古東哲明、2005,「現代思想としてのギリシア哲学」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html


中世のそれはソフィストの精神を忘れ、ギリシアのものが表面的に受け取られ教条化し固定化してしまったために当初の目的の実践知から外れて行ってしまった。「中世の暗黒」のままヨーロッパ内部は混乱したまま、ヨーロッパの外界からの知識は「蛮族のもの」としてなかなか受け入れられず知識・文明的に周辺地域に対して劣位にあったのが中世→近世までのヨーロッパ。ギリシアの知はイスラム的マイナーチェンジを受けつつスコラ学に受け継がれ「大学の知」として継承されていった。つまり、ギリシアの知を形式的にのみ踏襲し、学としての内容を深めないまま教条化していたのが中世→近世の形而上学。そこでは医学も絵画も数学も製鉄理論も実践的な感覚から遠のいていた。



「神が作りたもうたものは完璧」「技術はそれを模倣するのみ」(人は自分では作れない) → 「神の理論(考え)、第一原理を理解することこそが本質的に意義をもつ」 → すなわち「手技は模倣に過ぎず、神の付された法則を読み解く頭脳の技こそ尊いものだ」

そういった考えに従って職人的な知識や外科医の技、商人的な実践数学も軽蔑の対象となっていた。絵画においても大部分は教会からの一定テーマの依頼であり、絵師はそれらのテーマを象るだけの「職人」であり、現在のような「芸術家」的な認知のされた方ではなかった。

絵師が芸術家として認知され始めたきっかけとして、当時の南イタリアが貿易的に栄え始めていた、ということもあるだろうけど「絵師が独自の専門知と専門技術を身につけ、模倣とは言わせないだけのオリジナリティを発揮しだしたから」といえる。その基本となったのが透視図法(遠近法)という絵画技術の開発であった。


二次元平面に3次元空間の情景を射影する技術、遠近法(透視図法)の発見はブルネレスキに始まる。最初は絵師ギルドの秘伝的技であった透視図法に幾何学的な基礎を与え、絵画を学問たらしめていったのはアルベルティ。職人と言うより人文主義的学者であった。


遠近法 - Wikipedia
http://bit.ly/q0iRfK

レオン・バッティスタ・アルベルティ - Wikipedia
http://bit.ly/n039V0


後にサミュエル・エドガートン・ジュニアをして「16世紀知覚革命」といわしめた遠近法の発見と理論化により、透視図法は分解組み立て図法、断面図砲、透明図法、画法幾何学などに応用され工学や機械学、建築設計の基礎を作っていった。

数学としての幾何学的な空間把握 → 2次元上での3次元把握はルネサンス当時ですでに現在のコンピュータグラフィックに通じる表現を可能にしていた。デューラーによる直行三平面への平行射影や図像の回転変換は、現在のコンピュータグラフィックにおいて一度ひとつの物体を措定すれば数値変換によって様々な角度からそれを投影できる技術に通じる。


アルブレヒト・デューラー - Wikipedia
http://bit.ly/oF0Day


アルブレヒト・デューラー-主要作品の解説と画像・壁紙-
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/durer.html


ルネサンスの代表的偉人はレオナルド・ダ・ヴィンチのように思われがちで、レオナルドの代表的な仕事は絵画や彫刻などといった芸術作品にあると思われがちだけどこれは二重に間違っている。

たしかにレオナルドはある意味天才であったが、それは分析的な探究心を中心にした野放図なものであり、それらを通じて蒐集していった知識は体系だてられず、ほとんどは彼のみが判読可能なメモのようなものたちだった。レオナルドは芸術家というより職人であり技術者であった。その上に博識がくっついたわけの分からない香具師。なので、いっときイタリアの傭兵成り上がりスフォルツァに仕えていた時のセールスポイントはすべて技術者としての能力や発明の才能であった。絵画や彫刻は末尾の付け足しのように書かれているに過ぎない。そのときの様子は「チェーザレ」にも少し表されている。





レオナルドの知が解剖学的探究心に通じていたことから芸術的なものの骨格は解剖学と捉えられる向きもあるのかもしれないが、それはレオナルド個人の科学的・技術的興味・探究心に終始し、そこからの発展は望めなかったものといえる。


大事なところなのでもう一度きちんと言えば、絵画が「学」としてきちんと体系付けられ、定式化した基礎は解剖学ではなく数学(幾何学)にある。


レオナルドの解剖学的関心は解剖学そのものとしては意義があったともいえるけれど、3次元投影技術の透視図法の理論的発展にはあまり意味を持っていない。解剖図においてレオナルドが編み出した前面、背面、側面の三方向からの視点をならべて表すレイアウトや、骨格図にたいして、射線で陰影をつけることで立体感を表現する手法は解剖図の描写にとってエポックであったといえるが、その段階ではこの方法はまだ彼独自の職人的な技であり、知識として敷衍していなかった。透視図法の理論的発展と敷衍に役立ったのはデューラーの書物であり、それは従来秘密にされていた絵画ギルドの専門知、直行三平面への三次元物体の投影法をオープンソースとした。レオナルドはどちらかというと印刷や「他人に伝えること」をバカにしており理論の発展には寄与しなかった。



透視図法の工学や機械学、建築設計、解剖学への応用は当時まだ字が読めなかったり、あるいは文字だけでは伝わりにくい技術を絵画表現によって伝えることに役立ち職人の知識共有を助けていった。これらは後の外科医や建築家の専門家的地位向上に寄与したといえる。




もうひとつそれぞれの職人(ギルド)の知識が専門知として認められるようになった基礎となったのは知としては数学がある。

当時を代表する数学は神の意志を反映すると思われた恣意的な形而上学であった。そういったいわば衒学的な数学と商人たちが実践的な計算手法として必要とした数学は異なったものであり、後者は軽蔑の対象となっていた。

商人の数学を代表するものがインド・アラビア数字を中心とし数字それぞれに記号としての中立性をもたらした単なる計算のための道具としての数学。それに対して当時の形而上学的な数学は自然をひとつの生き物(神の生んだそれぞれに意味的連関をもった物語)として見、物の本質と原因を問う定性的なものであった。そういった世界観においては例えば「3は三位一体の数」、「6は完全数であって神が天地創造に要した日数」、「10は十戒の数」などとそれぞれの数字に恣意的な意味が付され、それに基づいて抽象的思考や計算の自由が奪われていた。

しかし、おそらく王権と豪族との関係から商人の権益が高まったり、戦争などを通じた中東世界との接触を通じて貿易の富と商人的知としての算術計算が広まっていった。


学校「世界史」のわかりにくさと「歴史の見方」みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223226126.html


ヨーロッパ中世から近世の終わりまでのおーざっぱな流れ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223715899.html



そこで必要とされた実用的な数学は代数学だった。貿易を通じてより大きな富、数字を扱う必要が出てきたために代数学が発展していったのか、それとも代数学が発展いったからより大きな貿易ができるようになったのか定かではないが、ここで編み出された2次方程式、3次方程式を通じてヨーロッパはより大きな数を扱えるようになっていった。









▽パラダイムシフト、あるいはエピステーメーの変化はいかにして起こったか?




上記で駆け足で説明してきたように絵画にせよ商業にせよ、その界の知が学として体系化していった礎は数学と実践知、実証過程にあった。あるいはギリシア、ラテン語といった「高尚な言葉」からドイツ語、フランス語といった俗語への知識ツールの変化、もしくは詳細な絵画を介した伝達手法の研鑽、あるいは印刷技術+出版取次の発達…などなど。「知の枠組みが変化する礎となったもの」と思われる要因としてはおーざっぱにこれだけある。

そして、こちらのエントリにも記したように


bunkamura「ブリューゲル 版画の世界」展へ行ってきたよ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/158036122.html


明示的なモードやリテラシーの変化に対応するためには、社会的認識の変化のような受け皿側の変化のようなものが必要だったりする。おーざっぱに「時代精神」とでも言えるような。あるいは、キットラーだったらより細かく「新しいモードが浸透するためには、その前のモードを介した何回かの反復が必要 (ex.文字メディアの下地の音読による浸透)」というところか



むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

メモ2:たんぶらーのキットラー関連のつぶやき再考
http://tinyurl.com/3oj5v4c

ルーマン周り
http://morutan.tumblr.com/post/21158375
http://morutan.tumblr.com/post/21160877


キットラー対話―ルフトブリュッケ広場
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ただ、それらはある程度規定要因になったかもしれないけれど決定要因ではなかった、ということに留意したい。本エントリ冒頭述べたように、活版印刷や俗語への変化といった明示的なわかりやすい要因だけでは歴史は必然的に変化したとは言えない。明示的リテラシーの受け皿としての下地のモードの変化などといったいくつかの要因が偶然的に絡まって、すべてのメーターがちょうどいい具合に高まった所で現在の文明(システム)からすると「進化」ともいえる変化が起きた。


具体的に言えば外科的知識や職人知が共有されるためには印刷技術の発展、ラテン語から俗語へのシフトのみならず「ペスト、80年、30年戦争などの影響により実践的な医術(外科医)が見直され、社会的評価が高まっていった」ことや、その前段階として「火砲が主力武器となっていったことにより高度な計算式がいるように成った → 16世紀軍事革命 → 近代力学の形成へとつながる数学的な力学と機械学 → 戦争の拡大」などがあった。知識は「知識の系内部で自律的に発展していった」というよりも偶然性の高い外部要因によって医術や数学が発展、再評価されていった所がある。そういった機運を受けて専門知の需要が高まっていき、需要に応じてより多くの職人が必要になった。そのため元来ギルドの閉鎖的知識とされていた職人知の印刷→出版というオープンソース化が許された。単にハードとしての印刷技術ができあがったからといってトントン拍子に知が普及し発展していったわけではない。

加えて言えば活版印刷の主要技術である鋳造活字のための父型製作には金属の取り扱いに習熟した甲冑職人の技術が応用された。戦争と鉱山の街(ex.ニュルンベルク)が活版印刷を産み、この街で印刷と職人的気風に幼少期から慣れ親しんでいたためにデューラーは知識を職人に敷衍することに抵抗がなかった。




そういったいくつかの偶然のめぐり合わせで職人・商人・医者の実践知の基礎として数学や透視図法が発展していった。それらが礎となってやがてくる大きな波、後世に「科学」(science)として伝わっていく知の体系や考え方の大元を構成していったのだ。












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実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html


ギリシア的なイデアを目指す知と実践知の関係。学問が知の権力に流されてしまわないために




中世ヨーロッパの都市世界 - Togetter
http://togetter.com/li/170441


流通・知識職人としての商人とその知識伝承のために要請された大学(ユニバーシティ)の成り立ちなど



スティーブ・ジョブズはどこにでもいる
http://research.ascii.jp/elem/000/000/066/66264/

直近だと「ジョブズってレオナルドみたいだったな」ということで。パッケージャー+ディストリビューターということだとヒエロニムス・コックのほうが近いか




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「16世紀文化革命」とほぼ同じテーマ。数量化と視覚化を特にフィーチャーして
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2011年09月29日

共依存とブラック企業   〜 適切な関係と「異常」な関係、適切な介入について


「自分の一番好きな人が」「自分の事を一番好きになってくれる」 たったそれっぽっちの条件なのに どうしてなの 永遠に揃わない気がする このままずっと ずっと (山田あゆみ/chapter.11)


どうしてこの世は「持つ者」と 「持たざる者」に分かれるのか どうして「愛される者」と 「愛されない者」が在るのか 誰が それを分けたのか どこが分かれ道だったのか (根岸達夫/chapter.55)


なぁ山田 何でオレなんかスキになっちまったんだよ オレは お前が可愛いんだ だからいつかお前に好きって言われたら ちゃんと断らなきゃって思ってた でも断ったらお前は どっか行っちまうんだって思って―――― だからずっと お前から逃げ回ってさ… (真山巧/chapter.13)


恋がこんなに つらいなら 二度としたくないと 本気で思った ―――なのに どうしたらいいの ぜんぜん もう わからないよ   この人が帰って来てくれて とても嬉しい ――そして とても苦しい (山田あゆみ/chapter.53)





ボクはこの人が苦手だ ボクはいつもコトバを選んで 選んでは 口をつぐんでしまうのに この人はこんなに たどたどしくても カッコ悪くても 一生けんめいコトバを尽くして キモチを伝えて あっという間に 母をさらって行ってしまった (竹本祐太/chapter.10)


オレは かしを作りたいんでも恩を売りたいんでもない 縁あって一緒になったんだ――だから ちゃんとあんたらの人生にかかわらせて欲しいだけなんだ そしてそゆことを 迷惑とは言わねんだぞ? (カズさん/chapter.32)



俺は はぐのこと精一杯大事にしようって そう決めてきた ――でも本当はどこかで不安だった こんな東京にひっぱり出してきて… 本当に良かったんだろうかって 本当にはぐの為になるのかって ただのオレのエゴなんじゃないかって… (花本修司/chapter.14)


何も返したりしなくていいんじゃないかな ………それは 先生が自分で見つけるべきものであって ――はぐちゃんがあげるものではないんじゃないかな そして先生は それを ちゃんと見つけられる人だと オレは思う (竹本祐太/chapter.64)





山田さん どうしようもなくなったら オレを呼びな (野宮匠/chapter.50)


バレちゃってる片想いって不毛だけどラクだもんね 罪悪感で相手は優しいし もうこれ以上ヒドイ事は起きないし 新しくキズつくこともない (野宮匠/chapter.35)


何が「ムリしちゃダメですよ」だ するっつの あっかるい声出しやがって ………信じらんねえっ 9時間かかんだぞ!? (野宮匠/chapter.48)


君の願いが どうか 粉々に 砕けますように きれいな思い出になんてすると 空にのぼって いつまでも 星みたいに輝くから (野宮匠/chapter.50)




他人から見たらどんなに情けなくても みっともなくても 真山を想う この気持ち たったひとつが 冷たくて明るい 私の宝物だった (山田あゆみ/chapter.53)


修ちゃんの人生を私にください ごめんね返せるかもわかんないのに こんな事言って でも でも… 私 描きたいのずっと だから 一緒にいて 最後の最後まで(花本はぐみ/chapter.61)


ただ あの時オレは 胸いっぱいに 幸せだと思ったんだ ありがとうって思った ――――でも あげられるものなんて 心くらいしかないから 君にわたそうと思った  (竹本祐太/chapter.47)





―――そうして 私は話しかけたのだ その光に 「もしも私が描く事を手放す日が来たら」「その場で この命をお返しします。」―――と……… あの時 私は「約束」をかわしたのだ ――たしかに 目には見えない 私の神さまと (花本はぐみ/chapter.60)


治らなくても 何も残せなかったとしても いいの わかったの 描きたいの これ以外の人生は 私には ないの ゆうべ言ってくれた事 ほんとに嬉しかった 忘れないね 私もずっと あなたの事見てる (花本はぐみ/chapter.61)


「努力する」か「諦める」か どっちかしかないよ 人間に選べる道なんて いつだってたいていこの 2つしかないんだよ (花本修司/chapter.30)








しっかり食べて ちゃんと寝て キチンと起きて せいいっぱい仕事して あなたが ほかの人をどれだけ大事にしていても それを見せつけられても ポキリと折れずに 生きて行けるように (山田あゆみ/chapter.47)





















▽「愛と依存ってどう違うんですか?」




恋愛というのは幻想で、病気みたいなもので、社会的に「これ!」って正しい形とか「ふつー」の形のものはなくて、人によってその目指すところや満足は違うわけだけど一般的に見て明らかに不具合が生じてることもある。


不具合というのはその関係の不健全さみたいなのから双方が一般的に健康な最低限の生活や満足を送れなくなってしまうような状態。



共依存……カウンセリングを受けたい - メンタルヘルス - 教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3172894.html

「恋愛も共依存みたいなもので、それが過度で将来性にとって不健全な場合は問題。実際に生じている不具合をお互いに認識させ、それをお互いの話し合いの中で自立的に解決させていくことが肝要」、と



おそらく、恋愛という感情に基づいたバンドリングな関係が経済合理性なんかを中心としたエゴイスティックなシステムを考えた場合ちょっと異常なものなのだろう。

たとえば性や金や子供を財としたとき、そのリソースに対してそれぞれがエゴイスティックにセルフュッシュに利益を追求していき、それを神の手が調停することによって需要と供給のバランスが自然にできていくのが恋愛や家庭を単純なシステムとしてみた場合の理想的な形だろうけど。でも、人は「愛情」という非合理な情緒を持つ。愛情に基づき、人はときに自身や種の保存といった観点における単純な利益からするとマイナスになるような行動選択をしてしまう。ロマン主義者ならば「その燃えるような愛の不条理さこそが人間だ!」というところだろうけど



