2017年06月28日

バニラエアのうんたらでノマノマv( ̄Д ̄)v イエイ


朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。

元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO]
http://www.dokujo.com/entertainment/62444.html

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。



(あまり時間かけてブログするのもなんだからこういうリンクとか引用もなるべくやめようとおもったのだけど日記風にまとめてるだけだとしばらくたって読み直すと当時に当然と思ってた話題の詳細がわからんくなるのでアーカイブ的に)

今井絵理子さんの言ってることは昨今のついったーなどでの「クソリプやめろ」とか「年上男性による説教はマンスプレイニングにすぎないのでやめろ」みたいなのと同じことだと思うのだけど。単なるマウンティング的なクソリプがうぜえってのはたしかにあるけどFF(ふぉろーふぉろわれ関係)外からのリプのだいたいをクソリプとしてるようなひとたちもいてそれってどうなの?みたいな狭量さを思ったりもする。こういうのが昨今のfbなどでの閉じた世界とフェイクニュース的な「うちら」真実のエコー・チェンバー的な涵養の土壌になってるのだろうしなあ、とか。まあそのへんについてはもそっと現代若者論とか社会学とかからの詳細をもって相対化していく必要があるかと留保を入れるのだけど。それとはべつに「正しい批判と単なるdisの違い」みたいな話がある。

ただしい批判というのは研究界隈ではよくある「テーマそのものに対する疑義をもって対立意見を出し、対立した意見をもったものと一定の論拠を通じてテーマとなる事象自体の真実に近づいていこうとする」もの。「批判的(critical)に検証する」なんていうときの「批判」はそうだし批判理論なんかはまさにそういうのが前提じゃないと成り立たない名称だったんじゃないかと思うけど詳細忘れた。まあウィキペディア見れば載ってるのだろう(本件でそんなに重要な事ではないのでぐぐらないしりんくはらないけど)。

で、

そういった立ち位置をあらためて反省的に思い出したのでよぉ〜し、オレもff外からのクソリプとか喧嘩腰外交とかでもテーマに沿って対話につとめるぞーとかおもってたのだけど…。まあ下にまとめた該当ついーとのアーカイブをみても分かるように結果的にみょーに喧嘩腰に来られて、テーマ(の修正を通じた理解とか)は深まらず、なんだこのひと?みたいな不毛さと不快さのみをのこしてりぷらいの応酬は終了したのだった。まあついったーらんどではいつもの光景なのだけど。「野間さんにたいして、おれも偏見あったかもだからちゃんと話してみるかー」とか思った結果がこれだよ。。とか思ってアレだ。。まあいいんだけどテーマになった事案である障害者の生活とかバリアフリーの実際、その不利益とかに比べると大した話でもないし。

んでも、こういうご大層な?テーマを扱うときにそのひとがその大層さに酔って、目の前の、自分自身の暴力は看過するというのはどうにかならないものかなあとかおもったりする。まあ暴力というほどでもなくて失礼でありハラスメントなんだけど。じっさいに嫌な思いしたし。この件に関して、対象となった事案や障害者のひとにはとくになにも影響はせずたんにオレの嫌な気持ちが残ったというだけは現実であり事実なんだけど。


それにしてもなんで野間さんいきなりリプしてきたかな―。エゴサーチしてるんか―やっぱ、とかは思うのだけどエゴサーチはまあいいとして(自分はしないけど)、朝に小山エミさん関連の野間さん話をしてたのが一番ポイントだったのかな―とあらためて思った。『野間さんが影響受けたという小山さんによる差別の構造的問題な説明。「付け焼き刃な親切は却って構造的矛盾を助長するとこがある」というのは首肯できる面があるところもあるけどドブ板な現場レベルではマンパワーに期待されているのでまあ理想論だなと』あたり。「障害者排除などの構造(アーキテクチャ)的な矛盾が目の前にある場合は、ヘタに周りの人が親切してその溝を埋めてるといつまでたっても問題は解決しないので構造的欠陥は放置しておいて矛盾を訴えるべし」ということかとおもうけど、そんなこといっても実際にはたらいてる現場とか生活の現場でも上のレベルがアホで馬鹿だから進まない構造的欠陥があった場合現場レベルで対処していく(とりあえず)というのがふつーだからなあ。。そして、それとはべつに構造的欠陥をなおすように上に訴えるわけだけど、内部での訴えだけけだと潰されるので労基とか頼ったりってのはありつつ(労基に匿名で訴えてもびみょーだから退職時に最後ッペ的にやるかどうかはその人の良心次第みたいなのもあるけど)。


まあなので、野間さん自身はこのへんがカチンと来て彼のやり方の本質的なアレさを批判されたのかということでふっかけてきたのかと思うに、彼が「油断あり」と踏んだ箇所がそんなに鉄板で弱い箇所でもなかったので、って感じだったのだろうか。できれば彼の「目的のためには手段を選ばない(暴力には暴力(あるいは場外乱闘的手段)で対処する」なやり方の是非を聞きたかったけど。人となりはあらためてわかったのでこれ以上、話すこともないのだろうな。スパム報告したし。


そういったやり方が有効、あるいは必要とされてきたのは差別がふつーな昔、あるいは現在でも差別がふつーな環境では理性的な対話や要求そのものが通用しないという現状があるからかもだけど、んでも、だからといって最初から対話を飛ばして暴力的なやり方に訴えていたら単なる暴力な人になるだけのように思える。彼の場合は特に、大義名分をもとに己の暴力性を発散したいだけにもみえるし(あるいはそれはたんに偏見で、彼の中の『ただしい』『ただしくありたい』な公正世界的な規範がつよすぎて人を寄せ付けないだけなのかもしれないけど。


蛇足的にいうとさっきえねーちけーのニュース見てたら当該のバニラエア航空の件をやっていて、「(そもそも規定で乗せられないことになってるけど例外的に乗せたのは)タラップの乗り降りの際に付き添いのひとたちが『抱きかかえて』乗せるという話だったかと思っていたのだけど、現地についてみると車椅子ごと抱きかかえて危ないと判断したので止めたところ…」みたいな話だったバニラエア側からとしては。まあたしかに車椅子に乗せたまま抱きかかえてたら不安定だろし、ふつーに搭乗だけが目的なら周りのお仲間に身体を抱きかかえられて登ったほうが穏便に済むはずだからなあ。。バリアフリー運動のひとつってことだったのだろうけど。これをもって「プロ市民m9(^Д^)」とか「障害者めいわくかけんなm9(^Д^)」とかいうのも違うだろうしそういうのに与したくはないのでモニョーンとしたりはするのだった。

できればふつーに要望と対話をつうじてそういったものが改善されていく社会が良いのだけど。まあデフレで不況ってのもあるからなあ。。それで格安航空だから予算なかったってのもあるし。



























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2017年06月23日

「現代ニッポンの論壇事情」とやらを読みました


話題になってるので気になりつつ座談会的な本なので読み散らかしてスルーしよかな雑誌的に、ぐらいで読み進めたのだけどおもったよりモニョンとしたものが残ったのでなんとなく日記で吐き出し。

現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -


モニョーンの理由は本書雑談の品の悪さというか、居酒屋なんかで話しつつ界隈を貶す様子のスノッブさとウチワな感じに既視感を覚えたので。ああいうときのスノッブな知性・知識をカサにきた陰口悪口連帯というのは打ち解ければおもしろく気持ちのよいものなのだろうけどそこから疎外されるとなんともゲヒンに映る。彼らはそのゲヒンさを認識できないのだろうけど、それは彼らが悪口をいう連中に自分が親和性を持ってるから、ということでもなく単にゲヒンなのだ。

んでも本対談というのはそういうのを前提にしてるからこそおもしろいというのもあるのだろうけど。実際、安全圏からのぞく彼らの界隈語りというのはおもしろく「ああ、あの人(たち)って業界でだいたいそういう位置にあったのかあ。。」などと学びがある。まあ彼らのスコープからというのもあるだろうけど「だいたい」なところで。

そういう学びはあるにせよ本としての知識的充足は感じられない。その意味で実がないのが本書で、「本」と書くのもためらわれるのでところどころ「対談」とか「雑談」とかしてるのだけど「最初からそういうつもりでまとめたものだ」といえばまあそうかあ…ということではあるという繰り返し。

実の部分として期待される、あるいは前提となっていたのは安倍政権に代表されるマクロ経済政策(その中でもリフレ政策と俗に呼ばれる財政・金融政策)の知識であり、それらを前提とした福祉・再配分政策であった。あるいはそれが実際に実行されそうになってる?イギリスの現状、そこに至る世間の空気感とか現状について、とか。要するにこの2つの本が前提となってる。

この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


実の部分としてはこの2つを読んでおけば特にこの対談本は読まなくて良いかなという感じ。松尾さんの本でリフレ政策の機構を簡単に学習し、それが福祉や所得再分配と矛盾しない(むしろ量的緩和などで国債買い上げでゼロから作ったマネーをそこに投資するという公共政策ができる)というのが学べる。ブレイディさんの本ではそれが実際にイギリスで実行されそうになってる?というのが伺える。労働党コービンの躍進によって。あるいはそういったサヨク・リベラル周りの空気とかサヨク的なものとナショナリズムが矛盾しないとか諸々。(サッチャー→ブレア、シュレーダー→とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。メルケル的な)緊縮財政によって生まれる貧困家庭の様子とか。

まあそれとは別にこの対談の実というのは現在の日本の論壇周りの俯瞰、一定の観点からのマッピングというところではあるのだろう。あるいは(論壇の中でも)どうしようもない経済音痴・アレルギーな老害たちによる空想的リベラリズム批判。要するに内田樹を筆頭とした「9条を守る会」とか「反知性主義打倒」な連中。あるいは上野千鶴子とか宮台とか。現在の日本の論壇の中心が岩波・朝日的な流れからなのかそういった連中を中心に視野狭窄したものになっていることの批判。特に彼らはなぜか経済政策に言及しないね?ということについて。つまり現政権を批判しても対案を出さない。その心性、根拠とはどういったものか?ということについて。そのあたりの結論としては「彼らは既に金持ちなお年寄りで、現在は金持ってるから貧困層の苦しみとか考えなくて良いし、自分たちの若いときの記憶といえば日本が豊かだった世代のそれに当たる。そして、それが雇用売り手市場の若者とマッチするのでSHIELDS連中をもてはやす」というもの。「−y( ´Д`)。oO○いまのロスジェネ世代は日本最弱で皮肉ばっかうまくて使い物にならん(大意)」とか発言してしまった内田樹周りについてはまあそうなのかもなーと思いつつも上野千鶴子その他についてはびみょーなんじゃないかなーとも思った。北田さんは上野もそういった連中の一人として「彼ら豊かな世代が経済政策についてはきちんと対案出さずに、とりあえずアンチだけ言ってれば良いと思うのは『経済なんか放っておけば回復する』とおもってるからなんですよ。ようするにレッセフェールです」ってことでそれこそが緊縮財政的発想の源泉としての新自由主義的なものにつながるのにって結論づけてたけど、単に思想的にそこまで突き詰めてないだけなんじゃまいかとかおもったりした。つまり「経済政策的に対案を出すことは自分たちの役目ではない」「対案を出さずともNOはいっても良い」ぐらいの。あるいは上野さんの場合はギデンズとかトッド、バウマンとか読んでそうな雰囲気もあるので、ギデンズの政策的な部分、あるいはトッドのそういったものとかに影響受けてるんじゃまいかと最近の発言でもおもえた(移民がどうとか、人口トレンド的に日本がどうとか)。そうだとするとギデンズのEU本的なもので展開されていたあれを念頭するに、そこでもリフレ政策とかははっきり言っておらず、全体的にいろいろリストラクションしてお金を生み出すみたいな発想だったように思えるのでそのへんなのかなーぐらいな印象。まあそういうのも買いかぶりなのかもだけど。
揺れる大欧州――未来への変革の時 -
揺れる大欧州――未来への変革の時 -


あと、この対談(というか主に北田さん)の前提として松尾匡-リフレヽ(´ー`)ノマンセーな前提にしすぎな雰囲気が感じられたのだけど、リフレ政策もそんなに万能でもなくひとつの考え・チャレンジの一つ程度なんじゃないかなーという印象。たとえば現在だとそれが有効なように思えるけど、バブルが終わってマイルドデフレになってきたころすぐにこれをやらなかったのはふつーにインフレこわいねってのがあったからだろうし、ほかにもなんか指標・経済政策的なオルタナがあるんじゃないかなーという印象。まあ学習進んでなくて印象程度なんだけど、自分的にはこのへんもそっと学習していきたい。

学習ついでにいうと労働(雇用)研究周りと経済政策をつなげて考えたりとか、筒井淳也さん周りを読み進めたりとか。後者はギデンズ関連からの家族社会学、アイデンティティの変容とか考えるうえでも課題図書になってたけど。


ふたたび本対談に戻ると、(自分の見方もあるのだろうけど)けっきょく北田さんを中心とした集まりで、そうすると北田総括ということになるかなとおもったのだけどそのあたりは甘い感じがした。要するにしばき隊的な反ヘイト運動へのコミットとかどういうつもりだったの?あとそこからのサヨク(てか日本的りべらる)的なぬるさはどうなの?というのを後藤くんあたりがもうちょっとうんたらかんたらするのかと思ったのだけどそこは案外スルーだった。まあそれはしばき隊的な流れが安倍政権打倒に流れ、SEALDsと合流する中で違和感して離れていった / 最初はヘイトと直接的暴力はダメだろ―ってとこだけで部分的に賛同してただけ、とかいうことなのかもだけど。たとえば「彼らの運動は具体的な政治的影響力に通じていかない、たとえば経済政策→福祉政策への理解の無脳ぶりに辟易した」みたいな。そういうのはかつての民主党への政策提言集まりのときにも出されてそのときの提言はリフレ的なものと再分配的なものが加わったアベノミクス的なものにも近かったともいえたらしいのだけど(けっきょくは実行されなかった)。

そういう意味では十把一からげに「サヨク」とか「りべらる」とかでm9(^Д^)されがちなひとたちもちゃんと考えてる層とそうじゃない層(経済政策とか対案とかまったく受け付けない層)がいるということの再確認やら俯瞰やらはできるね、という対談本でもある。本書では後者が「経済政策を受け付けないのは彼らが既に豊かであり、豊かであることを前提にしたレッセフェールだからだ」としてるけど自分的にはもそっと変な理由があるんかもなーとか思ってる


本書の伏線とか、あるいは伏線としての本書があるとして旧論壇打倒・現在のアカデミズム正統でフルボッコ検証してやる宮台・東的な具体としてはこの本があったように思うのだけど

社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -


自分的には「計量もできるようになったよ―(∩´∀`)∩」的な感じにしか見えなかった。統計分析な具体な章の結論がどうしても地味だったので。テーマ的には宮台・東的なものがどうしても主にあり、それを批判的に検証というだけだとどうしてもそっちの視角がメインになってるように思えた。それは自分がブルデュー的なものにもそっとアイデンティティの変容について考える材料をもとめていたというのもあったからだろうけど。ついったなどにも見られるような後期近代的なアイデンティティのゆらぎと再帰性によるクラスタ(界隈)の自己言及的な固定化。最近だとエコーチェンバーとかフェイクニュースがどうとかいう現象がそういったものの一部に当たるのだろうけど。

そういったマイルドに階層?分化し、エアリプ嫌味とばすぐらいで、ディスコミュニケーションが広がっていく社会に対して。あるいはそういった社会を基層としたとき、ロスジェネを含んだ貧困や社会的な不安や困難の声 - 改革を求める意志がどの程度、社会全体にとどくのか?ということについて。とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。「貧困層ほかの声が届くようなアクチュアルな期待もリアリティもない」ということだと本対談も同じで、たとえば北田さんほかはサヨク的な言説を唱える旧世代論壇のグループ性を「彼らはネームバリュー/数字持ってるからね―−y( ´Д`)。oO○内容なくても」的に批判してるわけだけど、それいうんだったら自分たちも似たようなもので、その「数字」をもとに出版資本主義/編集者に選別され、その地位から「ネット論壇程度のものはねーw」みたいなこといってるわけで…まあ入れ子構造の似たようなものだな(人気者の席に誰がすわるかが変わるだけで)という白けた印象しか残らないのであった。

それとは別に貧困層や社会で問題を抱える層の声が届くかどうか?という問題。粛々と日々の労働・生活を送る人々(サイレントマジョリティ)の声が政治的に還元されるかという問題に対して。特にきちんとした理論建てじゃなくてもブルデューがアルジェ → フランスから見ていた問題意識のようなものをそのまま日本の貧困層 → 金持ちブルジョア層としてポスコロしてもいいのかなーとか。

「声」のアーキテクチャ的にはシェア的な流通プラットフォームの整えとハンドリングってとこなのだろうけど、それはだいぶまえからいわれていて相変わらずうまくいってない。まあ従来の出版資本主義の人気者的なひとが「降臨」し、数字ーネットワーク外部性を引っ張ってくる、とかなのかなともおもうけど。そういうところだと従来出版資本主義がきちんとそういうひとたちを囲い込み(ロックイン)して「(ヽ´ω`)…りべらるとかいってるけどやってることはエグいよね。。」みたいなのみせつけるのだろうけど。まあ「食える」レベルの報酬は別にして、まともな言論が流通する場の継続的な維持ということだとやはりビジネス的なものが関わるのだろう。


そういう意味では自分で掘って見てくしかないかな―(あまり期待しない程度に)とか思うのだけど、とりあえず知識人 - 反知性主義辺りのアレとしてこのへんからかなー。


オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -
知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -



[書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2017/06/30-1ebb.html

池内恵の「反知性主義」依頼原稿への不快からの論壇disと解説
https://m.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203927148938140



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2017年06月18日

取らぬ狸の管さん用


昨日の朝にジョギングしつつなんとなく思ってたこと、「安倍政権憎しってやってる人たちに伝える言葉 / 対話のトバ口とかないのかなあ。。たとえば松尾さんの『この経済政策が民主主義を救う』なんかは『安倍政権に勝てる方法』て副題もついててわかりやすいだろうに」「んでもそもそも彼らはそういう対案的なものは考えてなくて、オイルショックや3.11原発事故→被爆の不安のときのようにフォビアになってるだけで、集団ヒステリーとか神経症みたいなものなのだろうしなあ。。そういうのも誹謗中傷的な見方といえば見方なのかもだけど。んでも一種の不安神経症みたいな感じで『戦争内閣絶対反対!』て耳に残りやすいアレがこだましてるんかもなあ。。だとすると心理学と社会心理学的な観測が必要なのかむしろ」、とかをもそっとちゃんと書き残しときたいなあと思って該当twアーカイブしよかと思ったけどSeesaa blog からでは既に届かず。。200件先までしか追えないのか。

まあとりあえず、昨今TL的にチラチラ出てくる「サヨクのみなさんも経済政策をまなんで」とかいうのもあまり意味がなくて、彼らにとっては最初から「戦争ぜったいダメ><」だけがあたまにあってそれ以外のものは詭弁てスタンスなのだろうから対案とか優先順位とかトレードオフみたいなのは通用しないのだろうなあとかなんとか。

たとえば安倍政権に対してはわれわれ周りの人たちのスタンスだと「タカ派で阿呆みたいなところあるけど量的緩和を持続的にやるというのは確かだからその辺だけは期待するしかない」という「タカ派アホ < リフレ政策の持続」というトレードオフをもとにした消極的賛成が発生してるわけだけどそういうのも彼らにはないみたい。繰り返しになるけど経済的な思考-政策というのはすでに「詭弁」とでもとらえられてるのかもしれない。たとえば「新自由主義で切断していく内閣だー」みたいな見方もちょっとまえにあったし。まあそれいうなら量的緩和に踏み切る前の内閣である旧民主党政権のほうがアレゲだったんじゃないかと想うのだけど、管さんがビビって量的緩和ストップするまではマニフェストとやらにのっとって福祉政策とかもいろいろやろうという構えだったのかもしれしれない。まあよく覚えてないのだけど。ちなみに福祉政策切断新自由主義としては小泉構造内閣のほうがひどかった。管政権以降は財源なくてそういう政策もできなかったようだし。

マニフェストと言えば管さんのとき以来、民主党から「マニフェスト」というアピールが消えたように想う。そういうことは長嶋さんも言ってたのだけど、「かつての民主党は政策でたたかおうとしてたけどいまは『戦争内閣絶対反対!』みたいな印象操作だけだし、森・加計問題みたいな政策ではなく政局(SCANDAL)みたいなとこでみょーにがんばろうとしてるし。。正直見るに堪えない」、みたいなの。まあでも直近の内閣支持率も落ちたようだからある程度効果はあったのだろうけど。そのヨコで「次期政権はいよいよ麻生内閣か?」みたいなのも出動してたり。まあ正直、いろいろ問題あり印象も悪くなった安倍内閣よりは麻生内閣のほうが良いよなあ。。経済政策的にも麻生さんのほうが主導だったんじゃないかと想うし。

「あれ以来、野党がみょーに『戦争内閣!』て煽るようになった」ついででいうと、それがマスコミにも影響し、そういうのがTwitterほかにも影響したのかなあとかおもったりもする。Twitterて最近までここまでウヨサヨ的な政治的な話題というか、分断、敵か味方かみたいな殺伐ってなかったように想うのだけどさいきんみょーにこういうのでギスギスしてるし。まあこういうのも実際に統計なりなんなりとってみたら意外と違ってたりするのかもだけど。

んでもやっぱ安倍政権ニクシ、というか、戦争内閣不安みたいなのでフォビアだかなんだかドリヴンしてる人たちってみょーに意識高いというかセンシティブになってるとこがあるように思えて、たとえば昨今の共謀罪なあれでも詩織さんなあれでも。共謀罪なアレは国際的なテロの不安とその協調のための関係として設定されたものだとしたら安倍政権ではなくても成立していただろうし、そもそも実行においては警察・公安機構がやるのだろうから政府とは直接関係はないのだよねえ。。まあそれは彼らからすると「タテマエであり、実際になると政府から権力が発動し、『なにか上からの命令だ』ってことで超法規的なアレがナニするのだ!戦時中の特高警察みたいに!」とかいうのだろうけどそんなこといってたら信号が青でも「車が来るかもしれないだろ!」とかいって渡れないのだしねえ。。まあでも政府と直接に権力的な癒着があるとしてもないにしても現在の日本の警察機構の問題というのはあってたとえば取り調べにおける密室性と市民の基本的人権いきなり剥奪的な横暴とか、一回警察が目をつけるとメンツにかけて叩き潰すために圧迫尋問みたいなことして無理やりイエスを引き出すような手法とか。そういうのは詩織さんのケースでも問題になってたようだけど(まあ彼女の場合は容疑者としてではなく被害者として告発してもひどい調査内容だったということだけど)。そういうの考えると問題は日本の警察のそういう部分ということで、それは政権変わっても共通するところなんだからそこから改善叫んだほうがよいのでは?と思うのだけど。

あと、「戦前・戦中と同じだ―」「ヒトラーみたいだー」とかいってもドイツにせよ日本にせよそもそも開戦を決断せざるを得なかったのは不況かつ国際的な経済協調からハブられたからであり、不況が問題だったのだから経済政策とか気にして不況にならないようにしたほうが良いように想うのだけどそういうのが通じないのだった。

まあでも、そういう警察の問題にしても、安倍総理や一部の自民党の政治家の阿呆な側面にしても、政党変わっても普遍的問題ならばそういうのを彼らがウォッチドッグしてくれてるのはそれなりに役に立つのかな―とか意識を変えるといいのかなあとも思ったりした。






現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
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この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 -
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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書) -
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世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫) -
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リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話 -
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2017年06月16日

「しかくいにかくが『まあるく』おさめます」


ジョギング行ってきたので汗が引くのを待つのがてら昨日のtwをメモ的に。

一つ前のエントリにもかぶる内容なのだけどけっきょくネット上の、あるいはついったになってからその速度がより上がった感じの丁々発止というのは知識を資本としたマウント(オレ(たち)のほうがえらい / おまえ(たち)はバカ)合戦みたいなとこがあって事実にもとづいた意見交換・理解促進というわけではない。「ネット(Twitter)はギロンに向かない」とかいうけどネットとかのツールが問題なのではなくて最初からそういう姿勢なのでギロンとか対話にならないんじゃないかと思う。ネットあるいはTwitterというアーキテクチャ、場にそういうのを促すなんらかの要素があるのかもしれないけど。でも、いつの間にかそういう「事実交換以前に馬鹿にする」みたいなスタイルがふつーになってしまった。たとえばたかが政治・経済の話でそれがその人の全人格的要素、魅力につながるものでもないものでもそれで少しでも知識的に劣ると一気にm9(^Д^)とする風潮。ちょっとそういったことでふつーの疑問を投げかけただけで○○警察みたいなのが来てモヒカン的に刈り取っていこうとする殺伐。そういうのは幼稚でもったいないことだなあと。

まあそう思ったのもこないだsession22でそういう話してたのの影響受けたのかなあとも思うのだけど。「昔のぼくのブログみると文末に草生やしてて恥ずかしくなる。聴衆を意識してそういう振る舞いをすることで『自分のほうが優位に立ってるんだぞ』と見せるような印象操作。いま、過去の自分に言えるとしたら『そういうのはやめたほうがいいぞ?』と言うと思う」みたいなの。あと「ネットでの発言の変化・同一性ってどこまで許されるんでしょうね?人は変化するものだと思うのだけど公人でもない私人の過去のブログ発言を見つけてきて現在の違いを矛盾としてあげつらうようなの。政治家などの公人でもない私人にはそういうのに付き合う義務も責任も本来はないわけだけど」みたいな。まぁ、チキさんは一気に成功しちゃったので昔とも環境が変わりそれに伴い変化するものもあったのだろうし、「金持ち争わない」的な余裕のもとにそういうこと言ってる側面もあるかなあ(ヽ´ω`)…成城トラカレも遠くに来たもんだ、と遠い目したものだけど。


話を元に戻すと知識資本と嘲り合い(マウント合戦)みたいな話。

自分的には<それによって彼らがなんらかのアイデンティティ-縄張りを確認しあってる ← なんらかのアイデンティティをそうやって確立する必要が無意識のうちに生じてる?>みたいな視角がある。その大きな背景としてはギデンズがいったような後期近代化による変化の影響というのがあるのかなと思うけど、なにがどうなってそういう風になるのかはまだよくわかってない。のでこれからおべんきょーしていく予定。ブルデュー、マルクスなんかも交えつつ。あるいはアイデンティティゲームというところで発達心理的なものと幼稚性みたいなのも見てくかも。


優越感ゲームというのはネット全体の現象というか、ついったとかでも政治経済(というかウヨ/サヨレッテル貼り合い)系以外の話題でも生じてるのだけどフェミ/ヲタ(ミソジニー男性)とか。直近だとウヨ/サヨがわかりやすかったのでそういう例として。

そして、誰かが図示して言ってたけど、「こういうのって双方の属性の一番上のところにえらいひと・知識がある人がいて最下層に知識がないひとがいるのだけど、知識がないひとが阿呆な発言をしたのを片方のえらいひと・知識がある人が拾い上げ相手方陣営全体を『バカm9(^Д^)』てラベリングすることで不毛なディスコミュニケーション・煽り合いしてる」、って感じ。まあバカサヨク / バカウヨクみたいなのが双方にいてどうしようもないなと。そんでそもそも知識がある程度あればそういう属性をかぶってバカに足を引っ張られてく不毛みたいなのもわかってるはずなんだけど。いわゆる「運動」なんかでもそういった連中のせいでぐだぐだになってくわけだし。まあ「オレはウヨクとか保守とかになったつもりはないよ?周りが勝手にそう見て攻撃してくるだけだよ?」ってのもあるかもだけど(二項対立でしかものが見れない連中)。




















ついったーも「丸くなった」ようなのでこういう人たちもそろそろもうちょっと丸くならないかな



ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


スコットランド狂想曲:経済とスピリットはどちらが重いのか(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



スコットランド狂想曲2:市民的ナショナリズムと民族的ナショナリズム(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


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2017年06月14日

「モダニティと自己アイデンティティ」読んだのでわからんながらにメモ

朝に「モダニティと自己アイデンティティ」を読み直していたら最初に読み終えたときよりもなんとなくイメージが浮かんできたのでジョギングにいって忘れないうちにメモっとこう(ついったで関連話もあったしそれも絡めて)とおもってつぶやいた連弾をちょっとメモ。とはいってももともとそんなに理解できてたものでもなく、今回もそんなに理解できたとは思ってない / 2割ぐらいいってたらいいかなあぐらいの理解なのでまあ愚痴みたいなものなんだけど、んでもそもそもこの本で書かれてる内容というか書かれ方が具体的ではないのでわかりにくいのも仕方ないかなあとか。まあそれについては巻末の訳者あとがきにも「もともとわかりにくい本なので何回も読んでみるといいです」てあるんだけど。「使われてる用語も独特なので巻末用語解説とあわせて何回も読んでみるといいです」て。なので、本来は手元に置くか、図書館にずっと置いてあるのを何回も読むのが良いのだろうなあと思うのだけど、今回は取り寄せで読んだのでこのぐらいで返却しとこうかなあと。今日返却日だし。

前置きはこのぐらいにしてんじゃついったに連弾したのからとりあえず

















後期近代(ハイモダニティ)化の問題として、おーざっぱには「それまで規範としていたものがズレることによって不安が生じる」というのがある。生活スタイルが変わることに伴いそれまで規範としていたものもズレてそれによって戸惑いが生じる。後期近代化とはなにか?というとオイルショックによって生じた不況に対抗するように金本位制から変動相場制に変わったとき、それを標準としてグローバリゼーションが進み、それにあわせて企業内倫理・ふるまいの規律なんかも世界標準化がすすんだ、ということ。具体的には87年ごろを画期に90年代を通じて会社員に求められる規律(キツキツ)が進み、それにともなった規律訓練も進んで鬱になるひとも増えたね―、みたいなの。「モダニティと自己アイデンティティ」の主要な射程というのはこのへんではないかと思うのだけどはっきりとはかいてないのでよくわからない。もちろんこれだけが射程ではなくこういった画期を軸にした労働→生活 / 親密圏の変化を総体的に扱ってるというのもあるのだろうけど。

ギデンズの本書からの主要用語である「経験の隔離」では、そういったキツキツ生活のなかで規律訓練が進むことで自動化も進み、本来なら実存的な不安もそれによって隠される、というのが表されている。逆に、こういった規律訓練な生活の自動化から外れたとき本来の実存的な不安が顔を覗かせてくる。たとえばサラリーマンが退職後にどうしたらいいかわかんなくて途方に暮れるとかもそういうののように思える。

あるいは現在だと非正規雇用なんかが標準になってて退職以前にそういった実存的な不安(たとえば貧困≒将来が不安≒死)が顔を覗かせているともいえるのでそういった見立ても生ぬるいかなあとは思うのだけど、自分も含めてそういった人たちが日々の不安を隠すためにアイデンティティゲームをしているところもあるのかなあとか思ったりもする。雑誌やテレビ、アニメや小説、日々の娯楽に埋没することでそういった不安から遠ざかる / 別の想像空間に身を置くことで不安をそらす、というような。あるいはライフスタイル誌のようなものでちょっとでも「豊かな生活」を享受して生活に彩りを添える、とか。ライフスタイル誌のようなものがなぜ求められるようになったか?というのもこういった文脈に関係するのだろうけどはっきりとはわからない。おーざっぱには「核家族化がすすみ従来のライフスタイルから抜け出し(脱埋め込み) / 参照点がなくなったために雑誌などがそういったものを提供するようになった」と言えるかなと思う。

そして人々はそういったものを参照することで新たに生じた不安 / ズレ、あるいは実存的な不安から目を背けていくわけだけど、そこで自らを構成するために択っていったアイデンティティにみょーに固執するために苦しくなる情況も生まれるのだと思う。苦しくなるというか、たとえばついったなんかでもよくみかける自らが蓋然的に属すると同定している属性に基づいた対照属性へのエアリプ攻撃とか。リベラル / ネトウヨ、フェミ / ヲタ、女性 / 男性…。そういったものが大文字で糾弾され、糾弾していく中でその攻撃性に自らが飲まれるようにアイデンティティとそこへのコミットメントを先鋭化していく。本来、なんらかの縛りにたいして自由になるために楽になるような属性-生き方を参照し選択していったはずなんだけど、その属性への縛りが強くなるために却って不自由になる情況が生じているのではないか?そういうのが自分的な見立てでであり、こういった読み物を通じて理解を進めていきたいところとなっている。


そういった現状があるとして、「モダニティと自己アイデンティティ」では特に解法は提示してない。ざっくりとそういった情況が生じる構造的要因のようなものを考察している。近代において生じた規律の内面化がさらなる段階に進んでより生活的な場面で生活者自らが規律を作り内面化していこうとしている、みたいなのも(生権力からライフポリティクスへ)。

そのなかで「純粋な関係性」という用語は唯一鍵になるのかなあと印象された。「関係そのものが与える満足や見返りに根本的に依拠する関係」。要は「なんらかの限定や留保のない肯定」でありその関係内でのコンサマトリーな充足を前提とした愛ということになる。



それは曖昧であるがゆえに諸刃ではあるようだけど。




あと、「親密性の変容はこれ読んどけば読む必要ない」とか言われてたけど「親密性の変容」のほうが具体的で分かりやすかった。まああれは本書からの恋愛やセクシャリティの変容をスピンアウトしたものだったように思うけど。要は家族制度とかLGBTとかそういうの。





モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会 -
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親密性の変容 -
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現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) -
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社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
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奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
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親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR) -
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2016年12月17日

「身体はトラウマを記憶する」



少し前に読んでついったのTL的にもシェアしといたほうがいいかなと思ったので簡単に

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -




簡単にはトラウマからの復帰の方法について。んでもトラウマだけでもなくグリーフケアとか発達障害とかにも適応される感じ。あるいは鬱とか自律神経失調とか。そういうわけで紹介しといたほうがいいかなとおもった。


紹介的な文章になるので特に自力でうんたらする必要性もないだろから他人様の紹介を主に借りよう。巻末の解説が端的にまとまっていたのでそれをまるっと引用から。

ちなみに引用はiPhoneのスキャンアプリCamScannerからのOCRを試しがてらやってみた。便利だけどiPhoneカメラの性質上カメラで捉えられる範囲が限定される/あまりたくさん文字を写すとOCRの誤認識が多くなるのでなるべく短い単元ごとで撮影する → 何回も撮影しなければいけなくなって疲れる、というのはあった。んでもあらためて写経におけるスキャナ→OCR便利だなあとおもったので安価なハンドスキャナとかあとでぼけーっと見て見るかもしれない。

閑話休題

以下、巻末引用から






浜松医科大学児童青年期精神医学講座  杉山登志郎



本書の著者、ヴァン・デア・コークはエピローグの冒頭で、次のように書く。「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」


本書は・自伝的な要素を有し著者の精神科医としての、そしてトラウマに関する世界的な研究者としての歩みがそのまま記されている。オランダ系移民であるヴァン・デア・コークの父親は、ナチスに対し批判的であったがためにナチスによる投獄を経験し、母親は幼児期のトラウマの経験を持つことが暗示され、家族の中に深いトラウマがあったことが開示される。彼の歩みは、トラウマの再発見から始まる、今日のトラウマ研究の歴史そのものなのだ。一九七八年、駆け出しの精神科医であったヴァン・デア・コークがベトナム戦争の帰還兵が示す凄まじい後遺症に圧倒され、トラウマのもたらす多?にわたる脳ヘの影響に気付くところから本書は始まる。トラウマについて、精神医学が発見と忘却を繰り返してきたことを彼もまた再発見し、一九八○年に出版されたアメリカ精神医学会炸成の「診断・統計マニュアル第三版(通称D S M.皿)」に初めて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の概念が登場したことをきっかけに、効果的な治療法を見つけるための体系的な研究を開始する。さらに彼は、慢性のトラウマや強烈なトラウマにさらされた脳が通常とは異なる働きを作り上げて行くことを、最新の脳科学や脳画像法を駆使Lて解明して行く。そうして積み上げられた実証を伴うデータの集積によって、一見脈絡のない不可思議な症状群が、すべてトラウマによって引き起こされた脳の変化に基づくものであることが示され、なぜ従来の治療法が無力であるのかも、脳の働きに遡って明らかになる。また薬物療法の限界も示される。

重度のトラウマ、特に子ども虐待などの慢性のトラウマによって生じる様々な重症な臨床像である、複雑性PTSDと発違性トラウマ障害が、なぜかアメリカの精神医学の主流から無視され続けたこと、さらに抗精神病薬や抗うつ薬の処方のみが膨れ上がって行く状況も克明に語られる。その上で、不可能とも思われたトラウマの後遺症からの回復を可能にする様々な方法が、これも実証を伴った研究によって今日の到達点として描かれる。

本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑間を感じつつそのままになっていた問題や断片的な理解のままになっていた間題のほぽすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍に広がったような体験をした。本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。それはこんな人々である。ドメステイツク.バイオレンスや子ども虐待に向ぎ合わざるを得ない人、少年非行や少年犯罪、薬物中毒、性被害・性加害、社会的擁護、里親・里子、貧困、すべての精神疾患、怠学、不登校に関わる人々。つまり学校数師、ソーシャルワーカー、児童養護施設や児童自立支援施設で働く人、精神科医、臨床心理士、弁護士、裁判官、警察官、検察官そして政治家。まさに私たちの社会は今、トラウマを強く意識しなくては何もできない時代を迎えようとしているのである。


本書の圧巻は、なんといっても第5部「回復ヘのさまざまな道」である。本書の冒頭でヴァン・デア・コークは三つの方法があるとしている。一、自分に起きていることを知り、それを許容しつつトラウマ記憶を処理するトップダウンの方法、二、不適切な警戒反応を抑制し、脳の情報処理を変える方法、三、トラウマに起因する無力感などに立ち向かうボトムアップの方法。どれが有効なのかはやってみなくては分からないし、ーつだけではうまく行かないことが多い、従ってて組み合せが必要であるとしている。


第5部で取り上げられているのは、トラウマからの回復のために工夫、開発されてきた実に広範な様々な治療方法である。最初に、言葉での表現として、自分に手紙を書くという自由筆記法の可能性が取り上げられる。次の章ではEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が紹介されるが、自分が実施Lていたグループセッションの参加者の中に、併行してEMDRを受けた患者がいて、その回復ぶりに驚嘆したヴァン・デア・コーク自身が早速研修を受けに行き、その効果に驚くというエピソードが紹介されている。これは私自身の経験そのものでもある。次がヨーガである。ヨーガこそボトムアップの強力な方法でありマインドフルネスや呼吸法との組み合わせによって、細心の注意を払いながら治療に織り込んで行く具体的なやり方が示される。ヴァン・デア・コークのすばらしいところは、これらの効果を直ちに最新の脳画像研究を用いて立証して見せることができることだ。EMDRの効果検証のみならず、ヨーガに関しても自己調整の中枢である脳内の島(とう)と呼ばれる部位の活性化が示されている。次に取り上げられるのは多重人格ヘの内的家族ジステム療法の紹介である。我が国では自我状態療法として行われている方法とほぼ同じ治療手技である。次いでPBSP療法が紹介される。

これはグループ精神療法を用いて、失われた愛着を想像の中で取り戻すという大変に興味深い臨床的試みである。我が国の治療者のために補えば、嶺輝子(みねてるこ)が独自に開発したホログラフイートークが類似のアイデアで構成されていて、この手法に精通すれぱ、愛着の修復の効果が同等に得られると考えられる。次に登場するのがニューロフイードバックを用いた脳の反応の正常化である。この部分に関して私は未経験であり、ぜひ学んでみたいと強く思った。最後に紹介されるのが、演劇や声劇によるトラウマヘの治療効果である。こちらも私は未経験であるが、その効果に関してはなるほどと実感ができるものぱかりである。

ヴァン・デア・コークは特定の治療法を勧めてはいない。そのいくつかを組み合わせることが必要で、本人に合った治療法を選び、脳や生体の起こすトラウマ反応に最新の注意を払いつつ実践して行くことによって、薬に頼らず確実な回復を得ることができることを実証しているのである。






上記にもあるようにこの本のハイライトは後半の様々な治療法部分となる。


人はどうやって「トラウマ」を克服するのか | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
http://toyokeizai.net/articles/-/141463

本書のハイライトは、間違いなく、それらの治療法について述べた後半部である。そこでは、驚きともいえる治療法と回復事例の数々が、著者の熱い筆致によって語られる。正直な話、おそらくこの部分は、その筋の専門家でなければ、「そんな方法で本当に効くの?」と訝しく思われる箇所もいくつかあるだろう。

ただそれと同時に、治療法の新奇性とともに、「できることなら何でもする」という著者の意気込みがことさらに目を引く部分でもある。健全な疑いを持ちつつ、新しいアプローチと著者の情熱を楽しみながら読んでいきたいところだ。


著者のモットーは、「患者が良くなるのを手助けするために、できることなら何でもする」であり、実際に本書でも、EMDR、ヨガ、内的家族システム療法、ニューロフィードバックなど、じつに多くの治療法をとりあげている。

さて、以上のように整理すると、トラウマの治療として著者が何を目指しているのかも、よりはっきり見えてくるかもしれない。原題や邦題が示しているように、「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」というのが著者の基本的な考えである。ならば、「トラウマはどんな痕跡を残しているのか」「患者は現にどんな状態にあるのか」を見定めたうえで、それぞれの場合に適した治療法を選択し、ひいてはそれらを組み合わせよう、とそういうのである。



「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」という部分については実際に脳の状態をスキャンしてトラウマを負った脳の状態を診ている。トラウマを負った脳は扁桃体への電気信号が過剰になり、そのぶん前頭葉へのそれが持っていかれるみたい。つまり無駄に恐怖・不安反応が高まり自動的にそれが生じ理性的な判断がしにくくなる。

ひとつ具体的な議論を追ってみよう。先に述べたように、トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応するようになっているのである。扁桃体といえば、情動反応の処理においてとくに重要な役割を果たしていて、脳における「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されているように、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されてしまうのである。

ただし、トラウマと関係している脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応はじきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードのような状態に陥ってしまうことになる。


この状態をリセットするために様々方法が提示される。ヨガとか演劇を通じたロールプレイとか。あるいはEMDR(眼球運動を利用した方法)を命綱にトラウマダイブして自分で克服する手助けとか、ニューロフィードバックで脳に直接に電気信号を送り障害を調整とか。

もっとも身近にはヨーガとか長距離走なんかが良いように思えた。要するに呼吸。長くて落ち着いた呼吸で自律神経を落ち着かせる。1分間に6回の呼吸。


トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復することが肝要だと考えられる。そして著者によれば、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。

トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われる。そして、そうした具体的な調節方法として、先に示したような多種多様な治療法を著者は紹介していくのである。




自分的にヨーガはまだやってないのだけどそのうちやるときように本書でよく紹介されていたこの辺とか読んでみるのも良いかも。



スティーヴン・コープの名著「ヨーガと真の自己の探求」


あとは太極拳とかかなあ。。64式とか。あるいは地味な套路。




「習得への情熱―チェスから武術へ」: muse-A-muse 2nd
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/442327056.html

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「ドッグヴィル」/「マンダレイ」



『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -
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ドッグヴィル - Wikipedia

舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。
そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの奉仕と引き換えに彼女をかくまうことを提案する。
グレースは受け入れてもらうために必死で努力し、いつの日か町の人と心が通うようになる。しかし、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌していく。


作品の内容自体は鶴の恩返しとかその他の教訓的昔話にも似てる。

「平凡で刺激のない村にある日うつくしい娘があらわれた。村人たちは最初、娘を受け入れがたくしていたが次第にココロを開いていく。娘を受け容れるなかで平凡な生活の中で気づかなかった楽しみにも気付かされていく。そこで終わっておけばよかったのに村人たちは次第に娘に甘えエゴや欲望を押し付けていく。そのエゴと欲望の罪から目を背けるため罪を娘になすりつけ己の罪を見ないようにする(『あの女が誘惑したんだ!』『あの女が悪いんだからひどい目にあって当然だ』『ひどい目ではなくこの女には当然のことなのだ』)。娘はそんな村人のひどい仕打ちにも耐え忍んでいたが、娘を陥れようと村人たちが仕組んだ罠が却って村人たちに最後の裁きを下すことになる。村人たちは自ら最悪の裁きを招き入れる。娘は赦すつもりでいたのに」

村人目線で見るとこういった昔話的な教訓話になる。でもこの物語は主人公グレースの、あるいはトリアーの描いてきた聖女たちの物語となる。汚れ、寡黙に耐え忍ぶだけの聖女たちの。

以前にダンサー・イン・ザ・ダークの感想で「彼女はある意味独善的だ」「自分に酔っているだけだ」というようなことをいったようにおもう。


それと同じようなことがこのドッグヴィルの最後の対話でも指摘される。

グレースは強力なギャングのボスの娘で、彼女は父の汚い仕事を継ぐのを拒否してそこから逃げてきたのだった。ギャングのボスはグレースと車の中で話し、他人が自分と同等の道徳的水準にないと考える (さらに、本来人は自分行為について説明責任がある (accountable) が、グレースが住人に説明の機会も与えず許そうとしていることについて) グレースを傲慢だとした。グレースは最初父親の言うことを聞こうとしなかったが、いったん車を離れ町や住人の様子を見ながら熟考した末、父の考えに同意して「もし住人達が自分自身と同じくらい道徳的だったならば住人達を非難して重い罰を与えなければならないだろう、そうしないのは独善的で偽善的である」と考えた。グレースが町を破壊するこの決断に至ったのは最後にトムと交わした会話による。トムはギャングが町に対して行うことそのものについては恐れているが、自分のやったことに自責の念や後悔はないと言い、トムがグレースを裏切ったことで互いに人間の性質について多くのことを学べたと発言した。グレースは父の娘としての役割を受け入れ、町を消し去るよう命令する。



彼女たちの行い、全ての罪を自らが被り贖うという行為はたしかに尊いし立派ではあるのだけどそれを誰にも説明せず行ってるうちは単なる自己陶酔にすぎない、し、誰も彼女たちと対等のものとして認めてないということになる。

グレースの選択は住民たちを彼女たちと対等のものと認めることを通じて、「であるならば」対等に同じ罪を贖わせなければならない、という苦渋の決断だった。ギャングたちによって殺され火を点けられた村は彼女の幼い正義の象徴だったといえる。それに火をつけ決別したことで彼女はヒキコモリ的正義から正しさを世に試し、それによって傷つくことを受け入れていく。傷つき成長していくことを。

ただ、最後の決断に対して、その正義の判定が甚だ一方的であるという点で疑問は残るのだけど。まあそのことについても続編を通じて自省と自己批判の材料となっていくのだろう。




マンダレイ - Wikipedia
舞台は1933年のアラバマ州、南北戦争と奴隷解放宣言からおよそ70年。縄張りを失って旅をしていたグレース(ハワード)たちギャング団は大農場マンダレイの前で黒人の女に呼び止められる。そこでは依然として奴隷制度同様の搾取が横行し、今まさに「使用人」の一人ティモシー(バンコレ)がむち打たれようとしていた。グレースが銃の力で割り込むと農場の女主人(バコール)は息絶えてしまう。命令するものを失って途方にくれる黒人の使用人たちをみてグレースは、マンダレイを民主的で自由な共同体につくりかえる決心をする。



前作で父の権力(暴力による己の正しさの行使)と同じものを自身も実行してしまったグレースはその後、ふたたび父への反発をつのらせていたところで南部のしみったれた街マンダレイにたどり着いた。
そこでグレースは未だに奴隷制度がつづいている街の様子を見て止めに入る。ギャングの暴力≒父の権力によって。

その後、かつての女主人を失った奴隷たちが奴隷としては開放されつつも極めて不利な条件で労働契約をさせられそうなのを見て間に入る。「このままだと実質的には奴隷と同じだ」。グレースは逆にギャングの法律顧問を使うことで契約書を作り直し街の白人たちと黒人たちの立場を同じようなものとする。
そこで黒人たちはいちおう自由とはなったものの自由を継続するための仕事≒収入が安定しない。その安定が確立するまでグレースはとどまりともに働きつつ彼らを支えていこうとする。彼らに共同体の民主的運営、民主主義を教えつつ。

これがうまくいっていたらヴェイユの工場日記みたいな感じだったのだろう。「理想をいうだけではなく下層労働者とともに働き、リアルを実感しつつともに戦い、なんだったら改善策を練っていく」。
とはいっても結果的にそうはならなかったのだけど。工場日記もそういう内容でもなかった。

ネタバレしてもよいだろうからネタバレしちゃうけど、収穫が終わり換金したところで悲劇が起こる。

グレースはだんだんと街の暮らしにも慣れていっていたが長い共同生活の中で自身の女の疼きを持て余すようになっていた。そんな中で共同体の中でも「誇り高い黒人」として種別され、一匹狼的な側面とともにある種の知性と誇りをにおわせていたティモシーを気にするように。
収穫の後、女主人の役割を解かれたグレースをティモシーは誘い、グレースもそれを受け容れる。「女は裸にされて横たわらされ目隠しをされ男が一方的につらぬくのに身を任せなければならない」という交わりは伝統に則った直接的なもので情を交えるというものでもなかったのだけど、むしろそれはグレースが望んだものだった。否定していた父の権力観、主と奴隷的な生活のなかで黒人の異性にかしずかれ性的な愛撫もサービスされることを妄想してしまっていたグレース。ティモシーによる一方的なセックスはそういったものとは真逆といえるけれど、「奴隷に襲われた女主人」的な妄想と欲望を満足させるものとなったのだろう。とりあえずその交わりはグレースの満足の行くものだった。
その後、悲劇が起こる。

目覚めてみると村人の一部が殺され収穫金が奪われていた。「ギャングが戻ってきて襲って盗んだんだ」と残っていた黒人はいう。しかし目撃したわけではないらしい。
呆然としていたグレースに白人の男が近寄ってくる。かつてグレースに唾棄すべき取引を持ちかけた男だ。「解放奴隷は解放した体でパンと娯楽を与え、娯楽≒ギャンブルを通じて有り金を巻き上げてしまえばいい。そうすれば実質は奴隷と変わらない。わたしだったらうまくやれる。わたしは二割でいい。八割の儲けをあなたに渡そう」。そのとき嫌悪をしめして突っぱねた男が戻ってきて言う。「これはあなたの分だ。約束していた8割だ」。訝るグレースに男は続ける。「ティモシーとかいう黒人から巻き上げたのだよ」
ここでグレースの世界が歪む。

ある程度信頼し身体を預けた相手が、共同体の中で一目置いていた相手が、、よりによって、、


ティモシーは「誇り高い黒人」ではなかったのか?


グレースは室へ戻って前の女主人が残していた秘密のノート、黒人の等級・区分けに示されていた内容を調べる。

誇り高い黒人、おどける黒人、暴力的な黒人、臆病な黒人、、

いくつかの性格付けごとに属性され7つのグループに分類されたそれ。



ティモシーは1の「誇り高い黒人」ではなかったか?



1だと思っていた数字はよくよくみてみると7で「ずる賢い黒人」だった。


「人をこのように属性分けしそれに従って管理するなんて(政治的に正しくない)」

そのように思っていた忌まわしい書の内容の通りになったのだ。

後の会合でこの書は前の主人がつくったものではなく主人に仕えていた老黒人が作ったものとわかる。

彼らは、無理やり奴隷制度に従わされていた、のではなく、彼らのうちの数人が自らこのような管理体制を望み象徴として女主人をたてていた、のだ。女主人がそのような制度の憎しみを一手に引き受けおさめることで共同体の平衡を保っていた。

グレースはそのような女主人の代わりと勤めるように要請される。真実を知ったグレースは北へと逃れる。




今作でははっきりと「政治的ただしさ(ポリティカル・コレクトネス)」という用語が出てきてこのシリーズがそれをめぐる作品であることがわかる。
正義やPCを尊ぶ純真な乙女が現実に直面しだんだんと薄汚れていく物語。あるいはそのなかで鍛えられナニモノかになっていく、のか。

ふつーの道徳おとぎ話だったら「解放奴隷とともに手を携えることで彼らの自立をたすけましたとさ(チャンチャン♪)」で終わって良いところを皮肉で露悪な内容に仕上げている。
作品の最後の「アメリカに対して黒人たちは不平を言うがこんなにも自由を与えてるんだぜ?」(そこからEDの「young america」という脳天気な曲に合わせKKKが最初に出てくる)というのはそういった皮肉だろう。

「マンダレイ」を含め「ドッグヴィル」もトランプ当選後のアメリカに合わせてみると感慨がある。「マンダレイ」は黒人も含めた非白人層一般、「ドッグヴィル」のほうはアメリカの田舎の中・下流を想わせる。
「政治的正しさは彼らも平等にというがじっさいの彼らは怠惰で卑怯で村ごと消し炭にしてやりたいような存在だ。きみたちはその現実を見ていないからそのようなキレイゴトを言えるのではないか?現実を見、実際に体験してそれを言えるのか?」
それがこの一連の作品のじっさいの問いだろう。

そして、聖女が汚れたたきのめされつつもそれらを引き受けていけるかどうか。




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「メランコリア」 → 「土星の徴の下に」




少しまえにトリアーの「メランコリア」をみて感想なんかをnoteしてたのだけどそのリライト的にまとめてエントリしとこう。

メランコリア [Blu-ray] -
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メランコリア (映画) - Wikipedia

コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊すのみならず上司ジャックや、他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンをなじる姉クレアだったが、仕方なく夫のジョンや息子とともに彼女との生活を続ける。だが、ジャスティンの病状が穏やかになるとともに、地球に奇妙な周回軌道をとる惑星が接近する。彼女は周りの狼狽を意に介さず惑星の到来を朗らかに出迎えるのだった。


◆ 僕を哲学的に考えさせる映画:ラース・フォン・トリアーの〈メランコリア〉 - LIFE WITHOUT "THINKING" ・・・ IS BORING!
http://mythink.hatenablog.com/entry/2016/07/24/150418



巷で言われてるほどショッキングなものでもなくむしろ耽美的で落ち着いた感じだった。まあうつ病のひと的にはリアルに感じてなまじっかのショッキングな映像よりクるものがあるのかもだけど。

この映画の感想をざっと見たところやはり裸とかセックスシーンとかに目を引かれそのことについて言及せざるを得ない人たちがちらほら見当たるのだけどアレ自体はこの作品においてはそんなにショックな事でもないのだとおもう。あるいはトリアーのほかの作品においても。

「メランコリア」においては主演のキルスティン・ダンストが惑星の明かりの元で全裸になったり、披露宴当日に特に知らない冴えない男とセックスする(新郎やパーティを放ったらかして)。
これらはそれ単独だとショッキングなことだけどキルスティン・ダンストが演じるヒロインの心境を思うとそんなにたいしたことでもない。単に裸になったりセックス(粘膜接触・体液交換)したりってだけなので。
こういった行動に及ぶ背景にはヒロインの心がそれをせざるを得ない / してちょうどよいぐらいに壊れていて、その逃げ道として裸になったりセックスしたりするのがちょうどよかったのだろう。クソみたいな披露宴をなんとか( ^ω^ )ニコニコとこなしつつ、だんだんと「世間」が自分たちの都合を押し付けてくることに(#^ω^ )しつつもやりすごしていたのに身体とか自分の心の奥のほうが拒否反応を示しだして、最終的に「初夜の契」的なもので(表面的には紳士を装いつつも)性欲を押し付けてくる新郎に嫌気がさして身体がくそくらえな反応をする。その結果としての見ず知らずの冴えない男とのセックスで、そこに心は通ってない/単なるストレス解消の体液放出なので道具を使った自慰的になる。そこには理性的な判断とか理由とかは特になさそう。放尿と同じぐらいで。

そして、彼女の鬱的な心境は惑星の衝突 ≠ セカイノオワリによって救われていく。

それが鬱になった彼女の心の中の常態であったのでとくにアタフタもない。自分の心が死ぬ≠世界も終わっている=オワレバイイノニ、ぐらいだったので。かといって喜ぶでもない。ベストな選択でもないし。

問題はこういった心境、鬱的な心境が披露宴によってつくられたのか?ということだけど、どうも披露宴以前からこういう心境がつくられていたぽい。「彼女は仕事中毒だ」の言葉と広告業界という場。父親と母親の不仲とその影響としての愛の無い家庭環境の片鱗。そのへんでなんとなく慮れるけど、物語的な合理性からこの作品を説明・理解したい人にとってはそのあたりの細かい描写があったほうが分かりやすかったのだろう。物語的合理性から理解したい人たち ≠ たとえばセックスシーンとかにとらわれるような人たち。単に鬱の心象を描きたかったぽいトリアーとかにとっては蛇足で冗長的にはなるのだろうけど。

「冗長」ということでいえばこの映画全体が冗長ともいえる。本来ならオープニングの8分ぐらいの断片的な映像のコラージュによって終わっていて然るべきともいえる作品で、それを映画的な作品に仕上げるため≠ほかのひとにもある程度わかりやすく表現するために物語的なつなぎと因果関係が必要になった、程度だったのではないか。

鬱状態だったトリアーの見た、あるいは想像しアンシンした美しい画(夢)が冒頭8分の断片であとからそこに物語をつけて説明していっただけのような…。

あとは細々としたこと。

キルスティン・ダンストの鬱になったときの表情がそれっぽかったのだけど…?とおもっていたらユリイカの特集号で「自身も鬱を患った経験から」とあった。



ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー  『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -
ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -


たぶんタルコフスキーの「惑星ソラリス」の影響とかオマージュとかあるのだろうけどタルコフスキー作品は相変わらずわかりにくくよくわかってない。まあ「ソラリス」はこの機会に見てもいいかなと思うし、自分的にはトリアーから見たほうがわかりやすい(トリアーの関連作品が補助台になってる)ともいえるのかもだけど。そういえば惑星がいよいよ衝突寸前で瀟洒なお屋敷からお庭を眺めたときに馬が草を食んでいてという場面のシュールな静謐がなんとなくタルコフスキーの作品を想わせた。


メランコリア (映画) - Wikipedia

カンヌ国際映画祭における記者会見でラース・フォン・トリアーは本作におけるドイツのロマン主義芸術からの影響を話した後、「ヒトラーに共鳴する」などと発言したために反ユダヤとされた。カンヌ映画祭事務局側は事態を重く受け止め、「好ましからぬ人物」としてトリアーを追放した。出品された「メランコリア」は審査の対象から外されなかったものの、仮に授賞してもトリアー監督は出席できなくなった



この部分についてはユリイカの特集号にインタビューについての詳細が載っていた。

(ユリイカ、ラース・フォン・トリアー回より2011年のカンヌ映画祭での「メランコリア」上映後のトリアーへのインタビュー)
― 本作はドイツロマン主義に触発されたそうですが、あなたの中に流れるドイツ人の血とゴシック芸術との関連性について説明してもらえますか。デンマーク映画協会の資料によると、本作を作るにあたりナチスの美術論についても関心が生まれたそうですが、それについて説明してください


自分はずっとユダヤ人と思っていたし、それも下層階級のユダヤ人と思っていて、それに満足していた。ユダヤ人になりたかったんだ。ところが自分はナチスだと分かり(他界した母が、ジップはドイツ人だったと遺言した)、それもまた同様にうれしかった。ヒトラーを理解できると思ったんだ。たしかに彼は残虐なことをした。地下壕に座ってヒトラーが……(ここで、隣に座っていたキルスティンが、ラースに腕を回し発言を控えるように態度で合図する。戸惑うラース)……それで、彼を理解できる気持ちになった。彼は善人とはとても言えないが、少しだけシンパシーを感じるんだ。でも第二次大戦でやったことについてではないよ。それに僕はユダヤ人に反感はないし、スサンネ・ビアに対してだって……これも同様に冗談だけれど、ユダヤ人にはシンパシーを感じている。ただしイスラエルがやっていることについては同意しないけど。どうやったら僕はこの話題から抜け出ることができるんだろうか……。

話題を転換させようとしたが、あまりにも当惑し、最後「わかった、僕はナチスだ」と自爆した。会見の会場はリラックスした雰囲気で、笑いさえ漏れた。ところが――。

翌日の朝刊、特に本国デンマークの新聞やゴシップ誌から、辛辣な批判を受けることになった。19日の朝はその話で持ち切り。そんな状況のなかでこの囲み取材は行われた。内容的にも、一件について訊きたいデンマークの記者や、キリスト教の側面について訊きたい記者が他者に発言権を渡そうとせず、どうにも焦点が定まらない取材となった。さて、ラースの発言は更に波紋を呼び、結局カンヌ映画祭側は、周囲からの圧力もあったのだろうか、彼を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからぬ人物)」として映画祭永久追放という手段に出るに至った。ただ、主演キルスティン・ダンストが主演女優賞を獲得したのがせめてもの計らいか。この事件は以後のラースに暗雲のようについてまわり、2014年現在、彼はマスコミの取材を一切受けていない状況だ。







メランコリー+ロマン主義ということでベンヤミンとかソンタグとかをトリアーも参照して影響されたりしたのかな?とちょっとぐぐったけどそういうのはないみたいだった。まあこの機会だからついでにちょっとこれ読んどいてもいいかもしれない、とこの辺を読む。

土星の徴しの下に -
土星の徴しの下に -


自身もうつ病だったベンヤミンは生まれつきうつ病傾向のひとを「土星の徴をもつもの」といった。それはガレノスの四体液説に依る。

メランコリー - Wikipedia

現代の精神医学の用法では、「メランコリーの特徴を有する」うつ病という、うつ病の細分類であり、重症のものという意味合いが強い。それとも別に、近現代の精神医学では、主にドイツや日本にて、うつ病が起こりやすい性格としての、几帳面で良心的といった特徴を持つメランコリー親和型が関心を集め、テレンバッハがその著書『メランコリー』にて提起したが、1977年の日本の報告以来、うつ病像がそういった特徴を持たないものへと変化しており、日本の現代のうつ病論へとつながっている。

医学では古くはギリシャのヒポクラテスまでさかのぼるが、メランコリーは抑うつを示す状態でも特に重症のものを指してきた。四体液説における黒胆汁質のことを指し、「黒胆汁」という体液の多い人は憂鬱な気質になるとされた。



占星術にも絡んでいて黒胆汁のひと≠土星のひと、だったか。

昔の医療ではこの理論に基づき身体の不具合は「悪い血がたまってる」と考えられ瀉血(しゃけつ)を主としていた。いわゆる血抜き。血抜きでだいたい治るとされていた。外傷以外の病は。


四体液説 - Wikipedia

ギリシャ・ローマの医学では自然治癒を重視し、悪い体液を排出し自然治癒を促すために、刃物やヒルを使って悪い体液を排出する瀉血(刺絡とも)や、下剤、浄化剤、緩下剤、誘導剤を用いた。また、体液のバランスのために、食事療法や運動、入浴も重視された。「医術について」では、すべての人に当てはまる最高のバランスがあるわけではなく、人によってその体にふさわしいバランスがあり、また健康にいいものは状況・年齢などによって変わってくると説明される。例えば、体が運動を求めている時の休息、休むべき時の運動は健康的でははなく、同じことが飲食物や薬物に関しても言われた。


そういやメランコリアでも入浴シーンがなんどか出てきたけど、まああれは四体液説というよりは単に疲れたときに風呂入ってるぐらいがちょうどよいということだったのだろう。




タイトルにもなってるエッセイ「土星の徴のもとに」を読んでちょっと「メランコリア」の感想に付け加えたくなった。「土星の徴のもとに」はベンヤミンをはじめとした鬱傾向の人、土星の徴のもとに生まれた人たちについてのエッセイ。


映画の中で姉のクレアが鬱の妹に対して「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」みたいなこといっていたけどあれはこういった先天性・器質的鬱人間が鬱モードにはいったときの離人・非コミュ感に対する一般感覚なのだろうなあというかんじ。
土星の徴をもつ人間はなんとなく内向的になりがち+非人間的なものを蒐集するし編成・分類する傾向がある。そしてそれらがしばしば「仕事」に通じるとワーカホリック的な偏執性を帯びることがあるのだけど、それはその作業に逃避することで人間的コミュニケーションから逃避できるという裏返しにも思える。

「メランコリア」だと主人公がそんな感じで、壊れるまえまでワーカホリックになっていたのはそれによってわずらわしくわかりにくい人間的コミュニケーションから逃避できたからだろう。ふだんの仕事的な付き合いだと仮面(ペルソナ)をかぶってやり過ごせば良いわけだし。その意味だと「仕事が忙しすぎて壊れた」というのも一面的な見方だったといえる。ただしそういった表面的な付き合いもある程度すすむと深いものにならざるを得ず、その究極ともいえるものが結婚であり、結婚披露宴、そしてその日での破局というのは鬱的な土星人間が頑張って耐えて築いてきたものが一気に崩れ去る最高で最悪の舞台だったといえる。「土星的人間がもっとも衝撃を感じる場面」の表象という意味で「披露宴での破局」という場面が選ばれた、のかもしれない。

土星の徴をもって生まれた人間にとっては時間感覚が単なる束縛となっていくらしい。逆に空間に可能性を見出しそこに無限の寓意性と解釈の可能性を見いだす。近代的時間は現在から未来に向かっての単線という束縛を帯びるが空間は恣意的に無限の配置の可能性・自由度を残す。そのため他人からみて緩慢とも思える反応をし他人を苛立たせる(cf.「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」、披露宴で人をまたしておきながら風呂に入ってるというシンジラレナイ行為)。

それらは現代の一般的常識人からすればシンジラレナイ行為・行動なのだろうけど知的に先鋭化した土星人間たちが真実に対して誠実になってるだけとも言える。単線の時間概念は近代のフィクションにすぎないし、三次元を超えた時間と存在の感覚からすれば空間への配置の可能性は無限にある。そして彼らは「人に対しては不誠実」と思われてもモノやコト(あるいは超自然的法則)に対しては誠実に振る舞う。

ベンヤミンは現在の自分を見つめること、そこから語ることを不得意とし自身を語るときはむしろ少年期の自身の様々な徴候を現在に至る必然として語ることを好んだ(そこから「自身」を語った)らしい。近代的単線時間というフィクションに対して、記憶もフィクションの一部なわけだから「現在から未来」について考えるよりもすくなくとも「過去から現在」について語ったほうが誠実、ということだったのかもしれない。

ベンヤミンのテキストはちょっとした読んだことないけどこういった推理からするとたぶん彼のテキストというのは因果関係、論理がバラバラに配置された脈絡のないものになっていて、それぞれの単元ごとに論理が完結してはいるけれどそれを連続して読み解こうとすると読み解きにくいものになっているのだろう。たとえば「パサージュ論」のように。
なので、それらを通読してすぐに読める・理解できるものと思うのではなく、とりあえず全部読んでおいてしばらくしてなんとなく全体がつながるのを待つのが適当なのかもしれない。まあそれで理解できるのかもしれないし理解できないのかもしれないというところなのだけど。

(学位論文にしようとした「ドイツ悲劇の根源」だったか?は学位論文にしようとしたぐらいだからまともな単線論理で書かれてることを期待するのだけど。内容的にもロマン主義と悲劇のうんたらについて書かれているようで重要なので)










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2016年11月30日

片渕須直、2016、「この世界の片隅に」



時間があったのでようやく見てきた。



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原作は読み込んでいたし映画館でみることにそんなに意義を感じない(むしろ不快に思う)性質なので最初はどうしようかなあ時間が合ったら行こうかなあ自分的にはタスクとなるのだろうしというお参り的な行事感覚だったのだけどついったのTLほかで評判が良いのを傍目にしてると行ったほうがいいな/行きたいなが強くなっていき本日時間も合ったので行ってきた。

結論からいうと素晴らしい出来で大変満足だったし映画館で見る意義も感じた。

ストーリーとしては知っていたのでその部分では特にいまからどうこういうこともないのだけど映画版と原作では編集や解釈の仕方によって意味合いが変わっていた部分もあったので後でなんか言ったり言わなかったりするかもしれない。まあそこは枝葉なので特にいう気分でもなければ書き留めないだろうけど。

あらすじ的にWikipediaを引用しようかと思って覗いたらおもったよりネタバレしていたのでいちおやめとこう。自分的にはネタバレはそれほど気にしないのだけど、この作品の場合はかなりネタバレしないほうがよいように思う。だいたいの宣伝や紹介のところでも「あの場面」については伏せてるし。ただおおまかな流れとして、

1944年(昭和19年)、絵が得意な少女浦野すずは広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぐ。戦争で物資が不足する中、すずは不器用ながらも懸命にささやかな暮らしを守るが、軍港の呉はたびたび空襲を受けるようになり、1945年(昭和20年)6月、すずも爆風で負傷する。見舞いにきた妹のすみからお祭りの日に帰ってくるよう誘われるが、その当日8月6日、呉では閃光と轟音が響き、広島方面からあがる巨大な雲を見る。8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは、今まで信じていた日常を裏切られたくやしさで泣き崩れる。翌年1月、すずはようやく広島市内に入り、祖母の家に身を寄せていたすみと再会。両親は亡くなり、すみには原爆症の症状が出ていた。廃墟となった市内で、すずはこの世界の片隅で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。


(一部改変)



物語の全体の雰囲気は牧歌的で凡庸な日常的な風景で進んでいく。こうの史代作品に親しんでる人ならおなじみのぼんやりとほのぼのとした風景と空気感。アニメで表されたそれはホーホケキョとなりの山田くんの空気感に近いように思う。

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作品の大部分を覆うぼんやりとした雰囲気的には佳作的な作品のように思う。まあこの日常性の表現が「あの日」「あの場面」との対比として効いてくるわけだけど。




すっ飛ばしてアニメ版ならではと感じたところについて語ろう。

冒頭からだとやはり海の風景が良かった。現在だと残されてないような「海が引けると江波から草津まで歩いていけた」という場面。広島に生まれた現代っ子はこういう光景は見ていないので知識として知ってはいてもあらためて映像として再現されているとおおっと思うものがあったし分かりやすかった。ちなみに江波から草津というのはこういう感じで


eba.jpg


東京周辺の感覚だと横浜からみなとみらいとか中華街ぐらいまでの片道2〜3km(往復4〜6km)の距離と思ってくれて良いと思う。あのへんの湾が引けてショートカットで歩いていってる感じ。

あるいは少しまえにやっていたブラタモリ広島の回なんか見てるとわかりやすい。広島はもともと川が海に当たる三角州、干潟的なところが大部分だった土地でそこを埋め立てて拡張していった。なのですずたちの住んでいた江波のあたりも海に突き出た場所になる。埋め立ててあるので周りは川で囲まれていて「海」って感じでもないけど。地図からの俯瞰的には軍艦のようにも見える。

ブラタモリ広島回の流れ的にはこのあとに再現されていた「川を舟で交通し雁木から上陸する」あたりもおおっとなる。舟から見上げる橋の大きさと影。ちなみに雁木はいまでも広島にあってふだんは川付近まで降りて眺める階段的なものとして利用してる。最近は雁木タクシー的なものがふたたび出てきて船着き場としての役割を取り戻しだしたようだけど。


原作と比較してのアニメーション作品としての特徴として、最初に気になるのは色味と音楽の雰囲気、全体の構成、構図となる。

全体の構図やキャラクターの表し方は大部分が原作通りで違和感がなかった。そこに水彩的?な色味が付されていた。となりの山田くん的な、ぼんやりとした色味。物語としてもぼんやりと平和に進んでいく。上・中・下の3巻構成の原作的には上巻、中巻まではそのように進んでいく。ほかの作品と比べた場合の見どころとしては「戦争中の広島のふつうの人々の暮らしぶりがわかる」ぐらいの。あるいはそこにこうの史代作品的な情緒・情感的なエピソードが加わっていく。直接的ではない恋慕の念とその表現とか。淡い恋心とすれ違いとか。この作品の具体的にはすずさんと幼馴染の水原さん、夫になった周作さん、夫が心を通わせていた?疑惑のりんさん辺りをめぐる関係性。このあたりはこうの史代作品だなあという感じなのだけど映画的にはだいたい割愛されていた。その分エンディングのクラウドファンディングに協力してくれた人紹介のおまけアニメーションとして再現されていたけど。あの部分は「わかっている人」「原作を愛していた人」たち向けのおまけアニメーションとして秀逸だなあとおもった。貝殻の紅から描かれるところもいかにもリンさん的なものを表すのに相応しくて。



音楽的には全体の雰囲気をコトリンゴの声が彩っていく。




劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック - コトリンゴ
劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック - コトリンゴ


コトリンゴって名前はしっていても意識して聴いたことがなかったので今回Wikipediaを見て「ああ、キリンジ系の」て変な納得をしてしまった。TVアニメ「幸腹グラフィティ」の曲も担当してたようなので今回のものにも合ったのかなあとか思う。

コトリンゴによる「悲しくてやりきれない」が主題歌として使われてるらしいと見たときに「ああ、そういう手もあるかもなあ」と思った。EDとしてあの歌を使うのはありだなあ、と。でも実際に見てみたらそれはEDとしてではなく序盤からだった。EDはこの作品用の書き下ろしぽい「たんぽぽ」となる。




EDというか、この作品の主題歌は「みぎてのうた」になるのだろう。主題歌であり原作も含めたこの作品のカーネル的な部分。原作的には最終回である「しあはせの手紙」まで含んだ内容が「みぎてのうた」の歌詞となる。


「みぎてのうた」(作詞:こうの史代・片渕須直、作曲:コトリンゴ)

元の詞「しあはせの手紙」は以下となる。

元の詞から「不幸の手紙ではありません」あたりを省いた「真冬というのになまあたたかい風が吹いている」からはじまっている。



突然失礼致します

此れは不幸の手紙ではありません

だつてほら眞冬と云ふのになまあたゝかい風が吹いてゐる
時をり海の匂ひも運んで来る

道では何かの破片がきらきら笑ふ
貴方の背を撫づる太陽のてのひら
貴方を抱く海苔の宵闇
留まつては飛び去る正義
どこにでも宿る愛
そして いつでも用意さるる貴方の居場所



ごめんなさい

いま此れを讀んだ貴方は死にます




すゞめのおしゃべりを聞きそびれ
たんぽぽの綿毛を浴びそびれ
雲間のつくる日だまりに入りそびれ
隣りに眠る人の夢の中すら知りそびれ
家の前の道すらすべては踏みそびれ乍ら

ものすごい速さで次々に記憶になってゆくきらめく日々を
貴方はどうする事も出来ないで
少しづつ 少しづつ小さくなり
だんだんに動かなくなり
歯は欠け 目はうすく 耳は遠く
なのに其れをしあはせだと微笑まれ乍ら

皆が云ふのだからさうなのかも知れない
或ひは單にヒト事だからかも知れないな
貴方などこの世界のほんの切れつ端にすぎないのだから
しかもその貴方すら
懐しい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めにすぎないのだから



どこにでも宿る愛

変はりゆくこの世界の あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛

ほらご覧 いま其れも貴方の一部になる



例へばこんな風に





今わたしに出来るのはこのくらゐだ

もう こんな時 爪を立てて 誰の背中も掻いてやれないが

時々はかうして思ひ出してお呉れ



早々




アニメにおける終戦の日の場面と同じくわかりづらい言葉は偏向されて解釈されそうなので省いたのだろう。たとえば「留まつては飛び去る正義」、「此れは不幸の手紙ではありません」→「いま此れを讀んだ貴方は死にます」。

終戦の日、原作版ではあった「この国から正義が飛び去っていく」「暴力で従えとったということか。じゃけえ、暴力には屈するということかね。それがこの国の正体かね」というセリフも現在だと右翼的に解釈されかねないので割愛したように思える。あの時代のふつうの人々、特に「お国のために」というわけでもない人々も日本の正義を信じ、あるいはそれを最後のよすがとしてすべてを奪われたことに耐えていたのだろうけど。あの場面でのすずさんの涙もそういったもの、「すべてを奪われたのなら全身全霊をかけてたたかいに臨む。この身や命などどうなってもかまわないから最後までたたかう」というつもりだったのにあんなにも簡単に戦争の終わりを告げられその思いを裏切られたということへの涙となる。

アニメではこの部分、「この国から正義が飛び去っていく」が「アメリカからのパンなんかでデキた身体で」というふうに換えられ「それでも生きていく」「人々は食べて寝て生活して生きていく(それがかつての敵国であるアメリカからの物資でも)」という風に意味合いを変えられていく。それはその後につづいく戦後のすずたちの生活や気概、日々の暮らしを笑いを交えてしぶとく送っていく様子にもつながるものだったので特に原作からの改悪とかそういうのでもないのだけど(だいいちこうのさんとよく話し合って納得の上でつくってるだろうからそういうこともないだろうが)。





原作である「しあはせの手紙」の意味合いは多義的で難しくてそこで「死にます」と不幸を暗示されている「貴方」がわかりづらい。でも、たぶんそれは読者であり日常に戻ったすずさんでもあるのだろう。戦災という不幸と対比されるすべての人々。あるいは戦災にあった人々も含めたすべての人々。

不幸せの極地と思える戦災にあった人々に比して、ふつーの生活を送る人々はしあわせといえるだろうけどそういった人々にも死は訪れる。あまねく、平等に。あるいは死に比する不幸。死に至るまでの不幸。自分だけではなく身内を含めた死や貧困、疾病その他の不幸。我々はこういった「戦争もの」と呼ばれるような作品を読んだり見たりするとそのときには悲しんだり涙を流したりするけれどそのかなしみをすぐに忘れていく。ポップコーンや甘いジュースと一緒に「泣ける映画」として飲み下す。あるいは最初から「戦争もの」として興味を持たず劇場にも足を運ばず作品も手に取らない。それはヒト事だからかもしれないけれどそういった人々にもあまねく死は訪れる。死あるいはそれに比する不幸が。

その悲しみから想像した時、われわれはようやくにして戦災で不幸にあった人々の悲しみを理解できるのではないか?「理解できる」というところまで行かないかもしれないけれど、すこしでも自分に寄せて想像できるようになるのではないか?そういった我々の暮らしは日常の些細なしあわせのうえに成り立っているのだけれどささやかなしあわせを重ねているうちに死が訪れてくる。「歯は欠け、耳はうすく、耳は遠くなって」。周りのヒトはそれを「寿命だね。大往生だね。しあわせだね」と一般化する。

たしかにそうかもしれない。大変な不幸にあった人々と比べれば。まあそういうものかなあとわたしたちも一般化しつつも一般化しきれない悲しみがある。


でも、そういったわれわれのふつーの不幸も、戦時中の人々の大変な不幸も平等に不幸は不幸なのだろう。身内の、愛するものの死や不幸に際してわれわれは平等にかなしみ、喪失を抱える。

それと同じように、しあわせも平等に訪れる。現在から見ると幸福と呼べるのか?と思えるほどのささやかなことも、彼らと我らの生活のなかでしあわせの糧となっていく。


(晴れた日の縁側ですずめの声を聞きながらのおしゃべりや、たんぽぽの綿毛の舞う春の陽の午後のうららかさや、初秋の雲間のひだまりのぬくもりや、初冬の朝に寝坊した隣の人の横顔や…)

それらはこの世界の片隅に咲いたかけがえのないしあわせのカケラで、そういったものの積み重ねでわれわれの愛とぬくもりがつながれていく。

元の詞や「みぎてのうた」の歌詞ではそれらのささやかなしあわせは味わいそびれるものとされているけれど、それはそういったものが体験しそびれても良いほどのささいなものなのか?という反語的な表現なのだろう。同時に「貴方などこの世界のほんの切れっ端」も「いいや、そうではない」「いや、それでもね」という反語を呼び込む。

漫画的にはこの詞「貴方などこの世界のほんの切れっ端」という部分は戦災孤児がさまよっている場面に当てられ直接にはこの子が「世界のほんの切れっ端」ように表される。この子が拾い集めていた残飯の切れっ端のように。空腹と疲労と睡眠不足のなかでこの子がこの子であった記憶や過去や思考も切れ切れとなりもはや自分を保てるギリギリとなっている。そのような限界の情況のなかで「懐かしい切れ切れの誰か」の面影をこの子は発見する。おかあさんと同じ右手に。

「しあはせの手紙」ではこのあとには右手の言葉は途絶え漫画的な描写のみで展開されていく。すずと周作が広島に所帯をもつかどうかを相談している場面。そこにいつの間にか孤児がくっついてきて二人はこの子を連れ帰ることを自然と決める。「あんた、よう生きとってくれんさったね」と。

「みぎてのうた」的にはここを「だから、いつでも用意さるる貴方の場所」というあたらしい詞で受けて以下を順接につなげていく。

「わたし(あなた)という存在はそれぞれの人の切れ端の記憶、過去で構成されているものなの『だから』同じようにあたらしくそれぞれの人の記憶や過去から再構成されていくはずだ」という風に。つまり血のつながりにこだわらず愛とぬくもりをもってあたらしく家族を作れることを暗示していく。

漫画の場面では失った子供の代わりにあたらしい子を引き取ることへの罪悪感のようなものもすこしあったかもしれない。「どこにでも宿る愛」「あちこちに宿る切れ切れのわたしの愛」という右手の言葉がこの子を引き受ける場面に重ねられその慈善?を自己批判的に見つめる。あるいは、それはそんなに素晴らしい慈善活動とかいうわけでもなく人間の営みとしてふつーのことなんだよ?、というぐらいにフラットにしていく。


「貴方は死にます」といった右手の言葉は直接にすずさんにも向けられていて、それは「わたしなんかが生き残らなければよかったのに」(わたしが代わりに死ねばよかったのに)という思いを残したものだといえるだろう。右手はすずさんの想像力と同時にもうひとりのすずさん、明るく朗らかほのぼのしたすずさんとは別の現実的でシビアなすずさんの内面を表す。あるいは修羅としてのすずさん。無声慟哭を通じて開かれた修羅への扉。戦後、生きることを決めたすずさんの中にも未だ修羅の影やことばは残っていたのだろう。

その思いをあらたな愛が覆っていく。

道すがら偶然に知り合った戦災孤児を引き取ることを通じて、すずさんのその思いは覆われていく。すずさんだけではなくおそらくは家族の中にもあったその思いは。それらは消えることはないのだろうけどあたらしいぬくもり、色に覆われることでとりあえずはやりすごせる。

それらが最後の場面、呉の「わしらの家」にたどり着いて見上げた山と街の灯の場面に表されていた。そこに宿る街の灯は人のぬくもり ≒ 愛の象徴となる。



そういった生活を彩るのはすずめのおしゃべりやたんぽぽの歌となる。


「たんぽぽ」(作詞:コトリンゴ、作曲:コトリンゴ)


鷺(鳥)は水原さんを、たんぽぽの綿毛ははるみちゃんを想わせる。




いまあらためて原作を見返すと最後に見上げた呉の山と町並みの様子はゴッホの絵「星月夜」(starry night)にも似ている。元の詞の「例へばこんな風に」の後には右手によって描かれた星月夜風の呉の山並みが広がる。その後の言葉は孤児を家に連れて行った場面に重なっていく。

ゴッホの絵に似てるというのは映画の各場面を見ていても思ったことだったのだけど、おそらく原作のこの最後の場面から想像力を膨らませ演出されたのだろう。加えていうと「あの場面」は現代アート的にあの場面の心象を表していて共感できた。ゲルニカではなくアルヴィン・ペンクとキースヘリングの中間的な、傷ついた子供や身体障害者の心理をあらわしたような。というか、全体的に水彩とゴッホな感じで、そういった意味でこの作品はアート的にも見ていて気持ちのよいものに仕上がってるように思う。


現代アート的といえば「戦争中の暮らしの記録」の冒頭でもそんなことが書いてあった。


戦争中の暮しの記録―保存版 -
戦争中の暮しの記録―保存版 -


空から降ってくる大量の焼夷弾の白黒写真をして「(不謹慎だが)まるでアート作品のように見える」みたいなの。そういうのはこの映画のほかの場面でもあったように思う。「不謹慎だが○○だね」とか「空から爆撃されてるこんなときだけどわれわれの日頃の工場仕事の技術研究の成果がここに、、」みたいなの。ほんとの戦争中の暮らしというのはそういうもので現在から見てみょーにヘイワヘイワしたりセンソーセンソーしてた?と解釈するのの中間ぐらいにあったのだろう。




空から爆撃といえば戦闘シーンなんかは映画ならではの臨場感があった。ウーファーがビリビリ来てたりほかの構図にくらべてここはみょーに臨場感のある構図になってたり。そういった意味でも映画館で見る意義はあるのだろう。




あとは方言的なところのふつーさがよかった。広島のふつーの人の話す広島弁の感じ。すずさんなんかは一人称を「ウチ」というようなおとなしい、ぼんやりとした広島の女の子の様子がよく出ていた。ほかはふつーの広島の人な感じ。あとお義姉さんの方言の様子がよくでていたように思った。すずさんのほのぼのとした広島弁の女の子と対照的に、田舎の陰険なコミュニティの雰囲気を代表するような方言の感じ。稲葉菜月さんというかたが演じられたのだな。











こうの史代先生『この世界の片隅に』インタビュー  ネタバレ御免! 読者を震撼させた連載第33回「20年6月」の創作秘話に迫る!http://konomanga.jp/interview/32698-2














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2016年10月26日

河P直美、2007、「殯の森」



先日なんとなく再見してみたら以前に見たのと印象が変わっていた + わかりにくい映画なのでいちおこちらにもエントリとして感じたことを残しておこうとおもった。




殯の森 [DVD] -
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殯の森 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF%E3%81%AE%E6%A3%AE

殯(もがり)は日本の古代に行なわれていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの期間、棺に遺体を仮に納めて安置し、別れを惜しむこと、またその棺を安置する場所を指す。「喪(も)上がり」から生まれたことばだとされ、類義語に荒城(あらき)がある。河瀬監督は物心がついたころ、亡くなった知り合いが動かなくなったことを不思議に思い、その後の経験を通して本作を構想し、生き残った者と死者との「結び目のようなあわい(間・関係)を描く物語」を目指したという






ふつーのあらすじの解説は他サイトからの引用に任せる。


映画『殯の森(もがりのもり)』ネタバレあらすじ結末【映画ウォッチ】
http://eiga-watch.com/mogarinomori/

山間の田畑の広がる風景の真ん中を通り過ぎる葬列。誰のものかは不明。老人ホームで働き始めた真千子とホームの老人たち。共に畑仕事などをしている時はもっぱらホームに入所している老人が介護師に指南している。帰宅するとお線香をあげる真千子。子供の写真が飾ってある。ホームに話をしに来た僧侶に、しげきが「私は生きているんですか。」と尋ねると、寝る食べるなどの肉体に生きているということと、生きている実感の有無による精神的に生きているということについて話す。習字の時間それぞれ名前を書く。真子と半紙に書き続けるしげきは隣で自分の名前を書いていた真千子の半紙の上から書きなぐり台無しにしてしまう。真子というのはしげきの妻で33年前に他界していた。僧侶は三十三回忌についてしげきに亡くなった真子さんはあの世に行ってもう帰ってこないと言うことを話す。他の入所者は生まれてくる前はどこにいたのだろう、など、それぞれに話をしている。


喫茶店で、真千子は元夫になんで(息子の)手を離したのか責められる。彼女が謝るものの、花瓶の花を投げつけられ、なぜ俺が生きていて息子が死んだのかと自分を責め、真千子を責めた。おやつの時間にしげきの誕生日を祝う面々、介護師の一人が彼に誕生日プレゼントは何がいいか聞くと、彼は真子と繰り返す。他の入所者は、真子が既に亡くなっている事やしげきに子供がいないことをそれぞれ話し始める。その夜しげきは自室でピアノを弾く彼の左側には在りし日の真子が座っており、生前二人で弾いていたであろう曲を、しげきは右手、真子は左手で弾く。しげきが躓く所を教え、彼が一人で弾き始めると、真子は去る。そこへ真千子がゴミ箱のゴミを集めにやってくる。しげきは近くに置かれたリュックサックに触れられたと思い、怒りのまま真千子をはたく。結果、真千子は手首を傷め、同僚が来るまで送ることに。車中、気落ちしている真千子に、こうしないといけないことはないのだと、彼女を慰めた。翌日ホームに出勤すると、しげきが庭の木に登って枝を取ろうとしてた。しかし、転落した彼は茶畑の方へ逃げていってしまう。それを追う真千子としげきは茶畑でしばしかくれんぼじみた事をする。昨日の事などなかったようにしげきは真千子に笑顔を見せた。


真千子の運転する車でしげきは山へ出かける事に。しかし道中の畦道で車が動かなくなってしまう。真千子はしげきに絶対に車から出ないように一人で待っているようにと言い含めて近くの民家に助けを求めに行くが、サイドミラーに映る真千子が遠ざかる姿を見ていたしげきは車から降りてしまう。車に帰ってきた真千子はしげきがいないことに焦り、無人の畑を探し回る。すると、しげきはスイカ畑の案山子の後ろに隠れていた。しげきは真千子に追いかけられるまま逃げた畑の脇道で転びスイカを割った。それを二人で食べた後、しげきは山の森の中へと入っていく。道なき道を行くので道が間違っていないか、大丈夫かと真千子は何回もしげきに問うもののどんどんと森の中へと行ってしまうしげきに、どこへいくのと問えば真子の所と答えるのみ。やがて携帯電波の通じない所まで来てしまい不安になる真千子は、同じ場所をまわっていないかと苛立ち始める。すると、森のぬかるみでしげきが転んでしまう。彼を起こしながらちょっとでいいから休もうと提案するが聞こうしないしげきに、自分より大事なの?と、背負われた重たいリュックを掴むが、そんな真千子の心配は露知らず雲行きが怪しい中、しげきは森の奥へと進んでゆく。そして雨が降り出し森の中に小川が出来る。真千子は渡ったらいけないと止めるがしげきは渡ってしまう。するとごく小さな鉄砲水が起きる(おそらく水難で息子を亡くしたと思われる)真千子は「いかんといて!」と泣き叫んだ。真千子の声にしげきはやっと振り返り小川を渡りうずくまった彼女のもとに戻る。


森の中で焚き火をし夜明かしをする二人。しげきは、よかったな、さむかったな、あったかいなと繰り返し、やがて火のそばで横になる。心配になった真千子はしげきに声をかけお茶を飲ませる。寒さに震えるしげきを抱きしめてさすりながら、生きてるんだなといいながら夜が更けていった。翌朝、目をさましたしげきは森の中に真子のすがたを見つけ、二人で踊る。そんなしげきを起きた真千子が見つめる(真千子に真子は見えていない)。再び歩き始めた二人は森の中で縄の巻かれたご神木らしく樹齢のいった木を通り越しさらに奥へ進むと、墓標のように突き刺さった棒に行き当たる。しげきはそこでリュックからオルゴールと妻の死後記していた日記をリュックからとりだし、棒のそばに穴を掘り始める。真千子は手渡されたオルゴールを回していたが、しげきが地面を掘るのを手伝う。そして、掘った穴の中に自ら入り蹲るしげきを真千子は撫で再びオルゴールを鳴らし始める。「殯」についての数行の辞書的説明の後、エンドロールへ





先立たれた妻への思い?で精神を壊しそれでもなお生き続けているしげきさん、と、息子を死なせたことに罪悪感を持ちしっかりと別れ/かなしみ/悼みを果たせないまま抜け殻のように生きる真千子。あるいは硬い殻をかぶって心を閉ざして。


「やらなくちゃいけないことなんてないのよ?」


どこか生きづらそうな真千子に先輩職員がいう。

それは同時に「やっちゃいけないことなんてないのよ?」を含み、段々と真千子を解放していく。しげきの逸脱した行動に導かれて。

森のなかでの遭難、大雨の中での鉄砲水を通じて真千子は自らのトラウマとなった場面を追体験し感情を吐き出す。それは真千子の心への鉄砲水となって殻を壊していく。あの日からきちんと泣けなかったこと、泣くことさえ許されなかったこと。

あるいは目の前で精神を壊してもなお変わらぬ妻への愛と悼みを示すしげきの様子を見て、そしてそれを手伝えることに自らの存在意義を見出していく(しげきへの「ありがとう」という言葉にはその気持が込められている)。

泣いてかなしみを吐き出せたことが真千子のもがりの契機となっていく。



しげきのほうに感情移入しにくかったのだけど、それは「精神を壊して空虚に生きる」「情緒と認知が断続的になっている」ということがリアルに表現されていたからかもしれない。

そんなしげきが最後の場面、妻と、妻への思い出という自らの心の最後のよすがを埋めるための掘る場面ですこしだけこの人物の内面がわかったような気がした。進撃の巨人の巨人たちのようにあらぬ目線で笑っているような表情をしつつ一心不乱に土を掘るしげき。妻への思い出だけで生きている男が妻への思い出のよすがを「埋める」というとてもつらいはずの場面。しかし、しげきはもはやかなしみや怒りさえ一般的な形式として表現できなくなっている。だから笑っているような表情にも見える。それでも妻への思いだけは残っていて、それだけで生きている/かろうじて生かされている男の様(「わたしは、生きているんでしょうか?」)。そしてそれさえも土に埋めてもがりを完結させようとする。もがりが完結すれば、妻との思い出を閉じればもはや自らが地上にとどまる必要もなくなる。自ら掘った穴に入りうずくまるという行動はその気持の表れと言える(「これでもう、いいよなぁ?」)。


そういった内面が垣間見えたように思えた。







そうはいっても全体的に説明不足な映画なので一般には理解しがたい / この解釈もあってるかどうかわからないだろうけど、少なくとも似たような体験をしたひとには伝わるような質量を持った映画だったといえるように今回再見しておもった。


まあとりあえず茶の畑でのおいかけっこが天国の光景のようで印象には残ると思う。




posted by m_um_u at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | レビューこのエントリーを含むはてなブックマーク