2009年07月05日

宮崎駿、2008、「崖の上のポニョ」

ポニョのDVDセールス&レンタル開始ということでようやく見れたので主に自分の理解のために感想のようなもの。なので当然のごとくネタバレあると思う。つっても公開から1年経ってるんだからネタバレもなにもないか



崖の上のポニョ [DVD]
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ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント (2009-07-03)
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おすすめ度の平均: 3.5
3 作品は○。売り方は×。
3 教訓的すぎ
5 ぽにょ最高〜!!
1 不快感が残る出来
5 私は泣いちゃいました



見る前から鈴木敏夫さんのpodcast聞いてたのである程度内容知ってたんだけど。


鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫
http://www.tfm.co.jp/asemamire/index.php?catid=173


内容っていうか主題みたいなの。てか、そういうのとかプロデュースまでのこもごもをちょっとは知ってるのでなんかスタッフみたいな気持ちで臨めた。いままでだったらクレジットなんか流すだけだったけど電通+ディズニーなところにもみょーに反応したり。映画に関わった人全員でカンパニーなんだなぁ、とか。


ともかく映画の感想


最初の印象は「トトロ?」って感じだった。特にポニョが「ニーっ」って歯をむき出しにしたり、波の上を走っていくところの躍動感なんかはそんな感じ。あと全体的にリアリズムよりも躍動感を重視したつくりとか…。ジブリ作品はそういうの多いだろうけど、「もののけ姫」なんかに比べて物理法則その他を無視してるところがけっこうあったなぁ、とかなんとか。(たとえば「海の魚を淡水につけてだいじょぶなのか?」とかそういうの)

そういうのも主な対象年齢が小さな子供ってこともあるのかなぁとかなんとか。この辺は暗黙の了解かなとか思った。


ポニョが波の上を駆けているシーンでは「これが噂の『波の躍動感を見てください』かぁ。ほんとに一個一個の波を生き物みたいに描いててすげえ」とか思いつつなんかこういう伝承ありそげに思った。「時化のときに波間を走る子供の伝承」みたいなの。「人面魚が嵐を呼ぶ」っていうのはセイレーンかなんかだろうし。「ポニョの血が傷を治す」というのは人魚=不死伝説だし。

「海の子供」の直観は「海獣の子供」も読んでるからなんだけど


海獣の子供 1 (IKKI COMIX)
五十嵐 大介
小学館
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5 壮大な海と宇宙(ソラ)の物語
5 どんな結末になるのかが、楽しみ
5 子供の頃はきっといつも冒険を望んでいた。そんな子供を思うと優しくなれる。
5 海で産まれた子供達
4 身体感覚を刺激する漫画



ちなみにこちらは「海の中を魚たちと一緒に過ごす子供たち」の伝承をまとめた感じでおもろい。「海の子供が破滅を呼ぶ」ってところだとポニョとも共通するし (てか、やっぱそういう伝承があるんだろうな)


あと「海の世界が再び地球を統べるのだ!」みたいなところでは日本における海の勢力と陸の勢力の話とか思い浮かんだ。

muse-A-muse 2nd: 「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/119488882.html


この線はたぶん関係ないだろうけど



そんでまぁ話が進んでくわけだけど。すっ飛ばすと全体としては「あの世を描いた」って話なんだな、と。「あの世を描いた」っていうのは鈴木さんのpodcastで宮崎駿自身がいってたって話なのでカンニングみたいな前知識なんだけど、終わりのほうに出てきたトンネルのシーンとかはまさにイザナギがイザナミを黄泉(根)の国から連れ帰ろうとしてふりむいちゃったときと同じだなぁとか思った。

イザナギは化け物と化したイザナミにビビっておいて帰っちゃったんだけどそうすけは最後まで見放さず「ぼくが守ってあげるからね」って言い続ける。たぶんそれに呼応するようにポニョは「生まれてきてよかった」って思う。

物語構造とか関係なく、作品のメッセージとしてはここだなぁ、とか思った。


それとは別に骨格としてはこんな感じであの世と化した世界を描いてたりする。あるいは世界が大津波で沈んだ後の夢の話みたいなの。

なぜ大津波で沈むのか?これは魔法使いフジモトのモノローグから解ける。

断片的情報ではあるけれど、フジモトは現在の人の世に嫌気がさしてなんらかの方法(魔法)で自らを水中生活に適応させ海の世界で暮らすようになった。そこで海の女神の召使いってわけでもなく客人(あるいはまれびと)的扱いを受けてたみたいなんだけど、フジモトの焦りとして「このままでは世界が滅ぶ」「海の世界が再び世を支配するのだ」「ポニョの覚醒による魔法使用が世界のバランスを崩し、世界崩壊に繋がる」というのがあったように思う。

「なぜ世界が滅ぶのか」について特に説明はないんだけど、作品の最初のほうから見られるフジモトの人間の機械や機械が垂れ流す「汚い水」への嫌悪がヒントになる。この符合をバネとして宮崎アニメの連続するテーマ「環境問題」が浮上する。

このテーマは「ナウシカ」「もののけ姫」と続いてきていて「もののけ姫」で一応宮崎なりの答えが示されていたように思う。そして「もののけ姫」を意識すると「ポニョ」の物語構成や主要人物配置もほとんど似たものだと気づく。


ポニョ = サン
宗介 = アシタカ
フジモト = エボシ
グランマーレ = シシ神+モロ


「自然と人間文明の間で揺れ動く姫」って設定も一緒だし、最後は自然の力が暴走してカタストロフってのも同じ。物語的にはそれに人魚姫的テンプレートを貼ったって感じ。あとついでに北欧神話も

ブリュンヒルデ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%92%E3%83%AB%E3%83%87

そのことがオーディンの怒りに触れ、処罰されることになる。すなわち、彼女の神性を奪い、「恐れることを知らない」男と結婚させられてしまうことである(『ニーベルングの指環』ではどうせ結婚させられるのならと彼女が望んだことになっている)。


この辺は主題ではなく「人に恋した異界のものが代償として力を失う」って話の符合だと思う。



「ナウシカ」のときには蟲愛ずる人の姫が、「もののけ姫」のときには人として生まれつつもシシ(獣)に育てられた姫が、今回は人間になりたい魚のお姫様が異界と人界の架け橋となろうとする。そういう意味ではこの辺がトリックスターとかまれびとなのかなぁとか妄想するけどまぁそれは置いといて…。



全体としてはこんな感じで環境問題が主題な話だと思うんだけどその辺のメッセージ性は覆いかぶしてトトロ的エンタメな作りしてたなぁ、と。「ナウシカな系譜でもののけ姫と同じ」ってことだと物語構造的な違いはどの辺にあるのか?この辺に関する宮崎の考えは進んだのか?とか思うんだけど、なんとなく感じたのはもののけ姫のときのような悲壮感がないってこと。

これは「エンタメ的作りをしたから」というのもあるのだろうけど、もののけの頃より齢を重ねた宮崎の諦観というか老人的達観なのかなぁとかなんとか。「洪水で世界が沈む」なんてのは「ポニョの魔法」ってことにはなってるけど北極だか南極だがが溶けるの意識してるのだろうけどそういうのも意に介さないあっけらかんさというか人間賛歌というか。


もののけのときにはまだ「環境問題を考えて地球をなんとかしなきゃ!><」って感じだったんだけど、今回は途中から「破局になったらなったでなんとかなるんじゃん?」的なあっけらかんさを感じた。そういう生命力は宮崎アニメ(あるいはナウシカ原作)のころからあるものだとは思うけど。


ちょっと解釈的に迷うのはどこからが「あの世」もしくは「夢の世界」だったかということ。宗介が起きて世界が水浸しになってたところからもうそうだったのかな?そうじゃないとデボン紀だかなんだかの魚がいるのおかしいし、ボートの女性がポニョの半漁人バージョンみて「まぁ☆」だけで済むわけないしなぁ。。(「おおらかだったからだよ」ですまされそうな気もするけど…)


あとはこれが方丈記私記的なものだったのかなぁとかぼんやり思う。


宮崎駿自身は「いつか方丈記私記をつくりたい」っていってるらしくて、今回の破局の後の諦観的楽観(無常観)というのもそういうの意識したのかなぁとか思ったんだけど「方丈記私記」まだ読んでないのでわからない。。



方丈記私記 (ちくま文庫)
堀田 善衛
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5 方丈記私記で見えてくる鴨長明
5 古典の読み方を教えられた秀書



1945年3月、東京大空襲のただなかにあって、著者は「方丈記」を痛切に再発見した。無常感という舌に甘い言葉とともに想起されがちな鴨長明像はくずれ去り、言語に絶する大乱世を、酷薄なまでにリアリスティックに見すえて生きぬいた一人の男が見えてくる。


ってことで終戦後の状況とか、世界経済崩壊な現状にも当てはまるのかなとか思ってむしろ「サブプライム崩壊後の世界経済を力強く生き抜こうとする人々」って感じで描いてくれたほうが現代社会には関係するだろうなぁとか思いつつ宮崎やジブリがいまからそこまでするとも思えんしなぁとかなんとか。

隠喩的に「モモ」のジブリ版みたいな感じで表してくれたらいいのになぁ(とかなんとか勝手に期待したり


モモ (岩波少年文庫(127))
ミヒャエル・エンデ
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おすすめ度の平均: 5.0
5 大人になると別の形で心にしみるかもね。
4 児童文学ということで…
5 レヴューというより、雑感ですが、
5 「残業依存症」から立ち直った、今の読後感
5 小学生ではじめて読み





あるいはガメラが出てきて全部ぶっこわすとかねw






--
関連:
宮崎駿講演会「方丈記私記と私」|紅の猫月夜に鳴く
http://ameblo.jp/kurenainoneko/entry-10150291478.html

posted by m_um_u at 20:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2009年07月01日

意味以前へ  Martin Creed展にいってきたよ (reprise)

どうも一個前のメモ書きが不十分な気がするのとミクシの日記が検索できないみたいでアーカイブ不十分ということでこちらに置いておこうということでミクシで書いた日記にちょっと注釈(前書き)加えてこちらにも転載しておく。

最近の話、「世間的な文脈や言葉にとらわれないこと」ということにも関連することだし、むしろこれも前提の一つになってるので話的には連続するし。


その前に一個前のエントリだけど


muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122453130.html


オレ※:事実認定的でない内的実感(感動)を繋ぐため、あるいは繋ごうと足掻いた揺らぎの残照として芸術的言葉があるのであり、最初から修辞的にそれを用いたものはカッコヨクオモシロクあっても空疎な嘘。

「分かる」ということは言葉の牢獄から解き放たれ最初の感動にたち戻ること


本当の意味で「椅子を見る」とはいわば「疑いようのない椅子という実在」を見ること。これは凡人にはほとんど不可能に近い。ゴッホはできた。それならば、われわれはそれを見ればいい(102)



この辺り、けっこう重要だと思うんだけどサラッと流しちゃったので見てる人は気づかなかったかなぁとかなんとか。


この後の文章にも続く内容なんだけど、言葉や絵画、表現的なものは誰かに伝えるためには分かりやすい表現が必要でそれが折り重なっていって形式や様式ができていくものだとは思うんだけど、その文脈に従いしすぎるとそれ自体がゲームになってしまうって話。もしくは修辞や演出にこだわり過ぎて内容がないとか。なんか上手と思われる表現、かっこいいと思われる表現に表現者自身が囚われてしまって言葉遊びに終始し、ほんとの感動や実感に届かなくなってしまうっていうそういうこと。

山頭火が「言葉にとらわれるな」っていったのもそうだし、表現的なところじゃなくてもバカボンドで武蔵なんかが「ぜんぶ言葉でした」みたいなこといってたのもそういうことだし。


それで、

そういうのとは別に疑いようのない実感、感動を得たときになぜかしらそのモノや事象が「分かる」ときがある。自分はそのモノに連なる長い文脈を知らないのに、なぜかそれに感動しそれがその筋では有名なものだったりすること。

「小林秀雄の流儀」の中で山本七平が李朝の青磁に魅入られたというのもそういうことだと思う。


東浩紀的なアーカイブの山積的な問題(過去のアーカイブが巨大すぎて参照不可能性が生じている問題)を越えて、


muse-A-muse 2nd: オタク世代論と文化消費の変容 (「動物化するポストモダン」)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/81514857.html


人にはいきなりレベルが上がるというかそのモノと運命的な邂逅を果たすというようなことがあるのだと思う。





それはともかく、とりあえず以下は今回の本題の「意味(文脈)以前」についてある展示を見ながらなんとなく思ったこと




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広島現代美術館でやってたMartin Creedって作家の展示に行ってきたので軽くメモ程度に



マーティン・クリード展
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/main/special_exhidition.html


マーティン・クリード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89

本人のサイト
http://www.martincreed.com/


なんかよくわかんないインスタレーション系のひとということで少し躊躇したんだけど「アジア初」ってことで見に行ってみた。あとは「日常をアートにする」ってところに惹かれて。ウォーホルのキャンベル缶ぐらいの期待で。

結果的に予想以上の満足度だった。


入って最初に壁から乳房みたいな突起が出てたり、床の上audio technicaとかタバコの空き箱みたいな塚(?)があったり、なんか風船がぎっしりつめられた部屋があったり、カーテンが閉じたり開いたりしてたり…。

なんかよくわかんないので次の部屋に進んだら天井一面の照明が点いたり消えたりしてた。


ここにきてようやくなんか廃墟みたいだなぁとか2001年宇宙の旅の船内みたいだなぁとか思い至った。

あとは空間の使い方がみょーに緻密というか、なんかみょーにそれぞれの作品の角度計算してる?的な感じで。

各々の作品にはそれほど意味はないんだけどいくつかの作品が配置された空間全体でなんとなくの意味を持ってくるようなそういう感覚。そしてその空間も「明かりが点いたり消えたり」の部屋から見るとなんとなく趣きが違うようなそういう感覚。

そんでこの作家は光とか音とか空間の密度とか温度、空気そういったその場にあるものすべてを含んで自分の作品として提示したいのかな、とかなんとか。

そんなこと思いつつ進んでいくとサンドバッグみたいなのの前にブラウン管なテレビが積み上げられていて4人ぐらいの男女が絵の具みたいなの吐いてたり…。

自分的には宇宙人感覚でこの映像を見た。「この星の生物は身体の上のほうからなにか出すのだな」的な。


そんで、それぞれの作品の配置とか角度とかにけっこうな意味を感じ、その辺は独特なルールで表していこうとする作家なように感じたのでそこで座っていた学芸員の人(?)に「作品の配置は作家がやったのですか?(美術館のスタッフではなく」って聞いてみたらやはりそうだったみたい。

あとでもうひとつ気になったのでほかの学芸員のひとに「作家は美術館を視察に来たあとでどの作品をもってくるか決めたのですか?それとも最初にリスト化なんか提示されててもって来てから展示場所にあわせたのでしょうか?」ってきいたら「その辺は残念ながらよくわかりません…」とのことだった。んでも後でもらったポスターみたら展示されていたのとは大きさの異なる作品もあるのでこちらに来る前に送られてきた空間資料をみていろいろ調節していたのかもしれない。てか、まぁ来てからブリコラージュ的に現場にあわせちゃえばいいってのもあったのかもだけど。


そんでまぁ地下の展示へ


地下の最初はまたしてもブラウン管が積み上げられてて波止場に船が定着する2つの映像が流されていた。作家本人にそれなりの狙いがあったのだろうけど特にピンとこなかったのでこれはスルー。作家の表し方が絶対ってわけでもなく間違えてることもあるのでピンとこないものはさっさとスルーする。んで、次

次は最初のほうにテンポの違うメトロノームが複数配置されていてそれらの刻む音が空間を支配していた。壁際に異なった音、長さの異なる釘などが配列されてたりしたけど例によってそれらはひとつひとつはそれほど意味はなくこの空間全体を構成する要素のひとつにすぎない。

見上げると天井が丸い壁掛け時計のように婉曲したカーブを描いていて、その周りをメトロノームの音と夫々の作品が滑っていく。

時間と進化

あるいは単なる時間の表現。


それらの意味するところに訪れた人が困惑しだしたころを見計らってか作品の終着には「Don't Worry」の電光掲示。あるいは、それは時間とか存在とかに対する不安を払拭するための言葉だったのかもしれないけど。


そして暗室的な部屋に作家とわんこたちの戯れというか、作家の指示になかなかしたがってくれないわんこたちと作家の様子をそのまま録ることで作品とした映像が掲げられていて、その傍に例によってモノリスのような作品がたたずんでいた。

ありし日の作家、あるいは人類の遺影のように



最後に、「Martin Creedのことば」としていろんな場所での作家へのインタビューが抜書きされていた。その辺でなんとなくな答え合わせ。

やはり既存の意味の文脈にとらわれることに敏感な作家っぽい。そんで、「タイトルをNo数字であらわすのもなんらかの意味をつけたくないからなんだ。タイトルなんかすごく意味が過剰だよ」、と。この辺でLさんとか頭に浮かびつつまぁなんとなく納得。鑑賞者に余計な恣意性を与えたくない、と。そういえば展示観覧の順路も今回は示されてなくて、ヘタしたら作品をすっ飛ばしていくようなショートカットとかできてたんだけど「作家さんから回る順番も決めないように。見てくれる人が自由に見られるようにしておいてください、って指示があったんです」、とのことだった。


あとは、「音楽とか日常とか境なく、ぼくにとってすべてが作品」、だとか。これも一歩間違うと単なる勘違いになるところだけどなんとなくわかった。実際、勘違いした方向にいっているわけでもなく一定のルールのようなものを感じたし。


一定のルールというのは最初に帰るんだけど「宇宙人に説明すること」みたいなの。当人はそういうことは思ってないかもなんだけど、宇宙人に伝えるときには人間的常識は通用しない。なので既存の意味の体系とか文脈、人の世の意味の体系や文脈を崩しつつ「伝える」ためにある一定のルールが必要になる。

言葉は違っても伝わるような普遍的なメッセージ、あるいはコードみたいなの。


そういったルールが蓋然的にせよ鑑賞者と共有されるからこそいわゆるゲージツ作品は野放図な作家の独りよがりにならずに済む。

あるいはこれ系で優れたゲージツ作品ってのはそういった所与のジョーシキ的なものをできるだけはいでいったときに残るような共通理解というか新しい感覚というか…。剥ぎ取って残るもののギリギリのバランスを楽しむ、みたいなの。


なのでそういったものがない作品というのは単なる落書きとかガラクタになってしまうわけだけど、今回の展示はなんかおもろかったなぁ、と思った。見終わって館外に出たときにもなんかそれぞれのモノの配置に意味を感じようとしてたし。



そんなことを思ったわけだけどこちらのエントリ見るとあながち間違ってもなかったようですね(以下、一部引用 )



アーティストトーク「マーティン・クリード」 | 弐代目・青い日記帳 
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1372



謎とき村上春樹 (光文社新書) 石原 千秋


言語論的転回は「世界は言語である」というテーゼによって示される。言語論的転回においては、言葉の先にただモノとして存在しうるような世界は想定されていない。それどころか、僕たちはモノそのものに触れることさえできないと考える。言葉がすべてだからだ。妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言葉で「汚染されている」。つまり、言葉で意味づけられてしまっている。言葉が意味するようにしか、世界は存在しない。だから、言葉の外に世界はない。僕たちはまるで言葉の世界に閉じ込められているようなものだ。


こちらの記事にあるマーティンの言葉がそれを証明しているかと。
BBC News | Creed lights up Turner prize
“I think people can make of it what they like. I don't think it is for me to explain it”

乱雑でごちゃごちゃしていて自分自身でもコントロール出来ない「mess」を形にして表に出すことが作品制作であるなら、形にした瞬間にある特定の「意味」を持ってしまうことになります。

言葉で説明することによって「言葉の牢獄」へ入ることになるなら、「変な人」とレッテルを貼られようともトークショーでもじもじしていた方がましだと考えたのではないでしょうか。

posted by m_um_u at 06:27 | Comment(1) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月29日

「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?

この本読んでてまだ読了してるわけではないんだけど経過報告的にメモ



小林秀雄の流儀 (新潮文庫)
山本 七平
新潮社
売り上げランキング: 65134
おすすめ度の平均: 4.5
4 生活者の視点と経験と知識
5 一身一頭人間として生きた批評家



一つ前のエントリの課題に対するヒントでも掴めればなぁ、って


muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html


自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。


この辺りの匙加減について、この本はなんとなく良さそうに思えた。そんで実際辺りっぽかったんだけど、以下はそのメモみたいなもの。「オレ※」ってちてるところは自分の感想とかメモ、ほかは要約。メモのはじめとか終わりについてるカッコ閉じの数字はページ数を表す。


以下は一章:小林秀雄の生活、のメモ


小林秀雄のように※「自由」に生きるには? 
(※言いたいことだけ言って書きたいことだけ書いて生活するには?

「常識におぼれる」のではなく「常識を活用する」

(オレ※:世間の常識におぼれるのではなく自分なりのスタンダード(道)を持つ) 「常識という原石を磨く」


「私立」する


(世間の常識にとらわれて一身両頭人間にならない   一身一頭人間)


「私立」(自分の中にスタンダード)なく世の中にそれを依存する人は世に不平をいうようになりそれがとどまらなくなる(23)

そういうものにとらわれないで考えるには?↓


「考えるということは合理的に考えるということだ」(24)

一つあるいは若干の着手を先ず発見していて、それを実地において確かめる(人々は普通、読みという分析から着手という発見に至ると考えるがそんな不自然な心の動き方はありはしない)

見ることと生きることの中間に精神を保持する(26)


言葉は邪魔になる  (27)
(オレ※:予断を捨てる)


歴史は事実を知的に再構成するだけのものだけはない(29)

オレ※:現実は「事実」の強制力によって切り取られ矮小化されるが、人間は「事実」だけではなく自らのイメージ(内的感覚)によって生きている


本居宣長も内的感覚に基づいて記述をしていた (神の国日本)



生きたいように生きる、考え(書き)たいように考え(書い)ていくには、まず世間の常識にとらわれすぎないようなスタンダード、自分なりの指針のようなものを持つべきだ、と。

しかしそれがブレていないかどうかを計るにはどうしたらよいか?

「合理的に考えることだ」、と小林(山本)は言う。


ここでは合理的に考えるということと論理的に考えるということの違いが挙げられているように思った。論理的に考える場合は帰納的に各個の事象を素材に論理的推論によって結果を導くものだけど合理的に考える場合は違う、と。

「われわれが考えるとき、すべてを論理的に推論しているわけではなくあらかじめ出ている答えを後から論理によって納得させることが多い」って言ってるように思えた。

この辺の感覚は現象学的かなぁとか。「世間的な言葉や常識、文脈にとらわれないで自分の感覚(リアリティ)に基づく」ってところもそうだし。なので小林も、小林が探求した本居宣長も現象学的な考え方や生き方をしてたんだろうなぁ、と。



以下は2章:小林秀雄の「分かる」ということ、メモ。基本的にはいまいったこと(「現象学的な認識に立ち戻ること」)と変わらないみたい。



「分かる」のはじまり − 一つの見方(世界)にハマってそれを基本としてあらゆる事象を理解するようになる (「つきもの」)(64)


「科学的分析」はあらゆる事象を要素還元し「分析」するがそれが果たして「分かる」ということなのか?(70-71)


感動してないのに感動しているかのように振舞うこと(78-79)


オレ※:事実認定的でない内的実感(感動)を繋ぐため、あるいは繋ごうと足掻いた揺らぎの残照として芸術的言葉があるのであり、最初から修辞的にそれを用いたものはカッコヨクオモシロクあっても空疎な嘘。

「分かる」ということは言葉の牢獄から解き放たれ最初の感動にたち戻ること



本当の意味で「椅子を見る」とはいわば「疑いようのない椅子という実在」を見ること。これは凡人にはほとんど不可能に近い。ゴッホはできた。それならば、われわれはそれを見ればいい(102)


科学者は最初にあるがままの自然に対する素朴な疑問をもつ。その驚きを沈静させようとして分析して行くうちに対象はより複雑さと精妙微妙さをまして行く。それによって科学者は最初の驚きに立ち還るともいえる(104)

オレ※:知ることによって自然の中のキセキがより理解できるようになる


美というものがたち現われたとき一個の壷は「一個の壷にすぎない」ことを越えて「純粋な色と構造とを露に」する(110-111)





そんなこんなでいまは4章までいちお読んだ。3〜4章はドストエフスキー関連ということで、ドスト未読なので参考にならなくて読み飛ばしたけど。とりあえず残りの5、6章を読み進めてみる。


posted by m_um_u at 09:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月18日

「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話

甲野善紀さんのDVD見ていろいろ思ったので感想とか欲しいものリストも兼ねて。

甲野善紀身体操作術 [DVD]
アップリンク
(2007-05-25)
売り上げランキング: 1471
おすすめ度の平
均: 4.5
5 彼に興味がある人は買って損はない
4 価値あり



最初の興味はさいきんちょっと重いもの持つことがあって、そのときに自分が合理的な身体の動かし方に興味持ってたことを思い出してまた甲野さん関連のものを見たくなったということから。前にNHKブックスから出てる小冊子買ってたんだけど実家に置いてきててこないだ行ったときに探したらなくなってた。それで仕方なくもう一回注文。そんなに高くないし


甲野善紀の暮らしのなかの古武術活用法―2006年7月~9月 (NHKまる得マガジン)
甲野 善紀
日本放送出版協会
売り上げランキング: 5107
おすすめ度の平均: 5.0
5 介護する人、される人にむけた、優れた介護術がここにある。



近所のツタヤで甲野さんDVDレンタルしてるの見かけたし。なのでちょうどいいな、と。

NHKブックスのは図解だけでいまいちわかりづらかった。やはりこの人のは動きそのものを見ないと。ということでこれを再び注文し届いたころにツタヤのセールで借りに行ったり。

最初は全体に通呈するコツみたいなのが盗めれば自分的に応用できるかなってつもりで見出したんだけどやはり見てもよくわからんところはわからんかった。古武術手品みたいな感じで。それでも膂力による打撃に頼るのではなく重心移動の速度によって威力を生んでるのだということはわかったけど。「タメをつくらずノーモーションから打撃を行えるので相手に構えるスキを与えず、こちらも最速の攻撃ができる」、と。そんでその際の力は重心の高速移動によって生み出す。物理的に速いってよりも演算速度が早いって動き。てか、脳に考えるゆとりを与えないで考えるよりも先に身体が動く(動いたのは別の私)ってことだけど。反応→反射→音速→光速…

そんで生み出された早さと重さが武器になる。子泣きじじいのように自在に体重や速度を操るってイメージ


これ自体は書いてみると納得できるんだけど実際にやって会得するとなると大変そう。とりあえず効率的に力を発揮するときに身体をひとつにまとめることかなぁ、って自分的には理解した。身体が伸びてる状態で無理に力がかかるとテコの原理で反作用点が壊れちゃうのだろうし。


技についてはそんな感じで1回見ただけだとまだよくわかんなくて、「DVDが手元にあったら何回も見れるかなぁ」、とか思ったわけだけどやはり目の前で実演みたり投げられたりしたほうが体得するには速いのだろうな。そうはいってもなにやられたのかわけわかんないのだろうけど


動きはそんな感じでみつつもう一つ面白かったのがインタビューだけまとめた特典映像のほう。なんか意外だったがこの人武術プロパーかと思ってたけど最初は農大入ってそこで工場生産的に生物を生産するいわば機械主義的なアプローチに辟易していろいろ本読みあさって武道にたどり着いたらしい。

武道を志したのは道を変えるときに自分が得たインスピレーションを感情レベルで体感できるのは身体性があるものだと思ったからだ、とのこと。「運命は決まっている。それがゆえに自由だ」ってインスピレーション。これは「バガボンド」にも出てきて井上も影響受けてるみたい



バガボンド 29 (モーニングKC)
井上 雄彦吉川 英治
講談社 (2008-11-28)
おすすめ度の平
均: 4.5
5 武蔵の成長
4 成長しつつある武蔵
4 殺し合いの螺旋から逃れられるのか
5 深い
4 内面を描くということ




「バガボンド」のこの巻ではそのもののセリフが出てきたり(「おまえのこれまでもこれから先も天によって完璧に決められていて それが故に完全に自由だ」)。武蔵のセリフではなく沢庵和尚のセリフだけど。武蔵は「天と繋がってる感覚があるときは自由だって感じる」みたいなこと言ってた。


そんでやっぱり対談してたりする


「武」
「武」
posted
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甲野 善紀井上 雄彦
宝島社
売り上げラ
ンキング: 48458
おすすめ度の平
均: 4.5
5 スラムダンク、バガボンドと武術の接点はいかに?
3 死に方の美学
4 武士と現代
5 武術の奥義は、現代スポーツをも変える!
5 甲野氏は何を求めているのか






「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性ということで。この辺、ハイデガーかなんか読んでたのかなぁとか思いつつオラも読んでないのでわからん。ただ、「決まってる」ってのは「死」ってことなんだけどこの辺が武士道とかネイティブアメリカンの感覚に通じるのだろうな。「武士道とは死ぬことと見つけたり」ってやつ。

「死が決められたものだと実感すればそこに行き着くまでは自由だ」ってアレ。そういうものとして受け容れればそこにたどり着くまではボーナスタイムになる。なので、不安やよけいな思索の必要がなくなりその分からだや心が速く動く。

「予断をなくす」ということでこの辺はまぁふつーに聞いたのだけど、おもしろいなと思ったのはふつーこれ系を語るときはもっともらしくというかもったいぶって語るものなんだけど甲野さんの場合なんかあっけらかんとしていてほんとに実感したんだなぁって感じだった。

そういう実感を得た喩えとしてもふつーこれ系では聞かないようなものだったし。「同じきっかけを与えられてそれが元でヤル気になって人生が変わる人と変わらない人の違いってなんなんでしょう…って悩んだときに“それは決まってるものなんだ”って思ったら楽になったんですよね」とか


いまヤル気にならなかったり機会が巡ってこなくても“決まってるものだ”ってことにしとけば楽なのかもなぁ。

運命論的に「決まってる」って自縛によって可能性をつぶすとしたらしょうのない話だけど、すくなくともムダに悩まなくてすむ。ということはその分自由に動ける。




「決まっているがゆえに自由」ということではなんとなく山頭火のことを思い浮かべたり。



muse-A-muse 2nd: まっすぐな道でさみしい?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/118269736.html


山頭火の場合も先人の作った文脈や言葉による自縛、予断から逃れようとしてより自由な表現を追及して行ったようだった。そして最終的に「まっすぐな道」にたどり着いた。

自分的には「まっすぐな道」というのは世間によって決められた「まっとうな道」みたいなののことかと思ってて「そういう道を行くのはつまらない」って話かと思ってたんだけど、マンガ的にはその辺の解釈は違うみたいだった。山頭火自身が求めた自由(道)を究めるためにそぎ落としていったもの、家族との普通の生活を振り返って「寂しい」、と。

その孤独自体もひきうけるってことではあったのだろうけど


自由を求めて却って不自由になったり、一見不自由なようで自由だったり…要はその中で当人が言葉に縛られないで自由に動けるかってことなのだろうけど。善とか悪とかそういったものもそういった言葉に過ぎなくて、それに縛られていると却って不自由になるのかなぁ、とかなんとか。かといって野放図なエゴを追求しても満足はなくその辺の匙加減かなぁ。。「生」に向けての匙加減みたいなの。

甲野さんの場合は「それは体が教えてくれる」みたいなことなんだろうけど



身体性にいったってことだとオウムなんかも想起するけど彼らが身体を志しつつもけっきょくは機械論的アプローチになったのはなんか皮肉っていうかすれ違いだったのだなぁ、とか思う。「オウムに影響を与えた」という中沢新一の例の本はまだ積読だけど


チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
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5 今だからわかる
5 リアリティとマーヤ
1 体験的密教論
5 詩のような文です
4 中沢新一代表作の一冊!!






あと、○年代の身体論との違いとか関わりとか。メルロ=ポンティ経由だったか

プラトニック・ソフィエンスの創造:新叡知科学へ向けて:メルロ=ポンティの身体論について:連続的身体と超越的身体 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/50869953.html


甲野さんの話って現象学的だなぁとか思いつつ「農大やめた時期にいろいろ乱読した」っていってはったので時期的にはメルロ=ポンティの身体論の影響もあったのかなとか思ったんだけど、農大やめた時期というのが1970年代中期だったみたいなのでその頃に現代思想系の身体論ってどうだったかなぁとか思ったんだけど思い出せないし甲野さん自身も特に語ってなかったので関係はないのだろうな。


てか、メルロ=ポンティの話的にも身体における二律背反みたいなのがあるのか


 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。



なのでちょっと現象学系を絡めた話も聞いてみたいんだけど内田センセとのこの対談ではそういうのもなかったみたいですね


身体を通して時代を読む (木星叢書)
甲野 善紀 内田 樹
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1 参考程度
2 内田さんの話が多い
3 有益4割、たわごと6割



内田センセも合気やってて身体性と思想の関係、「言葉以前の身体」うんぬんってことだとベストマッチだと思うんだけど現象学の話が出なかったのは却って不思議だ。。





まぁ、とりあえず「読むもの」リストできたのでここまで




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 九鬼周造、1930、「いき」の構造
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/40630844.html

※いきも諦観から発せられるわけだけど、「結婚してからのほうがモテる」、とかもそういうの含んでるのかもね。

タグ: 身体
posted by m_um_u at 23:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月08日

日本におけるベヒーモスの芽生え   堺の場合

この辺関連の話で


muse-A-muse 2nd: 日本的空気の問題って江戸期の封建的閉鎖の問題だと思いますよ (+グリゴリな天皇な妄想


muse-A-muse 2nd: 「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話


「堺の自治とか商人の権利ってヨーロッパみたいな感じで王様から認められたのが発端だったのかなぁ」ってのが気になったのでちょっとこれ読んでみた。



堺の歴史―都市自治の源流
朝尾 直弘 仁木 宏 栄原 永遠男 小路田 泰直
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どうもびみょーな感じみたい。たしかに堺の位置は当時の陸のネットワークのターミナルとして機能していてそれゆえに栄えたってのもあるんだけど、「商人たちが独力で」ってわけでもなく「神人や供御人、供菜人などの身分を得ることによって諸国を自由に通行できる権利や商売のなわばり的なものについて神社や王家(天皇や院)からバックアップされていたから商売ができ販路を拡げていった」ってのもある。

このバックアップがやがて王権から将軍へと変わっていくわけだけどその頃には商業発展やそれに基づいた自治の萌芽はできていたみたい。そしてこの萌芽が自治権の買取みたいな形で達成されることになる。

将軍(武家であり幕府)の統治下では決められた金額の年貢をとりまとめて領主に支払う代わりにその所領の警察や裁判の権利(自治権)を買い取れるようになってたみたい。そこでの年貢は平均的な水準よりかなり高額だったみたいだけど、それによって事実上、領主としての支配は放棄されることになった(地下請)。

この自治を幕府が認めたのは経済力だけではなく堺の町に住人を取りまとめる一定の自治組織があったためみたい。あと幕府と神社の関係とか。

さっき少し言ったように堺の町は神社を後ろ盾にした緩衝地帯的なところがあったみたいなんだけど、もともとは住吉神社系な流れから堺の住人は自立したかったみたい。そんでそれを幕府が公式に認めることで住吉支配からは脱却できた、と。


この辺を見ると「経済力だけで独力で自立・自治」ってわけでもなかったようでそういうのを可能にした日常の政治力とか組織力とかがポイントだったのかなぁ、とか思う。


最後にこの辺の話のまとめを一部抜粋



(68) 中世の堺を都市として発展させたものは何であったのか。境の都市の自治を支える条件は何だろうか。
 一つ目は、神と王権と武家である。
 港としての堺の出発点は、国家の管理下にある「国際港」=榎津(えなつ)であり、住吉信仰に支えられて海上交通をになう海民たちの活動であった。その後、春日社の供菜人が堺と奈良との関係をとりもち、堺に生まれた最初の自治組織は開口神社の運営組織であった。堺という場、あるいはその住人の王権とのかかわりは、供御人の来往、王家領荘園の成立にはじまり、南朝との親密な関係へと展開してゆく。室町時代になると堺は事実上、将軍直轄都市となり、地下請によって達成された南荘の自治も幕府の認定を受けたものであった。
 戦国時代のポルトガル人宣教師の言葉から、堺はしばしばイタリアのベネチアと比較される。しかし、工程に直属することでさまざまな特権をえていた中世ドイツの帝国自由都市と堺をくらべてみることも可能ではないだろうか。




残りの条件としては、「堺を取り巻く環境が良かった。農業の高い生産力、ものづくりの高度な技術力」、とか、「住人たちが柔軟にさまざまなものを取り込んだり受け容れたりした。それを受けての文化の質の高さ」
などが挙げられていた。


posted by m_um_u at 11:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月07日

ネットの公共性をめぐっての古くて新しい話  現実に即したパワーゲームか原義的公共性か

lifeの「現代思想」の回聞いてたらいろいろ興味深かったのと、あとで自分で買うものリストにしたいなと思ったので軽くメモ


文化系トークラジオ Life: 2009/05/24「現代の現代思想」 アーカイブ


ここで「現代思想とは?」とか「現代思想・批評家の役割とは?」、「なぜ東浩紀は政治的にコミットしないのか?」みたいなことがリスナーから問われててそれに対する受け答えが面白かったので。

ザラっとなんだけど、

・政治を語らない理由:「既存のイデオロギーに巻き込まれるから(中立ではない」


「“政治的”といっても既存の文脈、マルクス主義ならマルクス主義、サヨクならサヨクの文脈に沿った話をしているだけであってそれは真の意味で政治的といえるのだろうか?」

アレントの公共性定義っぽい


・真の意味で政治的であること−公共的であること

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4 舞台上でactionし、時に観客になること
4 「わかりやすさ」を疑う


[書評]今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹): 極東ブログ

著者仲正が指摘するように、現代日本で説かれる政治思想は、装いは複雑に見えても、実際には単純な倫理命題に帰するものが多く、その意味でわかりやすく説かれすぎている。「何をなすべきか」に具体的な当為を描き出してしまう。そのわかりやすさそのものに、アーレントの危惧する全体主義につながる傾向がある。


仲正が取り上げている、現代日本の政治思想のわかりやすい一例には「格差社会論」がある。現実の人間には、社会的地位、学歴、技能、コミュニケーション能力など多面性があり、格差の形成も多様な形態を取っているにもかかわらず、ひとたび思想として「人間らしい平等な生活」といった枠組みが提示されると、それだけから「格差社会と戦わなければならない」という至上命題が現れる。数年おきに起きる通り魔殺人事件が、さも現代の格差社会の結果のように真顔で論じられたりもする。こうなれば政治思想といっても、もはやその主張の党派に入るか否かだけが問われているにすぎない。党派的な「善」や「説明」が希求されれば、「格差とはどのようなものか、なぜ格差が問題なのか」と多様性を志向する議論自体、排除されるべき対象とされ、対立する集団の利権の争いのような政治性に帰着してしまう。あるいは、政治性が先行して思想が類別されるようになる。
 アーレントの思想が起立するのは、こうした「政治性」こそ政治ではないのだする指摘においてだ。アーレントによれば、政治とは、人が公を存在の部分を負って公の場に現れ、多様な議論を形成することにある。複数の主張が公において息づくことが政治だとするのだ





・東と宮台の立ち位置について(の東的見解)


宮台:ルール下でのパワーポリティクス(マッチョな勝ち狙い、cf「日本の難点」)

東:公共性、中立性へのラディカルな回帰(Google的なデータベース cf.mixi的なエゴの集まり)


宮台さんはそういった環境、政治的中立性が確保されていない公共圏な環境においても「それならそのルールの下でとりあえず“われわれ”のエゴを通すために勝てる戦略を見つけようぜ!」って感じらしい。近刊にはその辺がまとまってる、と。「ブルセラ社会学者」のレッテルを脱しているとか何とか(ちなみに宮台が「ブルセラ社会学者」にならざるをえなかったのは当時「批評空間」がそっち系の言説を扱わなかったので宮台がすくい上げたとか)

日本の難点 (幻冬舎新書)
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4 一読の価値あり。
1 サバティカルだって(笑)
5 純粋まっすぐミヤダイ君
4 ざっくり分かるところがいい
5 いつも兄貴はとても頼りになるのである


 
たいして東さんのほうはやはり公共的ギロンにおける中立性にこだわるところがあり、「それが達せられてなければ参加しても無意味」、って感じらしい。そんで、「そういった中立性は技術的に実現可能だ」、と。簡単に言うとネットを介した直接民主主義(意見集約)でありそれはGoogle的な多数決によってでき得る、ということみたい。もちろん意見集約といっても「国民→国」みたいな一元的なそれではなく「州」とか「県」とか「市町村」みたいないくつかの階層に分かれてそれぞれの中で集約していくことから、ってことみたいだけど。

この辺の話は前に堀江さんがLivedoor Newsについて、「メディアの公共性っていってもなんだかわかんないでしょ?アクセス集めるものがおもしろくて関心がある=公共性がある、でいいじゃない」、って言っていたのを思い出した。


「なるほろ」、と納得しはしたものの個人的にはそれでも東がコミットしないための言い訳のようにも聞こえたわけだどl、その辺の印象は外伝のほうで改まったりした(後述)。



・「御託はいいので結果を出せ」

それでも東的には「批評家としての社会的責任」とか「社会学者として〜」「公共空間における言説の〜」とかいろいろ投げかけられ本人もそれを気にしてるみたいだけど、「そういった言葉を発する連中が実際のところどういう行動を示しているのか?」、というのが実感ぽい。

当人としては自分の好きな空間を守るためにゼロアカ道場みたいな編集も書き手も含めた若手育成とかしてる。それは内容的にはびみょーなところもあるかもしれないが少なくともその後それ系のモノを読んだり考えたりしたい人の場を守り残して行くということでは意味があることではないか。それがライターとしての自分の限界であるし精一杯できることである、と。

この辺りの職業人としての線引きは共感できるなぁと思った。ぐちゃぐちゃ考えて難癖つけても難癖つけたいだけって連中もいるわけだし、けっきょく自分の身の回りとか自分に関わりのあることを行動によって自分が「良い」と思える方向に変えていけてないと意味ないな、とは思うので。そして、そういった行動が拡がっていくことは十分に(あるいは原義的に)政治的だなぁ、とか。


そんでそれ系ではてサ(あるいは「はてな」とだけ?」)な名前もあがったわけだけど、そういえば最近それ界隈で梅田さんとかなんか言ってたなぁ、ということで記念リンク


梅田氏と「アテネの学堂」 - Tech Mom from Silicon Valley


内容としては特に新しいこともなく表面的には理解できるし分かるところもある。たしかに公共的な場である程度ルールに則って意見交換されてないと不毛だとは思うので。その辺はアレントもふまえたハーバーマスな話で出てたし。

なのでこの辺の話は特に新しいことでもなく古くて新しいというか、ネットが始まって以来期待されていたことがまだくすぶっているんだなぁ、程度なことなように思う。わりと近いところではisedで総括されつつ「今後の課題」ともされてたし


ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究

「行動がなされてない」、と。

そんでおーざっぱに分けると、ネットにおけるこの辺りの話は「当事者間でルールを作ってそれに則って意見交換する」か「アーキテクチャ的に悪貨を規制する」的な話になる。

個人的には前者が好ましいわけだけど「それもなされないようだしやっぱアーキテクチャ的にできるんだったらアーキテクチャ的にやってみようかね」ってのがこの辺の話の流れだったようにも。

そんでまぁ(Glocomでいさかい起こしてisedによばれなかった)池田センセのエントリに通じるわけだけど


梅田望夫氏の開き直り - 池田信夫 blog

はてなブックマークの「書き捨て」に適したアーキテクチャが、結果的にはこういう卑怯者が reputationのコストを負わないで他人を罵倒するのに最適のツールになっている。こういう状態を改善することは、技術的には可能だ。せめて DiggやSlashdotのように、発言を互いに(正にも負にも)評価して低ランクのコメントを隠すようにできないのか、と近藤淳也氏や伊藤直也氏にも言った


ってのがひとつの落としどころではあったなぁ、と。(実名匿名論は相変わらずわけわかんないけど


ただ、「アーキテクチャ的に規制する」というのはオーウェル的な管理も危険性も孕む、ってのがこの辺りでの不安点で。んでも、われわれはもうそういったものにどっぷり浸かっていてそういった中で特に支障なく生きているし、新しい楽しみや創造性を発揮したりしているってのもある。


muse-A-muse 2nd: スマート化する社会(可能性と課題について)



とりあえずこの辺りのギロンの現在を確かめる意味でもこの辺見とこうかな


思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ (NHKブックス別巻)

日本放送出版協会
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あと、6号が「政治」らしいのでそれも。




--
関連:
muse-A-muse 2nd: システムにおける多様性の必要性 (あるいは不完全なシステムの意義)

※池田センセがはてなに「アーキテクチャ変えろ」っていってその辺をはても検討してた辺りの話



muse-A-muse 2nd: 公開性と限定公開性の間ぐらいの話


※ネットの公共性は「みんなの意見は案外正しい」で決められるのか?、について。「いくつかの階層に分かれてその中で限定されたオープンネス(討議性)を追求していくしかないのかなぁ」、とか言ってるな自分。




--
追記:
ネットにおけるパワーポリティクスというのはたいして内容なくてもCEOだかセンセーショナリズムだかなんだかで関心集めちゃったもの勝ち的なアレかなぁ、と。まぁそれはそれでありかなって気もする。とりあえず関心集めた後で内容を膨らませてイクってのもあるだろうし。

ところでそういうのをパワーポリティクスとすると東さんがやってるのも「とりあえず関心あつめる」ってことで似てるのかなぁとか思ってその辺でラディカルな公共性の話はうそっぽい気がするんだけど。「パワーポリティクス」のとらえかたが違うのかもだからよくわからん


パワーポリティクスとは - はてなキーワード

1. 強制力としての権力の行使や追求によって特徴づけられる政治的活動。
2. 軍事的もしくは経済的な力の使用もしくは脅迫的使用に基づく国家間の外交。



国際政治学的にはリアリスト的なアレってことみたいですな。ソフトパワーに対するリアリズム的な
posted by m_um_u at 18:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年06月04日

駄菓子もまた是し

Morality comes with the sad wisdom of age, when the sense of curiosity has withered.
-Greene, Graham







ちょっと前にこういうエントリ見て、


ネットで書いてるとなんで文章力落ちるんやろ - Hopeless Homeless
http://d.hatena.ne.jp/akio71/20090207/p1


ネットを足場にして、長期間文章を書いていると、文章力がみるみる落ちていく。

自分でも「ブログ書いてると文章の基礎体力落ちるなあ」と実感してますし、古くはニフティ時代に栗本薫さんが、会員制パティオで毎日毎日、全員に全レスしてくうちに、本業の小説の文体までグダグダのめためたになったのを目撃しました。何十人に全レス、それにレスあったら更に返信しかも長文っていう情熱は素晴らしかったんだけど、どんどん「……で、何が書いてあるんだろ?」とわかんなくなっていった。

仕事でも、ほぼ、仕様書以外は「台詞、ト書き、終了!」なので、台詞や物語の筋道は書けても、情景の描写だとか、動きを読みやすくわかりやすく伝える技術、が、みるみる落ちていきます。

語彙も減ります。




わりと気にしてたことではあったのでひっかかった。

たしかについったーやるようになってblog書く気が減ったなぁとは思う。

んでもこういうのって新しいメディアがでてきたときには必ず出てくる類の話で、その意味では「ワープロで書くようになると文章力落ちる」→「ネットで書くようになると文章力落ちる」「ケータイで書くようになると文章力落ちる」→「ブログやるようになると文章力落ちる」→「ついったで書くようになるとブログ書く気もなくなる」、的なことがいえるわけだし…。

まぁそれもないとはいいきれないけど


そういうのがもしあるとしたら、イノベーション→簡単・便利によって解決されたと思われていた不便や面倒さの中にこそ創造のエッセンスもバンドリングされていたのかな?とも思うわけだけどもうちょっと簡単に考えると、メッセージが発せられるその場において文脈を共有するようになるとはじめての人に説明するように詳述しなくても良くなって説明や表現がゾンザイになるとかそういうのかなぁ、とか。


てか、個人的にも心理とか情景の描写をゾンザイにして掘り下げてく集中力が続かなくなっているのは問題だなぁとか思ったりしてるのでやっぱポメラ買うか。まだ触ってないけどあれはなんか文章に集中できるツールが欲しい気もする。いまはメインPCから離れて寝床でEeePC使って書いてるけど、やはりちょっと書きづらいな。キーの幅が狭いので。支えは書見台みたいなの買ったので割と大丈夫なんだけど。

もうちょっと自然に、違和感なく思考が吐き出せるツールがあると思考のノリも失われずにリズムが出てきて創発しやすいのではないかとか期待してるんだけど。そういう意味ではワープロなど筆記ツールの変化による思考や文章の長さの変化というのはあるだろう。てか、「手書き時代に比べてワープロになると確実にレポートの文字数が増えた」、とかいう話もあるし。

ワープロの場合は手書きに比べて編集の可逆性が高いしなぁ。。



閑話休題



そんな感じでライティングメディアの技術発展によってむしろ思考というか文章は長くなった面もあるようにだけどコミュニケーションメディアの発達によって文章を他人に吸い取られるみたいなのはあるかもしれない。コミュニケーション論的には相手のスキーマにのっとられるってことだと思う。ついったとかほかのメディアでもそうだけど、それ見てるうちに自分が何やろうとしてたか忘れるみたいなあんなの。

ついったなんてのはたいした話題でもないことが多いので侮ってたりするんだけど意外と吸い取られたりする。文体→思考様式なんかも知らないうちに影響受けたり。


そういうのに対して自分の表現というか思考の幅を守るためにどういうことをすべきなのか?


やはりぢみに良い文章読んだ後でその高揚感を自分も文字で刻んでいく、みたいなことだろうか。習字みたいに文章とか文体の集中力もトレースするところがあるのでなんか読んだあとに読んでたテクストの集中力を再現させるような感じで書いていくとよさげなように思う。

んでもあまり修辞や形式に引きづられて、いつの間にか「オサレ文体はできてても自分のほんとに思ってたこととは違うんじゃ…?」
ってならないようにご用心。

けっきょく文章力というのは「人にわかりやすく伝える」ってのもあるけど「自分の中にあるぼやーっとしたものを表せる能力」ということで、そのための語彙であり文体だったりするわけだし。



あとは孤独というか、自分の内奥の声に耳を傾ける時間が必要だろうか。その声はとても微かで小さいので他人の声や雑踏の中ではかき消されてしまうかもしれない。だから静かにその声に耳を傾ける環境、集中力が必要なんだ。自家中毒にならない程度の孤独と集中力が


要は「ついったほかコミュニケーションメディアが悪い」ってことでもなくバランスなんだと思う。どんなに体に良いとされるものでもそればっか食べてたら不健康になるわけで、それと同じようにひとつの環境に依存しすぎるとつまらなくなるのだろう。

ついったやblogは駄菓子や軽食のようだけど、駄菓子もまた良いよ(食べ過ぎなければ




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関連:
ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール - 雑記帳
http://d.hatena.ne.jp/ced/20061001/1159774865

※書く気が筆力が減る理由関連で。てか、こちらのエントリのほうが「ライティングスペース」についてきちんとまとめてはるので参考になるかも。

「ライティングスペース」中古で安くなってるから自分で買う用にリンク

ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール
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関連で言うとキットラーなんか思い浮かぶけど

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)
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2 訳書も原書もいまひとつ、いやいまふたつ


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フリードリヒ キットラー
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おすすめ度の平均: 2.0
2 いまふたつ




<新メディアの登場以前にメディア使用のモード(土壌)が少しずつ変化していっていたから新メディアが受け容れられた>って視点的には「書き込みシステム1800/1900」のほうが良いのだろう。

むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u

m_um_u アンチョコ本によると、キットラーの視点はメディア変遷の歴史を「文字・文書」の時代と「技術メディア」の時代に分けるんだそうです。んで、前者が「手書き文字」と「印刷」、後者が「電話とアナログ技術」に分岐する。

m_um_u それ以前の時代は特に問題にしてないみたいだけど、文字移行にクローズアップしてる、といってもいい。で、日本で有名なのは「グラモフォン〜」だけどもう一個の主著に「書き込みシステム1800・1900」というのがあるのだそうです。ここで技術メディア以前のリテラシーの浸透を追っている

m_um_u んで、そういった形でモードが浸透することによって社会全体の認識が変わっていく(それと相関して社会システムも変わっていく)ってのがメディア論的視点ですね。

m_um_u つか、「グラモフォン」だけみるとメディア論(技術決定論)ってみられがちだけど「書き込みシステム」のことも考慮すると、表象の操作と認識の変容を地味に追っている、とみたほうがいいのかも。その意味でラカンやら絡んでくるんでしょうね(わたしあの辺わかんないですけど


書評空間:UMATフォーラム@書評空間: 『書き込みシステム1800/1900』(未邦訳)フリードリヒ・キットラー
Friedrich A. Kittler, 1985=1990, Discourse Networks 1800/1900, Stanford University Press
http://booklog.kinokuniya.co.jp/umatforum/archives/2007/04/discourse_networks_18001900fri_1.html


「書き込みシステム」については未邦訳ということで上記まとめのリンク先の本とか、たんぶらーでいったアンチョコ本なんか買っといたほうがいいのだろうか。


〈メディア〉の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界
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5 良かった!!



言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)

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3 理論と事例の乖離が。。。
5 『言説分析の不可能性』では?



大黒さんのアンチョコ本、アマだと在庫切れだのう…




タグ:メディア論
posted by m_um_u at 06:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月30日

日本的空気の問題って江戸期の封建的閉鎖の問題だと思いますよ (+グリゴリな天皇な妄想

馬車馬さんのところのエントリ見て、勢いでちょっと長いコメントをしつつ少し尻切れトンボだったかなぁ、と思ったんだけどこれ以上ヒトサマのコメント欄に長ったらしくなんか書くのもなんだし、blogのネタってのもあるのでこちらにうpしてTBしておきます。


まず、こちらのエントリ


和魂と洋才と「会社」の仕組み: マーケットの馬車馬


主題としては、「日本人が働き過ぎるのはなぜか」 「なぜ日本ではどいつもこいつも長々と残業しているのか? なぜ日本の会社は中途採用に対してこれほど消極的なのか? 成果給はなぜいつまで経っても根付かないのか? 日本の労働組合はなぜ企業と戦おうとしないのか?」、ということ。

それに対しての推論としては、「日本の村八分型評判メカニズムが問題なのでは?」、というもの。端的に言うと、<「日本型の評判システムがジェノア型の明確な契約に基づく上下関係の採用を阻んだのではないか?」、という話。後者は世界中の会社組織運営のスタンダード的な決まりであり合理性といえるが日本の組織は必ずしもこのスタンダードを共有しているものとはいえない>、と。


そんで、こういうコメントしたわけだけど


エントリの主題は「バザール型(マグレブ型)と伽藍型の組織運営がある」ということでこのあたりについては特に異論はないのですが、日本の組織の成り立ちについて少し違和感があったもので。

日本全体が「村八分」的なものをしていたバザール的社会ととらえられているようですがそうでもなかったようです。西日本と東日本では組織の成り立ちや運営方法が違う

くわしくはこちらにメモっときましたが

muse-A-muse 2nd: 宮本常一、1984、「忘れられた日本人」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/114394025.html

西はバザール型、東は伽藍型ヒエラルキー(あるいはピラミッド構造)っぽいです。

ただ、中央集権的な組織運営までいっていたかというとちょっとびみょーなんですが。あと、大田植えなど強力な一元的なリーダーシップが必要とされる大行事は東ではなく西であったようなのでちょっと混乱してます。。(この辺うろ覚えなのでもう一度宮本常一の当該本みてみるといいかもですが)

で、
強力な中央集権的組織の成り立ちは江戸期とそれ以前では様相が異なるように思います。あるいは合理主義が導入され敷衍されていったのが江戸期、それ以前はわりと牧歌的な感じだったようで。もっともこれは江戸や大阪などの都市部に限ったもので農村部は依然として旧来の空気感があったのかもですが。

なので、いちお伽藍様式もあったようですが、ヨーロッパ的合理性を伴った組織運営とも異なるようです。それが導入されるのは明治期以降ということでこれもちょっと段階を踏みます。

まとめると、日本的な組織の独特さ(あるいはいわゆる日本的「空気」の問題)は村社会的なそれの影響は確かにあるだろうけど江戸期や明治期の合理性導入によってハイブリッド的に涵養されていった、と考えられます。

伽藍とバザールについてはよろしければこちらをごらんください。

The Cathedral and the Bazaar: Japanese
http://cruel.org/freeware/cathedral.html

ほかの方もいっておられましたが『ノウアスフィアの開墾』はその続編です。



江戸期についての記述が足りなかったかなぁ、と思ったので以下書き足し。

「明治期以降の合理的システムの基礎が江戸にあるっぽい」というのは変わりないんだけど、江戸の中でも都市部と農村部だと様相が違う。どっちかっていうとゲマインシャフト的な村八分なシステムというのは農村部のみで採用されていたようにイメージされがちかもだけど江戸でも五人組、町年寄のような相互監視システムがあった。これは役人の絶対数が足りなかったので町人たちに自警的に安全管理させたってことみたい。

五人組 (日本史) - Wikipedia

江戸時代の町年寄と町名主はどう役向きがちがうのですか? - Yahoo!知恵袋


「町衆はそれぞれの地域の自律や誇りをかけて町人の向上を相互に促した」みたいなことは「江戸の経済システム」にあった。


極東ブログ: [書評]江戸の経済システム 米と貨幣の覇権争い(鈴木浩三)



