2016年09月28日

「相撲の歴史」




なんでこれ読もうと思ったのか思い出すに「古流相撲の源流の部分に四股やテッポウなどのトレーニングの本来の意味・狙いも見いだせるのではないか?」とおもったからかなあと思うのだけど結果的に当ては外れつつけっこうおもしろかった。


相撲の歴史 (講談社学術文庫) -
相撲の歴史 (講談社学術文庫) -


今思うとこれがアンテナに引っかかったきっかけのエントリでもそういったことは書いてあるな。すくなくとも相撲、あるいは相撲の鍛錬の技術的なことについては触れてない。


新田一郎『相撲の歴史』 - 中国武術雑記帳 by zigzagmax
http://zigzagmax.hatenablog.com/entry/2016/05/23/002304



全体としては明治以降、現在のような近代相撲となる以前の相撲の歴史・源流について歴史学・民族学などの成果を引用・援用しつつ述べたもの。

かんたんにまとめると相撲は最初、平安貴族かなんかの前で奉じる相撲節(会)(すまいのせち)から発展していったぽい。それ以前にも「神に捧げるもの」としての意味合いがあったので貴族が余興として鑑賞するようになったというとこもあるかもだけど。「神前に奉ずる」な流れはその後もずっと神社の前での相撲大会として残っていった。それは現代も残ってて地方のいわゆるアマチュア相撲的なものはそういったものなのだろう。相撲はもともとそういった貴族、あるいは神社で奉ずるものだったのだけど神(社)に奉ずるときは勧進のひとつとして行われていた。勧進自体は日本の企業(カンパニー)的なもののもっとも古い形態ともいえるだろうけど、資本主義的な貨幣経済が発達してなかった時代、「集団でなにかをつくる」←「お金を集める」名目としてもっとも強力だったのが勧進だった。すなわち神社の建築とそのためのお金集め。勧進においては人を集める余興が必要でそのひとつとして相撲が使われていた。その後しばらくして武家なんかがお抱え力士をつくって力士サポートするところもあったようだけど、その時代にも地方での神社前の相撲興行的なものは並行して続いていった。


江戸期は江戸に専門の相撲人・相撲部屋が作られ神社以外の場所でも恒常的な相撲興行が行われるように。そういったプロ力士たちは武家なんかのバックアップも受けていた。江戸期の興行の代表的なものは江戸以外に京都・大阪なんかで、四季の各季節ごとに行われていた。もともとは相撲は地方神社での興行がメインだったけど江戸に専門の部屋ができるようになってその中心は江戸に移っていった。



だいたいの流れはそんな感じで後半は読み飛ばしでいいかなあとおもってたのだけど明治以降の近代化において相撲がどのように生き残っていったかのあたりの叙述がけっこうおもしろかった。相撲の「日本古来の伝統」的なフィクションはこの時代に作られたものらしい。明治政府による「富国強兵にいらない余興は必要ない」に対して。髷なんかも切るように命じられたようだけどこの「伝統」をかかげてなんとか回避したとか。あと天皇への上覧が効いたとかなんとか。そういう形で国に依る「伝統文化」的なバックアップを受けて相撲は生き残っていった。



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「習得への情熱―チェスから武術へ」


なんでこれを読もうと思ったのか、honzのレビューで気になって「( ^ω^)・・・非体育会系でまったくスポーツ経験なくてもやり方によっては年取ってからでも武術を極められるものなのかあ。。」というところに希望と目標・参考を感じたからかさだかではないのだけど予想外におもしろかったのでエントリに残しときたいと思いつつなかなかエントリできずにいた。



習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法 -
習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法 -


honzのレビューでは『「一つを極めることで、他の物事も理解できるようになる」習熟の過程を綴った本だ』とまとめられておりそれも間違いではないのだけど自分的にはちょっと違うかなと想った。


一つを極めれば、他は自ずと理解できる『習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法』 - HONZ
http://honz.jp/articles/-/41738


全体的には発達過程における教育学、あるいはコーチング的なものへの関心を綴ったものであり、チェスのマスターになってからはパフォーマンス心理学など行動心理的なところでのパフォーマンスの反映についての関心から綴られている。それは「天才だからできた」という話でもなく一般的にも通じる習熟と持続的なパフォーマンスの発揮の話のように思えた。そういったものの中でも具体的な関心としてエキサイティングだったのがゾーンのコントロールの部分だった。ゾーンというのはプロスポーツなんかで注目されるようになったあの「ゾーン」で一定の分野に通じた人、多くはプロスポーツ選手なんかがある特定の場面で集中力が異様に高まり時間が止まったように感じられる状態、あるいは対戦相手が止まったように感じられる状態のことを指す。その状態に入れば高次のパフォーマンスを発揮できるわけだけどその多くは偶発的に生じるもので自らそれを発動しようと思って発動できるものではない。ジョシュはチェスの大会のときに何度かこの状態を経験しこれを意識的に発動できるように試みることにした。結果的に統制し発動できるようになったそれを彼はソフトゾーンと呼んでいたけど、それはいわゆるゾーンともまた違った高度のパフォーマンス発揮状態なのかなあ、とか。でも、パフォーマンスを高いレベルで発揮できるようになる / それをコントロールできる、ということでは参考になるように思う。


具体的な方法としては複雑な操作過程を半ば無意識に行えるようになるほど繰り返し習熟することで意識リソースが必要な範囲を狭くしていく、というもの。彼はそれを「円を小さくしていく」「より小さな円を描く」として表現している。

これは自分も似たような状態を体験したときに経験したことだなあと納得できる。その上で普段よりもより高い緊張を強いられるような情況に投げ込まれ脳がフル回転することによってゾーンが発生するのだろう。火事場の馬鹿力的に。




なんかさらっと書いてしまったけどこの本自体は表紙も含めて美しく、気持ちの良い読後感がある。才能が目覚める過程への環境 / 周りの人の支え / コーチングなどの部分だと「グッド・ウィル・ハンティング」のうまくいった版なんかを想わせて。

あるいは黙々と巧夫を積み、習熟していくことの探求と喜びに。しずかに透き通っていく感じに







ボビー・フィッシャーを探して [DVD] -
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2016年08月13日

「男子の貞操」




この辺を見てて読んでみようと思ったのだった。


「風俗」と「射精介助」、どう違うのか?<障害者にとっての<性>と<生>を考える>上野千鶴子/坂爪真吾 - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/5920

貧困女子の生態を消費するブームに乗っかっている自覚は、おあり?<障害者にとっての<性>と<生>を考える>上野千鶴子/坂爪真吾 - 幻冬舎plus
http://www.gentosha.jp/articles/-/5996



上野さんは元指導教官ということもあり、あるいは彼女の性格とかマッチョ女性的な考え方もあるのでフルボッコ的な言い方をしてるけど。その中でも「男子の貞操」と「性風俗のいびつな現場」はおすすめされてたので。「性風俗のいびつな現場」は次回以降の読書とする。関連で荻上チキさんの「彼女たちの売春」なんかも読んでみても良いかなと文末の関連図書付録を見つつ思った。








「インタビューで興味を持った」以外に、この本を読んでみようと思ったのは男性のセクシャリティみたいなのをきちんと語る、考えるという意味で興味を持ったので。そういうのはこのblogの依然としたテーマの一つであるし。

フェミニズム-女性学みたいなものに対抗して?たてられた男性学みたいな語りがあるのだけどなんかしっくりこない。どうも弱者男性論と接続してみょーにねじれた感じになって。あるいは、フェミニズムを批判しつつもフェミニズムの悪い部分を踏襲したようなポジショントーク的な感じがするので。そういうのに対して、もうちょっとスッキリと自身のセクシャリティとかリアリティを俯瞰できないかなあ、と。「男もつらいよ」的な語りはそれを中立に行った後で良いだろうし。

その意味でこの本は完璧、というわけでもないけど同じような視点とか問題意識にあるのかなあとか。女性なんかが男性のこういうのを知ろうとするときには良いかもしれない。「感じない男」的な男の子の性意識に関する内情語りとして。


森岡正博、2005、「感じない男」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/52482268.html





ふたたび「男子の貞操」について。結論からいうとちょっとお利口ちゃんにすぎるかなあという印象だった。自分的には。

大意としては、<男子のセクシャリティ、性に関する欲望なんかはだいたいが現代社会のエロメディアの価値観に汚染されてるので、それをまず相対化し、目の前の『ふつー』の女性との日常行為としてのセックスに戻るべき>、というもの。「エロメディア的な価値観はジャンクフードみたいなもの。ジャンクフードはやめてもっときちんとしたセックスをしよう」「女性との付き合いはその社会、コミュニティにおけるふだんの関係性の結果でありそのボーナスようなものなので焦らなくて良い」とか。後者はたとえばその職場・コミュニティできちんと仕事してて関係ができて尊敬されるようになってくれば付き合いは自然発生する、みたいなの。

まあそりゃそうだよねー、って感じなのだけどジャンクフード食べるのってそんなに悪いことなのかな?ッて感じに。食をめぐる価値観にも通じて、すべてを手作りスローセックス・スローフード的な自然食みたいなのにするのも宗教がかってるというか、まあ手間もかかるし飽きっぽくなる。なのでそういうのも選択の一部として選べればよいかなあって結論。食べ物うんたらと同じく。


阿古真理、2013、「昭和の洋食、平成のカフェ飯」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/424606203.html

遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425007585.html



んでもまあこういうのも世間一般のエロ、あるいはグラビア的な男性欲望・価値観のステロタイプに汚染されたひとがみるとそういうのが相対化されてよいのかもしれない。


そんなこといいつつ今日もAmazonアンリミテッドでゴミのようなエログラビアザッピングとかするわけだけど?( ・?・)? ?? 。○(まあでもあれもおやすみ前のちょっとした「お楽しみ」があの程度で済むようになって便利っちゃ便利なんだけど(最近は筋トレで疲れさせてさっさと寝ちゃえ、にしつつ
















セックスの哲学 - Wikipedia

セックスの哲学(英: Philosophy of sex)とは、セックスや性愛に関する研究を行う応用哲学の一分野である。売春、レイプ、セクシャルハラスメント、性的アイデンティティー、同意年齢、同性愛のような現象についての倫理学的考察や、「セックスとは何か?」のような問いに対する概念分析が行われている。また、セクシャリティや性的アイデンティティーにまつわる問いや、ジェンダーの存在論的地位についての問題も扱う。現代のセックスの哲学者として代表的な人物には、アラン・ソーブルとジュディス・バトラーがいる。

現代のセックスの哲学は、西洋フェミニズムの影響を受けている場合が多い。フェミニストが問いただしているジェンダー間の差異、性の政治学(ポリティクス)、また性的アイデンティティーの本性といったテーマは、セックスの哲学においても重要な問題となっている。







上野千鶴子、1989、「スカートの下の劇場」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/388711171.html

「恋愛とセックスの経済学」 / 「家父長制と資本制」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/427900360.html

意味―性―愛: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414101268.html

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2016年08月10日

シン・テッポウ? / 対膝痛トレーニングとしての四股とスクワット


以前にした四股・テッポウエントリの続き的なものとして


四股やら腰割りやらとウォーキングやらランニングやらについて: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/437377800.html


テッポウと膝関連で進捗?あったので経過報告的に。



テッポウについてなんとなく最近わかるような感じになってきた。「わかる」っていうかこれが正しいのかわからないけど効果として実感できる感じ。

ポイントとしては単純でテッポウの開始位置のときの壁に手を当ててるとき、掌をできるだけ壁面から離し、人差し指の付け根辺りだけで体重を支えるようにする、「付け根あたりだけで」っていっても壁面を使った斜め腕立てみたいな体勢になってるから足でも体重を支えてるんだけど、感覚としては「指付け根だけで」って感じ。指の付け根で相手を喉輪してるような。壁面についた指と指の付け根の角度が90度になるように。

ここから「落とす」ように始動することでぜんぜん効果が変わる感じ。全体重が確実にかかってる感じでウッと声が出る。寸勁とかと似た感じの理合いなのだろうか?この荷重を肩甲骨剥がしに利用する。


肩甲骨はがしストレッチ 首、肩、腰の痛み、体の不調が消える! -
肩甲骨はがしストレッチ 首、肩、腰の痛み、体の不調が消える! -

肩甲骨剥がしはよくわかってなかったけど要するに「肩甲骨というのは鎖骨だけでジョイントされてるものだけどほうったらかしにしてると肉に埋まって機能しなくなってる(ので肉から剥がして可動域を広げる)」というもの。

「鎖骨だけでジョイントされてる」というのを解剖図的なので見せられ意識するようになるとテッポウで荷重をかけるときにもどこまでやって良い / やるべきかがイメージされていい感じになった。





膝関連は四股とかスクワットで。




以前のエントリにも書いたかもだけど膝を痛めているので四股に期待してるのは炒めてる膝でもできるような足に負担をかけない筋トレあるいはストレッチということで、じっさい四股を意識してするようになって膝の調子がよくなっていた。でもその理由がよくわからなかったのだけど、今回Amazonアンリミテッド経由などで膝痛に関する本をブラウズしてみて膝痛の原理みたいなのを理解し、四股踏んでるとなぜ膝痛が緩和したのか?も理解できた。



膝、復活: 立つ、座る、歩く、人生の晩年は、膝で決まる (片寄斗史子聞き書きシリーズ―100歳までいきいき生きる国民医のアドバイス) -
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膝痛にも色いろあるのだけど要するに大腿骨と脛骨が直接にこすれて神経が刺激されるのが膝痛で、大腿骨と脛骨のあいだのクッションがなくなっていくのが原因。高齢化にともなって生じるのはそういうのだけど、自分の場合は故障で生じた。たぶん膝の内側靭帯か半月板が損傷してる。O脚だとこの辺を損傷しやすいらしい(日本人の大部分はO脚)。なので、この部分を再生、あるいはなにかクッションを入れる必要があるのだけど、膝痛系でよくみる「膝を伸ばすようにしなさい」というのはここに潤滑液をためるためなのだそうな。そうすると車なんかにおけるハイドロうんたら現象と同じ感じで潤滑液がクッションになる。あるいは潤滑液自体に軟骨なんかの再生作用があるらしい。スポーツをして膝を傷めた人で「膝に水が貯まる」とかいうのもこれのことらしく、危機察知した身体の過剰反応として潤滑液を出しすぎて「水が貯まる」ということになるらしい。なのでそれ系のひとたちは水抜きとかする必要があるのだろうけど、そこまでいってない場合はふだんから膝抜き / 伸ばしをして潤滑液をためたほうがいいみたい。


名医が図解! 腰痛・膝の痛みは解消できる! (3) 膝の痛みの原因と対策 impress QuickBooks -
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やり方としては簡単で、いちばん簡単な座ったままできるものとしては膝振り子運動というのが紹介されていた。まあ座った状態で足をブラブラさせるのを50回ずつ3セットぐらい繰り返すというものだけど。自分的にはこういう構造を理解したうえで四股とヒンズースクワットを日課とすることにした。


膝痛の対策のもう一つのものとして「膝周りを補強するような筋肉を強化する」といわれるのだけど大腿四頭筋が膝の最強の装具なのだそうな。大腿四頭筋、つまり太もものアウターマッスル部分全般。

四股なんかだとインナーマッスル意識だったけど今後はこの辺も意識してやっていく。具体的には振り上げ足のつま先をすね側に縮ませることで大腿四頭筋に効かす。これも膝振り上げ運動の一環として紹介されていた。その際、かかと親指をきちんと意識して使う。O脚なんかの悪いところは脛の構造的に足の外側に体重をかけがちになってしまうことで、歩くときにもきちんとかかとで着地し親指で蹴りだすようにしたほうがよいのだそうな。ここに体重が一直線に乗るように意識して。そいやちょっと一休みの時に足を交差させて立つ楽だったりするけど、あれもO脚だからなのだろう。両足の外側に体重をかけやすいので自然とそういう体勢をとってやすみやすいようにしてる。そういう体制をとってる人がいたらO脚ということなのだろう。




ヒンズースクワットはただしくやるとこういうのに効果するらしくやり終わった後に膝が抜けてる / 伸ばされた感じがする。体重を落とすときに膝に負担がかかり過ぎないか心配だったけど正しくやるときには前に伸ばした腕によってバランスをとるため膝への荷重にはならないぽい。体重を落とすときにはできるだけ後ろに、膝に負担がかからないように意識してかかとに落とす。なんだったらつま先が浮くぐらいでやってる。





全体としては大腿四頭筋に効く。ストレッチ的には膝を伸ばし、筋トレとしては大腿四頭筋に効く。





あとはカーフレイズなんかで鍛えにくい脛・ふくらはぎを。フィニッシュの時にかかとが下がるぐらいの段差があるとこでやるのが良いと見たのでそういう感じでやってるけど足裏に痛いのでマット敷いてやってる。



全体的にストレッチ重視できちんと伸ばしたあとに筋トレ的な感じ





posted by m_um_u at 20:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年08月09日

シンゴジラが壊したものはなんだったのだろうか?




シンゴジラについて。もうちょっと評論めいたことを書きたい(思考したい)、あるいはそういったものを読みたいとおもっていたところでこのエントリで刺激されてなんか書きたいと思ったのだった。

希望の時代の中で―『シン・ゴジラ』雑感 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/08/01/in-the-hope-age/


書き方は異なるけど似たようなことを思ったのだろう。つまり、「ゴジラというものは何の象徴だったか?」そして「それは現代でも通用するものなのか?」


「ゴジラってなに?」というとビキニ環礁の核実験から生まれた怪獣で、文明の負の遺産でありシステムに対する怒りであるってかんじなのだけど、それがリアリティをもったのはそういったシステムが戦後のカタストロフの中から立ち上がり構築されていった時代だったのだろう。

最初に構築されたシステムなのでスマートでもなくさまざまな問題を抱えつつ乱暴で暴力的で、それがゆえに市民の生活の方に問題が溢れていった。公害問題とか。

なので初期のゴジラは具体的には公害の象徴的なものだったともいえる。まあシステムの圧力によって生まれた問題の代表的なものが公害だったのだろうからそれだけがゴジラ的なものに代表・象徴されていたわけではないだろうけど。

この時代の人々がゴジラ的なものにマンゾクした背景にはそういったものがあったのだろう。逆らってはいけないオカミ的なシステムに暴力的にNOをつきつけていく存在。力道山と白人レスラーの関係にも同じ。

ただ、彼らがそういったイデオロギー的な理由から作品を鑑賞し満足していたかというと単に目に映る怪獣の光景が新鮮でおもしろかったからというのもあったかもしれない。プロレスも当時は斬新で刺激的な暴力ショーだったのだろうし。

ゴジラのリアリティの初期というのはそういったものだったのだろう。未だ怪獣のリアリティが通じていた時代。

そういったリアリティ、未だ消費財的なものが新鮮で、コンテンツ的にも新鮮なものがあふれていて、未だ見ぬ未来の発展をいずれ来るものとして信じられていた時代のリアリティ。初期から中期にゴジラ映画を愉しめていた背景にはそういったリアリティがあったように思う。

しかし、そういったリアリティも必要な耐久消費財が整い、物があふれ、あらゆるものが新規性を失い、退屈でシラケたものになっていった。いわゆる後期近代であり不可能性の時代へ。われわれは未来を信じる可能性を失っていった。

ゴジラ的なもの、あるいは怪獣的なものやSF的なものはそんな感じで、予定調和されシラケきった現在-未来の中で一般の人には受けるはずもない不可能性を抱えている。一部のヲタとかなら別だろうけど一般には「ゴジラなんか怪獣映画きょうみなーい」というのがふつーの反応になる。

ただ、今回の「シンゴジラ」が評判をもって受け入れられたのはそういった怪獣映画の系譜を継ぐものではなく、ゴジラを背景にした人間ドラマだったからだろう。われわれがなかなか見ることのない官庁の専門職の人々の様子。そこには未だ優秀で信じられる人間がいるということにリアリティをともなった希望・胸熱を感じ、あるいは311では到達できなかった未来を垣間見せられたことでカタルシスを感じられた。


(怪獣映画という)不可能性のなかで未来への希望を感じられる可能性が生まれた。


それはかつて楽天的なSFのように望まれた<未来>とは異なった、シビアな現実主義の時代を通り抜けた上でのかすかな<希望>ということだろうけど。ただ、その「希望」も過度のロマンティシズムに基づくものといえる面もある。




ついったでは何度か言ってたけどシンゴジラのストーリーラインというのは自分的にはそんなに斬新でもないのだけどなんかみょーに持ち上げられてるの見るとうーんてなっていた。

庵野秀明・樋口真嗣、2016、「シンゴジラ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/440705100.html


好きだし面白いと思うんだけど稀代の傑作みたいな言い方されてるの見ると。。(まあ人の評価とか印象はそれぞれだから良いのだけど一般論じゃないよねソレってかんじ。ヲタ的な怪獣とかウルトラマンとかの特撮の系譜を踏まえた上でのオマージュ-お約束、と、そのうえでの自衛隊他のヲターマニア心くすぐるアレのあたりはわかるし、内閣府あたりの骨太描写もその一つといえばそうなのかなあと思うのだけど。あれってここ最近人気の「日本はまだまだやれる」系の企業ドラマの描写の仕方のように思える。「下町ロケット」とかそういうのと同じような(或いはソレに属する「龍馬伝」的なのと同じような)。それと311を想わせるものをからませたので思ったよりカタルシス(あったらよかった現実)になって一般的なとこに遡及したのかなあとは思うのだけど。「ALWAYS 三丁目の夕日」がハイパーリアリティ的な昭和ロマンティシズムといわれびみょー感持たれるのと同様、一連の企業ドラマってそういうのの系譜なんだとおもう。




「趣都の誕生」を読んでいると都市の建物というのはその時代、その都市の人々の未来観を反映するものだという。

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ -
趣都の誕生 萌える都市アキハバラ -


「未来」でありその時代環境の欲望や理想を体現したのが都市の建物のデザインということになる。

ただ、オフィスビルの外観というのはある時から時間を止めているらしい。ほとんどはレイクショアドライブ・アパートメント様式になってる。看板方式でシュッとした長方形のガラス張りのビル。ルードヴィッヒ・ミース-ファンデルローエのデザインなのだそうな。団地に共通するデザイン(ユニテ・ダビタシオン)の元はル・コルビュジエだとか。




そういったビル、都市計画というのは官の主導であったが、だんだんと民も加わっていった。いわゆる森ビルとか、あるいは渋谷や池袋への西武の出資とデザインとか。都市デザインの官から民への時代。

アキハバラはそういった都市ビルのデザインの進歩を無視し、そんなに魅力のないビルに個々人の趣味としての垂れ幕がテンプレされていった。その意味で都市デザインは官→民の時代を経て「個」の時代になったとか。まあそれはデザインされたものではなくデザインを放棄した場にバラバラの趣味が表出され趣味と趣味がリンクされたという程度なのだろうけど。

シンゴジラの終盤、ゴジラを囲んでいた高層ビルは未だ建てられていない建物なのだそうな。それをCGでつくりだし破壊しゴジラに浴びせかけた。そのゴジラもまたCGでつくられたものだった。

そのことを象徴的に読みとると、われわれはもはや現実へのリアリティを失い、あるいはCGのなかでに期待される先取りされた未来をさえなんだったら破壊して差し支えないほどの決断力を有したといえる。それをモッタイナイと躊躇するのではなく、その期待に思考停止するのではなく。

かつてゴジラやモスラが壊したもの、あるいは壊そうとしたものはその時代のシステムであり未来の象徴だったはずだけれど、シンゴジラでゴジラがが壊したものはなんだったのだろうか?

未来、ではあるけれどけっしてゴジラなどの虚構の存在を通してしか破壊できないようなシステムと直結した構築物としての未来、ではない、なんだったらわれわれの決断によって破壊し修正できる未来。

それは「ゴジラが壊した」、のではなく、「われわれが壊した」のだった。

そして、

だからこそわれわれが建てなおしていける      
                    











                       のかもしれない





















8月6日  /  意味のテンプレ|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n8c315a1d618d

posted by m_um_u at 22:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年08月03日

庵野秀明・樋口真嗣、2016、「シンゴジラ」



昨日「シンゴジラ」を見てきた。シネマ会員カードでちょっと安い日だったしついったのTLでみょーに評判で、RTとか連弾でされてきてうざいなあという感じだったので、「見ずにうざいっていってるのもなんだし」「まあこれも縁起物」ということで。

シン・ゴジラ - Wikipedia

このウィキペディア、ついったに流れてきたtwからすると「ネタバレを過分に含む」ということでページ上部にも「このページは荒らしや編集合戦などのため、方針に基づき編集保護されています。現在の記述内容が正しいとは限りません」「現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています」な但し書きな異様感があるのだけど、そんなにネタバレかあ?これって感じがするし、だいたいあの映画ってそんなにネタがバレて興ざめするようなものだったのかな?とかおもったり。

ここでのネタというのがどの部分を指すのかわからないのだけど、ストーリーということだと自分的にはそんなに新鮮でも斬新でもなかった。好きな型のストーリーではあるのでおもしろかったけど。知ってる型なのでお約束的な物語の流れを楽しんだ、ぐらい。

まあ言ってしまえば、「日本という国の病理は組織病であり、そっちのほうが怪獣とかよりも問題だ」「その病は緊急時に危機感が持たれることに寄って初めて解かれ、皆が利害関係を廃して協力するようになる。共通の敵に対して」、というもの。後者は「インディペンデンス・デイ」なんかでもおなじみの。

前者は先日来noteの日記でも言ってるもの。「政策-選挙っていったってけっきょく官僚は変わらないのだし、そういった組織の部分の空気や意思決定機構を換えないかぎりどうともならないだろう」。ここから「じゃあ一度全部壊してそこから立て直したほうがいい」とすると「オールドテロリスト」と同期する。その意味で、ストーリーラインやそこで描かれる政治経済的なディテールというのは村上龍の一連の関心に属してるものに思えた。「五分後の世界」とか「ヒュウガ・ウイルス」とか。あるいは、そういった村上の政治経済ものの端緒としての「愛と幻想のファシズム」。

愛と幻想のファシズム(上) -
愛と幻想のファシズム(上) -
愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫) -
愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫) -
五分後の世界 (幻冬舎文庫) -
五分後の世界 (幻冬舎文庫) -
ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界 2 (幻冬舎文庫) -
ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界 2 (幻冬舎文庫) -
希望の国のエクソダス (文春文庫) -
希望の国のエクソダス (文春文庫) -
オールド・テロリスト -
オールド・テロリスト -

「新世紀エヴァンゲリオン」が「愛と幻想のファシズム」のパクリというわけではなく、同作品が庵野の血肉となってるとこからの派生であり結果なのと同様に「シンゴジラ」と「オールドテロリスト」の位相が同期したのだろう。「シンゴジラ」制作進行中に「オールドテロリスト」を参照していたわけではないだろうけど結果的に問題意識や視点として同期した。

ただ「日本という国(腐った組織)を根本から壊してつくりなおす(スクラップアンドビルド)」としたとき、その手段としてテロを選ぶか怪獣を選ぶかで違っていた。というか、ゴジラというギミック、SF的舞台が選ばれたのはたまたまで、ゴジラという要素がなければこの映画のストーリーラインとしては「腐った国を立て直す」→「だったらテロもしくは革命だ」といったものだったのだろう。そこから逆説的にこの映画におけるゴジラは革命やテロ的なものの象徴として機能しているともいえる。
なのでこの映画はゴジラが主体の怪獣映画、ではなく、日本の組織や空気、その改革をメインとした群像劇といえる。その意味で「踊る大捜査線」の雰囲気にきわめて近い。単にゴジラの舞台の大部分がウォーターフロントで、「室井さんの怒り顔がゴジラに見える。。」というのもあるのかもだけど。

また、全体的に3.11 → 原発事故における政府対応がイメージされた。特にゴジラ≒核の恐怖から疎開する住民の姿が。直接に3.11や原発のことを描こうという意図があった作品ではなかったのだろうけど、日本という国で直近でもっとも政治的に分かりやすかった事案がそれだったのでモデルとなったところはあったのかもしれない。核つながりでもあるし。

物語的にはそういった政治的、あるいは密室の組織的なとこでの群像劇なのでこの映画のストーリーをもって賞賛してる人の大部分はそういった部分に惹かれたのだと思う。なので、なにか感想なりを述べるときにも素直にその部分について賞賛しとけば良いと思うのだけどこの映画の裏の部分、ヲタ的なギミックの部分への賞賛と混ざってなんかよくわからない合理化がされたりしてる(「庵野はアニメーター的な職人気質でミリ単位のカメラワークを要求した」とかそういう)。

そうはいいつつも自分も物語的な部分で上がるとこはあったし、最後の怒涛の意思決定と協力な部分で「よっしゃ╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ 」と心のなかで叫んでたりもしたのだけど、あそこでの感動やカタルシスの大部分は長谷川博己の演技の説得力に依るのではないかと思える。特に最後の方の演説の部分。なのでこの機会に「鈴木先生」見てみようかなあと。ちょうどアマゾンプライム動画で無料で出ててウォッチリスト入れてるし。

映画 鈴木先生 -
映画 鈴木先生 -
「この映画は群像劇であり怪獣劇ではない」とはいったもののこの映画のB面的な部分はきちんとそこがメインとなっている。特撮系のヲタ知識に乏しいのでこの辺の知識はわからないのだけど、ゴジラを初めとした一連の怪獣SF、あるいはウルトラマン的な特撮のお約束を踏襲してるような雰囲気はカメラワークやカメラに映し出される色味からも感じられた。怪獣な場面になるとみょーに昭和的?とおもえるような撮り方がされてるとこがちょこちょこあったので。たぶんああいうのはお約束なのだろう。
あとは戦車や飛行機などメカニカルなとこや、鉄ヲタや地下建物ヲタもうならせるようななんかがごっそり入ってた予感。なにせ「あの」庵野の作品なので。むしろこの部分を撮りたかったがゆえにゴジラ案件を受けたのかもしれない。その意味では群像劇的なストーリーはこれを載っけるための理由や型に過ぎない、ともいえる。


監督不行届 (Feelコミックス) -
監督不行届 (Feelコミックス) -

そういう意味ではこの映画は怪獣映画としても機能していたのだろうし、むしろこれをディスクで買って手元に置く人というのはそういうところで価値を見出して何度も楽しんでいくのだろう。スルメのように。


印象としてはシンエヴァ制作で救急としたなかで「巨神兵東京に現わる」を受けて東宝から持ちかけられた話をゴジラアナザーストーリー的に表したぐらいのものだったのだろう。巨神兵にゴジラをテンプレした感じの。なので「巨神兵」≒「使徒のプロトタイプ」のアナザー的なものがゴジラとして描かれて終劇する。

ストーリーとしてもそんな感じで、巨神兵的なもの、あるいは自衛隊などのヲタギミックを大量に投入するテンプレとして適したものがストーリーが選ばれた程度だったように印象するのだけど、まあこんな感じであまり練らないほうが却って大衆受けしやすいというのはあるのかもしれない(サザンオールスターズのいとしのエリーとかTSUNAMIみたいに



あと石原さとみがエロ、というか知的セクシー格好いい感じでよかったです(ヽ´ω`)ああいうのもできるんだねえ。。(そして庵野作品はああいうのがちょこちょこ出るのだけどなんかあるのかねえ。。リツ子さんとかミサトとか知的にデキるけど性にも奔放みたいなの)











「エヴァ破」をめぐる「父性」「母性」「愛」のあり方と行方みたいな話: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/223289573.html

「進撃の巨人」を7から17まで一気読みしてみてうんたらかんたら: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/430031910.html


ネコ、じょじょに回復 /  サガミハラ|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n0e9b6854a42a

暑中一休 / いのちの値段|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n450c07d20e22




村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/iidaichishi/20160803-00060706/









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2016年05月21日

漂白される社会





漂白される社会 -
漂白される社会 -





読み始めたばっかのときに「とりあえず共感するところ / 自分の問題意識的に重なるところがあったのでその引用をメインとしてメモ的にエントリしとこう」と思ってつくっておいた草稿。

もう読み終わったのでなんか付け足してエントリにしても良いのだけど、これはこれでこのままで良いのでメモ的に置いとこう。なんかいいたいときにここからの関連でなんかいったり言わなかったりするかもだし。




社会のいたる所で「周縁的な存在」から何らかの偏りや猥雑さ、すなわち「色」が取り除かれ、「周縁的な存在」にとっても、その外部にとっても「自由」で「平和」な状況ができつつあること。また、それに支えられた「豊かさ」が、ある種の均衡状態を構築し、多くの人々を「幸せ」にしていること。

そして、その「幸せ」こそが、人々を不安、不信、さらには「不幸」へと追い落としもするということを―。


その構造に気づき、これまで見てきた対象を再度振り返った時、それらに共通する社会のあり様をまとめるためには、「漂白」という言葉しかないと考えるようになった。

原発は、かつて30年で潰されるはずであったにもかかわらず、40年を超えてもなお稼働されることになり、多大なリスクを抱えている。また、スカウト行為への規制が強化される歌舞伎町の路上で生き抜くスカウトマンは、悩みを抱えて占い師のもとを訪れる女性客の存在に目を付け、彼女たちを風俗店に斡旋していった。原発や歌舞伎町、そして本書に掲載した様々な対象は、「漂白」された「周縁的な存在」という一つの軸でつながりあっている。


これらは全て、自らがそのリスクにさらされない限り「見て見ぬふり」をできてしまう。「漂白」された「周縁的な存在」が、社会の表面にせり出してくることはないからだ。





「彼ら」は「周縁的な」存在や出来事を「見て見ぬふり」する



「もう終わる、すぐ終わる」「あれはダメだ、それを潰せ」「変わる、変えなければ」と、社会の中で相対的に目立ってしまった「ネガティブな何か」を探し出しては、そこを回転の軸にしながら、社会はいまだかつてないほど大きく、思いの他活発に動いているように感じられる。それは、「ネガティブな何か」が大きければ大きいほどなおさらのこと。

こうして、浅はかな「希望」が生まれては崩れてを繰り返し、それを取り囲んで起こる「祝祭」が非日常を演出する。その時々に選ばれた「敵」の象徴と、それなしには支えられない「友」の象徴が社会を浮遊し、人々の想像は暴走する。そして、非日常への熱狂の後には、退屈な日常が舞い戻り、以前と変わることのない日々は続いていく。


現代が、例えばかつてのように「暴利をむさぼる資本家」「民衆を抑圧する権力者」「克服すべき貧困・差別・暴力」という「絶対的な巨悪」を想定できる時代ではなくなったとするならば、それは、「闇の中の社会」だと言える。なぜならば、「絶対的な巨悪」があってこそ、それを打ち破り、困難を乗り越えた先に、眩いばかりの光の存在を感じることができるからだ。

そして、その光を目指す高揚感のなかで、社会は一つの秩序をもって営まれてもきた。現代とは、その秩序が失われた社会だとも言えよう。




光の存在をどこにも感じることができない、闇の中にある時代がもたらす不安は、人々をある種、宗教的な社会現象へと再編する。単純でわかりやすい言葉・経典(答え)を求めては、「これを信じろ」と社会は凝縮し、価値観の異なる「異教徒」を(でっち上げてでも)探しだしては叩き潰す。そして、「あいつらはおかしい、とんでもない」、あるいは「こちらを信じれば救われる。さもなければ、もはや……」と、「陰謀論」や「終末論」の発生にドライブがかかり、そこに浸ることで、生きる意味と充実感を得る者が現れる。



「彼ら」は「単純でわかりやすい言葉・経典を求めて」は「価値観の異なる異教徒を探しだしては叩き潰」す。水素水やホメオパシーやアベシンゾーや。そして、その場その場のわかりやすい規範に従う。


今、求められているのは、安心できる象徴を闇の中にでっち上げたり、ありもしない光を無理矢理に想像することではない。先行きを見通せない閉塞感のなかで立ち止まった時に、そこに芽生える現実が示す、その恐怖感から逃れてはならない。

目を凝らしながら、闇を闇として見つめ、少しずつでも歩みを進める。手の届く範囲にあるものに軽率に飛びつくことをやめ、複雑なものを短絡的に単純化すべきではない。ろくに手足を使っていないにもかかわらず、わかりやすい答えが見つかりそうになったとしたら、それは先入観や偏見でしかないと拒絶すべきだ。

丹念な作業の末に、闇の中にも目が慣れてくると、巨大に感じていた「見えない化け物」が、たとえ自らの手で扱えるものでなかったとしても、自分と同じような「何か」であることにも気づくはずだ。





それは端的には言えば「快との接続可能性が高度化した社会」であるとともに、「不快との共存が許容されなくなった社会」でもある。

ITの発展のみならず、政治・経済を含めて様々な要因が絡みあいつつも、確実に人もカネもモノも流動化するなかで、これまで存在してきた価値ヒエラルキーは崩壊し、独立的(=閉鎖的)な集団群が形成され、その背景にある歴史的な連続性は断ち切られた。そして、一方で、これまではそれぞれの「ムラの論理」(同一性)の中で生き、「他のムラの論理」(他者)と出合わずにも済んできた人々も、かつてとは違って他者と"出合ってしまう”状況が進み、他方で、これまで「ムラの論理」から逸脱したものを規律・訓練してムラに組み込み直してきたメカニズムが、「別々のムラの論理を持つ者同士」の共生(多様性)を高度化した資本や技術によって管理・統制するメカニズムに代替されつつもある。


その前提のなかで、人々は「葛藤し合わない」形でのみ社会的に包摂され、「葛藤し合う」もの、すなわち「あってはならぬもの」は社会から排除・固定化、もしくは不可視化される。

ここで述べるような包摂(inclusion) / 排除(exclusion)という枠組みは、ジャック・ヤングの議論を踏まえてなされている。あまりにも大雑把なまとめになってしまう(それぞれの概念を精査し、詳細は稿を改めて検討したいと考えている)が、ヤングは、社会から逸脱するものを社会に同化し安定性を求めていく包摂型社会が、後期近代(1960年代後半以降)には、個人主義や多様性を重視する価値観が広まるなかで、社会から逸脱するものを排除する「排除型社会」へと移行していったとする。

そして、排除する側・される側の消費や労働に関する価値観が近づき、その境界線が曖昧化することで(文化的)包摂と(構造的)排除が同時に起こる「過剰包摂(bulimia = 過食症)」(例えば、一部の者が特権を享受しているにもかかわらず、不平等や格差が見過ごされるような状況が起こることなどを示す)が起こっているとも言う。それらは、ここまで見てきた「固定化」や「不可視化」を起こす要因の一つとして踏まえるべきだ。

ここまで述べてきた「あってはならぬもの」とは、「共存が許されなくなった、不快に思われるもの」だった。「あってはならぬもの」がなくなれば、確かに快適で、便利で、安全な生活が訪れるようにも思えるのかもしれない。そして実際に、社会はそうなってきているようにも思える。

しかし、起こっている事態は"それだけ”なのだろうか。








戦後社会において、セーフティネットとは、「教育」や「社会福祉」のような法制度として政治的に用意されるものだったのかもしれない。しかし、現代日本に生まれつつあるのは、市場メカニズムが用意する、セーフティネットとは認識されにくい「グレーなセーフティネット」であり、それが住居や職探し、心の安住につながる人間関係を用意し(第三章)、あるいは、社会的に排除され、いわゆる「包摂策」として提示されているオプションからも排除される者を、戦後育まれてきた行政・制度に接続することも行う(第四章)。終身雇用・年功序列の社会で、幸せな家族でマイホームに住むことは、限られた者にとっての選択肢としてしか存在しない。

無論、社会的排除に対する社会的関心それ自体が失われているわけではない。むしろ、その時々に喧伝される「絶対的な聖域」をめぐって大きな議論がわき起こり、また、政治や行政はある方針を打ち立て、「快適・便利・安全」な社会につながるかのような「正論」の側にポジションをとった者が、その中で優位性を確保することにも似た状況ができる。

しかし、実際はむしろ「叩いていいもの」となった、その「絶対的な聖域」の「理解できない」こと・ものの内実には誰も触れないが故に、本来そこに存在した「あってはならぬもの」が抱える「改善されるべきこと」は、改善されるどころか、むしろ関心の対象として排除・固定化され、より不可視化される(第五章)。

そして、不可視化された「あってはならぬもの」は、二つの方向に進みながら生きながらえる。一つは、以前からあった人間同士のつながりと情報技術が相まった新たな対応システムで、性や規範の網をくぐり抜ける方向だ。対応システムに対する規制要因は常に生まれるが、その規制を常に乗り越える形で新陳代謝が起こる。

もう一つは、あらゆる経済的資源が縮小するなかで、これまで偏って存在していた顧客や利害関係者をより拡げる方向だ。様々な「障壁を下げる方策」によって「普通の人」を取り込みながら、「あってはならぬもの」は維持される(第六章・第七章)。

ただ、それは「ソフトランディング」である。より具体的な形で社会に対抗的に存在してきた「あってはならぬもの」、つまり、より「生々しい暴力性」を示してきたものは、明確かつ短期間のうちに崩壊を迎えているからだ。

「豊かさ」が達成された結果、それは政治・経済・行政・法・メディアなど様々な社会を構成するシステムから排除され、今では消え入りそうになっている。その内部にわずかに残る資源が、そこに生きてきた人々の最低限の生活を維持させる「包摂」機能を持つように見えることもあるが、もはや持続しえないようにも見える。生きながらえるのは、「生々しい暴力性」の牙を抜かれ、器用にも市場で一定のポジションを確保した一部の「強者」のみになる。

しかし、その「強者」とは、「快適・便利・安全」な「正論」のプラットフォームの上でのみ存在する「強者」に過ぎない。不可視化されてきた「あってはならぬもの」は、社会の変動要因となるという意味において無効化されてもきた(第八章・第九章)。

何かに熱狂しては溜飲を下げてを繰り返すなかで、変動しない社会、「快適・便利・安全」な社会は、強者のみで成立する社会でもない。当然、その快適さを下支えするシステムもまた形成される。






「信頼」が揺らぐなかで、「安心・安全を望む気持ち」が社会に存在し、時に増大することは確かだが、現実的にはもはや「客観的な安全」を社会に見出すことは、科学者にとっても、そうではない一般の人々にとっても難しい。「安心・安全を望む気持ち」が満たされないところには「不安」や「不信」が生まれる。両者は本来、「安全」や「信頼」の回復によって満たされ得るが、それもまた困難な状況にある。

そのような状況下において、「安心・安全を望む気持ち」、より正確に言えば「主観的な安心」は宙吊りにされ、絶えず人々の心の中に「不安」や「不信」を生み続ける。しかし、その情念は、回復が困難な状況にある「信頼」や、その前提の一つである「安全」に向かわず、また向かったとしても満たされず、彷徨うことになる。

その結果、ただアディクショナルに「自由のようなもの」や「平和のようなもの」は、その時々で偶発的に選択される。その選択の条件はすでに述べた「多数の人々」にとって選択し得るものであるかどうか、という点だけだ。そして、その原因であると同時にその結果として、時に「リスク」は「周縁的な存在」に分配され、それを排除・固定化・不可視化する。

不安と不信に基づいた無意識的な不快の中で、そこから逃れることを目指す力がアディクショナルに「自由」と「平和」を求め、「自由」で「平和」な社会が用意され……という循環が社会を構築していく。現代社会とはそんな社会であるらしい。







以下はこの本の元となった連載(一番下の方に一覧がある)と

第1回取り残された「売春島」に浮かぶもの 現代社会のリアリティ|開沼博 闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に|ダイヤモンド・オンライン http://diamond.jp/articles/-/19501


スピンアウトの対談


対談 漂白される社会 http://diamond.jp/category/s-hyouhakushakai

posted by m_um_u at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2016年05月06日

石牟礼道子、『苦海浄土』



「苦海浄土」を読んでなんかいろいろうわぁ、、てなったのだけど感想にまとめにくく、じゃあこれはエントリするのでもなく自分の中に留めて流してしまおうと思ったのだけど「引用としてなら留めておいてしばらくしてまた見ても良いのかもしれない」と思い直した。


新装版 苦海浄土 (講談社文庫) -
新装版 苦海浄土 (講談社文庫) -
苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫) -
苦海浄土 わが水俣病 (講談社文庫) -


なので以下はだいたいが本書からの引用となる。それ以前にnoteに感想的な断片は載せていたのでこちらにもいちお載せておく。


「苦海浄土」ひとくぎり / 藤棚の季節の終わる前に|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n330f1adc07e7

早めに帰ったので風呂って読んでいた「苦海浄土」にまたズッポリとやられる。奥歯を噛み締めたくなるような悔しさと、涙が出そうになるような気持ちをぢっと耐えつつ、その静謐な怒りや悲しみ、諦観のような文体に身を任せる。聴いてるプレイリストが Jeremy Summerly のミサ曲なせいもあるのだろうけど。受難とか救いとか。


読み終わったり、あるいはぜんぶ読む前でも一区切りことになんかいいたい気持ちになるのだけど、これを生なかな言葉で感想するのもどうかなとおもったり。あるいは、批評的な視点や言葉で斜めに見るのも違和感がある。

単に味わい、自らのなかに沈殿させていけば良いのかもしれない。貧乏臭くいちいちアウトプットしなくても。特に「伝えなきゃ」でもなくこれほどの本なら知ってるひとは知ってるのだろうし、知らない人・関心がない人はそのままだろう。

全体的にヒロシマの被爆体験の話をみるような懐かしい温度、空気感がある。

外部から見るとフィクションにおもえるような想像を絶する悲惨。そういう言葉でさえ通り一遍等の形式的なもの、上っ面なものに思えてしまうような。そういう重い事実と生と死。

だからなかなか言葉に表しにくい。

フィクションに思えるといえばこの本自体がフィクション、SFにおもえるような構成もしている。「アルジャーノンに花束を」の「けーかほうこく(経過報告)」を想わせるような水俣病に関する医学的な、あるいは裁判資料的な記述。それが各被害者・罹患者のひとりがたり的な語りのルポルタージュの間にモンタージュされる。

ちょうど写真における白黒モノトーンとカラーの使い分けのように。その2つが交じり合い、別々の文体・語り方で表されていることでメリハリとなったリズムを生み出している。彼らの生が生きながらにして神話となっているような。あるいは、もうすでにそこにない生を慈しみ、惜しむかのようなまなざしや感情が全体を覆っている。




そのぶん、明日の昼には晴れるだろう|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n3cf60b636e21

「苦海浄土」についてまとめ的な感想とか批評めいたことは書きたくないなあとおもったのだけど、自分的に印象に残ったことばたちを留めるためにエントリしてもいいかもなあ、とか。引用メインで。
あとがきをみていたら、「あれはじつはルポルタージュではなく石牟礼さんのフィクションなのです。全面フィクションというか、彼女がインタビューした人の様子から紡ぎだした『この人ならこう言うだろう』というもの」、みたいなのを見てやっぱりなあと思う。やっぱりなあ、ていうかルポルタージュとしては受け止めていたのだけど、出来過ぎててフィクションというか、構成的にSFみたいだ、とかおもった部分がこのへんだったのかなあ、とか。

「石牟礼道子はこういったことばたちの巫女なのです。語りえぬ人々の、声にならない声の巫女なのです」

そういうのをみて自分もそういうのあるなあ / 感心されたなあそういや、とか。あと、特に知りもしない人のふところに潜り込んで話し聞くのもけっこう得意だったり。まあそれも合う合わないはあるのだけど、いわゆるとっつきにくく滅菌殺菌された東京都会人みたいな人じゃなければけっこうお話したりする。まあ話し聞いておもしろそうだったらだけど。

「断片的なものの社会学」とかみてても思うのだけど、こういうの自分もできるのかもなあ、とかなんとなく。

まあなにもないところでふだんからそれをやるのはちょっとハードル高いのだけど、ネタとしてみたいなインセンティブがあればそれなりにおもしろいのかもしれない。






以下は「苦海浄土」からの引用




潮の満ち干とともに秋がすぎる、冬がすぎる、春がくる。

そのような春の夜の夢に、菜の花の首にもやえる小舟かな、などという句をものして目がさめると、うつつの海の朝凪が、靄の中から展けてくるのだ。

そして「春一番!」という名の突風が一夜吹き荒れる。船の碇をひきちぎってゆくほどの風である。そのような風が来てしまえば、菜の花の朝凪とこもごもに、東風が吹き起こる。春の漁は不安定だ。だから、春は祭りや嫁取りの時期だ。ひとびとは忙しい。

水俣川川口の八幡様の舟津部落、丸島魚市場、二子島梅戸港、明神ケ鼻、恋路島、まてがた、月ノ浦、湯堂、筏道、磯ぞいの道をつないで歩けば海にむけて、前庭をひらいた家のどこかの縁に腰かけて、男たちが随時な小宴を張っている。理由は何でもいいのだ。雨憩(よけ)、風憩、日中憩、船底を焼いた後の憩、その他片っぱしに思いついただれやみ(疲れなおしの酒)を、二、三杯やれさえすれば、通りかかったものは呼びこまれる。

― おる家(が)の前を素通りする法があるか。挨拶に呑んでゆけ。

男たちは湯呑み茶碗をつきつけ、通行者が外来者で若くて焼酎にむせたりすれば目を細める。けろりと飲み干せばたちまち身内になれるのだ。そのような縁先に女房たちがいて、女客であれば、どっぷりとキザラや白砂糖を入れたシロップ様の番茶の馳走ににあずかるのである。砂糖は家々にホクソに(ふんだんに)使うほどあり余っているわけでもない。子どもたちが砂糖を盗みこぼしたりしているのをみつけると、女たちは大声をあげて追いかけまわす。

不知火海を漁師たちは"わが庭”と呼ぶ。だからここに、天草の石工の村に生まれて天草を出て、腕ききの石工になったものの、"庭”のヘリに家を建て、家の縁側から釣り糸を垂れて、朝夕のだれやみ用の魚を採ることを一生の念願として、念願かなって明神ケ鼻の"庭”のヘリに家を建て、朝夕縁先から釣り糸を垂らしていて、初期発病患者となって死亡した男がいても、庭に有機水銀があるかぎり不思議ではなかった。





ひととき、トラックの列が途絶え、小暗くかげった道の向こうはしに、雌雄判じがたい銀杏の古樹が、やはり根本からその幹にいつからこびりついたともわからぬ泥をべったりかさねて立っていた。

悠々とともってゆくような南国の冬の、暮れかけた空に枝をさし交わし、それなりに銀杏の古樹は美しかった。枝の間の空はあまりに美しく、私はくらくらとしてみていた。

突然、戚(せき)夫人の姿を、あの、古代中国の呂太后の、戚夫人につくした所業の経緯を、私は想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壺にとじこめ、ついには息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。

水俣病の死者たちの大部分が、紀元前三世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生き残っているではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。




わたくしが昭和二十八年末に発生した水俣病事件に悶々たる関心とちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院水俣病特別病棟を訪れた昭和三十四年五月まで、新日窒水俣肥料株式会社は、このような人びとの病棟をまだ一度も(このあと四十年四月まで)見舞ってなどいなかった。この企業体のもっとも重層的なネガチーブな薄気味悪い部分は"ある種の有機水銀”という形となって、患者たちの"小脳顆粒細胞”や"大脳皮質”の中にはなれがたく密着し、これを"脱落”させたり"消失”させたりして、つまり人びとの死や生まれもつかぬ不具の媒体となっているにしても、それは決して人びとの正面からあらわれたのではなかった。それは人びとのもっとも心を許している日常的な日々の生活の中に、ボラ釣りや、晴れた海のタコ釣りや夜光虫のゆれる夜ぶりのあいまにびっしりと潜んでいて、人びとの食物、聖なる魚たちとともに人びとの体内深く潜り入ってしまったのだった。



安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。

このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。

そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。

この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日からわたくしの中に移り住んだ。




うちのような、こんなふうな痙攣にかかったもんのことを、昔は、オコリどんちいいよったばい。昔のオコリどんさえも、うちのようには、こげんしたふうにゃふるえよらんだったよ。

うちは情なか。箸も握れん、茶碗もかかえられん、口もがくがく震えのくる。付添いさんが食べさしてくれらす、そりゃ大ごとばい、三度三度のことに、せっかく口に入れてもらうても飯粒は飛び出す。汁はこぼす。気の毒で気の毒で、どうせ味もわからんものを、お米さまをこぼして、もったいのうてならん。三度は一度にしてもよかばい。遊んどって食わしてもらうとじゃもね。

いやあ、おかしかなあ、おもえばおかしゅうしてたまらん。うちゃこの前えらい発明ばして。あんた、人間も這うて食わるっとばい。四つん這いで。

あのな、うちゃこの前、おつゆば一人で吸うてみた。うちがあんまりこぼすもんじゃけん、付添いさんのあきらめて出ていかしたから、ひょくっとおもいついて、それからきょろきょろみまわして、やっぱり恥ずかしかもんだけん。それからこうして手ばついて、尻ばほっ立てて、這うて。口ば茶碗にもっていった。手ば使わんで口を持っていって吸えば、ちっとは食べられたばい。おかしゅうもあり、うれしゅうもあり、あさましかなあ。扉閉めてもらうて今から先、這うて食おうか。あっはっはっは。おかしゅうしてのさん。人間の知恵ちゅうもんはおかしなもん。せっぱつまれば、どういうことも考え出す。

うちは大学病院に入れられとる頃は気ちがいになっとったげな。ほんとに気ちがいになっとったかも知れん。あんときのこと、おもえばおかしか。大学病院の庭にふとか防火用水の堀のありよったもんな。うちゃひと晩その中につかっとったことのあるとばい。どげん気色のしよったじゃろ、なんさまかなしゅうして世の中のがたがたこわれてゆくごたるけん、じっとしてしゃがんどった。朝になってうちがきょろっとしてそげんして水の中につかっとるもんやけん、一統づれ(みんな揃って)、たまがって騒動じゃったばい。あげんことはおかしかなあ。どげんふうな気色じゃろ。なんさま今考ゆれば寒か晩じゃった。

うちゃ入院しとるとき、流産させられしたっばい。あんときのこともおかしか。

なんさま外はもう暗うなっとるようじゃった。お膳に、魚の一匹ついてきとったもん。うちゃそんとき流産させなはった後じゃったけん、ひょくっとその魚が、赤子(やや)が死んで還ってきたとおもうた。頭に血の上るちゅうとじゃろ、ほんにああいうときの気持ちというものはおかしかなあ。

うちゃ赤子は見せらっさんじゃった。あたまに障るちゅうて。

うちは三度嫁入りしたが、ムコ殿の運も、子運も悪うて、生んでは死なせ、今度も奇病で親の身が大事ちゅうて、生きてもやもや手足のうごくのを機械でこさぎ出さした。申しわけのうして、恥ずかしゅうしてたまらんじゃった。魚ばぼんやり眺めとるうちに、赤子のごつ見ゆる。

早う始末せんば、赤子しゃんがかわいそう。あげんして皿の上にのせられて、うちの血のついとるもんを、かなしかよ。始末してやらにゃ、女ごの恥ばい。

その皿ばとろうと気張るばってん、気張れば痙攣のきつうなるもね。皿と箸がかちかち音たてる。箸が魚ばつつき落とす。ひとりで大騒動の気色じゃった。うちの赤子がお膳の上から逃げてはってく。

ああこっち来んかい、母しゃんがにきさね来え。

そうおもう間もなく、うちゃ痙攣のひどうなってお膳もろともベッドからひっくり返ってしもうた。うちゃそれでもあきらめん。ベッドの下にペタンと坐って見まわすと、魚がベッドの後脚の壁の隅におる。ありゃ魚じゃがね、といっときおもうとったが、また赤子のことを思い出す。すると頭がパアーとして赤子ばつかまゆ、という気になってくる。つかまえようとするが、こういう痙攣をやりよれば、両の手ちゅうもんはなかなか合わさらんもんばい。それがひょこっと合わさってつかまえられた。

逃ぐるまいぞ、いま食うてくるるけん。

うちゃそんとき両手にゃ十本、指のあるということをおもい出して、その十本指でぎゅうぎゅう握りしめて、もうおろたえて、口にぬすくりつけるごとして食うたばい。あんときの魚は、にちゃにちゃ生臭かった。妙なもん、わが好きな魚ば食うとき、赤子ば食うごたる気色で食いよった。奇病のもんは味はわからんが匂いはする。ああいう気色のときが、頭のおかしうなっとるときやな。かなしかよ。指ばひろげて見ているときは。





あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。

こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか、口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん。便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆ろうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸(め)ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまっでん見入っとる。これの気持ちがなあ、ひとくちも出しならん。何ば思いよるか、わしゃたまらん。

こりゃ杢、爺やんな、ひさしぶりに焼酎呑うで、ちった酔いくろうた。

杢よい。

こっちいざってけえ、ころんころんち、ころがってけえ。





あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。

これより上の映画のどこにゆけばあろうかい。

寒うもなか、まだ灼け焦げるように暑うもなか夏のはじめの朝の、海の上でござすで、水俣の方も島原の方もまだモヤにつつまれて、そのモヤを七色に押しひろげて陽様(ひいさま)の昇らす。ああよんべはえらい働きをしたが、よかあ気色になってきた。


かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもんは、つくづく広かもんじゃある。

空は唐天竺までにも広がっとるげな。この舟も流されるままにゆけば、南洋までも、ルソンまでも、流されてゆくげなが。唐じゃろと天竺じゃろと流れてゆけばよい。

いまは我が舟一艘の上だけが、極楽世界じゃのい。











といったふうに続けられる対話が、まさか現実の対話の記録であるとは誰も思うまい。これは明らかに、彼女が見たわずかの事実から自由に幻想をふくらませたものである。しかし、それならば、坂上ユキ女の、そして江津野老人の独白は、それとはちがって聞きとりノートにもとづいて再構成されたものなのだろうか。つまり文飾は当然あるにせよ、この二人はいずれもこれに近いような独白を実際彼女は語り聞かせたのであろうか。


以前は私はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答えをつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心のなかで言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。


この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。それにしても何という強烈な自信であろう。誤解のないように願いたいが、私は何も『苦海浄土』が事実にもとづかず、頭の中ででっちあげられた空想的な作品であるだなどといっているのではない。それがどのように膨大な事実のデテイルをふまえて書かれた作品であるかは、一読してみれば明らかである。ただ私は、それが一般に考えられているように、患者たちが実際に語ったことをもとにして、それに文飾なりアクセントなりをほどこして文章化するという、いわゆる聞き書の手法で書かれた作品ではないということを、はっきりしておきたいのにすぎない。本書発刊の直後、彼女は「みんな私の本のことを聞き書だと思ってるのね」と笑っていたが、その時私は彼女の言葉の意味がよくわかっていなかったわけである。

患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかも知れない。




















関連でいまはこれらを読み進めてる。

石牟礼道子 ---魂の言葉、いのちの海 (KAWADE道の手帖) -
石牟礼道子 ---魂の言葉、いのちの海 (KAWADE道の手帖) -


食べごしらえおままごと (中公文庫) -
食べごしらえおままごと (中公文庫) -


「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか -
「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか -

漂白される社会 -
漂白される社会 -





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2016年04月30日

四股やら腰割りやらとウォーキングやらランニングやらについて




四股は以前から踏んでたのだけど最近やってなかった。膝をいためてるので冬場だと四股でもちょっと痛かったので「ムリすまい」とかおもって。んでもちょっと考えなおして再開した。それで筋トレとしてきちんと日課にしてやることになったところでついったのTLでダイエットとかプロポーションとか気にする女子ずがちょこちょこ「スクワットしなきゃ」みたいなこと言ってるのに「四股しろー」botでちょっかい出してるうちに自分もけっこうお勉強になって、四股ほかのやり方も見なおしたのでちょこちょこnoteに書いていた。「お勉強になった」というのは「知らない相手に伝えるにはそれなりにきっちり伝えないとね」ということで一般人がトレーニングとしてやる場合の四股についての本なんかをちょこちょこ読んで、そこから四股のスポーツ生理学?的な効果とかやり方なんかを見なおして自分のやり方も修正したから。それでnoteなんかにはそれについてちょこちょこ書いてたのだけど今回あらためてこちらに再編集してエントリすることにした。まあ腰割りやテッポウなんかは未熟で自分でも修正してる部分はあるので他人様に大発表というのもどうかなと思うのだけど、まあいいかなーってことで。


直近だとこのへんがいちおのきっかけになる


四股とかテッポウの効用(機構)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc9ba6597cf12


このnote自体が四股の初歩についてのとぅぎゃったーみたいになってるのでこっちに飛んで見てもらってもいいのだけど画面遷移もめんどうだろうからいちおその中でも特にポイントと思われる箇所を抜粋すると


やり方としてはこんな感じになる

【夏合宿】四股の踏み方講座!!皆さんもやってみて下さい!|現役力士「普天王」どすこい大相撲日記 Powered by アメブロ
http://ameblo.jp/futenou/entry-10003634881.html


まあ間違ってはないのだけどこれだけだと入り口としてはキツイだろうからこのへんの知見も含めてもうちょっと解説すると


1日1分のシコトレで股関節からカラダが整う! -
1日1分のシコトレで股関節からカラダが整う! -

お相撲さんの“テッポウ”トレーニングでみるみる健康になる (じっぴコンパクト新書 81) -
お相撲さんの“テッポウ”トレーニングでみるみる健康になる (じっぴコンパクト新書 81) -

お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密 (じっぴコンパクト新書 053) -
お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密 (じっぴコンパクト新書 053) -



腰痛・ひざ痛がみるみるなくなる! 腰割り体操 (ヤエスメディアムック455) -
腰痛・ひざ痛がみるみるなくなる! 腰割り体操 (ヤエスメディアムック455) -



まず「片足だけで立つ」というのが最初の段階だとたいへんでよろめくだろうけど近くになんか支えになるものがあったらそれに捕まったりしていいと思う。よろけたりしたら。てか、このときよろけるのは重心のかけ方、腰の落とし方(スタートポイント)が違ってたりするからだろうけど。

四股は腰割りの次の段階だから本来なら腰割りから説明すべきなのだろうけど簡単には「腰割りの姿勢(中腰)のまま片足ずつに重心を移動して上げる」ということになる。

腰割りの姿勢というのはまた後述するかもだけど、肩幅に足を開いてつま先は外側に向けて、上半身をそのまま落とす運動。足をよく開いたハーフスクワット的なものと思っていい。これをできるだけ身体を落として行う。まあできるだけっていうか股関節に効いてるなあって思うぐらいまで。あまり無理しない程度に。このとき足が外側に向いてることで膝に負担がかかるのだけど、これもこれによって膝に負担がかかりすぎる(痛い)ようだったらあまり無理して外側に向けなくて良い。要は股関節に効かす・股関節を柔軟させるというころがポイントなので。ちなみに股関節というのはこの辺


20120212203257a85.jpg


骨盤と大腿骨をジョイントする辺になる。


感覚的には腰割りとか四股とかでここをポコッとポコッとジョイント部から浮かせて拡張する感じ。腰割り、四股のときには前かがみにならないように注意して上半身をそのまま下に落とす。そうすると腸腰筋やらに効いてくる。まあリンパとかヒップアップとかにも効くのだろうけど。

よろける場合は肩甲骨をぎゅっと真ん中に寄せるようにしてバランスを保つ。あるいは足裏の重心の移動、重心をかけられるポイントをイメージする。

足裏の場合、体重というのは足の外側(足刀部分) → かかと → 親指付け根の順番でバランスされるようで、特に腰割り・四股なんかでよろける場合は足の外側をイメージするとけっこうもったりする。四股なんかで片足立ちになったときも、足の外側がエッジになって思いの外もつ。あと後ろに倒れそうだったらかかととかイメージするとか。親指付け根は足(←地面)から発力するときにイメージされるかな。かかともだけど。


戻ると、四股は腰割りの足のポジション・中腰の姿勢ではじめる。このとき、軸足の股関節に体重をのせることをイメージすれば足は勝手に上がりバランスされる。「足をあげる」のではなく「軸足股関節に体重を載せる」ようにする。そうすると振り子の要領で勝手に足は上がる。それで上がった足・体重を利用して、足を開いた姿勢で股関節で体重をキャッチして股関節を広げていく。あるいは肩甲骨もつかってバランスさせる。肩甲骨は真ん中に絞る。上半身の前傾を制御できる。




内容重複するけど最初のnoteの該当箇所もいちお引用

四股とかテッポウの効用(機構)|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/nc9ba6597cf12

要するに、四股の効果、あるいは筋トレ・ストレッチ部位というのは股関節と腸腰筋(太もも付け根外側から臀部にかけての筋肉)でそこから連動して腰部につながる。全体的には深層筋(インナーマッスル)が鍛えられるのはいわずもがな。

意識としては、とくになれないうちは「足をあげる」というほうに行きがちなのだけど、リンク先の解説にもあるように、「足をあげるというつもりでもなく、軸足の方に体重をかけると自然とあがる。ちょうどシーソーのように」、みたいなとこはある。ただ、これも股割りとかできていて可動域が上がってれば自然とそうなりがちなのかもだけど、最初の段階ではむずかしいだろうから上げる方の足の腸腰筋を意識するとあがりやすいしより効果がある感じがした。あとは下ろすときに上げた方の太もも裏あたりに力を感じつつ振り下ろす。断頭台とか鎌みたいな感じで。体重+筋肉の力が加わった重みで股関節をストレッチする。

最近はコーヒーを淹れつつ20回ずつで80回とか、あるいはなにかちょっとした湯で / 煮ものをしつつ50回とかがふつーになった。で、日に200回とか。

解説を見てたらやはり古武術的に身体の基礎に通じるみたいなことが書いてあって、まあ続けとくのは地味に良いだろうなあ、とか。



断頭台みたいな鎌みたいにして下ろす、とか書いちゃったけどおろすときはあまり力いれなくてもいいかも。特に最初のころは。ヘンにグキッとなってあぶないかもだし。足裏とかアキレス腱なんかも痛かったり痛めたりするかもだし。できれば下ろす足はつま先からゆっくり下ろすぐらいで。まあ最初はこれもバランスがうまくとれない(軸足股関節にきちんと体重が乗ってない)かもで大変かもだけど。



スクワットの場合は大腿筋とよくてハムストリング(太もも裏の筋肉)が鍛えられる程度なんだけど腰割り・四股の場合は腸腰筋とか尻裏の筋肉とか、単にアウターマッスルじゃないところが鍛えられる。スクワットの場合、筋トレって感じで太もも太くなっちゃって女性的にはびみょーってのもあるのだろうけど、腰割り・四股の場合はストレッチ的なものがメインなのでそういう意味でも気楽だったりするかも。あとスクワットみたいな筋肉痛・痛めたりしない。回数にもよるだろうけど。

自分は膝を痛めてるのでスクワットの場合はどうしても膝に負担が来て却って痛くなってたりしたのだけど四股だとなんかうまいこといく。却ってよくなってきたり。それはヒザ痛の該当箇所に依ったり、最近ヒザ痛に効くというキューピーコンドロイザー飲んでるせいだったりもするかもだけど。まあとりあえずまた走れるまでになった。


かっぱさん、朝に翼(走る)を取り戻しもりもり食べる、の巻|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n09888b1b0f91



このへんからは四股の話とは別になるので四股の方法とかだけ気になる人は読まなくていいんだけど四股から走るなアレについて。

これは四股なんかの見直しで?膝が回復してきたせいもあるのだけど、四股に関しての元・一の矢関と内田樹さんの対談を見てて「昔の飛脚の走りって体幹(コア)ランニングだったのかなあ」とかおもって実践していってるので。



飛脚の走り方と体幹|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/na7de20538277



ナンバ歩きとか言われてた秘密のアレはどうも「左手と左足が同時に出て」ってことでもなく踏み出す足と同じ側の半身を前の方にひねりこむということらしい。体幹をうまく維持して骨盤を回転させることで半身をねじり込む。つまりテッポウ→すり足と同じだし金哲彦さんがいってるのに近いのだけど。あるいはベアフットランニングとかでいわれてるのと。まあこのへんの「飛脚の走り方の実際」については上記noteでそれなりにまとめたので特に引用せず。部分引用しにくかったし。興味あるひとはリンク先飛んで見てみてもらうと良い。


応用で体幹ウォーキング・ランニングについても簡単に


早朝散歩 / 体幹・肩甲骨・股関節|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n1dc7d4b49421

早朝読書で金哲彦さんの体幹ランニング・ウォーキングをザラッと読む。内容としては金さんが以前から言ってる話をもうちょっと細かくというぐらいで、以前に金さんの本を読んで習熟していた自分的にはすぐに読めて理解できた。
ただ、「肩甲骨を動かしてください」「肩甲骨で身体をひっぱりあげるんです」「羽のようなイメージで」、のあたりがより具体的にわかりやすくなってたように思えた。以前にも説明されてたのかもしれないけど。
具体的には肘を引いて肩甲骨をぐっと真ん中に寄せる感じ。走ってるとき、あるいは歩いてる時はこの引っ張る動きを片側ずつする。そうすると反作用で逆側の身体(半身)が前に出る。
これに加えて股関節を内側に寄せるのを意識しておくとおなじように身体が前に出やすい。とくに足の筋肉を意識しなくても。
あとは骨盤を前傾にしとけば身体がちょっと前傾になってるので勝手に前に進んでいく。

以前にこれを本で読んで実践してた時は肩甲骨で上に引っ張り上げる(地面からのダメージを軽減する)のを意識してるだけだったのでこういうローリングするようなのはできてなかったようにおもう。もちろん股関節のも。

そんなことを思いつつ一本歯でのウォーキングで実践したり、あるいは、日常でちょっと走る場面とかで実践したり。膝を痛めてるのでこういうのをやるとすぐに膝に影響があったのだけどそういうのもない。最近のストレッチが効いてるのかもしれないけど。足に直接にダメージがいってない感じはある。




金哲彦のランニング・メソッド -
金哲彦のランニング・メソッド -

「体幹」ランニング (MouRa) -
「体幹」ランニング (MouRa) -

「体幹」ウォーキング -
「体幹」ウォーキング -



いまはこのnoteのときよりもうまくなって地面を滑るようなかんじになってる。


石花 / 影を追う・影に追われる|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n332e673a0f37

体重のかけ方、姿勢なんかは先日来言ってるのと同じく「地面からのダメージは股関節で受け、足を前に踏み出す、のではなく、軸足から体軸を一本に保つようにして軸足を内側にねじり込んだら自然に反対の足は前に出ている」というもの。水泳と同じで体軸(コア)を一本に保つことが大事で、あとは基幹部分をねじる・回転させれば自然と推進力がつく、というもの。重心(骨盤)は低くして斜めにする。てか、尾てい骨を上げる感じにする。そうすると(体軸が一本に保たれていれば)身体は斜傾するので勝手に推進力が着く。感覚的には骨盤を中心に身体がシーソー(テコ)みたいになっていて、上半身の斜め前の地面への重みで足が浮いていく感じ。テコの原理で。昨日までも調子が良くなるとこの感覚が出ていたけど、今回はより各部位を意識して、理論的にこの感覚が実感できた。いままでも調子がよくなるとこういうのはあったのだけど、各部位ごとに理論的に理解・実践・定着していたわけではなかったのでどう調子をあげてよいのかわからなくなってたりしたのだけど今後は最初からこの姿勢をキープするようにすればこのパフォーマンスが出るということ。

下半身、股関節でキャッチして骨盤(尾てい骨)を回し(あげ)、足を内側にねじり込んでストライドを稼ぐと同時に前に足が出ている。下半身と連動して上半身を一本に保つようにしつつ、だんだん胸の辺りを地面に近づけていくイメージ。上半身を斜め前の地面に放り出すような感じで。放り出された身体は地面を這うように、舐めるように滑っていく。



走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) -
走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) -




あとは応用でバイクとか自転車とかゴルフとか

バイクと股関節|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n84eaa2e807ae

股関節と自転車 / 搾取される若者の風景|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n627025b4c4e0

疲労・回転・ゴルフ?・木の芽時|m_um_u|note
https://note.mu/m_um_u/n/n68913727866a


バイクのはサスペンションとしての股関節周りが柔軟されると地面からのダメージも吸収しやすいのかな?ってこと。あと姿勢もいろいろ取りやすいかな。

自転車も似たとこあるけど、股関節周りの可動域が拡がるので体軸からの体重を乗っけやすくなるとかありそう。

ゴルフはまあモロに体幹な競技なので。。




だいたいそんなかんじ  m(_ _)m  (テッポウについてもまとめなおそうかと思ってたけどまあいいやこっちは未熟だし)






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2016年04月20日

日常に侵入する自己啓発 ― 地震・PC・家事・こじらせ




昨今のついったのTLで震災関連の「これやっちゃいけないのにー」的な優越感ゲームうざいな、とか、女子をこじらせての是非うんたらうぜえなとか思いつつ、こういうのも包括的には今回読んだ本の対象範囲となるのかなあ、とか。



書評:日常に侵入する自己啓発―生き方・手帳術・片づけ [著]牧野智和 - 荻上チキ(「シノドス」編集長・評論家) | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015052400012.html

 果たして自己啓発書に、いかなる社会的機能があるのか。本書は、膨大な自己啓発書を整理しながら、その流行変化が社会の何を映し出しているのかを考察する。人は、手帳術を学ぶことで「時間感覚」を、片づけ術を学ぶことで「空間感覚」を再編する。男女、年代の違いによっても、「自己啓発」に求めるものは異なる。男性向けのものは仕事や趣味における上昇志向を刺激し、女性向けは美の追求を通じて自分磨きを要求する。典型的なイメージながら、人はそれに癒やされる。直接読むと「うへぇ」と投げ出しそうだが、本書のように客観的に分析されると、雑多な書籍たちが星座を形作っているように見えて面白い。
 「片づけ本」を整理した5章は最近でもベストセラー多発の分野だけあってタイムリーだ。主に男性経営者向けには、精神浄化の儀式としての掃除を。主に女性向けには、ありのままの自分を取り戻すための片づけを。現在の自己に不満を抱く人は、何かしらの儀礼を求めている。片づけのように些細(ささい)なことであっても、大層な儀式に変わってしまうものだ。




日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -
日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ -



新聞の書評らしく短くわかりやすい紹介なのだけどもうちょっというと「自己啓発書にいかなる社会的機能があるのか」というか「○○のための道具のひとつとして現代日本では自己啓発書が用意された。さて、では自己啓発書の類は○○のためにどのように機能しているのか?」という話。前著からの課題・射程の具体ということになるらしい。


自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -
自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究 -




「○○のため」の「○○」というのは「自己のテクノロジー化」とか「内面の技術対象化」ということになる。ざっくり言えば、後期近代の現代人・都会人にとって必要な近代的な規律を自ら内面化・自己訓練化していく過程、ということぽい。具体的にはたとえば「優秀なビジネスマン・社会人になるためには○○するべき(しなければならない)」とか「デキた主婦・女性となるには○○であるべき(しなければならない)」とか。そういったものは簡単には自己啓発書の類で「○○のような考え方をスべき」とか示されるわけだけど、そこで一般化のために示される数値、たとえば年収とかスリーサイズとか体重とか、そういうものでデータ還元的に人の実存がスポイルされていく。最終的に。そういうのは近代人にとって指標としてはわかりやすいのだろうけど、それにとらわれ過ぎると却って窮屈になる。趣味のジョギングでみょーに数字にとらわれすぎて、とか、ダイエットでみょーに体重やカロリーにとらわれすぎて、とかそういうの。ダイエットが脅迫神経的になれば拒食症・過食症になるし、それは個人の問題としては心の病といえるのだけど「近代社会による女性への暴力」といえる。


なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -
なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学 -



「こじらせ女子」というのは、元の定義があいまいなのであれなんだけど、これも現代日本における理想・モデルとなるように提示された女性像とそこから選択するベキ行動・規律に対する脅迫神経的な態度・容態なのだとおもう。女性誌などではしばしば「理想の女性像」は「ステキな彼」をゲットするために提示され目的のひとつとされるのだろうけど、こじらせ女子たちは意識した異性を前にするとその目的からすると甚だ非合理的な行動や態度をとってしまう。いわゆるツンデレ的な不可解な行動とか態度とか。そしてそのことを後で死ぬほど後悔し自嘲したり涙したりする。あるいは、異性を意識しない、「(ステキな女性らしい)わたしらしさ」の演出のための女性像の獲得のためのアイテム選びなんかでもこの辺の「こじらせ」は顕れる。たとえば「あの服はあたしにはハードルが高すぎてムリ。。(合わない」とかそういうの。

彼女らがしばしば自ら「こじらせてる」と自嘲していうようにその選択が非合理的になり結果として部分を修正するのではなく全体をリセット・拒絶してしまうのはちょうどダイエットに脅迫神経的になった女性が過食・拒食に陥っていく過程と似ている。そして、その意味では彼女たちのゴール・軟着陸とされるべき地点もだいたい共通する。ダイエットのオーバードライブによる過食・拒食に対して「食自体を楽しめるようになるとよい」ように彼女たちも「女であること自体を楽しめるようになると良い」ということになる。まあ拒食症の人たちはそれも最初からわかってるのにこじらせた行動・態度をとってしまうので深夜にきれいなAV女優の姿を見て彼我の差に涙するようなのだけど。加えて言えば、過食・拒食の理由がある程度一般化できるとはいえそれぞれのひとによって異なるように女性が女子をこじらせる理由というのもそれぞれのひとによって異なるだろう。その意味で先行するこじらせ女子が後発のこじらせ女子に対して「あんたのはこじらせじゃない(本質的な悩みではない)」とかいうのも無理があるように思う。特に「こじらせ」の定義が曖昧であるとき。まあ「一般的なこじらせがあるとしてもそれに対してわたし固有のこじらせと似た容態を問題としているのだ(一般論ではなく私個人、あるいはそれと似た背景を持ってる人を想定・対象としているのだ)」というなら別だろうけど。






話が応用編にそれたので戻すと


そういったものが具体例・現象・事例として、本書ではそれにつながる自己の規律訓練化に関する道具としての自己啓発書を分析・考察する。あるいは自己啓発書に類するもの。たとえば女性誌や手帳、掃除術なんかもそれに当たる。男性の場合は仕事・仕事の成果・出世がベタな自己啓発の目的地となるのでそのための簡易な道標として自己啓発書がツール化されている。対して女性の場合はだいたいにしてそういった「出世」とは別の所をその界の目標としているのでいわゆる自己啓発書は分析対象とはならない。その代わり女性に用意されるのは女性誌やそこからスピンアウト的に出版された書籍となる。女性誌では往々にして自分磨きの目的・目標は「わたしらしさ」の演出のためとされる。「わたしらしさ」の反対地点として「おばさん」(所帯じみた)があり、このゲームでは「おばさん」になってしまう / そのように見られると「負け」ということになるらしい。またいわゆる出世街道から降りた / 上がった / 干された男性群なんかもこの「わたしらしさ」をゲームの目標としていったりもする。


mixi → fbなどでよくみられた / まだ見られているキラキラ女子たちの衒示、優越感ゲームというのはこういうのが背景にあったのだなとよく分かる。ついったなんかでもそういうのはみられるけど自分のTLにはそういう人たちはいないように調整されていて、かわりに?彼や彼女たちはPC(ポリティカル・コレクトネス)的なものをしばしば掛け金としているぽい。「被災地に○○をするのはジョーシキ的にいって○○だぁ」とか「○○するやからがいてけしからんので晒(RT)してみなさんに周知・羞恥させとくだぁ」とか。これが衒示だとすると彼らが「良い人」を目指すというところが最終目標で、それに対して「ダメだよm9(^Д^)」て優越感ゲームなのかなと思うのだけど、いい子ブった振る舞いをしてるというわけでもなくその辺の逸脱を見るとどうしてもガマンできなくなって脊髄反応するという人たちもいるぽい。まあそれは彼や彼女たちが育った環境の倫理の規律訓練と、そこからの公正世界観に依るものなのかなとおもうのだけど。そういった「どうしても脊髄してしまう」というのと別にm9(^Д^)て感じでそれ自体が優越感ゲームの道具・ネタとして機能してるひとたちもいるように見受けられる。端的には「まず正義感があってm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノする/してしまう、のではなく、たんにm9(^Д^)プギャーとか■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノしたいのでネタとして正義とかPC的なものを弄んでる」みたいな人たち。まあ両方共自分からはそんなに近くないのでそういうひとたちがいる / そういうひとたちのなかでも本気なひとたちと弄んでるぽいひとたちがいる(あるいは両方が混ざってる感じもある)ぽい、というところで留保しとくべきなのだろうけど。





また話がそれたので戻そうかと思うのだけど、本書を詳しく語るという場合は上記したように「社会的成功、あるいは、<わたしらしく>あるために自己啓発書やそれに類する女性誌がどのような言説を提示し、それらがどのように変遷しつつユーザーに選択されていったか?(彼らにどのように影響していったか?)」ということの具体例を上げるということになるのだろうけど、それをしてると冗長になるので割愛。まあめんどくさい。そういうのはこのへんで詳しくやってくれてたようなのでいちおリンク貼るにとどめとく。


自己啓発書とは何なのか、そこから炙り出される社会の側面とは、今年一番の面白さだった!! 牧野智和/日常に進入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ - 学びや思いつきを記録する、超要約ノート
http://digima.hatenablog.jp/entry/2015/05/22/115640


あるいは著者の前著である「自己啓発の時代」の元である博論が早稲田から公開されてるようだから詳しく見たいならそれをぐぐってみれば良い。もちろん本書をみるのもてっとり速いけど。



こんな感じで本書の内容まとめはだいたいリンクとかに頼りつつ、自分的に気になったところだけ感想したり、このエントリ用に置いといた本書のレジュメなんかを最後に貼っつけたりしてこのエントリは済ませとこう。



自己啓発書、あるいはそれに類する女性誌の影響みたいなのは前著からの流れというのもあって本文中にも「前著でも語ったが」とかちょこちょこでてて「あ、前著みたほうがいいなこれは」てかんじだったのだけど、そこからの本書のオリジナルというか白眉みたいなのは本書を紹介してた武田砂鉄さんのcakesの対談でもちょこっとあったようにほぼ日手帳の位置づけだった。

ほぼ日手帳、あるいはほぼ日というのは現代の言論空間だと良いポジションをとってるように見えて、ちょっと見なんの問題もなくそういうのに関心がある人のちょっとした関心・視野を広げていく / 生活を豊かにしていくのに寄与してるように思えるのだけど、ある程度それぞれの分野に詳しくなった人から見るとなんかビミョーな感じがする。自分もほぼ日には期待してて、現代におけるゆるやかなジャーナリズム、あるいは、言論空間というのはああいうのが理想なんじゃないかなあと思ってた時期もあった。んでもいまからするとビミョー。そのビミョーさをなんとなくマッピングできた / できてるように見えたのはおもしろかった。


「ほぼ日」「手帳」における「手帳」のほうは自己啓発→デキるビジネスマンな流れからの時間管理を目的とする自己啓発系ということになる。古くは60年代ぐらいで、近年ここまで普遍化したのは野口悠紀雄さんとかのアレの影響とかなんとか。そしてこれらも時間管理→自己の規律化における「見える化」されたマトリクスということだとわかりやすい。ただ、そういうのもやり過ぎると自らの生活がキツキツになって、、ということへのオルタナとして提示されたのがほぼ日手帳ということだったらしい。「仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい」ということで手帳のなかに意識的に余白が設定される。「この余白はなにをしても良いのだよ―」という感じで。ただ、その余白 / 自由 / 無計画、自体がそのメタレベルでは計画された自由だ、ということがびみょーだったり。「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ。W.ギヴスンとかだったら「蓋然性の壁を突破できないんだよあんたらは」というようなそういう感じの。最初から計画され、しつけられた冒険・野生みたいなの。量産化されるヴィレッジヴァンガードとかスタバとかそういうの。あるいは量産化される『前衛』芸術。平坦な戦場。

そういうのは広く後期近代の課題なのだろうけど、ほぼ日にもそういうのが表れてるんだなあとか今回おもった。



あとはそれぞれの界における「らしさ(モデル→規律)」、と、承認欲求の関係についてもうちょっと詳しく考察・腑分けしてもいいかなあと思うのだけど、「まあだいたいこれらは同じ対象領域なのだろうなあ」ぐらいに止めとこう。ベタには、「なんらかの界を選びそこでのモデルと規律があるとして、承認欲求というのはその界において賞賛されるようなふるまいがされたときに喝采が与えられる、喝采が与えらるれることでそこを自分の『居場所』として同定でき安心できるようになる(つまり(自らが是しとする)『居場所 - アイデンティファイ』とそこでの承認を求める欲求が承認欲求ということになる)」 ← そのようなものが生じるのはそもそも近代人のアイデンティティの寄る辺なさが背景としてある、ということになるだろう。

なので、そういった界の承認・正当性に振り回される以前に「自分」、あるいは、その界以外の界が設定されていればそういったところでの承認・優越感ゲームというのはどうでもいい話となる。






あと、テクニカルなあれとして、本書の元ネタ(大きく依った)お話というのはフーコーとかなのかな?とおもってたのだけど、前著を読み始めたらニコラス・ローズとのことだった。あるいは本書的にはイルーズとかか。



まあともあれ自分的にはフーコーをそろそろちゃんと読むための前哨戦としてちょうどよさそう。あと、文化社会学とか理論社会学とかやっぱおもすれーからちょこちょこ読んでこう。







以下レジュメ:






自己のテクノロジー化

内面の技術対象化

・自己啓発メディアが創りだそうとする「自己」  :前著「自己啓発の時代」

・そのような「自己」を自ら演出するときにどのような対峙の形式をとるか




感情的ハビトゥス


男性性  仕事での出世、報酬
女性性  「わたしらしさ」の演出   → 「おばさん」(所帯じみた)ら負け
時間感覚  手帳的時間管理
空間感覚  片付け、掃除的空間管理


仕事の諸局面、人間関係、消費行動、恋愛、家庭生活、美容・健康から、手帳の利用や掃除・片付けといった日常の諸ルーティン

→ 仕事における習熟・卓越や自分らしさの実現という問題に接合し得る

(※アイデンティティゲームの持ち札として)



自己啓発メディアを通じて多様にさしだされる「自己」、とそこからの「自己」の選択
それらをめぐるアイデンティティゲーム≒優越感ゲーム@承認


→ ※承認欲求ゲーム、優越感ゲームのツールとして上記の持ち札が使われる。 fb や mixi などにおけるセレブな生活感の発表と衒示

それらは「見せびらかし」であるだけではなく自らのアイデンティティを確かめるためのコンサマトリーなツールとしても機能している

「自己啓発メディアは純粋な自己反省を促すのではなく基底的な参照項(再帰性の打ち止まり地点)を残したうえでそれを促している」

cf.仕事だけにいきる、合目的に生きて「自分」が失われるのはまずい 
→ 「わたし」らしさを担保するために用意される「自由」「余白」がすでにして設定された「自由」であるという不自由さ

(←再帰的になんらかの構造にとりこまれている、あるいは、みずからがそのような構造の再構築に寄与している


ex.「わたしらしさ」で演出されるジェンダー区分け(女性は「わたしらし」く、男性は仕事バリキャリで














あらたな文化的母型(cultural matrix)≒新興宗教的なものとしての自己啓発

イルーズ(Eva Illouz,2008, Saving the modern Soul: Therapy, Emotions, and the Culture of Self-Help)


読者の選択・解釈を伴った自由度の高い応急処置の「パッチ」を今日提供することのできる稀有な文化的母型







断捨離
自分のほんとにもってよかったと想えるもの・ほんとに好きなものだけで自分の周りを囲む
→ 自分だけのパワースポットをつくる(やましたひでこ)



掃除は精神的浄化、修養に繋がるとする自己啓発的企業姿勢はローヤル(現イエローハット)創業者の鍵山修三郎が行っていた早朝掃除から(1961年)。松下幸之助の便所掃除→人間のあり方、とか。








※こういう自己啓発的なものの具体として雑誌プレジデントがあるだろうけど、そのプレジデント自体で依頼されて連載してたというのがちょっとおもしろかった








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岡崎京子の時代: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/414413825.html



「である」人と「する」人 ≪ SOUL for SALE
http://blog.szk.cc/2016/04/08/a-person-who-is-or-do/



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