没落して犠牲となるための何か或る根拠を、まずもろもろの星の背後に求めたりしないで、大地がいつか超人のものとなるように、
大地に身を捧げる者たちを
(「ツァラトゥストラかく語りき」)
先日、いぬこの日記をぼけーっとみて
どこまでを自己と認識する社会なのか。 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20091018/1255887730
自分的には「ああ、愛が広がっていくねぇ」ってわりと素直に肯定できた。そういえばちゃんみつはpay forwardでありボトルメール的なものにも言及してたしな、って。それは贈与交換的なものなんだけど。
即時的な等価交換ではなくて、「帰ってきたらいいなぁ」的なものをかすかに期待する(帰ってこなくてもいい)ようなタイムラグのある交換。
んでも、ついったできんぐなんかが「ああいう愛の広がりはなんか却って怖い」っていってるのみてまぁその気持ちも分からんでもないな、とか思った。
女の愛は無限というか、女にも限らないんだけど、無限に甘受されることへの恐れというか相手の底が知れない慈愛に包まれていくことへの恐れ、みたいなのがあることは分かる。
その恐れというのは相手の大きさに対するものだったり、あるいは自分と他者の境界がなくなり自分というものがなくなるかもしれないということへの不安だったり、もしくは愛によって自分が遅くなってしまうのではないかという恐れ。(たぶんきんぐのは最初のほうだけだろうけど)
「愛によって遅くなる」という感覚はたぶんほかの人には分かりにくいのだろうけど、いろいろ端折って分かりやすく言えば「人間らしくなる」ということだったりする。
人としての感情や幸せのようなもの、そこへのぬくもりを捨てがたく思ってしまうがためにほかのものをあきらめていかざるを得ない状況が発生すること。
それがぼくにはこわい
対して、「それはトレードオフではなく愛によって可能性がなくなるのではなくよりいっそう新しい可能性が広がっていくのだよ」、というのもわかる。子供とか、そういう不確定要因から生まれる新規性とか。
「変わっていく自分自身を楽しむ」ということだろうなぁ、と。
それ自体はいまの生活でも分かっていて実践しているつもり。
でもやはりそれを言い訳とする部分はあると思う。なので、一般的な意見ではなく自分の個人的選択としては、まず自分の道を究めたいと思っている。そのためにはまず生活基盤を作ることであり思考するための環境を整えることだが。
ああ、最近のなじみの人には分かりにくいだろうけどぼくは人生の一義的目標を自分自身の知と理を究めることに置いているので。なのでくだらないプライドとか承認とか愛とかそういうのも必要とあれば捨てる。
まぁこの辺についても「誰かが側にいてもやれないことはないし、誰かが側にいるからこそ力がでるものだ」というのもあるとは思うんだけど、その辺はさっき言ったように循環論だ。
とりえあえず引越し後の卑近な課題としては稼ぐ基盤作り直すことだが
自分のふざけたペルソナとそれに反した冷たい態度というのはたぶんそういうところから生じているのだと思う。
ペルソナがふざけすぎてるのはそこまで自律的にコントロールしているわけではなくて地の部分もでているのだろうけど、ある程度のふるいにはなってると思う。そのペルソナ自体ではなく、その後ろにあるものが読み取れなければそれはそこまでの人なのだなぁという感じ。傲慢だが。
そんで特にわかって欲しいとも思わない。いや、そうでもないか。自分がある程度好意を持っている人に理解されなかったらチクりと痛いものではあるけど、それは弱さだなと思う。そういった弱さを見つめなおして痛さを我慢しないように自分の社会的行動を統制する、というのもあるのだろうけどまぁネットのは半ば戯言だから。
てか、まぁ、普段でもそんなに度を越えることはしてないと思うし双方の暗黙な共通理解的なものは認識していると思うんだけど、相手が変化してくると分からないことがある。それはたぶん恐れや親愛や、それによる他者への幻想の投影によるものだと思うけど。
そういう変化というのは相手を過大評価していたときには分からない。
ことりこなんかがオレには徳がないがないとかいうけど、たぶんそういうところなんだろう。つか、たぶんことりこも徳というものがどういうものか分からずにいっているところがあるだろうけど。
憐れみというか、体面を傷つけないようにするというかそういうところに疎くなるときはある。自分の中にない感情、自分的にはとるに足らないプライドなんかがその掛け金だったりするとわからない。
そしてたまにそういうプライドをくすぐってやりたくなる。自分のペルソナというのもそのための仕掛けみたいなところもあるのだろう。
あるいは知識や理性への自負による傲慢さのようなものを感じてしまうのだろうか。そしてそれが恐れのようなものを生むのかな。
といっても、そういうのは知識や理性を鼻にかけ他人を見下している(簡単な勝利を味わっている)、というつもりもないのだけど。単に自分のことをふつーだと思っていて、それに合う相手かより強い人と話したいだけ。そういう相手に出会ったり負かされたときには素直に尊敬ができる。
でもまぁ、他者の不安や恐れや近づきたい気持ち、あるいは「もっと違う評価をして欲しい」という気持ちは尊重すべきなんだろうなぁとは思う。あるいはそれに気づくことができなければ距離をとるべきなんだろう。
そんなこんなで自分はまだ修羅にあり神には程遠いなと思っていたわけだけど、先日のひできさんとの話でその辺がちょっと救われた気がした。
この対話自体が素直に負けを認めるというか、お互いに勝ちも負けもないような、ケンカのような議論とは違ったものだったように思うんだけど。
キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話が面白かった。これは「私/他者」の分離とも似ている。
そして「私と他者」の問題、「イデアと事物」という二項対立な問題は名前を変え、そこでやり取りされる要素はより細かくなりつつもいまだに哲学の難問として残っている。
それらがずーっと解かれないのはたぶん私と他者はもともと分けられたものではないからだろうけど。言葉によって世界とのつながりがわけられると同時にセカイが認識されhack可能になったというのもあるんだけど、それによって以前にあったような世界と人との直接の結びつき(包まれているような感覚)は失われてしまった。
構築主義の問題意識や禅の公案によるマインドhackもこういった言葉の自明性というか、言葉によってしか考えられない状態を解いて自分なりに世界と接続しなおすための試みなのだろう。ヴィトゲンシュタインとかだったら言語ゲームっていうのだろうけど。
(※イデア論については神の存在を認めさせるためにイデアという概念が作られ、その代理である教会の権威がもちあげられた、という話。「ものに名前があるのは神様が存在していてモノに名前をつけたからだ」、というもの)
そして、ここでまた最初の話に戻ってくる。
私と他者の分離はおそらく「子供の発見」と同じように近代において明確に分けられたものなのだろう。中世の村落共同体の農民、あるいは遍歴商人にはそういう概念がなかったように思う。自他の差がことさらにつかなければ欲望や嫉妬は生まれない。
そもそも境界がない
とはいっても全てが溶け合っていたというほどではなくいまほどの明確なプライベートがなかったというだけなんだけど。たとえば職人なんかは親方の家にまとめて寝泊りしててプライベートもパブリックもなかったし。
でも、そういう感覚の中での他者との線引きというのはすごく曖昧だったように思う。それがそのまま愛に結びつくのかはびみょーだけど。
あるいは、村落共同体以前のもっと原始共同体的な生活においては人は自然と感応し、中世よりもさらに自他の区別が不明確だったのかもしれない。というか、「自然の中にあって自然に包まれ生かされている」感じ。「自分は自然の一部なんだ」という感覚が強く残っていたように思う。
友と敵の二項対立は彼我の分離と貯蓄→リソースが限られていることによって生じるものだけど、その元となる私と他の分離という前提から生じる微妙なゆらぎが不安や恐れ、過剰な愛、幻想の投影なんかを産むのかも。
「すべてはひとつであってひとつではない」
個人個人が一人のひと(肉体)として存りつつ自然というネットワーク(天)に繋がっているから。それらは人間的な知性や理性のほかにもさまざまな情報によって構成される。
そして、天が理に通じているから対話したあとにもあんなに素直な気持ちになれたのかもしれない。対話的理性というか、ネットワーク的結びつきによる縁の中から対話が生じ、対話を通じて世界にもともとあった「理」や「知」が掘り起こされた感じ。
こびとさんをたいせつに (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php
それはどちらのものでもなく天に還されるものなのだろう。だから競争(不安/恐れ/怒り)が生じない。
そういった出会いに感謝するし、たぶんこれからもそういった出会いが待ってるんだろう。
だからたぶん大丈夫
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あと、キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話の元ネタはたぶんこれ
現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)
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muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
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「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性、みたいなの。あと、自分なりの生き方関連で。
muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
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muse-A-muse 2nd: 続「小林秀雄の流儀」 「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ
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「実生活と思想の間でバランスを保つ」、ということについて
muse-A-muse 2nd: 竹田さんの現象学入門がよくわかんなかったね、って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125770819.html
小林の話にも共通するんだけどそういった生き方に汎用的な型が存在するんじゃなくて、とりあえずの心構えとして「あらゆる事態に対処できるように構えずにおく」ということ。意拳みたいな中国拳法系の脱力


オープンアーキテクチャ戦略?















理想論





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