そんな感じで江戸の都市部にも評判システムはあったわけだけどいわゆる農村部の空気読め的陰湿さがあったかどうかはびみょーな感じがする。江戸っ子気質的な自律的モラルが内部規範としてのいわゆる「空気」となっていたのかもしれないけど、それが排他的な陰湿さをもっていたかはびみょー。もちろん規律をはずれたものには制裁というかそれなりの罰則はあっただろうけど。


そもそも評判システムが悪いかというとそうとも言い切れないように思う。「伽藍とバザール」なんかに出てきたオープンソースコミュニティのそれもフラットな相互評価システム(P2P)だったように思うし、たとえば堺の商人ネットワークなんかも相互評価的な面がありつつもネットワーク的開放性と自律性を備えていたように思う。

なのでそれ自体は間違ってないはず。

問題は、その場の成長を促す要因と思われる外部性の流入を阻害するようなシステムというか心性なのだろう。「その心性がシステム的に涵養されたのではないか?(そしてそのシステムは評判システムでは?)」ってことではあるのだろうけど、そういった心性に影響を与えるようなシステムはもっと大きな枠組みのように思う。

江戸のシステムというのは内国的には封建制による冨の一元化(あるいは諸国や個人に冨や力が分散しないように収奪)、外交的には鎖国という閉鎖性をもっていた。それは日本人の心性というよりは徳川を守るためのタコの足食い的な自虐性をもったものだったのだけど、そのホンネが隠蔽されいつしか「お家のため」的な“場”を保守するためのタテマエがベタに信じられるようになったときに日本人の合理性や開放性は腐っていったのではないか、と個人的には思う。

幕藩体制的な「お家」的な心性はそのまま現代の日本の会社組織のつながりと閉鎖性に繋がるのだろうし。それとは別に江戸期でも海外に対して独自の人脈や情報源をもっていた大名や商人の系譜はそういった「お家」性とは別の心性や情報、冨を蓄えているのかもだけど。(この辺関連↓)

muse-A-muse 2nd: 「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話




いわゆる日本的空気の問題、内部的規範(合理性)による外部的スタンダード(合理性)の不採用の問題というのはこんな感じで、農村部的な空気の問題というより江戸期の封建的閉鎖体制のおしつけとそれへの従順(内部規範的取り込み)が問題ではないかと思った。それとは別に以下はちょっと妄想したのでメモ的に。



「日本では陸のネットワークは一部の権力によって支配され閉鎖的になったのに対して海のネットワークを維持していたものは独自の情報網と人脈(貿易チャネル)、そこから生まれた冨を持っていた」

「中世的な社会的なイニシアティブの転換として軍事力とそれを統べる政治力(リヴァイアサン) から 財力(とそれに基づいた軍事力)のネットワークへの委譲がある(あるいは両者の拮抗)」


リヴァイアサンへの集中をベヒーモスが削ぎ、ベヒーモスが力を持ちすぎることをリヴァイアサンがけん制するという両者の拮抗の歴史は白田さんの以下に要約されていて分かりやすかった。


グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について


考えてみるとこれってシュミットの話からのものだろうか?(てか、シュミットのアレって一般常識なんかなぁ。。まぁそれはいいとして、ここでは国家的な力(リヴァイアサン)、経済的な力(ベヒーモス)に対抗するための手段としての情報力(そしてそれを守るための法的な縛り)が国家的に統合され情報やネットの広がりが監視と管理のシステムにされる危険性が「グリゴリの捕縛」という暗喩で表されていた。


それに対しておーざっぱに「政治」「経済」「文化」みたいな区分けができるとするとグリゴリっていうのは「文化」に当たるのかなぁ、と。中世日本の政治は侍とかそんなの、経済は商人とかだろうけど文化というとどの辺だろうと妄想するに天皇なのかなぁ、とかなんとか。もっとも天皇ももともとは武力をもっていて南北朝時代なんかにはもう一度武力をもって王権を奪還しようとしたみたいだけど(「異形の王権」)。

それとは別に天皇というのは日本版法皇とも思えるわけで、法皇的なアレは武を聖性によって逸らす」という擬制だと思うんだけど、日本の天皇の場合聖性を司る祭祀的な意味合いだけではなく元来は武力をもったものであり、またその権力の理由づけも「神さまから地上の代理者に定めてもらったよ」ではなく「ぼくが神様の直接の子孫だよ」ってものだったりする。なので、直接的な不満の矛先をそらすものとしては不十分なんだけど、リヴァイアサンが武家に握られるようになると責任の矛先をそらすためのダミー的なそれとして機能するようになる。

ここにおいて天皇の存在価値というのはダミー的なそれだけになったかに思えたんだけど、どうもそれだけではないのではないか。


天皇というシステムは聖性を司るお米司祭的なそれのみならず、聖性を含んだ一連の儀式もパッケージした日本文化における古風な形式の遺産っぽい。天皇家自体が人間国宝というかそんな感じ。


そこへの畏敬がどの程度日本的空気の涵養に影響を与えたのかなぁとか思うわけだけど、「責任を回避するためのダミー」的なしかけと封建的な制度が「お上というその場の規範に従っておけばいいのだ」的な気風を生んで合理的判断を自らする機会を逸しさせてきたのではないか。


そう思うと「グリゴリの捕縛」というのは天皇の捕縛であり、まだ荒ぶる大王的な性格をもっていた天皇の力が衰え自主的に武や決定をできなくなりつつもタテマエ的に「日本の王」として存在を容認されるようになったとき、日本社会全体の自律的な気風というのも薄れて行ったのではないかなぁ、とかなんとか。


まぁ、そゆのがあったとしても直接的影響っていうか時代的に相関してたって程度だろうけど。庶民とかその辺関係なさそうだし


そいや関連でこれ読まないとな


明治天皇を語る (新潮新書)
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5 現代皇室の基礎を作った「大帝」の素顔





明治天皇というのも天皇が再び歴史の表舞台に立ちイニシアティブを握る!的なアレであり、「異形の王権」なんか連想しながら読むと面白そう。




--
あまり関係ないけどグリゴリっていうとなんかクリオネが連想されて「天皇≠グリゴリ≠クリオネ」で天皇がクリオネっぽくピヨピヨ泳いでるように妄想される



タグ:日本社会
posted by m_um_u at 08:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月26日

「異色昭和史」を読みつつ自分の根っこのことを思った

対論・異色昭和史 (PHP新書)
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5 異色の対談から醸し出される言葉
5 すばらしい
4 鶴見俊輔と上坂冬子の関係




東京行きの新幹線の中で読み始めてグイグイひきつけられていった。おもろかった。

全体としては鶴見の左翼的な見方に上坂が保守的に異論を投げて行くって感じなんだけど、別にギスギスした感じでもなく、気心がしれたもの同士の掛け合い漫才みたいな感じでおもろかった。鶴見を「先生」と慕いつつも「不良な坊ちゃん」的につっこみいれたりいぢったり、鶴見は鶴見でそれに対してパフォーマンス的に「ちがう!」とかいったり。

両者が異論をなげかけ、それについてケンカするわけでもなく両者が擦り寄っていく感じはなんかほのぼのよかった。

細かい事実関係的なもの、特に「太平洋戦争開始時の日本側のイニシアティブとか転換点はどのあたりにあったのか?」ということ、「日本国憲法を作る際の天皇の位置づけをめぐっての内実はどうだったか」などについての当事者的視点もおもろかったんだけど、その辺いちいちあげていくと長くなりそうなので今回は割愛。
(鶴見の祖父後藤新平は満州鉄道つくったひと、父鶴見祐輔は戦争反対派だったけど「二二六事件でビビった」(鶴見談)、と)


個人的に、本書のクライマックスは上坂が鶴見のジャワの慰安所時代について問い詰めて言ったところのように思った。「<民主>と<愛国>」に出てたけど


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
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4 戦争体験が思想にどう影響したかを、ナショナリズムを中心に分析した本
5 自分であること
5 俺って愛国者だったんだ。
5 確かに『私たちは「戦後」を知らない』と言える
5 「心」と「言葉」から迫った戦後史



この部分の記憶は鶴見にとってはトラウマ的なそれというか、触れられて気持ちの良いものではないはずなので。

こういう質問を上坂があびせたけ言いは、鶴見が自分の父親のとった行動(あるいはとらなかった行動)に対して批判的すぎる嫌いを上坂が感じたからのようだったけど。上坂的には「あの当時としてはそういう態度をとっても仕方なかったところはあったのだろうし」ってのと「なにさ、自分ばっかきれいぶって」的なものがあったのかなぁ、と。

鶴見が親を意識するようになったのは後藤新平、そしてその入り婿である鶴見祐輔というエリート一家の中で母親から徹底してエリート教育を受けつつそこから落ちこぼれていったことへのコンプレックスがあったからみたい。

そういった中、鬼子のようにハーバードに追いやられてからは憑かれたように勉強に没頭して優秀な成績を残したわけだけど、その後しばらくして戦争がはじまって帰国、徴兵されジャワに行くことになった。

ジャワではドイツ語通訳が仕事ってことだったけど実際は慰安所でボーイのような役目をさせられた。このとき「なにもしていないけどなにもできなかった」的な無力感が鶴見の傷になった、と「<民主>と<愛国>」ではまとめられていたように思う。


いわば鶴見の爆弾部分なんだけどそこにくらいついていってはなさない上坂はすごいなぁ、と。ふつーの対談相手だったら鶴見が本気で怒って席を辞するかもしれないって畏れてこういうのはできないと思うんだけど…(鶴見が怒らないのもすごいけど)。   やはり気心が知れてるからだろうか。


そんで鶴見はこの記憶への悔恨もあってか、当時に自分の信念を曲げずに行動していた人、転向しなかった人たちをめっぽう評価するようになる。

東大出の勉強だけができてカタカタ言葉を振り回しているようなかつての自分のような人たちは信じずに、その人の幼少期からの体験や記憶が思想として根付いているひとたちに信頼を寄せるようになる。

たとえ一般的には多少間違ったところや型破りなところがあっても、その人固有の課題が思想的に結実しているような人。あるいは野生の勘のようにそこにたどり着く人。

 私は樹木のように成長する思想を信用するんだ。大学での知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目という考えです。私と接触がある人では、上坂さんにしても佐藤さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。



この辺の話を見ながら自分が院をやめていった理由が思い出された。

本来自分が好きで始めた研究だったはずなのに)関心が流されていく、ということ。外との関係を気にしたり、「それはもう他の人がやってることだから」ということで自分の課題を変えていかければならないということ。

その中で「自分はほんとはなにをやりたかったんだろう?」って思うことはしばしばあった。



ってか、そこまで大層な理由があったわけではなく単純に怠惰だったから断念するような状況になっていったとも言えるのだけど



しかしある程度自由に自分の関心に沿っていろいろと学べるようになった現在、「どこを目指すべきか?」っていう漠然とした不安のようなものもある。

そういうときに標となるような人、あるいは刺激になるような人が側にいてくれるとありがたいのだろうけど。そんな感じで外に依っていてもダメなんだろうなぁ、と。


もう一度自分なりの課題、解決しなければならない問題を見つめなおしてそれと対峙し乗り越えていくべきなのだろう。

それがどんなに門外漢的なもので稚拙でも。人生の終わりに悔いを残さないためにはそこに立ち戻るのが一番の近道なのだ。




まぁ、とりあえず目下の課題は稼ぐことだけど



posted by m_um_u at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年05月14日

「へうげもの」をめぐって武力と資本とアートな話

先日「へうげもの」を読んでおもしろかったのでご紹介がてらなんか書こうかと思ってたんだけど、ちょうどついったで@kimarxさんと話したことがそれ関連にもなるかなぁということでまとめて。

とりあえず「へうげもの」の紹介から。

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (1服) (モーニングKC (1487))
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 物に執着している人に
5 さすがとしか
5 新たに天才発見(遅)
5 物欲か?出世か?
5 キュ〜トな戦国時代



いまのところ8巻まで出てる。

へうげもの 8服 (8) (モーニングKC)
山田 芳裕
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 いぶし銀の8服/策謀の胎動が見え隠れする
5 へうげもの8服、緊張感のたかまる金と黒
4 重い、しかし笑える
5 見つめて、、削いで、、最後に残ったものこそ
5 刻々と近づく利休の死、脈々と継がれる明智の遺産―



概要としては織田→豊臣時代の茶の湯な数奇な話。焼き物の「織部」で有名な古田織部が主人公だったりする。


織部流 - Wikipedia


物語としては織部が千利休に師事しつつ茶の湯(あるいは数奇)の体得と武功をあげての成功の二兎を追おうとするも…的な話。軸としては織部自身よりも利休と秀吉の対立への新解釈がポイントっぽい。

この時代の「数奇」というのは茶の湯関連の逸品を蒐集癖ってことなんだろうけど、ファッションとかアートとかいった意味合いも含むみたい。かぶき者まではいかないけどそれに近いような。

そんで、この数奇(あるいは数奇の前衛であり筆頭芸術としての茶の湯)を通じて利休が暗躍し、秀吉をもおびやかすほどの人脈を作り上げていった、みたいなところがおもしろかった。

歴史の覇権を握るには武力+政治力(リバイアサン)か、資本とそれを元にした武力や人的ネットワーク(ベヒーモス)かのどちらかが必要になると思われるわけだけど、「へうげもの」では「利休たち堺の商人ネットワークは資本という力以外に茶の湯によって独自の人のつながりをもっていてそれが力になっていた」、って描かれかたをしてた。

この辺の詳細はあながち「あれはマンガだから 笑」ってこともないか、と。

こんな感じで「へうげもの」の真骨頂は「武でも財でもなく芸(あるいは文化)で天下をとろうとした」ってところだと思う。んでもやっぱ「文化以前に武力や財力の基盤が固まっていたから」ってのもあるとは思うわけで…。その辺の話をきまるくすさんともそもそ


てか、最初にきまるくすさんがこんな感じでつぶやいてて
 

 

 

 

 

 

 

Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Amino does not want to recognize that Behemoth always defeats Leviathan.
Murakami, a famous pirate clan in Japan, was defeated by Toyotomi. 
(2009-05-13 14:20:01)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Toyotomi first controlled agri-culture entirely in Japan and he would be representative of Behemoth. 
(2009-05-13 14:24:31)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
Ariam lost their territory since they were converted to Christianity. But they made million by trading with Europeans. 
(2009-05-13 14:37:02)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
When Arima was converted to Christianity, they would be converted from
the territorial to the maritime. 
(2009-05-13 14:40:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
OUchi Yoshitaka is the lord of a maritime samurai clan and he permitted Christian missioners to do their missionary work. 
(2009-05-13 15:15:17)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
That is, the word 'Christianity' can be associated with Leviathan and the maritime in Japan. 
(2009-05-13 15:19:45)
link
Kim, YiChul 金利哲
@kimarx
He might find conflicts between the territorial and the maritime as Carl Schmitt who describes history as those conflicts. 
(2009-05-13 16:55:54)
link

これみて別件で見てたエントリ思い出した。


スピリチュアル・ブーム(2) - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


全体的には「昨今のスピリチュアルブームと一昔前のニューエイジ系とかとはどう違うのか?(あるいは同じなのか?)」的な話なんだけど関連で出てきたニューアカデミズムの話がおもしろかった。最近、網野本とか中野本読んでたもので。

該当箇所はこの辺(まるっと引用)

ニューエイジ運動が、「部分的・選択的コミットメント」による小集団によって、既成の集団や共同体の垂直的な地位・役割関係(要するに「しがらみ」ですね)から離脱しようとしていたのと同じ時期に、既成の秩序の垂直的な地位・役割関係を断ち切るための手段として、より強力な方策が夢想されていました。夢想していたのは、ニューアカデミズムと呼ばれていた人々、すなわち、中沢新一さんや浅田彰さんや柄谷行人さんや蓮實重彦さんたちです。そして、その方策が、資本主義の力によって既成の共同体や集団の垂直的な地位・役割関係を断ち切っていくというものです。中沢新一さんの叔父さんである網野善彦さんも、1970年代に、「アジール」という概念やターナーのコミュニタスなどの概念をも取りこんだ「無縁」という概念を提示しましたが、80年代になると、中沢新一さんの影響で、「無縁」と資本主義の結びつきという議論を始めます。浅田さんも、マルクス主義者としてスタートしたのに、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の議論などを援用して、資本主義による解放というヴィジョンを提示します。バブルだったんですね*6。この「資本主義による解放」というヴィジョンもまた、「関係の複数性」ということを消去して、「無縁」(という関係の場)が実現するためには、すべての既成の垂直的な地位・役割関係を断ち切らなければならないという固定観念の現われといえるでしょう。


網野史観とかそれに基づいた中野新一さんのお話だと天皇制打倒ってのが第一に来るので「天皇を中心とした支配層の作り上げた歴史に物申す!」(そのための語りえぬ民たちの歴史)って感じになるように思うんだけど、そういう史観がマルキストドライブすぎるとちょっとブレが生じるのかなぁ、とか思ってたわけだけど。引用箇所的には、「既製の過去のしがらみを断ち切るための手段としてなにかを求めた」→「網野さん的には“無縁と資本主義のつながり”というのがそれに当たった」、ってことになるのか。

「無縁と資本主義」って具体的にどんなのか、網野本もまだ4冊ぐらいしか読んでないのでよくわかんないんだけど、強いて言うと「異形の王権」とか「無縁・公界・楽」で示されたような歴史の表舞台的なところにいない人々による独自の経済圏(あるいはネットワーク)辺りの描写だろうか。それと現代的な資本主義というのがどういったつながりがあるのかよくわかんないんだけど、柄谷さんなんかはNAMっちゃったしなぁ。。あんな感じで「メインじゃない経済圏でも集まれば大きな力になるよ」的な感じだったのかなぁ…(妄想)



まぁ、それはそれとして


リヴァイアサンとベヒーモスの相克の歴史としてはたとえば堺のような商人ネットワークがどのように発生し自律的な力をもっていったか、ってことが気になる。

あと他にも、メインの政府的なものとは別に冨や武力の集中していたとこがあったのか、とか。

前者についてはヒックスの「経済史の理論」辺りが参考になるっぽい(>ヒックスは商人資本が海洋的なものから、そして封建制が領土的なものから生じていると考えているようです。彼はシュミットに近い)

※ここでいわれている「海洋的」は海のネットワーク(経済圏)、「領土的」は陸のネットワーク(経済圏)


経済史の理論 (講談社学術文庫)
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おすすめ度の平均: 4.0
4 この本は・・・



海の道ということではこの辺とかも


松岡正剛の千夜千冊『海上の道』柳田国男


海上の道 (岩波文庫 青 138-6)
柳田 國男
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関連マンガとしてはこの辺(「陸を道を中心とした文化が海の道の文化を滅ぼしていった」「海は産み、陸は戮」)




南北朝辺りの海賊描写(沖縄と中国との貿易も感じさせるもの)としてはこの辺

カタリベ (SPコミックス)
石川 雅之
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おすすめ度の平均: 3.0
4 アクションマンガ
3 完結までもっていってくれてれば・・・。
2 かもしが足りない
4 海洋伝奇冒険活劇!




あとは同時代からそれ以前(南北朝辺りから)の海賊勢力を洗ったりとかか。

この辺りはもっかい網野本見たり、あるいは司馬遼太郎の「日本史探訪」も買ってみたので見てみようか、と。



とりあえず「へうげものおもしろかったよ」って話でした





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追記:
シュミットのこれもいいらしい(メモメモ)


陸と海と―世界史的一考察
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posted by m_um_u at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク