2009年10月29日

「すべてはひとつであってひとつではない」ということ   (あるいは愛について

わたしは愛する、

没落して犠牲となるための何か或る根拠を、まずもろもろの星の背後に求めたりしないで、大地がいつか超人のものとなるように、



大地に身を捧げる者たちを 


                    (「ツァラトゥストラかく語りき」)







先日、いぬこの日記をぼけーっとみて


どこまでを自己と認識する社会なのか。 - はてブついでに覚書。
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20091018/1255887730



自分的には「ああ、愛が広がっていくねぇ」ってわりと素直に肯定できた。そういえばちゃんみつはpay forwardでありボトルメール的なものにも言及してたしな、って。それは贈与交換的なものなんだけど。

即時的な等価交換ではなくて、「帰ってきたらいいなぁ」的なものをかすかに期待する(帰ってこなくてもいい)ようなタイムラグのある交換。


んでも、ついったできんぐなんかが「ああいう愛の広がりはなんか却って怖い」っていってるのみてまぁその気持ちも分からんでもないな、とか思った。

女の愛は無限というか、女にも限らないんだけど、無限に甘受されることへの恐れというか相手の底が知れない慈愛に包まれていくことへの恐れ、みたいなのがあることは分かる。


その恐れというのは相手の大きさに対するものだったり、あるいは自分と他者の境界がなくなり自分というものがなくなるかもしれないということへの不安だったり、もしくは愛によって自分が遅くなってしまうのではないかという恐れ。(たぶんきんぐのは最初のほうだけだろうけど)


「愛によって遅くなる」という感覚はたぶんほかの人には分かりにくいのだろうけど、いろいろ端折って分かりやすく言えば「人間らしくなる」ということだったりする。

人としての感情や幸せのようなもの、そこへのぬくもりを捨てがたく思ってしまうがためにほかのものをあきらめていかざるを得ない状況が発生すること。

それがぼくにはこわい







対して、「それはトレードオフではなく愛によって可能性がなくなるのではなくよりいっそう新しい可能性が広がっていくのだよ」、というのもわかる。子供とか、そういう不確定要因から生まれる新規性とか。

「変わっていく自分自身を楽しむ」ということだろうなぁ、と。


それ自体はいまの生活でも分かっていて実践しているつもり。


でもやはりそれを言い訳とする部分はあると思う。なので、一般的な意見ではなく自分の個人的選択としては、まず自分の道を究めたいと思っている。そのためにはまず生活基盤を作ることであり思考するための環境を整えることだが。


ああ、最近のなじみの人には分かりにくいだろうけどぼくは人生の一義的目標を自分自身の知と理を究めることに置いているので。なのでくだらないプライドとか承認とか愛とかそういうのも必要とあれば捨てる。


まぁこの辺についても「誰かが側にいてもやれないことはないし、誰かが側にいるからこそ力がでるものだ」というのもあるとは思うんだけど、その辺はさっき言ったように循環論だ。


とりえあえず引越し後の卑近な課題としては稼ぐ基盤作り直すことだが




自分のふざけたペルソナとそれに反した冷たい態度というのはたぶんそういうところから生じているのだと思う。

ペルソナがふざけすぎてるのはそこまで自律的にコントロールしているわけではなくて地の部分もでているのだろうけど、ある程度のふるいにはなってると思う。そのペルソナ自体ではなく、その後ろにあるものが読み取れなければそれはそこまでの人なのだなぁという感じ。傲慢だが。

そんで特にわかって欲しいとも思わない。いや、そうでもないか。自分がある程度好意を持っている人に理解されなかったらチクりと痛いものではあるけど、それは弱さだなと思う。そういった弱さを見つめなおして痛さを我慢しないように自分の社会的行動を統制する、というのもあるのだろうけどまぁネットのは半ば戯言だから。


てか、まぁ、普段でもそんなに度を越えることはしてないと思うし双方の暗黙な共通理解的なものは認識していると思うんだけど、相手が変化してくると分からないことがある。それはたぶん恐れや親愛や、それによる他者への幻想の投影によるものだと思うけど。

そういう変化というのは相手を過大評価していたときには分からない。


ことりこなんかがオレには徳がないがないとかいうけど、たぶんそういうところなんだろう。つか、たぶんことりこも徳というものがどういうものか分からずにいっているところがあるだろうけど。


憐れみというか、体面を傷つけないようにするというかそういうところに疎くなるときはある。自分の中にない感情、自分的にはとるに足らないプライドなんかがその掛け金だったりするとわからない。


そしてたまにそういうプライドをくすぐってやりたくなる。自分のペルソナというのもそのための仕掛けみたいなところもあるのだろう。


あるいは知識や理性への自負による傲慢さのようなものを感じてしまうのだろうか。そしてそれが恐れのようなものを生むのかな。

といっても、そういうのは知識や理性を鼻にかけ他人を見下している(簡単な勝利を味わっている)、というつもりもないのだけど。単に自分のことをふつーだと思っていて、それに合う相手かより強い人と話したいだけ。そういう相手に出会ったり負かされたときには素直に尊敬ができる。


でもまぁ、他者の不安や恐れや近づきたい気持ち、あるいは「もっと違う評価をして欲しい」という気持ちは尊重すべきなんだろうなぁとは思う。あるいはそれに気づくことができなければ距離をとるべきなんだろう。




そんなこんなで自分はまだ修羅にあり神には程遠いなと思っていたわけだけど、先日のひできさんとの話でその辺がちょっと救われた気がした。





この対話自体が素直に負けを認めるというか、お互いに勝ちも負けもないような、ケンカのような議論とは違ったものだったように思うんだけど。

キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話が面白かった。これは「私/他者」の分離とも似ている。



そして「私と他者」の問題、「イデアと事物」という二項対立な問題は名前を変え、そこでやり取りされる要素はより細かくなりつつもいまだに哲学の難問として残っている。

それらがずーっと解かれないのはたぶん私と他者はもともと分けられたものではないからだろうけど。言葉によって世界とのつながりがわけられると同時にセカイが認識されhack可能になったというのもあるんだけど、それによって以前にあったような世界と人との直接の結びつき(包まれているような感覚)は失われてしまった。


構築主義の問題意識や禅の公案によるマインドhackもこういった言葉の自明性というか、言葉によってしか考えられない状態を解いて自分なりに世界と接続しなおすための試みなのだろう。ヴィトゲンシュタインとかだったら言語ゲームっていうのだろうけど。


(※イデア論については神の存在を認めさせるためにイデアという概念が作られ、その代理である教会の権威がもちあげられた、という話。「ものに名前があるのは神様が存在していてモノに名前をつけたからだ」、というもの)



そして、ここでまた最初の話に戻ってくる。

私と他者の分離はおそらく「子供の発見」と同じように近代において明確に分けられたものなのだろう。中世の村落共同体の農民、あるいは遍歴商人にはそういう概念がなかったように思う。自他の差がことさらにつかなければ欲望や嫉妬は生まれない。





そもそも境界がない


とはいっても全てが溶け合っていたというほどではなくいまほどの明確なプライベートがなかったというだけなんだけど。たとえば職人なんかは親方の家にまとめて寝泊りしててプライベートもパブリックもなかったし。

でも、そういう感覚の中での他者との線引きというのはすごく曖昧だったように思う。それがそのまま愛に結びつくのかはびみょーだけど。




あるいは、村落共同体以前のもっと原始共同体的な生活においては人は自然と感応し、中世よりもさらに自他の区別が不明確だったのかもしれない。というか、「自然の中にあって自然に包まれ生かされている」感じ。「自分は自然の一部なんだ」という感覚が強く残っていたように思う。



友と敵の二項対立は彼我の分離と貯蓄→リソースが限られていることによって生じるものだけど、その元となる私と他の分離という前提から生じる微妙なゆらぎが不安や恐れ、過剰な愛、幻想の投影なんかを産むのかも。




「すべてはひとつであってひとつではない」




個人個人が一人のひと(肉体)として存りつつ自然というネットワーク(天)に繋がっているから。それらは人間的な知性や理性のほかにもさまざまな情報によって構成される。


そして、天が理に通じているから対話したあとにもあんなに素直な気持ちになれたのかもしれない。対話的理性というか、ネットワーク的結びつきによる縁の中から対話が生じ、対話を通じて世界にもともとあった「理」や「知」が掘り起こされた感じ。


こびとさんをたいせつに (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php


それはどちらのものでもなく天に還されるものなのだろう。だから競争(不安/恐れ/怒り)が生じない。





そういった出会いに感謝するし、たぶんこれからもそういった出会いが待ってるんだろう。






だからたぶん大丈夫







--
あと、キリスト教とローマとの兼ね合いの中からイデア(本質)と事物が分けられた、という話の元ネタはたぶんこれ


現代思想としてのギリシア哲学 (ちくま学芸文庫)
古東 哲明
筑摩書房
売り上げランキング: 161343
おすすめ度の平均: 4.5
5 次世代の啓蒙書
4 なかなかおもしろい
5 驚きの連続、それが本書
4 退屈なギリシア哲学を面白く読ませる本
4 退屈なギリシア哲学を面白く読ませる本



ということでよまねばねば




--
関連:
muse-A-muse 2nd: 「運命は決まっているがゆえに自由だ」な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121774176.html

「決まっている」と「自由」っていう二律背反であり矛盾が並立し、それを納得できるというのが人間存在の実存性、みたいなの。あと、自分なりの生き方関連で。



muse-A-muse 2nd: 「小林秀雄の流儀」 - 現象学的還元?
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/122453130.html


muse-A-muse 2nd: 続「小林秀雄の流儀」  「実生活と思想との間でバランスを保つ」ということ
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/123045927.html


「実生活と思想の間でバランスを保つ」、ということについて



muse-A-muse 2nd: 竹田さんの現象学入門がよくわかんなかったね、って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125770819.html


小林の話にも共通するんだけどそういった生き方に汎用的な型が存在するんじゃなくて、とりあえずの心構えとして「あらゆる事態に対処できるように構えずにおく」ということ。意拳みたいな中国拳法系の脱力


posted by m_um_u at 12:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年10月25日

ネット時代の「文化の力」とは?   情報力-国民主権-国民国家-民主主義

この辺を見ながらぼけーっと、わりと前から思ってたことがおぼろげにまた見えたのでメモ程度なつもりで記しとこう。






・「武力 → 経済力 → 情報力」的なとらえ方の話


東さんの言ってることはシステムが成熟してくると内部の過程がルーチン化して固定し、経験・流れがデータベースとして蓄積されるって話。そんで、そのデータベースには誰でもアクセス可能なので流動性と互換性、新規参入が高まる、と。

モジュール化とオープンアーキテクチャをイメージすれば判りやすいと思う。


オープン・アーキテクチャ戦略―ネットワーク時代の協働モデル
国領 二郎
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 134725
おすすめ度の平均: 4.0
4 基本的な考えは今でも通じる
3 オープンアーキテクチャ戦略?
4 デジタルネットワーク上での新しい協働の形の提案
5 もはや古典と呼べる名著
5 わかりやすく読みやすい



データベースとかオープンアーキテクチャがサブシステム的なものかどうかは留保が必要だろうけど。

そんでこの流れで思ったのは

『物理的力(武)の次に経済的な力(金)が来ていまは消費を介して経済と文が接合され、それが内部的には統治のシステムとして受け容れられてるように思うわけだけど、自分のオツム的にはこの辺のメカニズムの説明がしにくい。東さんだと出来るのかな?』

ってやつ。

ちょっと飛ばしたところもあるのでもそっと詳しく言うと、東さんはここで表象-媒介という情報の流通過程をすべてのシステムに共通するものとしてイメージしていて、政治的過程というのもその流れに沿うとしているみたいなんだけど、それって留保がいるんじゃないかと思った。


おそらくいまのシステムは大きく分けて3つある。

それぞれは力の源(リソースでありその集約がそのシステムにおける価値)に繋がる。それらはおーざっぱに政治・経済・文化に対応する。力の源はそれぞれは武・金・文(聖)となる。最後だけちょっと歯切れが悪いけど公文さんとか白田さん的には「情報」とされているけど…って感じ。


HPO:個人的な意見 ココログ版: [書評]情報社会学序説 At home in the last modern
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/08/_at_home_in_the_8f05.html

グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について
http://grigori.sakura.ne.jp/hideaki/kenporon.htm


「情報」というのは政治・経済の系にも共通する意思伝達のための最小単位でありそれらを流す媒体も指すので。まぁ表象と媒体ということだろうけど。

なので「政治」「経済」のほかに別の系があるという風にとらえたら分かりやすいかもという認識には同意するんだけどそれは「情報」というか「文化」かな、って感じがしている。この「文化」という言葉も曖昧で、せいぜい「政治」「経済」の合理的システム(ハーバーマスなんかが「システム」と呼ぶもの)からはずれた多様性ぐらいのイメージだった。

それでだいたい公文さんのイメージとも重なるんだけど、公文さんの物言いというのはぼくにとってはちょっと楽観的に思える。さっきもいったようにシステムというのはまず「政治」「経済」の系がありそれらの余剰として「文化」があるはずなので。実際、「主権」という言葉でイメージされるのは武力だし、そういった直接の攻撃性に対する婉曲的な国家間パワーが経済力ということになってるはず。

そして、ぼくが最近みてきた中世の歴史の流れをみるとどうも簡単に「次の時代は文化(智)のゲームの時代だ!」とはいえないように思えたので。

中世の歴史を通してみると確かに単純な武力と経済力以外の力というか、力を包摂する仕掛けとして文化が使われていたという印象はある。それはたとえば網野さんがいうような年中行事と天皇制度の関係だったり。

天皇制が昔から敬われてきたのは単なる武力やそれに基づく経済力(具体的には荘園力)、あるいは天皇を神の子孫として奉ずる聖性に基づくものではなく、天皇や貴族、寺社の荘園で行われる地味な年中行事の影響が大きかったのではないか?

昔は時計もカレンダーもなかったので年中行事の励行によって大まかな季節感を持っていたのだろうけど、これがそのまま文化的な権威性を帯びていたのではないか。そしてその権威がそのまま天皇への信頼性に繋がっていたのではないか、的な話。


この辺は中世ヨーロッパにおける識字とそれに連なる知識(あるいは知識の編纂・分類方法=思考方法)と教会の関係を考えれば分かると思う。教会というのは「神の教えを説くところ」という聖性がためだけに敬われていたのではなく知識のハブだったので権威性を持っていた。それに加えて荘園を持つことを認められていたので経済力もあったわけだけどまぁ置く。


このようなことを思うと「文化」というのはバカにならない力を持ってきたとは思うんだけど、それはさっきいったような「政治」「経済」的なシステムの力とはまたちょっと違うように思う。

これはちょっと前にいった文化と文明の違い的な話にも共通するんだけど


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html


「文明」という言葉には「システム」に連なるものがある。あるいは「技術」。「文化」との対照でいえばより下部構造的な具体性をもったものが「システム」でありそれを駆動するするための具体的かつ明示的な「法理」や「道具」、「表象」(ex.文字、言葉)などが「技術」ということになると思う。


東さんのこの辺の話もGLOCOM時代に公文さんから影響受けたところもありそうなのでそんな感じ。



「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀「SNS直接民主制」提案 : J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html


東浩紀の渦状言論: 信頼社会は不安社会よりいいのか?
http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.html







muse-A-muse 2nd: ネットの公共性をめぐっての古くて新しい話  現実に即したパワーゲームか原義的公共性か
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121028286.html



そんでそういった力の源はそれぞれ次の力の源が出てきたからといって効力を失うわけではなくそれぞれがその範囲を増大し、あるいはお互いをけん制するように発達してきた。でもやはり「武力 ≧ 経済力 ≧ 文化」の関係は変わらないと思うけど。

たとえば現実的な実行可能性の面での機動性という意味では下位のリソースにいくほど速く動かせるとは思う。他国をけん制するときにいきなり攻撃するよりは経済的封じ込めを行ったり、あるいは文化的にけん制しあったほうがコスト少なくて済むし。

そういう意味では下位のリソースが上位のリソースにとって変わったかのような錯覚は起こるかもしれないがやはり武力で他国を侵略してしまえば経済力も文化も奪えるわけで、そういう意味ではこの力関係は変わっていないように思う。(実際には協調関係が重んじられる現代の国際政治経済体制の中でいきなり他国を攻撃とかはないわけだけど)

たとえれば武力がホームランバッターで経済力がオールラウンダータイプ、文化がもっと機動性のある安定ヒット型といったところだろうか。



とりあえずここまでのまとめとしては、「力の源の上位の系が政治・経済というのは依然として変わらないはず」、って感じ。




・「国民主権 → 国民国家」ってどういう経緯から出てきた考えなんでしょうね?


で、ここで疑問としてでてくるのが「武力・経済力をもとに勝者が決まるという厳然たるルールがあるはずなのになぜ国民主権-国民国家という形がとられたのか?」、ということ。さっきの話的には武力も経済力もなにもない大多数の国民に(擬制とはいえ)主権を託す必要性が分からないので。


ひとつは単純に「大衆があつまって暴動が起こるのが怖かったから」という話。

荘園の隷属民時代には(荘園従属の)大衆は規律訓練というかマインドハックされてたので暴動を起こすなどという気も起こらず黙々と作業していたのだろうけど、戦争が終わって平穏が訪れその間に智が研鑽され新たな技術が開発されることで農業などの生産技術が向上しそれに伴って人口が増大。農村の余剰人口は都市部に移住し、やがて都市民としての財と自由を手に入れた。これによって自由の権利に目覚めた大衆が革命を起こしていった。国民主権的考えはこの延長、とする説。

マルクス主義的なあれかなぁって感じ。カムイ伝とか。




それとは別に「市場によって大衆が経済力を持ったがゆえに無視できなくなった」って説も考えられる。ちょっと前のエントリでの推測


単純なリバイアサンとベヒーモスの相克ゲームに聖と文がクッションとして加わりつつ西欧の場合は聖が武を凌駕した時期もあった。そして聖はやがて文のみとなり大衆の登場と同時に市場に統合されていく。大衆の登場


muse-A-muse 2nd: 都市民の社会契約としての社会保障とそこから疎外される人たち (それを受けたメディアの形の変化→社会への影響について (仮)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/130515309.html


具体的な歴史としては荘園→封建時代に隷属民であった村落共同体の人々が都市の隷属民(あるいは下層階級)として編入されいわゆる「都市民の自由」は複数の人を養える親方的な商工人に限られていた、という話。なので自由の権利はもともと大衆全般に権利は開かれていたわけではなく少数の金持ちに限定されていていまでも基本的にその流れを受けている。

しかし、戦争がなくなり技術が発展し人口が増えそれを当てにした市場ができることによって個々人では木っ端だった人々が「大衆」というかたまりになることで「金」という発言権にリンクしていった。(※これ自体はまだ確認してないので推測だけど。


こうして「武」と「金」のパワーゲームに大衆も加われることになったわけだが大衆の消費の場として設定された市場に「文」の権威が加わることとなったと思われる。大衆の消費的傾向を誘発するための装置として「文」が必要だったので。

ゾンバルトなんかを考慮するとここは少し順序が違うかもしれないけど。(未読だが)「大衆のものではない貴族の女性たちによる贅沢と消費が現代の資本主義の元となった」、というのが彼の言説のはずだし。

ただ、大衆を目当てとした大量消費の場合は文化的意匠がよりドライブされた感じ。生活の上で特に必要でもないものを買う行動選択(消費)であり、それを誘発する文化的意匠が必要となる。これは貴族の消費のときに培われたものが活きていたのかもしれないけど。あるいは都市民的生活-市場でもそれ以前からあったか。



まぁともかく、そういった形で市場(という名の荘園)で消費する大衆が必要になったため彼らの権利をある程度保護するようになりそこから国民主権的考えが派生した、とする説。




あるいは王権神授との関連。

最初は武のゲームであり経済力よりは武が強かったはずなんだけどヨーロッパの場合、聖的なものに権威性が傾きすぎた時代があった(cf.カノッサの屈辱)。日本でも似た様な例は見られたんだけど信長が潰したりしたのかな。てか、日本の場合は聖 / 武が単純に分けられていたわけでもないか(cf.「異形の王権」)


さておき

民衆の大義(公)の拠り所として、あるいは文化的なものの中枢として教会は権威性を帯びていったのだと思うのだけど王権神授というのは聖と武の関係がいれかわった(聖≧武となってしまった)時代に象徴的な擬制だったように思う。

そこから国民主権-社会契約→国民国家への飛躍はどういう背景(理路)から生まれてきたのか?「王権と同じく人々の自由は「神に授けられた人々の本質的自由に根ざすもの」的な考えだったのだろうか。


Togetter(トゥギャッター) - まとめ「人民主権→社会権 的なものってどういう論理や背景から生まれたんだろ?」





とりあえず国民主権的考えに到る流れを追うためにロックとかホッブズ、ルソーみたいなベタなのも読んでみようかとは思ってるけどあまり期待してない。この時代のひとの話というのはキリスト教的な考え方に対するカウンター的言説の意味合いが強くてちょっと言いすぎなところがあったり、あるいはその考えの元となっている史料自体がキリスト教的に歪められてたりするだろうから。

できればぢみに当時の武力-経済力-技術力の移転状況、それを受けた人口の変化とかみていけたら良いような気がしている。その点でシュミットとかどうなんかなぁ。。






あるいは他国がしかけた煽動的な要素もあったか? おそらく「都市民の自由は本質的なもの」みたいな後付けロジックも他国からの陽動も同時に行われた(あるいは両方の可能性があった)


Togetter(トゥギャッター) - まとめ「「国民主権」て他国をかく乱しようと送り込まれた文化装置的な背景もあったんじゃまいか?的陰謀論」




・・・まぁ陰謀論的だけど。




んでもざっとみて以上4つぐらいの可能性があるかなぁ、と。そんでどれかひとつではなく複雑に絡まりあってるかなぁとか思う。






・ネット時代の「情報の力」とは?

それで最初に戻るんだけど


そんな感じで見てきたときに可能性の一つとして「市場のために大衆の権利を保障した」(あるいは大衆を庇護した)というのがあると思うんだけど、このとき保護された大衆は同時に市場に隷属される状態になったともいえる。消費依存ってやつ消費社会論的なあれ。

こういった文化依存的な心理過程というのはCultural Studiesなんかで解けるのだろうか?

マルクス主義的に単に「産業社会が悪い!(脳みそ汚染されてる ><)」というのとも違って、もそっとフーコー的な気づかない間にぢわーーーっと沁み込んでて「それはそれでいいじゃーん」って思えているような感覚。

そんでそういった仮に「権力」と呼べるような妙な慣性がわれわれを支配すると同時に守ってくれている、というようなの。



もちろんそれは人工的に作られた幻想であり虚構的なものであって、「武」や「金」といった上位の力の存在を忘れさせるだけの麻薬とも思えるわけだけど。


よくネット時代の「ネットワークの力」とか「情報の力」とかいわれるのは「武」や「金」に対する力というよりはこういうものへのオルタナティブなもののように思う。

マスメディアに代表されるような、われわれ自身が再帰的に作り上げてきた消費的な文化装置に対してわれわれのリアルな生活と実存を想い起こさせるような、そして見知らぬ誰かと共有し、知や感情のよすがを育んでいけるようなそういった力というか場のようなものとして。


そこから先になんらかの創発的なものがあるのかもしれないけど、はじめからそれを期待し過ぎても却ってその可能性を潰すことになってしまうのかもしれない。





--
国民国家とメディア-文芸市場の話はもうちょっとこの辺読み込んで再考必要かも


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html



--
追記:
シュミットで見ようかと思ったけど彼は主に政治理論かなんかみたいでいちお歴史的考察もあるのだろうけどやはりリソースの移転を中心に考える場合は経済学系かなということで「ハイエクでは?」とかしいたけにいわれたんだけど





どうもハイエクもそういう記述はやってなくてまず「自由は最初からあった」みたいな感じなので、とりあえず中世−近代に到る歴史学系の本参考にしよう。


posted by m_um_u at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年10月17日

都市民の社会契約としての社会保障とそこから疎外される人たち (それを受けたメディアの形の変化→社会への影響について (仮)

ついったでのお話を受けてちょっと思ったこと関連メモ。

前段階としてこないだのエントリ2点があるわけだけど


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html

muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編)
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129946855.html


オラのほうの前提としてはこの2つのエントリ的な「都市民的な社会とそれ以前の村落共同体的な共同体とは価値観や思考様式が違い、近代は都市民的なものを中心としてきたため村落共同体的なものを切り捨ててしまった(それがための矛盾や誤謬が生じている)」というもの。

ハーバーマスのあれも「都市民的な自由」をデフォとしてるので(村落共同体的な)大衆、あるいは都市民の中でも貧困層的なものへのまなざしってゆるそうだな、って感じ。「新聞は社会の木鐸」論の最終的な帰結であるマスメディア論における公共性論の流れもその影響を受けることになると思う。


そんで下の話だけど

この話以前の自分的な感覚としては都市民は一律に社会権の恩恵を受けていて、半ば基本的人権として設定されているものと思っていた。それは国家の庇護に入ることと引き換えに大衆が手に入れたものかなぁ、と。

んでもどうやら基本的人権と社会権とではまた違ったもので、「社会権は財政的に身の丈に合う範囲に保障される」、と。つまり社会保障の多寡は税金払ってる率によって決められるって原則っぽい。

そうするとやっぱブルジョアな都市民と貧困層的なものも含んだ大衆との間では分断が出てくるよねーって感覚なんだけど…


まぁ、とりあえず以下こないだのログ







そんでこれを受けて自分的に読んどいたほうがいいなぁと思ったものを思い出したので以下メモ


本来大衆は荘園の隷属民であったため基本的人権とかなかったわけだけど都市がデフォ化して都市民の幅が拡がっていったのとリンクして大量購買層としての「大衆」ができあがりその権利も確立していった…(まだちょっと仮説的だけど)


その幻想を受けて出来上がっていったのが近代的な新聞でありその理論的支柱が市民的公共性ということになるのだろうけど、では、「市民」に含まれなかった大衆はどうなったか?大衆の声を拾い上げる動きはあったか?


明治期の大衆紙に属する人々がどのような層を対象としどういった理念のもとに具体的な行動を起こしていたか。大衆/市民の間に揺らぎはあったか?


こういう話は津金澤とかの小新聞研究かなぁと思ってみたけど小新聞そのものだけだと単行本化はされていないのね。それでこんな形、と


現代日本メディア史の研究
津金沢 聡広
ミネルヴァ書房
売り上げランキング: 856564



あとこの辺とか


大衆紙の源流―明治期小新聞の研究
土屋 礼子
世界思想社
売り上げランキング: 220528



土屋礼子『大衆紙の源流−明治期小新聞の研究』
http://ishibashi.hippy.jp/shohyo/kawamura2.htm


 著者の指摘する小新聞の魅力とは、ふりがなや俗語、ヴィジュアルな挿絵を用いて幅広い読者層を開拓し、筆禍事件に見舞われながらも、「諧謔と風刺をこめた裏側からの政府批判」をたくましく展開して、「民衆的な政治の楽しみかた」を追求したところにある。だが、それを現在の国民型大衆紙は失っていったというのが、はっきりと語られていないが、著者の批判であろう。また、小新聞は中新聞化へと進んでいくなかで、論説で「不偏不党の中立性」を掲げて、「非政治性」を強めていく。著者によると、「政治的に当たり障りのない娯楽読み物と報道を中心とする企業化」を小新聞は歩んでいく。その一方で、「小新聞の読者は、公衆にとって重要な要件である党派性を拒否した」と指摘している。「不偏不党の中立性」と「非政治性」は同じだろうか、それを主導したのは新聞側か、それとも読者側なのだろうか。記事分析を通じて、このような点を批判的に考察すべきだったが、本書ではほとんど抜け落ちている。


前半部はcivic journalism的な観点から、後半部は「報道における客観中立とはなにか?」的な観点からおもしろい。



上記の流れからは直接関係ないけど最近の関心的にはこの辺もおもろそう


近代日本のメディア・イベント
津金沢 聡広
同文舘出版
売り上げランキング: 139717



松岡正剛の千夜千冊『近代日本のメディア・イベント』津金澤聰廣
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1017.html

こういう特色に共通しているのはメディア・イベントが、かつての神話的儀礼や祭祀的儀礼や世俗的儀礼に近くなっているということだ


この辺の話はちょっと前に出てた年中行事の話にも絡みそう。

つまり、「かつての日本の中世では天皇・貴族・寺社が荘園を持つことを許されていたがその荘園ごとに年中行事があり、村落共同体的な大衆の公というのはこれの励行によってはぐくまれていったのではないか?」、という話。

この辺の話は「生活上での普段の励行の実践が思考以前の血肉となり指向性をもっていく」というエートス的な話とも似ている。


そこから考えると近代日本のメディア・イベントというのは日本における年中行事→エートスの涵養的なものだったのかなぁ、と。

今朝のつぶやきとも関連する






関連でこんな本も出てきたのでメモ。

大正文化 帝国のユートピア―世界史の転換期と大衆消費社会の形成
竹村 民郎
三元社
売り上げランキング: 55535
おすすめ度の平均: 4.0
5 大衆消費社会を形成した大正という時代
3 大正時代の再発見



「消費社会の完成によって意味空間がどう変わったのか?」ということについての分析とか考察とかはしていなくて、日本の大衆消費社会ができあがっていった流れについての記述って感じだけど


そういえば「消費する大衆の登場によって資本主義はできあがっていった」としていたのはゾンバルトだったっけな?


恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)
ヴェルナー ゾンバルト
講談社
売り上げランキング: 65601
おすすめ度の平均: 4.5
5 上流階級の性愛と贅沢が資本主義社会を生み出した。
5 資本主義を考える時の必読文献
4 『経済論戦は甦る』の祖の祖?
4 オートクチュールと不倫の要因は、フランスの宮廷にある・・・。



松岡正剛の千夜千冊『恋愛と贅沢と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0503.html


「ひとりひとりでは木っ端な人々が購買力を持つようになったので国家は無視できなくなった」(→
国民国家的に統合)ってとこまで言ってるのかどうかわかんないけど

まぁまだヴェーバーのプロ倫読んでるのでそのあとにはちょうどいいなー




--
追記:



モンテスキューやらロック、ルソーやらいちお読もうかなぁ。。しかしシュミットとかのほうが良さそう
posted by m_um_u at 17:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年10月10日

中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話  (応用編)

一個前のエントリに対する自己ツッコミとか今後の課題とかをすげーメモ的に


muse-A-muse 2nd: 中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/129773060.html



システムと生活世界  → 構造と反構造 → 文明と文化 → 文字と口頭 →  技術(道具)と非技術 → メディアと○○



・ハーバーマスにおける市民的公共性デフォってどうなの?(それって「文明による未開の開拓」的な話じゃないの?)的な話


「構造と反構造」の話が「システムと生活世界」に、それらが「文明と文化」に繋がったのは自分的には発見だった。

ハーバーマスの「システムによる生活世界の植民地化」って問題意識だと最初から「生活世界側に市民的公共性が芽生えていてそれがなくなるのは惜しいね。それはシステムの植民地化のせい」ってのがデフォになってるように思うんだけど、中世の話見てきてると市民社会ってそれほど良いものなのかな?とか思ったりもする。

市民社会的なものってかつてあった村落共同体的な価値観(ゲマインシャフト的なもの)は疎外してるというか眼中に入れてない感じ。しょせんは文明後というか、少し「文明による野蛮の開拓」的な意識が無前提にあるのかなぁとか思う。

なので「システムと市民社会的なもののバッファとしての公共圏がシステム色に染められていってそれにつれて市民社会もシステム色になってきてる」って問題ではなく、「市民社会的なものが自生的にシステム色になっていったのではないか」ってことだと思う。あるいは「システムがある程度成熟したらネタ的なものがベタになる」というか。


とはいいつつもそれはなにも「市民社会的なものって疎外的で偽善的でなんかうさんくせー」って話でもなく、そういった擬制的なものであるということを認識しつつ運用していく必要があるのかなぁ、と。ちょっと「市民社会=善」だけだとちょっと本質論はいってるように思った(しかもそれ本質じゃないし)



「無前提な本質論的な善性論的なものに感じる偽善」関連で言うとハーバーマスの公共性論のもとになってるんだかちょっと影響してんだかって感じのアレントの公共性論も気になる。未読だけど


「ポリスの発展は奴隷制にささえられた特殊制度だった」っていうのと「18世紀型市民(ブルジョア)社会から疎外された無縁なところの公」ってのがなんとなくリンクするのかなぁ、と。奴隷制ってほど直接的ではないのだろうけどブルジョア的公共性が権威になっていくと隠れていくものがありそう

つか、貨幣経済-資本主義的なルーチンが固まって頭使わなくていいようになったところがポイントなのかなぁ。そうすると頭使わないでも労働できるし、お金をうまいこと利用して時間作れる人たちも出てくるし、有閑なひとたちは余裕できてなんかいろいろ考えたりつくったりするし。奴隷制も似たようなもんだな

「頭使わないでも労働できる」っていうか労働時間がある程度平均的に短縮されたのかなぁ。中世のころは日照時間によって労働時間変わったりして忙しいときは18時間労働とかいってたし


あと、前近代の場合は文字の神聖性みたいな問題もあるしなぁ。時間いっぱいあって考える余裕あって文字使ってうまいこと考えれるやつらって「つおい」(権威がある)って印象だったろうな。それ以前に武力による威信があっただろうけど



そういえば、市民的公共性意識デフォって人と自由意志がデフォって人ってちょっと似てるのかもしれない。市民革命というか自由への意志とか権利意識的なものってデフォ(「人間の本質!」)に思ってる人がいるみたいなんだけど昔ってクッタクタになるまで働いてて目の前のミッション仕上げるので精一杯って近視眼になってたのでそゆこと考える暇なかったと思う。

ブラック企業の人がいったりするけど、「あとから考えるとおかしいんだけど仕事がいっぱいになって1ヶ月100時間残業を2ヶ月ぐらいつづけてると頭おかしくなって目の前のものを片付けることだけ考えるようになる。でも頭おかしくなってるからやる度におかしくなっていくの。それで『休む』とか『会社やめる』とかいう考えが浮かばなくなってくる」、ってやつ

権利意識っていうか、自分の位置を自省して長期的展望とか工夫とかできるようになるのって余裕ができたときだと思う。歴史的には戦争なくなってある程度余裕できたから技術開発して三圃法みたいな農業革命が起こって食糧増大→人口増大して都市部に人が集まってそこに貨幣経済-資本主義が適用されるようになってさらに時間的余裕ができるようになったと思うんだけど。




そんでいまいちお「公共性の構造転換」見直してるんだけど


公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究
ユルゲン ハーバーマス
未来社
売り上げランキング: 37839
おすすめ度の平均: 5.0
5 市民的公共性論の古典



改めてみるとムズイというか理解しにくいねぇこの本。。あとがきによる解説もないし、あとハーバーマスが市民的公共性をベタに考えてしまってるんだよねぇ。。

なんとなく、市民的公共性にもとづくアジール的な場としての市民的公共圏というのは近代に国家がベタ化したのに対応して出てきたネタ的なものだと思うんだけどハーバーマスって最初から市民性みたいなのデフォで正しいみたいな感じにとらえてるみたいでなんか違和感(いまちょっと読むと

そんで国家とか経済といったシステム側が固まっていくにつれてその成員の性格も変わりそれにつれて公共圏のバランスも変わったのだろうし、また政治・経済的なバランスが変化し公共圏自体もベタになるのにつれて公共性の性格も変わったのだと思うんだけど、

ハーバーマスは前時代的なものへの郷愁があるんでないかな。てか、公共圏や公共性が転換していった要因の説明をどのようにしているかというところが気になるんだけどみょーにムズく書いてあって読みとりにくい。。カントとかヘーゲルとか持ち出されてもなぁって感じ

最初に読んだときもわけわからかったもんなぁ。。いまだったら余計なこと書かずに政治経済的バランスの変化を詳述しろやって思うけど

ああ、へーゲル→マルクスら言及してる辺りで政治経済的変化叙述しとるんか。(←いま現在




とりあえずメディア論における公共性論ってのはこんな感じなんだけど


公共圏という名の社会空間―公共圏、メディア、市民社会
花田 達朗
木鐸社
売り上げランキング: 538518


メディアと公共圏のポリティクス
花田 達朗
東京大学出版会
売り上げランキング: 472637



公共圏とコミュニケーション―批判的研究の新たな地平 (MINERVA社会学叢書)
阿部 潔
ミネルヴァ書房
売り上げランキング: 465584



あと関連で稲葉さんの本みなおそかなと

「公共性」論
「公共性」論
posted with amazlet at 09.10.10
稲葉 振一郎
NTT出版
売り上げランキング: 229986




あと、「技術=文明」と考えると技術決定論の話とも繋がってくる





・メディア論における技術決定論の話

技術決定論てのは技術先行で考えることによって技術によって人が支配されることへの警鐘的な話

それに対して水越伸さんなんかが社会メディア論とか展開してる。「技術(メディア)は技術そのものが優れているから受け容れられていきそれによって認識が一気に変わる、というのではのではなく、社会に新しい技術やを受け容れる基層(受け皿)ができているから受け容れられていく」ってやつ。

具体的にいえばキットラーなんかが示していた「学校的識字教育では文字に対してアレルギーがあったんだけど、(前近代的な)母親の読み聞かせという口語的な方法で識字教育の下地ができていった」って話


むーたん:キットラー概説メモ + 音読・黙読 ら辺
http://morutan.tumblr.com/post/20792167/m-um-u


そんで活版印刷とそれに付随する商業圏の誕生によって国語化されていった

2009-02-06 - 水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む :小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090206#1233957230


定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期)
ベネディクト アンダーソン
書籍工房早山
売り上げランキング: 9827
おすすめ度の平均: 4.5
4 ナショナリズムの自覚的構築性
5 無名戦士の墓
4 出版業者がナショナリズムを生んだ



ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)
梅森 直之
光文社
売り上げランキング: 20019
おすすめ度の平均: 5.0
5 予習と復習にもってこい
5 良い意味で人生観が変わった
5 「想像の共同体」最良の入門・解説書
5 ベネディクト・アンダーソン、『想像の共同体』を越えて




ことばと国家 (岩波新書)
田中 克彦
岩波書店
売り上げランキング: 24252
おすすめ度の平均: 5.0
5 面白いです。
5 純粋なことばへの批判
4 「言語」は国家により作られるのでありその逆ではない
5 私のことばに国家がどうかかわっているのかを考えさせられる
5 新しい視点




この辺未読なものもあるのでちゃんと読んどかななぁと思いつつ、技術先行と文字先行の問題の類似性とかも思ったり。文字によって思考がドライブされ人が形作られていく問題

エクリチュールがうんぬんとか言語ゲームら辺りはその辺かなと思いつつ、まぁあの辺も。。


あと、文字文化と口頭文化の問題




「口頭中心な伝統的社会への文字の布教」って図式が「文明→未開」的なあれだし、そういった場面での変化とか、変化の際にどのような過程があったのかということに関するキットラー的描写とか期待


声の文化と文字の文化
ウォルター・J. オング 林 正寛 糟谷 啓介 桜井 直文 Walter J. Ong
藤原書店
売り上げランキング: 52501
おすすめ度の平均: 5.0
4 形式が内容を規定する、あるいは既定する
5 声と文字の文化から、意識の進化を探る。
5 充実の内容。ぜひ時間をかけて攻略してほしい一冊
5 文字の使用=思考の深化
5 文字ってすげえな





近代が完成しそれに伴って市民社会が作られるまで(15〜17・18C)の政治経済的な歴史的流れとしてはH.イニスとの対応を見たいんだけどなんかこれ絶版になってるのね

メディアの文明史 ハロルド・アダムズ・イニス 復刊リクエスト投票
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=31528


マクルーハンよりこっちのほうがよほどためになると思うのに。。




・近代は「再帰姓」という特徴を持っているが「ネタ(図)がベタ(地)になりそれを元にしてネタ(図)が作られそれがさらにベタ(地)になっていく」というのは構造(システム)の特徴ではないか


ってこと関連だとこの辺見直したい

近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結
アンソニー ギデンズ
而立書房
売り上げランキング: 27750
おすすめ度の平均: 4.0
4 ベックとラッシュの共著の方が良いか?
5 いまや説明不要のギデンズのグローバル化論
3 なるほど!




あとルーマンのメディア論でも地が図になってく問題出てたなぁ。。




あんま理解できなかったけど「ネタ的につくられた文明的なものがやがてベタ的になって人を支配するぐらいの力を持つ」って問題だったんかなぁ。。まぁもっかい見てみよ(これも絶版だけど


〈メディア〉の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界
大黒 岳彦
NTT出版
売り上げランキング: 631134
おすすめ度の平均: 5.0
5 良かった!!










「近代社会の構造に包摂されなかった無縁的なものと漂白民の関係」とか「定住しない人々の経済圏」とか気になるけどなんか疲れたのでこの辺で





posted by m_um_u at 10:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年10月08日

中世における公共性(あるいはその萌芽)の構造転換な話

網野×阿部対談読んだのでいちお。


中世の再発見―対談 (平凡社ライブラリー (66))
網野 善彦 阿部 謹也
平凡社
売り上げランキング: 373102
おすすめ度の平均: 4.0
4 歴史家の対話



どっかで「網野はアジールな話をしたがっていたが阿部は贈与交換な話をしたがっていて食い違っていた」みたいなこと書かれてたように思うんだけど8章の「<公>とはなにか?」で二人の食い違いが統合されていくような話になっていたように思った。

wikipediaかと思ったけど


阿部謹也 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E8%AC%B9%E4%B9%9F#.E7.B6.B2.E9.87.8E.E5.96.84.E5.BD.A6.E3.81.A8.E3.81.AE.E5.87.BA.E4.BC.9A.E3.81.84.E3.81.A8.E5.88.A5.E3.82.8C

網野は、あくまで日本と西洋の共通点にのみ着目して、相違点などにはほとんど興味を示さなかった。一方阿部は、両者の相違点のほうに関心を深めて行き、網野との会話が次第に噛み合わなくなってゆく。また網野は、「世間」の枠にきっちり納まってしまうタイプの人物で、歴史の切り口こそ斬新なものを見せたものの、その考え方や発想はいわゆる「歴史学者」の域にとどまった。阿部はというと、金子光晴や高村光太郎の詩に耽溺し、石牟礼道子らの文学者や国文学者・西郷信綱のような他ジャンルの人々と普段から交流し、何より「世間」と距離を置いた個人的な世界を持つなど、ジャンルにとらわれない広い精神世界を持っていた。そうした感性の違いが、やがて二人を別々の道に進ませることになる。



ちょっと違うっぽい。


両者の違いについて、この本からだと阿部はむしろ歴史的検証よりも「贈与交換」という普遍的な枠からとらえたがって焦っているように感じられた。網野はそれについて「そうかなぁ…」的に自分の知ってる範囲の話を述べるにとどまる慎重さを見せていたけどやきもきした阿部が8章で自分の思い描いてるパースをぶちまけたって感じだった。


ここで展開されていた公の話としては網野のこの本も関わるんだけど

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))
網野 善彦
平凡社
売り上げランキング: 29042
おすすめ度の平均: 5.0
5 東西の個人と社会そして「自由・平等・平和」の成り立ち
4 「日本の歴史をよみなおす」のほうが上かな?
5 網野史学の出発点
5 民俗の歴史学は本書で始まった
4 日本中世の自由とは何か




無縁的な世界だと公的なものが大義とか神聖的な属性ではなくエンガチョ的な差別の構造と関わってるって感じだったんだけど、その辺のニュアンスがどうもつかみきれてなかったりした。差別というか、村八分などといった差別のもととなる規範としての世間体というのもそういった構造の中から出てきたもののように思う。
ただ、「無縁〜」の世界観では世間からエンガチョされた人々も生きていけていたし、公性に近い中立地帯ということで「公」が大義名分とか神聖性だけもっているということであればそちらの世界にいってしまったほうが良いように思えてなんだかしっくりと理解できないところがあった。

といっても「村八分」は「二分(水路)」残すことによって村=社会への復帰の契機を残している、それがゆえに社会からの完全な断絶ではない、ということで完全な世間からの断絶(無縁)ではなかったわけだけど。


その辺のところは網野的にも不完全だったみたいなことはこの本(「中世の再発見」)でも書かれていた。構造と反構造の話(後述)。



それで8章の話になるわけだけど、以下阿部の仮説。(※「オレ部分」は本文には書かれていなかった部分の補足的注釈)



公共性概念自体がしっかりと固まったのは18〜19世紀のヨーロッパ都市。その根っことして市民レベルでの公観がでてくる根っこのようなものがあったのではないか。


<公>の根と思われるものが発生した時期は11〜16世紀の贈与→貨幣経済移行期と重なるっぽい。この時期にはまだ貨幣経済やそれに付随する合理的価値観にはアレルギー反応が示されることが多かったが、それまでの伝統社会的価値観を教会が引き受けることによってそれ以外の部分(貨幣経済的合理性など)が発達していった。

オレ:
伝統社会的価値観に基づいたものとしてはたとえば贈与交換型経済があった。贈与交換は貨幣経済のように1:1の対価的に換算されるものではないのでどちらが過大(あるいは過少)感を持ち交換が終了することがないわけだけど、この過大あるいは過少感をいったん教会が引き受けることによって貨幣経済へと移行していった。これにより近代の公的な仕掛けが生まれた。

贈与交換的な交換関係では「顔の見える」の等数交換であり「1回贈り物をされたら不特定のものに対してでもいいので1回贈り物を返す」のが当然とされていたが、貨幣経済的な贈り物をした後に財が帰ってくる時期にタイムラグが生じるようになった。前近代では支配者は戦争で奪ったものを配分することで支配者たりえていたが、近代ではもらいながらも現世的には返さなくていい首長が教会を介して誕生した。


(221-222)
互酬の関係のなかで、お返しは天国でする、つまり死後の救済というかたちでそれをいったん普遍化したうえで返すという回路をつくった (略)二人の人間の関係があって、お互いに物のやり取りをして暮らしてきたけれども、あるとき、あなたに対するお返しは今までの形じゃなくて、あなたの死後の救いのために、あるいは子孫のために天国に摘みます、ということを誰かが言ったとします。これは、従来の慣行のうえでは、ある意味ではたいへん困ったことです。しかし、そこで絶対的なものが出され、それを社会が承認していくのがキリスト教の受容だったわけで、社会全体がその方向に非常に傾斜した時期が11世紀ごろではないかと思うのです。




市民レベルでの理性的な法というか法以前の慣習的規範としての公が伝統社会的な非合理性を孕んだものから合理的なものに転換したのもこの関係ではないか。そして、ここで成立した公的なるものの観念がその後の17・18世紀に生まれた公共性観念の元となったのではないか、と (←阿部説




つまり、ヨーロッパ的な公共性観念のもととしての公なるものというのは、従来村落共同体にあったような伝統的価値観(cf.ゲマインシャフト)を教会という変換装置を通じて近代・都市民的な価値観(ゲゼルシャフト)に変換してしまったもの、といえる。

「変換」というか前のエントリでもでてきたように

muse-A-muse 2nd: 「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/128448698.html


「地」「図」的にいえば、本来は伝統的な価値観のほうが「地」であり貨幣交換に付随する合理的な行動やその規範(価値観)というのは「図」の部分だったわけだけど、いつの間にか両者が入れ替わってしまったって感じ。「地」である伝統的価値観の割合がいつの間にか減っていっていつしか「図」程度になり、だんだんと「図」ほどの割合もなくなっていった。一部が教会における懺悔の風習のように残されたぐらいに。


このとき「合理性の受け容れに対するアレルギー反応が教会によってバッファされた」というのが大きかったように思う。この辺「日本人が宗教信じない」というのとも関係するのかも。


日本人の宗教観というのは宗教を信じることによって現世利益的な「お返し」は期待するけど真の意味で信じたことがない。なのでその価値観のために死ぬとか宗教的価値観が人生をしばる価値観(エートス)になってない。そういう人がいてもごく一部だったり。

つまり宗教という非合理的であるはずの文化装置に合理的な機能が期待されている。

では、村落共同体における伝統的価値観、非合理的な価値観のようなものはなく徹頭徹尾合理的だったかというとそういうことではなく伝統的な価値は明示的にしないままそのまま持ち続けられたのかもしれない。

「地」「図」的には社会全体(地)が非合理的価値観に依っていて特に合理化することもなかったためにヨーロッパのように教会のような変換装置も使わずにいちお「近代」化を果たしたということになったのかなぁ、と。

宗教によってバッファする必要なく非合理なままって感じ。



ただ、宗教的な規範が人間の一生を左右するほどの根っこ的な規範になったというのが「一般的」だったり「進歩的」だったりするかというとそういうことでもなく、ヨーロッパが特殊なのであって日本が「遅れているから反省しろ」とかいう話ではないっぽい。

「命をかけるほどの規範(公)が日本にもあったのか?」ということでいうと「たとえば一揆では惣的結合で血判を押した」って話が出てくるんだけどそれは共同体内の構成員による自律的なとりきめであり上からの公的なものではなかったのでは?、と網野はいう。

人の生死を掌握するような公が構造(システム)的なものだとすると、成員の自律的な取り決めによるそれは反構造、コミュニタスなものになる。無縁もここに当てはまるのではないか?、と


ここでもやはり「システムと生活世界」の構図が浮かび上がってくる。というか文明と文化といったほうが自分的にはしっくりくるかも。


上述では「それまでの伝統社会的価値観を教会が引き受けることによってそれ以外の部分、貨幣経済的合理性などが発達していった教会はその信頼性をもとに村落共同体の価値観を預かって都市型の価値観にすりかえて行った変換機だった)」っていったんだけど、中世における教会というのはリテラシーと知の管理術、データベースを司る知のハブ的な存在だったわけでそういう意味では文明の中心だったように思う。

「文明 / 文化」という言葉は日本語的には最初から識字が前提になっているけど英語的にはちょっとニュアンスが違う。civilizationとcultureであり前者は都市民的生活を後者は技術による自然開墾を前提とする。

「文明」ということばの語用としては技術による自然的側面の開墾的性格があるように思うのでこの辺はちょっと違和感だった。

推測だけど、civlilizationという言葉にはもともと教会を介した文化(リテラシーの獲得)的意味があったのではないか?リテラシーを獲得するのに付随してスコラ学的な概念や知識管理の方法、伝統的社会的価値観とは違った考え方が学べる。それによって都市民(civil)化し自然や自己の内なる自然をhackしていくことがcivilizaitonということだったのかなぁ、と。

それは構造(システム)的なものに組み込まれていく過程ともいえる。


それに対してcultureというのは構造的なものから零れ落ちる多様性であり、構造維持のための効率性や合理性を旨とする価値観とは趣を異にする考え方やそれに付随する行動様式、モノの蓄積だったのかなぁって感じ。

なので感覚としては「culture」は村落共同体的(耕す)であり「civiliztion」は都市民化ということなのかなぁ、と。もそっと単純に「生活世界」と「システム」ともいえるわけだけど、「生活世界」というのは近代化によって都市民的な構造(近代)の中に包摂された前近代的価値観=村落共同体的価値観に基づいた生活圏なのかなぁと思う。



構造側からつくられた「公」、「歴史」から抜け落ちていったものが無縁、的な記述が本書にもあったけど、そういった構造によって作られたものが近代であり、そこから抜け落ちた(「近代」にとっては)非合理的なもの、管理できないものが「無縁」であり「文化」的なものだったのかなぁ、と。

そして無縁や生活世界の中にも「公」はある。



阿部×網野的には「公」は上からだけのものなはずなのになぜ下から作られた「公」もあるのか?ということが問題になりこんがらがっていたように思うけど、おそらく「公」というのは明示的な法以前の、共同体の中で作られる慣習法的なものでありその意味では上にも下にも「公」はあったのだろう。

上と下というか当時の支配者的なものがつくる「構造」に含まれる成員たちの共同体とそれ以外のもの。便宜的に示すと「構造-公」と「無縁-公」みたいなもの。


そんでこういった「構造-公」と「無縁」の関係、あるいは国家ではなく人的集団の中おのずから生まれ出てくる「公」的なものの日本における展開について。

先ほども少し出たけどたとえば惣村なんかがあった


惣村 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91


あるいは自治都市としての堺とか


muse-A-muse 2nd: 日本におけるベヒーモスの芽生え   堺の場合
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/121069392.html



ここで「ヨーロッパの城塞都市なんかはある程度の自治性を有したまま歴史を重ねていったように思えるがそれに比べて日本の自治的なものはなぜ潰えていったのだろうか?」という疑問が生まれる。江戸でも商人組合とかあったけどそういう時の政府によって直接的に管理下に置かれたものではなく、ヨーロッパの都市国家ぐらいの対等性をもった自治。


いままでの流れ的にいうと、ヨーロッパの場合は貨幣経済に基づく近代の特殊性に基づいて商人たちがある程度自由を獲得できたのでは?と考えることができる。

すなわち、「貨幣経済に移行することで財を増やすことが容易となった商人たちがそれをもとにして武力も蓄え発言権を増して行ったのでは?」、的な考え。

うろ覚えだけどこういった考えは柄谷あたりにもあったように思う

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)
柄谷 行人
岩波書店
売り上げランキング: 15390
おすすめ度の平均: 4.0
1 理想論
5 柄谷思想の入門書、読めば読むほど味が出る
5 「トランスクリティーク」からの新書版
5 表題がイマイチ
5 思考者の啓蒙書



ただ、それだけだと江戸の商人たちが財的には幕府を超え発言力を強めていったのに幕府の管理下から抜け出るほどの自治力を持たなかった(結果、たまに借金帳消し徳政令なんか出されていた)ことの説明がつかない。


なので、地政学的関係で自治都市が発達・維持しにくかったのかなぁとかも思ったりする。



あと、経済圏と文化装置との関係とか。


そんなに豊かではなくて経済的リソースが十分でない社会では誰もが自由に経済的に発展できるわけではなく、限られたものが発展していって大きなハブをつくるように思う。

日本の場合は天皇、貴族、神社が荘園を持ち、稲作を中心とした経済圏が作られていた。それらの圏内では夫々に年中行事が作られていたらしい。なので日本の年中行事は農暦に基づくものだけではない。

そんで、そういった年中行事がそのまま文化装置となって人々の生活の中に溶け込んでいったのではないか?ヨーロッパにおいて教会が文化のハブとなったように、統治に際して「文化」というクッションが一つ入ることによってケンが立たず、民衆の叛意を逸らせたのではないか?広報によるブランディングみたいに。

そういうことも考えられる。


そんでそういった文化装置に基づいた信頼性があったからこそ天皇信奉もあったのかなぁとか思ったりする。





まぁこの辺も推論だからよくわかんないんだけどもとりあえずこれから公共性な歴史を追っていく際のひとつの筋ではあるかなぁと思いつつ課題にしとこう



--
関連:
muse-A-muse 2nd: 司馬遼太郎, ドナルド・キーン、1972、「日本人と日本文化」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/125351878.html


cf.日本では生死を掌握する規範がなかった(庶民自身が生死を自ら決めていた ― 日本人には宗教がない

→cf.司馬遼太郎=日本人には宗教がない = 武士道ももともと「主君のために死ぬ」とかではない

posted by m_um_u at 11:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年09月20日

「合理の中に非合理が、近代の中に前近代が入ってるんだね」って話

中世本とかそれにつづいてプロ倫読んでたらなんかモヤーンとしたものが浮かんだのでメモ的に


中世の窓から (1981年)
中世の窓から (1981年)
posted with amazlet at 09.09.20
阿部 謹也
朝日新聞社
売り上げランキング: 113820



プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
マックス ヴェーバー
岩波書店
売り上げランキング: 1612
おすすめ度の平均: 4.5
5 解説が最高
5 宗教的意識内容(心理的動機)は、例えば資本主義の発展に対して巨大な影響を与えた。
5 最後の人間、同時代への驚愕から生まれた研究
5 資本主義はどこから来たのか?資本主義とは何ものか?資本主義はどこへ行くのか? 
3 社会学とは何ぞや



両方ともあとで感想書くかもだけど面倒だから書かないかもなのでいちお読んだ人の感想っぽいの貼って概略の手抜き。


阿部謹也の中世の窓から part 2
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/german/abe2.htm

叡智の禁書図書館<情報と書評>: 「中世の窓から」阿部 謹也  朝日新聞社
http://library666.seesaa.net/article/14329622.html


中世ヨーロッパ、11〜16世紀の北ドイツの生活とか変化、雰囲気を伝える本。近代以前のああいうじめっとした雰囲気がけっこう好きなのでよんでみた。「薔薇の名前」みたいな厳格さ+地味な生活的なああいうの。

あとは欧米文化の基層部分の芯のようなものというか、重厚な歴史の厚みの元のようなものを知りたかったので。


プロ倫については有名だからまぁいいや。たぶんあとで感想書くだろうし


「中世の窓から」について。リンク先にもあるように職人の生活とか位置とかについての細々とした記述もおもろいんだけど、この本の全体的な主旨のようなものがあるとするとやはり「贈与経済から貨幣経済-資本主義へと移り変わる際の人の生活や規律、価値観の変化」といったところだったかなぁ、と思う。

ここでいう貨幣経済-資本主義というのはその後のヨーロッパを中心として生じてきた爆発的な急進力をもったそれ。それまでモノやヒト、仕事など形をもったものをリソースにした取引がデフォだったのに対して貨幣を介して抽象的な価値を取引のリソースにできるようになり、それを元にして場所や時間といった制約にしばられることがなくなった。投機なんかもその派生だし。ヨーロッパの資本主義、近代資本主義の基礎というのはこの辺にあると思う。

貨幣経済自体はこれ以前にもほかの地域であったし、投機なんかも見受けられるわけだけどそれらを合わせて現在に繋がる資本主義的な型(セット)、簿記を土台として営まれる合理的な産業経営を作り上げたのはヨーロッパのそれのように思う。ヴェーバー的には「萌芽はあったかもしれないけど大量現象としては見受けられなかった」ってやつ。

もちろん「それは生産様式の性格に依るだけではなく、軍事力その他の要素も含めて先行できた国の勝ちパターンがデフォ化しただけったたのでは?」ともいえるわけだけど。

とりあえず(資本主義そのものが他所から伝わってきたものかもしれなくても)資本主義の型の受け容れ皿(元型)みたいなものがこの時代にできたんだろうなぁ、と。


そんで、興味を持ったのはこの時代の価値観の変化の部分。または変化の内実はどういったものだったかということ。

「贈与経済→貨幣経済」、あるいは「ゲマインシャフト→ゲゼルシャフト」って感じで後者が前者が単純に塗り替えていって「その過程で以前あった価値観や慣習はすべて捨てられた」っていうのともちょっと違うんじゃないかなぁ、と。

贈与経済とか共有とかに着目するひとは「昔は贈与経済だったんだから昔に戻ればいいじゃんそっちのほうが自然なんだし」みたいな論調とることがあるんだけどそれもなんか違うように思う。

そんなこと思ってたところで「中世のお金的価値観への転換期の話」のつづき的な感じでプロ倫のあとがき(大塚さんの)読んでたら「一見合理的にみえる近代資本主義の中に天職(Beruf)概念という非合理的なものが含まれている」ってあってこの辺かなぁ、って思ったりした。

阿部さんの本でもあったんだけど、近代型の貨幣経済-資本主義に向かう過程で昔の伝統的習慣を捨てられない人々がいた。「そういった人々をだます仕掛けとして教会的な方便が使われた」という話。

たとえば昔は貨幣には呪術的な力があると思われてて死出の路銀としてもたせるために死者と一緒に埋められたりして問題になってた。これが積み重なると貨幣の量が減っちゃうので。その習慣をやめさせるために「埋めなくても教会に寄進すればそのお金は死者にたむけたことと同じことになりますよ」とした話とか。

これなんかはまんまプロテスタンティズムの倫理が要請された過程にも似ている。

「プロ倫」という論文の出発点は、<「非合理な宗教」的戒律であるプロテスタンティズムの倫理を「合理性を代表する商人たち」が召還した?>、っていう疑問にあるわけだけど、なぜ商人たちがプロテスタントの倫理を召還したかというその背景について。いちおいっておくと「カトリックよりゆるかったから」ということではなくプロテスタントの倫理のほうがカトリックよりも厳しかったらしい。なので「なんでわざわざ厳しい倫理を?」って話。

阿部さんの本の説明によると、(贈与だかなんだかわからないが)伝統的な経済から近代的な貨幣経済に移行する転換点において人々はそれまでもっていた倫理・価値観をゆさぶられたんだそうな。それできちんとお仕事しない輩がたくさんでてきた。都市の有力商人たちはそれを憂いプロテスタントの戒律(宗教改革)を招きよせた、とのこと。

当時の人々がなぜこの戒律で満足したのか?については謎なんだけど、教会的聖性とそれに基づいた信頼がバッファとなったのかなぁとか思う。それ自体、聖性というのは論理的には非合理なものなんだけど歴史的積み重ねはあったし。あと非合理っていうとBeruf(天職)って概念も非合理。

貨幣経済下の勤労に慣れなかった人用に「それは神の下で定められた神聖な仕事だからしっかりはたらけ」的な方便として生み出された概念んが「天職」だったんだけど、これなんかも合理性的観点からするとなんの問題解決にもなってない。んでも近代以前の価値観を持っていた人たちはそれで納得した。聖性が重要だったので。


これってnation-stateの幻想-詐術とも似てる。stateなんかもともと村落的な生活送ってた人々には関係のないものだったんだけどそれをnation(パトリ的な土着、あるいは親近の大事なもの)とイコールで結ぶことによって「国家はキミ達にとって故郷であり家族も同じ」とした論理。

経済的価値観を変容させるときに教会的聖性を人質にとった、あるいはトロイの木馬として遣わして人々の信頼を勝ち取ったのと同じように、nation-stateの幻想ではnationを人質にとった。

それはある視点からみれば詐欺行為であり「どうなの?」って感じではあるけど、歴史的事実という視点から見るだけなら「強力な仕掛けとして機能したんだなぁ」って受け止められる。


以上のことが前提になってついったでメモ的に以下のことをつぶやいたり。ちょっと言ってきたことと重複するけど
(※注を要するリンクは一部修正)




society ってのは geselleschaft に通じるわけで、 ゲゼルシャフトのシャフトは「集まる」、ゲゼルには「(おそらく「性質の違うものが」)仲間になる、一緒になる」的なニュアンスがある。

対してゲマインシャフトの場合は「もともと同じ性質のものが集まっている」みたいなイメージ。英語だとコミュニティに相当する。


ドイツ語でよく「○○シャフト」という単語が耳に付くのですがどういう意味合いなん... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1420416309?fr=shopping_search

ドイツ語の意味について - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210530802



もともと日本は「個人」て概念がなくてゲマインシャフト的なものがデフォだったように思う。顔の知れた人々によって作られる共同体。

しかし近代になって都市なんかで働くようになると分業がデフォになって顔の知らない人々と交わり、協働したり取引をしたりしないといけなくなる。「性質の違うものたちが一定のルールに従って集まった固まり」的なものが生まれてくる。

そこで従来のアナログ的なリソース(信頼や物財、などといった地域固有のリソース)では交換関係が成り立たなくなる。こういったリソースはそれまでに積み重ねられた歴史をもとにして信頼が作られているけどヨソ者はそんなこと知らないし、都市はヨソモノたちがつくっているところなので。

そんでそういったヨソモノ同士の疑心をバッファするのが貨幣。貨幣の信用は国家がバックアップする。

貨幣は土地に根ざした縛りがないので自由が利くし、ヨソモノを受け容れることができるので取引の幅が広がっていく。

「社会」に戻ると、この言葉はもともとsocietyの翻訳語としてあてられたものだけど、さっきもいったようにsocietyにはもともとゲゼルシャフト的な「(異なったものたちが)一定のルールにしたがって造った集まり」的ニュアンスがあったはずなんだけどその部分は捨象されたっぽい。(cf.「翻訳語成立事情)


翻訳時のニュアンスとしては「一緒に」とか「個人の集合体」程度。 これまでにも同じ目的をもった人々の集まりを指す言葉としては「社」があったんだけどそれを拡張させつつsocietyの意味合いをつかみかねていたっぽい。

そういうのも受けつつ当時の語用としては「社会の公僕」とかなんとか「仕事」と結びついた共同体概念って感じでなんとなく敷衍していったっぽい。反対に似たような領域を指し昔から日本で使われてきた「世間」という言葉は悪い意味で使われるようになったり。

世間という言葉はゲマインシャフト的ニュアンスを孕むからだろうけど、特にその辺も意識せずに「世間」というのはなんか「閉鎖的なコミュニティ」的なイメージになってたり。

しかし、日本で「社会」って言葉が使われる場面ではほとんど「世間」でも代替可能だったような。そして「世間」って言葉に付随する歴史をたどっていくとそれほど悪し様にいうようなものでもないかなぁとか思ったりする。個人主義と共同体的な生き方の関係だけど。

てか、「ゲゼルシャフトもゲマインシャフトも根っこは同じ(ゲゼル>ゲマインて話でもない)」ってところも含めてゴニョゴニョ思ったりする。


想像の共同体について :ウィーンの路傍 パリの道標 山下祐樹
http://yukiyamashita.arekao.jp/entry-c6eb4889a6b80bd5bfb12f5ed53aa3f3.html

『そのゲマインシャフトとゲゼルシャフトという区分自体が無意味であるという理解が存在しているのも確かで、マンフレート・リーデル『市民社会の概念史』がその視点を持つ重要な著作である。リーデルの言語史的な分析からすると、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは元来同一の源泉から生じていたものであり、テンニースのようにゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという流脈は存在しないという指摘を含んでいる』


それは「貨幣経済>贈与経済」ってわけではなく…って流れにも重なるんだけどここで反対に「貨幣経済<贈与経済」ってするのも変だなぁとか思ったり。



エントリにするときはこの辺のゴニョゴニョについてもそっとゴニョゴニョ考えれるといいんだけど… 言語化めんどい


阿部勤也さんの話をおってると贈与経済的なものをけっこうプッシュしてはるんだけど反面日本的な「世間」は嫌ってはってその辺で分離してるのかなぁとか思ったりする。



そんなことつぶやいてたらクマから、『 えーと。「世間」は実体のある何かっていうより、人の行動とかを抑制する何かなんじゃないかなぁ。と。だから、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの延長じゃなくて、規範とか役割とかに付随するんじゃないかなぁ』、とかなんとか。

これは、「society」の翻訳語に「世間」という言葉が使われなかった理由、の説明としてはアリかなーとか思った。たすかに価値観と社会的実態をゴチャゴチャにして語ってたなぁ、と。


そんなこと思いつつごはん準備しつつタラーっとこの辺みてたらちょうどビビッドなこと言ってたり。


なんというか - finalventの日記
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090916/1253060287


全体的には鳩山さんの「友愛社会」の一面性を皮肉ったpostで1Q84にも通じるわけだけど(仲俣さん的に「ニイマルマルキュー」とかいってたな)

<市民社会の出自として、市民は村落共同体におけるfraternityの原理の側の派生、fraternityは同性愛的な原理性をもつ。そして国家はこういった市民社会の構成員の自由を守っていった>、と。


「結婚」を神的聖性と村落共同体的な友愛の契約関係としたとき、その契約のの証として「子」(子供の再生産)が成されていた、って話かな?

そんで本来ならそういった結婚が(当時の)社会(association)契約的役割をもっていたわけだけど、社会全体を絶対主義が覆い国家によって構成員の自由が守られるようになっていった過程でそういった社会契約的役割を国家が担うようになった。

そこでは子供(人口)は再生産の要素として国家に包含されていくのだろうけど、もともと市民社会の原理としてあった村落共同体的な「友愛」の原理 ― 同性愛的なそれが市民を単純な再生産の道具とすることを許さない。

みたいな話だろうか。


とりあえず「現代の近代(合理)的に思える市民社会の中にも非合理とか村落共同体的な要素が入っていて(なんかわからんが)そのスパイスがあることで市民社会は健全に保たれてる」みたいな感じ。


単純に「村落共同体的なものに戻ればいい」ってことでもないのだろうけど



(あと、「神」と「子」と「精霊」とかいうのは「教会の聖性」と「子供の再生産」と「村落共同体なassociation」に対応するのかなとかちょっと思ったりした)


「市民社会の概念史」もそのうち読もう


オンライン書店ビーケーワン:市民社会の概念史
http://www.bk1.jp/product/00676526



posted by m_um_u at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | 人文このエントリーを含むはてなブックマーク

2009年09月15日

「1Q84」はこう嫁!…っていうかこう読んだらけっこうおもしろいかもですぜ!お客さん (他力本願風味

いちお感想も書いたので


muse-A-muse 2nd: 村上春樹、2009、「1Q84」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/127980291.html?1252876425


答え合わせというか攻略サイト参考みたいな感じで皆さんの感想やら批評やら見て回ってみた。そんで感心したり共感したり言い足りなかったりでなんかウズウズしたので目に付いた範囲での1Q84感想+批評集+αみたいな感じでまとめとく。おもしろかったし


ちなみに「感想」と「批評」の使い分けについて。批評というのは当該作品の構造やメッセージをその作品にいたる文脈も含めてきちんと読み取った上でなんらかの自分なりの視角(おもしろい読み方)を加えるものだと思ってる。それ以外のものは個人の印象的な「感想」。

同様に単なる「小説」的作品と「文学」的作品の違いがあるように思う。小説を生み出す発端として「頭に浮かんだイメージをなんとなくそのまま時に起こした」ってのがあると思うんだけどこれだけだとストーリーテラーとしての能力はあるのだろうけど「学」とはいえないので。

「文学」の場合はたとえば書き上げた(あるいは書き上げる予定の)作品なりプロットなりを一端客観視し「自分がその作品を通じて何を語りたいか」「どういった作品構成にしたらそれをうまく語れるか」といったことについて再検討して作品を分解→再構成していく。一定のルールに基づいて。

「一定のテーマについて、小説という技法を通じたシミュレーションの場」というのが文学だと思ってる。


まぁそれはそれとして




最初にこれ読んで


2009-05-29 - 【海難記】 Wrecked on the Sea :Book2読了〜この本こそが『空気さなぎ』である
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090529#p1

『「天吾」は村上春樹自身』とか『個人史、個体史のことである』とかわりと自分の感想と似たような印象を受けた。「個人的な問題の超克 → α」的物語って読み。


次にこの辺で


2009-07-17 - 【海難記】 Wrecked on the Sea :『1Q84』をめぐるポッドキャスト2題
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090717#p1


そういやLifeのpodcastでなんかやってたのでまだ聞いてなかったなってことであとで聞こうと思いつつ空中キャンプの人の感想でも見てみるかと思うに


TBSラジオ「文化系トークラジオLife」の収録に参加しました! - 空中キャンプ
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090717/p1


2009-06-03 - 空中キャンプ :monkey business 2009 Spring vol. 5
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090603#p1


ぐらいで特に直接的感想なり批評なりはなかった。

前者についてはLifeのpodcast聞いた後でみるべきものだろうなぁ、ってことでスルーするとして後者も直接的感想ではなかったんだけど「日本の文壇に疎外された村上春樹」な話がちょっと目に付いて。そんで大江健三郎とのこと思い出したり。まぁそれは後述するけど


んで次にこれ


[書評]1Q84 book1, book2 (村上春樹): 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/06/1q84-book1-book.html


『「1Q84」は、私たちの社会がその真実と善に疑念を持ち得ないような閉塞なカルトに近く変性したことに疑義を植えつつある。』、『しかし実際に向き合うことになる教祖は老婦人や青豆が想定したような悪の存在ではなく、ただリトル・ピープルのメディアに過ぎなかった。そのことで物語は老婦人や青豆が希求する、市民社会が超えがたい正義と悪の限界を暗示している』、と。 正直これが一番効いたなぁ。。


弁当さん日記でもちょこちょこ出てきてたソフトスターリニズム的な「正しさ」ファシズムの問題と近代資本主義社会(消費社会)的問題も想起しつつ。

オウム的カルトの問題を「あっち側にいってしまった人」の問題にしてしまうとタテマエ的な「正しさ」によって単になにかをつるし上げて疎外したり攻撃したりするだけどのファシズムになる。それ自体がすでにカルト的だっていう話。経済合理性のみを唯一の正しさとしたカルト

それを象徴するように青豆が殺害しようとしていた教祖は単なる悪の親玉ではなくこの世界では「正しさ」の象徴ともいえるような秘蹟(キリスト的秘蹟)を行う存在だった。ここで青豆はこの世界の正義の象徴ともいえる救世主たりうる存在を殺害してしまう。

それは既存の倫理観からすると許されざることだし結果的に世界の終わりを招くことかもしれないんだけど青豆個人にとっては必要性のある選択だった、と。

この辺の話はアーレントと公共性にも絡んできそう。


ただ、『同様に村上春樹の「1Q84」(book1参照・book2参照)の2巻までは、17歳の少女を29歳の男が和姦に見立たて姦通する、「犯罪」の物語である。また国家に収納されない暴力によって人々が強い絆で結ばれていく、極めて反社会的な物語でもある。それが、そう読めないなら、文学は成功している。』、って言い回しはずっこいなと思った。呪いみたいでw (まぁ口上みたいなものだろうけど



とりあえずここでこの作品が単なる「個人的な問題の超克」という話というだけではなく「それを通じての社会的コミット」的性格をもっているということがあきらかになってくる。




次にこの辺


2009-07-30 - 【海難記】 Wrecked on the Sea :愛郷塾、高踏塾、タカシマ塾〜『1Q84』とユートピア思想の系譜
http://d.hatena.ne.jp/solar/20090730#p1


読後直後っぽかった最初のエントリのときよりももうちょっと作品の社会性について触れたエントリ(…てか極東ブログの受けたものなのかな


その中でも「カルトが襲撃派と穏健派に分かれても後者の中に内包されていく問題」について焦点を当てている。『反体制的なユートピア運動は、かりに社会主義やファシズムといったイデオロギーを抜きにした場合でも、不可避的にあるダイナミズムを孕んでしまう。』ってやつ。

というか、「襲撃派と穏健派に分かれるってモチーフが現実に起こった事件であった、ということを説明することによってこの作品の社会性、問題としようとしていた点を説明」、って感じ。


あとは「もうビッグ・ブラザーの出る幕はない」の解釈とか。


オラはこれは「国家による監視社会」からもそっと監視が分散化した形、あるいは忘れてたけどフーコー的な監視の内在化を想起してたわけだけど仲俣さん的読みだと「<帝国>」(ネグり / ハート)的に「国家から暴力性や監視性が分散」って感じだったのだろうか。マルチチュードじゃなくてテロリズムだけど


この辺の読みはいろいろだろうけどとりあえず極東ブログのエントリも含めて、『村上春樹が『1Q84』で描こうとしているのは、単線的な「正義」でもなければ「ユートピアへの幻滅」でもない。』、ってのは確定かなと思った。


(あとぢみに、『『1Q84』という小説の題が「イチキューハチヨン」と読まれるのは、「五・一五事件」を「ゴーイチゴ事件」、「二・二六事件」を「ニーニーロク事件」と呼ぶのと同じ理由による。』、とか説得力あるなぁ…)




次にこれ

2009-06-22 - 日記&ノート(転叫院):村上春樹『1Q84』CommentsAdd Star
http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20090622#p1

「これってセカイ系だよね」って感想は一緒(「これってエヴァっぽい」)でだいたい同じで、『984年というのは、連合赤軍の崩壊とオウム真理教事件との間の二等分点にあたるわけですが、左翼テロから霊性に向かう流れと、霊性から再びテロリズムに向かう流れが』、って指摘で「ほぅ…」って思ったぐらい。

やっぱ「暴力派と穏健派との分離問題」ってあるのねぇ。連合赤軍のモチーフは後述するかもだけど「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(「ブルータス」1981年3月15日号)でもはや出てたそうで「この作品の特徴」って話でもなさそう。「これまでの作品の集大成だから」的なものだと思う




最後にこれ


「父」からの離脱の方位 (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.php


直前ぐらいにあったエルサレムスピーチを中心にした妄想というか個人的印象な感想って感じだった。


「お父さんの問題との問題」っていうんだったらこの作品以前にノモンハンを出したのだってそうだし「父親殺し」っていうんだったらむしろ「海辺のカフカ」だしなぁ。。

まぁ、「個人的な思い入れに従った読み」、ということだとオラも人のこといえないのだけど。。



そんで「父親殺し」って問題だとむしろこの辺が関連してくるように思う。さっきの空中キャンプでチラッと出た「春樹の文壇八分」的な話


2006-11-09 - 横浜逍遙亭 :村上春樹と大江健三郎
http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20061109

1979年に「風の歌を聴け」が芥川賞の候補に挙がったときに大江健三郎がなんかイヤミ言ったっぽい。それも儀礼的無関心的なほのめかしで誰とは特定せずに。

そんでしばらくして春樹褒めてて「なんじゃそりゃあああ!!111」、と。


そういえば春樹の「1973年のピンボール」って「万延元年のフットボール」の本歌とりっていうかイヤミっていうか、「いまさら学生運動とかでもねーだろ」的な話だったと思うし。「ノンポリでピンボールしてぼけーっとしとくだけでいいじゃん」的な


1973年のピンボール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/1973%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

『タイトルは大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディである。』


年代的にも芥川賞選考のあとだべな


純文学ファンのための小説ガイド 村上春樹
http://www.geocities.jp/hideki2230461/nippon-sakka-review/murakamiharuki.html



この辺では大江-村上の間でびみょーな確執というか因縁のようなものがあったように思う。それを受けて



【書評】加藤典洋:文学地図 大江と村上と二十年【ブックレビューサイト・ブックジャパン】
http://bookjapan.jp/search/review/200902/okazaki_takeshi_01/review.html

大江は、社会性のなさで村上春樹を批判したが、加藤の見るところ村上は、「意外なほどの深度で、初期から社会への関心に裏打ちされた作品を書いてきた」という。村上の短編「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を、タイトルを借りたビージーズの同名曲の歌詞と比較しながらの読み直しなど、なかなか芸が細かい。



asahi.com(朝日新聞社):大江氏・村上氏の近似性 文学地図再編の提案 - ひと・流行・話題 - BOOK
http://book.asahi.com/clip/TKY200902050106.html

先立つ86年に、大江氏が村上氏の〈社会に対して……能動的な姿勢をとらぬ〉スタンスを批判した点がその後の評価の構図を生んだ、という。




「んでも、大江も最初のころは社会的コミットとかそういう関心でもなくむしろ社会的なことには懐疑的に文学少年してたじゃん。それが変わったのは『ヒロシマノート』からだし。村上の場合はそれが地下鉄サリン事件のことだったわけだし「ニューヨーク炭鉱の悲劇」に見られるようにそれ以前から社会への関心に裏打ちされた作品作りはしてたしねぇ。2人は似てるんだよ」、というのが加藤の意見っぽい。

もうちょっと見るに


チョムゲブログ: 文学地図 大江と村上と二十年
http://chomge.blogspot.com/2009/01/blog-post_17.html


このエントリからだとなんとなくの雰囲気だけしか伺えないんだけど類推するに「村上春樹にとって日本文壇における父的存在が大江健三郎であり、両者は子殺し的疎外と親殺し的報復(あるいは自我の確立)的関係にあった」的な読みができそう。


これだけだとわかんないだけどいずれにしてもなんかこの本おもろそうだし便利そうなので暇があったら読もう(というわけで貼っとく



文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)
加藤 典洋
朝日新聞出版
売り上げランキング: 270683





そんなこんなで「父親殺し」って線をとるんだったら大江とか、それに象徴される日本の文壇(あるいはノーベル賞という場)のほうを見たほうがおもろいし現実的なように思う。


いささかゴシップ的ではあるけど


じっさいは相克的関係ではなく大江とかほかの日本文学者の問題を継ぐ形で村上のテーマもあるのだろうし








--
追記:
ジョギングしつつLifeのpodcast聞いて来たので。正直最初は「たいして読めてないだろうなぁ。時期早かったし」とタカをくくっていたけど・・失礼しますた。

仲俣さんの読みはわりと最初のエントリ+αぐらいで「ハードボイルドワンダーランドから続く構造を踏襲しつつ今回は無事着陸できた」って感じだった。「またこの話かって繰り返しに思えた」的な意見もあったけど螺旋的な進歩ってヤツなのだろう。

個人的にはこの辺はハードボイルドワンダーランドのころはまだ「半身/影をつかむ」って話で自我の確立的問題がメインだったような印象。でも「クロニクル」、(ちょっと回り道して)「カフカ」と進むうちに集大成として「1Q84」があったように思う。「風の歌を聴け」をはじめとした三部作や短編も含めた。

てかやっぱ教祖との対面のシーンの意味がメインテーマ的な作品だったのねぇ。メッセージとしては「単線的な正義ではない」ってやつ。

「1984」的なころにはまだ「ファシズムの悪の親玉」って感じで見えたものが高度資本主義-消費社会-ポストモダンになってくるとそのシステム自体に自分たちがコミットしていることになる。消費=システムへの賛同的な投票という形で。そして、それ自体は「悪」とされるようなものでもない。

また、なにか正しい正義の看板を立てて悪者を仕立てあげそれを倒したとしても今度は新しいなにかがその座を占めるだけか、もしくは倒したもの自体がそのものになっていく。レシーヴァはレシーヴァに、王殺しは王に、熊(カムイ)殺しはカムイに、ダースベイダー殺しはダースベイダーに。

再帰性ってやつなのかの

そういう意味では「父親殺し」の味方もあながち間違ってはいないのだろうな、と反省…。ただ、それがメインというわけではないと思うけど。


あと、この線でいって続編があるとすると天吾くんは帝国(システム)的なものの親玉になるか、反システム的なものの親玉になって青豆さんと対立することになるのだろうな。青豆さんはドウタを取り戻さないといけないし…。そこで神の対項の聖母(あるいは巫女)的存在としてのふかえりさんが不確定要因になるんだろうけど。

んでもやっぱ天吾くん=青豆さん的なあの終わり方のほうが美しいように思うのであのままでいいように思う。



まぁそんな感じで振り返ってみると自分の最初の読みというのはけっこう個人的思い入れがあったのだなぁって感じ。父の問題とか過去の問題とか


でもやっぱ正しいのか間違ってるのか分からない得体の知れない複雑なものに立ち向かっていくには「自分」を見つめなおすことが最初の一歩のような。番組では「手をつなぐってとこが印象的だった(それがコミットに繋がる、と)」って言ってたけど自分たちの問題として考える第一歩は自分のことを掘り下げることだと改めて思ったのでした。


それが世間的に見て正しいとしても間違っていたとしても




--
追追記:

村上自身から作品解とか「続編出すよ」インタビュー出てたので


村上春樹氏:「1Q84」を語る 「来夏めどに第3部」 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20090917ddm014040122000c.html


村上がこういった形でガイドライン的解説をするのって珍しいんじゃまいか。それだけ「ちゃんと呼んで欲しい」って思い入れが強いのかな。

あと、『最初は『1985』にするつもりでした』 とか 『浅田彰さんがやはり同じ題で音楽カセット付きの本を出されていると分かりました』 とかが特におもろかった。仲俣さんのエントリが効いてなぁ




posted by m_um_u at 15:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2009年09月14日

村上春樹、2009、「1Q84」

読んだので感想。


1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 1
posted with amazlet at 09.09.14
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 61
おすすめ度の平均: 4.0
5 計画された欲求不満
4 いつもどおり
3 ぼんやりとしたままの世界にいて読むこと
5 とても良い
3 もっとスマートに書いてくらたらな



1Q84 BOOK 2
1Q84 BOOK 2
posted with amazlet at 09.09.14
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 56
おすすめ度の平均: 4.0
4 本当に大切なもの
5 初めて…。
3 やっと序章がおわったの?
3 村上さんにお願い
5 暗澹たる世界








ぼやーっとした感想としては村上春樹のいままでの作品の集大成的なものだなぁって印象。最初のほうはたるかったのだけどそのたるさとかなんか冷たい陰影みたいなところも「アフターダーク」的といえばそれっぽいし。あと、そのたるさって「1984」下地にしてるから、っていえばそうだなぁ、と。

んでもやっぱ前半は正直たるくて「青豆」→(休憩)→「天吾」→(休憩)→「青豆」みたいな感じで作業みたいに読んでた。それが250〜300ページぐらいから伏線が繋がってきて下巻の100〜200ページ辺りから滝つぼに落ちていくようなスピード感に変わっていった。

そんで、以下たぶんネタバレ含みつつ







全体としては村上が近年課題にしていたオウムの問題を踏まえてそれをカルト全体に当てはめつつ、村上のこれまでの作品要素にも表れていたユング的な「影」とかなんとかにすり合せた感じ。それによって単なる「カルト教団こわいねー」って話ではなく物語全体が神話的な普遍性を帯びたようにも感じた。


元型 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B#.E4.BB.A3.E8.A1.A8.E7.9A.84.E3.81.AA.E5.85.83.E5.9E.8B


ユング心理学ってぜんぜんわかんないので以下てけとーな感想になるかなぁとか思いつつ話をすすめる。


ストーリー的には「1984」の本歌取りということなので監視社会型システムの問題と見ることができるんだけどそういった描写ってあったかなと想い起こすにカルト教団の「長くて強力な手」とかリトル・ピープルと呼ばれるものたちの力の及ぼし方がそれに当たったのかなぁ。その影響力は「1984」のビッグ・ブラザーほど強力ではなくて限定された範囲の中でのもの、ということでリトル・ピープルという呼び名は象徴的だったように思う。


p422
この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。



「現代社会の機構は分散してて集中権力ではない」って感じでもあるのかな。まぁいろいろ思わせるような余白だなぁ、とか。



ヤマギシとかオウムっぽいカルトの設定、「日常から隔した閉鎖的コミュニティ」と「山羊」みたいなのは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を想起させた。てか、小説の構図自体が天吾と青豆という2つの視点から描かれているので最初からそれっぽいといえばそうなんだけど。

そう考えると、「青豆は天吾くんのアニマであり、この物語全体も天吾くんの自我が覚醒するための妄想的なものだった」、とも言えるわけだけど、ちょっと飛ばしすぎたのでそれはあとでまた言う。

そんで「アニマ」だけど、「アニマ」とか「ドウタ」=「影」→「失われた影を取り戻す」って型はこれまでの村上作品の中にも散りばめられていたものだしリトル・ピープルみたいななんか「得体の知れない暴力性」みたいなのもヤミクロその他でこれまでも出てきた。あとから考えるとそれって「システム」的なものによる不条理な暴力性の象徴的表現だったのかなって感じ。とりあえずそんな感じでこれまでの作品の要素とかテーマが散りばめられていた。


「これまでの作品のテーマ」というと村上の作品の主人公って特に率先して物事にコミットしていくタイプではないんだけどなんか知らないうちに厄介ごとに巻き込まれていて「やれやれ」っていいながらそれをこなしているうちにそれが自分の課題にもなってる、ってケースが多かった。

今回の作品の場合もそういった「巻き込まれ型」的なものではあったんだけど「コミット」ってことについてどうだったか。


作品を読む前にNHKのクローズアップ現代の特集みてたこともあって「コミット関連の話なのかなぁ」って思ってたんだけど特にそういうこともなかったみたい。


ていうか、「社会を主体にしてコミットしていくというよりも自分の問題を解決していこうとすることの延長としてコミットがある」、って言ってるような印象を受けた。

それは作品の終盤のこの言葉にも表される


p486
「そう、僕はそういうことについてはとても臆病だった。調べようと思えば簡単に調べられた。役所まで足を運んだこともあった。でも僕にはどうしても書類を請求することができなかった。事実を目の前に差し出されることが怖かったんだ。自分の手でそれを暴いてしまうことが怖かった。だからいつか何かの成り行きで、自然にそれが明らかにされるのを待っていた」



輻輳的な書き方をされてるので複数の読みが可能だと思うんだけど、この言葉自体がこの作品の主題的なメッセージだったんじゃないかと個人的には思った。


そしてこの言葉を言った後、それを祝うかのように空気さなぎは発芽し花弁を開く。中に入っているのは天吾くんのアニマとしての青豆。天吾くんはそれに気づく(出会う)ことによって新たな一歩を踏み出すこととなる。(ここだけ見るとなんかエヴァみたい)

それは希望への一歩かもしれないし破滅への一歩かもしれない。しかしどちらにしても新たな一歩。




オウムの問題にしてもそうだけど「自分がないので既製のものに頼る」ってしてても依存する対象が変わっていくだけで問題は解決しない。そういうのは消費社会的な問題でもある。

消費社会における実存的問題でもあったのか。あるいは後期近代における自我の揺れ的な問題。


「1984」と最初に聞いたときは監視社会のほかに消費社会的問題も主題にするのかなと思ったんだけど直接的にはそういうわけでもなかった。んでも考えてみるとオウム的問題も消費社会の実存のゆれがもたらした問題ともいえる。それがゆえに自然回帰(「シホンシュギはテキ!」)的暮らしになっていったわけだし…。そうするとやっぱ消費社会的問題をテーマにしてたといえるのだろうか。てか、「消費社会」に限定することなく現代的な問題って感じか。


そんで村上が導き出したメッセージとしては「自分を見つめなおせ」ってことだったのかなぁとボンヤリ。モノとかステータスみたいな虚飾で自分を飾ってもそれが本当の強さかというとびみょーだし。その飾りはリトル・ピープルみたいな不条理な暴力性によって簡単に剥ぎ取られるものかもしれない。しかし自分の中に一本強い芯のようなものが育っていればそれは自分だけのものだし簡単には折れない。


あとは個人的に自分の問題を見つめなおすべきかなぁって思ってるのでこの言葉が響いたのかも。




総合すると「カルト的なもの、あるいは自分の外部のなんらかに依存したり影響されたりするのではなく、まず自分の内側を見つめよう」って話だったのかな、とか思いました。






--
追記:
そういえば「自分の問題を振り返る」って話は「品川猿」(@「東京奇譚集」)にも共通するな。


東京奇譚集 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 10834
おすすめ度の平均: 4.0
4 圧倒的な非現実感
4 浮遊するような感覚の大人向けおとぎ話
5 喪失
3 「偶然」だと驚くほどのことでもない
5 猿に名前を奪われた女性…



振り返るのが怖かったら猿が名前と一緒に記憶を持ち去ってくれる。

なんか印象的な話だったな。




--
つづき(?)的なもの


muse-A-muse 2nd: 「1Q84」はこう嫁!…っていうかこう読んだらけっこうおもしろいかもですぜ!お客さん (他力本願風味
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/128103664.html?1252998162


posted by m_um_u at 06:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク

2009年08月27日

黒沢清、2008、「トウキョウソナタ」

見たので感想。


トウキョウソナタ [DVD]
メディアファクトリー (2009-04-24)
売り上げランキング: 4986
おすすめ度の平均: 4.0
1 期待の割にはよくなかった
3 微妙だ  
3 かなり期待していただけに。。。
4 リアリティをあえて排した舞台劇のような映画
5 とてもクールなコメディ映画



先ほどの「サマーウォーズ」でもチラッと触れた「現代の都会の家族のすれ違いの問題(家族でありながらみんな違う方向を見ている)」という点ではこちらのほうがピンポイントだったように思う。

 
物語としては面倒だから概要は面倒だしこちらでまとまってたので借りちゃおう


黒沢清監督『トウキョウソナタ』 - LA TRISTESSE DURERA
http://d.hatena.ne.jp/The-Man-Who-From-Northland/20090416/1240139714


東京の小さな一軒家に暮らす4人家族。父親はリストラされたことを家族に言えず、スーツを着て会社に行くふりをしながら、毎日ホームレスの炊き出しに並ぶ。大学生の長男はアメリカ軍に入隊することを夢見て、小学生の次男は家族に告げずに給食費を使ってこっそりとピアノ教室に通う。母親だけが一見まともであるけれど、免許証を取ったばかりでオープンカーを買う日を夢見ている。

奇妙な不安定さの上でもかろうじて小泉今日子演じる母親の力によりこの家族は「家族」として成立しているが、長男が「アメリカ軍に日本人として入隊する」と告げる辺りから不穏な雰囲気が流れ出す。父親の猛反対の中にあって、長男は結局軍へ入隊し、イラクへと派兵されることになる。3人での生活になった後、次は次男がピアノを習っていることがついにばれてしまう。「素晴らしいピアノの才能があるから、ぜひ中学校は音楽学校へ」という葉書を目にした父親は怒り狂い、次男を階段から誤って突き落としてしまう。物語の一つのクライマックスがこの瞬間で、「俺の権威を保つために息子の好きなようにはさせない」と叫ぶ父に対し、ついに母はリストラされていることをずっと前から気づいていたことを口にしてしまう。そして「そんな権威なんか潰れてしまえばいい」と冷たく言い放つ。このシーンの小泉今日子からはぞくぞくするような冷気が迸っていた。

このまま崩壊に向かって走り出すかと思いきや、物語の異物として登場するのが役所広司演じる泥棒の存在である。母にナイフを突き出し、一緒に逃亡することを強制する。取ったばかりの免許で運転させられる車は、前々から目をつけていたオープンカー。この運転のシーンは映画中最もコミカルな場面で2人の掛け合いが素晴らしい。逃亡して行き着いた先は海岸の崩れかけた納屋。そこで朝を迎えた母は、オープンカーと車が消えていることに気づく。砂浜に残る車のタイヤ跡は海へと続いていた。

泥棒と奇妙な一夜を過ごした母と時間を同じくして、父親はこっそり勤めているショッピングモールの清掃作業から抜け出し街を彷徨い続ける。次男も同じく街を彷徨い続けて、一晩を留置場で過ごすことになる。それぞれ過ごして不思議な一晩の後、3人はそれぞれが自宅へ帰り朝御飯を共に食べる。各個人が経験した一晩により、この家族が何かを見つけたことが示される。それは決して強い繋がりではないかもしれないが、だからこそ逆にこの先の家族を安定的に結びつけていくようなものである。



リアルな状況においては役所広司演じる泥棒がでてくる前の段階で袋小路であり詰みのようなものだと思う。それだとお話が進行しないのでトリックスター的に役所を投入。「黒沢作品で毎度おなじみ」ってところも茶目っ気。

そこからの話の展開、因果関係というのはそれほどの必然性をもっていなくて、たんにそれぞれが走るシーンを撮りたかっただけのような。「袋小路に行き詰ってそれぞれが走る」って場面。なんだかわかんないけど人はそういった行動の中で固有の答えを見つけたり見つけなかったり、あるいは新たな転機に出会ったり出会わなかったりするし。


そして一度は崩壊した家族を結びつけるイニシエーションとして「ともに食卓を囲む」が実行される。




「都会生活の中ですれ違う家族」というテーマについて、この作品でも解答らしい解答は出せていなかったように思う。むしろそれについて安易な解答にはしらなかったところが誠実だなぁとは思うのだけれど。敢えていうと月の光がそれに当たるのかなぁとか思った。

泥棒と奇妙な一夜を過ごしているとき小泉今日子が夜の海の上に輝く月の光を見て嗚咽する場面。「自分はなにをしているのだろう?」「自分はなぜこんなところに来ているのだろう?」「私たちはこれからどうなってしまうのだろう?」…そういった不安が月の光の静謐な美しさに対称化されて浮かび上がった場面のように思った。

そして光はただ不安を映すだけではなく道のようなものも照らしてくれる。


最後は音楽学校の受験シーンで次男がドビュッシーの「月の光」を演奏していたのはそういう含みがあったのかなぁ、とか。崩壊した家族が地に足をつけて現実に向き合っていく中での一筋の光であり希望のようなものが「天才的」とまでいわれた次男のピアノの才能だったわけだし。

もちろんそこに依存してもあらたな家族の崩壊に繋がるのでその辺はおぼろげにしか描かれてなかったけど。


月の光のメタファーは「それぞれが自分なりの答えをみつけていく」ってことにあるのかなぁとかなんとか。



あと、件のリンク先をみっけたのは「抱擁家族」でぐぐったってのもある。

今作では長男がアメリカの軍隊に入隊する(ことで日本を守る)ってところから話が展開し始めるわけだけど、「家父長的庇護とアメリカ」というテーマだと「抱擁家族」があったなぁ、と。

「抱擁家族」ではアメリカの安全保障の元に経済的安定を手に入れた日本の姿に主人公である夫がなぞらえられていて結果として家父長的権威は崩壊→妻はアメリカの娼婦的な感じになっていったわけだけど、「トーキョーソナタ」ではそこからもうちょっと進んでアメリカというのがもはやデフォになってる世界のように感じた。

デフォというかリストラによって自らのアイデンティティを崩された夫は家父長的権威を守ろうとするのと並行するようにアメリカ軍に入隊することを許さないわけだけど、そこで言われてる論理「俺がおまえたちを守ってるんだ」という言葉に対しての「じゃあなにを守ってるって言うのさ」に対してなんの解答も出せなかったり…。

というか、権威的なもの、形式的なものにすがって出来合いの言葉で問題を先送りするのではなく本当の意味で家族のことを思い尽くしていたのならまた違っていたのだろうけど、彼がそういったことに気づくのはすべてを失い自らの命も危険にさらされた(あるいは一回死んだ)後だったっていう…。


そういった意味では「アメリカ軍への入隊」というのはギミックの一つに過ぎなくてメインテーマではなかったのかなぁ、とかなんとか。「家族の問題」ということで「抱擁家族」的な線を想起させるための記号のひとつだったのかも。


そういった線も含んで家族のそれぞれの事情なり物語(旋律)が輻輳していった結果としてソナタがあったのかなぁとかなんとか思ったりした。


ベタな音作りから不協和音に転じて、最後は月の光で収めた家族の物語。




タグ:家族
posted by m_um_u at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

「サマーウォーズ」を見てきたよ (アルバムみたいな作品だったね)

見てきたので軽くメモ程度に感想。
 

映画「サマーウォーズ」公式サイト
http://s-wars.jp/index.html


最初に興味を持ったのは鈴木敏夫のジブリ汗まみれ経由で。

「今年の夏、家族関係の修復(あるいは世界へコミット)的話題についてエヴァとサマーウォーズという2つの作品があるのは対称的というか並行的というか」みたいな話を言っていたんだかpodcast聞きながらオラが勝手に思ったんだかしたので。

エヴァについてはセカイ系ということで、ああいう形で社会へのコミットが閉ざされてしまった社会、あるいは本来「ネタ(虚構)」であるはずの現実世界のルールが「ベタ」として定式化してしまった社会に生まれてしまった子供たちによるネタを前提としたシミュラークル的な社会(再帰的社会)における実存的問題(あるいは社会へのコミットの問題)をどう考えるかということについて、前回は投げっぱなしジャーマン的に終わらせてしまった庵野がケコーンなどを経てどのように変わったかってのが見所だなぁと思ったのだけど今回の「破」では演出強化って感じで特にそういった線での変化は見られなそうだったので見なくていいかなぁとか思った。

そういった線で変化せずとも、「アニメーターとして最後まで投げ出さずエンターテインメントを作り上げる」、という点ではオトナになったのかなぁとも思えるのだけどとりあえず作品も見てないのでこれについてはここまで。


サマーウォーズについてはそれ以外にNHKのインタビューで細田守監督が言っていたことが気になっていたので。よく知らないけど細田監督は最近結婚して親戚がたくさん増えたのだそうな。それで嫁さん方の田舎にいって、そこで親戚の人たちと触れ合って新鮮な驚きがあった、と。

「それまでずっと孤りだったぼくに家族ができた。そのおどろきを伝えたい」みたいなこといってはった。


たしかに映画の内容はそれに尽きる感じだった。

全体的な構成(ストーリー)としては「ひょんなことから田舎にいった少年と少女が世界を救う冒険に巻き込まれて親戚一同みんなで立ち向かう」ってことになってて画面上では仮想現実空間におけるたたかいがメインとなって展開されていたわけだけどその辺はエンタメ作品として仕上げるためのギミックに過ぎなかった印象。実際、インタビューでもそんな感じだったし。

メインは親戚一同揃った家族の食卓であり、入道雲に向かうまっすぐな道行きであり、田舎の旧家の陰に置かれたアサガオの鉢植えたちと夏の空の青のコントラストのように思った。ストーリーやテーマ的なものというよりは田舎のそういった色彩のひとつひとつについてのアルバムであり心象風景的な作品なのだなぁ、と。


もちろんテーマとしては「インターネッツな仮想現実な世界の中で並行する家族の関係の希薄化」的なものもあったように思うんだけどそれについての作品が提示していた回答のようなもの、「みんなとりあえずごはん食べましょ」、はそれほどの説得力を持っているようには思えなかった。(実際、仲の良くない家庭で「とりあえずご飯は一緒に食べる」だけは実践されてきた結果それほど意味がなかったことを実感しているので)


「家族の食卓」というテーマだと伊丹監督の「家族ゲーム」で「みんな真正面を向いて食べる食卓」が表されたときのほうが象徴的だったし、「食と人(あるいは関係)」ということだと「たんぽぽ」のほうがテーマ的には踏み込んでたし。


なのでやはりこの作品はアルバムでありこの時点での記念的なものなのだなぁ。


そういった記憶は論理的には説得力を持たなくてもふとした瞬間の動機づけになることはある。空気感とか暑さや寒さ、味や音などといった綜合的な記憶。それが人の思考や選択の動機になることはあるように思うんだけど、この作品ではそれは描かれてなかったな、と。


そんなことを思ったわけです。




いろいろいったけど誤解してほしくないのはこの作品はアルバム的なものとしてはとてもよいものだったなと思いました。家族の食卓とかアサガオとか入道雲




あと、法事の食事ということだと「歩いても歩いても」のとうもろこしの天ぷら思い出したり。

また見たくなったので明日辺りDVD借りてこようかな


posted by m_um_u at 18:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク