2017年07月20日

朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった


朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった。帰納ではなく



自由論 (光文社古典新訳文庫) -
自由論 (光文社古典新訳文庫) -

引用箇所の要、文脈としては「言論の自由とはなにか?」→「反対意見に対して開かれていることである」「それらはしばしば少数意見である」「少数意見がたいせつなのは、少数意見だから、とか、大勢が間違ってる中で少数意見は正しいことを伝えようとしているから、とかではなく、大勢の意見にしても少数の意見にしてもその時代・環境において特殊なもので後世から見れば正されるものである可能性があるからである。それらは後世、あるいは暫時的に修正されるためにその時点でできるだけ開かれたギロンの可能性を遺しておかなければならない」というもの。繰り返しになるけど、それらの考えが「正しい」からではなく「間違ってるかもしれない」ので多様な意見の可能性を残しておく必要があり言論・表現の自由は担保される。
そういった考えが暫時的な、あるいは不断の修正を要するものであるのに対して、数学のようなものはそれまでにできあがった一定の公理にもとづいて思考を組み立てていくところがある。すなわち演繹的。演繹と帰納の違い。



帰納的、すなわち一定の事象を根拠にいちから思考をつむぎそのうえで一定の(自分なりの、あるいは蓋然的な)公理に達する、のではなく、帰納的につくられた公理を所与の前提として思考やギロンを組み合わせていく、みたいなの。彼らのやり方を見てるとどうも彼らの主張の根拠とするもの(多くはPC(ポリティカル・コレクトネス)とされる倫理的な典範)の交換を通じて正当性を競っていく・ギロンして行くというの彼らなりのギロンのあり方だと思っているようで、その典範そのものの正当性を疑ったりギロンしたりする気もないみたい。まあなので中世あたりの盲目的なカトリックに近い印象がある。その辺を指してE.トッドなんかはゾンビカトリシズムとかな用語をつくったのかなというところだけどこれはまた別の話。

まあとりあえず「彼らと話してると宗教の人と話してるみたいにギロンの埒が明かない」「あれは一種の宗教なのだ」というのはこういうところから来るのかなと改めて思ったのだけど。そういうのはいわゆる「りべらる」のひとだけの特徴でもなくいわゆるフェミというか、急進的・本質的、あるいは初学的なフェミのひとにもある感じ。まあそれは彼女らがそういったりべらりずむの初学的なものだけをかじってるからかなと思うのだけど。根本から疑い再構築しようとするのではなく。

そういうのに加えて、最近改めて思ったのはこういった人たちはちょっとの言葉尻や表現でみょーに発火するのだなあ、ということ。自分の感覚が一般的なのかというとびみょーなところはあるだろうけど、一般的に見て看過できそうな表現や発言を一部だけ切り取ってみょーに「いかんだろ!」するやり口が見られる。そして「いかんだろ!」してるうちに自分たちがその「いかんだろ!」なオラショにとりこまれてどんどんヒートアップしていくマッチポンプ。少しまえにとりあげた漫画雑誌のチョイエロ表現にしてもそうだけど、ああいうのもふつーに雑誌を見てる限りは「パンチララッキー程度の読者サービスカットなのだなあ(巻頭カラーだし)」ぐらいで済ませるものだと思うのだけどみょーに取り沙汰す。あるいは、その表現自体はたいしたことない、というのを前提にしてる体はしつつも「その背後に無意識の構造がー」とか言い出す。なんだその亜フロイト流文学批評みたいなの?という感じの。60年代ぐらいにスーザンに「アホか」忖度されてたものだったのだけどそういうのは。。

反解釈 (ちくま学芸文庫) -
反解釈 (ちくま学芸文庫) -


話は戻って「一部だけ切り取ってみょーに発火する」な人々について。そういう「一部を切り取って」というやり方は特にネット的なやり方なのかなあという印象はある。あるいはTwitter的といってもいい。Twitterなんかは各発言にパーマリンクがあることがこういった場合には却って災いしてひとつの発言だけ文脈切除されて揚げ足とりされたりする。下の方でリンク貼っておくけど直近だと為末さんとか今井絵理子さんのなんかが印象的だった。あるいは上西小百合とかいう議員のひとの発言とか。

上西小百合議員の発言にサッカーファンが激怒「政界引退」も検討か - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13354264/

自分はこの人のことよく知らないでそれまでどのような発言や行動をし、どういった印象がついてきた人なのかよくわからないのでそういった先有傾向からの印象はないのだけど、やり玉に挙げられた問題発言というのは「サッカーの応援してるだけのくせに、なんかヤった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」というものだった。それ以前に浦和レッズの試合を観戦しててそのあまりの不甲斐なさを嘆いていたら浦和ファンとTwitter上で衝突してたみたいだけど。自分的には該当発言を見ていちお文脈確認すべく上西議員のTwitterホームに飛んで問題となったtwの周辺を見てみた。そのときの印象としてはサッカー選手とやり取りをしていてこれから先なにか具体的な仕組みをつくっていってサッカー振興に役立てていくみたいなことをいっていた。「サッカーの応援してるだけのくせに」というのはこの辺を受けてのものだったのかなあという印象で、単に負けの不甲斐なさをなじるだけとか負けても傷のなめ合いみたいなキレイゴトばっかいうだけで進展のない様子にやきもきしたのかなあみたいな感じ。あと、Twitter独特の煽り合いみたいなのでイライラしてたのもあったのだろうけど。そのへんはまあ性格的に「煽り耐性がない」とかいうことになるのかとか思ったりもする(某首相の街頭演説への辛辣な評価も含めて)。


今井絵理子議員のものなんかRTとかで飛んできたので問題発言なの?ってみにいったときには確かに該当の一連twは曖昧で嗚呼…ってかんじだったのだけど別件で為末さんのところみにいったら彼女の息子さんが難聴の障碍抱えてて、それもあって障碍支援的なところでやっていこうとおもってるんだって記事がリンクしてあった。「そういう立ち位置から多様性がどうとかな発言になるのかなあ」「まあいきなり障害者用に具体的なお金の算段とか施設の算段とか引き出し難く、とりあえず『世間的なやさしさ』みたいなのに乗っけてく言葉で囲い込んでく必要があるもんなあ。。『多様性』とか『社会的包摂』とかなPC用語というか」とかは思ったのだけど、ソレとは別に蓮舫さんの二重国籍にそれを絡めるのは我田引水すぎるだろうしピンぼけだなあとはやはり思うのだけど。「違った人、マイノリティにもやさしい社会を」以前にふつーに国籍法の不備をいぢればいいだけなのだろうし。


為末さんもなんか問題発言したらしく為末さんのTwitterホームを見に行ったら該当発言周辺でデキていた文脈を切除して炎上元となった発言だけをPC的に問題ダーしてる人ばっかな感じだった。該当発言は一見すると障害者排除的なネオリベ発想?みたいに見られるのだけど文脈的には「理想としては弱者保護→それを支える保険があって良いと思うけど、現実的にそればっかだとお金たりないので働ける人は働いた方が良い」系の話をしてると思えた。理想と現実に生きていく(資本主義競争社会の中で「やっていく」)ということは違い、彼の「認識」「気持ち」としては後者のスタンスの方が良いと思ってる、というのは競技者としてやってきた彼らしい考えだなと言う感じ。

今井さんにしても為末さんにしても、理想論は知っていつつ現実的に何らかの問題に取り組むと理想だけではうまくいかないので苦言とかエクスキューズをすると理想論教条主義者たちから文脈切除されて■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノとされる構図、だし、彼らは該当発言の文脈そのものも拾おうとしない(該当発言がどういう経緯からなされたのかを発言者のTwitterホームに見に行く程度の労力も払わない)のは確かなのだった。そういった意味でリテラシー的にどうなの?というのは初歩的なこととして思うのだけど、まあ彼らにしてみれば単にそれをマキにして騒ぎたいだけなのかもしれないから発言元の正確な理解とかはどうでもいいのかもしれない。ネットでよくあるテレビなんかの発言を都合よくコラージュして並べて立てるだけのあれにも似てる。


そういうサンプルとしてついですると、少しまえに騒がれてまだチロチロと狐火してるジャンプのラッキースケベ表現についても、当事者とされる発端の二人としてはわりと終わった問題になってるようだった。当該弁護士さんがRTされていた「例の表現はジャンプ以外のほかの雑誌で見るとなんともないんだよねー」みたいなtwはまさにソレで、「(ヽ´ω`)…ジャンプ以外だと問題にならないってことはその表現自体の是非をうんたらしてる薄フェミ界隈のギロンそのものがそもそも無効ってことじゃん」とか思わせるわけで。。ここでも「まあ彼女たちとしては元の発言の真意とかはどうでもよくて、たんにそれをネタ・マキにしてキャンプファイアーしたいだけなのだろうなあ」とか思わされたのであった。



冒頭の演繹の話に戻って概観すると、彼らは既存のPC典範を公理とし、自身の倫理や良心を掛け金とすることで公理カードの交換ゲームをしていくわけだけど、そのゲームの中で定められた型から出ないゲーム的なやり取り・モラルハラスメント合戦であるため根本的な倫理の問題や、問題自体の解決ということには思考があまり向かない、ということ。なので彼らの話題と関心は自分たちの都合の良いように視野狭窄的に編集されて伝聞されていくし、一つの話題を燃やし消化してしまうと(その問題は解決していないのに)次の話題に移りまたキャンプファイアーを愉しむ。根本的に思考するということがなくモラルをかけたゲームとしてソレを楽しんでるに過ぎないということ。あるいは自身がゲームのつもりでやってなくてもそういう態度で望んでるうちにそういったゲームに巻き込まれているということなのだろう。


こういったやり方は特にPCを介するようになって顕著になったのかなあ / 日本でPCがうんたらされだしたのはグローバリゼーションの影響が本格化した後期近代以降、すなわちプラザ合意を端緒とし、それがグローバリゼーション → ネオ・リベラル的な社会保障度外視でキツキツの企業倫理とノルマを説いていくのがふつーになった00年代以降あたりからなのかなあと想ったりもするのだけど、単にネットでのやりとりというのがその程度のモラル揚げ足取り的な型になりやすいと言うだけなのかなとも思ったりもする。特に後者の場合、PCとかりべらるとか関係なくネトウヨとかも似たようなことヤってて馬鹿って話なのだけど。


スピンアウト的に、元来、絶対核家族のエートスであった自由主義の典範であるとおもわれるPCがみょーに布教されたのは、トッドがいうようにアングロサクソン系がグローバルスタンダードになってしまったことからの片手落ちともいえるのだろうけど、初期には異なった家族系、異なった民族・人種間で無益な衝突が起きないようにライシテ的に設定されていたのではないかPCというのは?ソレがいつの間にかネタがベタ的に「PCを守らなければならない!」ってそれ自体が権力になっていって辟易されてるのでは?と思ったりもしたのだけど、このへんはまた別の課題として(誰か調べてるのかもしれないけどよくわからない)。



(ラブドールを家庭に連れ込んだ男性についてももうちょっと詳細に書いとこうかと思ったけどだいたいtwったからいいやもう。。構図としては同じだし)































































posted by m_um_u at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年07月14日

あれは彼女たちにとってはアレルギー反応のようなものなのかもなあ。。


朝に「バッドフェミニスト」を読み進めてなんとなく「昨日の対フェミ(ぽい人ら)嫌味みたいなのは言い過ぎたかなあ。。」とかおもって反省。ロクサーヌ・ゲイなんかがいってることだとそれなりに立ち止まって考えてみようと思うのに彼女らが言うことだとどうも言い過ぎに思えて言い過ぎで答えてしまうのはなんでなのかなと内省してみた。コインランドリー待ち時間をドラッグストアの買い物でつぶしつつ。

直感的に「彼女たちの訴えはアレルギー反応みたいなものなのかかなあ」と。一つ前のエントリで彼らのPCは宗教的なものなのかもしれないという話をしたけどアナロジーとしてはアレルギー反応のほうが近いのかもしれない。それだとライシテよりもわかりやすく一般社会からも線引しやすそうだし。食品などの成分表示よろしくコンテンツに「この作品には女性差別、恋愛、異民族が含まれてません」みたいなのを表示する。まあそういうのはなかなか分け難くさらに物議をかもしそうだけど恋愛とか異民族みたいなところだとなんとなく分かるようにはなってるか。その作品を見る前から。「女性差別は含まれてません」とかいっても作った当人はそのつもりはなくてもナチュラルに差別してるかもだからこの辺はわかりにくい。もっと中立的な成分要素があれば良いのかなとかは思う。たとえばピンク色、とか?いわゆるダサピンク的なあれ。まああれも過剰反応な向きがあるように思ってるのだけど。ネットの話題と関心的に。


ともあれ、彼女たちが女性の権利を侵害してる― セクハラだ―って一定の表現についていうとき、その表現に対して特になんとも思ってない / ちょっとはまずいかなーとおもいつつもスルーしてる人たちというのは食品において人工甘味料やらアレルギー物質に対してだいじょうぶなのと同じなのかなーと。まあ自分のことなのだけど。ちなみに人工甘味料は苦手。なのでアルコール9%系チューハイはどれも口に合わない。ざんねんなことに。
対して、一定の表現に過剰反応してしまう人たちはその表現に対してなにか過去になにかがあったりとか、あるいは最近の世間や女性同権的な教育の影響やらがトリガーになって敏感に反応するようになってるのかなーとか思う。後者の方はちょっとマッチポンプにも思えるのだけど、前者の方は自身の経験やら体質に基づくのだろうからどうしようもなさはあるのだろう。体質っていうか心の質っていうか、まあ性的トラウマやら発達段階での経験の記憶が元になったり?

「バッドフェミニスト」の叙述はまさにそれで、ゲイがまだティーンの頃に集団レイプされたことが語られていた。いわゆるデートレイプ的な。彼に「嫌われたくない」ためにそんなに好きでもない性行為をしているうちに彼の仲間にもそれをしてくれと要請され、断ったけど密室空間だったのでなし崩しに、というような。しばらくして学校に行くとそれは自分の「アバズレ」のせいだと吹聴されていた。自分から求めてやったものだ、と。

そういう過去がある人の場合どうしても過敏に反応するようになるだろうしその戦いを続けることで自身を保っていけるところもあるのだと思う。



ゲイのそういう過去と語りを聞いていると彼女の敏感にも耳を傾ける気になる。自分はその部分について特にそこまで思わないけど?とおもってもそういうのでアレルギー反応が出てしまう人がいるなら気を使っていこうという気に。なので、そういうので(彼女たちからすると)鈍感な人たちがわからないような性的侵犯な表現をしている―と叫ぶ時、たんに「世間的にただしいこと」の立ち位置からではなく、彼女たち自身の本当の痛み、そういうものをみたときにどうして痛いのか、嫌なのか?についての語りのようなものが聞けると違うのかなと思う。世間的に正しいからーというだけで頭ごなしにPC叫んでるだけだと単にそういうのをタテマエとして他者にマウントしたいだけの人たちなのかな?とも想えるので。

でも、そういう辛さや経験みたいなのもごく個人的なものだからいちいちカチンと来た表現などがあるたびに彼女たちにそういうものを告白せよというのも酷なものだなあと反省。そういった個人(プライバシー)の部分に触れずに済むように一般的なルールのようなものがあるのだよなーと。

んでもそういった「正しさ」を教条的・抽象的にやりとりしてるだけだと運用によっては「正しさ」だけにとらわれた暴力になるのだろうなーと二重国籍の件とファブリーズの件をみつつ想う。蓮舫氏の二重国籍の件だと仮想敵としてるネトウヨの言説に乗っかりそれへの反証を示すという態度を取ろうとしたのだけどその時点で仮想敵とするひとたらと同レベルの低俗に堕ちてしまった。ファブリーズの件も同様で、彼女たちが仮想敵?とする側の男性?側からの主張、「ファブリーズのCMでひどい扱いをうけてる男性の様子は看過されてるけどこれはセクハラにはならないんですか―?」に乗っかって彼女たちが自身に対してしているのと同じようなCM自体の内容分析から応えてみようとした。そのようにすれば、どうとりつくろっても、そのCM単体ではセクシャルハラスメントを含むものになるだろうけど。


ふたつとも教条的、セイギセイギにならずにきちんと人や経験、実際の痛みなんかをみつめ主張したほうがよいのではないかなーと改めて思ったのだった。










































バッド・フェミニスト -
バッド・フェミニスト -

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2017年07月12日

宗教、あるいは権威主義としてのりべらりずむ(あるいはネトウヨ)とライシテ


このブログ用にTwitterでの関連twを貼り付けたあとに蓮舫さん関連の話が多くなってしまいあとで編集しようかと思ったけどめんどくさくなったので割愛。端的には少しまえにあった東京都議選での民主党の大敗を受けて「誰かが責任を取らなきゃならない」「この機会に党首の二重国籍疑惑を払拭させよう」ということなのだけど。

民進党の迷走続く…蓮舫代表の資質を問う声はなお強く - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13325040/

まあ選挙の惨敗と党首の二重国籍は因果関係ないだろうから問題のすり替えのように思うのだけど。つまり政策で勝てない / 戦えなくなった民進党はもはや搦め手から求心していくしかなくなったのだけど、その際の「人気」という曖昧な要素に関わる部分に党首への疑惑があるとかなんとかしてるわけだけど本来なら政策で戦えばいいだけだから本末転倒感がある。よしんば搦め手(政局でありスキャンダルなどを介したポピュリズム)で戦うとしても、それを決断したのは党全体の意志だっただろうし直接の敗因は民進党の選挙対策委員会にあるはずだからそのあたりが責任を取れば良い話のはずだけど選挙対策委員長自らが党首の責任に話をすり替えてるみたい。まあこういうのの結果、党首が辞めるというのはよくあることだけど、そこに「党首が外人疑惑があるからだ―」て付け足したのは自分への責任追及逃れるためだったのかな―、と。民進党の内情をよくしらないのでわからないのだけど。形としては昔の学生運動のときのソーカツ的な内ゲバを思わせ正しくサヨク的ではあるのかなとか思ったりもする。単に皮肉だけど。

「こういうのも民進党内のまともな政策打てるグループが逃げ出したからかなあ」「蓮舫さんて見た目的には社民党とか女性党みたいなののほうが似合いそうだけど現在の民進党ってそういう系が強いんだったっけ?」「旧小沢グループとかどこいったんだろ?」「うわ…民進党になる際に維新の会とくっついたのか。。(お察し)」、みたいなことを思ったのだけど民進党の内情/構成について詳しくないので本質的なところがわかってない感はある。ちょっとそういうの知りたいなと思うも書籍では出てなさそう。自民党のは最近に中公新書から出ててそのうち読もうかと思ってるけど。

二重国籍疑惑、というか「民進党は売国奴だ―」みたいなネトウヨを中心とした?陰謀論みたいなのはけっこう前からあって、それに応ずる形でのソーカツだったのかなと想わせるも実際にそれをヤってしまうと認めたことになるんじゃないの?あるいは人身御供的に生け贄の乙女みたいなの捧げて手打ちみたいな。まあ乙女っていうのも変だけど。

そもそも外国人ガー国政に絡ンデーとかいっても未だ首相とか大臣にもなってないわけだから国政には絡んでないわけだし、よしんばそうなったとしても一個人としてここまで帰化してるわけだからスパイとかいうのも信じがたい。まあそれでもスパイ疑惑の反証とはならないのでそういった陰謀論疑惑が潰えないないひとには潰えないのだろうけど「どこまでやったらスパイって疑惑消えるんですかねえ?」みたいなことは思ったりする。

それとは逆に、こういったスパイ疑惑を否定する人たちがアメリカのロシアゲート疑惑を肯定的に捉えてトランプバーカバーカしてるのみるとダブスタぶりに(ヽ´ω`)てなる。まあ彼らからすると「国家に対するスパイ疑惑」「国家に対する外国からの組織的アタック」みたいなところが問題なのだけではなく「外国人として『差別』されてる」という人道主義的な見地?が焦点なのだろうけど。そもそもその外国人疑惑・批判的視線が国会議員≒内政に携わる → それが外国人だと内政干渉の可能性ガーてとこから生じてるのでわ?ていっても彼らには声は届かない。そして「日本人は帰化しても外国人は外人―てしていつまでも差別するんダー」てよくあるお題目みたいなのを唱え続けるのだ。ヒステリックに。その様子はちょうどこの季節だと夏の法事の集団読経のようにも想えるのだけど、よくある言い方からすると精神病棟のヒステリックな反応にも似てる。「Twitterは精神病棟に似てる」みたいなアレ。そして精神病棟の人たちのようにちょっとした不安が生じるとその不安を公正(穴埋め)するような題目を集団で唱え同調圧を強めていく。そこで理性的な意見(「それはちょっと違うのでわ?」)を唱えてもそもそもヒステリックな集団読経なので相手してもらえない。下手すると怒りに触れてクソリプを投げつけられまくる。集団読経してる人たちに茶々を入れるとこっぴどく叱られるように。


そういうのは彼らが平等主義・自由主義として掲げるりべらりずむ的な倫理題目が関わるところにはすべからく存在する。フェミニズム(女性平等運動)やら言論・表現の自由やら。そういった倫理は条件が整えば素晴らしいものだと思うし自分も大事/叶えていきたいとは思うのだけど、彼らはそれが一定の条件のもとに成立していることを考慮しない。あるいは「その条件が崩れているため整えるために声を発している」というのかもしれないけれど往々にして教条的にその倫理をお題目して唱えるのみの人たちはそのための条件の構築ということには無頓着だったりする。たとえば自分とは違った価値観や立場の人達との対話や交渉の余地がなかったり。それがなければ一定の条件のための下地も構築できないだろうけど。

そして彼らの一方通行の倫理の押し付けは暴力的に機能していく。セイギの暴力として。

あらためていうけど倫理とかのお題目の話以前に現実的でプラグマティックな環境の構築をきちんと考えてくれと言いたい。。あるいは以前じゃなくてもいいのですくなくとも並行して。そうしないと宗教倫理的なものの教条的な押し付けに過ぎない。


条件の話に戻ろう。

彼らからすると自由主義や平等主義というのは人類普遍のものに思っている / 思われているフシがあるのだけれどそういうこともない。「それが行き渡ってないのは遅れているからだよ」みたいな昔の西洋中心主義的な自由主義進歩史観に彼らは立ってるぽいところもあるけど。E.トッドなんかによると自由・平等主義というのは一定の家族系の共同体に相性のよいイデオロギーで、たとえば核家族的で個人主義的な絶対核家族たるアングロサクソン系の価値観として作られてきた。大家族的な価値観だと老人とかの教えを理性ではなく権威的(パターナリスティック)に踏襲していく傾向があるだろうけど絶対核家族の場合そういう必要もなかったので自由主義や個人主義が根付いていったのかもしれない。ちなみに家族系としては大家族系のほうが比較的新しい家族系のようだけど。

そういった家族系が下部構造となった上部構造が自由主義なわけだけどそれがアングロサクソンの覇権によってグローバルスタンダードのように錯覚されていった、みたいなことをトッドはいってたような気がする(うろ覚え)。

もちろん、そういった価値観は現在では尊いし、自分としても権威主義的に「口答えすんな!」って老人の価値や教えを詰め込まれていくのは嫌なのだけど。家族系をはじめ、アングロサクソンの共同体と条件が違う共同体ではその価値観を受け入れるためにまず下地となる条件を整えていかなければならない。たとえば絶対核家族では「父・母・子ら」という家族形態が基本ユニットとして暗黙に前提されている。いわゆる専業主婦モデル。「それがゆえに独身族を想定していなくてその部分へのケアがゆるくなるのだ」とトッドはいう。「そういったものは(大家族的な共同体なら全体で支え合うシステムがあっただろうけどそういうものがなければ)国家が代替して保証していかなければならない」と。デンマークやスウェーデン、フランスのPACSみたいなああいうもの。それによって独身者だけではない社会的マイノリティも包摂していく。社会で独立して暮らせるように。財源としては税金頼りみたいだから税金がその分高くなるけど。


平等主義や自由主義を求める時、倫理や「(彼らが家父長制と暗黙かつ雑にイコールしてるぽい)専業主婦モデル打倒!」といった根性論以前にまずそういった現実的で構造的な条件の改正を考えるべきだと思う。あるいは倫理とともにそういった具体的なものを勝ち取っていこうとする。対立する相手が合理的配慮が示せる程度の対話の余地を残して。そういうことが必要なように。

家父長制の話ついでにいうとあれは字義的には「一家の家長が父であること」「そこから発せられていた権威主義」ということだろうけど家長が父(男性)であることと権威主義的であることはそのままイコールではない。たとえば母が家長でも権威主義的な家族はある。うちみたいな母子家庭とか。そして大家族でも権威主義は踏襲されていただろうけどそんなに問題なものでもなく平和に共同体が運営されていたりもした。もちろんそうでもなく不満が溜まっていたところもあるだろうけど。まあとりあえず家父長(すなわち一家の長が男性)であることがそのまま権威主義になるわけではないし、権威主義だったらそのまま悪いということにもならない。家父長制≒男性中心主義としても男性中心主義というのは人類の一定の期間、一定の場所において最適とされたモデルだったのだろうし、男性が中心になったから社会的に変なになっていったというわけでもない。急進する近代の速度が個人にも同様の速度を要請し、結果的に黒いイナゴと化した男性たちが家長としてその権威をトリクルダウンしていっただけともいえる。つまり国家→社会→(男性を家長とした)家族への影響。ゆえに「家父長制と資本主義」の見立てが出てくるわけだしあの見立てではまだ未完成だったりするのだ。


権威主義ばっか敵にするのもどうなの?という話ついでにいうと彼ら「りべらりずむ」を自認する人々のやり方も権威主義といえるだろう。上記してきたように、彼らのりべらりずむの価値規範である自由・平等について、彼らは往々にしてそれを思想的、本源的に思考することはなくお題目的にそれを唱える。それがゆえに彼らのセイギはともすると教条化してオーバードライブして他者を傷つける。公正性や公平性は「平等」の価値にも関わるものに思われるけれど彼らは目の前の「平等」を説くあまりに公平や公正の原則をしばしば忘れ度外視する。結果として、最悪の場合彼らの倫理題目と相対する人々に暴言を浴びせたり暴力行為を行ったりする。あるいは言論の「自由」をかかげつつ仮想敵の言論の機会そのものを潰したり。そういうものの何が「自由」なのか…。

それらは本質的な意味での平等主義・自由主義、あるいは人道主義とは違って単なる題目なのだろう。彼らが教科書的に教えられた題目を権威主義的に踏襲しその権威をもって(自分とは違った考え方を持つ)他者を圧しようとしているだけなのだ。

それが「わたしはシャルリ」運動(イスラム系住民やマグレブの排除)であり、Twitterで異論を唱えた子供芸能人へのクソリプ暴力であり、(中道左派≒リベラリズムを掲げるはずの)民進党による人権侵害的なマッチポンプへの鈍感の正体だった。




なのであらためて思う。そういう人々は宗教なのだ、と。りべらりずむ(あるいはその反対のネトウヨ的なお題目への教条的な盲信なのだ、と。そしてそれは日本という直系家族系からすると正しく権威主義なのだろう。

まあ「宗教の人」というのも揶揄的に思われるかもなのでエクスキューズしとけば本来宗教が機能してていた/現在も求められているような空白にああいう教条主義的な「良いこと」価値観が求められ帰属されていくのだろう。たとえばフランスのシャルリ運動の担い手がパリ中心部の人々ではなくその外縁部の直系家族系の人々で、彼らは元々カトリシズムを信奉していたがその空白に共産主義を報じるようになり現在はりべらりずむを奉るように。そういう人々には良心の拠り所としてそういうものが要るのだ。そういうひとたちって異化するだけではなくたぶん自分たちにも。


んでもそういう宗教の人たちと接すると言葉も通じなくて疲弊してしまうことがママあるのだろうからある程度の線引がデキたら良いなと思う。たとえばライシテのような。Twitterなんかはブロックとかミュートとかフィルター機能である程度アーキテクチャ的に排除できそうだけど、社会的にももうちょっとなんとかならないかなあって。まあ実際社会的にそういうものを設置するとなると暴力的な切断処理も生じるだろうから自分たちの心の境目的なものとしてなんとかデキないかなあみたいなのは思う。そういうわけでライシテについてちょっと調べてみよう。

















































































問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) -
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シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書)) -
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家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -
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フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ) -
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世界のなかのライシテ; 宗教と政治の関係史 (文庫クセジュ) -
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2017年07月09日

「こうしてわたしたちは負ける」?


さいきんTLを賑わせていた性表現についてのPC系の話題。2つ同時になっていて両方とも「自粛しろ!」と当該表現元にうんたらかんたら。自分的には最初そんなに乗り気でもなく両方共そんなに取り立てるほどの話かなあという感じで見ていた。んでもなかなか鎮火しないのでまあこういうのはこの問題自体がほんとに問題というか、こういうのは皆さんのなにか語りたい欲を刺激しやすい話題なのだろうなあ、とか。いわゆる学校・教育問題だとみょーに皆さん口を出していく、みたいな。「それはしろーとでも強い立場で物が言える / 関心をもてる問題だから」みたいなことを誰かが言ってたけど、そいえばこれも子供の教育的な問題に属するのか。「自分のため」というより「子供のため」となると燃料が着火しやすいのかなあ。。あと自分ドリヴンでもないので落とし所が見つかりにくく際限ないというか…。漠然とした不安を感じてヒステリックにギャーギャー言ってくだけなのでいつまでたってもギロンが終わらない。落とし所を見出そうとしない。

その辺の心理、クレーマー的なものや「何かを損させられてるんだ」的な被害者と弱者意識?からのドリヴンみたいなのはまた別件で見ていこうかと思うのだけど(彼らはなぜあんなのに着火していくのだろう?)、「落とし所がない」という言葉が出たのでついでにいうとこの話自体の落とし所は両方とも「ゾーニング」と「レイティング」ということだと思う。コミケや薄い本系のギロンの蓄積から借りると「性的表現で不快になる人がいるとしてもそれは個人(間)の趣味的なものでたのしむぶんにはよいはずで、その部分で留め不快に思う人には見せないようにする」みたいなの。「不快に思う人」あるいは子供のように合理的判断能力がまだ備わってない(と思われる)人のことを配慮して該当表現を愉しむ場所を囲い込み、そういった人たちの目に届かないようにする。コンビニのエロ本とか、あるいは電車のエロ中吊り広告とか。あるいはお笑い番組的なノリにもそういうものは見られる。直接には言及しなくても同業界のそのへんの倫理意識の低さは垣間見える。まあ倫理が低いっていうか世間並みなのだろうけど。それらはゾーニングとしては未だ甘くて、特に中吊り広告なんかは確信犯的ダダ漏れと言ってもよいのだろうからそういうのが「当然」としてまかり通ってるような社会においては今回話題になったCMなんかも「ちょっとした冗談じゃん?」ぐらいで済むようなものなのだろうけど。

そういったことを考えると今回の件程度のことよりもより構造的な、社会全体の意識変換が必要に思われるのだけどそういうことをいうと「まず見えたものを一個一個叩いていくこと、その場でプロテストしていくことこそがたいせつなんですよ!」とかいうひともいてまあそうかあとかも思ったりする。んでもその語り方が特に落とし所もなくヒステリックに怒ってるだけのように見えたら周りは引いていくだけのように思うのだけど。彼らが仮想敵とする人はもとより、特に関心のない第三者的な人もますます聞く耳をもたなくなるというか…。

ではここでいう「落とし所」とはなにか?というと、利益相反する二者が存在し紛争となったとき、相互の利益を尊重しつつ妥協できるような地点(を模索する)ということになるように思う。そういう紛争・衝突の場合、得てして双方が最初に求めた要求が完全に通ることはない、ので相互の妥協点を探る。双方が合理的に納得できる線を探って。

今回の件の場合、きちんとやるとしたらジャンプとか当該CM担当者との交渉ということになるのだろうけど、まあだいたいもう済んだことみたいな感じにはなってる。当たり前だけど。ジャンプとしては「今後の意見として参考に致します(ペコリ」程度だし、サントリーのCM担当としてはさっさと当該CMを取り下げたみたい。まあ後者は最初から炎上でバズるのが目的だったようだから目的は十分に達せられたのだろう。そもそも両方ともいち消費者としては「買わなければ良い」で個人的なゾーニングはほぼ達せられるはずだし。

「だったら買わなければ良い / 見なければ良いとかいったって目に飛び込んでくるんですよ?!公共的なものなんだから!」つってもジャンプのようないち週刊マンガ雑誌がどれほど「公共的」なのか。。あるいは当該ウェブCM。まあ後者はTLとかでボーッとしてて流れてきたら不快というのはあるだろうけど電車のエロ中吊り広告と同じく。んでもたとえばTwitter公式アプリなんかだと「この広告には興味がない」で見ないようにできるしなあ。。そもそもふつーに過ごしていてそういうものに遭遇したとしてもそんなに意識するようなものなのかなあとかは思ったりする。特に後者のCMについては。端緒となった「エロ表現だ!」という騒ぎ立てで既存の見立て(PC的にまずいとされるようなポイント)で焦点化されていった意識からすると「エロくてけしからん!」ということにはなるかもしれないけどふつーにみる分にはどうということのないCMのような。。「あれはあきらかにオーラルセックスをメタファーしてる!」つってもまあそういうのもあるんかもねぐらいでそのときそういうことを思った自分の心根を恥じたりするんだけど自分の場合は(「いやらしい!」というひとのほうがいやらしい)。前者のジャンプのエロ表現みたいなのの場合は奇形ともいえるおっぱいのほうが気になってその奇形さへの違和感からドリヴンしたのかなあ。。みたいなのはある。発端となった人もそういった自分の違和感と不安を既存の別のタテマエですり替え合理化したようなところがあるのではないか?直接聞いたわけではないから知らんし、そのように問えばすり替えと合理化が完成した人は「違いますよ!」というだけなのだろうけど。そして自分的にもあのマンガ表現の最初の違和感は持っていたわけだけど。「おっぱいがみょーに大きい」「画面に肌色が多い ≒ 安いエロ漫画みたいな表現だ天下の週刊ジャンプ様にしては」。

そういえば別件で燃えてる?北原みのりさんの件にも似たようなところがあるように思われる。最初の個人的な違和感、と、公共的な関心・ポリティカル・コレクトネスな倫理のすり替え、みたいなの。表現・言論の自由ガーという人たちではおうおうにしてそういうことが生じてるように思う。あるいは民主主義ガーとかいう人たち。自分たちに都合の良い時だけ「言論の自由ガー危機デー」とかいうけど対立する人の言論の自由は考慮せず、ときとして言論の機会をつぶしたりもする。それが彼らの「民主主義」なのか?とか思ったりもする。


まあそのへんは皮肉的な視点だからここまでにしておくとして、こういった問題ではやはり個人、あるいは少数の不快をどのようにほかの人々に訴えていくか?というのを考えさせられる。「バッドフェミニスト」でロクサーヌ・ゲイがいうように、問題を軽く扱いすぎて特に関心のない人たちから軽んじられたりしないように、かといって重く訴えすぎて聞く耳を持たないようにされるのも好ましくない。その中間を目指して。



「こうして私たちは負け」ないように



























































































バッド・フェミニスト -
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2017年06月30日

障害者、あるいは、リベラリズムをめぐるオリエンタリズムとモラハラ帝国主義あたりの話


前回に引き続きバニラエア這いずり搭乗事件について。てか、自分的にはこの事案、および、これを出汁に行われてる左/右?のアレゲ点にいるひとたち同士のモラハラ合戦みたいなのは興味もなく、この件についてももともと一般的なニュース程度にしか興味ないので該当ケースの事実関係だけインストールしたら撤退したい感じ。いちお言及してコミットしたのでそのぶんおべんきょーはするけど、ぐらい。今回日記的に思考/試行をとどめたいのはその件を受けた喧々諤々合戦というのがなぜああもつづいてるのか?ということについて。彼らは「障害者のため」みたいなことをいいつつ自分たちの正義を通すために障害者を出汁にしてる印象がある。実際の障害者の便益、ぢみな迷惑は度外視して。そういうのは好かないのだけど自分もこの件を端緒に「なぜ喧々諤々が生じるのか?(もうちょっと冷静に、事実ベースのみの情報交換と対話で終わらんのか?事実ベースだけじゃなくてももうちょっと冷静に。。」について思考を進めようとしてて、まあそれもこの件を出汁にして語ってると言えばそうなのだけど。


いちお今回のメインは当事者の出演したsession22のインタビューだったのでそれを中心に。あとは倉橋弘さんという専門家のかたによるCiiNii論文とか。

前回の日記での疑問として残っていた「(車椅子仕様などの障害者が公共交通機関を使う場合、職員の介助やスペースの確保が必要なので)事前連絡が必要と会社側から要求されてるけれど、なぜ事前連絡をしなかったのか?」「ゲリラ的に乗り込みが許されたとしても、窓口で職員と半ば約束となっていたはずの『身体を抱きかかえられて搭乗するならおk』を反故にしたのはなぜか?」辺りが自分的な関心のメインで。

前者については「事前連絡すると予約を断られるケースが過去に他の会社であったから」「急な用件で事前連絡もできないような場合もあるし」「そもそも介助を要求するほどのものでもなくひとりで搭乗できるので(会社側にはなにも用意される必要はない)」あたりが回答として上がっていた。このなかでも「介助を要求するほどでもないと思っていたので」あたりが「事前連絡をしない」という行動選択をした一番の理由と思われる。

後者について。「なぜ身体を抱きかかえられる、のではなく、車椅子ごと抱きかかえられようとしたか?」。回答としては「そういうやり方でほかの航空会社ではだいじょうぶだったので」とのこと。そのあと身体を抱きかかえられるのではなく這いずって搭乗したのは当人の意志と選択によるもので、「海外の他の航空会社だとそれがふつーだし、いままでもそうしてきたし、それを屈辱とかと思うこともなくふつーだと思ってたので」との回答だった。それでもダメって止められたらしいのだけど。まあでもそこではそんなに喧嘩になったり、クレーマー的にふるまうこともなく、該当職員の方と手打ち的におわった、みたいな話を木島さんはされていた。

んでも大阪に戻ってから「そもそも最初の段階で搭乗拒否ってどうなの?自分で勝手に搭乗できるのに?」あたりでムカムカして国交省に連絡したらしい。メールやら電話やらで。まあたしかに、「介助とか必要ないなら最初から断るのどうなの?」とはなるだろし。つっても最初から断ってたかどうかはけっきょくはブラックボックスで、航空会社側のタテマエ的回答としても「そういう件で『一律に』乗車拒否はしておりません」ということだったけど。なので乗車拒否のケースも有り、その選択には航空会社側の恣意性があるということだけど。まあそこは営利企業だし、該当の法律的にも「努力義務」規定されてるので法律的には問題ない。いちお。ただやっぱこの件でガーッと言ってこられると嗚呼…ってなって国交省側が対応したらしい。5日後ぐらいに。そうするとしばらくして航空会社側からも連絡あって、謝罪とともに「今後は、簡易な車椅子昇降機付けますから」ということで手打ちになった、と。まあなので当人間では終わった話だったらしい。

いちおここでちょっと止まると、木島さん側もクレーム入れた理由として「(独力で乗り降りできるのに)最初から断るってどうなの?」を上げてたけどこれってあとづけで、本来なら(ゲリラ的にせよ)搭乗は(しぶしぶ)ゆるされていたので復路で問題がなければ木島さんとしても訴えることはなかったのだろう。ならば本当の理由は復路の応対にカチンと来たからということなのだけど、まあテクニカルにはこっちのほうが訴えにしやすいからなあ、というところ。いわゆる「当該交通機関の合理的配慮が必要ないのに乗車拒否されるのってどうなの?」ということ。「合理的配慮」というタームはこの分野を語る上でキータームになってるようで、それを巡ってのやりとりが係争上ではポイントになっていくみたい。合理的、すなわち、「航空会社側にもそれでペイされるか?やらコスパやらいろいろな事情はあるだろうからいちいちめんどくさい客にかまってられないだろうけど営利企業だし、んでも、そういった事情があるにせよ『このぐらいだったらペイできるよ』って教会はあるはずで、その範囲内で配慮すべきでは?」みたいなの。乙武さんも木島さんもそのへんを問題にしてたわけだけど。まあ本来ならバニラエア側も合理的配慮の範囲内で配慮してたのだろうし、復路まではいちお問題なかったのだろうけど復路で該当職員が強行にダメっていったってのが問題化した、のかなあ。。まあその強行にダメって言ったのにも現在のところ語られてないなんらかの理由があったりするのかなとおもうけど。あと、この件に関わった下っ端職員かわいそうだねえこの先も含めて、みたいなの。


まあこの件はここまでとして、これからの連想として。

けっきょくこれって当人間では手打ちで終わってたのにしばらくして朝日新聞の該当記者が掘り起こして記事にしたらしいのだけど、その際のやり方、焦点化の仕方が煽りっぽかったのだろうなあ。。「障害者に階段を這いずってあがらせて!」みたいなの。まあ自分も最初に見たときは(´・ω`・)エッ?逆蒲田行進曲か?とかおもったのだけど。そこでいろいろ切り落とされて、なんかみょーに「障害者にやさしくない社会」「障害者に優しくしろ」みたいなのが規範的にくっつけられて、「(障害者に優しくないのは安倍政権の弱者排除政策がー)」みたいなのが暗に含まれる感じでモラハラ合戦に燃料を注いでる、のではないか?まあとりあえず「障害者にもやさしくしろ」「バリアフリーを目指せ」というのは望ましいことだと思うのだけど現状不況で福祉政策的にもびみょーなかんじになってるわけだし、そのせいで福祉予算削られて補助金でないので営利企業としてもカツカツなのかなと思うのだけど特にこういう格安航空会社は。「そういう大々的な補助金でなくてもストレッチャー程度でよかったんですよ!」っていうのは後付な話で、こんな形で大騒ぎになったらけっきょくはご立派な昇降機を購入しなければならなくなり「それはペイできるのか?」といすみ鉄道の社長がいってたようなことが気にされるのだった。まあお上の査察が入って下手したら潰されることを思えば、ってことではあるのだろうけど。下っ端職員の命運が…(再)


で、

そういった流れがあったと仮定した場合、それが暗黙の下地になってモラハラ合戦続いてるのかな―、と。そんでその際の全体の差別と逆差別の構図、あるいはその構図を元にした権力の流れみたいなのをボケーッと思ったりした。読んでた本に絡めて。「読んでた本にからめて」な話なので以下はぼんやりとした話になるのだろうけどまあそれが思考であり試行であるのでm(_ _)m自分の試行的な思考なのでヒトサマに強いるものではないです。単に「思った」だけ。思うのは自由なので。

朝日新聞とか毎日新聞とかにそういった流れ、安倍政権打倒でー、みたいな流れがあるとした場合、それは菅さんのときに大コケしてマニフェストで勝負できなくなった民主党が「安倍政権はファシズムだ―」一本で戦うことにしたからかなーと思うのだけど、その選挙戦術?みたいな民主党戦術にマスコミも乗っかってステロタイプ的な言説が固定化してしまってるのかなーという印象がある。まあそれはひとつのやり方としてあっても良いのかなと思うのだけど、こういうのにもそういう影響があるとするとちょっとステルス的になっててイデオロギーぽいのでやめてほしい。。気づくまで遅くなってムダにモラハラ喧々諤々するので。逆に最初から「これはPRです」みたいになってれば「ああPRなんだねー」ぐらいで済ませれるし、わかっててそれを選択するのも自由だろうし。

サイード「オリエンタリズム」的にはこういうやり方もオリエンタリズムというか、一種の異化からの言説の膨らましなのだろうなあという印象。すなわち、かつて西洋(オクシデント)列強が東洋(オリエント)にエキゾチズムとともにみょーな偏見と期待をもったように、「リベラル」を聖化←異化するひとたちは最初からそれをみょーに聖化して一切の妥協をゆるさなくなる。そして、その反照としてそういった「リベラル」の規範に従わないものは野蛮で無知な下等民として扱うようになる。いわゆる「反知性主義だー」とか「もっと謙虚になりなさい」とか彼らがいう(わりには漠然としてよくわからん)あのへんの心性というのはそういう背景から出来てるのかなと思われる。で、特に生活的実態や実感とつながらない彼らの言説だけがみょーに暴走していき、それがゆえに内容がなく対話の取っ掛かりがなくなっていく。その流れに無自覚に関わった人たち、知識のない良心の人たちは彼らのモラハラをもって「自分はそういうのにやさしさをもてない『悪い』ひとなんだ…」と己を苛み反省する。彼らが言うように「謙虚に」なろうとする。結果として、四角四面の教条主義だけでは矛盾が生じても、あるいはちょっとした生活的違和感が生じてもそれは捨象されていく。そういった違和感をもつことは「悪い」ことなので。良心の人たちの「界隈」から弾かれたくないので。

なるほど、それが「権力」というものかなーとなんとなく思う。そしてその偏見にもとづいた文化領域への侵略こそ(ハードパワーに対する)ソフトパワー的な寝食なのだ。文化領域、というか、一定の規範とそれに基づいたモラルを人質としたモラル領域への侵食。文化領域へはその派生的な流れとしても侵食するのだろう。いわゆるりべらるな読み物として。そういう(対話不可能な価値)を中心とした文化領域(上部構造でありイデオロギー)を中心とした帝国主義的侵略というのはアメリカがある意味宗教国家といわれるのにも似てる。彼ら「りべらる」を自認するひとたちの規範とは宗教的な典範のようなものなのだろう。まあなので彼らのやってるのは宗教なのだ。岩波-朝日的なサヨク的なりべらる文化帝国主義。

まあもともと文化人類学とかも帝国的な軍による植民地支配のための研究領域のスピンアウトだしな―。予算としても軍のこういう研究が一番付くわけだし現在のアメリカでも。そのアナロジーからだとたとえば「リベラル」な文化帝国主義におけるわれわれ下等平民の位置というのはポストコロニアル的な抵抗ということになるのかなーとブレンジンスキーの古典を読みつつ改めて思ったりしたのだった。いやあ帝国主義帝国主義


































































































オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -
ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -



「鉄血のオルフェンズ」の終幕とガンダムサーガについて | m_um_u | note
https://note.mu/m_um_u/n/n2cf69d06e9d7


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2017年06月29日

バッド・リベラリスト


TL的にまだバニラエアを巡った話題がちらついててうぜえなと思いつつ、「なんでこの話題こんなに続くのかな?(みんないっちょ噛みしたがる琴線に触れるのかな?)」「それを『うぜえ』と自分が想ってしまうというのはどういうことなのかな?(そして思いつつも言及してしまうというのは?)」、というのをなるべく心根を中立にして問おうとしたときやっぱなんらかの権力がはたらいてるからなのかなーとおもった。まあそれはかなり抽象的に俯瞰したレベルからの話だろうけど、もうちょっと卑近に、最初にいっちょ噛みしたくなるのはそれをもって簡易にマウンティングなりなんなりしてうまいこといえるからだろうし、その「自己表現」をもって注目を集められるからだろう。あるいは、それ以前の先有傾向的にその話題に属することになんらかの文化・社会的アイデンティファイをしていて。その「縄張りを侵食された!」と判断して防衛機制が働く、とか。

そうやって俯瞰すると「強いられてるんだ!」系の話題なので特に言及しない / 言及するにしても事実レベル、あるいは、ニュースのファーストインプレッション程度にとどめ、そこに自身のなんらかの掛け金を乗せない、というのが賢いやり方なのだろうけどネット世界において。


たとえば自分がひとりでニュースを見ていた場合、あるいはネットとかかわらない一般世界でこういったニュースに触れた場合、たぶんそんなに引っ張らずにファーストインプレッション的な話題で済ます / 済まされるのだと思う。「ああ、そんな這いずるなんてことあったんだねぇ」「なんかすげぇな。。航空会社側が要求したものだとしたら」「そういうの起こらない方がいいよねぇ」ぐらいの。終局としても「航空会社がストレッチャー用意したんだね―」「まあそれなりに対応したんだからよかったよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー(中の人(特に下っ端)たいへんだっただろうけど」、ぐらいで終わる話。障害者に冷たいんじゃないの?みたいなこと言ってもそれが世の中のふつーだし、一般的にはニュースで伝えられる話題はそのように消化されてるし、不幸や差別はこういったこと以外にも日常的に転がっている。こういったことでことさらに話題にならない限り、あるいは自らのなんらかの掛け金をかけてプライド争い的な事にならない限りは特に気にすることもないし気にされることもない。自身が属するマイノリティ的な話題も。あるいはなんらかの不幸や実存的な課題が関わる話題も。「そういったもの」として流すし流されている。それがみょーに話題になり、マウンティングの仕合いで掛け金が上がっていくのは「ニュース」や「sns内のニュース」といった世論という権力に動かされているからだろう。まあそれが権力かどうかははっきりせず権力以外のなにかでも良いのだけどとりあえずそういった空間から離れた自分を想定した場合こういった事態はふつーではない。

まあそういった動態(があるとすれば)は別の機会に考えるからいいとして、今回の件で「掛け金が上がっていく」「カチンと来てなんか言及したくなる」ことの要因の一つとしてみょーな皮肉合戦があるように思う。それは一つ前のエントリでも触れたのだけど。本来なら、あるいは、特に関心もなく一般的な関心程度の話題であれば、事実を中心とした情報の交換程度で「へー」で終わる程度で良いはずのものにみょーに倫理と規範を乗せてくる。(一般人のふつーの態度として特に自己の実存をかけていない一般的な話題であっても)事実をベースとした対話によって対象事案についての正確な認識に近づき、ナンダッタラ問題が解決するといい(*´・ω・)(・ω・`*)ネーで済ますぐらいがふつーのはずだけど、最初からミョーに「○○しなければダメだ!」「○○が足りない!」とふっかけてくる。事実ベースではなく倫理ベースで。事実ベースではなく倫理ベースなので問題の構造的解決(の糸口)には繋がらず、いつまでたっても根性論的な精神論で終わる。結果的に玉砕して果てろというがごとくに。まさに一昔前の革命的な思考であり志向!やりがいの搾取というかモラルを搾取し人質にしているのだろう彼らは。そして彼らは下々には「もっと謙虚になれ」「謙虚にオレ(たち)のシソーを敬え」「ただしいシソーのもとに革命を行え」と説くのだ。結果として暴力革命以外のものが見えないような道筋で。対話ではなく暴力。それは今回もそういった傾向のひとたちが説く「正しい行動」のあり方を見てると伺える。「(空港側に対話を求めても最初からキャンセルされるのがわかっていたので)対話をすっ飛ばしてゲリラ的作戦で実効支配したのだ。それは正しい」。けっきょくそんなものなのだろう。


「対話には相手が応じないだろうなのは明らかなのでそれはすっ飛ばした」。そういった事情もあるだろうなあとは思いつつ、結果的に、そういった通常の手続き過程を踏んでいなかったということですよね?という疑問は残る。加えていうと、そういうゲリラ的な戦術でいきなり空港に現れて予約をねじ込んだとき、空港側から妥協策として提案されていた「(身体をお連れの方が)抱きかかえて降りるんですよね?」な約束も反故にされた。現地で降りる際に車椅子神輿でワッショイしたのを警戒したのか、帰路でそれはダメだと禁止したところでなぜ身体を抱きかかえて登らなかったのか?「身体を抱きかかえることも空港職員が禁止し帰りの便に乗ることを拒否されたからだ」ということかもしれないけれど空港職員側からそれを禁止したという話はでていただろうか?よしんば空港職員が身体を抱きかかえて登ることさえも禁止したとして、その禁止の頑なを招いたのは最初の約束を反故にされた警戒心からだったのではないか?まあ結果的に、このようなパフォーマティブなアクションをされ、それを大々的にニュースにされてけっこうなイメージダウンをされたわけだけど。客対応における「クレーマーが騒ぎ出すまえに菓子折りを出したほうがその後のイメージダウン損害を考えると安く済む」的なの。お客様は神様です上等な日本だとこういうのがふつーとされている。ドイツのふつー本とか読んでるとありえないだろうこういうのは。まあそのまえにPC的な配慮で障害者用の設備も整えておくのだろうけど。通常の、格安でない航空会社なら。



まあこの事案自体についてはそんなに詳細に触れるつもりもなくてここから思ったこと程度のことがメインに考えたいことなのだった。前回も少し触れたけど「なんでもうちょっと冷静に対話できないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」というのと「もうちょっと『正しいこと』以外の自分のホンネを出してもいきなりガーっとやり込められることもない空気にならないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」ということ。そういった正しいことの「理想」と自分たちの生活的現実的ホンネとの止揚にこそ生活にもとづいた思想性と民主主義があるように思うのだけど。

「なぜそれができないのか?」ということについては「日本人はそういった冷静なディベートの訓練が積まれてないから」というのはよく言われるのだけどあまりそういった「海外ではー」という出羽守的なことをしたくないなとおもいつつ、まあたしかに、自分の経験的にもらくだオランダ人なんかとそういう話してるときは本格的に対立することもなかった。彼はオランダ人のくせにファシズム好きで、軍国主義時代の日本好きで、首チョンパ的なアレゲがすきでファイナルファンタジーほか日本のヲタ文化好きなアレげであり自分からは違和感をちょこちょこ表出してたのだけど。基本的にオレ、リベラルだし。特に喧嘩にもならず「そうですかー そういう考えもあるですねー」と意見交換しつつ笑いあっていた。まあそれは自分が先輩、彼が後輩的な立ち位置というのもあっただろうけど。あまりそういうの関係ないよな欧米人は。



とりあえずもうちょっとモラハラ的な皮肉合戦以前に事実ベースでの対話であっさり終わらせられないのかな―とか思ったりする。あっさりでなくてもどっぷりでもよいのだけど。そして、事実の交換だけではなく「そのように世間は言っても自分は違和感ある」的なホンネ開陳でもよいのだろうけど。それが誤っているなら対話を通じて修正していけばよいのだろうし。事実ベースで。なぜ最初から喧嘩腰に、あるいは嫌味や皮肉気味に牽制して煽るのか…。まあそんなこといいつつ自分も結構そういう嫌味はしてる(むしろしてる)のだろうから人のこと言えないだろうし反省するのだけど。




そんなことを思っていたらこういうのって少しまえに読んだ「バッドフェミニスト」の紹介記事でいってたことなのかなーとおもった。まあ紹介記事だから同書で書かれてることそのままでもなく紹介者の我田引水的なところもあるのだろうなとは思うのだけど。あの記事やアマゾンレビューから伺える「バッドフェミニスト」のエッセンスなところとしては「『正しい』のはわかるけどホンネで語っちゃダメなの?」ってことだったように思う。ホンネで語るっていってもいきなり過去の『ただしさ』あるいはポリティカル・コレクトネスに形成されていった規範を前面撤回するということではなく、その範に則った上で「でも、実際の生活ではね…」って修正していくこと。「こういうことも思ったりするよね(世間的には『悪い』っていわれるのはわかってるけど」ぐらいの。

そういうことを通じて、過去の世代が築いてきた規範や慣習を現代的に修正していくことが大事なんじゃないかと思うんだけど。そしてそういう形で両極に落ちず?に踏みとどまるほうがけっこう辛いように思う。一方に触れればかなり楽だろうけど。


まあとりあえず同書は読もうと図書館に予約した(明日には用意されてるはず)。「ブリジットジョーンズの日記」の続編も見よう。なんとなく。(鈴木涼美さんは保留)

















































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posted by m_um_u at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク

2017年06月28日

バニラエアのうんたらでノマノマv( ̄Д ̄)v イエイ


朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。

元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO]
http://www.dokujo.com/entertainment/62444.html

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。



(あまり時間かけてブログするのもなんだからこういうリンクとか引用もなるべくやめようとおもったのだけど日記風にまとめてるだけだとしばらくたって読み直すと当時に当然と思ってた話題の詳細がわからんくなるのでアーカイブ的に)

今井絵理子さんの言ってることは昨今のついったーなどでの「クソリプやめろ」とか「年上男性による説教はマンスプレイニングにすぎないのでやめろ」みたいなのと同じことだと思うのだけど。単なるマウンティング的なクソリプがうぜえってのはたしかにあるけどFF(ふぉろーふぉろわれ関係)外からのリプのだいたいをクソリプとしてるようなひとたちもいてそれってどうなの?みたいな狭量さを思ったりもする。こういうのが昨今のfbなどでの閉じた世界とフェイクニュース的な「うちら」真実のエコー・チェンバー的な涵養の土壌になってるのだろうしなあ、とか。まあそのへんについてはもそっと現代若者論とか社会学とかからの詳細をもって相対化していく必要があるかと留保を入れるのだけど。それとはべつに「正しい批判と単なるdisの違い」みたいな話がある。

ただしい批判というのは研究界隈ではよくある「テーマそのものに対する疑義をもって対立意見を出し、対立した意見をもったものと一定の論拠を通じてテーマとなる事象自体の真実に近づいていこうとする」もの。「批判的(critical)に検証する」なんていうときの「批判」はそうだし批判理論なんかはまさにそういうのが前提じゃないと成り立たない名称だったんじゃないかと思うけど詳細忘れた。まあウィキペディア見れば載ってるのだろう(本件でそんなに重要な事ではないのでぐぐらないしりんくはらないけど)。

で、

そういった立ち位置をあらためて反省的に思い出したのでよぉ〜し、オレもff外からのクソリプとか喧嘩腰外交とかでもテーマに沿って対話につとめるぞーとかおもってたのだけど…。まあ下にまとめた該当ついーとのアーカイブをみても分かるように結果的にみょーに喧嘩腰に来られて、テーマ(の修正を通じた理解とか)は深まらず、なんだこのひと?みたいな不毛さと不快さのみをのこしてりぷらいの応酬は終了したのだった。まあついったーらんどではいつもの光景なのだけど。「野間さんにたいして、おれも偏見あったかもだからちゃんと話してみるかー」とか思った結果がこれだよ。。とか思ってアレだ。。まあいいんだけどテーマになった事案である障害者の生活とかバリアフリーの実際、その不利益とかに比べると大した話でもないし。

んでも、こういうご大層な?テーマを扱うときにそのひとがその大層さに酔って、目の前の、自分自身の暴力は看過するというのはどうにかならないものかなあとかおもったりする。まあ暴力というほどでもなくて失礼でありハラスメントなんだけど。じっさいに嫌な思いしたし。この件に関して、対象となった事案や障害者のひとにはとくになにも影響はせずたんにオレの嫌な気持ちが残ったというだけは現実であり事実なんだけど。


それにしてもなんで野間さんいきなりリプしてきたかな―。エゴサーチしてるんか―やっぱ、とかは思うのだけどエゴサーチはまあいいとして(自分はしないけど)、朝に小山エミさん関連の野間さん話をしてたのが一番ポイントだったのかな―とあらためて思った。『野間さんが影響受けたという小山さんによる差別の構造的問題な説明。「付け焼き刃な親切は却って構造的矛盾を助長するとこがある」というのは首肯できる面があるところもあるけどドブ板な現場レベルではマンパワーに期待されているのでまあ理想論だなと』あたり。「障害者排除などの構造(アーキテクチャ)的な矛盾が目の前にある場合は、ヘタに周りの人が親切してその溝を埋めてるといつまでたっても問題は解決しないので構造的欠陥は放置しておいて矛盾を訴えるべし」ということかとおもうけど、そんなこといっても実際にはたらいてる現場とか生活の現場でも上のレベルがアホで馬鹿だから進まない構造的欠陥があった場合現場レベルで対処していく(とりあえず)というのがふつーだからなあ。。そして、それとはべつに構造的欠陥をなおすように上に訴えるわけだけど、内部での訴えだけけだと潰されるので労基とか頼ったりってのはありつつ(労基に匿名で訴えてもびみょーだから退職時に最後ッペ的にやるかどうかはその人の良心次第みたいなのもあるけど)。


まあなので、野間さん自身はこのへんがカチンと来て彼のやり方の本質的なアレさを批判されたのかということでふっかけてきたのかと思うに、彼が「油断あり」と踏んだ箇所がそんなに鉄板で弱い箇所でもなかったので、って感じだったのだろうか。できれば彼の「目的のためには手段を選ばない(暴力には暴力(あるいは場外乱闘的手段)で対処する」なやり方の是非を聞きたかったけど。人となりはあらためてわかったのでこれ以上、話すこともないのだろうな。スパム報告したし。


そういったやり方が有効、あるいは必要とされてきたのは差別がふつーな昔、あるいは現在でも差別がふつーな環境では理性的な対話や要求そのものが通用しないという現状があるからかもだけど、んでも、だからといって最初から対話を飛ばして暴力的なやり方に訴えていたら単なる暴力な人になるだけのように思える。彼の場合は特に、大義名分をもとに己の暴力性を発散したいだけにもみえるし(あるいはそれはたんに偏見で、彼の中の『ただしい』『ただしくありたい』な公正世界的な規範がつよすぎて人を寄せ付けないだけなのかもしれないけど。


蛇足的にいうとさっきえねーちけーのニュース見てたら当該のバニラエア航空の件をやっていて、「(そもそも規定で乗せられないことになってるけど例外的に乗せたのは)タラップの乗り降りの際に付き添いのひとたちが『(身体を)抱きかかえて』乗せるという話だったかと思っていたのだけど、現地についてみると車椅子ごと抱きかかえて危ないと判断したので止めたところ…」みたいな話だったバニラエア側からとしては。帰りの搭乗でも車椅子ごと抱えて上がろうとしたらしい。まあたしかに車椅子に乗せたまま抱きかかえてたら不安定だろし、ふつーに搭乗だけが目的なら周りのお仲間に身体を抱きかかえられて登ったほうが穏便に済むはずだからなあ。。バリアフリー運動のひとつってことだったのだろうけど。これをもって「プロ市民m9(^Д^)」とか「障害者めいわくかけんなm9(^Д^)」とかいうのも違うだろうしそういうのに与したくはないのでモニョーンとしたりはするのだった。

できればふつーに要望と対話をつうじてそういったものが改善されていく社会が良いのだけど。まあデフレで不況ってのもあるからなあ。。それで格安航空だから予算なかったってのもあるし。






































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2017年06月23日

「現代ニッポンの論壇事情」とやらを読みました


話題になってるので気になりつつ座談会的な本なので読み散らかしてスルーしよかな雑誌的に、ぐらいで読み進めたのだけどおもったよりモニョンとしたものが残ったのでなんとなく日記で吐き出し。

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -


モニョーンの理由は本書雑談の品の悪さというか、居酒屋なんかで話しつつ界隈を貶す様子のスノッブさとウチワな感じに既視感を覚えたので。ああいうときのスノッブな知性・知識をカサにきた陰口悪口連帯というのは打ち解ければおもしろく気持ちのよいものなのだろうけどそこから疎外されるとなんともゲヒンに映る。彼らはそのゲヒンさを認識できないのだろうけど、それは彼らが悪口をいう連中に自分が親和性を持ってるから、ということでもなく単にゲヒンなのだ。

んでも本対談というのはそういうのを前提にしてるからこそおもしろいというのもあるのだろうけど。実際、安全圏からのぞく彼らの界隈語りというのはおもしろく「ああ、あの人(たち)って業界でだいたいそういう位置にあったのかあ。。」などと学びがある。まあ彼らのスコープからというのもあるだろうけど「だいたい」なところで。

そういう学びはあるにせよ本としての知識的充足は感じられない。その意味で実がないのが本書で、「本」と書くのもためらわれるのでところどころ「対談」とか「雑談」とかしてるのだけど「最初からそういうつもりでまとめたものだ」といえばまあそうかあ…ということではあるという繰り返し。

実の部分として期待される、あるいは前提となっていたのは安倍政権に代表されるマクロ経済政策(その中でもリフレ政策と俗に呼ばれる財政・金融政策)の知識であり、それらを前提とした福祉・再配分政策であった。あるいはそれが実際に実行されそうになってる?イギリスの現状、そこに至る世間の空気感とか現状について、とか。要するにこの2つの本が前提となってる。

この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


実の部分としてはこの2つを読んでおけば特にこの対談本は読まなくて良いかなという感じ。松尾さんの本でリフレ政策の機構を簡単に学習し、それが福祉や所得再分配と矛盾しない(むしろ量的緩和などで国債買い上げでゼロから作ったマネーをそこに投資するという公共政策ができる)というのが学べる。ブレイディさんの本ではそれが実際にイギリスで実行されそうになってる?というのが伺える。労働党コービンの躍進によって。あるいはそういったサヨク・リベラル周りの空気とかサヨク的なものとナショナリズムが矛盾しないとか諸々。(サッチャー→ブレア、シュレーダー→とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。メルケル的な)緊縮財政によって生まれる貧困家庭の様子とか。

まあそれとは別にこの対談の実というのは現在の日本の論壇周りの俯瞰、一定の観点からのマッピングというところではあるのだろう。あるいは(論壇の中でも)どうしようもない経済音痴・アレルギーな老害たちによる空想的リベラリズム批判。要するに内田樹を筆頭とした「9条を守る会」とか「反知性主義打倒」な連中。あるいは上野千鶴子とか宮台とか。現在の日本の論壇の中心が岩波・朝日的な流れからなのかそういった連中を中心に視野狭窄したものになっていることの批判。特に彼らはなぜか経済政策に言及しないね?ということについて。つまり現政権を批判しても対案を出さない。その心性、根拠とはどういったものか?ということについて。そのあたりの結論としては「彼らは既に金持ちなお年寄りで、現在は金持ってるから貧困層の苦しみとか考えなくて良いし、自分たちの若いときの記憶といえば日本が豊かだった世代のそれに当たる。そして、それが雇用売り手市場の若者とマッチするのでSHIELDS連中をもてはやす」というもの。「−y( ´Д`)。oO○いまのロスジェネ世代は日本最弱で皮肉ばっかうまくて使い物にならん(大意)」とか発言してしまった内田樹周りについてはまあそうなのかもなーと思いつつも上野千鶴子その他についてはびみょーなんじゃないかなーとも思った。北田さんは上野もそういった連中の一人として「彼ら豊かな世代が経済政策についてはきちんと対案出さずに、とりあえずアンチだけ言ってれば良いと思うのは『経済なんか放っておけば回復する』とおもってるからなんですよ。ようするにレッセフェールです」ってことでそれこそが緊縮財政的発想の源泉としての新自由主義的なものにつながるのにって結論づけてたけど、単に思想的にそこまで突き詰めてないだけなんじゃまいかとかおもったりした。つまり「経済政策的に対案を出すことは自分たちの役目ではない」「対案を出さずともNOはいっても良い」ぐらいの。あるいは上野さんの場合はギデンズとかトッド、バウマンとか読んでそうな雰囲気もあるので、ギデンズの政策的な部分、あるいはトッドのそういったものとかに影響受けてるんじゃまいかと最近の発言でもおもえた(移民がどうとか、人口トレンド的に日本がどうとか)。そうだとするとギデンズのEU本的なもので展開されていたあれを念頭するに、そこでもリフレ政策とかははっきり言っておらず、全体的にいろいろリストラクションしてお金を生み出すみたいな発想だったように思えるのでそのへんなのかなーぐらいな印象。まあそういうのも買いかぶりなのかもだけど。
揺れる大欧州――未来への変革の時 -
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あと、この対談(というか主に北田さん)の前提として松尾匡-リフレヽ(´ー`)ノマンセーな前提にしすぎな雰囲気が感じられたのだけど、リフレ政策もそんなに万能でもなくひとつの考え・チャレンジの一つ程度なんじゃないかなーという印象。たとえば現在だとそれが有効なように思えるけど、バブルが終わってマイルドデフレになってきたころすぐにこれをやらなかったのはふつーにインフレこわいねってのがあったからだろうし、ほかにもなんか指標・経済政策的なオルタナがあるんじゃないかなーという印象。まあ学習進んでなくて印象程度なんだけど、自分的にはこのへんもそっと学習していきたい。

学習ついでにいうと労働(雇用)研究周りと経済政策をつなげて考えたりとか、筒井淳也さん周りを読み進めたりとか。後者はギデンズ関連からの家族社会学、アイデンティティの変容とか考えるうえでも課題図書になってたけど。


ふたたび本対談に戻ると、(自分の見方もあるのだろうけど)けっきょく北田さんを中心とした集まりで、そうすると北田総括ということになるかなとおもったのだけどそのあたりは甘い感じがした。要するにしばき隊的な反ヘイト運動へのコミットとかどういうつもりだったの?あとそこからのサヨク(てか日本的りべらる)的なぬるさはどうなの?というのを後藤くんあたりがもうちょっとうんたらかんたらするのかと思ったのだけどそこは案外スルーだった。まあそれはしばき隊的な流れが安倍政権打倒に流れ、SEALDsと合流する中で違和感して離れていった / 最初はヘイトと直接的暴力はダメだろ―ってとこだけで部分的に賛同してただけ、とかいうことなのかもだけど。たとえば「彼らの運動は具体的な政治的影響力に通じていかない、たとえば経済政策→福祉政策への理解の無脳ぶりに辟易した」みたいな。そういうのはかつての民主党への政策提言集まりのときにも出されてそのときの提言はリフレ的なものと再分配的なものが加わったアベノミクス的なものにも近かったともいえたらしいのだけど(けっきょくは実行されなかった)。

そういう意味では十把一からげに「サヨク」とか「りべらる」とかでm9(^Д^)されがちなひとたちもちゃんと考えてる層とそうじゃない層(経済政策とか対案とかまったく受け付けない層)がいるということの再確認やら俯瞰やらはできるね、という対談本でもある。本書では後者が「経済政策を受け付けないのは彼らが既に豊かであり、豊かであることを前提にしたレッセフェールだからだ」としてるけど自分的にはもそっと変な理由があるんかもなーとか思ってる


本書の伏線とか、あるいは伏線としての本書があるとして旧論壇打倒・現在のアカデミズム正統でフルボッコ検証してやる宮台・東的な具体としてはこの本があったように思うのだけど

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -


自分的には「計量もできるようになったよ―(∩´∀`)∩」的な感じにしか見えなかった。統計分析な具体な章の結論がどうしても地味だったので。テーマ的には宮台・東的なものがどうしても主にあり、それを批判的に検証というだけだとどうしてもそっちの視角がメインになってるように思えた。それは自分がブルデュー的なものにもそっとアイデンティティの変容について考える材料をもとめていたというのもあったからだろうけど。ついったなどにも見られるような後期近代的なアイデンティティのゆらぎと再帰性によるクラスタ(界隈)の自己言及的な固定化。最近だとエコーチェンバーとかフェイクニュースがどうとかいう現象がそういったものの一部に当たるのだろうけど。

そういったマイルドに階層?分化し、エアリプ嫌味とばすぐらいで、ディスコミュニケーションが広がっていく社会に対して。あるいはそういった社会を基層としたとき、ロスジェネを含んだ貧困や社会的な不安や困難の声 - 改革を求める意志がどの程度、社会全体にとどくのか?ということについて。とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。「貧困層ほかの声が届くようなアクチュアルな期待もリアリティもない」ということだと本対談も同じで、たとえば北田さんほかはサヨク的な言説を唱える旧世代論壇のグループ性を「彼らはネームバリュー/数字持ってるからね―−y( ´Д`)。oO○内容なくても」的に批判してるわけだけど、それいうんだったら自分たちも似たようなもので、その「数字」をもとに出版資本主義/編集者に選別され、その地位から「ネット論壇程度のものはねーw」みたいなこといってるわけで…まあ入れ子構造の似たようなものだな(人気者の席に誰がすわるかが変わるだけで)という白けた印象しか残らないのであった。

それとは別に貧困層や社会で問題を抱える層の声が届くかどうか?という問題。粛々と日々の労働・生活を送る人々(サイレントマジョリティ)の声が政治的に還元されるかという問題に対して。特にきちんとした理論建てじゃなくてもブルデューがアルジェ → フランスから見ていた問題意識のようなものをそのまま日本の貧困層 → 金持ちブルジョア層としてポスコロしてもいいのかなーとか。

「声」のアーキテクチャ的にはシェア的な流通プラットフォームの整えとハンドリングってとこなのだろうけど、それはだいぶまえからいわれていて相変わらずうまくいってない。まあ従来の出版資本主義の人気者的なひとが「降臨」し、数字ーネットワーク外部性を引っ張ってくる、とかなのかなともおもうけど。そういうところだと従来出版資本主義がきちんとそういうひとたちを囲い込み(ロックイン)して「(ヽ´ω`)…りべらるとかいってるけどやってることはエグいよね。。」みたいなのみせつけるのだろうけど。まあ「食える」レベルの報酬は別にして、まともな言論が流通する場の継続的な維持ということだとやはりビジネス的なものが関わるのだろう。


そういう意味では自分で掘って見てくしかないかな―(あまり期待しない程度に)とか思うのだけど、とりあえず知識人 - 反知性主義辺りのアレとしてこのへんからかなー。


オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -



[書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2017/06/30-1ebb.html

池内恵の「反知性主義」依頼原稿への不快からの論壇disと解説
https://m.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203927148938140



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2017年06月18日

取らぬ狸の管さん用


昨日の朝にジョギングしつつなんとなく思ってたこと、「安倍政権憎しってやってる人たちに伝える言葉 / 対話のトバ口とかないのかなあ。。たとえば松尾さんの『この経済政策が民主主義を救う』なんかは『安倍政権に勝てる方法』て副題もついててわかりやすいだろうに」「んでもそもそも彼らはそういう対案的なものは考えてなくて、オイルショックや3.11原発事故→被爆の不安のときのようにフォビアになってるだけで、集団ヒステリーとか神経症みたいなものなのだろうしなあ。。そういうのも誹謗中傷的な見方といえば見方なのかもだけど。んでも一種の不安神経症みたいな感じで『戦争内閣絶対反対!』て耳に残りやすいアレがこだましてるんかもなあ。。だとすると心理学と社会心理学的な観測が必要なのかむしろ」、とかをもそっとちゃんと書き残しときたいなあと思って該当twアーカイブしよかと思ったけどSeesaa blog からでは既に届かず。。200件先までしか追えないのか。

まあとりあえず、昨今TL的にチラチラ出てくる「サヨクのみなさんも経済政策をまなんで」とかいうのもあまり意味がなくて、彼らにとっては最初から「戦争ぜったいダメ><」だけがあたまにあってそれ以外のものは詭弁てスタンスなのだろうから対案とか優先順位とかトレードオフみたいなのは通用しないのだろうなあとかなんとか。

たとえば安倍政権に対してはわれわれ周りの人たちのスタンスだと「タカ派で阿呆みたいなところあるけど量的緩和を持続的にやるというのは確かだからその辺だけは期待するしかない」という「タカ派アホ < リフレ政策の持続」というトレードオフをもとにした消極的賛成が発生してるわけだけどそういうのも彼らにはないみたい。繰り返しになるけど経済的な思考-政策というのはすでに「詭弁」とでもとらえられてるのかもしれない。たとえば「新自由主義で切断していく内閣だー」みたいな見方もちょっとまえにあったし。まあそれいうなら量的緩和に踏み切る前の内閣である旧民主党政権のほうがアレゲだったんじゃないかと想うのだけど、管さんがビビって量的緩和ストップするまではマニフェストとやらにのっとって福祉政策とかもいろいろやろうという構えだったのかもしれしれない。まあよく覚えてないのだけど。ちなみに福祉政策切断新自由主義としては小泉構造内閣のほうがひどかった。管政権以降は財源なくてそういう政策もできなかったようだし。

マニフェストと言えば管さんのとき以来、民主党から「マニフェスト」というアピールが消えたように想う。そういうことは長嶋さんも言ってたのだけど、「かつての民主党は政策でたたかおうとしてたけどいまは『戦争内閣絶対反対!』みたいな印象操作だけだし、森・加計問題みたいな政策ではなく政局(SCANDAL)みたいなとこでみょーにがんばろうとしてるし。。正直見るに堪えない」、みたいなの。まあでも直近の内閣支持率も落ちたようだからある程度効果はあったのだろうけど。そのヨコで「次期政権はいよいよ麻生内閣か?」みたいなのも出動してたり。まあ正直、いろいろ問題あり印象も悪くなった安倍内閣よりは麻生内閣のほうが良いよなあ。。経済政策的にも麻生さんのほうが主導だったんじゃないかと想うし。

「あれ以来、野党がみょーに『戦争内閣!』て煽るようになった」ついででいうと、それがマスコミにも影響し、そういうのがTwitterほかにも影響したのかなあとかおもったりもする。Twitterて最近までここまでウヨサヨ的な政治的な話題というか、分断、敵か味方かみたいな殺伐ってなかったように想うのだけどさいきんみょーにこういうのでギスギスしてるし。まあこういうのも実際に統計なりなんなりとってみたら意外と違ってたりするのかもだけど。

んでもやっぱ安倍政権ニクシ、というか、戦争内閣不安みたいなのでフォビアだかなんだかドリヴンしてる人たちってみょーに意識高いというかセンシティブになってるとこがあるように思えて、たとえば昨今の共謀罪なあれでも詩織さんなあれでも。共謀罪なアレは国際的なテロの不安とその協調のための関係として設定されたものだとしたら安倍政権ではなくても成立していただろうし、そもそも実行においては警察・公安機構がやるのだろうから政府とは直接関係はないのだよねえ。。まあそれは彼らからすると「タテマエであり、実際になると政府から権力が発動し、『なにか上からの命令だ』ってことで超法規的なアレがナニするのだ!戦時中の特高警察みたいに!」とかいうのだろうけどそんなこといってたら信号が青でも「車が来るかもしれないだろ!」とかいって渡れないのだしねえ。。まあでも政府と直接に権力的な癒着があるとしてもないにしても現在の日本の警察機構の問題というのはあってたとえば取り調べにおける密室性と市民の基本的人権いきなり剥奪的な横暴とか、一回警察が目をつけるとメンツにかけて叩き潰すために圧迫尋問みたいなことして無理やりイエスを引き出すような手法とか。そういうのは詩織さんのケースでも問題になってたようだけど(まあ彼女の場合は容疑者としてではなく被害者として告発してもひどい調査内容だったということだけど)。そういうの考えると問題は日本の警察のそういう部分ということで、それは政権変わっても共通するところなんだからそこから改善叫んだほうがよいのでは?と思うのだけど。

あと、「戦前・戦中と同じだ―」「ヒトラーみたいだー」とかいってもドイツにせよ日本にせよそもそも開戦を決断せざるを得なかったのは不況かつ国際的な経済協調からハブられたからであり、不況が問題だったのだから経済政策とか気にして不況にならないようにしたほうが良いように想うのだけどそういうのが通じないのだった。

まあでも、そういう警察の問題にしても、安倍総理や一部の自民党の政治家の阿呆な側面にしても、政党変わっても普遍的問題ならばそういうのを彼らがウォッチドッグしてくれてるのはそれなりに役に立つのかな―とか意識を変えるといいのかなあとも思ったりした。






現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
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この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 -
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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書) -
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世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫) -
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リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話 -
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2017年06月16日

「しかくいにかくが『まあるく』おさめます」


ジョギング行ってきたので汗が引くのを待つのがてら昨日のtwをメモ的に。

一つ前のエントリにもかぶる内容なのだけどけっきょくネット上の、あるいはついったになってからその速度がより上がった感じの丁々発止というのは知識を資本としたマウント(オレ(たち)のほうがえらい / おまえ(たち)はバカ)合戦みたいなとこがあって事実にもとづいた意見交換・理解促進というわけではない。「ネット(Twitter)はギロンに向かない」とかいうけどネットとかのツールが問題なのではなくて最初からそういう姿勢なのでギロンとか対話にならないんじゃないかと思う。ネットあるいはTwitterというアーキテクチャ、場にそういうのを促すなんらかの要素があるのかもしれないけど。でも、いつの間にかそういう「事実交換以前に馬鹿にする」みたいなスタイルがふつーになってしまった。たとえばたかが政治・経済の話でそれがその人の全人格的要素、魅力につながるものでもないものでもそれで少しでも知識的に劣ると一気にm9(^Д^)とする風潮。ちょっとそういったことでふつーの疑問を投げかけただけで○○警察みたいなのが来てモヒカン的に刈り取っていこうとする殺伐。そういうのは幼稚でもったいないことだなあと。

まあそう思ったのもこないだsession22でそういう話してたのの影響受けたのかなあとも思うのだけど。「昔のぼくのブログみると文末に草生やしてて恥ずかしくなる。聴衆を意識してそういう振る舞いをすることで『自分のほうが優位に立ってるんだぞ』と見せるような印象操作。いま、過去の自分に言えるとしたら『そういうのはやめたほうがいいぞ?』と言うと思う」みたいなの。あと「ネットでの発言の変化・同一性ってどこまで許されるんでしょうね?人は変化するものだと思うのだけど公人でもない私人の過去のブログ発言を見つけてきて現在の違いを矛盾としてあげつらうようなの。政治家などの公人でもない私人にはそういうのに付き合う義務も責任も本来はないわけだけど」みたいな。まぁ、チキさんは一気に成功しちゃったので昔とも環境が変わりそれに伴い変化するものもあったのだろうし、「金持ち争わない」的な余裕のもとにそういうこと言ってる側面もあるかなあ(ヽ´ω`)…成城トラカレも遠くに来たもんだ、と遠い目したものだけど。


話を元に戻すと知識資本と嘲り合い(マウント合戦)みたいな話。

自分的には<それによって彼らがなんらかのアイデンティティ-縄張りを確認しあってる ← なんらかのアイデンティティをそうやって確立する必要が無意識のうちに生じてる?>みたいな視角がある。その大きな背景としてはギデンズがいったような後期近代化による変化の影響というのがあるのかなと思うけど、なにがどうなってそういう風になるのかはまだよくわかってない。のでこれからおべんきょーしていく予定。ブルデュー、マルクスなんかも交えつつ。あるいはアイデンティティゲームというところで発達心理的なものと幼稚性みたいなのも見てくかも。


優越感ゲームというのはネット全体の現象というか、ついったとかでも政治経済(というかウヨ/サヨレッテル貼り合い)系以外の話題でも生じてるのだけどフェミ/ヲタ(ミソジニー男性)とか。直近だとウヨ/サヨがわかりやすかったのでそういう例として。

そして、誰かが図示して言ってたけど、「こういうのって双方の属性の一番上のところにえらいひと・知識がある人がいて最下層に知識がないひとがいるのだけど、知識がないひとが阿呆な発言をしたのを片方のえらいひと・知識がある人が拾い上げ相手方陣営全体を『バカm9(^Д^)』てラベリングすることで不毛なディスコミュニケーション・煽り合いしてる」、って感じ。まあバカサヨク / バカウヨクみたいなのが双方にいてどうしようもないなと。そんでそもそも知識がある程度あればそういう属性をかぶってバカに足を引っ張られてく不毛みたいなのもわかってるはずなんだけど。いわゆる「運動」なんかでもそういった連中のせいでぐだぐだになってくわけだし。まあ「オレはウヨクとか保守とかになったつもりはないよ?周りが勝手にそう見て攻撃してくるだけだよ?」ってのもあるかもだけど(二項対立でしかものが見れない連中)。




















ついったーも「丸くなった」ようなのでこういう人たちもそろそろもうちょっと丸くならないかな



ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
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スコットランド狂想曲:経済とスピリットはどちらが重いのか(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



スコットランド狂想曲2:市民的ナショナリズムと民族的ナショナリズム(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
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posted by m_um_u at 07:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記このエントリーを含むはてなブックマーク