そんな感じで恋愛は経済合理性だけでは割り切れない不条理を含む。だから依存も恋愛も果実と言えるだろうけど、それが過度になって明らかに不具合が出てくると困る。恋愛にaddict/abuseしてるウチはそういう不具合も気にならないのかもだし、それは個々人の自由な意思決定の領域ということで他人がどうこう言うのは大きなお世話(内政不干渉)ともいえるだろうけど




共依存が生じてしまうのは片方の「愛してほしい」って意識が「ふつー」より強い場合みたい。

「自己愛・自尊心が低いため、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、共依存関係を形成し続けることが多いと言われる」
http://bit.ly/niYXxi

「愛してほしい」という渇望と「自分は愛されない存在なんだ」という不安が「ふつー」より強いために「愛されてる?」という不安を絶えず持ち続け、より安定的で本質的な「愛」を求める


共依存という言葉は、学術的用語でなく、明確な定義はない。当初の定義としては、アルコール依存症患者を世話・介護する家族が、患者自身に依存し、また患者も介護する家族に依存しているような状態が見受けられることから見出された。これはアルコール依存症だけではなく、ドメスティックバイオレンス(DV)や虐待などにも見られる現象であると言われている。

この状況では、アルコール依存症患者が家族に依存し、また介護する家族も患者に依存するために、その環境が持続すると言われている。典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の介護などに自分の価値を見出しているような状態である。この共依存は、患者の自立する機会を阻害し、家族もまたアルコール依存症患者を回復させるような活動を拒んだりする。

現在では、単にアルコール依存症患者との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。例えば、暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。この観点からDVや虐待、自立できない子供や人格障害、それに恋愛における自己愛的な障害にまで共依存の概念が検討され、使用されるようになっている。


共依存の二人は、自己愛の未熟な人間が多いと言われたり、パーソナリティ障害であるケースが多いと言われているが、これはアルコール依存症やアダルトチルドレン、それにパーソナリティ障害の精神病理から導かれたところが多い。それは何故かと言えば、共依存者も被共依存者も、他者の価値に依存する傾向が多いからと言われている。

例えばアルコール依存症の家族では患者のアルコール依存を認めるような家族の傾向が認められる。それが患者のアルコール飲酒をさらに深める。またアダルトチルドレンにおいては、両親が自分の評価のために子供を利用したりする。そのため子供は大人になっても両親からの自立に困難が生じるようになる。自分自身の力のみで自立が出来ないのである。またパーソナリティ障害においては、そもそもの親が子供に依存的なケースであることが多い。アダルトチルドレンと同様、大人になると子供は他者に依存して、その他者に自分の要望を過度に期待するケースが見られる。

共依存の問題点は、被共依存者が回復する機会を失うことだけでなく、共依存に巻き込まれた者が、ストレスを抱え込み、精神的な異常を訴えたり、さらには関係性に悩み自殺する場合がある。よって、共依存を引き起こさないためには、医療関係者、専門家、援助者が、共依存を引き起こす者と接する場合には、一定の距離を取り、個人的な関係にならないことが必要である。



ぼへーっと自分とメンヘラのひととの付き合いを思い出す。


彼女もどこまでいっても根源的不安を抱えてるようで、いくら言葉を尽くしても、あるいは言葉を尽くそうと持ちかけても彼女自身が自分の根源的不安の理由をうまく捉え切れないようで、けっきょく二人の問題として解決できなかった。それを埋めるために体のつながりによる言外の説得力に頼ろうと思ったけど、それも自身の肉欲的エゴと半々な理由だったのかもしれない。


そして彼女はいまも無限の愛(甘え)を乞うているのだろうか……



そういった不健全な甘えに巻き込まれると付き合ってる人はバランスを崩してしまうのかもしれない。見えない不安が根底にあるからそれを解決するまで目の前の愛に納得することはないんだけど、往々にして愛を乞うひとは自身がなにを不安に思ってるのか?(どういった形でそれが根本的に解決されるのか?)ということに向きあうことができない。だから目の前の愛では足りなくて、常に不安をもたれてしまったパートナーや家族はバランスを崩してしまうのかも。その時点で依存者が求めている甘い愛はアルコールのようなもので建設的ではないのだろうし。


だから本当にきちんと付き合う場合は、問題解決のために一緒に不安に挑む決意のようなものが必要なのだろう。

そういった傷に向きあうのは依存者からすると勇気がいることだろうから、パートナーや家族が寄り添って支え勇気の手助けをしていく。



あるいは、第三者として援助する場合には過度に密接になり相手のペースに巻き込まれないように注意しつつ依存者当人の自立を促す。


共依存の原因となる被共依存者への対応としては、一定の距離を置きながら援助される。被共依存者は、援助が少ないことに見捨てられた気持ちを抱く可能性もあるが、「自分の人生は自分で切り開いていくしかない」と気づかせることが、結果として被共依存者の回復に繋がる。被共依存者は、支援を受けることに感謝し、関係者を操作することなく、自分自身の置かれている境遇を受け入れることが、回復の第一歩である。




共依存のめんどくさい問題としては、「共依存」と診断されることで依存者が「共依存だからいけないんだ」と過度の自責を感じること、あるいは関係者を操作することで自分に居心地のいい依存関係を構築してしまうことらしい。

後者は依存者当人も半ば無意識のウチにやっていることもあるのだろうからやはりパートナーや家族、もしくは距離的に余裕のある第三者的支援者が一定の律をもって「甘え」を抑制し自立を促すように接しなければダメなのだろう。

ただ、そうはいっても過剰な依存が生じてしまうのは、その背景として常軌を逸した過去を背負っているからであって、その重みについてきちんと理解することが肝要で、拙速に自立を促すような対応は誤りに思われる。ともに当人の問題の重みを見つめ、その克服に要するエネルギーを負担しあっていくような、、、単なる頭ごなしのラベリングではなく、当人の実存的な問題として共に考えていく(共有する)姿勢。それが依存者との信頼関係の醸成につながる。



「自立」の目安のひとつとして、『「愛してほしい」から「愛して満足」に自然に移行できれば』、があるみたい

http://www.counselingservice.jp/lecture/lec402.html

「他にも問題を起こす人と問題を代わりに解決しようとしてあげる関係性も、共依存と言えます。」

「対等に慈しみ合っていける関係になるにはお互いに自立することとお互いが与えそして受け取ることができる状態になったときに手に入るのです。」



ただ、これも「愛して満足」という感覚が当人の想像力や感受性に起因した個性的なものかもしれないので、いちがいに「愛して満足になれば自立」とも言えないと思う。なので「これがふつー」って押し付けるようなものでもない



「共依存関係は、機能不全家族などで育った人々が陥りやすい」らしい



機能不全家族 - Wikipedia
http://bit.ly/kLVBOs

機能不全家族とは、「子育て」、「団欒」、「地域との関わり」といった本来家庭に存在すべき機能が、健全に機能していない家庭の問題を指す。そしてこの機能不全家族で指摘される問題は、家庭内の不健全な事実が存在する問題よりも、むしろその機能不全家族の中で育った子供への悪影響が指摘されることが多い。つまり、機能不全家族内で育った子供は、機能不全な環境や考え方が一般的であると認識し成長しやすく、また幼少期の重要な人格形成において愛情を得る機会が非常に乏しくなり、自己愛・自尊心、他者への共感、他者の苦しみに対する理解等に欠けた人間にもなりやすい。この結果、機能不全家族により、社会と健全な関係を築くことができない大人が輩出される。

機能不全家族となる要因としては、代表的なものとして、家族構成員のアルコール依存、虐待、共依存などが挙げられる。また、このような機能不全的な家庭となっている場合は、その家庭を構成する親、または祖父母などが、機能不全家族で育った経歴がある可能性も高い。


そして、ともすればそういった負の業が連鎖していく

このような家庭問題(家族崩壊)の中で育った子供が、育った環境の不健全さに気づいた場合、過去に学んだ不健全な生活習慣からの脱却に向けて、莫大なエネルギーを費やして、回復の努力をしなければならないことが多い。しかしながら、機能不全家族の一番の問題点としては、機能不全家族の中で育った子供が、育った環境の不健全さに気づかない場合に、自己の配偶者としても同様の歪んだ価値観をもったパートナーを選ぶ場合が多く、成人してからも同様に不遇な人生を選んでしまう場合が多々あることである。また、機能不全的なパートナーを選ばずとも、自らの機能不全家族の経験や、健全家族の経験の欠如から、世代間連鎖によって、新たな機能不全家族を生み出す場合も多く、自己の人生においても、不遇な、または破滅的な人生となる場合が多い。無差別大量殺人を始めとする凶悪事件などで犯人の精神鑑定を行ったり、生い立ちを探っている際に犯人の家庭や親の思考、家庭教育が非常に歪んだものであることが発覚するケースが多いが、個人情報やプライバシーの保護の観点からこうした側面はほとんど報道されないことが多い。


知らず知らずのうちにパートナーにもそういった素養の人を選び、あるいは子供にその業を背負わせていく


機能不全家族で育った子供には以下の特徴がある、とのこと

* 自己愛が発達していない。子供の頃に健全な発達ができなかったため、他者と擬似的親子関係を形成する。

* 他者を信じることができない。他者の苦しみに対する理解ができない。

* 自尊心が低く、ポジティブな自己イメージを持てない。

* 人間関係に常に問題が発生する。

* 怒り、不安、絶望の感情になりやすい。

* 他者と孤立しやすい。

* 無慈悲。

* 常に真面目で、子供らしさを持ち合わせない。年齢以上に早熟する。

* 機能不全な関係を他者と築く。

* 機能不全家族の行動を自分の子供に実行し、機能不全家族の世代間連鎖を引き起こす。



幼年期に子供らしさを享受できずに一定の役割を演じさせられ、健全な親の愛を受けられなかったため、ということのようだけど。



これらも過剰に「逃れられない業」「わたしの人生お先真っ暗」のように意識するのもどうかなぁ、と思う。


人は誰しも異常であり千の貌をもつものであって、こういった凸凹も特徴といえば特徴なのだろう。


自分の中にも双極性障害(躁鬱)的傾向はある。ただ、それはなんとなく5段階とか10段階ぐらいにメモリが分かれてて普段はレベル1とか2ぐらいなのだろう。トップギアで欝の方になったときはけっこう大変だったし何回か死にそうになったけど、いまはそれも「そういう傾向がある身体(スペック)に生まれたのだから注意しなくちゃなぁ」程度にとらえてる。躁に入った時のエネルギーを利用すればいいだけだし、欝は最近はないように思う。まぁ、ずっとローギアだから他人からすると欝の状態が平常なのかもだけど。けっきょくあの部分で「自分は異常なのかも。。(ふつーにならなきゃ(しあわせになれない)」みたいに自己抑圧するのってどこかにまだナルシシズム、「わたし(´・ω・)カワイソス」な自己憐憫な物語を紡いでるところがあるのであって、「そんなこといってもこのスペックで配牌されててレース始まってるんだから仕方ないじゃん」って決めたら「そういう性能のもの」として許容できる。

身体的な特徴の違いなんかは単に操作する車の車体性能的な問題であって、それもうまく生かせばレースに勝てるのだろうし



「他人と比べて」ってレースでもなく、自分の中の目標に達するレースみたいなのに



最終的には意志の問題なのだろう



自分(´・ω・)カワイソスしてるのではなく、(´・ω・)カワイソスでもなんでもそのレースに勝つ(あるいはその車体の性能をいかんなく発揮する)という意志の問題。







▽<恋愛と仕事は似てる>  → ドツボにハマった恋愛はブラック企業みたい


「依存も恋愛も果実」、(外野から見てある程度、異常に思われても)「個々人の自由な意思決定の領域ということで他人がどうこう言うのは大きなお世話(内政不干渉であるべき)」というところからブラック企業や「やりがいの搾取」をめぐる話を思い出したり


「恋愛、もしくは生計を共にして継続的なパートナーシップを築いていくことはビジネスのようだ」とこちらでもいったけど


愛とはどういうものかしら? 〜 恋はおわるが愛情は続く: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/227459492.html?1317282159


共依存とかDVとかで不健全状態になってる恋愛関係というのはブラック企業に喩えられるかもしれない。


「やりがいの搾取」とは「社会の一定水準から算定すると、そこで与えられている対価や保証は明らかに平均より低いのに、『( ゚Д゚)<自分が楽しいと思って選んだ道だろ?いまは辛いかもしれないけど楽しいことできてるなら本望だろうし、将来的には食えるようになるかもだからいまは耐えろ!』」とするような話。「やりがいのある仕事」を「自分で選んだ」のだから「耐えろ」っていう自己責任論。


自己責任論は通常、抑圧されている個人に対して外部の既得権益から発せられるものだけれど、恋愛あるいは継続的パートナーシップにおいて同様の心理構造にある人は自己責任を内面化しているところもあるだろうか。

共依存をやりがい搾取なブラック企業とした場合、そこでの「やりがい」は何になるのだろう?

関係当初に持った「好き」という気持ちとかそれに付随する幻想とか?


「現在を耐えれば将来的にはなにか良いことがあるかも」って期待とか?


過去の「好き」や未来の「希望的満足」を支えに現在を犠牲にする。建設的な「投資」ではなく、対価の回収の望めない「犠牲」。


あるいは、現在に至るまでに結び付けられた「情」的なつながりや、そこまでにかけられた掛金(サンクコスト)と将来的期待値を思って現在の損を切れない状態


そうやって生まれた損益による「悲惨な自分」に向きあうのを回避するために「でも、彼(社長)ったらいいところもあるのよ」って物語(イデオロギー)を紡ぐ。そこで直下の心理的ストレスを誤魔化す。


その損益はしばしば生活的なぢわぢわとした小粒なもので、当人からしてみると「耐えられないものでもない」なので一つ一つの損については鈍感になっていくのだろう。そしてそれがいつの間にか積み重なっていき、あるとき積み上がったストレスに耐え切れなくなって心のダムが決壊する。




それらの改善点として、損をしている当人の意識改革のようなものが必要ということがまずあるだろうが、損をしている当人が『それでいい』と言っている場合は道義的に外部からの干渉が必要になる。しかし「外部からの干渉はどこまで正当性をもつのか?」ということになる。


子供のように意思決定や客観的認識が乏しく主体形成ができていない存在であれば外部からの介入は妥当とされるかもだけど、大人の場合はそれはしばしば難しいことになるか。



それでも、一定の客観的水準に照らして当人が損を被り続けている、ということが外部にも当人にも納得させられたら介入の妥当性はあるだろうけど




そこでもやはり介入する第三者は過剰な熱意に燃えて過干渉するのではなく、一定の律と距離感をもって臨むべきなのだろう。









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騎士と愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/226697368.html





タグ:恋愛 家族
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2011年09月25日

愛とはどういうものかしら? 〜 恋はおわるが愛情は続く


性的行動とその決定因、またそこから発生する効果・作用の分析が生物学と経済学の臨界で生まれる。と同時に、道徳的・宗教的勧告や徴税といった伝統的手段を超えて、夫婦の性的行動を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てようとする組織的な作戦が現れる。

−知への意志−




権力は下から来るということ。即ち、生産の機関、家族、極限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている。このような効果が、そこで、局地的対決を貫き、それを結びつける全般的な力線を形作る。

−知への意志−





精神は、身体の周りで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出される。その権力こそは、罰せられる人々−より一般的には監視され訓練され矯正される人々、狂人・幼児・小学生・被植民者、ある生産装置に縛り付けられて生存中ずっと監督される人々に行使されるものだ。

−監視と処罰−





主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。

−M・フーコーとの対話−














▽「めし」の話 → 言葉以前の了解の交換




昔、「別れる気がないならめしは作り続けろ」と母親に言われた。さらに、子供については「何があっても手作りのお弁当だけは欠かしてはならん」と先輩のお母さんに言われた。家族のことでアドバイスもらおうとすると、めしに行き着く。。。。


http://twitter.com/que_sera/status/99427422713294848



これ自体はよくある話で、ふつーに「( ^ω^)まぁ日本の家庭生活の伝統的智慧だよねぇ。そういうものだ」って感じだったんだけどめんどくせー連中が「ああ、それは旧世代的な古い考えだよねー。非合理的だし、近代的生活にとっては因習だしー」みたいな感じでちょっと絡んでるの見つつ「いや、これはこれで合理性あるんだろうけどね。。合理性ってのはそれぞれの文化圏によって異なるものだし…」ってモニョったり

きちんと記述されてないだけでたぶんこういうのは「おばあちゃんの知恵袋」な民俗学的合理性があって、それが現代的な都会の経済合理性と合わないだけなんだと思う。



なんとなくのおーざっぱな妄想だと<言葉-理性でのコミュニケーション以前に「めし」が効く>というのはノンバーバルコミュニケーションということでブルデューのハビトゥスみたいな地味な効果があるのではないか?言葉以前に、身体を通じて実践していることが地味に規律というか、発想の発端部分まで影響していく、みたいなの。ロジック以前の議題(関心)設定の部分や、そこから生まれる感情や思考を規定するような。ヤコブソンの言語(あいさつ)の交話的機能な話のように「言葉でのコミュニケーションは本来ディスコミュニケーションを孕み」+「内容以前に発話を交わすことにぢみな意味があったりする」というような



承認や理解を志向しないゆるいコミュニケーション: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/76094661.html


論理的思考様式と詩的思考様式 (アナログ的思考の可能性、「魂の座」ら辺): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/78303131.html



「内容理解」以前に存在を認めるということ。


他人の考えてることなんか完全に理解るわけなくて、そういうことが理解できてるひとは慎重に言葉を紡いでお互いの意志を確認する。でも、「自分は理解されて当然」「意図を読み取られて当然」とする人は意志を伝える努力を怠る。(おーざっぱだけど)日本的な同質性の高い文化、摺り合わせ的な基盤のマッチング前提なアーキテクチャ。そこではモジュールとして細かく言葉が往来する必要はなくなり「おい」とか「あれ」とかで言葉が通じるように最適化し極めて全体性の高い「群れ」的文化圏ができるように思う。いわゆる「空気」なんかはそういったものの結果生まれた日本的な権力のあり方の呼び名だろうし。

ただ、そういった文化様式も「一定のコードの共有」という前提があって成り立つものであって、そういうものがない場面で「( ゚Д゚)<オレの言ってることを慮れや!このうすら鈍感が!」とかいうのは暴力的・非理性的言辞だろうけど。

そういった「日本的」あるいは「前近代的」合理性を孕んだ文化に対して、「なぜ西洋などでは言語(ロゴス)にそれほど重きをおくようになったか?」というのはまた面倒な問題で横道に逸れそうなのでてけとーに省くと、ギリシアのソフィスト以前にはロジックやレトリックをそれほど信じてなくてなんか「神様のおかげさまだぁ」とかギリシア神話的人間中心主義でマンセーで無反省に我が世の春を謳歌していたように思う。つまり、均衡状態で変化の期待されないシステムでは反省要因は疎外されるのだろう。分析→反省ツールとしての言語→ロジック・論法あたりもその辺なのかなぁ。。それらは「なんとなく」に共有されていた「当然」な流れ=権力を反省し、解体していくので、均衡状態を望む勢力にとっては望ましくないのだろう。


しかし、そういった言語中心、近代的な「言葉による意思確認」を志向する文化圏でも「めしを共にすること」「あいさつを交わすこと」はけっこう重要だったり。電話の最初の挨拶「もしもし」と同じく存在確認でありチューニング的に。あるいは「食う」ということ、「外来から異物を摂取するということ」の呪術的・象徴的意味合いをその場の人々が共有する、という意義。文化人類学のフィールドワークなんかで他所の文化圏におじゃましたときに「出された飯はちゃんと(゚∀゚)ウマウマ食う」が鉄則なように。敢えて自分にとっては得体のしれない異文化のものを無警戒に摂取することで、相手に全幅の信頼を置いていることをアピールしたり。

まぁそれは家庭における普段の食卓では交わされてないメッセージ交換だろうけど。ともあれ「飯を一緒に食う」は思いのほか意味があることなんだろう。挨拶したり、微笑んだり、寝所を共にしたり、セックスしたりとも似たような。行為の内容そのものの意味というか外延的意義、構造的合理性みたいなの。個別の機能合理性では割り切れないような


そういう意味で言うとセックスというのは単なる物理的快感だけというよりは存在の交換とか気持ちの交換的なところがあるのかな。まぁ部分的な機能合理性からすると甚だ「非合理」なのだろうけど。。機能合理性がゲゼル的な「狭くて部分的。分解→反省→再構築可能なモジュール的発想」であるとき、構造的合理性は「広くて全体(ゲマイン)的。すり合わせ的な合致でできてるのでユニットを細かく切れない(再構成が難しい)」ものといえる。すごくおーざっぱな対比だと、「ゲゼル」には「理性」、「ゲマイン」には「感情」的な腑分けが当てはまるか。さらにおーざっぱに、心身二元論的な腑分けだと「理性」には「思考」が、「感情」には「体」が当てはまる。それらを統合してつなぐのが「身体」といえる。



実践(プラクシス)について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/199514356.html



(※細かく言うと理性的思考も感情的な思考も脳を中心にデバイスされてるので両方ともオツム介してるんだけど話の流れ的に割愛)



「めし」ほかの効果、機能性というのは身体に響くもののように思う。理性と感情の中間。独我論的には言葉や論理ではどうしても突き詰め切れない他者や自己の存在に対する漠然とした安心感や肯定感のようなもの。




それらの身体的な効果はナンパなんかにおける言語以前の距離の詰め方みたいなテクニックにも似てるのだろうけど、こういうのは一定の財と権力を介した政治ゲームであり外交関係にも似てる。軍事力ほかの政治経済的資源が少ない小国が大国と渡り合うときの飛び道具的なやり方みたいなの。真正面から衝突すると負けてしまうので搦手として使われるもの。


そういった小さなところで創りだされた慣性を積み重ねることによって、既存の大きな権力に抗していく。家庭の場合は前近代的因習と空気が「大きな権力」で、「あいさつ」や「めしをくう」などといったノンバーバルな絆によって生じた慣性(情)を根拠としてそういった権力に抗していく。規律訓練のように対幻想領域におけるエートスのようなものが生まれていく。



「日常の政治学(文化政治学)」みたいなのがあるとして、コミュニケーション(外交)部分では「めし」「セクース」「デート」「会話」などといった行動を直接的なオプションとして親交を高めたりタスクをおしつけたり引き受けたりつつ力関係を形成、性や金、子供などといった「財」を駆け引きする。


カップル間のそれでは言外に男性側の身体的優位が圧力となる場面がけっこうあって、それがなんとなくの力関係の基底になってるところもある。そういう場面では直接衝突すれば間違い無く踏みつぶされるだけなので、直接衝突は迂回しつつ、外交カードをいくつか切るといい。兵站を切ったり、第三国との関係を利用して相手国を追い込むなどして戦場における直接戦闘以前に「場」の勝敗を根回ししたり。








▽言葉以前の了解の交換 → セックスも → 性愛とはどういうものかしら?



性欲の話というのは食欲の話にも似てるように個人的には思う。(男性なんかの場合は特に)人の場合、他の動物と違って性欲はふだんからざわざわしてるもので、いつエロいものをみてもそれはそれで扇情的だなぁってかんじだったんだけど、最近たまにそういうものを見ると「( ^ω^)・・・いまいらんなぁ」って感じになる。某人いわく「それはお腹いっぱいってことではないかね?('A`)y-~」、と

http://twitter.com/#!/harumachidori/status/111889586506039296


アダルトの現場で監督の熱いこだわりを見聞きするのは面白いし、エロに麻痺しやすい中で情熱失ってないことに感心したりするけど、その熱心なエロシーンを引いた目で「絵」として眺めると有り体に言ってやはりグロテスクだし、それでいいもんだと思う。美化するもんでもないし、キモい時はキモい


http://twitter.com/#!/harumachidori/status/111892721421127680


肉屋で肉の塊がだらーんとぶら下がってるような感じだろうか


エロにつながるようなわかりやすい性欲というのはそういったざわざわしたもの、食欲における肉欲と同じように「ガッツリ食べる」みたいな感覚に近いのではないか?それに対して「愛」につながるものはもうちょっとぢわっとしてるというか…



男性女性における性の非対称について - Togetter
http://togetter.com/li/191437


ヤコブソンの発話交換のような、セックスそのものには意味(快)はなくて交換することそのことに快がある、みたいなの。「セックスより自慰のほうが気持ちいい。自分でポイント分かってるし」なんていうことあるけど、たしかに物理的刺激だけだとそういうことは思う。二人でするのはめんどくさいし、ちゃんと相手に気を使う人だと気疲れ的にめんどくさい。。

ただ、自慰と違ってセックスの場合は相手に感情移入して満足を得るところがあるかなぁ。。すくなくとも自分の場合は。人が喜んでると嬉しい性質だからだろうか(あとは感受性とか想像力とかそういうのかなぁ。。

そういった体の物理的な快や想像力的な満足(快)のほかに、ぢわっとした愛情のようなものがセックスの中にあるのではないか?愛の交換のようなもの

「愛」というのはいまだによくわからないところがあるんだけど、なんらかのエネルギーであると仮定したとき、セックスというのはそれの交換なのかなぁ、とも思う。物理的体液交換 → 脳内物質発射 → 快感刺激だけではなく。


物理的快楽は遺伝子のプログラムで生物的・本能的機制といえるだろう。だから、それは妊娠という種の保存的役割を終えると萎えて行ってしまうものらしい。男性の性欲減退なんかはその辺も絡むみたいだけど、対して女性は妊娠を機に良くなったり。それは「カラダ的、生物的機制、プログラムに抗う実存的な欲求ということで高尚( ^ω^)・・・なのか?」と拙速に考えそうになるけどたぶんその辺は関係ない。単に予備的なプログラムなのかなぁ。。生物的機制としては。


そういったものとは別にノンバーバルなコミュニケーションとしての存在確認、お互いの気持ちの言語以前の交換のようなものとしてセックスがあるのかなぁ。。


端的にいうと「相手を労りたい」「もっと愛を交わしたい」という場面で相手の気持に報いることができないときになにが身体の反応を促す要因になるのか?ということを考えてるわけだけど

年齢を重ねたり体力的な問題、精神の機能失調などで男性のほうが衰えていき、女性のほうが逆に上がっていく。

あるいは、年をとっても愛する人と愛を重ねていくということ



「オレは変わらずに キミを愛していけるのか?」



そういった問への審判が体側から勝手に出されるようで、、なんとなくの焦りや不甲斐なさを感じてしまう場面が想像される。


生物的な機制(当然)や文化・社会的機制(規範-当然)に抗って自分達の実存としての満足を高めていくこと。目の前の人が歳をとったりなんらかの事故でかつての美しさを失っていても。そこに変わらぬ魅力を投影できるのだろうか…?


単なる独りよがりな欲の解消ではなく魂の交換のような形で。二人で満足をつくっていく








▽恋愛はおわるが愛情は続く



恋愛は仕事にもちょっと似ている。告白の場面は就職面接のようだし、合コンもプレゼンみたい。継続的な関係を考えた場合は「生計を共にする」ということでビジネスパートナー的な感覚も必要だろうし。

というか、恋愛や結婚ほかの継続的なパートナーシップを結ぶ場合は前近代的仕事、家内制手工業のようなものに感覚が近くなるかも。単なる「好き好き」の甘々表明としての恋愛ではなくビジネスにも似たものに


家内制手工業としての家庭は「自分達の満足」-「しあわせ」を生み出すことを目的として営まれる。


しばしばそれは「子供の養育」であったり、「パートナーと共同生活を送る中でお互いに支え合い、高めあっていく」ということであったり、「女性は家事、男は仕事」ではなく、それぞれがそのときできることを分けあって家庭を協働していく。お互いに思いやって、そのときできること、したら喜ぶだろうなということを交換していく。


家内制手工業としての家庭全体を生産関係と見た場合、セックスは子作りのための生産手段に当たるか。「手段」という語彙のニュアンスから即断すれば「生む機械」だけど、生産「手段」というか生産「方法」のひとつといったほうがいいかもしれない。家庭という対幻想領域における満足・効用の最大を目指す際の方法のひとつ。


だからセックスはどちらかというと下部構造に当たるだろうけど、愛はそういったセックスを覆う幻想(イデオロギー)であり上部構造でありソフトウェアなのだろう。そして「愛」のイメージも人それぞれ異なる。共同幻想としていくつか提示された愛の形。ロマンティック・ラブとか純愛とかもっと性的なものとかオトナのうんぬんとか。あるいは個々のセクシュアリティの違いからいくつかの愛の共同幻想がコラージュされたり。そういったものはセックスも含んだ普段の愛情交換(コミュニケーション)の際に参照されるコードであり、愛というシステムにおけるOSのようなものなのだろう。

愛に関する既存の幻想ではどうしても満足できない際立ったセクシュアリティを持った人は世間からすると「アブノーマル」とされるところにいくのだろうけど、最初からなんとなくのおしゃれ的に既存の愛や性欲の型をインストールしたものは、どんなに「特殊」ぶってても、オリジンでも実存でもないように思う。



そして、なんとなくだけどそれらの幻想の選択、実存的な自分のリアリティへの気づきというのは精神の発達練度と関係してるように思う。


社会生活を通じて、精神はみょーなコンプレックスからいくつかの既存の幻想をインストールしてそれをアイデンティファイすることでいつの間にか余計な鎧を重ね、「ほんとに自分が求めるもの=満足」から離れて行ってしまうのだろう。性的嗜好なんかもその辺が関わるように思う。既存の「アブノーマル」を重ねても自分の満足とずれていたらいつまでたってもほんとの満足にはたどり着けない。


だから、精神に張り付いた余計な鎧、自らをも騙すような理論武装を解いて行く必要があるのだろうけど、それには一度「自分」と思われるものを捨てる勇気がいるし、その勇気が必要とされる場面というのは多くの人の人生の中では訪れないままオトナになってしまう。


それらを溶かすのが愛の力か、と思うこともあるけど。。凍てついた氷塊はある程度のショック療法でないと崩せない、ということもあるかもしれない。








▽愛と精神の構造とは? - flower of life



<愛のイメージは人それぞれ違う><それは精神の練度に依る><精神は自分(エゴ)を捨てリミッターを外さないと深まっていかない>


ではそのようにして深められた「愛」にまつわる感情の機微はどのようなものがありどういった構造をしているのだろうか?


なんとなくだけど「理趣会」がそれに当たるのではないかと思った


両界曼荼羅のうち金剛界曼荼羅に当たるもの



両界曼荼羅 - Wikipedia
http://tinyurl.com/422c2cp



ぼんやりな理解だけど、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つで、前者はプラトン的イデアな世界、後者はそれに物的重石がついた世界を表しているように思える。物的重石がついてなければ胎蔵界曼荼羅のようなストレートな配置でだいたいのことに対応できるのだろうけど、物的重石や「人」の精神が関わると複雑性が増し、それに対応するようにシステムの構成をシフトしなければならないのではないか?

金剛界曼荼羅で描かれた幾つかの配列は、それぞれの系における暫定的な最適パターン、将棋の型のようなものではなかろうか。

そして、そこで配置される「仏」には「慈愛」ほか特定の意味が付与されている。


たとえばなんらかの煩悩的な場面に遭遇したとき、それらの要素を思いだして意識的に要素にそった思考経路をたどれば悩みから抜け出しやすいのでは?



理趣会はその中でも恋愛や性に関わる愛憎に最適化した型なのではないだろうか。



理趣経
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/rishunaiyou.htm


http://www9.plala.or.jp/mandara10/k-risyu.htm




意味としては未だ゙読み解けてないけど、それぞれの要素を理解し、自分なりに状況を想定した物語を編んでおけばいざというときに心強いのかも




それらを通じて人として生きているうちに相対するアンチノミー(二律背反)的ストレスに抗していく。一部の小乗であれば「そういった悩みも煩悩であるから捨ててしまえ」というところかもだけど、その悩み自体を一定の系を拓くためのストレスとして利用し精神の系を広げていく。アンチノミーを通じて弁証法的に昇華したそれぞれの系-円が交差し、蓮の華のように波紋状に拡がっていく。



そういう形で人は少しずつ生物的機制や文化・社会的機制から解かれ、主体(大人)として立てるようになっていくのだろう


そうやって成長した大人(主体)がパートナーを組めば、あるいは既存の権力(機制)に抗して自分達の自由を広げていくことできるかもしれない。言葉と身体で魂を響き合わせて










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家事と育児と高齢者介護(双方の両親)を誰かが完璧にやってくれたら、社会的に十分な働きをする既婚女性はたくさん居ると思うよ。個人の問題ではなく、仕組みの問題として考えないと、解決しない。批判するより問題解決に向けた意見の積み重ねをしないとだたの愚痴になる。


http://twitter.com/que_sera/status/77163616448692224



公には言いにくいけど、私は大きな社会より目の前の命を大事にする。両立がならないなら誰かが弱いものの側に立たなくてはならない。私は弱いものの側から目の前の命を守るのが仕事だと思ってる。


http://twitter.com/que_sera/status/83369725261914112



白衣は私にとっては戦闘服。人格変わるもん。営業スマイルと、徹底したロジックが現れるQT @marubashi: @que_sera @4n0 白衣に着替えた〜


http://twitter.com/que_sera/status/116267836825022464






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知恵と智慧 - Togetter
http://togetter.com/li/190861

※実践(プラクシス)=智慧、ということで







◆ NHKドキュメンタリー「二本の木・夫婦で癌に侵された、最後の記録」 を観て
http://blog.goo.ne.jp/fukiya-kurabu/e/ee8deb31635f20a3dfc72cb4949d2248

http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-150.html




「明るいほうに進んでゆきなさい
                  輝く光の方に行くんだよ」












http://www.uta-net.com/song/43209/




恋とはどういうものかしら? (Mag comics)
岡崎 京子
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タグ: 精神 実存
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2011年09月19日

騎士と愛



聖なる天の御父

我は心ねじけたる者の邪を懲らしめ

我は無垢たる者の善を守らんがため

剣を振るうを許し給うたなれば

民草を庇い守らんがため

騎士道の掟を剣の下に定め

ここなる汝の僕をして常に善を志さしめ

檻に人を傷つくるに剣を振るうことをなからしめ

正義と法とを守らんがため

これを振るわせしめんことを



また彼の婦人を身命をとして守らん












「けっきょく男は不幸な女に弱いのよね ( `,_・・´)フンッ」って言われたことがあって、「男は」っていうか自分はそういうものかと思うわけだけど


「不幸な女」ってところに特別なこだわりなくて、単に同情というか護りたい欲のようなものが刺激されるんだと思う。動物的遺伝子だか文化遺伝子だかしらんけどまぁ仮に「守護本能」とする。


守護本能自体は悪くなくて、同情からけっこう踏み込んでしまって、そこに下心(好奇心?)だか恋心だかも混ざって、いちお契約内容みたいなのを確認しつつもわけわからんうちに関係結んでしまって、なし崩し的に責任とったほうがいいなぁ( ^ω^)みたいになる


そんで、「そんなことしてたらキミの身がもたないよ?自分の好みなんかに忠実でいいわけだし、それが人というものだよ −y( ´Д`)。oO○」、とかいわれるわけだけど


たしかにそうで、そういう関係から付き合い始めてしまうと最終的に相手に対して失礼なことになるなぁ、と。そこで覚悟決めて自分なりの道義的責任とって寄り添っていこうかと思ったりもしたけど



親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html



やはりそういうのだとダメなんだろう





反対に好きな人に対して「ともだち以上」意識や守護本能がドライブしつつ恋愛感情に結びついて上がっていってる時に、「( ^ω^)・・・そういうのと恋愛を勘違いしてはいけないよ?」、って一般論的に予防線はられたこともあるけど



まぁ、たしかに。「護る / 護られたい」欲を恋愛の理由とするのは心理的トリックのようなものがあるのだろう。だから冷静に判断すれば「護った / 護られた」ということは吊り橋効果みたいなもので、きっかけにはなっても十分条件にはならない


たとえ守護本能から好意が深まっていても、純粋に「相手を護りたい」ということであれば、相手に何かを期待しないのが邪念のない厚意なのではないか?





頭の中で聲がした




「おまえがあのときに捧げた誓いが本物であると証明して見せろ。自分の思いに溺れてふたたびあの子たちのココロを裏切らないように。踏みとどまってきちんと考えろ」


「『事なかれ主義』とか安いオトナの理屈ではなく、本当に人を護るということを考えろ。それが人の魂を救い、それを通じて自分が救われるということだ」






転んで泣いてる子がいたら助け起こして「大丈夫?」って言ったり、女の子が怖がって泣いてたら見過ごすのではなく代わりに矢面に立って壁になる。

そういうイベント的なことでなくても、日常生活の些細な場面で気持ちを裏切らずに尊敬しつつ護る、というような


ヒーローというかその子の騎士になるというだけ。それが男の子としての単純なあり方だと思う。パートナーという女王(あるいは尊敬する女性)に忠誠を誓い護る。


それをオトナな理屈につなげるのではなく、特に対価も要求せずに護り、それが完了したらマジシャンのように去るということ



献身の在り処
http://bit.ly/id8gp4



そうすることで自分の中の痛みも救われるような気がする。万人に共通することではないのだろうけど。自分が自分に救われている感じ(ヒーローは自分の中にいる)


ヒーローをみつけた日 - 傘をひらいて、空を
http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20110118/p1




オトナの理屈とか生活の惰性の中で自分の純粋な気持ちが歪められていく、自分の内部で自分が自分に嘘をつきそれに誤魔化される、その結果として甘い果実を貪ってしまう…。それが結果的に相手を傷つけてしまう。  そういうことを恐れているのだなオレは


欲が絡んで利害関係が生じて単純な親愛が歪んでしまうこと。あるいは自分がそれをごまかしてしまうということ。



そうなるぐらいだったらなにも要求せずに厚意を捧げばいい。少しチクチクするだろうけど、空腹で死ぬわけでもないし、なにより相手を傷つけないで済む。










守護本能のようなものがくすぐられるというのは「母性本能をくすぐられる」みたいなのとも似てるかと思うんだけど、自分だけかと思ったら「ナイト力(りょく)」とかいってけっこう男性にはあるものなのか



哲雄&AKIの不純愛講座  男の「騎士(ナイト)力」を引き出すのは、どんな女?
http://fujunaikouza.blog23.fc2.com/blog-entry-724.html



「女性側がそれを引き出すにはぶりっこしないこと」みたいな軽い駆引きテクみたいなのは置いておくとして「( ^ω^)ナイトかぁ。。」とか思ってぼへーっとググる



騎士物語
http://www004.upp.so-net.ne.jp/thor/FD/knightstale.htm

http://morutan.tumblr.com/post/10382737955


婦人奉仕の精神について
http://www.moonover.jp/2goukan/parzival/ritter3.htm


Hitotsubashi University Repository Title ミンネザングの「愛」 : 中世南仏・北仏抒情詩人との対 比において Author(s) 清水, 朗 Citation 言語文化, 38: 35-48 Issue Date 2001-12-25 Type Departmental Bulletin Paper Text Version(PDF)
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/8851/1/gengo0003800350.pdf



ざらっというと、「騎士というのは各言語の『馬に乗る人』を意味する言葉、あるいは『従僕』を意味するcnihtに由来する」「傭兵との違いははっきりしない」、「婦人奉仕の精神は騎士道に由来する」、「騎士と婦人奉仕、そこから派生する恋愛ロマンスは恋愛詩(ミンネサング)として当時好まれた」、「騎士道ミンネサングのさきがけであるトルバドールの歌は当時の文学・哲学・神学において主流であった道具としての女性像を覆し、男性と対等にわたり合う女性の姿を描いた点で特筆すべきものであった」、と


付け加えれば騎士道は十字軍との関連で高まっていったものなのであり、騎士団はもともと教会直属のものであった(ex.テンプル騎士団)。だから、騎士道精神の弱者保護とはカトリックの弱者保護に由来するものと思われる。そこから派生して婦人保護→奉仕となっていったのだろうか?「南イタリアの性におおらかな気風がそのような精神を育んだ」とされるが「北フランス、ドイツへ渡っていくにつれて各地のもともとの騎士的性格と混ざり、騎士道やミンネサングの内容も変わっていった」とのこと。「イタリアでは恋愛におおらかであったミンネサングも、ドイツに渡ると『秘めた恋』のような形になっていった」


しかし騎士道の中心はまずもって「神への奉仕」→「教会の意向の代行者」→「弱者保護」というところにあり、それに付随する女性奉仕、そのための各種の研鑽をもって貴婦人たちの心をつかんでいったみたい。それまで男性の道具であった女性の周りで男性が男を競う鳥類の求婚のような世界が展開していたのか。そして、そこでは既婚女性との「許されぬ恋」のようなものも称揚されていた。


ロマンスという言葉は「ロマンス語で書かれた中世騎士道物語」を意味する。当時、高尚な言語であったギリシャ語やラテン語に対して、日常言語であるロマンス語は俗なものとされていた。なので、そこで描かれた恋愛譚はいまだったらハーレクインのような感じだったのだろうか。

そして「ロマンス」というだけで中世騎士道物語に含まれた守護と礼節、許されぬ恋へと飛躍する情熱全体を含意するようになったか。そして純愛


なのでロマンチック・ラブというとき「純愛」のほかに「1:1の関係性」の要素を含むことで混乱するわけだけど、ロマンスにしてもロマン主義にしても「純愛」をデフォにするのでわざわざ「ロマンチック」と冠するようになったのは「1:1の関係性」が先にあり、特異なロマンス的純愛が後付け的に付けられたのかなぁ。。かつてのロマン主義的情熱回帰のように







「守護本能」ということだと父性と母性の話をまたちょっと思う。


蜜蜂を弄ぶ : 父性と母性
http://liyehuku.exblog.jp/16867432/


河合隼雄さんによると父性や母性という性質は性別にバンドルされたものではなく、性別に関係なく男女ともにあるものらしい。父性の特徴は「切ること」、母性の特徴は「包むこと」とか。


とすると、この騎士道的守護欲のようなものも母性ということになるのだろうか?


同時に騎士は敵を「切る」属性があるはずだけど




よくわからないけど自分の中の2つの属性をぼんやり思う。「切る」は単に闘争本能というわけでもないのだろうな。






父性と母性、無条件の守護本能のようなことについてまた思う


無条件の守護 = 愛なのかなぁ、と


愛=無条件、無前提で与えるものなのか?




「与えたら返されるもの」「特に親しくもない誰かから一方的に厚意を贈られるのはあり得ないこと(贈る方も謹んだほうがいい)」というような共通認識があるように思うけど、そういった親子やかなり親しい友人、恋人などといった特定関係における等価交換はそんなに当然なことなのだろうか? 「子は親に、親は子に報い『なければならない』?」


おそらく「即時的等価交換であるべき」ということ、あるいは「親は子を愛を持って育てなければならない」「子は親に愛を感じなければならない」ということ自体があとづけの物語なのだろう

単なる推測だけど、親は自然状態において困窮すれば子を捨てるし、理性的に理想とされる「愛」?のような形で慈愛をもって子を抱擁する存在でもないのではないか?自然界でも本能の機構で出産まもなくは母性によるバインドが生じるみたいだけどあれは理性ではなく自動機構といってもいいだろうし。

出産からしばらくたって自分に対する生意気な存在として目の前に現れてくる「子」を庇護する義務というのは本来ならどこにもないわけだし(完全に社会が壊滅して最後の家族になった状態を想定すればない)。そこでも道義的責任感は発生するだろうけど、それは社会的規範の内面化による後付けに思う。


中世などの生産力があまり整ってない時代環境を想定すれば「子を売る」というのはふつーにあった。そこで親がどのような心理にあったか?「出来れば売りたくない」というキモチが踏みにじられ自らそれを踏襲することからの尊厳の敗北感のようなものはあっただろうけど、もっと単純な、現代と比べると情緒のない選択だったとも思える。良心の呵責をひきづらないような。

自然界において一定期間が過ぎるとまだ身体的に未成熟な個体も独り立ちさせ生計を分ける。それと同じように、人は本来「子供」な期間なんかなかったわけだし、で、あれば子供的なものへの護る義務感も希薄だったと考えられる。一部の金持ちの間で家督のために子供は作られて保護されただろうけど


しかし、「親は子を守る必要はない」「子が親に愛を感じる必要もない」 そういった殺伐とも思える関係性が本来の親子関係であると仮定すると、そこで人間存在の「わたしはなぜ生まれてきたのか?」という根源的な問いが浮いてしまうのではないか?  そしてそこに答えはない



「わたしはなぜ生まれてきたのか?」「わたしはなぜこのような困難な状況にありそれを生きているのか?」


その問いにはなんらかの希望への希求が最初から内在する。その根源的不安を落ち着かせるために設定されたのが「無前提、無条件、等価交換を期待しない絶対的愛情」としての神だったのではないか。あるいは共同体にとって弱者保護が有効であったため「弱者を守ることは自然=神の意に沿うことだ」とされていったのではないか?


そして、そこから割れるように「父」や「母」といったものが当然化されていったのではないか?(生産力の高まり→生産関係の変化→生活が豊かになり余裕ができることによって父、母、子が「愛」を交換できるようになった)




強烈なしつけをされるとき、「自分という存在は親からすると『しつけ=おきて=社会』よりも下なのではないか?いざとなると親は自分を捨てるのではないか?」という不安が立ち上がってくる


[書評]タエ子ちゃんといっしょ おもひでぽろぽろ読本(岡本螢): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/02/post-243d.html



その問いが家族関係の偽善への疑い、無条件の愛のようなものへの疑念が心の傷となって成人しても残る。そして、そういった偽善(オトナ)への嗅覚をいずれ忘れて自分達もオトナ(偽善)になってしまう。踏み絵のように甘い果実を貪って



人は自然状態で放っておけば殺伐と子供を放逐してしまう。だからこそ家族の囲いと家族愛の物語が必要で、資源の乏しい一定の時代ではそうやって寄り添って生きて行くことが最優先だったのだろうけど、資源が増え、自由選択の機会が増えれば家族という物語の幻想も溶けてしまうのだろう。


だから、家族関係がこじれていたら自らの意志で家族関係を再契約することもアリではないかと個人的には思うけど、「この条件が飲めなければ縁を切る」というのは多くの人にとって直面したくない修羅場なのだろうな。(そういうのを嫌がって何年も親に会わず実質的な縁切りになってるひとはたくさんいるだろうけど


しかし「家族」が無条件に尊いものでないとき、自ら選択していない家族にそれほどの意義や根拠としての強さがあるのだろうか?



それに比べれば特に社会的契約書類に表れていない心の家族のような人達のほうがよほど尊いように自分としては思うけど


「そういった人達はほんとにキツイ場面では逃げてくだけだよ」ということなのだろうか?(自分も含めて、そういう場面では逃げてしまうのだろうか?



愛情はモノではなくエネルギーのようなもので、理想的には固定的関係性にしばられずにネットワークを流れていくものではないかと思う。特に家族や恋人といった特定の関係性にしばられずに。


それが一定の関係のもとに縛られざるをえない、愛のフェティシズムとその結果としての嫉妬を呼ぶのは、そこにその関係以外に代替する愛の回路がないからか。


でも、自分としては自分が受けた慈愛(キセキ)を愛が足りない人に分けるのはアリなんじゃないかと思う。それは贈与交換的なもので、即物的・即時的な等価交換は期待されない



そうやって足らないところをなんとなくケアしてけば、凸凹をちょっとずつ出来る範囲で埋めていければ…





ズラズラと「シビアを見つめるリアリストでござい」みたいな感じで推測を重ねてきたけど、そういう形でなかば地獄絵のような露悪を好むのは、自分が「それでもなお無条件の愛が少なくとも親子の間にはあるはずだ」と信じたい気持ちがあるからか。その気持ちを裏切られて絶望するよりは、最初から「そういうものだ」と思っておいたほうがいいから防衛的に物語を作っているところもあるのかも。

だから、「不安な心を安定させるために神(大いなる愛)が造られ、それを模倣するように家族愛ができていった」、と、「家族や近親の愛が自然にあり、その究極系として大いなる愛-神が設定されていった」とする可能性が半々ぐらいに思ってたりもする。




このあたりはなんとなくの思考実験なだけだから保留するとして






とりあえず眼の前の人の騎士になろう







knhight.jpg



http://morutan.tumblr.com/post/10385579945








--
The Lady of Shallot 〜 ピアノレッスン  (七夕と供犠と女の「自由」の話): muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/214043580.html


こころ
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425397494
タグ: 家族
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2011年09月17日

こころ



この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ


そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得やうとする
この傾向を性慾といふ




(一九二二、五、二一 「小岩井牧場」 『宮沢賢治全集 T』ちくま文庫1992年版より)













「異性への要求水準を下げる」よりも大切なこと - シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110914/p1



「社会通念的な幻想に迷わされて無意識に設定していた要求水準を下げるのではなく、要求水準を多様化したらいい」みたいな話


ちょっと前だと「3高」とかいってたアレとかか。理想とする相手や恋愛関係を「金、ルックス、身長、性格、性的魅力、、etc」なんかに分けて、それらをバンドリングして「そこからまからん」とするもの


そういうことではなくてもっと多様な要素にわけて、自分の満足のために要素のプライオリティを編成しなおしては?みたいなの




結婚を含めた長い付き合いでよくある「一定期間が過ぎたら覚めてしまう」ということ。あるいは一定の距離が置かれると覚めていくというのは「スペック中心で見てたから」というのはあるかなぁと思いつつ、スペックはスペックでぢみに重要だったりもするなぁ。。


まぁベタに言うと「やっぱ性格ですよね」も「やっぱ好みのタイプじゃないと」みたいなのも両方含めてバランスよければいいねって話で


んでも、実際問題としてはその前提として人との出会いというのは完全に自由な環境の中で選ばれるものではないので、理想というのは指標に過ぎないということになる。アイドルにいつまでも憧れててもなぁ、みたいなの。



そこで「配られたカードで勝負するしかないのさ」ということになり、そこでの関係性の構築を通して恋愛関係を創り上げていく(むしろこうやって創り上げられたものこそ真実)というところかと思うけど



だからといってあまりにも合わない相手と無理して関係作ってくってのもなぁ( ^ω^)・・・ってことだし、理想スペックフルセットでなければ「自分が最低限欲しいもの」を持っている相手はいる。出会えるかどうかは確率の問題はあるだろうけど



最終的にそこで求められるのは「なんとなく相手がいると自分はいい感じに生活ができる」「こいつじゃないとダメなんだ」的なものだろう。それは関係を通して培われるというのもあるけど、そもそもそのもととなるリズムの協和のようなものもあったり。。


それをプライオリティの上位としつつ、加えて配牌されたスペックの自由編成を自分達なりに行うのが落としどころだと自分的には思うけど






「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



では長く付き合っていく際に必要な根拠のようなものとはなんだろうか?








▽「好き」という感情は幻想 → 長い付き合いにおいて「好き」以上に必要なものとは?




人の意志や、その元となる判断、理性-ロジックは思ったよりも感情によって影響を受ける。感情もそうだけど、理性の外部要因となる部分に理性的思考過程がメタで規定される。思考過程内部でのロジックの組み立ては合理的でも、そもそもその議題に強い関心を惹かれたこと、あるいはいくつかの思考の型のポートフォリオの中からそれを選択したことは一定の恣意性に基づくのではないか? 「あれ?オレ、こないだこういったこと(物語)に出くわしたときにこんなこと思ったっけ?こんなに興味を持ったっけ?」的に


どんなに理性的に振舞っていても性欲や好奇心はもたげるし、そのときの環境に影響されて喜怒哀楽も変わり、それによって思考のリズムも変わる。理知的と自認したり、そうありたいと思う人は性欲や喜怒哀楽的な理性以外の外部要因によって自らが「理性的に」選択した規範やポリシー、そのときの思考が影響を受けてしまうのを嫌う。


その規範が「○○べき」ものとなったとき、個々人に固有のセクシャリティについて、ともすれば罪悪感のようなものを抱えることもあるかもしれない




森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html



健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907





感情はそのときの状況に依存する。そのとき置かれている人間関係的なゴタゴタ、騒音や湿度ほかの不快感、楽しいことがあった時のワクワク感、肉体のバイオリズム、音楽や絵や物語なんかの影響 etc...


恋愛も含めたあらゆる感情は行動心理学的な機構で、一定の条件がinputされれば脳内物質が流れでて特定感情がoutputされるということなのではないか?

シャノン=ウィーバーの通信機モデルのように

http://awareness.secret.jp/sub06/sub0600.html




で、あれば、すべからく恋愛的なもの、あるいは感情的なものは吊り橋効果的な心理的まやかしではないかと思う


特定の人物が好きだというキモチ、あるいは、その逆にキライだというキモチも




だから、関係として「ずっと続いていくもの」を模索するのであれば単なる「好き」とか「気に入ってる」、それらを彩る甘い言葉ではなくもうちょっとじっくりとした意志に関わるような要素が必要になる。「好き」とか「気に入ってる」だけだと自分の欲求(オフェンス)を中心にしているので、相手との関係において自分の不利益になるようなことが生じた場合、自分のエゴを優先するように相手との恋愛ゲームを操作する/されるようになる。対して「ほんとに好き」なのであればまずもって相手の満足を優先すべきであり好意だけではなく具体的な厚意を重ねようとするだろう。

まず嫌な部分・場面を想定して、「それでも相手と付き合っていけるかどうか?」、と問うのがディフェンス重視でいいかと思う。そこで重視されるのが前提としての「なんか合う」とかだろうけど。この部分は人それぞれのプライオリティがあるか


そうやって選択したら厚意の献身を互いに細かくポトラッチすることによって単なる「好き」以上の対幻想を共に育てていく。




「嫌な場面を想定して、それでも相手と付き合っていけるかどうか?」「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすこと」


後者は婚姻の社会的契約の際に半ば謳わされる言葉だけど、じっくりと考える際にもある程度有効なのかも。


ただ、それは戦略的な場面で相手との長い付き合いを考える際に行うべき思考であり、戦術的場面で固定的に運用されるべきものではない。戦況が変わったと思えばどんどん撤退したほうがいいわけだし、戦力配分も変えるべきだし。



そういったことを踏まえつつも個人的にはわりと問題のない選択が済んだ後には、献身的な愛の形を理想とするけど。


自分を押し殺して相手に尽くすこと、たとえ相手に気づかれなくて自分のキモチが報われなくても、相手の満足が向上するように努めること。


そういった形でお互いが自然に相手のことを思いやって、お互いの深い愛、思いやりにあるとき気づくようなこと


それが愛の形ではないかと思う


しかし、それは単に自己犠牲することなのだろうか?







▽愛とは一方的な献身だろうか?その是非は?



デュ・ゲクランに恋人と友人の二人から捧げられた父性や母性のような愛のように



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



あるいは病床のDV夫の黒太子エドワードに捧げられたジョーン・オブ・ケントの献身のように


「おまえがこの先なにをしても自分だけは味方でいる。世間がなんと言おうが自分だけは見捨てない」というような好意の持ち方


それは「子に注がれる無条件の愛」として父性や母性に期待されるものに似ている。







『うさぎドロップ』 宇仁田ゆみ著 もっとも純粋で安定した愛の形とはどんなものですか? - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110903/p3



「家庭環境に恵まれなかった人は恋愛、というよりもその先の『家庭』を目標とする。しかしそこへの自己分析と欲求表現が不器用なものになっている。愛を乞う人は愛の乞い方も、そもそも自分がどういったものを求めているのかもわからなくなる。「愛とはどういうものかしら? そういった低い自己評価やコンプレックスを父性がやさしく包み導く。それはいつか恋愛的なものに転換して行って…」


父性がどのようにして恋愛的なものに転換したか?その契機についてはこのエントリでは語られてないのだけれど。こういう形で父の役割を担うというのは「自分が本当に欲しかった役割をロールプレイ的に演じ直すことで再構築し自分自身を再生していく」というような心理機構があるのではないか?親が子供を育てつつなにかを教えられていくように


そういう形で失われた凸凹を互いに補い、「家族」を作っていく。


だからこの作品では最初の段階では年齢的、関係性的に「父と子」であったけど、その過程で女の子の方に母性的意識が生まれていったのではないか、と。母性や父性という固定的なものというか・・その構成要素としてのアニマやアニムスほかの元型が回転しつつ精神と性の発達を促していったのでは?



アニマ - Wikipedia
http://bit.ly/mQYFZ9

元型 - Wikipedia
http://bit.ly/nJl0na



そこでの関係は近親相姦の閉鎖性や一方的な暴力性ではなく、社会性に開かれたあり方だったのだろう。年齢=経験=知性ということで知識の面では子供と大人だった関係が、厚意の交換、それによる精神の結びつきの面では個人と個人の関係のように成長していった。


年齢差がなくても男女の関係性において一方が結果的に母や父の役割を担っているというようなこともある。男性の精神が幼いため父親不在のようなことがしばしばある。そういう場面で女性がパートーナーと子供の母親役を担わされてきたのだろう




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html




見かけや常識にとらわれず「精神」面だけいえば子供と大人の付き合い、子供×子供な付き合いなんてザラにある。



そして、片方により荷重がかかり依存してしまう、というようなことも






そこではしばしば「無条件の愛」が前提とされる。あるいは、生活を共にすることで「相手はこれをして当然」と慣れてしまう。






▽汎愛や父性や母性であればよいのか?なにが理想とされる「愛の形」なのか?




母性や父性の絶対的赦しと包容のような志向性、それはかつてキリスト教の神に期待された汎愛のようなものだろうか。絶対的な善性のよすがとして、還るべき場所としてつくられた超自我のようなの内部にあるもの。壁の中の卵のような。おそらくは共同体の生産関係の合理性から生み出された掟の集合化したイメージとしての「父=神」




「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html



目の前の辛く苦しい現実に対する希望としてつくられた「神はいずれわれわれをこの困窮から救ってくださる」「神は我々を分け隔てなく愛してくださる」という大きな物語


それを「父」なる規範とすることで、かくあるべき父性や母性、あるいは家族の形が設定されていった




「セックスは元来卑しいもので、子をつくるためにのみ許される。それ以外のセックスのあり方はキリスト教としては認められない」という考え方もまずもって農業のような前近代的生産様式にとってもっとも重要とされる人口を増やすための規範であったのだろうし、そこでは「愛着」もそのためのソフトウェアとして利用されたのだろう。



ロマンチック・ラブ
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/031009roman.html


ロバート・マートンは、北アメリカにおけるロマンチック・ラブが、人間の社会における恋愛様式の中で必ずしも一般的なものではないことを強調して次のように言う。

「どの社会も「激しい情緒的愛着」を認めているが、現代アメリカ社会は、ロマンチックな愛着を基本として、少なくとも一般の人々の考えでは、これをもって婚姻の相手を選択する基礎としている数少ない社会の一つである。この特徴のある選択の型式は、両親またはもっと広汎な親族集団による配偶者の選定を最低限ならしめるか、または排除するものである」(マートン 1961:52)[邦訳『社会理論と社会構造』みすず書房]。

北アメリカ社会では、婚姻選択のみならず婚姻の継続においても、相手とのロマンチックな愛着を維持しようとするために、愛着が無くなったと当事者たちが自覚する時、彼らは容易にカップルを解消する傾向がある。他方、結婚生活が破綻しても、ロマンチックな愛着を求める執着は、離婚後の再婚率の高さにも反映される。つまり、彼らは離婚しても、結婚生活全般への失望を抱かず、結婚相手との愛情が無くなったと感じ、次の婚姻相手を求めるようになる。このことが、北アメリカにおける(他の先進国に対して)高い離婚率と再婚率の説明を可能にする。





特に資源の乏しい社会では人々の自由な選択以前に共同体のパフォーマンスを上げることが重視され、婚姻形態やそのためのソフトウェア(幻想)としての「愛のあり方」のような通念も共同体維持のために変化する。



近代的な自由恋愛の前提からすると前近代の許嫁的なやりとりは女性や男性の自由を奪うものと考えられがちだが、人は案外そういった環境でも満足を得られたり(cf.「乙嫁語り」)



最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html





共同体の人々を効率良く番わせるために集合化した規範がその時代ごとの「愛着」の通念で、番わせた後、子を成して後は「父性」や「母性」のような幻想によって子供の健やかな成長を促す。あるいは、子供を十分にケアできないような環境、子供の衛生・健康を気にするより新たに子を成したほうが効率的な環境では「父性」や「母性」はより都合よく通念化されるか。



だから「愛の形」というのはその時代環境に沿った通念で、ほんとに個人の志向を問えばその時代環境、状況によって変わるのだろう。あるいは自分や相手の精神や性の回路の発達具合によって適した愛の形が変わる(cf.「元型」と「アニマ、アニムス」)


セックスのための雰囲気作りのために共有されるソフトウェア、ステロタイプが「愛着」であるとするなら、そのテンプレートとしてのロマンチック・ラブにおける「純愛」も、それとは形式的には対照で社会通念的には非道徳的とされる「不倫」も、原始共同体的なものにありがちな「フリーセックス」も、SMみたいないわゆる「倒錯的」恋愛関係も等しく変態といえる。

正常位と呼ばれる体面性交が自然界においては特異なのと同じぐらいに、汎愛的な宗教的情操からすれば人の恋愛の形は裸のサルっぽく等しく変態的だろう。それが共同幻想としての恋愛イデオロギー


対して、おそらく個々人の精神や身体の回路・発達と密接に関連した性の指向性がある。いわゆるセクシャリティというやつ


対幻想としての恋愛関係は元来この部分、個々人に固有のセクシャリティのもっとも満足されるあり方、あるいは直接的な性的志向以前の精神の凸凹の相性のようなもの、そこから生み出される「なんかよくわからないけどぴったりと落ち着く」「昔から知っているような気がする」「ここが居場所のような気がする」というような満足感を模索するものだろう。



ただ、その器の形はわかりにくいので、器を構成していく感覚や感情のより実感的な根拠として、身体的実践としての性的交換が模索される。 あるいは、性的交換の実感を満足感を根拠とすることで器の本質的な違いをごまかす。





「ここが居場所のような気がする」という思いもおそらくはまやかしでありそのときどきの心理作用の結果なのだろうが、少なくともそのとき自分は心の満足を感じているということは紛れもない事実だと言える


お腹がすけばパンを食べ、パンを食べれば満足するというほどに事実


体が肉やパン、ぶどう酒などといった栄養を求め、傷ついたときにはリペアが必要なように、心にも心の栄養がいるし傷ついたときにはリペアがいる。


セックスもそういった栄養のひとつといえるだろう。あるいは身体を通じた協働であり、言葉では語り得ぬものの確認や交換のようなもの







▽人は完全な分節化にもとづいた選択合理性を発揮できるのだろうか?



「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225799105.html





心や体が傷ついたときには修理のほか交換できないものか?


人の心はもう少し感情やバイオリズムからアンバンドルして冷静に合理的選択ができないものか?



好みにまつわるスペックにしてもそうだけど





事実婚とロマンチックラブイデオロギー - 腐フェミニスト記-801 Feminist Diary-
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090424/1240534331



<全てが前代に構築された物語であり、本当に理性的に自分達の『自由』を志向するのであれば「恋愛、性、家族」といった要素をバンドリングすべきではない。同様に、それよりもっと細かい要素を自分達の価値やそのときの生活の満足にあわせて再構築していけるはずだ>


理性的にはそれが「自由」として理想とされるのだろうけど、人はそんなにシステマティックに意思決定できない


だからロマンティック・ラブに付随する純愛幻想なんかもそれは個々人の満足の一つとして選択され、実際にそれで満足して生活しているところもある。


問題はそれが個々人のセクシャリティや精神-性-恋愛的対他関係に基づいた志向性を「こうあるべき」と抑えつける場合


一方が純愛とロマンティック・ラブを志向して満足していても、他方はそれを窮屈に思う場合もある。



セクシャリティにしても同様だけど、「こうあるべき」ではなく自分の満足に向きあって、それと相手の妥協点を探ってより効用の高い形を共同して創り上げていくべきなのだろう。



個々人で恋愛の形を自由編成しづらいのならばとりあえず既存の型を借りればいい。ロマンティック・ラブでもなんでもいいけど、そういったセットパックをとりあえず試してみて、あわなければ合うように二人で話しあって少しずつ自分達に合う形を模索していく。


その模索の過程自体が恋愛関係といえるわけだし




ただ、そういった過程というのはしばしば対幻想領域の権力関係によって規定され、第三者的に見て正しいと思われる意見も「( ゚Д゚)<氏ね!屁理屈」みたいな感じで暴力的に封じられたり

好意の力関係(惚れた弱み)、金銭的力関係、あるいは物理的暴力を背景にした圧力などで対幻想における権力関係は規定されてしまいがちになる。




それらはきちんと立ち止まって分節化し再編成できるのだろうか?




そういった交渉がうまくいかないとき、ともすれば二人の関係性を裏切るような決定的な事件が生じる。



「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



浮気や物理的暴力など


それらがあまりにも一方的に不利益をもたらしているとき、法制度的な仲裁が準備されるのだろう。



ただ、それも「浮気(・A・)イクナイ!!」的な社会規範に則った理由で(・A・)イクナイ!!のではなく、ほんとのところをいえばそれが相手に対する裏切りであるから(・A・)イクナイ!!ということ。


浮気がなぜカップルの問題として悪いのかというと「なんだかよくわかんないけど、それが相手に知れると精神的苦痛になるのをわかっていてする暴力行為」だから


大部分の人は(・A・)イクナイ!! のあとは思考停止になって「なんか怒られる(ゴタゴタ修羅場になってめんどい」を本心では理由にするだろうけど、それはただ「面倒だから」って理由だけでほんとに相手の気持ちをわかってない(あるいは理解しようとしていない)



もし、相手のことが自分の身体と同様、あるいはそれ以上に大事な存在だったら、「相手以外の異性と性交渉以上の関係を結んだことが知れた場合、理由はなんにせよその人は精神的苦痛や心動揺を御しきれないだろう」、ということがリアルに想像できたとしたら、社会的に(・A・)イクナイ!! 以前に自分の問題として「できないしあり得ない」ことになるのかもしれない


「相手が嫌がること、苦痛を受けることを『分かっていて』やる」場合、相手が防いだりなんらかの手段で心理的に回避することができないのが分かっていて実行するのであれば、それは非対称的力の行使としてフェアではないし紛れもない暴力だから



反対に、完全なフリーセックスの考えで「相手が特定パートナー以外と結んでも(本心から)構わないし動揺しない」という人であれば「相手の気持ちを想像できない」ということで情状酌量の余地はある。


また、「(できれば嫌だけど)浮気してもいいけどわたしには知れないようにしてね?」というのも、浮気的なものを生理現象として理性的には片付け自分の心身にダメージを受けないための妥協策といえる。



そういった文脈で言えば、「オレは浮気してもいいけど妻のは不倫だから論外」とかいうこと自体が論外だけど…







繰り返しになるけどけっきょくはそこでパートナーとの「なんかよくわからないけどぴったりと落ち着く」という感覚が思い出されるかどうかなのではないだろうか


浮気をする方にしてもされた方にしても関係の修復が可能なのだとしたら、それが「その人じゃなきゃダメ」という満足感が根拠になるのだろうから。





そこが確認されたら続けられるのかもしれない

























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親愛なる人へ: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/142089498.html



「かえるのこはかえる」 / 「おやこのかえるだよ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52701763.html




タグ:恋愛 倫理
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2011年09月13日

「人はより恣意性や感情を排したシステムに近づいていけるのだろうか」とぼんやり


結婚とか長い付き合いみたいなのについてこないだからぼーっと考えてる。けっきょく答えはでないのだろうけど



「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/224412034.html



結論としては「それを当然と思わず、その時々において、(世間や法制度的常識とは関係のない)自分達なりの根拠を厚意の交換と蓄積によって重ねていく」ということだった



「親密性の変容」は未だ読了してないんだけど



資源の有限性と共同体 ≪ Soul for Sale
http://blog.szk.cc/2010/07/28/finite-nature-of-resources-and-community/


近代以前の共同体の規範は生産関係に依存し、限られた資源を効率的に運用するために共同体の長の元にピラミッド構造となり、その成員たちには「自由」という観念自体がなかった


それに対して近代的な家族共同体では一見『自由』が称揚される


しかし、そこでは資源が無限にあるという状態が前提にされてるだけで、実際は一部の人にとってしか資源は無限ではないので、ともすれば資源無限を前提とした『自由』はセレブたちによる抑圧的観念となる。



「最初は保守-バンドルを抜けるために編み出された概念が、いつのまにか保守的な枷となる」というのは「女子力」の話と一緒



モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/225495332.html




なので、「そういった世間的規範にとらわれず自分達なりの厚意の交換を積み重ねていくべきだ」、としたわけだけど



対幻想的な領域で自分達の認識をあらためても、それを囲む親族たちの考え方が前時代的因習を孕んでいたら、それが地味に積み重なって重石になっていくのだろう



私の結婚を喜ばない家族たち|杉本彩オフィシャルブログ 杉本彩のBeauty ブログ Powered by Ameba
http://ameblo.jp/sugimoto-aya/entry-11009882898.html



いくら社会的、第三者的にみて合理的なことを言っていても、家族という間柄ではその合理性は無化される


「難しいことはわからんけど、わたしたち仲良くしたいだけなのになんであんたいつもこじらせるの?」「はぁ?あんたの言ってることは屁理屈でよくわからんよ」といった感じで


そこでは言葉の合理性以外の普段の力関係が話し合いの妥当性をメタで支配し、最終的に単純に「いい人」かどうかだけが問題になる

で、うやむやにしてるうちに資源が減っていき骨肉の争いになるのだろう




そういったむき出しの前近代的暴力に対して距離をとって自分の大事な部分はさらさないようにする、というのが「ふつー」の理性的な人のあり方だろうか



[書評]明暗(夏目漱石): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/03/post_dc03.html


[書評]続明暗(水村美苗): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/06/post-afef.html



それでもなお下品な暴力性は追いかけてきたり、あるいは自分自身の中から湧き上がる本能のような感情を抑え切れない時もあろうが


性や金、子供、それに絡んだ嫉妬、愛憎というやつ







人類が補完されるというのなら、こういった理性からすると無駄におもえるような煩悩を廃して欲しいと思う



「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html




近代が理性と知性を託した機構の総体が国家であり、前近代的には教皇-教会や王が現世的代行者としてその役割を兼ねたのだろうけど


現世の人々の父にして掟、超自我として人を律し守るもの




あるいは、前近代では生まれていなかった私(自我)が近代に入って人々の中に分散していったために、それをさらに統べる樹として要請されたのが「国家」ということだったか


前近代の王や教皇といった属人的で恣意的なブレのある審級ではなく、人格的ブレを排した制度の連結としての無機質でブレのない審級。魂の入ってない父として。その姿はエヴァのリリスに重なる



そこにブレが生じてしまうのはメタに入り組んだ制度の複雑さを統制する頭脳とネットワークが未完成だからだろうし、その運用に極めてブレのある「人」という要素が絡んでるから



スーパーコンピュータとしての国家が完成してしまえば、そしてそれらがきちんとネットワークして帝国的つながりを持ち人の恣意性を排すれば、人類の生活は向上されるだろう



そういった完全な計画性が「共産主義」や「<帝国>」といったSF的なおそれを孕むのは、そこに人という要素が絡んできたから



その意味ではこの文脈でのリトルピープルというのは単なるマルチチュード的賑やかしと言える


[書評]リトル・ピープルの時代(宇野常寛): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/09/post-335e.html




「システムにとってはゆらぎが必要」「新陳代謝が必要」「そのためには人というゆらぎが必要」みたいな話はきちんとシステムの骨格が固まってからの話だろう


そういった形でなら牛河から生まれたリトルピープルにも可能性があるのかなぁ、とぼんやり






子が自らが創りだした父を支えていくという過程


父の張り子に見守られることで、子は自らを律することができるのだろうか




あるいは、そういった形で厳格で常に正しい父を作りつつ「正しい」部分は父に預けて子はそのとんがったベタ具合をメタで自嘲し哂うか(ユーモア?)



超自我と文化=文明化の問題 - 柄谷行人
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/sakabe.html




性や金を基本とした世間ずれから一線引くように






そういった余裕も資源が半ば無限になれば可能か、と新たなゴールドラッシュに期待するけど…




国家-<帝国>の完成にしても、新たな資源の採掘にしてもそれを決めるのは人の意志ということで、やはり人というソフトステートが深化していくべきなのだろうな





まず目の前にある対幻想と、そこから拡がる家族-親族の問題



ほとんどの場合、現実的には親族の暴力性に対して亀のように首をひっこめてやり過ごすのが堅実なのだろうけど、せめて対幻想領域では互いの権力性や感情的固執を相対化し、厚意を重ねていけたらと思う



離婚して1年して思うこと
http://anond.hatelabo.jp/20080422130401










--

国家-経済システムの違いと家族的規定で、再びトッドについてちょっとメモ(家族共同体において規範は生産関係に依存し、それが経済システムやエートスと関係するか?など)










































m_um_uトッドのギロンだと、「(ともすれば、いわゆる「文明の衝突」としておーざっぱに理解される)米国とイスラム圏の対立の構図は、資本主義 vs イスラム圏域のエートスの争いと理解されているであろうが、その経済エートスの規定となるのはそれぞれの文化圏の家族制度の違いだ」、ということからかな2011/09/12
02:38:19
link
m_um_uなので @liyehuku が肌で感じたそれぞれの国の家族の感覚の違いの実感なんかはほんとに興味あるのねわたし http://t.co/7tAoBto http://t.co/5EWMZjY http://t.co/S8yL2y22011/09/12
02:40:10
link
m_um_uまぁ家族的親密圏におけるリソースの交換関係および権力関係、と、政治・経済圏あるいは両者の中間領域としての公共圏におけるリソースの交換関係や権力関係のあり方は違う、だろけど。後者のほうがより明示化され制度的になるわけだし2011/09/12
02:42:11
link
m_um_uその中間項としてメディウムがくるのだよね。だから識字とか出版とか貨幣といったものがここで変数(トリックスター)として絡む。その部分の中世ヨーロッパの主要アクターは商人だったし2011/09/12
02:43:35
link
m_um_u日本の家族制度とその周辺のリソースの関係は特殊とされるけど、これもそういった体系の亜型として一般化して考えてみたいのよね。民俗学周りのモデルとして一般化されてないお話みつつ。吉野裕子さんなんかは課題図書だけど2011/09/12
02:45:41
link




世界の多様性 家族構造と近代性
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帝国以後―アメリカ・システムの崩壊
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世界像革命―家族人類学の挑戦
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以前の「トッドよむよむメモ」


「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215314247.html?1310898475



「資本主義は巨大なくじら」というお話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/135386246.html?1260565305

タグ:国家 家族 恋愛
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2011年09月11日

モード・アングレ(長弓戦術)としての「女子力」の運用、その出自と変遷   〜安野モヨコ上級士官の場合

komokoさんが女子力関連でなんかかいてはるなぁ、とか


No Border : これから求められるのはこんな女子!
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/5808218.html

第6回お題:「女子力」
http://blog.livedoor.jp/noborder12/archives/cat_189357.html


うぅぅんのひとがついったでなんかゆってたなぁ、ということで




「女子力」とはなにか?(仮(雑) - Togetter
http://togetter.com/li/186665





上記でも雑駁にまとめたとおり、「女子力」という言葉は安野モヨコの「美人画報」初出らしい



美人画報 (講談社文庫)
安野 モヨコ
講談社
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女子力とは - はてなキーワード
http://t.co/ueoc2Cx


概要が意外だった


女性の、メイク、ファッション、センスに対するモチベーション、レベルなどを指す言葉。

主にJJ、cancamなどを購読する層がよく使う。【要出典】

2005年-2011年までの雑誌・書籍に於ける「女子力」の掲載状況を独自に調査した結果*1からはJJ、Can-camより購読想定年齢層が上とされるWithやMOREなどに掲載されているように見受けられるが、Scawaii やminaなど、若年層をターゲットとした雑誌や「日経WOMAN」などにも取り上げられるなど、明確な年齢層があるように見えてそうでもないようにも思われる。

amazon.co.jpで検索可能な範囲で調査の結果からはJJ、cancamでは2006-2011年の間「女子力」に関する記事を表紙および書誌データ上で確認する事は出来なかった。

Anecan2011年6月号で「女子力って何だ」という特集が組まれたのみである。




安野モヨコの初出定義から各雑誌に伝播していく流れの中で意味が変化していってると思ってたけど


とりあえず蓋然的な意味としては「女の子が(男に)甘えるために身につけておくべき作法および服装ほかの形式」ということになると思う。もともとの意味としては「女」になることに対するモラトリアム的な感じだったようなのでそこからするとズレがあるか


で、現時点ではcancamやananなんかを購読しているゆるふわ女子が普段にしている外装および行動様式全般まで広い意味では含むものになってるような(あくまでイメージとしては)。そこでは「甘えるため」もしくは「男を釣るため(モテるため)」みたいなのに強調が入ってるように思う


それに対して安野モヨコの最初の「女子力」の使用では既存の型にはまった女性の生き方、セックス、恋愛→結婚→育児まで含めた因習ともいえるステレオタイプに対するオルタナでありモラトリアムというところに強調があったような。。まぁ、美人画報自体は「女子」的服装や化粧への執着を半ば自虐的にパロっていた作品だったように思うので、その部分での自虐が「女」に「子」をつける流れになったのかなぁと思うんだけど。少なくともあの作品の中の「女子」には少し自嘲のようなものがあったように思う。それと同時に「女子」であることの権利のようなものの主張が




安野モヨコと吉澤夏子 - 続・自我闘病日記
http://d.hatena.ne.jp/miyata1/20080822/1221007490

漫画家安野モヨコは「女子力」評論家として名高いらしい。書籍のゴミ箱「ブック・オフ」に積まれていた彼女の『美人画報 ハイパー』(2001年)で知った。ちなみに、安野を一応、復習すると、現在好んで使われる「女子」「男子」は彼女の言語センスより生まれた。(参考資料:『アエラ』02/06/02号)

もとをたどれば、「男子」「女子」は学校でしか使われていなかった言葉。それを校外に持ち出してみたら見事に成功したのが安野である。見た目は男や女であっても、建前上、個人として教育するのが学校であり、その教育方針を示すのが、そして個人として扱われているという(疑心暗鬼でも)気持ちを表現するのが、社会では使われない「男子」「女子」であった。(スポーツ界でも使われているが、使用方法はほぼ同じと私は見る。)

そういう意味があるものだから、社会で使われている「男」「女」、「男性」「女性」というセットが持ち込む、さまざまなニュアンスを回避できる。「女性」と言えば、なにか「女性」を意識しているようで、その意識している「女性」は片意地張っているようなイメージを与えるかも。もしかして、その「男性」を性の対象として意識しているというメッセージが伝わっている可能性も。「女」と言えば、男女平等が達成されてないのにそうであるかのように装っている違和感がせりだすような気も。なにやかやと悩みがつきないところに、ピタッ、とはまる言葉があった、というようなことだと思う。



「女子」を使う理由はそれだけではない。実はもうひとつ「利点」がある。「女子」と呼ばれていた小・中・高校時代は、(建前上)個人として尊重されていたので、洋服も好きなのを比較的自由に着られていた。でも、社会でひらひらフリルは、どちらかと言えば、社会人としての自覚に「欠ける」。ところが、「女子」で個人主義を強調すれば、ひらひらフリルも可能となる。男女という見た目が違うなら見る目も違うし、そうだったら、私は私で好きな洋服を着たい、「女子」のままでいることを認めて、という気持ちがあるのだろう、と私は推測する。



「男子」「女子」という言葉は、多くを語らせるほどの可能性を今のところ保持している。その発信者、安野モヨコ兼「女子力」評論家に戻ると、「女子力」とは、男子にいかに気に入られるか、サポートしてもらえるかを基準として自己演出できる力を意味するそうだ。その「女子力」獲得のためには、外(=見かけ)も内(=心)も「キレイになりたい」と彼女は力説する。さらに続けて「他人のキレイを許せない限りは、ブスのままである」、とまで言っている。スゴイことになっているが、「私は美人になりたい」という個人の意志は当然尊重されるべきもの、という理路ができあがっているのが分かる。そして「美は個人的なもの」を学術にまで押し上げたのが、日本女子大学教員のフェミニスト吉澤夏子(京都大学教員大澤真幸の妻)である。フェミニズムは「個人的なものは政治的である」をモットーにしているが、美は個人的なものとして留めておいた方がよい、と主張し、就職まで得た女である。ついでに言っておけば、この主張のためだけにある(と私は思っている)『フェミニズムの困難』(1993年)は、おおいに「オヤジ」ウケし、フェミニズム本を取り上げるのにいささか乗り気でない新聞からも好意的に迎えられた。私の周りの女性研究者たちは、おおいに憤慨していた。




いわば既存の価値の型にとらわれないためのネタであり半ば洒落として「女子」という言葉を使い始めたはずなのに、それが一部でベタになり「女子がうつくしくあるためにはサポートしてくれて当然」のところが前景化してしまったので、それに対して「女子力って( ^ω^)・・・」とか「30歳(40歳)女子って( ^ω^)・・・」ってアレゲ感がでてるのかなぁ、と


そこでは「女子のファッションは男の気を引くためのものではなく、ファッションそれ自体を楽しむことを自己目的化すること」を防御柵として展開しつつ、不用意に突っ込んできた騎馬(男)のハートを柵の内側や丘の上から長弓で狙い撃ちする。その部分の二枚舌ぶりがともすれば「ズルイ」印象を与えるのだろう。イングランドのモードアングレ(長弓戦術)に対して猪突猛進するフランス軍の謂のようだが


佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html






そういった「女子力」だが、本来は既存の型からの自由(オルタナ)を目指した防御柵や回避行動であったはずなのに、いつの間にか「モテ」や「恋愛しなきゃいけない。。」「きれいにならなければいけない。。」という攻撃のための型に注目があつまり「女子力」という言葉自体がともすれば不自由を強制する枷となって舞い戻ってきている(バックラッシュ)、ということ



それはこちらでも少し触れたわけだけど


最近読んだマンガから  現代日本の「モテ」やら「自由」恋愛とされるものにおける不自由性について: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/212974583.html




「きれいじゃなければきれいなセックスはできないんだ」「かわいくなきゃ人前でわらっちゃいけないんだ」的な圧迫


健全な性欲 - 雨宮まみの「弟よ!」
http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20110907



安野モヨコの師匠ともいえる岡崎京子の作品の主人公たちは、それを相対化するように、性のにおいのしない無臭の身体を身につけ、ときに自らに刻印された女性性を嘔吐していった


自らの肉体を悪魔に捧げることで頂点まで登り詰め、登り切った階段を滑り落ちていくこと、それさえ絵になるキュートでポップな女の子たち





「Helter Skelter」(対訳)
http://beatlesbeatles.blog39.fc2.com/blog-entry-152.html



そういった「女の子」たちが半ば自覚的に「にく」の臭いを排除し、お人形さんのような無機質さをまとっていったのに対して、安野モヨコの描く女性像はズルさとえぐさをともなった性の臭いのするものだった。若い女性特有の傲慢なエゴと自信、愚かさも伴った歪な身体





そして、歪な身体もまとえなかった「女子」は周囲の「女子力」の圧力に対するコンプレックスから潰れて行きそうになっていた




最終的にはそのコンプレックス(脂肪)そのものを「ワタシ」として立ち上がっていき



働きマン(1) (モーニングKC (999))
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「仕事」を通じてエゴを陶冶することで人として成長していった




そして、自分たちの足りないものを埋め合うように結婚に至った


「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





一連の流れを振り返れば、すくなくとも一部で思われてるような甘えを含んだ「女子」の概念に依存し、あるいは振り回されてしまうところから対極に安野モヨコはいるように思う



なので「女子力」って言葉に振り回されるよりは安野モヨコの生き方を見たほうがいいと思うけど、「産み落とした『女子力』の面倒は最後まで見ろ」って窯爺的なこというならそれもアリかも( ^ω^)






--
「女性は結婚し育児に務めるべきだ」というところから女性の生き方の自由、実存を縛るような考えと、少女漫画におけるその表れ、そこからの逃走としての「女の子」をめぐる表現の展開、「腐女子的なものへの着地」、「こんどは腐女子的な形式そのものが不自由な型になっていってる傾向がある」というような話はこちらに載っていておもしろいんだけど

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
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今回は割愛



タグ:女性
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2011年09月10日

「テレビがバカなのか、大衆がバカなのか」 〜「インターネッツ時代になっても本質的な所が変わらなければ歴史は繰り返す」、みたいな話


昨今のテレビ、というかテレビの芸能をめぐる事柄で、ちょっと気になってぶくましてたことで共通するキーワードはやはり「バカ」なのかなぁ




なぜいまどきの大学生はバカなのか - bluelines
http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20110906/1315295815



これ自体はタイトルが釣りで、内容としては「いや、自分はそうは思ってないんだけどね ^ ^」から展開する「バカっていうやつがバカ」「んじゃ、その『バカ』の認識地図はどうやってつくられていったか?」 → 「テレビの影響かなー」って程度のなんとなくの印象な話


もともとブログだし、日記ってことで「ちょっと思った」程度の雑記だと思うんだけど、どっかで釣られた人たちの動線に火をつけたようで、「( ^ω^)・・・(いや、そういう態度とりつつもあなたの内心に学生を馬鹿にする気持ちが見え隠れするんですよ)」的な攻防がコメント欄で繰り広げられてた。これ自体はまぁ難癖程度だからどうでもいいんだけど(叩かれたのも「釣り」の結果だから自業自得だし


「学生たちが元気がない」「小さくまとまってるのはテレビの影響かもねー」ってのはちょっとあるかもなーと思ったので


「学生」とか「小さくまとまってる」に限定されずに一部のテレビ番組の影響で「常識」的なものが狭められて小さくまとまっていってるようなことが一部の視聴者層であるようなぼーっとした印象



そういった流れがあるとすればそれはテレビ側からだけのoutputの結果というよりも、視聴者層がもっている世間的認識を受け取って、そういうひとたちがみてくれるように増幅させて還流させたものだと思うんだけど。




「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110906/1315336631


「純粋テレビ的にマッチポンプしてきたテレビ的面白さと幻想が薄れてきているのでは?」というような話


純粋テレビについては以前に少し記した


終わる(?)日本の占いズム: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/80796779.html



日本のテレビの芸能の内容が、なにか芸を持ったものではなく、テレビであること自体をおもしろがるようになっていく現象の総体


「ため」のテレビだし自己言及的ということ


具体的にいえば「元気が出るテレビ」なんかで出演者がテレビをみて笑ってること自体をコンテンツにしていたような。そこで映されていた内容はしろうとドッキリ的なものだった



そうやってテレビの「お笑い」や芸能はある時点からマッチポンプ的に幻想をつくってきた


それはサイマル放送としてのテレビの本質である広告の原理が「ユーザーの欲望は創りだすものだ。『必要だから買う』のではなくわれわれが欲望を創りだすのだ」というところに由来するか。欲望のシミュラークル


ただ昨今、「そうやって作られた80年代的な消費幻想に生活者は飽きてきたのではないか?不景気ということもあるけど、ピクニックなどのアウトドアを楽しみ車を買わない層、モノに魅力をみいださない層が増えてきているのはそういう認識の変化の表れではないか?」、ということも言われる



「おもしろくなければテレビじゃない」を標榜し、ジャーナリズム的な公共性を後景としたフジテレビなんかはそういった幻想の中心だったのだろうけど



上記エントリに従えばネット的な勢いを持ったフジテレビデモはそのメルクマールであったかも、といえる



ただ、「株式比率をきちんと調べてない」「銀行も介した株の持ち合いの現状についても理解していない」「集中排除原則もおそらく理解してない」「突っ込んだ取材をしていない」という内容の素朴さはテレビの幼稚な転写にも思えるが







「純粋テレビ」や<テレビ番組の影響で常識的なものが狭められていった>ということに効果論的に名前をつけるのであれば培養効果説と議題設定効果説辺りの中間だろうか


意思決定における「Yes / No」の最後の選択部分については各人の裁量に任せられるので当人たちは自分の思考は自由だと思いがちだけれど、それ以前に「Yes / No」の命題を選択してしまっていること自体が影響を受けているということ、というような


具体的に言えば「韓流うんぬん」の是非は置いておいて、その話題にとらわれている事自体がすでに影響を受けているということ


認識のマトリックスが小さなマトリックスの中に狭められていってるような感じ



就職試験との絡みでいえば「まなざし / まなざされるものとして他者や自分も含めて当然とする」というような



「森と芸術」展から  『コレクション』 〜 モノとまなざしと光の記憶: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/207856393.html




そこではよくわからない人事や自称「事情通」たちの就職ノウハウネットワークの中で再帰し増幅された幻想が「当然」のものとなっていく。本来、雇用・評価は職能制であって然るべきなのに、それがメンバーシップ制になってることから生じる曖昧さが歪みとなっているのだろう。そこに曖昧な就職ノウハウ的幻想がつけ入る



濱口桂一郎、2009、「新しい労働社会」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/160935453.html




そういう形でなんとなくの小さな枠組みに実存や「自分で考えること」が回収されていってしまっている





島田紳助が作り出していた世界もそういった印象だった



「ヘキサゴン」や「行列のできる法律相談所」などに代表される彼を首領とした小さな世界での常識、それを元にして「バカをバカにする」という構図。彼が時代を代表するテレビ人であったというのであれば、彼が展開していたエンターテインメントはテレビ的芸能の背景としてある価値観を縮図としたものだったとも言える。基本的にあそこで問われている内容など瑣末なことで、ちょっとしたクイズ的知識→お座敷芸的な余興程度の有効性しかもたないものだったのだが








「テレビはバカと貧乏人のもの」「バカに見つかる」と誰かが言った。あるいは「テレビ番組はもっともバカな視聴者層を想定し、そういった人達にも分かるように構成する」というような話



もともとは映画や寄席などといった既存エンタメのオルタナティブとして、原理的にはそれらをなんでも詰め込める魔法の箱として「テレビ」は誕生した。しかし、初期はまだ新興メディアとしてわいざつな「おポンチ絵」としてバカにされていた。「映画に比べたらあんなものは遊びだ」というように。それで五社協定なんかも組まれて、結果的にこれは映画業界に不利に働いたわけだけど(アメリカのフィンシンルールの経緯と違って


少なくとも初期にはまだそういったほかの演芸から芸をもった人たちが自分の芸をきちんと表現するような場であった。テレビ人自身も生放送という緊張感の中でテレビ独特の芸を磨いていったり(cf.永六輔、黒柳徹子



そういったテレビの中にあったはずの芸や芸人はどこにいってしまったのか?なぜ失われたのか?




上岡龍太郎 第5回 芸人論 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xJx5tnRgXBo&playnext=1&list=PL75C35CE8EAD45240







1960(上岡龍太郎デビューの頃)。寄席(劇場)だけでは食べられないのがふつーの時代、寄席の楽屋でじっとしてる(寄席だけで食える)大師匠は権威があった。それがテレビの出現によって変わった。


テレビ局からテレビ局に移動する芸人のほうが人気や稼ぎも上になっていった


そしてテレビ番組の内容も変わっていった


寄席のコピーであったテレビから独自の「芸」が生まれていく


寄席の空気、空気の一体感を動かす芸よりもしろーと芸のほうがおもしろいことを世間も芸人も気づいてしまった。



寄席の話術がテレビの前では無力である、ということ



「しろーとのほうがおもしろいならしろーと芸をやろう」


しろーと芸の代表:明石家さんま、鶴瓶

しろーと芸を逆手にとったのが:萩本欽一、タモリ




「話術で簡潔に流れるように話すとテレビ的リアリティがない」


しかし


「鶴瓶がしゃべるとたどたどしいがリアルでインパクトがある」



持続力のある芸よりも、下品だけどインパクトがあるものが残っていく


懇切丁寧な説明ではなく、話術的には拙くてもインパクトで伝わる



「テレビの芸はつくりものではなくドキュメントが一番面白い」







パペポTVでの鶴瓶との絡みを懐かしく思い出しつつ、ところどころで漫才ブーム以降の一発ギャグなどの隆盛と泡のような忘却を思う(cf.エンタの神様)


「テレビ独自の芸」として「テレビの前でしろーとなところを見せる」という話から「ひな壇芸人」みたいな話を思った。あるいは「すべらない話」のような元来は居酒屋話のようなものの公開、ダウンタウンが出てきた初期には「おまえらのは漫才やない。チンピラのダベリじゃ」といわれたことなど


「ひな壇芸人」「リアクション芸人」などというのはコンパにおける役割分担なんかに相当するように思う。コンパというのはああいったテレビ的笑い(バラエティ番組)の空間を自然とコピーしたものなのだろう。逆にいえば、現在の「お笑い」番組の内容というのは酒の席でのダベリや一発芸のようなもので古い時代の「芸」ではないのだな。あるいは教室における「キャラ」属性の悪しき展開としてのいじめの問題なんかも




「テレビはしろーとを要請する」という背景はテレビの情報量が詳しい説明をショートカットできるからといえるか。マクルーハンいうところの「クールメディアとしてのテレビ」というやつ。もうひとつはテレビというメディアがその特性としてかどうかはよくわからないが親近性(インティマシー)を要求する、ということ。「有名性の文化装置」(未読)という言葉で表されたりもしたけれど、有名性はマッチポンプ的に作られ、なぜか「視聴者にとなりのおにーちゃん/おねーちゃん」的な親近感を与える。あるいは親近感をあたえるために芸を捨て、番組内で子供のような馴れ合いやいじめの一歩手前?とも見えるような悪乗りを見せる。それは物理的にハードとしてのテレビがある程度のリアリティを体現しつつユーザーとの距離が近いということを日常とすることから生じる錯覚のようなものか。都市に住む近代人は、ともすれば物理的距離が近い隣人よりもテレビの中の人に親近感を抱く。そして、場合によってはそれぞれのアイデンティティ形成のための幻想の材料としていく







ただ、こういった属性は「ハードや流通システムとしてのテレビの基底的なものであり宿痾である」というよりは「大衆的なもの」といったほうが近いだろう


その証拠にインターネットを介したデモ、それ以前のブログの内容や新規ネットコンテンツの方向性にも「テレビ的なもの」の影は見え隠れする



そこで問題になってるのは「テレビ」というよりも「一部の番組に代表される大衆的なもの」といったほうがいいかもしれない


そして、テレビ局はそういったものに応えているだけ (悪乗りもあるだろうけど)。島田紳助もそういった権力に要請されたハブのひとつに過ぎなかった。




その構図は太平洋戦争における民意と新聞、軍部との関係とそんなに変わらない





ただ、「大衆的なもの」を蔑視する視点というのはアドルノ・ベンヤミンなんかに代表される批判理論1stの解釈、あるいは一億総白痴論的なものからの伝統的なものと言えてびみょーなところがあるように思うけど(鶴見俊輔なんかにみられる「大衆的なものの別の側面の可能性」などを想起)





そのあたりの評価基準も結局はきっちりとした経験主義、芸や根拠ということになるかなとなんとなく思う


あるいは「情緒に訴えかける瞬間的なもの」が映像や音の特性であるとする時、それは非文字文化的なメディア特性ともいえるかもしれない。その意味では「文字の文化と声の文化」と漠然と言われていたものの表れでもあるのだろう。

「文字か非文字か」というところが問題ではなく、「分析(モジュール)し反省し再構成するためのツールが用意されているか?」「それを使いこなす知の技法(リテラシー)が編まれているか?」ということ



そういう文脈で言えば、大衆を中心としたテレビにおいて何回も同じ主題が繰り返されるのは口承文化圏において同じ物語(サーガ)が繰り返し語られる様を思わせる。そこでは、時間は無反省に過ぎ去り、またくり返して円環的に循環していく。




上岡龍太郎 第6回 忠臣蔵 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PjsNiMbhYbg





「忠臣蔵の魅力は見るものに分かりやすく登場人物の行動選択を考える回路を用意していること」


「テレビは視聴者(しろーと)参加を要請する」


自分達であーだこーだ言える回路がある  → しろーと評論家の出番




そういえば「忠臣蔵」の話なんかもきちんとたどれば単に逆恨みの集団テロみたいなことなんだけど、今回のインターネッツ時代のデモもフジテレビというお年寄りを悪者に仕立て上げようとして失敗した所があるか。


上岡龍太郎の話に乗れば「もうちょっと討ち入りまでに時間かければよかったんですよ」ということなのかもだが、「インターネッツ時代になっても本質的な所が変わらなければ歴史は繰り返す」ということなのかなあ、とぼんやりと思う






--
フジテレビデモ・島田紳助氏の黒い噂に関して 〜 二十年近く前に上岡龍太郎氏が言っていたことが面白い - じゃがめブログ
http://d.hatena.ne.jp/Asmodeus-DB/20110903/p1





PAPEPO 1995-01-27 阪神・淡路大震災
http://video.google.com/videoplay?docid=-1485836654772041014



posted by m_um_u at 18:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2011年09月05日

「男ってなんで浮気するんでしょうね?」というところから、一緒にやっていく際の根拠のような話


最近、姉が浮気されて離婚するとかいうのでぼんやりと「結婚とかパートナーシップにおける根拠」のようなものについて考えてる




「男はけっきょく『飲む、打つ、買う』っていうでしょ?あそこから抜けられないのよ」と母は言って、自分としてはそういうのとも違う人も知っているので「そうでもないよ」って答えた



「大部分の男はそういうところはあるかもだけどそれは子どもっぽいからで、そういうものよりもなにか大きな、単純な目標持ってる人というのはそんなところでは躓かないよ」と言いつつ



それは自分が尊敬してる人たちに重ねた「こうありたい」という姿なのだろうけど




そういうのは理性的規範といえる









「キスとか体に触るのはいいけど挿れるのはダメなの。おくさんに悪いから」というのは西荻夫婦だったか








このマンガだけでもなくちょこちょこ聞くような話だけど




実際にそういった状況になったときそこで引き返せるのは至難の業で。それができるのは「これはダメ」って倫理的なものではなく、なんとなくチラッとパートナーの姿が思い浮かぶからか



「据え膳食わぬは男の恥」ってことでもないけど、目の前に肉の欲求が触ってきていて、「そのままなし崩し的に」というところで留まれるのは意志の力や理性的なそれではないのではなのだろうか、とふと思う



実際に自分がそういう状況で断れるかどうか自信はないし、そういう勢いとか欲求の志向というのは酒の酔いのようなものとも似てるのだろう






「パートナーの姿が浮かんでくるから」ということで断れるのは倫理以前に萎えるからではないだろうか



体のほうは反応してるかもしれないけどそれをやっても虚しいなぁ、って感じになるというか



自慰から遠のくときの感覚に似てるか






自慰行為というのは性欲と結び付けられて納得されるけどけっこうな場面で「さびしさ」というか「手持ち無沙汰」的空虚のようなところから来る志向のように思う



しばらく人との談笑から遠のいていたり、たのしいことから遠のいているときのちょっとした埋め合わせのような





翻って、セックスに至る理由というのもしばしばそういうものだったり(特に女の子の場合)





別にセックスしたいというわけではなくて「やさしくしてもらい」たかったり、なんとなく心が通じる相手が欲しいだけで、その結果としてセックスがあるだけ、みたいなの

だから女の子のほうのセックスの理由は男の子のほうのやさしさへの報酬みたいな所があったり(話とかにつき合ってくれてありがとう的な




以前に誰かが「わたしはヤレそうな女の子わかるよ」と言っていたのもそういうことなのかなぁ。「自分と同じようなさびしそうな顔の子を探せばいい」、ということだったのだろう








そういうとき「セックス」というのは結果的なものであり、目的ということではないのだろうけどそこでしばしば非対称が起きる


男のほうがどうしてもセックスの刺激の肉体的快感のほうを目的にしてしまう、ということ


あるいは、それ以前になんかざわざわする流れみたいなのの埋め合わせとしてそれを目的とする




それはまぁ「性」という本能的なものにプログラミングされたものだから仕方ないのかなぁとは思うけど、女からするとしばしば「シンジラレナイ」ってなるのはこの辺なのかなぁ




「シンジラレナイ」理由は目の前の自分ではなく欲求がメインであって、相手は自分じゃなくてもいいのではないか?と思ってしまうから。自分とのセックスもそういうものだったのかなぁ、って




でも、それだったら女が「寂しい」って理由で「誰か」を求めるとき、それは目の前の人でなくてもいいかもとも言えるわけだからお互い様とも言えるだろうけど





まぁ一概に「女はセックスに対して非消極的で男は積極的(「やれればいい」的になにも考えず猪突猛進)」とも言えないか


そういった欲求のはけ口的な代償行為的理由とは別に、排卵前後なんかは女のほうで性欲がもたげてたりするし、冒頭で示したように男のほうが「なんか悪い…」って据え膳くわないこともあるだろうから





ナンパ師とか毒婦みたいなのはその辺の「一概に言えない」びみょーなところのロジカルエラーみたいなのにつけ込むのだろう


言葉で「しない理由」を少しずつ壊していきつつ、肉体的には接触の度合いを少しずつ高めつつ


正面から否定せずに、相手の信じるものを述べさせそれに対していくつか例外を出して談笑のうちに相手自身に信じるものを懐疑させる。ソクラテスのエレンコス的なやり方

http://muse-a-muse.seesaa.net/article/218962376.html



そうやって「なんかよくわかんない」ってぼけーっとなったところで目の前に体の温度があるわけだからそちらに「もうちょっと」「ここまで来たら同じ」って誘導していく





言葉とか理性というのはそれだけに依存していたらそういう形で揺るがされる






逆に、「結婚」とか「恋人関係」みたいなのを形式化して契約-当然の拠り所にしていても、実際が伴わなければそれに裏切られてしまうのだろう








姉は「あなたのため」とか「誰かのため」とかいいつつ「自分のため」を隠すような人で、ともすればそれが却って相手のプレッシャーになる所があったのかなぁと少し思う。

もちろん相手の浮気性的なところや、そういった人格ができる背景のようなものがあるだろうけど。男の場合そういうのはだいたいにおいて慢心とか驕りのようなものか



そういうのとは別に姉の都合の良い「( ノ゚Д゚)<女性だからといって差別するな!」「( ノ゚Д゚)<か弱い女のわたしには手を上げれまい」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから守れ!」「( ノ゚Д゚)<わたしは女性ですから!(そのゴキブリとって)」「( ノ゚Д゚)<わたしは女だから修羅場はごめん」みたいな使い分けは辟易だった




姉の場合、そういった頭ごなしの固定的な考えというのは母の転写のようなものがあったかなぁと少し思う



ギャンブル好きの父がどうしようもない人だったので居を分かつまで、姉なんかも矢面だったのだろうし


母の呪いともいうような父へのネガティブイメージが根付いたのかなぁ




「ふつう」の「仲のよい」家庭だと女の子にとって「父」は理想の男像となって、そこから相手を吟味できる基準となるのかもだけど


そういう「基準としての男」の像のようなものがなかったのかなぁ、と







恋愛とか異性間のパートナーシップにおいて無意識的に相手に喪われた父性の代替を頼む所があるのではないか?





だから「自分を守らなければならない」や「結婚したのだから○○であらなければならない」といった規範が先に来て相手のことは見ない面があるのかなぁ、とか





彼女は過去、「つまらない女だな」といって別れられたことがあるといっていたようだけど、それもなんとなく分かる気がする







翻って自分も喪われた父性がなんらかの形で考え方や行動選択に影響しているところがあるのだろうけど









そういった事情もあってか、あるいはそれ以前の母への家庭環境の影響からか


うちの家はけっこう性的情報に対する禁忌があるほうだった




テレビ見ているときに性的なシーンになるとびみょーな空気が流れたり、ふだんからオレに対して「○○はこんなのに興味ないよね?」と念を押すような


タマラ・ド・レンピッカが娘キゼットの無垢に救いを求めた心情と似ていたのかもしれない






吉本隆明的にいえばそういった家庭内の性的話題の禁忌は「社会へと性の関心を向けて行かないということで不健全。近親相姦を内在する」ということになるのだろう
http://morutan.tumblr.com/post/7661771880


吉本隆明、性を語る。 −コイトゥス再考−
http://vobo.jp/takaaki_yoshimoto.html



話を社会全体に広げれば、「そういった形で性の問題を相対化できてないことが社会全体の内向き性(近親相姦のような既得権益への内向性)につながっているのではないか?」ということになるか


「性的禁忌」「家族」「国家」「文明」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/215314247.html




それもまぁものぐさ精神分析的な話としておもしろいけど、ここでは少し置いておくとして






遺伝子的には「異なったもの」「異なっていつつも、生き残っていくのにより適したものを選んでいくのが合理的」ということだと、父親的なものとは違うもの(それに「勝てる」もの)を選んでいくのが合理的ということになるか



そういった「本能」における優秀さの選考は「におい」のようななんとなくの生理的な合う合わないで決められていくのかもしれない




それに対してだいたいのひとがパートナーを選ぶときには「価値観が合う」「趣味や嗜好が合う」「経済観念が似ている」などといったところを基本とする


それは本能的選考に対して文化的選考といえるだろうけど、それも選ぶ際のきっかけのようなもので、最終的には「なんか落ち着く」というところや「この先に一緒にいてどのような未来が描けるのか」というところから相手を決めていくのだろう



後者は対話的理性の結果であり、それを遵守していくのは意志だろう



「恋」とか「恋愛」というのが「価値が合う」「趣味が合う」「なんかいい感じ」「キラキラした幻想(かっこいい・かわいい・きれい)」的なもの、好み的なワクワク感の最初の段階を資源にするのに対して、後者は持続的なパートナーシップとしての契約であり意志なのかなぁ、と




ではそういった契約関係が「(恋ではなく)愛」なのだろうか?





「愛する」ということ  「汎愛」/「他者」/「差別」/ 「聲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/210130222.html




「愛とは見返りを求めない献身である」とするとき、「愛」と名付けられるような関係性の中で排他的に相手を独占するというのはどういうことだろうか



「結婚やそれに準ずるパートナーシップは恋愛関係に比べてより高次の愛の関係なのだよ」といいつつも排他的独占をしているとき、愛というものが自分を捨てて相手を思いやることであればそれは本当に相手のことを思っていると言えるのだろうか?




あるいは「相手にはそれを求めている」ということか?(「自分が差し出すもの」ではなく)




「双方が双方を思いやる」という関係が本当に質量共に同等に返されるのならば、愛情の等価交換は成立するだろうけど



それがしばしば成立しないのは「相手に期待している愛情の質や量」と「自分がしていると思っている愛情の質や量」の間に認識のズレがあるからだろう




紛争が生じるのは「自分のほうが多く出してるのに」というときだろうけど






そういった条件付きの愛情交換に対して、父性や母性といったものは「無尽蔵に相手のことを思いやるもの」ということが期待される



佐藤賢一、1999、「双頭の鷲」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223054960.html



聖人が神の奴隷となるように、親は子の愛情の奴隷となる




そういったことを思えば父性や母性というのは一概に称揚されるべくものでもないのだろう









では父性や母性は利用されるだけのものなのか?




「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html





産む性としての母性はそれを是しとする、かもしれない



そして、それを是とするのは端的には遺伝子のプログラムなのだろう


赤ん坊の笑顔には逆らえないし、「育てる」ということにおいて母性の満足があるように心理的誘導があるか




父性の場合はそういったものから距離をおいてきた



「妊娠」→「出産」という身体的な経験と実感というところからもそうだし


社会的に「労働」と「家庭」を分離させてきたので、「育児」というところから遠ざかっていた



なによりも働き盛りの男というのは「ふつー」子供との接触時間が少ないものだし



「一緒に過ごす時間」の関係で子供への思い入れも違ってくるのだろう




父親が父親として家庭の中で存在感を発揮してくるのは子供が社会のことを考えだした頃だろうし









性をめぐる感覚にも似たような非対称、ズレのようなものがあるように思う






一般的に、「女性は性に対して男性に比べて消極的なのに対して、男性は性に対して積極的」とされる



それは女性が受ける性であるのに対して男性が発する性だからかなぁ




理性的に考えれば、避妊のリスクさえしっかりとセーブできれば女性も性に対して積極的であってもいいはずなのにそれを許さないのはそれまでに構築されてきた社会規範的なことがあるか




ただ、そういった世間体や世間的規範のようなものを相対化してなお、女性のほうが男性に対して性についてなんらかの規範をもっているということがあるように思う




その理由は性的場面において女性が受ける性であるから、リスク的なものがあって心理的に消極的になるかなぁ、と



それはオツムで考えた場合だけど、


パートナーがほかの異性と性的関係を持つことに対して、なんだかわからないけどどうしてもイライラしてしまうから、というのが本当のところか





そういった感情は男性のほうにもあるもので、ではなぜ一般的に男性のほうが浮気なんかに走りやすいかというと性的機会へのアクセス率が女性よりも高いからか(専業主婦モデルで考えた場合)





では、互いに同じように外で働いていて、異性と接する機会や条件が同じであったとき、男性は女性よりも積極的、女性は男性よりも消極的であるといえるだろうか? あるいは排他的独占な感情の表れ方は同じだろうか?





一般論ですべて語れることでもなく「生育環境から育まれた価値観に依る」という条件の違いはありつつも、相手のほうをけまらしく思わない限り、相手が不特定多数と付き合うのは認められて然るべき、というのが理性的なあり方ではないかと思う




理性だけで考えれば






ただ、だいたいにおいて相手との長い付き合いの中で「情け」のような感情的な経路依存が発生していて



それが「愛」-「情」という独占的感情の理由となるのだろう




友-情なんかと同じくそれは無前提の契約のようなもので、言外の信頼というところにつながる





そういった「愛」「情」の色や質感のようなものを思い出したとき、浮気的場面で萎えるのかもしれない







<「性」と「生殖」は本来は異なるもの>だという





「性 は個体が生き残るためのシステム」なので生殖とは違う(分けて考えられる)、が多細胞生物や人では性と生殖がセットに成ってしまっている
http://morutan.tumblr.com/post/9399799213


真木悠介とドゥルーズ、性と生殖の差異|Philosophy Sells...But Who's Buying?
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10622671281.html





人になぞらえれば、「性」は「生殖」(妊娠-出産)とセットになってしまっている



そしてその先には「結婚」「家庭」がある






しかし「生殖」(妊娠)以外のところでも、「性」が「愛」や「情」とセットになっていることが多々ある。


「恋」と「愛」が違うように、「情」も「性」も違うものなのに。一方にとってはバンドリングされてるという認識のものが一方にとってはモジュールとして分岐したものと認識されているので齟齬が起きる





そして相手にハマっ(惚れ)てしまったほうからするとそれはしばしば当然のセットだと思われるのだけれど、一方がその部分で相手よりも「情け」のコミットが少ない時、性を中心にした無前提の暗黙が覆されてしまう







木尾士目の「五年生」の場面を思い出す









*うわのそらブログ* 陽炎日記、四年生、五年生(木尾士目)…読んだ-_-川
http://chibilog.blog16.fc2.com/blog-entry-109.html



「五年生」を読み解く - 農大現代視覚文化研究会
http://blog.goo.ne.jp/moyasiken/e/5a77697071357f4d28fdb0b5e9ccb62e





佳乃が先に心を揺るがせてしまって、そこに距離や生活環境の違いといったものが重なってだんだんとすれ違っていくわけだけど


そういった直接的な場面以前にぢみーなズレのようなものがあって、そこが佳乃の心の揺れとなって表れたのだろうか



主導権的には佳乃のほうが握ってたわけだし



それでアキオは一度別れたあとに吉村さんと関係をもつわけだけど、吉村さんは好意からその関係をもったのではなく単純に鞘当て的にセックスを利用した、というだけだった



で、なんとなく「お互い様」になったところで振り出しに戻ったわけだけど



吉村さんが発していたエレンコス的な問いかけ



「島くんはなに信じてる?  言葉?  体?  ドラマ?」


というのは「理性」「本能」「感情(に通じるような運命的出会いや場面の思い出)」ということに言い換えられると思う



けっきょくこの場面ではアキオはその全てに不十分で「わからない(特別コミットするものがない)」ということを納得させられた上でじりじりと身体的距離を詰められていったわけだけど





そういった問いに対して、佳乃が別の場面で発した言葉がこの作品の暫定的答えとなっていく







「本能に委ねるのも理性に頼るのも違うんじゃないのかなあ   


 わたしたちはそれを両方やんなきゃいけないんだよ

 


 運命の出会いなんてものはなくいつの間にか知りあって何気なくつき合ってて あっけなく別れたりする



 だから自分達をよく見て 周りをよく見て  じっくり考えたり直感で感じたりしてさ


 少しずつやってかないと


 私たちはダメなんじゃないかなあ」








その際「この先ずっと一緒にやっていける」指標のようなものとはなにか?




なんとなくだけど「同じような器で」「いたら落ち着く」というところに戻るか





同じぐらいの器同士で



目指すものが一緒の共同戦線で




どちらかが過剰にハンドリングして主導権を取り過ぎずに 


理性や知性に偏らずに

かといって本能や感情的なものに依存して居つかずに


それらのバランスを保ちつつ自分達の「自由」を模索する




その場のその場の自由を積み重ねていく中で互いに成長していくように



暗黙の「好意」の「出し過ぎ」が紛争につながらないように



じっくりと相手を思いやる気持ち、「厚意」を相手の喜ぶこととして明示化しお互いの気持ちの痕跡を積み重ねていく


欝の心理療法にしてもそうだけど、人はどんなに理性的にしていてもけっこう単純な刺激や反応でできてる動物なので。好意もただ思ってるだけで暗黙にしておくだけではなく、形にして表して行かないとリズムが上がらないのだろうし、そういった行為の流れそのものが「家族」とか「家庭」という状態なのだろう


社会的に定められた規範、「こうあるべき」静態として定まった形式ではなく、動態の結果としてそれぞれの「家庭」や「家族」の形がある



「一緒にやっていく根拠」なんてものは絶えずおぼろげなものだから、だからこそ一緒に作って行かなきゃいけないものなのだろう




確定的な答えはないけどそういう形で常に「とりあえず」な感じで、「とりあえず」をなんとか重ねて人生をサバイブしていくというつもりならばやっていけるのかも、と一旦思っておく









--
黒田清輝「智・感・情」
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_work/oil/oil065.html

http://www.flickr.com/photos/22081105@N03/2827721730/




【ことばをめぐる】(32)智に働けば,夏目漱石,草枕
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/ktb032.htm


タグ: 恋愛 倫理
posted by m_um_u at 19:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

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